これほどに美しい蒼を、彼は見たことがなかった。
陽が昇る。長い長い夜が明け、残酷なまでにくっきりと、大広間の惨状を照らし出す。喜び歌う声と、嘆きに沈む声。生と死。幾度も繰り返されてきた戦いの、その結果を。
――ただの通過点に過ぎない
この戦いは、後の世において数行か数頁の物語にしかならないだろう。かつてテセウス・スキャマンダーが――多くの者たちが
あれほどの犠牲があったのにも関わらず。テセウスが愛した女も死者の末席に加わったというのに。歴史書は簡潔に語るのみ。ゲラート・グリンデルバルドは混乱と破壊をもたらした。秩序を乱した。多くの犠牲があった。アルバス・ダンブルドアとアシュタルテ・リアイスによって討たれ、投獄された……と。愛した女の名は「その他大勢」でしかなかった。彼女の勇気と犠牲は記されなかった。
息を吐く。瓦礫の一つに腰かける。みしみしとどこかが軋んだ。腰か、背か……。老いたのだ、と思う。少し張り切りすぎたのかもしれない。
――今回も
死線を越えてしまった。あれだけ動いたらそろそろ心臓が止まってもおかしくないのに、どうしたわけかまだ生きている。我ながらしぶとい。
動かなければ、と思うのに両肩に岩でも乗っているかのようだ。獅子公アシュタルテが黒衣を翻して動き回っているというのに――化け物かあの人は――彼より年下のテセウスが動かないわけにはいかない。頭ではわかっていても、瓦礫に永久粘着呪文でくっつけられてしまったかのように、テセウスは動けない。
交差する生と死を見過ぎたせいか。酔いそうなほどに濃い血臭のせいか。
左手薬指――銀の煌めきを右手で撫でさする。テセウスと同じように古ぼけて、傷だらけのそれを。
――結婚指輪を
つくってやればよかった。押し込めて、押し込めて、それでも執拗に浮かんでくる思いに俯いた。テセウスが想いを向けた女に渡せたのは、婚約指輪だけだった。結婚するはずだった。共に歩んでいけるはずだった。その路は無惨にも踏みにじられ、彼女は蒼の――燐のなかに呑まれた。骨も指輪も残さず、テセウスの心に烙印を捺して去っていった。後悔という名のそれを。灼けつくような痛みを。
悲鳴が聞こえる。女の声だ。かすかに震え、怒気すらはらんでいる。灼熱を秘めた唸りだ。
「トンクスだけでもたくさんなのに」
あなたまで行かせない。
別室に死者が寝かされ、生者がひしめく大広間は、さながら野戦病院のような有様となっていた。戦とは死者が何人、生者が何人と綺麗に分けられるものではない。生と死の間、どっちつかずの場所に宙ぶらりんの者も多い。テセウスが見たところ「野戦病院」の患者の一人は今にも死者の列に加わりそうに見えた。燃えるような赤毛――ウィーズリーの者だ――顔色は青白く、その身体は血にまみれている。確かウィーズリーの次男だったか。そして彼を生の側につなぎ止めているのは、テセウスの知己であった。
「死んでみなさい。反魂でもなんでも使って引きずり戻してやる」
陽光に赤みがかった金の髪を燃え立たせ、燐の眼に雷光を秘め、セーミャ・アレティ・スクリムジョールは言った。闇祓いの外套は脱ぎ捨てている。今は赤毛の彼のための褥となっていた。父親の形見の外套をためらいなく使い、実にさらりと禁術について口にした娘に、とある面影が重なった。
彼の大悪。ゲラート・グリンデルバルド。黄金の髪に燐の眼を持つ、卓越した詐欺師。扇動者にして先導者。彼にしか見えない世界のために、あらゆるものを踏みつけて、障害を切り捨て、立ちはだかる者を灼き尽くした。性別も顔も、その性情も異なるというのに――重なってしまう。セーミャは間違っても悪ではない。彼女はルーファス・スクリムジョールの娘であり、林檎の杖を持つ者である。血は繋がっていなくとも、紛れもなく闇祓いの子であった。
――どのようなことをしても
目的を遂げる。堅い決意が――善であれ、悪であれ、あの大悪を思わせたのか。
おかしなものだ、とテセウスは小さく笑う。グリンデルバルドの血縁を前にすれば、テセウスはなにをするかわからないだろう。そう思っていた。だが、彼の前に現れたのは小さな女の子だった。寂しそうな眼をした子だった……。初めて会ったのはなにかのパーティの時だっただろうか。伏し眼がちな子で、なにか誤魔化しの術を使っているなと察した。ルーファス・スクリムジョールが女の子を拾ったと聞いてはいた。出自もわからない孤児なのだと。きっと孤児の時代になにか傷を負っただろうことは明らかだった。だからテセウスは誤魔化しについては言及せず、しゃがみこみ、女の子に目線を合わせた。怖がらせたくはなかったから。あとは、女の子の「父親」を下手に刺激したくなかった。戦えばテセウスが意地でも勝つが、強いて戦いたいわけではない。まあでも、大人げなくてもやはりテセウスが勝つ。大人げなんてどこかに捨ててきた。
女の子の父こと、ルーファスはどんな手を使ってくるかな……と頭の片隅で考えつつ、彼女の眼を見た。そして、あらゆる考えごとが吹き飛んだ。禍々しいまでに澄んだ蒼。燐の色――大悪の色彩がそこにはあった。女の子ことセーミャとどんな会話を交わしたか、まったく覚えていない。ひたすらに動揺していた。面に出さないだけで精一杯だった。仮にも元魔法警察の長官が、無様にも女の子一人に心を乱された……。
パーティがお開きになり、住まいに帰り、左手薬指の煌めきを撫でながら、自分の心をのぞき込んだ。蒼に呑まれた婚約者のことを考えた。喪ったものを想った。悲しみは海よりも深く、枯れることはないように思えた。怒りも憎しみもちろちろと燃えていた。しかし、それだけではなかった。どこか悲しげで寂しげな女の子の眼に――どこにも居場所がないような双眸に――喪った婚約者の影を見た。
――あの子は違う
グリンデルバルドとは違う。憎しみを向けるべきではない。そんなことをしても意味がない。仮にゲラート・グリンデルバルドの直系だったとしても、ただの血縁だったとしても、狩るべきではない。狩りたくはないと思ってしまった。人の道に反しているから。それに……あの子に感じたのは哀れみと心配であった。婚約者を、愛する者を殺されたばかりの頃ならば、小さな女の子であろうと狩っていたかもしれない。しかし、年月は人を変える。良いほうにも、悪いほうにも。テセウスという小石もまた、時という波に洗われ、静かに静かに角がとれていったのだ。
『……このようなことをお願いするのは筋が違うのでしょう』
脳裏に蘇るのは黄褐色の眼だ。獅子の、戦う者の眼であった。魔法省が陥落する前――ダンブルドアが殺害されて少し経った頃――テセウスは招きを受けた。魔法大臣ルーファス・スクリムジョールに。名目は魔法警察の今後に関して、元長官の助言がどうこう。実態は「もしもの時のための一手」の話だ。魔法大臣執務室で、獅子は息を吐いた。まっすぐにテセウスを見た。不躾にテセウスを呼び出した非礼を詫び、さっさと本題に入った。まことに闇祓いらしかった。
「私はあっさりと死ぬつもりはない」
だが、この世に絶対はない。不測の事態はありえるし、魔法省は沈みかけた泥船だ。
できることはあるか、とルーファスが望む答えを返した。それが、どう考えても報われなさそうな、明らかに貧乏くじを引いた男に対する礼儀に思えた。「グリンデルバルドの血筋」を引き取って不器用ながらに育てた男に、テセウスが好感を持っていたせいもある。ルーファスは引き取った子が「グリンデルバルドの血筋」であろうとも、父であろうとした。テセウスがルーファスに探りを入れたときにそれは明らかになった。己が娘の出自にテセウスが当たりをつけたと悟ったルーファスは、テセウスを排除しようとしたのだ。未遂だが。忘却呪文は御免であったし、死の呪文も論外であった。別日に開かれたパーティ、会場となったとある邸のバルコニーで、テセウスとルーファスは睨み合った。互いに杖の柄に手を添えて、なにかの弾みに抜いてもおかしくなかったのだ。
――信用できる
睨み合いの末に、互いのことをそう判断した。ルーファスはテセウスが「グリンデルバルドの血筋」を狩ろうとしておらず、むしろ気にかけていることを。テセウスはルーファスが「グリンデルバルドの血筋」をなにがなんでも守ろうとしていることを。信用、いいや信頼に近いものであった。仮にも元魔法警察の長と、闇祓いの長である。戦う者には敬意を払うのだ。
テセウスが好感を持ち、信用している男は言った。
「もしも、が起きたならば」
ダウニング殿の警護を頼めまいか。これに関してはバグノールドに話を振っているから、彼女が主なのだが。もし彼女が手が足りぬと判断した時は、その力を貸してほしい。
「そういう時は、命令すればいいんだよ」
大臣閣下。テセウスがからかうように言えば、ルーファスは苦々しい顔になった。
「どこかの馬鹿者のようにせよと」
「君はファッジほど愚かではないだろうに」
どうしたって侮蔑が舌に乗る。ルーファスの前任の過ちについては聞いている。死喰い人の妹を監獄に放り込んだ、と。まるでグリンデルバルド狩りの再現ではないか……とテセウスは苦々しく思っていた。大陸に巻き起こった渦。災厄の嵐。『グリンデルバルドの夜』。グリンバルドの縁者は狩られ、散り散りになり、潜み、今やゲラートのみがグリンデルバルドを名乗る……。
流血が疎ましかった。たとえグリンデルバルドが狩られようが、愛した女が戻ってくるわけではないと悟っていた。意味のない行いで、必要ない犠牲だった。だからこそ似たようなことをしでかしたファッジは侮蔑の対象であったし、悪徳の一族であると知りながらも子どもを引き取り、育ててのけたルーファスには好感を持っていた。テセウスの、ひび割れた心が救われた気さえしていた。
「……それに、もう一つお願いがあるんじゃないか?」
水を向ける。ルーファスは唸った。
「グリフィンの子を盗んだのならば、親も盗めというだろう」
ちくちくと言ってやる。ルーファスが眼を瞑った。
「……このようなことをお願いするのは筋が違うのでしょう」
「さっさと言え」
めんどくさい男である。だから、テセウスが代わりに言った。
「私になにができるかわからないが、セーミャのことは気にかけておく」
その言葉を投げてやれば、ルーファスは深く息を吐いた。
「娘は一人でもやっていけます。だが……」
貴方のお言葉を、心強く感じます。
――たくましく育ったな
さすが獅子の娘だ。過去から現在に意識を戻す。セーミャは問答無用で赤毛の彼の上衣を脱がせ「さっさと戻ってきなさい」と頬をぶっ叩き、うめく彼の鼻を摘み、顎を掴んでがっと開き、薬を無理矢理飲ませていた。痙攣する彼そっちのけで傷口に杖を当て、癒しを施していく。応急処置の心得も頭に入っているか。
「セーミャ」
赤毛の彼がかぼそい声を上げる。
「ずっと君のことが……」
ウェールズグリーン普通種……と言って、赤毛の彼は再び失神した。あちらこちらからため息が聞こえた。一瞬だけいい雰囲気になった気がするが、それこそ気のせいだったのだろう。
――弟を思わせるな
微妙に残念なところ。君は雷鳥みたいにカッコイイよとか異性に言ってしまう類の。
「ああ、こんなところでサボッてる」
のこのこと残念な弟がやってきた。老いぼれようが弟であるし、ちょっと残念なところも変わらない。
よいせ、と弟がテセウスの隣の瓦礫に腰掛ける。
「僕も休憩」
「私はサボっていたんじゃないぞ」
現場監督だ、と適当なことを言う。そうして思い出した。
「あのなあニュート」
お前、復旧作業を手伝いなさい。雷鳥で吹っ飛ばしただろう。どこかの壁、とひとまず叱る。
「いやあ、彼がはしゃいじゃってさあ」
「雷鳥のせいにしない」
「さっきまでルキフェルと残党狩りしてたから許してよ」
「……ああ、婚約者がいる彼か」
「そうそう。獅子公の曾孫。一部じゃ死亡フラグをへし折ったと有名」
妻子を残してとか、婚約者を残してとか、ありがちだもんね……と弟はしんみりしていた。テセウスはぽつりと呟いた。
「私が代わりに引き受けてやれればよかったのに」
リタのそれを、と。唇にその名を乗せ、未だにうずく傷を自覚する。
「あれは僕らみんなのせいだよ」
弟が優しく言う。
「……まあ、あとちょっとで会えるんだろうから我慢してよ兄さん。今回も生き残ったけどさ」
「スクリムジョールのお嬢さんを庇って華々しく……もありかと思ってたんだが」
ふう、と息を吐く。瞼の裏に蘇るのは、闇を退け、邪を祓う蒼であった。聖にして邪なる炎環。かつてのグリンデルバルドが使った魔法。テセウスの半身を灼き尽くした魔法。
同じ魔法のはずだった。だが、かつて悪を成した魔法は善なることのために使われた。
澄み切った、烈しくありながら、静謐な燐の炎。美しい蒼であった……。
「もう少し、」
生きてみようと思う。
あの燐の色を見た時に、テセウスの内に凝っていた感情はほどけていった。彼女が持っていたのはグリンデルバルドの杖。かつて悪を成した杖。それが反転したのだ。使い手が代わり、紛れもない善を成した。
憎まなくてよかったと思った。あの女の子を手にかけなくてよかったと。正しい道を選べてよかったと……。ほんの少しでも、救われたと。
テセウスの呟きに、弟が小さく笑う。
「リタは辛抱強いから待ってくれるよ」
いやでも、兄さんは一発殴られるかも。遅いってね。
「……何発でも殴られてやろうとも」
会えなかった空白の、埋め合わせに。