ふっと眼を開け、カーテン――花柄と白いレースのそれ――から差し込む陽、薄ぼんやりと照らされる「自室」、テーブルに積まれた本の山、壁にかけられた風景画――天馬は永遠に草原を走り続ける――に目眩がした。
帰ってきてしまったのだ。スクリムジョール邸に。
一時帰宅ならぬ宿泊はあった。だが、今度は違う。帰宅だ。というよりも連れ戻された。ほとんど引きずり出されたようなものだ。馬車に放り込まれ、逃走防止措置をとられた。もはや拉致だろう。セーミャは抵抗する気力もなく「帰宅」して、無言のまま自室に引っ込んでふて寝した。
ふらふらとベッドから降り、カーテンを開く。薄曇りの空……陽は高く昇っている。
「……最悪」
意味もなく言って、うなだれた。
シャワーを浴びて――入浴しようものなら溺死しそうな気分だったから――服を替え、重い身体を引きずるようにして食堂に降りる。なにからなにまでお見通しなのか、食事が用意されていた。養父はいない。なにせ魔法大臣なのだ。忙しいに決まっているし、本来セーミャに時間を割いていられない身分だ。昨日が例外なのだ。
トーストとスープを食べ終わると、これまた見計らったように使用人がやってきた。スクリムジョール邸の使用人たちは優秀だ。滅ぼされた家門――たとえばマッキノンとか――に仕えていた前歴がある。それを養父が拾い上げたのだという。直接聞いたわけではないが、そういうことらしい。
「お嬢様」
静かに羊皮紙を差し出され、受け取る。養父の角張った字が連ねられていた。昨日のことにはまったく言及していない。
『お前の職場には今日休む旨伝えておいた。もしここから通うなら護衛を付ける。ダイアゴン横丁の家から私物を引き取っておきなさい』
安全面を考慮して邸に戻ったのだから横丁の家はいらないだろうと仰せだ。
『しばらく休職しても養えるだけのものはある』
養父の本音は「休職しろ」だ。
――この年齢で
親のすねをかじるのか。セーミャは唸った。多少の蓄えはある。生活費を……一年、二年くらいは入れられるだけのものはある……し、養父からいくらか財産分与を受けている。問題は、ないのだけど。
お前なんて娘じゃないと言って放り出してくれたほうが気持ちが楽なのだ。セーミャは対価なく差し出されるものを信用しきれない。そこまでおめでたい育ちをしていない。
闇の底にやってくる紳士たちだって、セーミャの……身体を求めていたのだ。年端もいかない女児になにをどうするのかは怖くて考えたくもない。母は「壊れてしまうから最後までやるな」と釘を刺していた。熟していない実を無理矢理どうこうすれば――そもそも受け入れられるわけがないのだ――壊れるに決まっている。色々と楽しみ方はあるのだ。結果として、セーミャは免れたわけだけれど、それだって偶然の――不可思議な力が働いたからだろう。
『礼なんていらないよ』
きつい声が記憶の底から浮かび上がる。薬臭い室。風にふくらむカーテン、椅子に腰掛けたセーミャと、立っているチャーリー・ウィーズリー。燃えるような赤い髪。青い眼を伏せて、そっぽを向いていた。
『助けるのなんて当たり前だ』
むしろ僕が大騒ぎしたし、とチャーリーはぼそぼそと言った。二年生の時、スリザリン生に絡まれ、暴かれ、チャーリーに医務室へ引きずられて行った時のことだ。お前が絡まれているから悪い、とは言わないのだなとセーミャは驚いたものだ。だから、こう言った。
『私を助けても、なんにもいいことないよ?』
そして、チャーリーがカンカンに怒った。
『だから 僕が 礼を 求めるような 腐ったやつだと 思うなよ』
そしてなぜか友達になった……というか、友達というのが未だによくわからないのだけど、友達なのだろうきっと。トンクスもそうだ。ある意味「クソ野郎」のお陰で友達になれた。
――あの二人には
セーミャの本当の顔を見られているし。気を許してしまうのも当然か。
だが、友達と親は違う。セーミャは養父のことを善人だと思っているし、立派な人だとも思っている。だからこそ彼に不利益をもたらすことはしたくないし、正直なところ利害ありきの関係のほうが気が楽なのだが。セーミャの存在は養父にとって明らかな負担である。つつかれると拙い弱点に他ならない。ならばいっそ弱点を弱点でなくせばいい、益となせばいいと思って……駒として使えばいいと言ったのだ。散々な結果に終わったけれど。
『子殺しなんて死んでも御免だ』
お前の血筋なんて関係ない、と養父は激怒――赫怒した。壁に亀裂がはしるわ、カップが壊れるわで大変だった。セーミャは負けじと言い返した。目の前に危険があるのだから排除すべきだ。それが子だろうと関係ないだろう。仮に私が闇側に降ったらどうするおつもりですか、と。そもそも私だって『例のあの人』の血筋がいたのならば、あなたと同じように考えますよ。それがまっとうで、当たり前です。放置はできない。命をとるに至らなくても、国外追放か、監視付きの幽閉か……。
『お前が闇側に行くものか』
『わかりませんよ。組分け帽子によると「君には勇気が足りない」らしいですから』
『あのボロ帽子燃やしてやる』
『で?』
ありえない、いやもしかしたらあるかもしれない「もしも」の答えをセーミャは迫った。互いにまともな思考力は残っておらず、叩きつけるような物言いしかしていなかった。その場にパーシー・ウィーズリーがいることも、外に護衛がいることも半ば吹っ飛んでいた。
『……お前が、万が一闇側に降ったら』
唸るように養父は言った。
『私が手を下し……』
私もまたけじめをつける。
◆
養父は、セーミャの後ろめたさを承知していたらしい。生活費を入れるように書いてよこす代わりに、仕事を振ってきた。
食事を終えたセーミャは、髪をゆるく結び、邸に残していた服の中で汚れてもかまわないものに着替え、とある場所へ向かった。地下書庫である。
蛇の装飾があちこちに施された本棚。敷かれた絨毯は緑。明らかにスリザリン――スリザリン寮出身者を輩出してきた家系に縁があることが知れる。今は「スクリムジョール邸」だが、別の所有者がいたそうだ。確か、養父が上官から押しつけられた。その上官の祖父母が「誰か」から譲られた邸だそうだ。つまり歴史がある。蔵書もある。
セーミャは入るなと言われていた書庫だった。今回、入ることが許され、鍵を与えられたのは仕事のためだ。蔵書の目録をつくれ、ついでに本が傷んでいれば修復を、等々。
「……闇の家系よね」
スリザリンだから闇とは限らないのだが、ホグワーツの禁書の棚にあるような本がたんまりあった。無限変身呪文だとか、永遠に悪夢を見させる方法だとか。あとは呪詛か。杖を使ったものではない、生け贄を求める種類のものだ。和紙に墨で書かれたもので、あいにくセーミャには読めなかったが。漢字は拾い読みできるけれど、日本語までは無理だ。しかも崩している。お手上げだ。
ゆっくりでかまわない、と羊皮紙には書いてあった。特に期限はない。お前の好きなように整理して、目録をつくればいい。
あとこれはできればだが、と養父は続けていた。
『陣が欲しい』
と。
なんのための陣――方陣か、書かなくてもわかるだろうと言わんばかりだった。つまり緊急時のためのもの。しかも緊急脱出用ではない。緊急伝達のためのもの。
――養父は
最悪を想定している。そこがファッジとは違うところだ。棚の間を歩き、セーミャは顔をしかめた。現実逃避する愚か者に大臣になられても困るが、養父が大臣なのも嫌なものだ。彼は職責をわかっている。野心がないとは言えないが、秩序を愛し、混沌を憎む。けして逃げ出すようなことはしない。省が傾きかけ、信頼を失いつつあり、使える駒があまりに少ないとわかっていても。
負けるつもりはないだろう。だが、楽観視はしていない。状況をわかっている。つまり、魔法省が陥落する可能性も何割かは考慮している。泥船に乗っているようなものだ。さっさと降りたほうがいいのにそうはしない。
緊急伝達とは、いよいよ追いつめられた時に、指示を与えるためのものだろう。
「嫌なひと」
グリンデルバルドの血筋について告げられた時も嫌だった。余計なことばかり言う。そしてこんな仕事を押しつける。養父なんて嫌いだ。
いくらセーミャが本の魔法使い――
連絡手段など普通は手紙、あるいは誰かを遣わせる、それか守護霊による伝達――セーミャは守護霊を使えないが――で足りる。わざわざ伝達手段を組み立てる必要などないのだ。それを養父はやれと言う。
紙とインクはあとで確保すればいい。どういう方陣を組み立てるかが問題だ。参考になる本はあるだろうか。どちらかというと闇の魔術と呼ばれるものに関する本が多そうで、さほど使いようのない、趣味のような魔法に関するものがあるかどうか。一般には用がない魔法だろう。
一つ一つ本を見ていく。古い家系に関する本があり、魂に関する本があり……蛇に関するものが……。
蔵書の数々に、ひしひしと嫌な予感がする。いいや、ただのスリザリン系の邸で、書庫のはず。そうであってほしい。本の一つに指をかける。本というよりは、薄い冊子だった。開いてみればサラザール・スリザリンについてつらつらと書いてある。覚え書きのようなもので、スリザリンは純血主義ではなかったのではないか、闇の魔法使いの祖のような扱いは不当ではないか、彼の思想はどこかでゆがめられたのでは……と祈るような言葉があった。私は真実を求めたい、と。求めに行く、と書かれて終わっていた。
ぱらりとめくっても続きは白紙だ。
――求めに行って、どうなったのか
この書き手はどこに行ったのか。もはや過ぎ去ったものだ。意味のない影だろう。セーミャが求めているのは真実でもなんでもない、養父の一助となるべき力だ。
ふ、と息を吐いて冊子を閉じようとする。だが、手が動かない。なに、と声が漏れる。ふわり、と緑の光がこぼれた。その源は……冊子だ。冊子が輝いているのだ。
白紙だったはずのページに文字が現れていた。
己の来し方に迷う者。唱えよ。
セーミャの頭から思慮分別が消え去った。闇の匂いが香る空間で、いかにも怪しげな誘導に引っかかるわけがないというのに。
唇が音を押し出す。それは連なり言葉となった。
「――ノクチュア」
本棚が解けるように消え、それが現れた。
蛇が彫られた――鈍く輝く扉が。
靴底が石床を踏む。細かな色石がはめ込まれ、それは守護の方陣を描いていた。金の粒子が宙に躍る。三方は書棚で埋められ、古びた紙とインクの匂いがした。
秘密の隠れ家。そんな言葉が浮かぶ。
セーミャはそっと中に入り――もちろん危険がないかあらためたが――室の中央にぽつんと置かれた椅子と机に歩み寄る。
「……学生の時なら」
もっとわくわくしたろうか。言葉の切れ端が漂う。そして思い出す。わくわくするのはチャーリーの得意技だった。兄のビルが『秘密の部屋』探しをしたことがあるから、僕もどうこう……と彼はホグワーツを探検していたものだ。そう、彼は優等生ではあったが冒険を好んだ。ほとんどの生徒が知らない「冒険」をなぜセーミャが知っているのかというと、真夜中にこっそり帰ってきたチャーリーとばったり出くわしたからだ。セーミャは入浴の時間をずらしていた。もっといえば誰にも会わないようにしていた。どうしても――誰かに見られるのではないか、化けの皮が剥がれるのではないかと不安だったので。なので誰もが寝静まった深夜に入浴し、寝付かれずに談話室に行き、ぼんやりとソファに座っていた。そこにチャーリーが帰ってきた。制服を着込んだ彼と、髪は濡れたまま、服は寝間着のセーミャ。
――あれは気まずかった
何年生の時だったっけ? 三年生か、四年生か。いや、今は学生時代のあれこれを思い出している場合じゃない。
机をにらみつける。置かれているのは封筒だ。ただの封筒。だからこそ不自然だ。セーミャが偶然入った室に――閉ざされていただろう場所に――なぜか封筒がある。しかも、宛名が「ここに来た貴女」だ。
偶然も重なれば必然だ。誰が言ったのだったか。なかなか巧いことを言う。セーミャをはめる罠だという可能性は低いだろう。手が込みすぎている。
息を吐く。椅子に腰を下ろす。封筒に手を伸ばす。ひっくり返しても差出人の名はない。封蝋は深い緑色。そっと開け、手紙を取り出す。少し角張った、細い字だった。たぶん男性の字だ、とだけわかる。
『ここに来た貴女に』
美しい緑のインクは、言葉を連ねる。過去からの伝言を。
◆
『当たるも八卦、当たらぬも八卦というが、俺は当たらないほうに賭ける――これを言い出したのが我らが先視でなければ、だが』
手紙の主のため息が聞こえてきそうだった。セーミャは息を詰め、先を読む。過去の先を。
『結論から言おう。君が求めるものを用意しておいた。ただ、陣の組立ては君……名も知らぬ君にしてもらわないといけない。本は準備している。棚の――段目……番目……あたりに固めてある』
『君がどの時代にいるか知らない。先視が君を――陣をつくる君を視たのも当たるかわからない。未来とは変化するものだ。ただ、俺はあの先視に借りがある。大きな借りだ。返しきれないもので、俺が逃げられるのも、彼女のお陰だ。だからまあ』
たとえ俺たちがいないどこかの未来だろうが、それがよいものであると祈る。
『ノクチュア伯母さんもそのほうがうれしいだろう』
セーミャは文字の連なりを指でなぞった。遠い誰かからの
『どうかこの邸を大事にしてほしい。ここはスリザリンの闇から、ゴーントの暗い歴史から逃れようとし、真実を求めたひとの場所だったから。これを読んでいる君は俺の子孫ではなさそうだし。先視によれば燐の眼をしているそうだから……この国を離れる俺に、先のことはわからない。きっと誰かと結びつくことも、子をつくることもないだろう。俺は新しい場所へ行く。過去は置いていく――いいや、預ける。善き先視に、本来ならば敵だったろう魔法騎士に。そして君に。昔に、正しくあろうとしたゴーントが……ゴーントたちがいたことを知って欲しい。君はなにやら悪の血に悩んでいるようだが。もしかしたら俺たちは友達になれたかもしれない。たとえ望んでいないとしても、己の血筋というのは付きまとう』
『ただ、君も俺も選ぶことができる。幸いなことに。どうありたいか。どうあるべきか』
どう生きるか。
オミニス・ゴーントと最後に書かれていた。セーミャは手紙を畳もうとして重なった「もう一枚」に指が触れる。便せんは一枚だけ――のはずだった。が、それは確かに存在している。「オミニス」の便せんを机の上に置く。ほっそりと優雅な字が書かれていた。
『これを読んでいるであろう、燐の眼をした貴女』
彼方から、囁きが聞こえるようだった。優しい、柔らかな声だと感じる。便せんから、文字から滲み出るのは労りだ。
『私が貴女の影を視たのは断片でしかなく、これがどう影響するのかもわからない。時という水面にどんな波紋を描くのかも』
『きっと大局には影響がないのでしょう。ただ、ちらりちらりと視えた貴女に、少しお節介を焼きたかっただけで』
どうか忘れないでほしい。どれほど父祖の血が濁っていようが、貴女の罪ではないのだと。親に殺されそうになったのは、貴女のせいではないのだと。
苦しみながらも貴女は立ち上がり。
花を咲かせるでしょう。
鉄錆の香が満ちる。
古い古い邸の、地下――隠された一室に、仄かな紅の輝きがある。三方は書棚で埋められ、床は紙――繋ぎ合わされたそれ――に覆われている。そこに記されているのは連続した点であり、描かれた線であり、紡がれた意図であり、生み出された魔法である。
できた、と囁く。ただの伝達式。されど広範囲に、確実に届けるためのものだ。ひたすらに仕事に没頭し、いまがいつなのかもわかっていない。
痛む手を押さえる。拍子にナイフが手からこぼれおちた。両手ともに傷だらけだと今更気づく。
血は最高の魔法媒体である。歌に魔法が宿るように、踊りに魔法が降りるように、言葉に魔法が重なるように、血も魔法である。だから、強力な魔法には血が欠かせない。
頼まれたのは伝達用の魔方陣。そして彼は――逃げることをしない。選ばない。だから、脱出用の魔法は組まなかった。その代わり、潜ませたものがある。
きっとあの人がこの陣を使うのは追い込まれた時。仮にもあの人の娘だ。考えくらいは読める。逃げずに戦って、戦い抜いて死ぬだろう。それこそ己の死だって利用するだろう。
死んでほしいわけではない。本当は生きていてほしい。だけれど、それは彼の望みに反する。だから、一つだけ贈りものをした。せめて犬死にならないように……。
情がないのかもしれない、と苦く笑う。己の父の死を回避しようともしないなんて。やっぱりどこか壊れているのか。
ふ、と息をこぼしたとき、白銀の輝きが舞い降りた。
ダンブルドアが死んだ、と。
ひとつの星が墜ちたことを知らせた。