「ひとまず
魔法省陥落からおよそ二日。朝食の席でセーミャは告げた。キングズリーとルキフェルは出かけている。情報交換その他で忙しいのだろう。いるのはチャーリーだけで、彼はトーストをがっついていた。一口で下手をすれば半分ほどトーストが消える。おおまかに六枚切り相当の厚さなのだが、この分だと五枚切りにしたほうがいいのだろうか……とセーミャは悩んだ。そのあたりは使用人たちが判断してくれるだろう。
「穏和しくしていれば狙われないって?」
ぺろりとトーストを平らげ、サラダとスープにとりかかりながらチャーリーが言う。向かい合うセーミャたちの間には、新聞やらメモやら手紙やらが散らばっていた。
「……だって他人事でしょう」
これを読んだ何割が立ち上がると思う? 日刊予言者の見出しには『マグル生まれ登録』の語が躍っている。新大臣――ルーファス・スクリムジョールの正当な後継者ことパイアス・シックネスが写真の中ですっくと立ち、演説をしているようだった。
電光石火の早業と讃えるべきだろうか。魔法大臣を排除し、傀儡を立てて新たな方針を打ち出したのだ、偽りの政権は。マグル生まれ登録。学齢児童の「ホグワーツでの」教育義務化。排除と囲い込みだ。
「マグル生まれは少ない」
正確な統計は知らない。そもそも、マグル生まれの割合を調べている物好きがいるかどうか。純血を把握することには熱心でも――聖二十八族とやらを勝手に定義づけたどこかの馬鹿がいた――マグル生まれに関心を払う者はあまりいないだろう。マグル生まれ、スクイブ、いわゆる半純血、それか混血……そして純血の割合なんてかなりおおざっぱにしかわからない。古代の、近親婚がおおっぴらにまかり通っていた時代ならともかく、現代でも真なる純血などいないだろう。千年前ですら怪しいものだ……ホグワーツ創立時、マグルと魔法族の距離は近かった。近いからこそ衝突があり、迫害があった、と言える。一説にはその時代でさえサラザール・スリザリンの純血主義は異質だったと言われている。そして彼の思想を吹き込まれた帽子が謳うのは「機知に富み、狡猾で野心にあふれる」「祖先が純血」の生徒を求めるというものだ。前者はいい。後者がかなり曖昧だ。連綿と連なる血、夥しい数の祖先。それは何代まで遡ってのことか? スリザリンに混血の生徒が入ることからしても、純血どうこうの優先度は低いのだろう。
セーミャは紅茶にミルクを入れ、かき混ぜた。スリザリンだって本当はわかっていたはずだ。完璧なる純血を、あるいはマグル生まれをより分けることなど不可能だと。混ざり合った紅茶とミルクを、再び分離できないように。
「魔法族の大多数は半純血、あるいは混血。マグル生まれとスクイブ、そして「純血」は少数派」
標的になっているのはマグル生まれ。昔ならば二等市民、あるいは下層民だ。
チャーリーの眼が暗く陰った。サラダをつつく手が遅くなる。
「対岸の火事だって?」
「ヴォ……あれは大規模な殺戮をしていない。公的には姿を現していない。大臣の交代は速やかに成った」
己の執務能力に不安を抱いたスクリムジョールが、密かに指名していた「正当なる後継者」が後を継いだ。すらすらと言いながらも、セーミャの喉は、舌は焼けるように熱かった。どこまで父を貶めるのか。日刊予言者は流言を書き立てている。ダンブルドアの殺害を計画していた。実行した。リアイスも噛んでいた。いや、ハリー・ポッターも……。なぜならばダンブルドアは魔法省の転覆をもくろんでいた……。
巷には噂があふれている。ルーファス・スクリムジョールは実は殺された。闇祓いの長まで務めながら、裏では闇と通じていた。だからシックネスが反旗をひるがえした、等。ばかばかしい噂だ。魔法省の方針転換とはまったくかみ合わない戯れ言だ。だが、嘘か真がわからないものでも、百唱えれば一か二は信じる者が出てくる。自分だけは賢く、この世の真実を知っていると思っている誰かたちが。
「立ち上がる理由がない」
「腑抜けと思わないでほしいな」
チャーリーはご機嫌斜めである。ウィーズリー家が変わっているだけだ。古い古い純血でありながら、マグル擁護派。純血主義に迎合せず、迎合すれば得られるであろう、魔法省での高官の地位、あらゆる栄達を望まない。ウィーズリー家の面々に自覚は薄いようだが、彼らは優秀だ。何代か前に没落し、財は失えどその優れた能力は保持している。アーサー・ウィーズリーは首席で、人柄もよく、顔も広い。マグル好きの変人でさえなければ出世街道を進めたはずだ。父が彼に眼を付けて多少の地位向上をはかったようだが。ファッジはあの通り凡俗であるし、たしかバグノールドは「下手に地位を上げて眼を付けられても」とアーサーを閑職のままにおいた、らしい。間違いではないのだろう。抜きんでた駒は潰されるのが世の常だ。リアイスが闇の陣営と戦い、夥しい血を流し続けて来たのを見ていれば自明のことだ。
「あなたは昔から勇敢なのは知っている」
チャーリーの眼が明るくなった。深い青から、空の色に変わる。当たり前のことを言っているだけなのだけどな。
「世間の大多数があなたのように勇敢とは限らないし、それは責められるべきことじゃあない」
失うものをなにも持たない人ならともかく、誰だって自分の身がかわいい。家族が大切だ。なんの関係もない人間を助けられる者などそうはいない。多少の親切ならばできるだろう。だが、いくら方針がおかしかろうが、大臣が健在の魔法省に反旗を翻せる者がどれだけいるだろう?
「……今に火の粉が飛んでくるのに?」
「自分だけは大丈夫と思いたいものでしょう」
魔法省がいやらしいのは、逃げ道を用意していることだ。たとえば新しく就任した大臣の下、マグル生まれやスクイブが処刑なんてされたとしよう。混乱と恐怖が巻き起こり、それこそ身を守るために団結する者も出てくるだろう。次は――たとえマグル生まれでなくとも――自分の番かもしれない、と。
だが、そうではない。表向きはただの政権交代で、血も流されていない。身を低くし、穏和しくさえしていれば平穏な暮らしがあるとすれば――良心から眼を背けるだけでいいのなら、たいていの者はその逃げ道に飛びつくだろう。
「アメリカとかに逃げてくれてもいいのよ」
ぽんと言葉を投げても、チャーリーは舌打ちするだけだ。断固拒否らしい。血を裏切る者もかなり危ないというのに、まったく。
「……マグル生まれ登録や、教育義務化は」
まだ抜け道がある、と呟いた。手紙とメモに眼をやる。
「血統書の偽造とかできるだろうしね」
「あとはスラグホーン先生とか、バグノールド閣下が動いているし」
教育義務化も切り抜けられるでしょう、とセーミャは付け加えた。スラグホーン「先生」とは呼んでいるが、彼の教え子だったことはない。面識があるだけだ。なんとなく先生と呼んでしまうし、それがふさわしい人に思えた。彼の人脈は相当広い。また、不遇な教え子を拾い上げ、あれこれと支援しているようだ。聖人のようなとまではいわない。多少俗っぽい人格者、が正確だろうか。
バグノールド閣下――ミリセント・バグノールドは昔から閣下である。あれほど閣下という呼び方がふさわしい人もいないだろう。独り身でありながら、養子を多数引き取っている。頭の固い親に結婚どうこうを言われた年頃の娘は、たいてい「バグノールド閣下だって結婚してないもの」と返す。そして親は黙る。面倒な結婚から逃れたい女たちの希望の星が彼女である。年齢はもはや関係なく「憧れの君」である。
「本命は賄賂でしょうね」
「うちは駄目だね、それだと」
「お金より大事なものを持っているでしょう」
そもそもあなたは純血でしょう、とはわざわざ言わない。チャーリーは次男だからまだお下がりどうこうで苦労はしていないが、ウィーズリー家は子沢山だった。しかもそろいもそろって赤毛。遺伝子の神秘である。
「あとね」
軋轢を生むこと。そのうち……この状況が何年か続けば必ず起こるでしょうね。
「現代の魔女狩り」
それだけで、チャーリーは察したようだった。
「奴隷による奴隷狩り?」
イエス、と素っ気なく頷く。彼の大悪、ゲラート・グリンデルバルドもやったと言われている。いいや、ありとあらゆる弾圧には付き物だ。
捏造、密告。隣人が敵になり、子が親を突き出す。同胞が同胞を売る。マグル生まれがマグル生まれを狩るようになるだろう。あいつは隠れマグル生まれだなんて言って、気に入らない誰かを陥れることになるだろう。
弾圧者が恐れるのは団結。互いにつぶし合わせるのは常道だ。
嘆かわしいことに、人間というものはさほど進歩していないのだ。ああ、建前や綺麗事がどれほど大事か身にしみるというものだ。
セーミャは唇を引き結び、日刊予言者を灰へと変えた。一読すれば十分で、読み返したいものではない。
チャーリーやキングズリー、ルキフェルがこの場にいたなら何か言ったろう。だが、彼らは不在だ。チャーリーはマグル――マグル生まれたちの脱出に手を貸しているのだろう。彼はドラゴン使いで、各地に伝手がある。ついでにクィディッチ関係にも伝手があり……彼は望めばプロのクィディッチ選手にもなれたのだ――あれこれ動いている。キングズリー、ルキフェルは省の様子を探り、また「あちらの大臣」関連の事項で走り回っているのだろう。「あちらの大臣」ことマグルの首相、または「ダウニング閣下」と呼ばれる者の警護はミリセント・バグノールドが引き受けているが。父が手を回していたのだ。使えるものならなんでも使えとばかりに、隠居した元大臣まで引きずり出し、役割を割り振っていた。父らしいことだ。起こってはほしくないが可能性として魔法省が陥落することも織り込んでいた……。
――女王陛下のことも案じられるが
マグルの「陛下」。彼女――もとい王室関連はリアイスの領分。今この瞬間にも守りを固めているであろう。ルキフェルも何事かあれば、あるいは警護に穴が空きそうであれば呼ばれるに違いない。
今のところ闇の陣営は魔法省を陥落させ、流言をまきちらすだけで満足しているようで、マグルの陛下と閣下に手を伸ばすまでには至っていない。ヴォルデモートが英国の「完全なる」支配、つまり表も裏も掌握したいのならば、陛下と閣下の攻略は必須だろう。現状、目指しているのは裏たる魔法界の支配、らしい。目標設定としてはギリギリで妥当だろう。なにせマグルのほうは……。
「英国とは括っているが、」
その実、連合国家だからな。積み重ねた軋轢の歴史がある。容易には抑えられまい。少し皮肉気な声に、セーミャは瞬いた。がらんとした室――卓の向かいに、男がいる。肘を突き、指を組んでこちらを見る。双眸は黄褐色。獅子の眼――。
呼吸を遅くする。これはセーミャの頭がつくりだしたものだ。どれほど似ていようが、もはや実在しない影にすぎない。セーミャの心の軋みが作り出しただけ。だというのに、なぜセーミャは答えてしまうのか。
「あれとて、すべてを掌握することはできないでしょう」
囁くように返す。今にも幻が――父が去ってしまうのではないかとおそれるように。
「そしてあれには展望がない」
くつくつと父が笑う。彼はヴォルデモートをあざ笑っている。もしかして、死の間際もこうやってヴォルデモートを愚弄したのだろうか。やりかねない……もはや訊けないことの一つだ。
「だだをこねる子どもだ。ねだりやの餓鬼。永遠に飢えは満たされるまい。足るを知らぬ」
お前とは違って。
「もう少し我が儘でもよかったんだがな」
今さらそれを言うのか、とセーミャは父を睨んだ。それはセーミャが言ってほしかった言葉なのだろう。なんて幼稚な。父は十分なものを与えてくれた。別に父にはセーミャは必要なかった。必要としていたのはセーミャのほうだった。庇護者が必要だった。傷だらけの穴だらけ、焼け焦げた子どもは、親らしい親を持っていなかった「誰か」は、その穴をふさいでくれる人がほしかったのだ。
「なにかをねだるほど、飢えませんでしたから」
それだけを返す。ただの影に向かって。セーミャは正気の箍が外れているらしい。それがこの影だ。食べ、眠り、身体は休んでいても、心にはひびが入ったままだ。不幸にして、あるいは幸運にして壊れるまで至っていない。セーミャはとある闇祓い夫妻のように何時間も拷問を受けたわけではない。極めて正常である――この状況下で、悲しみにも暮れず、正常であることこそが異常なのだろう。正気と狂気は紙一重だ。
「欲しいものがあれば手を伸ばせ、と教えたはずだがな」
父は嘆息し、眼を伏せた。
「お前と違って我が儘勝手などこかの餓鬼は、このまま寝ているだけで勝てるだろう」
「ずっと潜んでいるとも思えませんが」
ヴォルデモートは巧くやった。魔法省を陥落させたのだから勝ったも同然。同然ではあるが、まだ確定はしていない。ウィスタ・リアイスを手に入れ、どこかに押し込めている――としても、足りない。ヴォルデモートにとっての不確定要素のひとつ。心のどこかでおそれているもの。ハリー・ポッター。彼をしとめない限り、ヴォルデモートは安眠できまい。赤子の時に殺し損ね、その後何度もしくじっている。ヴォルデモートにとって「ただの平凡な子ども」が脅威なのだ。
ハリー・ポッターが極めて才能ある魔法使いだったのならば、ヴォルデモートは安心できただろう。才能ある者が、彼の手を逃れるのはありえることだから。十分に理屈が付けられる。だが、ヴォルデモートより明らかに劣った誰かが何度も何度もその手を逃れる。いくら助けがあろうとも、ありえていいことではない。ありえないことだ。もはやそれは――運としかいいようがない。あるいは運命としか。運命、予言。それはヴォルデモートにも覆しようがない。だから、彼はハリー・ポッターを恐れる。本人はそれこそ死んでも認めないだろうが。
「必ず、大勢の前であれはハリー・ポッターを始末しようとする」
それか屈服させようとする。そうでなければならないから。ヴォルデモートの「偉業」を大衆の眼に焼き付けようとするだろう。
「……そして闇の帝王として君臨するだろう」
いずれはな。父の言に頷いた。
「それは今じゃない。あちらも動きようがないのでしょう」
なにせハリー・ポッターは雲隠れしている。だから、少しでもハリー・ポッターの信用を落とすために、逃亡説やダンブルドア殺害説を流している。誰も彼に味方しないように。
ポッターはダンブルドアから仕事を託されたのだろう。父が囁く。使命と言わないのが父らしい。成人したとはいえ、ただの若者に「使命」なんてものを押しつけることを父はよしとしないだろう。せいぜい宣伝に使うくらいで。使いたかった、が正確なのだけど。少なくともヴォルデモート打倒は魔法省が主導すべきだと思っていた。なぜならばそれが義務であり――その重荷は、闇祓いでもない、なんら肩書きをもっていない無辜の民に負わせるべきものではないからだ。きっと予言のこともくだらないと思っていただろう、父は。予言を利用はしても頭からは信じないはずだ。そういうひとだ。
「無駄死にを減らし、温存するくらいですね」
できることは。実にちっぽけで地味ではあるが重要だ。どこかで戦いが起こった時、人は多いほうがいい。戦いにも色々ある。生きていればどこかで勝ち目は出てくるだろう。たとえ敗北したとしても、海の外に逃れ、雌伏し、いつかヴォルデモートを討てるだろう。むざむざ死ぬわけにはいかない。
「あれは不死でも不滅でもない」
形があり、器がある。であれば死ぬ。淡々と述べられ、耳を傾ける。ヴォルデモートがなんらかの手段を講じ、いびつな存在になったのは明らかだ。はねかえった死の呪文を受けても本当の意味では死ななかった。肉体を失えど、人格を保持した「形のないなにか」になった。防護の魔法具がかろうじて死の呪文をそらした、防いだ、というものではない。ヴォルデモートは直接、確実に標的を始末しようとした。他人に任せようとはしなかった。信頼していない? それもある。本質は、直接手にかけなければ安心できなかったのだろう。そしてその不安がヴォルデモートを一度破滅させた。
「けれど、不死に近い」
依代があり、致命的ななにかはそれが引き受けるのか――呪いのかわし方のひとつだ。己の血で人形に名を書くだとか。見立て、とも言う。人形を本人に見立てる。呪いは人形のほうへ飛んでいく。あくまでも東洋の理屈であり、どこまで死の呪文に有効かは不明だが。似たようなことはしたのかもしれない。だとすれば、仕事を託されたらしいハリー・ポッターが密かに動いているのも道理だ。なんらかの不死の鍵、不死の手段を「知っていることを知られてはいけない」。ヴォルデモートの喉元に杖を突きつけるまでは漏れてはならない……。
「ダンブルドアが見込んだのなら、相応の理由があるのでしょう」
つい、声に苦いものが滲む。ちらと見れば、父も顔をしかめていた。
「あの秘密主義め」
セーミャははいともいいえとも言わなかった。そのとき、扉が叩かれ、父は去っていった。呼吸を整え「入って」と告げる。銀の盆を手にやってきたのは使用人の一人。セーミャは盆から手紙をとった。
差出人はミリセント・バグノールドだった。