ドラゴン革の靴が――夫が革を手に入れて、スラグホーン家のサフィヤがつくった逸品が、白を踏む。踏んだ先から白が降る。髪にまといつき、肩に身を休め……好き勝手するそれを、払い落とそうか迷う。たかが雪だ。とけて消えていくだけの、儚く脆いものだ。防水呪文でもかけてしまえばそれで済む。杖の一振りで片付く問題だ。そうする気にもなれず、夜の黒と雪の白のなかを歩いているのは、不合理極まりない。
宴に出て、シャックルボルト家のリラ――ライラックの眼をした娘を助けて疲れている。そして、自分と同じく駆けつけたリアイス家のセイリオスにシャックルボルト家に泊めてもらうように、と諭すのに時間を食った。自分の子たちになら強く言うし言うことを聞かせてみせるが。なにせよその子だ。教え子なので遠慮は少ないほうだけど。
なんにせよ、疲労しているのだ。もう少し早く駆けつければよかった。どうしても思考も動きも鈍った。夜の闇横丁は、セーミャが生まれた場所で、二度と行きたくない場所だったから。セイリオスと二手に分かれたけれど、結局彼のほうが早かったのだ。よくもまぁ入り組み、迷宮じみた横丁の中、リラを探し当てたものだ。リアイスの野生じみた勘だろうか。それを言えばスラグホーン家のサフィヤも、妙に「読んでいる」時があるが。ひょっとしたら未来視持ちなのかもしれない。かなり微弱な未来視、勘といえば勘くらいのものか。
――彼の娘は
燐の眼をしている。蒼とも言い難い眼。セーミャと同じ系統の。
「まさかね」
ふふ、と笑う。笑って、じわじわと重く濁ったものが染みていくのを感じた。ありえなくはない。なにがどこでつながっているかわからない。グリンデルバルドの名を世に轟かせたのはゲラート・グリンデルバルドが一代で成したことだ。そして彼は木の股から生まれたわけではない。血はどこかでつながっている。英国にも彼の縁者がいたのだ。グリンデルバルド姓ではない、遠い縁者が。高名な魔法史家だった。サフィヤに遠い遠い血が伝わっていても、娘にそれが引き継がれていても、不思議はないのだ。
はら、と降る雪を外套からはたく。これもまたドラゴン革のものだ。ドラゴン使いを夫にしてから、セーミャの身の回りに、ドラゴン製品が増えたのは確かだ。
魔法でどうとでもできるのに、と先の問いに戻ってくる。
なぜなのか、とセーミャは己に問いかける。ふと脳裏によぎったのは「娘」を抱きしめる「父」の姿。
――いいや
セーミャの父は、ああいった触れ合いはしなかった……と思う。キングズリー・シャックルボルトと違って、不器用な人だった。たとえばセーミャが実の父親に迫られたとしよう。心配した等のまっとうな父親らしい言動をとるだろうか?
――まず
実の父親とやらを細切れにしそうだ。やりかねない。完璧に、合理的にやってのけそうだ。正当防衛やらの理由をひっつけてしまえば問題あるまい、とばかりに。
そしてセーミャに「帰るぞ」と言う。セーミャが嫌がろうが拉致する。物騒なほどに眼を光らせ、獅子のように唸りながら。
事態の収拾が先、感情面の処理は後。ルーファス・スクリムジョールとはそういう男で、父親だった。
間違ってはいない。ただ正解でもないだろう。闇祓いとしては完璧だ。父親としてはどうなのか?
なんで記憶の中の父に、少し残念なような、妙に安堵しているような感情を抱いてしまうのか。父が去ってからざっと二十年ほど経っているというのに。二十年も過ぎてしまったのに。記憶は薄れるばかり。永遠のものなどありえない。
『仕事がある。私の娘なら、わかるだろう?』
あの朝、セーミャは父を引き止められなかった。私の娘なら、と諭されて折れたのだ。止めたところで問題を先延ばしにするだけ。父はいずれにせよ、殺されていただろう……。
振り返らずに去っていく背をセーミャは幻視する。けして甘やかしてくれるひとではなかった。すべきことをするひとで、一体なにを楽しみに生きているのかと思って……。
はら、と鼻先に冷たいものが落ちる。白の欠片だ。つ、ととけて失せていく。
『雪はいい』
柔らかい声が、泡沫のように浮かんでくる。いつかの夜。邸の一室。窓際で椅子に腰かけ、ゆっくりと杯を傾けていた……。
ちらちらと暖炉の火が踊っていた。父の銀に光る眼は、窓の外、降り止まぬ雪を見つめていた。
しんと冷えた夜だったように思う。セーミャは引き取られたばかりで、なにか怖い夢をみたのだと思う。誰かといるのは怖い。だけれどもひとりは嫌で。顔も身体も灼いた痕は、時折――頻繁に痛んだ。
使用人を呼べばよかったのだ。そばにいてほしいと言えばいいだけだった。しかし、いくら使用人が優しくしてくれようが、セーミャは怖かった。セーミャに手を伸ばしてきたのはとても優しそうなひとが多かった。笑顔でも、人はなにを考えているかわかったものではない。本来ならもう少し大きくなってから学ぶべきものを、セーミャは夜の底で覚えてしまった。生きるために。
あまり笑わない人のほうが安心できた。だから、セーミャはよろめき、ふらつきながら、明るいほうへ、助けてくれた男のところへ……セーミャをセーミャと名付けてくれた「父」のもとへ向かったのだ。
それははぐれた子狐が、守ってくれる親を求めるようなものだったのかもしれない。
居間に現れたセーミャに、父は瞬いた。魔法のように毛布を出して、セーミャをくるんで椅子に置いた。その時はわからなかったが、父は手慣れていた。あれは犯罪者を拘束して椅子に座らせるのに慣れすぎていたのだ。子ども、痩せて、しかも火傷を負い、入院して出てきたばかりの病み上がりに対してはかなり配慮していたようだけども。
夜ふかしをして、とか邪魔だ、とか言わず、側にいさせてくれた。これまた魔法のようにマグカップを出現させ、セーミャに手渡した。中身は甘さ控えめのココアだった。とても熱いそれを、そっと飲もうとすれば「吹いて冷ましなさい」と父は言った。セーミャは、生活の基本的なことが身についていなかったのだ。そしてなにもかも足りないことにも気づいていなかった。
吹いて、と呟く。こうだ、と父は手に持った杯に息を吹きかけた。真似をすれば、父はほんの少し目元を緩ませた。厳しい獅子のその様に、セーミャはほっとした。彼が「あの人」とは違うのだとわかってはいた。セーミャのことを呪わない。紳士たちに差し出さない。生みたくなかったなんて言わない。
吹いて冷ましながら、ココアを飲む。こんなお邸にいてもいいのかしらと思う。父は、父となってくれる人は、こんなに立派なのに、と。不器用でもなんでも、セーミャのひび割れた器を直そうとしてくれて、空っぽの中になにかを――まだセーミャにはわからないものを注いでくれようとしてくれている。
なんとなく、窓から眼を逸らす。暗いのは嫌だ。ずっと夜闇の底にいたから。夜の闇の、最下層に。わざわざ明るい暖炉じゃなくて、シャンデリアでもなくて、なんで窓の外を――広がるよ夜を見ないといけない?
「雪はいい」
穏やかで柔らかい声に、つい眼を向けてしまう。獅子の眼が見るのは雪だ。降りしきる欠片を飽きもせずにみている。
「……雪が降ると」
すべてが浄められる気がする。
ぽつ、と呟き、我に返ったように杯を揺らす。カラン、と澄んだ音がした。
杯を傾け、父はセーミャを見た。
「いつか、お前が大きくなったら」
少し、間を開けてこう続けた。
こうして酒を飲みたいものだな、と。
――今だったらわかる
セーミャは手を伸べる。革手袋に、脆い欠片が舞い降りた。
たぶん、本当は。
いつか、お前に巣食う負い目や汚濁も浄められるだろう、と言いたかったのだろう。セーミャがちいさくて、難しいだろうと思って別の話をしたのだ。
結局、父とは飲めずじまいだった。時間はあったはずなのに、すれ違ったのだ。あらゆることで。
たぶん父もセーミャも不器用すぎた。なにもかも手探りだったから。
ため息を吐く。凝るそれが散っていく。
「……大事なことを言わないんだから」
幼いセーミャが、救いがあるだとか浄められるだとか言われても信じなかったろうけど。
「少しは楽になったのよ」
もう亡い人に囁いて、セーミャは杖を振る。飛び出すのは銀の獅子。幸福が形を得たもの。
「遅くなった」
今から帰るからね。
チャーリー。