「……幸いなことに」
彼女はお前と付き合うことはないよ。彼は穏やかに言いつつ、男を組み伏せている。両手首を拘束し、背に膝を食い込ませ。首に杖を突きつけて。完全な制圧の構えである。
「ルキフェル」
それくらいで。セーミャはやっとのことで声をかけた。玄関の壁に背をつけて、途方に暮れていた。なんで配達に向かった家で絡まれなければならないのか。客――通信販売を頼んできた魔法使い――はセーミャに「付き合って欲しい愛してる前から気になっていた」と言ってきた。いや、あなたは私のことを知っているかもしれないけど、私はあなたのことを知らない。そう、注文書に書かれていた名前と住所しか。寝言を言っているとしか思えず、気持ち悪いだけだったのでお断りした。そしたら暴れ始め……仕方なしに失神呪文でもぶち込もうとしたら、先を越されたのだ。闇祓いルキフェル・リアイスに。
「君は優しすぎる」
ルキフェルは立ち上がった。ついでに失神呪文をぶち込むのも忘れなかった。喚いていた「客」はぐったりと気を失った。
「こんなのに構うだけ時間の無駄」
ぴしゃりと返す。気に入らないことだらけだ。『例のあの人』の復活が公になり、人々は家に籠もるようになった。で、学用品を買いに出るのも怖い層が一定数いて、セーミャが勤める書店フローリシュ・アンド・ブロッツも客足が減った。そして通信販売が増えた。本というのは重い。一冊、二冊ならともかく、教科書セットだとそれなりの冊数になる。ふくろう郵便局で発送すればふくろうを何羽か使わなければならない。つまり高くつく。軽量化魔法オプションをつけてふくろうの数を減らしても、高い。それなら店員が配送したほうが安いということになった。店舗に来る客は減っているのだから、店長だけで十分回せる、と。
かくしてセーミャは箒にトランクをくくりつけ、あるいは馬車にトランクを放り込み、国中を回ることが多くなった。煙突飛行を使ってもよかったが、どれだけ飛行粉を消費するものかわかったものではなく、姿くらましの連続使用はなるべく避けたかったのだ。
――配送先が死喰い人の家だった
なんてこともあるかもしれない、と思っていた。だがこんな事態は想定していなかった。
セーミャは玄関に落ちた小包を拾い上げる。「悪戯だった」と店長には言おう。
「ありがとう」
尖った声が出る。ルキフェルはにこやかだった。誰が思うだろう。この優男が闇祓いだなんて。
「どういたしまして」
「父の命令?」
「僕が勝手にしたこと」
「暇なのね」
なにも言うまい。セーミャはもう家を出た。魔法大臣ルーファス・スクリムジョールは娘のむの字も言わないし、息女どうこうが新聞に載ったこともない。噂くらいはある。知っている人は知っている。セーミャはスクリムジョール姓ではないし、暇なゴシップ紙がセーミャの存在をほじくり返したとしても、せいぜい愛人の子、隠し子あたりで落ち着くだろう。つまりセーミャに護衛を割く意味などない。おそらく、養父はセーミャに護衛を付けろなんて言わない……はずだ。
「……彼は猫に鈴、なんてことも言わなかった」
セーミャは無視した。誰かを付けて居場所が分かるように、なんて指示も出していないと。それはそうだ。出て行くと言ったとき「頼むからわかる場所にいてくれ」と言われたのだ。ダイアゴン横丁で働きながら暮らすつもりだったし――学生の時から書店のバイトで、それから社員になった――住まいの目星もついていた。
――なんというか
なんというか、闇祓いの性質なのか、セーミャの住まいとなるはずの場所を検分し、養父はありとあらゆる防護をかけた。女の一人暮らしはどうこうとぶつぶつ言っていた。横丁は治安がいいから、となんとか説得したものだ。
金髪の闇祓いを放って、セーミャは出て行こうとする。玄関から外へ。箒にまたがろうとしたとき、腕に手をかけられた。
「まだ仕事か?」
どこに行く? の問いだと察した。どこまでもついてきそうだ。
「ホグワーツ」
端的に答える。案の定「送っていこう」と言われ、ため息を吐いた。苦い気持ちとともに思い出す。セーミャを邸に引き取った当初、セーミャがあまりにも静かで気配もないから心配になったらしい養父がなにをしたのか。服の袖と裾に鈴をつけたのだ。まさに猫に鈴、セーミャに鈴だった。
『ここはお前に乱暴する者はいない』
足音を立てていいし、怒る者はいないのだ。と渋い顔で養父は言った。
『私はかくれんぼに付き合っていられるほど暇じゃない』
とも。
◆
「なんだかぐったりしていますよ」
お茶でもいかが、と誘われてセーミャはありがたく受けた。ホグワーツへの配送――教師たちのご注文――は終わり、あとはダイアゴン横丁に帰るだけ。多少の休憩くらいはいいだろう。
革張りのソファに腰掛ける。ミネルバ・マクゴナガルの室は整っていて上品で、深い紅の絨毯や、生けられた植物のおかげかあたたかみがある。
お茶を出され、一口、二口と飲んでいく。思ったよりも疲れていたようだ。夏に箒で駆け回っていればそうもなるか。そして。
「……付き添い姿くらましがちょっと堪えて」
ルキフェル・リアイスは強引だった。じゃあさっさと行こうとセーミャの腕をひっつかんだ。城の姿くらまし・現し防止領域のぎりぎりに転移して、それからは箒に二人乗りだ。
「護衛官は必要でしょう」
マクゴナガルは極めて常識的だった。セーミャが「変な男に絡まれた」と言ったらさらに騒ぎそうだし、ホグワーツは安全ですよと言って教師になることをすすめてくるだろう。ちなみに、絡んできた変な男はルキフェルが処理した。職場に一応報告したら「そいつは出禁」と返事が返ってきた。出禁もなにも、ルキフェルはあの変態の記憶を書き換えて、ああしてこうして、あの男は大陸のどこかに出奔することになったようだ。一応合法である。服従の呪文の行使を闇祓いは認められている。
「試験は落ちましたけど」
死喰い人のひとり、ふたりくらいならなんとかできますよ私。
つい、すねたような声が出る。マクコナガルはセーミャが闇祓いを志望することにいい顔をしなかったな、と思い出す。あなたは文官のほうが合うと思いますよ。もちろん望むのなら応援しますが。
「無理をして、死地に飛び込むようなことにならなくてよかったと思います」
ぽつ、とマクゴナガルが言う。その通りなのだろうとセーミャも思う。闇祓いには向いていなかったのだ、セーミャは。試験に落ちた。いいや、合格にしようかという話もあった。が、辞退した。
『すまない』
あの日の聖マンゴで、あちこちに包帯を巻いたリアイスたち――ルキフェルとナイアードは言ったのだ。
試験官だというのに、僕らは加減できなかった。その余裕がなかったと。殺し合い一歩手前だった、と。
セーミャは首を振った。彼らが謝る必要なんてなかった。二人の闇祓いを相手にして、セーミャは追いつめられた。あくまでも試験だということは、頭から吹っ飛んでいた。
『闇祓いには』
己を律し、力を制御する精神力も求められるはずです。私は駄目だったんです。どうか失格にしてください。
「……どうせ闇祓いになったとしても」
養父のお陰だと言われるに決まっています。セーミャは過去から現在に意識を戻し、自嘲する。養父はたいしてセーミャになにも期待していない。直接聞いたことだ。それとなく「闇祓いになったほうがいいのか」と訊いたとき「好きにしなさい。別になにも期待していない」と返された。闇祓いを目指すなとは言われなかったので好きにした。そして落ちた。結局「期待していない」は真実だったのだ。お前が闇祓いになれるとは思わない、と。
セーミャは無理に背伸びしただけだった。養父が闇祓いだから目指しただけで。
そもそも、セーミャは、母を殺した危険な存在だ。
匿われ、目こぼしされているだけの化け物なのだ。
ホグワーツ上階・渡り廊下からは連なる高峰と輝く湖、広がる森が見える。北塔や天文塔に行けば、ホグワーツの領土を余さず見ることができるだろう。用事もないのにわざわざ行く気になれないが。そもそもセーミャは部外者だ。あまり勝手にふらふらはできないし、してはいけないと言われている。
「……過保護だ」
どいつもこいつも。お節介というかなんというか。セーミャに「用事が終わったら帰りも送るから」と言ったのはルキフェルだった。十も離れていないがそこそこ年上の彼は、まるで番犬のようだった。冗談じゃないさっさと帰ると反論したが「君は自分がどれだけ重要人物かわかっていない」とルキフェルは苦々しげに返してきた。
『彼にとって君は弱味……いや逆鱗だ』
と。
そんな馬鹿な、と鼻で笑っても、ルキフェルは聞きやしなかった。どうも彼こと大臣の機嫌を左右しているのはセーミャらしい。
一人で帰ろうとするなよ絶対にとくどくど言われ、セーミャは仕方なしに校内をぶらついている。あちこちに教師ではない人間がいる。リアイスたちだ。どうやら守りの強化をしているらしい。ルキフェルもそれが「用事」、つまり一族の仕事だ。リアイスはホグワーツの理事を出していたし――ここ数代はとぎれているが――ホグワーツ関連のあれこれにも噛んでいるのだろう。欄干から身を乗り出して、空を見る。金の煌めきが、ちらちらと躍っている。少し前に障壁の大規模な強化をしたようだ。今彼らがあれこれしているのは、小規模な、細かい強化だろう。
そのままぼんやりする。リアイスたちが散らばっているし、教師たちもいるし、気を抜いたところで問題ない。仮に襲われたとしても、セーミャは対処できる。
――もう
小さく、無力なだけの存在ではない。お前は穢れた血なんだろうと嘲笑されることも……乱暴を働かれることも……。
それが起こったのは、ちょうどここ――渡り廊下だった。
「なにか言えよ」
穢れた血。どん、と突き飛ばされ、セーミャはよろめき転んでしまった。膝がじんと痛む。とっさに杖を向けようとして、うつむいた。声に覚えがあった。スリザリンの同学年たちだ。
「アレティなんて知らないぞ」
なのになんでお前、クィディッチチームに勧誘されているんだよ。
セーミャは唇を引き結ぶ。そんなのこっちが聞きたい。一年生のときから話はあった。セーミャは飛ぶのが巧いらしい。だから二年生になったらチームにおいで、と言われていて、逃げ回っていた。目立つのは嫌だった。セーミャは隠れていないといけなかった。そうじゃないとこんな風に目を付けられる。
――見られてはいけない
呼吸が速くなる。スリザリン生がわめいているが、無言を通す。お前のせいで僕の順位がと、みっともない。黙っていれば終わる。黙っていれば、静かにしていれば。
『穏和しくしていればいいんだよ』
ぞんざいに母は言った。セーミャを生んだだけの人。セーミャをあれとかそれとかお人形と言った。セーミャに名はなかった。母にもなかった。母は夜の蝶と呼ばれていた。青い蝶……眼がそうだったから。
生んでやったんだから働け、と彼女は言った。寝台を整え、皿を洗い、彼女たちの世話をしろ。それとお相手をするんだよ。
『金ははずもう』
誰かが言う。こんな底の底に子どもがいるなんて。蝶、お前の子か。そうかそうか……。
『最後まではなりませんよ』
壊してしまいますからね。母の猫なで声。嫌だ、と言う言葉を知らなかった。いつでも返事は「はい」だった。黙っていなければならない。反抗してはいけない。従順にかわいがってもらわなければならない。
震えながら室に――汚らしい物置――に戻れば、母はせせら笑った。お前はこうやって生きていくしかないんだ。底の底にどっぷり沈むんだ。大きくなったら最後までしゃぶりつくしてもらおうじゃないか。
――ここで生きて死ぬしかないんだ
かわいそうな子だよ。ぽつ、と言って母は首飾りをくれた。磔刑にされた誰か。燃やされている誰かの絵が、ロケットに封印されているそれを。
親から子へやるものだ。お前もいずれわかるようになる。杖もなく、身体を売るしかなくても、あたしたちは魔法族だ。先祖の誰かが惨い目に遭ったんだ……。
『お前のなかにも眠っている記憶』
囁き声。血に潜む記憶。誰かの物語。誰かたちの軌跡。歌うように母は囁く。母はそれはそれは美しい声を持っていたという。今では衰え、傷み、かすれ、底の底にまで墜ちてしまったのだと。子を身ごもったから。堕胎するには遅すぎた。夜の頂からまっさかさま。
その声が、語る。
どこかの時代、どこかの村。
広場に女が引き出される。こぼれる髪は金。無惨に切られ、ぱらぱらと散って。
娘だけは逃がして。だけど、娘はその女の――母親の最期を見届けた。痛みと炎に喰われ――広場は、村は灼熱に呑まれた。娘だけは無事だった。
娘、だけは。
『血の記憶だよ』
卑しい娘、かわいそうな娘。あたしたちは墜ちてしまった。どこかでまともな生き方ができなくなった。
「お前みたいなのは」
魔法族じゃないんだよ。キンキンとした声。襟を掴まれる。引きずられる。ぞっと肌が粟立った。
『お前は死ぬべきだ』
母の声がする。腕を掴まれる。壁に叩きつけられる。
『耐えられない』
あたしは夜の世界でしか生きられないのに。一度は頂まで行ったのに。お前のせいで墜ちた。酷い。
『なのに。あんたは』
身体を売ることなく……文字を教えてもらったって?
「穢れた血は帰れ」
息が詰まる。どうにか身をよじる。背中に固いものがある。逃げ場はない。
私は――血じゃない。そんな言葉知らない。記憶がかき回される。今と昔の。
『知らない』
おじさんたちが、怖いお客さんがころりと態度を変えて、にっこりしてきた理由なんて知らない。
――手が伸びてきて、怖かったから。
『嫌だって』
はいと言うべきだった。だけど、どうしても駄目だった。なにか恐ろしいことが起こるとわかっていた。だから、つい言ってしまった。そうしたら、優しくしてくれた。怖くなくなった。文字も書けないのかと教えてくれた。
見開かれた眼。母が頬から首へと滑る。じゅ、と音がした。どこもかしこも熱くなって。赤い色が。あれ、それと言われた子を灼く。名前のない誰かを灼く。悲鳴を上げる。やめてと言って、母の手を掴む。炎に包まれた手で掴み。
悲鳴がする。叫びがする。炎が――母を喰う。子から生まれた炎が、母を喰らった。
怒りと苦痛の炎。生き延びるための、身を守るための炎が。
「ひっ」
声がする。
「化け物」
セーミャを見て、彼らは言う。セーミャは悟る。変身術が――誤魔化しが解けてしまったことを。
火傷の痕を。治療して、段々と薄くなったけれど、まだ醜くて。特に顔の半分は――母の手が触れた場所は――赤く引きつれている。
指を指される。うつむき、うずくまる。だから見られたくなかったのに。
違う叫びが割って入る。赤い色が映る。燃えるような赤。そして黒いローブを着た背がセーミャをかばった。
「アレティに構うなよ!」
男の子の声だ。箍が外れたように叫ぶスリザリンたちと違って、怒りがたっぷり含まれた声。
ばんばんと音がして、セーミャは身をすくめた。杖をきつく握りしめているうちに、全部終わった。
「アレティ」
おいってば。怪我でもしたのか。あいつらのことは追い払ったから。
「こっちを向けよ」
怪我じゃないのと言おうとして声が出ない。なぜか、母の声がした。
『幸せになってはいけない』
『お前は卑しい。あたしの子。夜の底の子』
まともじゃない。
お前が幸せになるなんて赦さない。
同時に、奥の奥から囁きが聞こえる。幸せになりますように、と。
肩に手をかけられる。びくりと震えても、その手は容赦しなかった。ぐいっとセーミャを引き寄せ、顔を見て、青い眼を見開いて。
「怪我ああああぁ!」
叫んだ。セーミャは違うと言ったのだが、彼はまったく聞いてなかった。ねえ話を聞いてってばと言いもした。だがもはや彼は――チャーリー・ウィーズリーは止まらなかった。セーミャの顔に「お母さんお手製」のオレガノのエキスをべたべたと塗り、ぎゃあぎゃあ騒ぎながらセーミャにローブを脱いで頭からかぶせ、引きずるように医務室に向かったのだ。
そしてセーミャは知った。
ウィーズリー家が人の話を聞かず、正義感が強くて暴走し、お節介だということを。
自己主張をしないと流されてしまうということを。
――ダンブルドアめ
ルーファスは手紙を握りつぶした。
「……どういうつもりだ」
「どうもこうも」
独り言に返事があった。ルーファスは「獅子のよう」とも言われる黄褐色を声の主に向ける。ルキフェル・リアイスは秘書よろしく茶の支度をしていた。
「ハリー・ポッターを利用しようとしても無理でしょう」
ダンブルドアは彼の後見のようなものですし、その庇護下にある少年を魔法省にほいほい出入りさせるとお思いですか。ルキフェルは立て板に水とばかりに言う。ルーファスは唸った。
「護送は終わったんだな」
今日は九月一日。ホグワーツの新学期だ。つまり生徒が一斉に移動する日であり、特に気が抜けない日でもあった。
「特急に乗り込むまでは見守りましたよ」
あとはトンクスたちに任せました。ルキフェルは言って茶器をルーファスの執務机に置く。珈琲色の水面に、顔をしかめた男の顔が映った。
「ウィスタがあなたによろしく、と」
「……彼を協力――」
「父親が殺されていくらも経っていないのにおやめください」
ぴしゃりとルキフェルが言う。紫の眼はひどく冷ややかだった。
「ヴォルデモート打倒のためだ」
「ウィスタだって同じです。ただ、彼は……僕たちはリアイスです。請われれば協力はします。相応の態度ならば、ね」
ファッジのような愚を犯しませんように。ルキフェルはさらりと言う。
「いっそのこと、リアイスから大臣を出せばいいものを」
過去には何人かいたはずだ。たいてい、悪辣な大臣を引きずりおろし、その座に就いた。
「そっちはあなたがたの仕事だ。僕らの本分はホグワーツ関連です」
大臣といってもほぼ中継ぎでしたよ。ルキフェルに打ち返され、頭が痛くなってきた。ガリオンも名誉も権力も売るほどあるから大臣「なんぞ」に執着しないいかれた一族がリアイスだ。ホグワーツどうこうと言うが。
「嘘を吐け。お前たちは闇の魔法使いが現れれば始末してきたくせに」
「ご心配なく。ヴォルデモートは僕らの獲物です」
にっこりである。そして居住まいを正した。ひたとルーファスを見る。なんだ、と見返した。
「なんであなたは子どもに対する接し方が下手なのか」
「うるさい」
「少なくとも、ウィスタはともかくハリーに関してはもう少し寝かせておいたほうがいい……誹謗中傷されてたんですよ? あなたならわかるでしょう」
小さく唸りを漏らす。ぎろりと睨みつけてもルキフェルは涼しい顔だった。
なるべく、世間の冷たい風にさらしたくはなかった。だから娘にはスクリムジョールの姓を名乗らせていない。なにせ闇祓いの娘であるし、今は大臣息女だ。だが、害から遠ざけたはずだった。けれど、それは裏目に出た。マグル生まれだと勘違いされ、どこぞの馬鹿に絡まれ……。社交の場でもなにか嫌味を言われていたようだし……。
「あなたが女の子を引き取ったとクロードから聞いて、僕はびっくりしたものですけど」
「成り行きだ」
それだけを返す。成り行きだ。先視のクロード・リアイスに言わせれば決まっていたことらしいが。だから先視は嫌いなのだ。そうなるとだ。ルーファスが上官から邸をもらったのも決まっていたことなのかもしれないし、そもそも上官――アリアドネの祖父母のヘクター・リアイスとセラ・リアイス……旧姓ポッター夫妻がどこぞの貴族から邸を譲られたのも決まっていたのかもしれない。
妙なものだ、とつぶやく。本当に、奇妙なものだ。ルーファスは独身者で、生家は名家でもなんでもない。狭い住まいだったし、古びていた。独立し、両親が亡くなったので処分した。そしたら邸が転がり込んできた。
『お前はいずれ高位に昇るでしょうし、それなりの邸を構えなさい』
もはや決定事項だった。アリアドネはよっぽどその邸を処分したかったらしく、後日、足を踏み入れて納得したものだ。放置されたそこには蛇の装飾があった。なんとかかんとか聞き出したところによると、邸は元々ゴーントのものだったそうだ。国を捨てて出て行った「まともな」ゴーントの。
まさか単身者にはあまりに広いその邸に、娘を迎え入れることになるとは思わなかった。
火事から救い出し、聖マンゴに入れ……仕事の合間に様子を見に行った。包帯だらけで、痩せて痛々しい子だった。火傷が酷くて、まともに歩けるようになるまで時間がかかった。入院の書類に署名したのはルーファスだったので、暫定的な保護者になってしまい、癒者たちには完全に「かわいそうな子の父親」と思われてしまった。
治療がある程度終わるまでだと思っていたのだ。本当に。保護者らしく車椅子に「かわいそうな子」を乗せて散歩にも行った。名前がわからないのでルーファスが付けるしかなかった。
――そもそも
名前なんてなかったのだ娘には。ぽつぽつとこぼされる拙い言葉。繋ぎ合わせれば、いかにその娘が誰にも愛されていなかったか「母親」から疎まれていたか明らかだった。挙げ句に「母親」は娘に強いたのだ。吐き気がすることに……幸い、未遂だったようだが。
――未遂だったのだ
幼い娘と大人の魔法使いだ。勝てるわけがない。十中八九手籠めにされていなければおかしい。いや、幼い娘に惨いことがふりかかっていいわけがなかったし、ルーファスは望んでもいなかったが、状況からして幼い娘が無事なのがおかしかった。
おかしいことだらけだった。
『殺しちゃったの』
語彙に乏しいはずで、たどたどしく話すのに、物騒な言葉は知っていた。それは誰かから言われたからだろう。たとえば、母親からとか。
しかるべき養親を見つけようと思っていたのに、ルーファスはその娘を引き取った。手元に置いた。バグノールドに「お前が見つけたんだから義務だ」と言われたせいも少しはある。
『誰かが焼かれてたの』
娘は囁いた。誰かが広場に連れて行かれて、見ているしかなかったこと。あるいは、どうしようもできずに誰かを心配し、逃げろと思う……。謎めいた夢、あるいは記憶。
子どもが夢と現実をごっちゃにしたのだ、と笑い飛ばすことができなかった。ぱらぱらと断片が集まった。お母さんがくれた首飾り。溶けちゃった。焼かれている女の人。
『お母さんがあたしに』
触ったら、じゅってなって。怖くて。そしたらお母さんに火が……。お母さんの火をあたしの火が食べちゃった。
そして娘は生き残った。守られた。
火、守り……広場、磔刑、燃え上がる火、そして女から火が広がった。灼き尽くした。
引っかかるものがあった。そういう話をどこかで聞いた。薄れゆく過去の話を。
◆
「来たか」
湿った室。ぎしぎしと鳴るベッドに、影は腰掛けている。壁一面には古代語が刻まれ、ここが出ることの叶わない獄なのだと示している。
「ようこそ。お茶も出せないがゆっくりしていってくれ」
ゲラート・グリンデルバルドは穏やかに言う。伸びた髪と髭、すりきれた衣、痩せた身体にも関わらず、魅力的な男だ……と思わされる。威厳がある。彼ならば何事かなせる、とぼんやり思い――ふと瞬く。
――今なにを思っていた
ぞっとする。脱出防止と魅了防止が施されているにも関わらず、ともすれば引きずり込まれそうになる。夢を視たくなる。ゲラート・グリンデルバルド。かつての大悪の夢、抱いた理想を共に、と。
ふっと息を吐く。じろりと睨めば、グリンデルバルドはにやりとして両手を上げた。
「挨拶代わりだよ」
お見事、と彼は笑う。その両の眼をちらりと見やった。ルーファスの胸の内に、重いものが落ちていく。
「……どこまで視えている」
「君が訪ねてきて、こう訊く」
その昔、火刑にされた女は私の姉妹か、と。
ルーファスは先を促した。わざわざヌルメンガードを訪ねて正解だったかもしれない。
ベッドに腰掛け、かつて大陸に混沌をもたらした悪は身を揺らす。
「私の姉だ。かわいそうに。馬鹿で無知な輩に……」
「それを視ていたならば、お前はやめたか」
ふと問いかけた。終わったことで、過去にすぎず、もはや意味のない問いであった。それでも訊いてみたかった。ただの興味。「もし」があればどうなったかを。
「野心を封じることを?」
「愛しい姉妹のために」
にぃ、と悪は笑う。
「もっと徹底的に潰し、従わせ、私が頂に立てばよかったと後悔しているよ」
ああ心優しき姉よ安らかに。そうだ、妹もかわいそうなことだ……。流転して、その末裔は今やマグルだ。グリンデルバルドのグの字も知らない。哀れだよ。
ルーファスは眼を瞑った。こいつになにを言っても無駄だ。
「さてお客人。私は機嫌がいい。問いに答えてやろう」
もはやその悪は、すべてを承知しているらしかった。歌うように答えを囁く。
「姉の……曾孫だか玄孫だかが視たのは、姉の記憶、その娘の記憶。灼きついたものだ」
よほど我が姉は無念だったのだろうよ。だから、村を灼いたのさ。娘だけは守ってな。炎とともに娘に記憶が引き継がれた。まあ魔法とはそういうものだ。
その悪は眼を瞑り、また開いた。うむと唸り、顎をさする。
「だいたい君の推測通りだよ。わかっていたんじゃないか?」
私が使っていたあれは、元々グリンデルバルド家が得意としていたものだ。ああ、勘違いしないでほしい。やたらめったら灼いていたわけじゃあないさ。
「守りのためのものだ。いわゆる炎の結界、障壁だ。呪文を打ち消すくらいしかできない。死の呪文も喰らい灼くがね」
ふふ、と悪は笑った。悪戯な子どものように。
「攻防一体の炎にまで昇華したのは、私が優れていたからだ」
あと姉か。死に際に箍が外れたんだろうね。あの人、それはもう穏やかで淑女だったのだけど……姉さんが本気を出せばすごいって私は言ったものだよ。当の本人は、穏やかに暮らしたいのよとか言っていたっけ。
懐かしそうに悪は言う。己がしでかしたことで死に――死より惨い末路を迎えさせたことなど棚に上げて。
「防御型なんだよ、うちの家系は」
魅了もちょっと使うくらいだし。どっちかというと精神の治療とか、気質を穏やかなほうにもっていくとか、心の傷に蓋をするとかなんだが。
「君の娘にとってはいらない力だろう」
まだそうと決めたわけでは、と言い返そうとする。が、悪は「しぃ」と指を立て、唇に当てた。
「決まったことだよ」
だから私はこうして情報を提供してやっているのだ。
「多少の情はあるわけか」
「小さな子がかわいそうな目に遭うのは嫌なものだ」
だから私はずっとずっと祈っていたのさ。
姉の末裔も、妹の末裔も幸せになりますようにと。傷つきませんように。好かれますように。愛されますように。
祈りは一番古く、強い魔法だから。
悪はそう言って、眸を煌めかせた。
燐の色を。