【完結】蒼炎の魔女   作:扇架

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十一話

 古来より、悪とされた魔法使い、魔女は数多いる。

 たとえば、大陸――殷王朝の妲己は、皇帝に侍り、堕落させ、一つの王朝を滅ぼしてのけた。

 たとえば、スロバキアはチェイテ城のエリザベート・バートリは領地の娘たちを拐かし、苛み、死体を積み上げたとされる。これに関してはバートリ本人に罪はなく、裏に彼女をそそのかし操った魔法族がいたのでは、と囁かれている。

 たとえばドイツのハーメルンの笛吹き男。マグルに親切をほどこしてやったというのに正当な報酬を受けられず、腹を立て、子をさらい、鼠の大群を町に差し向け、滅ぼした……とされる。

 細かいものまで数えればそれこそ枚挙に暇がないというものだ。黒死病を流行らせたのも、魔法族だという説まであるのだ。動機はたんなる憂さ晴らしから、劣ったマグルが不当にため込んでいる財産を、館を奪い取り乗っ取るためだとか。

 ゲラート・グリンデルバルドは華麗なる悪の系譜の末端に近いものだ。ヴォルデモートが現れるまで、彼が末端――最新にして最大、最悪の存在だった。人々の心に潜む、薄暗く後ろめたい芽に肥料と水を与え、育ててのけた。希代の詐欺師、煽動者。

 自ら手を汚したことはあまりない、とされている。ゲラート・グリンデルバルドという男は見ているだけ、囁いただけ、君は正しいと言っただけ。背を押しただけなのだ、と。誰だって誉められればうれしいものだ。肯定されることに救いを感じる者だっているだろう。グリンデルバルドの信奉者は、まるで親に誉められた子のように、神に見初められた教徒のように働いた。

 正しい魔法界のために「押し込められた」魔法族のために、なによりもより大きな善のため――グリンデルバルドのために。マグルやマグル生まれは異物であり、劣っており、であるならば保護し、切り分け、監視せねばならぬと固く信じた。

 すべてはグリンデルバルドのために。マグルと魔法族の幸福のために。

 セーミャは手の中の杖を撫でた。自ら手を下したことは少ないとされていても、まぎれもなくこの杖は――グリンデルバルドの杖は血に染まっている。おぞましい杖。それがセーミャの元へやって来てしまった。

「……死んだのね」

 遠く大陸の監獄、ヌルメンガードで。建設にあたり、グリンデルバルドは敵対者を有効活用することを思いついた、とされる。狩り集め、その血も骨も余さず使った。石の一つ一つに血が染み込み、点々と組み込まれた骨は巨大な魔方陣を描いた。憎しみも恨みも魔法の源。敵対者の強い念をも、彼は反転し、利用し、監獄の守りとしたのだ……。

 できるだけ惨めに死んでいればいい、とセーミャは思う。それだけのことをしたのだ。報いは受けるべきだろう。そうでなければ、彼のせいで死んだ多くの人はどうなるのだろう。そこには当然セーミャの祖『火刑の魔女』もいる。死ぬだけではない。苦しんで苦しんで、苦しみ抜いた。『火刑の魔女』の娘は、母親が死にゆく様を見るしかなかった。そうして彼女の系譜に連なる者は逃げて逃げて、墜ちて、堕ちた……。

 歯を食いしばる。杖を寝台に放り投げる。両の手で顔を覆った。無遠慮に身のうちをかき回され、乱されている心地だった。なにを勝手に死んでいるのか。セーミャたちの苦しみのいくらかは、あの男のせいだった。何か一言でも言ってやればよかったのか。これほどあっさりと逝くなんてどういうつもりか。

 あげくに杖まで押しつけてきた。罪悪感からか、自己満足か。

「……こんなことで」

 あなたの罪が清算されるわけがない。

 指と指の隙間から、転がる杖を見る。眉間に皺を立てた。ああ、忌々しいこと。捨ててしまいたい。けれどできないから一層忌々しいのだ。

 軽く舌打ちし――とてもではないが余人にこんな荒々しい様は見せられない――両手を顔から離す。唇を引き結び、かつての大悪の半身に指を滑らせた。じんわりと指先から手のひらへ、腕へと熱が駆け上がる。杖はセーミャを認めたのだ。そうするのが当然のように。

 ◆

「グリンデルバルドが死んだ」

 スクリムジョール邸、食堂に重々しい声が響く。セーミャは声の主をちろりと見て、珈琲をすすった。知っていたなんて間違っても言えない。それに知っていたことを悟られてもいけない。どこで聞いたと言われるだろうから。セーミャはしばらく臥せっていて、ろくに動けていなかった。ちょっとしたメモくらいなら目を通していたけれど、反ヴォルデモート活動になんら寄与できていないのだ。

 疲れが出たんだろう。我慢しすぎたとなだめられ、穏和しくするしかなかった。ふらふらと食堂に姿を現そうものならチャーリーに自室まで連行される羽目になる。いいや、なった。眠れないのなら寝かしつけようか、とにこりともせずに言われれば、従うしかなかったのだ。

――たぶん添い寝だろう

 寝かしつけって。拙いだろう色々と。あれこれ想像してしまい、チャーリーとは眼を合わせ辛い。

「正確にはあれに殺された。狙いはニワトコの杖――」

 別名、死の杖、宿命の杖だろう。囁くように言ったのはルキフェルだ。

「ニワトコの杖、永久に不幸……」

 ぴぃん、と弦が弾かれる。リュートを持ち、妖女のリーダーが歌い始める。

「死からもたらされたその杖は」

 

 始まりはアンチオク 赤い足跡を残し『極悪人エグバード』の元へ

 だがエグバードを見限って、『悪人エメリック』を選んだのさ

 

 食堂の明かりがふっと明滅する。歌い手の魔力が壁に影を現出させる。いびつな男の似姿が、杖を手に取る……そうして次なる影に、短剣で刺される……。

 

 移ろう杖はゴデロットを選び、今度は息子のヘレワードを唆した!

 

 倒れ伏す誰か。高笑いする息子。背後に伸びるのは三日月の眼をした死神だろうか。

 歌われる杖の足跡はこう結ばれる。

 

 そしてニワトコの杖、何処に消える……

 

 最後の一音の余韻が揺らぎ、解けていく。食堂が息を吹き返し、不気味な影は去っていった。セーミャは軽く拍手した。

「お耳汚しですが」

 リーダーはにっこりする。椅子に腰掛け、リュートを奏でていた時とはまるで別人だ。ただの気のいい男にしか見えない。歌や楽は魔を呼びもすれば祓いもする、という。この男は真の歌い手――吟遊詩人であり、つまるところ一流なのだろう。

「素晴らしかったわよ」

「子どもに人気で」

 どうやら、孤児院や聖マンゴを回って演奏しているらしい。『死の杖』の楽曲は大人気。ある子どもは眼を輝かせ、ある子どもは泣くらしい。

「でも、おとぎ話でしょう」

 妖女の一人が言う。魔法族の子なら誰だって知っている話だ。『吟遊詩人ビードルの物語』の一編だ。『三人兄弟の物語』。

「昔、どこかのお節介がクソつまらない改変版をつくったりとかね」

 子どもに悪影響を与えるっていうけどさ、あんな退屈な改変してどうすんのよ。ああ、わかるわかる、と妖女たちは盛り上がっていた。

「……で、その杖は本当にあると?」

 リーダーが話を戻した。興味津々の何対もの眼に見つめられ、ルキフェルは苦笑した。

「死の秘宝って聞いたことはないか?」

 ニワトコの杖、蘇りの石、透明マント。三つを合わせて死の秘宝と呼ぶ。セーミャも聞いたことはあった。あっただけでたいした興味は持たなかった。時にはおとぎ話に夢を見る大人だっている。それくらいの認識だったのだ。いや、本当はあまり思い出したくないのだが……。

「一本線と丸と三角で、グリンデルバルドの印だとか」

 かなり嫌な名前を聞いてしまった。セーミャはそわそわと、ローブのポケットに突っ込んでいる「グリンデルバルドの杖」を撫でた。

「……ニワトコの杖が本当にあって、それをグリンデルバルドが持っていた?」

 チャーリーがいかにも疑わしい、と言わんばかりの低い声で問いかける。ルキフェルがあっさりと頷く。セーミャは硬直した。ポケットの中の杖がもしかして……?

「持っていた、だ」

 ちなみにニワトコの杖は少し出来がいいだけのもので、神懸かった力を授けるとかはない、とルキフェルは続ける。やけに詳しいな、とセーミャは思ったし、一同も思った。皆がルキフェルに注目した。彼はこほんと咳をして、少し気まずそうに言った。

「グリンデルバルドを倒したのは」

「ダンブルドア」

 綺麗に声がそろい、次の瞬間、かすかな悲鳴が響いた。

「まさか!」

「そのまさか。ニワトコの杖はダンブルドアの墓の中」

 多少は時間がかかるだろうが、あれはニワトコの杖を手に入れるだろう。それが力を与えてくれると信じて。

 ルキフェルの声には侮蔑が色濃い。チャーリーが顔をしかめた。

「荒らさせていいのか?」

「先生はあえてニワトコの杖を持っていた」

 自分が死んだ時にどうしてほしいかも書き残していないし、言い残してもいない。

 セーミャはグリンデルバルドの杖がニワトコの杖でないと知って安堵した。縮みあがった心臓が元に戻り、まともにものを考えられるようになる。

 時間稼ぎかもしれないな、と斜め後ろから声が聞こえる。父の声だ。あくまでもセーミャの想像のなかの声。

「ニワトコの杖にかまけていたら」

 ホグワーツや魔法省へ、直接干渉するわけにはいかなくなる。配下に任せるしかない? と口にする。

「あれにとっては、そんなことは些事なんだろう」

 生き残った男の子、選ばれし者をなにがなんでも殺したいだろうから。キングズリーがゆっくりと言う。

「伝説の最強の杖を手に入れられれば……勝てる、と」

 己の実力に疑念を抱いている証、選ばれし者に勝てないかもという懸念の現れだろう。淡々と彼は続ける。

「ただ、あれは忘れている」

 あの杖の所有者は、誰かに殺されている……そういう伝説があるのだと。

 都合よく忘れているのだ。

 

 少しずつ、流れが変わってきていた。第一に、逃げていたマグル生まれたちが密かに戻ってきていた。第二に、海外の魔法使いたちも英国入りしていた。

 各地で星読みが赤い星が明滅する様を――揺らぐ様を視、先視たちが時の流れ、その分岐を感じ取り、あるいは視た。そういう力を持たない者たちも「そろそろだ」という無意識の予感に突き動かされ、動いているのだろう。そう言ったのはルキフェルだった。もうすぐだ、と。

 そうこうしているうちに一報がもたらされた。グリンゴッツに侵入者ありと。チャーリーは「あそこの地下にはドラゴンがいるんだけどどうなったんだろう? えっ、脱走した? 保護しないと」とそわそわしていた。セーミャは一生懸命宥めた。かわいそうなドラゴンも心配だが、それどころではないのだ。

 じりじりしながら待つこと数時間。なんの取り決めも交わしていなかった面々は、自然と食堂に集まっていた。ルキフェルが立ち上がり、宣言する。

「召集がかかった」

 堪え忍ぶ時は終わったんだ。

 

 

 古びた闇祓いの装束を纏い、革手袋をはめ、頑丈なドラゴン革の長靴を履き、腰にはぐるりと革帯を巻き、二本の杖と、数本のナイフ、ポーチを提げている。髪を結び、少しだけ考えて誤魔化しの術を解いた。些細な術に力を割いてはいられないだろう。己の火傷のことや、美醜なんかに構っていられない。言いたい者には言わせておけばいい。

 セーミャはふう、と息を吐く。薄暗い室に膝を突き、鎮座する柩をそっと撫でた。

 何かを言おうとして、言葉が出てこない。嘆息混じりに立ち上がる。

 最後にもう一度柩を撫でて、何かを断ち切るように背を向けた。扉に向かおうとして、声をかけられる。

「行くのか」

 立ち止まり、振り向いた。父が柩に腰掛け、静かな眼でセーミャを見ていた。父親らしくない、淡々とした問いかけ。心配してくれたっていいのに、と以前のセーミャなら思ったかもしれない。これから死地に行くのに、と。

「ええ」

 セーミャは答える。父と同じく淡々と。

 父が心配していないのは――そう見えるのは、セーミャのことを認めているからだ。力ある者であり、その力に責任を持ち正しく使うと。

 不器用な父であった。だが、不器用であっても父であった。あろうとした。セーミャが闇祓いになりたいと言っても止めなかった。少なくとも挑戦させてくれた。それだけで十分だ。

「行って参ります」

「お前の成すべきことしなさい」

 囁くように言う父に、笑いかける。その姿を心に焼き付けた。

 そうして、扉を開け――出て行った。

 もはや振り返らずに。己の道を往くために。

 

 

 

 この学び舎を離れて随分と経つ。もちろん、訪ねることはあった。だが、それは外部の人間としてだ。しかし、今夜は違う。ホグワーツに戻ってきたと感じてしまう。

――けして

 よい思い出ばかりではない。嫌がらせを受けたことも多い。それでも、ホグワーツは帰るべきもう一つの場所だったのだ、と噛みしめる。奇妙な感傷は、歴史の境目に立っているからこその緊張からか。どうあろうと英国魔法界の、そしてセーミャの運命が変わってしまうからか。路はただ二つ。勝つか、負けるか。セーミャは濃い霧に阻まれてもなお黒々と、不気味に立ち上がる影――運命という名のそれを前にして、立ちすくんでいるのだ。

 大広間に人がごった返している。勝たねばならない、と誰かが言う。今こそヴォルデモートを討たねばならないと。

 続々と人が集まってくる。各地からやってきた心ある者たち、脱出したが戻ってきた勇敢なマグル生まれたち。ここを奪われてはならないという、共通認識。ホグワーツを闇の魔法学校に、かつてのダームストラングのようにしてはならない。それは英国魔法界の崩壊を指す。たとえ綺麗事だろうと唱え続けなければならず、守らなければならない。闇の陣営はそんな「くだらない」綺麗事など踏みにじり、なんら志もなく、ただ欲のために動くだろう。

 かつての偉大なる者たちの書は焼かれ、その功績は書き換えられる。勝った者が歴史を作る。

 長い長い歴史の中で、ヴォルデモートが勝とうが負けようが些細なことなのかもしれない。ほんの少しの波紋なのかもしれず、織物の小さな綻びなのかもしれない。

 だが。

 セーミャはそんなのまっぴらだった。

 なぜなら、ヴォルデモートは誰も――彼自身ですら幸せにしないから。

 ふっと息を吐く。腰の杖、その一本を撫でる。空いた片手で、隣のチャーリーの手を握る。彼は振り払うでもなく応じてくれた。迫り来る戦に酔いそうな心地だったのがすっと冷めていく。ちらりと横へ顔を向ければ、青い眼はひたすらに凪いでいた。

 大広間から人が出て行く。セーミャはそっと手を離す。すべきことをするために歩き出す。いまさら別れの言葉はいらない。再会を約すこともない。できない約束はすべきではないのだ。

 人混みの中にトンクスの姿を認める。彼女の灰色と、セーミャの燐が交わった。トンクスはふっと笑う。セーミャは軽く頷いた。

――子どもが

 かわいい男の子が生まれたと聞いた。まともな人間なら、トンクスを戦場から引き離すだろう。生まれたばかりの子を母なし子にするつもりか、と。友人ならば当然、トンクスを案じ、隠れているように言うべきだった。しかし、トンクスは闇祓いだ。難関を突破した綺羅星だ。その身に義務を、魔法族の命を、魔法界の善を負っている。帰れなどと言えるわけがなく、言うつもりもない。

 祈るだけだ。どうか、流れる血が少なくありますように、と。無血などありえない。平和は、血を流して勝ち取るものだ。

 古びた装束を翻し、セーミャは城をゆく。身を包むのは上品な香りだ。防護の術が織り込まれ、守護の香がたきしめられた戦装束。父の衣。たとえ彼という存在が『門』の向こうへ行こうとも、名残はある。死者になにができようか、とヴォルデモートはせせら笑うに違いない。彼は哀れなほどになにもわかっていないのだ。

 素早く、音もたてず、影そのもののようにセーミャは動く。離脱しようとする群れを見つける。杖を振って姿を変えた。年若い、誰でもない誰かに。そうして人波を泳ぐ。これは必要なことなのだ、とどこかが囁く。セーミャは彼女に渡さなければならないのだ。いや、そうするのだ。

 求める姿を認め、忍び寄る。さりげなく隣に並び、彼女の手に本を押しつけた。は、と彼女が――純血の令嬢がセーミャを見る。綺麗な眼が見開かれた。これは、と訊こうとしたのか。それとも誰、と訊こうとしたのか。セーミャは彼女の唇に指を当てる。

「もし路を決めたなら、この本の中にある陣を使いなさい」

 グリーングラスのご令嬢。囁けば、彼女はよけいなことは言わず、頷いた。

「信用してくださるのですか?」

 スクリムジョール家のご令嬢、大臣息女、とダフネ――グリーングラスの娘は言う。セーミャは瞬いた。変装は完璧なのだが。疑問を察したのか、ダフネは言葉を足した。

「サフィヤが、」

 彼女はスラグホーン家の子息の名を出す。スリザリン所属。ホラス・スラグホーンの養子で、とてもいい子だ。彼がなんと?

「ご息女が訪ねてくるかもねって」

 たまに勘がいいんですよ、とダフネは言う。友達に、内緒話をするように。さらに声を小さくする。

「何人「分かれる」かは不明です。でも確実に何人かは……彼に反するでしょう」

 私たちの助力など微々たるものかもしれません。もしかしたら、彼のほうが、純血の世を謳う帝王のほうが正しいのかもしれません。

「じゃあどうして?」

 ダフネは返した。当たり前のことを言うように。

「彼に従っても、誉れなどないでしょう? いくら甘い汁を吸うためといっても、私は闇の世界を望まない。泥にまみれてまで、彼を勝たせたいと思わないのですもの」

 しとやかさのなかに、夏の風のようなさわやかさを感じさせる声。ひたすらに権を求め、血を流し、屍を積み上げる者たちとは違う。ほの暗い陰のない声だった。

 セーミャは彼女の細い肩を軽く叩いた。

「お願いね」

 そうして背を向けようとしたとき、ダフネは聞こえるか聞こえないかの、掠れた声で言った。

「ご息女。父君の――大臣のこと、お悔やみ申し上げます」

 立ち止まりそうになる。セーミャは軽く手を振って、その場を後にした。

 そして、どこからか高らかな楽が鳴る。重なるようにして、ホグワーツの鐘が鳴り響く。

 戦端が、開かれた。

 

 闇に染まった空。真珠のような月が、刃のように冷たい光を降らす。

 黒々とした巨躯がいくつも。ぬめるように月の光を返す双眸は、明らかな殺意に彩られている。

「いやはや」

 あれですら、巨人をこうも集められなかったのに。穏やかな声。若い頃の美声の名残をとどめる、よい声であり――その落ち着いた音は、セーミャの心を鎮める。

「私の邸の留守をお願いしたかったのですけど」

 それかダウニング殿の護衛とか? 雑談でもするような軽さ。しかし、半ば本音を忍ばせる。背中合わせの彼は、笑ったようだった。

「いやいや。この局面で」

 私が出てこないなんてありえないだろう。

 ひゅ、と杖音。校庭を驚くほどの速さでやってくる影――巨人が、束の間停止する。

「どうだい」

 私もまだまだ現役だよ。いたずらっ子のようにテセウス・スキャマンダーは言う。とっくのとうに隠居しているべき人なのに、戦場に出張ってきたのだ。

「参りました」

 セーミャは深い敬意を声に込める。なにせ向かい合ってゆっくりおしゃべりなんてしていられないのだ。セーミャとテセウスは巨人に囲まれようとしているのだから。脱出だけならばできる。穴を掘るなり、浮遊呪文の応用で空中散歩にしゃれ込むなり。しかし、逃げるのはセーミャもテセウスも性に合わない。ある意味、セーミャとテセウスは同志であった。闇の思想――純血思想に家族を奪われた人間同士であった。だからこそ、酔狂にもホグワーツに帰ってきた。

 トロールの群れであっても魔法族ならば青ざめる。なにせヒト族ではなく、魔法が効きにくい。一体ならばともかく、複数に遭遇すれば一旦は逃げる。誰だって血塗れの肉塊にはなりたくないし、手足を引きちぎられて放られて、玩具になりたくはない。

 しかし、セーミャはただの魔法族ではなかった。獅子に育てられた、獅子の名を受け継ぐ娘だった。たとえ血がつながらずとも、名残の炎は彼女の中に息づいている。戦場が恐ろしい? 否。 死に怯える? 否。

――むしろ

 セーミャは腕を振る。白い亡魂が彼女の手から飛び立ち、夜と月と星々、禍々しい紅い星の下で輝いた。

 円を描くように花開いたのは、亡魂ではない。紙片であった。綴る者が己の血で刻み込んだ言の葉が、ぼう、と燃え上がった。

 

 いつまでも、お前は踊らなくてはならぬ

 

 悲鳴が響く。夜を裂く叫び。理解できぬものに遭遇した者の、本能の木霊。

 巨躯たちが、ぎこちなく踊り始める。月に浸された戦場に、歪な影が伸びては縮む。

 どこからか、重く、背筋の寒くなるような楽が響く。甘い歌声が闇を渡る。妖女たちの、おそらく今宵限りになるであろう特別な演奏が、巨人たちの恐怖を膨らませ、千々に引き裂かれた心は、ますます呪縛にからめ取られる。

 ちかり、ちかり、と紙片は呪を吐き出す。ぼう、と巨人たちの足下が燃え上がった。

 

 赤いくつをはいて踊っておれ

 

 絶叫が鳴り響く。哀れなる者に、セーミャは慈悲を施した。

 一本の杖を抜く。しゅっと鞘走りの音を響かせ、柔らかく、流れるようにそれを振る。燐の――大悪の眼をたぎらせ、祈るように口にした。どうか、この杖が成した悪が――数え切れぬ罪が、浄められますように、と。

 

聖にして(プロテゴ)

 邪なる炎環(ディアポリカ)

 そうして、魔法の環(サークル・オブ・マジック)が描かれる。澄んだ、美しい蒼は、巨人たちも、殺到してきた闇の魔法使いたちも解き、愛撫し、天へと帰した。

 

 

 

 鐘が鳴る。

 とある小高い丘の上、とある墓標の前に膝を突いていた影が、顔を上げる。強い日差しに、赤みがかった金の色が炎のように揺らめいた。

「……遅くなってごめんなさい」

 闇祓いの娘は、墓標をそっと撫でた。刻まれた名はルーファス・スクリムジョール。

 娘は眼を瞑る。終わった戦い、迎えた夜明け、流された血。召された魂に思いを馳せ、杖を手に取る。ほんの少し迷い、真新しい墓標に言葉を綴る。

 最期まで戦い抜いた魔法大臣にして闇祓い ここに眠る

 

 手を止め、眉を寄せる。杖を一振りすれば、記された言葉が消えた。

 そうして再度、杖を振った。

 

 闇祓いにして我が父 ここに眠る




作中引用
ハンス・クリスチャン・アンデルセン『赤いくつ』(青空文庫)

蒼炎本編完結です。
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