日本時間、三月十日。午前零時十五分。
世界中の通信回線が悲鳴を上げていた。
電話。
動画。
生配信。
ニュースサイト。
SNS。
誰もが空を撮り、誰もが誰かに確認を求めていた。
『そっちからも見える?』
『見える』
『何これ』
『月じゃないよね?』
『月は反対側にある』
『じゃあ、何?』
答えられる者はいなかった。
空に浮かんでいるのは、青い天体だった。
白い雲に覆われ、海と陸らしきものが見える。
肉眼ではっきり見えるほど大きい。
あまりにも近く見えるのに、潮が突然押し寄せることも、大地が裂けることもなかった。
人々は一度安心し、直後にもっと怖くなった。
何も起きないことが、逆に不自然だった。
天体は突然現れない。
これほど巨大なものが近くにあって、何の影響もないはずがない。
なのに、ある。
しかも、何も起こらない。
『政府は現在、観測された天体について情報を収集中です。現時点で、衝突の危険性は確認されていません』
「確認されていないだけだろ」
テレビを見ていた男が呟く。
隣で、妻が子供を抱きしめていた。
「逃げた方がいいの?」
「どこに?」
空に世界が浮かんでいるのに、地上のどこへ逃げるというのか。
◇
アメリカ東部時間、三月九日午前十時十五分。
学校の授業は、事実上停止していた。
生徒たちは窓に張り付き、教師たちは携帯電話を片手に右往左往している。
「先生、あれ地球じゃない?」
「私たちが地球にいるのに、地球が空にあるわけないでしょう」
「でも地球みたいじゃん」
「青い星なら全部地球に見えるだけです」
「青い星なんて他にあるの?」
「知らないわよ!」
教師も混乱していた。
レオナルドは騒ぎの中で、黙って窓の外を見ていた。
見間違えるはずがなかった。
大陸の輪郭。
海岸線。
雲の隙間から見える山脈。
十年間、何度も眺めた世界だった。
「……ファンタジーアース」
声は騒ぎに紛れた。
携帯端末を取り出す。
画面には、先ほど受け取った第二回報酬の通知が残っている。
追加説明はない。
連絡先もない。
あるのは、簡素な文章だけだった。
《本番環境への移行が完了しました》
「星ごとなんて」
誰にも聞こえないように呟く。
レオナルドは転移門を想像していた。
異世界と地球を繋ぐ扉。
あるいは一部地域の交換。
せいぜい、異世界へ移動できる機能だと思っていた。
運営は、それよりも遥かに雑で、遥かに大規模な方法を選んだ。
二つの世界を、丸ごと隣に置いた。
「何考えてんだろう」
参加者は実験の邪魔をするなと言われている。
余計なことをすれば対処する。
報酬にも影響する。
ただ、それだけだ。
喋れないわけではない。
今ここで、
「あれは僕たちが作った世界だ」
と言うこともできる。
だが、言った後に何が起きるか分からない。
運営が何を実験の妨害と判断するかも分からない。
まして学校の教室で口にすれば、数分後には世界中に拡散される。
レオナルドは携帯端末をしまった。
「レオナルド!」
教師に名前を呼ばれる。
「保護者への連絡がつくまで教室にいてください!」
「妹を迎えに行きます」
「今は勝手に――」
「行きます」
鞄を掴む。
「待ちなさい!」
待たなかった。
自分がファンタジーアースの製作者の一人だと知られるより先に、妹を安全な場所へ連れていかなければならない。
安全な場所があるかどうかは分からなかったが。
◇
日本。
0846は窓を開けたまま、立ち尽くしていた。
「うわぁ……」
間抜けな声しか出なかった。
青い世界が浮かんでいる。
知っている。
地形も。
気候も。
国も。
そこにいる種族も。
誰がどの辺りに住んでいるかまでは分からないが、それでも自分が作ったものが、いくつもあの中にある。
正確には、千人で作った。
皆で適当に足して。
面白そうだからと採用して。
矛盾が出れば後付けで誤魔化して。
設定だけ作って忘れたものも山ほどある。
それが今、空にある。
「嘘でしょ……」
携帯電話を見る。
午前零時二十三分。
コンビニのシフトは朝からだった。
「行くの?」
誰に聞かれたわけでもないのに、自分へ問いかける。
世界が増えたからといって、コンビニが休みになるとは限らない。
むしろこういう時ほど客が殺到する。
水。
食料。
電池。
カップ麺。
トイレットペーパー。
「絶対忙しいじゃん……」
休みたい。
だが、連絡なしで休めば普通に怒られる。
世界が終わるかもしれない日でも、バイトはバイトだった。
テレビをつける。
『専門家によりますと、この天体が自然に出現した可能性は極めて低く――』
「そりゃそうだよ」
チャンネルを変える。
『宇宙人による巨大構造物ではないかとの説も――』
「世界だよ」
また変える。
『一部のSNSでは異世界との接触を予言していた人物が――』
「それは多分違う」
携帯電話が震えた。
びくりと肩が跳ねる。
画面を見る。
知らない番号だった。
「……誰」
出版社かもしれない。
だが、こんな時間に連絡してくるだろうか。
迷った末に出る。
「はい」
『夜分遅くに申し訳ありません。先日お会いした――』
出版社の人間だった。
胡蝶がやらかした一件で、顔を合わせた担当者である。
0846は窓の外を見た。
「空のことですか」
挨拶を飛ばして聞いた。
電話の向こうで、短い沈黙があった。
『やはり、何かご存じですか』
「……何で私に聞くんです?」
『以前の件がありますので』
「胡蝶の?」
『はい』
完全に疑われている。
もっと正確に言えば、二次元嫁プロジェクトへ応募した人間の中に、常識では説明できない何かを知っている者がいると思われているのだろう。
0846もこっそり応募している。
推しが参加していたので、欲望を抑えられなかった。
0846のお腹にも、今、命が宿っている。リアルで相手が捕まえられるとは思えなかったので、まあいいだろう。
だが今となっては、応募情報がどこまで調べられているのか考えるだけで胃が痛い。
『今すぐ何かお話しいただく必要はありません。ただ、明日……いえ、本日、お時間をいただけませんか』
「バイトがあります」
『コンビニですか』
「何で知ってるんですか」
『応募書類に記載がありました』
「そこまで見てるんだ……」
『担当者が迎えに伺うこともできます』
「怖い怖い」
『脅しているわけではありません』
「その言い方が一番怖いです」
0846は頭を抱えた。
守秘義務は口約束だ。
契約書もある。
実験の妨害をした場合には対処すると言われている。
報酬にも影響する。
だから、何も話せないわけではない。
ただし、どこまでなら話していいのかが分からない。
運営は説明しない。
いつもそうだ。
「私から言えることは、今はほとんどありません」
『ほとんど、ということは、何かはご存じなんですね』
「揚げ足取らないでください」
『申し訳ありません』
「……あれが今すぐ地球にぶつかるとは思いません」
『根拠は』
「言えません」
『危険はないと?』
「それも分かりません」
『そこに人はいますか』
0846は黙った。
いる。
人間も。
人間ではないものも。
たくさんいる。
自分たちが作った設定に従って、何千年も生きてきた。
沈黙そのものが返事になっていた。
『……いるんですね』
「明日、話せる範囲で話します」
『承知しました』
「あと、家まで迎えに来るのはやめてください」
『では出版社で』
「コンビニのシフトが終わってからで」
『この状況でも出勤されるんですか』
「連絡来てないので」
電話の向こうで、担当者が言葉に詰まった。
「社会人ってそういうものでしょ」
『……こちらから店舗へ事情を説明しましょうか』
「余計に怖いからやめてください」
電話を切る。
直後、店長からメッセージが届いた。
『朝のシフト、営業できるか分からないから自宅待機で』
「よし!」
0846は拳を握った。
世界が増えたことより、出勤しなくてよくなったことに一瞬喜んでしまった。
「いや、よくない」
空を見上げ直す。
ファンタジーアース。
向こうからも、こちらが見えているのだろうか。
「戦争とか起きないよね……」
返事はない。
◇
ファンタジーアース。
夜空には、名前のない光が無数に浮かんでいた。
最初に気づいたのは、夜番の兵士だった。
「おい」
「何だ」
「空が、変じゃないか」
「雲でも出たか」
「違う。光ってる」
兵士が顔を上げる。
口が開いたまま、閉じなくなった。
暗い空を埋め尽くす、小さな光。
地上の火とは違う。
飛行する魔物でもない。
動いているようにも見え、止まっているようにも見える。
そして、その中に。
巨大な青い何かが浮かんでいた。
「警鐘を鳴らせ!」
「何の警鐘だ!」
「知らん! とにかく鳴らせ!」
鐘が鳴った。
住民たちが家から飛び出す。
「魔物か!?」
「空を見ろ!」
「何だ、あれ」
「分からない!」
「光の粒がある!」
「あんなもの、昨日まで無かったぞ!」
人々は、それを星とは呼ばなかった。
星という言葉がない。
月とも。
惑星とも。
空に浮かぶ光を分類する概念そのものが存在しない。
彼らにとって夜空とは、暗いものだった。
昼には太陽があり。
夜には何もない。
それが世界の形だった。
だから、誰にも説明できなかった。
「神の御業か?」
「どの神だ!」
「知らん!」
「神殿に聞け!」
「神官も外で腰を抜かしてる!」
神官も知らない。
学者も知らない。
魔術師も知らない。
王族も。
古老も。
長命種も。
何百年を生きた者でさえ、夜空に光が浮かぶなど聞いたことがなかった。
「青いものの中に、陸がある」
「陸?」
「茶色い場所が見える!」
「なら、あれも世界なのか?」
「世界が空に浮かぶものか!」
「だが見えている!」
常識で否定しても、消えてはくれなかった。
空の向こうに、もう一つの世界がある。
誰もその意味を理解できない。
◇
王都。
緊急会議へ呼び出された大臣たちは、会議室へ入る前に全員空を見上げていた。
「報告を」
「ありません」
「ないとは何だ」
「何も分かりません」
「魔法ではないのか」
「確認中です」
「結界は」
「反応していません」
「幻術は」
「国全体どころか、他国からも同じものが見えると連絡が来ています」
「では現実だと?」
「少なくとも、我々だけが見せられている幻ではありません」
王が窓の外を見る。
巨大な青い世界。
「接近しているのか」
「不明です」
「落ちてくる可能性は」
「不明です」
「太陽と関係は」
「不明です」
「分かることはないのか!」
怒鳴られた学者が震えながら答えた。
「昨日までは、存在しなかったということだけは」
部屋が静まった。
存在しなかったものが、一夜で空に現れた。
それを説明できるのは、神くらいだった。
だが、神が本当にいるかも……神の創造物と名乗るものが3冊、この国に出現していた。
「神具とやらへ問い合わせろ」
「神アッシュ! これもかの者の仕業と? すぐに確認を急ぎます!」
◇
「悠人! 起きなさい!」
「んー……」
「起きて!」
肩を揺さぶられる。
アッシュは布団を頭まで被った。
「今日休み……」
「外が大変なの!」
「魔物?」
「違うわ!」
「火事?」
「違う!」
「じゃあ寝る……」
「空に、もう一つ世界があるの!」
目が開いた。
「……何て?」
「いいから来なさい!」
母に腕を掴まれ、窓辺まで引きずられる。
寝ぼけ眼で外を見る。
夜明け前の空。
無数の星。
そして、その向こうに浮かぶ青い惑星。
見慣れた海。
大陸。
雲。
「地球」
アッシュは呟いた。
「ちきゅう?」
母が聞き返す。
アッシュは口を閉じた。
言葉が存在しない。
この世界の人間は、地球を知らない。
星も知らない。
月も知らない。
今、空に浮かんでいる光景を説明するための言葉を持っていない。
「悠人、あれが何か知ってるの?」
「……知らない」
「今、ちきゅうって」
「寝言」
「起きてるでしょう」
「まだ半分寝てる」
母は疑わしそうにアッシュを見た。
アッシュはそれどころではなかった。
報酬画面を開く。
第二回報酬の通知。
本番環境への移行。
そこまでは昨日見た。
画面の端に、小さな追加項目が増えている。
《世界間距離の調整が完了しました》
《相互観測が可能になりました》
「相互観測」
アッシュは地球を見上げた。
つまり地球側からも、ファンタジーアースが見えている。
サウザンドたちも見ている。
一年前に別れた、九百九十九人が。
「あ」
急に現実味が増した。
レオン。
0846。
胡蝶。
テオ。
白白。
エーリャ。
皆があそこにいる。
自分が五歳で第一回報酬を受け取った時、彼らは既に地球へ戻っていた。
こちらで一年が過ぎた。
そして今、第二回報酬が配られた。
「本当に、隣に置いたのか」
運営は世界間交流を始めるつもりだ。
ただの観察ではない。
作った世界と。
作った人間たちの世界を。
実際に接触させる。
「悠人?」
「まずい」
「何が?」
「何でもない」
「さっきからそればかりじゃない!」
母が怒る。
アッシュは頭を抱えた。
地球には政府がある。
軍もある。
科学者もいる。
ファンタジーアースには魔法がある。
魔物がいる。
神具がある。
そして、地球側にはサウザンドが千人いる。
正確には、自分を除いて九百九十九人。
こちらの世界について、誰よりも詳しい人間たちが。
「絶対、こっちに来るじゃん」
「誰が?」
「……神様たち」
「神様が?」
「多分」
嘘ではない。
この世界を作った者たちは、こちらから見れば神そのものだ。
アッシュもその一人である。
母は空を見上げ、不安そうにアッシュを抱きしめた。
「怖くないの?」
「怖いよ」
アッシュは素直に答えた。
地球が怖いのではない。
ファンタジーアースが地球に発見されたことが怖い。
地球の人間がこちらをどう扱うのか。
ファンタジーアースの人々が地球をどう見るのか。
そしてサウザンドが、自分たちの作った世界を前にして何をするのか。
何一つ分からない。
画面に、さらに一文が表示された。
《転移チケットがアクティベートされました》
「おいおい、胡蝶とか0846様とか、絶対にすぐに遊びに来るじゃん……」
朝の町に、六歳児の絶望した声が響いた。
マシュマロ
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