日本、三月十日。午前0時。
日付変更線の向こう側であるアメリカ東部時間、3月9日午前十時。
ヨーロッパでは夕方になるところ。
世界各地で時刻は違う。
だが、千人の視界に浮かぶ残り時間だけは、誰一人違わなかった。
《本番環境開始まで 00:00:10》
◇
「レオン、不安なのは無くなった?」
母親がリビングから声を掛ける。
「今日の午前中は一緒にいたい。午後は学校へ行くから」
レオンは妹に抱きついてそう告げた。
学校は休ませてもらった。地震の夢を見たと誤魔化して、家族一緒にいさせてもらった。
本当の理由は話せない。
それでも、一年前から「この日はどうしても休みたい」と何度もお願いし続け、母親も最後には折れてくれた。
「地震が起きる夢だっけ。そんなに鮮明だったの?」
「……うん。すごく怖かった」
そう言いつつも、時間を気にする。
ゲームが終わってから一年。
本番環境が始まることだけは告げられていた。
だが、内容までは知らされていない。
予想はついた。当たって欲しくはないが、問題はどういう方法で関わってくるかだ。
《00:00:05》
レオンは息を呑む。
四。
三。
二。
一。
零。
何があっても守れるよう、ぎゅっと妹を抱きしめた。
◇
日本。
0846は机の前で通知を見つめていた。
描きかけの同人誌原稿。
投稿用のネーム。
それらを脇へ寄せ、静かにステータス画面を見守る。
「……来た。」
◇
フランス。
パン職人は店の奥で腕を組んだ。
店は営業中。
客がパンを選んでいる。
何も変わらない日常。
そのはずだった。
◇
《第二回報酬として、皆様の持ち物の返還を行います》
通知が表示される。
レオンはアイテムボックスを開いた。
「……うわ」
大量のアイテムが追加されていた。
武器。
防具。
道具。
素材。
食料。
薬品。
家具。
衣類。
十年間で集めた品々が、そのまま戻ってきている。
ゲーム終了時にあの空間に置いてきた所有物だった。
続いて、ゲーム内通貨も返還された。
さらに通知が続く。
《所有資格に応じ、マイエリアを返還しました》
マイエリアが2倍に増えていた。
あのゲームでは階級を上げるごとにエリアが取得できた。
ゲストにはマイルーム。
職人にはマイハウス。
クリエイターにはマイファーム。
精霊にはマイキャッスル。
そして、神にはマイシティ。
ゲームで積み重ねた成果が、返還されていく。
さらに、
《ショップを開放しました》
《転移チケットをアクティベートしました》
《本番環境開始記念の正装を配布しました》
《本番環境開始記念の祝賀料理を配布しました》
《ジョブ付与アイテムを配布しました》
《スキル付与アイテムを配布しました》
そして最後に、
《第三回報酬は一年後に配布予定です》
《守秘義務は継続されますが、緩和されます。引き続き、実験の妨害はお控えください》
通知はそこで終わった。
「これだけ……?」
レオンは思わず呟く。
もっと何か。
世界がひっくり返るようなことが起きると思っていた。
だが、部屋は静かなままだ。
テレビも。
携帯も。
街も。
何も変わっていない。
「ねぇ、レオン。何も起こらなかったでしょう?」
「うん」
ニュースで惑星が突如現れると速報が流れたのは、いざ学校へ行く時だった。
◇
「ゲームアイテムが全部戻ってる……」
0846はアイテムボックスをスクロールする。
懐かしい。
本当に懐かしい。
ゲームの中でしか使えないと思っていた道具。
十年間かけて作った作品。
資料。
服。
素材。
思い出まで戻ってきたような気分だった。
だが、手は止まる。
「……描けないんだよなぁ。」
ネタはいくらでもある。
十年間で経験した世界。
都市。
文化。
料理。
建築。
全部漫画にしたい。
それでも守秘義務がある。
一年間。
まだ語れない。
「早く描きたいな。」
そう呟いて、アイテム一覧を閉じた。
翌朝のニュースに腰を抜かすことになる。
◇
「本番環境って何だったんだ?」
パン屋の主人は首を傾げた。
通知は終わった。
店も普通に営業している。
客も何も知らない。
外で通行人が浮かぶ惑星を発見して騒ぎが起きるまで、後10分。
◇
その頃。
ファンタジーアース。
日はとっくに沈んでいた。
町の門は閉じられ。
店は明かりを落とし。
旅人は野営の支度を終えている。
夜は危険だ。
夜は何も見えない。
それが、この世界の常識だった。
だから誰も。
夜空を見る習慣などなかった。
「……?」
最初に気付いたのは、夜泣きした幼子だった。
窓の隙間が、薄く明るい。
火事ではない。
朝でもない。
「おかあさん」
母親が目を覚ます。
「どうしたの?」
「そと」
板戸を少し開く。
そして。
息を呑んだ。
「……え?」
空が。
光っていた。
無数の、小さな光。
黒一色だった空に、数え切れないほど散らばっている。
「あなた!」
夫も飛び起きる。
二人は外へ飛び出した。
近所の家々からも人が出てくる。
「空が!」
「何だあれ!」
「神罰だ!」
「違う!」
誰も知らない。
誰も見たことがない。
だから名前もない。
その時だった。
「見ろ!」
誰かが震える声で叫ぶ。
星々の向こう。
ひときわ大きな、青白い天体が静かに浮かんでいた。
空に浮かぶそれは一際大きく、遠い。
物体が空にある。ファンタジーアースには空を飛ぶ岩山などもあるが、高さが段違いだった。
青を包むように、渦を巻く白。
見たこともない模様。
空に浮かぶ巨大な世界。
誰かが調べようと高く飛ぶが、とても届かない。
「……なんだ」
誰かが呟く。
「……あれは、なんだ」
答えられる者は、一人もいなかった。
その夜。
世界中で、人々は眠ることができなかった。
夜空には初めて星が輝き。
そして、青い惑星が。
静かに、ファンタジーアースを見下ろしていた。
アッシュは寝落ちしてぐっすりだった。
マシュマロ
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