【完結】 おれ会社辞めて忍者になるわ   作:hige2902

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第三話 超高度精神制御術者

「事を急かしすぎたかもしれない」

 

 支配下にある忍びの報告書を聞いて道元は誰に言うでもなく呟いた。

 

 薄暗い室内で、デスクに指を打つ。まさか媚薬の効果を克服するとは。にわかには考えにくいが、現実はそう答えた。効果は短時間だが、呪いと表現しても差し支えない薬効を一分もたたない間で克服した。薬師が知れば道を閉ざすだろう。

 しかも、カメラも回収できず。

 

 薬物に対する優れた抵抗能力? ぽつり、先天性の精神制御能力者か、とこぼす。

 道元は洗脳や幻影術は得意とするが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それゆえの媚薬だった。

 

 だがそれにしてもと跪く忍びを一瞥する。

 少なくとも使えるレベルの忍びだ。目標は媚薬の支配下にあったという慢心があったとしても顎に一撃を受けるとはどういうことだ。自分だったら、どうだろうか。撮影を試みているのだから、小さなハンディカメラのディスプレイ越しだ。ひょっとしたら、偶然居合わせた善忍があまりにも醜悪で、自分に欲情している可能性もある。その場合は気配を殺せば済むが。いや、女の心理を探るのは限界があると思考を中断する。失敗は失敗だ

 

 元より、道元の前で首を垂れる忍びは忍術による洗脳系精神制御術によって配下に置いたに過ぎない。めぼしい生徒の教科書に転写した、特定の人間にのみ作用する()()()()()()によって、短くはない時間をかけて命令を聞かせることができた。

 道元にとってはこれが限界だ。教科書という日常的に目にする物体に()()()()()し、対象を無意識的に術の影響下にさらすことでようやく普遍的な命令を下せる。

 これは道元の術のレベルが低いのではない。むしろ扱いの難しい精神制御術をかなり高度に行使している方だ。間接的に暗示をかけるだけでも驚愕に値する。

 

 道元は短く熟考した。

 物理的な排除に乗り出すべきか、いやそれは意味がない。ここまでお膳立てした意味が。もう少し様子を見る。

 零れ落ちてきた遇を拾うために、大狼と鳳凰の縁談を実行するために短期間で莫大な金を動かしてしまった。一部とはいえ、両財閥の本家の連中は実にがめつかった。

 今更引き返して無為とするのは、今後の計画に支障が出る。何でもいい、何でもいいのだが。

 

 と、道元は目標である彼の写真を頬杖をついて眺めた。

 

 必要だ、引き金が。何でもいい。二つの忍びの学び舎を同時に衰弱させる計画を実行できるのは、彼という遇が存在する今しかないのだから。

 

 あとは、大狼と鳳凰の縁談の話の経過を見てから考える。

 

 

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「別にいいのに」 と彼。まだアザが残る顔でノンアルコールのビールを鈴音のグラスに注いだ。怪我の理由を尋ねられたが、青春、とだけ返した。

「わたしが祝いたいの」 と鈴音。彼にお酌する。

 

「死に近づいただけだよ」

「そういう後ろ向きな考えはやめたら? 一つ経験を積んだと表現しましょう」

 

「鈴音ってさ、箪笥の角に小指をぶつけた時に、眠気が覚めて助かったとか考えるの?」

「少なくとも次からは気を付けるようにはなる。それに誕生日プレゼントも貰えるし、美味しいものも食べられる。ケーキのろうそく、何本だっけ?」

 

「今度から一口サイズのカップケーキにしない?」

「節分よろしく、歳の数だけ用意する?」

 

「その執念はどこからくる。ま、いいよ。食べよう。いただきます」

「いただきます」

 

 鈴音がなんとか彼の誕生日に、午前中だけ時間を取ったということで早めの昼食で乾杯した。だからノンアルの発泡酒ではないのだ。彼の好物であるビーフシチューには、生クリームでハートマークが描かれている。

 

 この日、鈴音は一つの決心をしていた。自らが忍びであることを告白しようと。もう何年も前から悩んでいた。たぶん、彼は冗談だと思うだろう。だから自分の生い立ちを説明しなければならない。仲間を見捨てて妖魔から逃げ出したことや、悪忍と呼ばれる後ろめたいことをする組織に属していることまで。

 彼が鈴音の過去に不干渉なのはひょっとして自白させたかったのかもしれない。だから、同棲以上に親密になれないのかも。

 

 一通り温かい物を食べて、彼は改めてといった風に口を開いた。

 

「あのさ、この間、言いたくないって話したの覚えてる」

「え、ああ。うん」 だが、どう切り出していいかわからない。忍びであるなどと。過去に、彼は記憶を操作されているだけで、一度会っているのだと。それと最後に、あの時助けてくれてありがとう、あなたは記憶していないでしょうけど。

 

「おれ忍者なんだ」

 

 鈴音の意識は一瞬にして遠点に位置した。音がしてから、フォークを落としてしまった事に気が付く。

 

「特に意味もなく誕生日に言おうって決めてたからあの時言わなかったんだけど、まそれだけ」

 

 少し恥ずかしそうに、まるで少年が将来の夢は宇宙飛行士だと告白するような口調はしかし、恐ろしいほどの鋭利さを持ってして、緻密に構成されていた鈴音の告白にも似た言い訳をズタズタに引き裂いた。

 フォーク落ちたよ、ノンアルのくせに美味しいねこれ。という彼の言葉は理解の彼岸にあった。

 

 鈴音の記憶が正しければ、善忍か悪忍かを尋ねたはずだ。彼は当然のように答えた。おれは善人だよ。

 彼女はそれだけ聞くと席を立って玄関を出た。彼は追いかけたが、姿は見えなかった。

 彼の耳には、いつまでも最後に彼女が呟いた言葉が木霊した。

 

 ――ごめんなさい――

 

 彼は途方に暮れて、とりあえず昼食を平らげてから四季にメールを打ってみる事にした。

 

『日ごろから雑誌やなんかで女心を把握してるであろう四季くんに聞きたいんだけど。同棲相手にじぶんが忍者であるという事を伝えたら家を出て行かれた。どうしたらいいと思う?』

 

 返信を待つ間に洗い物を済ますか、と袖をまくるとすぐに着信した。

 

『おじさんって同棲してたの?』

『うん』

 

 普段はやたらデコった本文だが、異様に淡白な疑問文に返信すると今度は十分ほどかかって。 『一応聞いておくけど、相手は一般の人なんだよね?』

『高校の教師をやってる』

 

 四季は携帯に映る文面に眩暈を覚えた。 『もうすぐお昼休みが終わって授業始まるから、また後で』 と返し、信じられないと机に突っ伏す。ややあってお手洗いに向かった。用はなかったが、とりあえず一人になりたかった。洋式に腰掛ける。

 なんとなしにスマホをいじる。お手製の情報収集アプリを立ち上げた。まさか同棲相手がいたとは、と無意識的に彼について調べる。

 がっかりしているのだろうか。わからない。幾度目かの『No| Data』という文字を眺めた。それなりの電子情報収集能力はあると思っていたが、彼の出自はさっぱりだった。半蔵学院どころか、どこの学び舎にも所属していない。少なくとも表の名簿には載っていない。

 

 隠匿された存在。

 

 四季はあの時見た彼の、色のない瞳を脳裏に浮かべて身震いした。まるでこの世の全てに諦観し、上司だろうと無意識の内に命を摘んでしまいそうな。

 恐怖は興奮と密な関係にある。どちらを覚えるにせよ鼓動が高鳴るのがその証拠だ。ぞっとして腕に鳥肌が立つ。そしていけないと理解していても、一枚の写真をスクリーンに呼び出してしまう。じくり、と下腹部が熱を持つ。彼の肩に頭を預け、だらしなく達した自分がそこにあった。いまと同じ制服を着ている。

 

 そして禁じられた果実に触れるように、画面の中の自分への羨望から下腹部へ手を伸ばす。チャイムが鳴った。

 しばらく個室に籠り、教室へ顔を出して教師に一言伝えた後、保健室へ向かった。ベッドに横になる。

 あの時、ラブホで誘惑に乗らなかった理由がなんとなくわかった気がする。同棲相手がいたからだ、不義理を働くわけにはいかないから。

 白状してしまえば四季は、同棲していると知ったときは少なからずの衝撃を受けた。なぜ? と自問する。同時に家を出て行かれたと聞いて嬉しくもあった。人の不幸を喜んでいるとすると、わたしは悪だろう。

 

 こんなにいやらしい子だったっけ。四季は寝返りを打って自己嫌悪に落ちる。欲情している。それは認める。だがそれは性欲からくるのか恋愛感情からくるのか、あるいは優秀な種子が欲しいという生存競争からくる動物的本能なのか。判断するすべはない。

 

 思い悩む。いや、消去法で。

 四季はメールを打った。 『近いうちに会えない?』

『きみ授業中じゃないの?』

 

 こっちの決意をまるで無視するような内容に、四季は小さく笑った。

 

 

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 道元に報告した忍びが第三句暗号を用いて書いた小さな報告書を、学園長は解読していた。

 洗脳術については道元が一枚上手だが、生徒の理解に関しては学園長に理がある。道元が目を付けそうな生徒に予防策を張っておいた結果だ。

 

 近頃の道元の動きは活発になっている。些細な事でも把握しておきたかった。しだいに記号のような文字を追う眼球の動きが早くなる、鼓動が比例して警笛を鳴らした、脂汗がしたたり落ちる。すぐに鈴音を呼んだ。

 

 緊急時における秘匿召集だったが、マニュアルが規定する七秒前に鈴音は駆けつけた。偶然にも学園に到着したのと同時の召集だったのもある。

 丁度いいかもしれない、と鈴音。彼が忍びであったことを報告しなければならない。しかも理念上対立する善忍。

 学園長は一枚の写真を投げ渡し、静かに言った。この男は覚えているなと。

 手に取ってみれば、彼だった。

 

「まずいことになった。失敗に終わったものの道元がその男に姦計を仕掛けた。二重スパイによればわが学び舎が保管してある禁忌級の媚薬が使用されたことは間違いないが、目標はそれをいとも簡単に克服した。女性にはそれほどだが男性には恐ろしく作用する、そういう薬効だったが。……先天的な才能である可能性がある。なぜなら、その目標は事前の調査では一般人だと判断されたからだ」

 

 焦りを隠そうともせず続ける。

 

「しかしその事実こそが問題だ。きみが悪忍についたときに彼の詳細が書かれた封筒を出したのを覚えているな? 当時のわれわれの調べでも彼は一般人であると判断した。だが、だとすると不自然な点が一つ浮き上がる。彼が先天的な精神制御能力という才能を身に着けていたなら、なぜ、きみを介抱した際の、わたしが施した記憶操作は受け付けたのかということだ」

 

「記憶操作を受けた後になんらかのコネクションを使って忍びになったか、精神制御の才能に開花した。あるいは精神制御と一口に言っても、薬物に対してのみという可能性はある」 これまでの常識が、日常的事実が泡のように音を立てずに割れつつあるのを心中で認識し、意図的に忘却した。

「もちろんそうだ。だが道元は先天性の精神制御能力者と評価しており、行動がそれを否定している。なぜ道元が媚薬を用いて彼の情事をスナップしようとしたのか、当然脅すためだろう。その内容に関してだ」

 

 鈴音は学園長が言いたい危機を理解した。正確には会話の途中でしていた。本能は時間をかせぎたかったが、忍びとしての理性が勝る。背を凍てついた手でなぞられたかのような感覚に陥る。走馬灯のように過去が明滅する。足が震える。

 

「道元の狙いが姦計による脅しで、彼を半蔵に対する虚偽報告の証人にさせることであるなら、媚薬を使用せざるを得なかった。なぜなら()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だから。洗脳は効かず、脅せるようなネタを作り出せない。彼はわたしが凜であることを知って、い……る?」

 

「道元が彼に対して行った姦計と結果が事実なら、そう考えるべきだ。もう一つ問題がある、こちらの方が重要で危うい。あの時わたしの記憶操作を受け付けていないのならば、どうして彼はさも記憶操作されているかのように振る舞ったのか、だ。術者であるわたしからしても、彼の振る舞いは完全に術の制御下にあったと、今でも断言できる。彼はわたしによって記憶操作されていたと言い切れる」

 

「単純な先天性の精神制御能力者のみならば、彼は記憶操作の影響下にある振る舞いはしない、できない。才能はあっても知識がないから。よって彼はあなたの記憶操作術を看破していたということになる。一見でどのような作動原理の忍術で、どのような効果を及ぼすかを理解する深い知識も身に着けていることになる。つまり彼は忍びだった。それも当時、現役最強とうたわれるあなたを欺くほどに精神制御術に長けた」

 

「まずい事になった、本当に。半蔵学院に対する虚偽報告を知っているのはわたしときみと、その場にいた直属の精鋭数人だ。だがここにきてもう一人増えた。彼が当時から忍びであるなら、きみが過去に善忍であるということまで既知であるかもしれない。凜が妖魔に食われて遺体も残っていないという、現実に対する矛盾を知っている。その可能性は無視できないほどに高い、道元が動いているのがその証拠だ」

 

 学園長は両手を組んで、顎を支えた。 「道元はなんらかの情報源から、きみが唯一生き残った善忍の妖魔討伐部隊で、現悪忍蛇女教師らしいというネタを掴んだのかもしれない。確証はないだろうが、だからこそ事実を知っていると思われる彼を抱き込むつもりなのだろう。凜イコール鈴音が表沙汰になった時点で、わたしの虚偽報告は確定する」

 

「でも道元はどうして、彼が当時の記憶を保持していると、記憶操作を免れる才を持っていると考えたのか。だとしたら、なぜ精神制御術者である彼に対して媚薬を用いたのか」

「前者については不明だ。憶測の域をでないが、なんらかの任務の最中に誤って彼に精神操作を行ってしまった。しかし反応はない、そこに目をつけて探りを入れたのかもしれん。後者についてだが、媚薬を用いる時点では記憶操作術に対する忍術抵抗力のみを評価していたのだろう。が、実際は失敗に終わった。薬物においても彼は背理する、理不尽なまでに一般性を貫徹する。先天性の、忍びの歴史上で最も完成に近い超高度精神制御術者だ」

 

「それも、術をかけた本人でさえ気づかせないほどの演技力。加えて数年経過しても、その綻びを見つけさせない忍耐力」

「幸いなのが近接戦術戦闘能力は低いという点だ。もっとも、そのように演じているだけかもしれんが」 力なく学園長は笑った。 「一つ聞かせてくれ。きみは彼と同棲状態にあるな。彼を自らに従わせることは可能か? 無論、苦痛を伴う肉体的にではない、強制的な精神制御でもない」

 

 学園長は、つまりこう言っているのだ。親密なのかと。強制的でない精神制御とは言ってしまえばお願いだ。わたしの為に口を閉じていてくれと言って、彼が応じたとして、それに背を預けられるのかという。

 

「わたしときみは一蓮托生にある。きみがわが学び舎にとって良い影響を与えると考えたからわたしもリスクを負った。同時に、道元という怪しげな出資者に対するカードになると。現にきみはよく働いてくれている、きみが彼を信頼しているならわたしも彼を信頼しよう。道元は彼を使ってわたしを完全に失脚させるつもりだ。彼をわれわれに引き込む必要がある」

 

「彼は、善忍です」

「なに?」

「きょう、いましがた告白されました。善忍の忍びであると」

「絶望的だな。で、きみは彼を杖に暗闇を歩くことはできるのか」

 

 それは、と言いさして鈴音は口をきつく結んだ。彼は、ずっと昔から知っていたのだ。わたしが忍びであることを、しかも妖魔に敗れ、一人逃げ伸びたことも。当然、当時現役最強と名高い蛇女学園長のことも知っていただろう。学園長がわたしを保護したのも、記憶操作術を掻い潜り、制御下に置かれた振りをして知っているはずだ。道元はその過去の出来事に確証はないと思われるが姦計を試みたという行動からして、鈴音と学園長の持つ情報と照らし合わせると、それを裏打ちしている。

 その精神制御術に見合った地位を持っているなら、いや、持っていなくとも妖魔に関する報告書くらいは盗み見ることは容易そうだ。現実では介抱したにもかかわらず、書類の上では妖魔に遺体も残らず食われたという矛盾を。

 

 それを、聞きもせず黙って。

 そう考えたところで雫が鈴音の頬を伝った。涙が止まらない。震える身体を抱きしめる。

 

「わたしには、無理です。彼に付いていくことはできない。そんな資格はない。彼はずっと待っていたのかもしれない。わたしが元善忍で、卑怯にも一人生き延びて悪忍へと寝返った事実を告白するのを」

「わかった。だが客観的に言葉を選べ、当時のきみの判断は正しかった。わたしが保証する……雅緋、そういうことだ」

 

 学園長は部屋の隅で壁を背に、瞳を閉じた石像のように押し黙って腕を組んでいた少女の名を呼んだ。ショートカットの、学園長と同じ白銀の髪の色をしていた。温度のない黄昏色の瞳を露わにする。

 

「聞いてのとおりだ、彼を傀儡化するすべは現時点で、少なくともわれわれが有している手段は存在しない。殺して口を封じることも不可能だ」

 ――例えば一定期間連絡がなければ情報を発信する協力者が存在する可能性がある。また、精神制御の観点からしても自白薬などで協力者についての口を割らすこともできない。

 肉体的苦痛も与えられない。大抵の忍びは情報漏えいを防ぐ名目のもと、さまざまな自決手段を用意するのは基礎中の基礎のため。彼の基礎は鎖鎌を投げる時はしっかりと足を開くことだが――

 

「わかっています、父上」 と雅緋と呼ばれた少女。 「それで父上を復権させる事ができるのなら、わたしも忍びの端くれ。この身を使命に捧げる覚悟はできています」

 

「すまない、この身が病に侵されていなければ」 学園長はそれだけ言うと、退室を命じた。わかっているな、と鈴音に視線をやって。

 

 室の扉が閉まるのと同じくして、学園長は痛ましくせき込んだ。薬を服用して写真の中の彼を見やる。鈴音と同棲仲にあったのだから人となりはいいのだろう。ぼんやりと思った。

 少し起き過ぎたかと床に就く。この身が正常であれば怪しげな者にここまで学園を好きにはさせなかった。夢うつつに自分の病が完治し、雅緋の修行に付き合ってやるさまを空想する。もし本当に近接戦術戦闘能力が低いなら、彼も鍛えなければならないな、と。

 完成に近い超高度精神制御術。どのような感覚なのだろうか。仮に義父になったとしても、詳しく聞くつもりはない。また、己の記憶操作を見破り、被害を詐称したことについても。それは彼にとって秘中の秘であることは想像に容易い。

 悔しくはある。認める。だが彼が口を開かない限りは聞かない。技術は忍びの人生そのものだ。むやみに吐露する必要はない。万一にわたしが傀儡化された場合に、彼の秘術が露見してしまう可能性もある。ただ、雅緋との子を大切に思って継承してくれればいい。それも彼の意思を尊重するが。

 

 彼は酒をいける口だろうか。だといいがと学園長は不意に所帯じみたことを考えた。妻は、若くして娘を庇うために妖魔に殺された。まさかこれほど早く娘の夫となる人物が決まるとは、数時間前まで考えもしなかった。天国で妻はわたしを咎めるだろうか、軽蔑するかもしれない。一人娘を己が保身のために利用している。きっとわたしは地獄に落ちるだろうから引っ叩かれなくて済むのはありがたいが。

 

 あいつは遠慮というものがなかったから。

 学園長は少し顔を緩めた後、戒めるかのように口を堅く結んだ。

 道元。わたしが病にさえ侵されていなければ蛇女と半蔵学院を巻き込んだ事件の因果関係を探ってやるのに。動かせる部下はいるが、多数を管理できるかと問われれば否だった。世間の情報にも疎くなってしまった。

 加えて事件に関与していた蛇女当事者の忍びは抜け忍になってしまった。真相を語るつもりはないという事だ。

 道元はパトロンという立場がある。別のあてがない以上、事は慎重にならねばならん。

 

 学園長は咳き込み、浅い眠りについた。人間として鈴音に謝罪をし、忍びとして使命を課した正当性を主張して。

 そして軽く夢を見た。妖魔と戦う夢だ。雅緋と一緒になって、最後の一匹を追い詰めている。だが他の個体とは様子が違う。慎重に、しかし妖魔は待ってくれない。刹那の判断で距離を詰め、妖魔の保身行動に対する猜疑心を増幅させる精神制御術を実行した。本当にこの回避行動でいいのかという戸惑いの隙を突こうとするがしかし、彼がわたしに殺意を送る。――敵意ではなく、瞬間伝達する危険信号としての――

 

 わたしは寸でのところで攻撃を中止し、その場から離脱する。妖魔の身体が僅かに揺らめいた。幻術の兆候がある。気づかぬはずはない、ということは、わたしは既に妖魔の精神制御術の影響下にあったのだ。おそらく攻勢行動に対する殺意の増幅か、保身行動に対する細心の減少、あるいはその両方を受けた。

 

 危ない所だった。

 完成に近い超高度精神制御術者の彼は、どのような原理かわからないが、結界内の忍びの精神構造をリアルタイムでモニタしているらしかった。平時と戦闘状態の精神構造を記録参照し、一定数の乱れが生じた場合を感知する。

 雅緋が彼の強力な対精神制御支援を受けて対妖魔の装備で両断するが、すでに実体はなかった。幻影が霧散する。

 こうまで高度な幻術を使う妖魔は初めてのタイプだ。いたとしても不思議ではなかったが、現実性はなかった。早急に対抗策を練る必要があると、わたしと彼と雅緋で帰投する道すがら話し合った。

 

 

 

 雅緋と鈴音は並んで学園の廊下を歩いた。沈黙はあったが、最初に破ったのは鈴音だった。

 

「彼はきっと、あなたを抱かない」

「男勝りであるとは自覚はしています」 と雅緋。ボーイッシュ故に女生徒から人気があるが、容姿端麗なのは間違いない。抱きしめればさぞ良い感触だろうと想像させる体つきをしている。

 

「そういう意味ではなく、彼は性交渉には応じない」

「善忍だからですか、それとも……」 盗み見るように鈴音を見上げるが、そこに意思は読み取れなかった。 「……それとも先生を」

 

「わたしは彼に相応しくない」

「では方法は一つしかありません。金か……その、おんなか。目標は金銭に執着している様子はなので仕方がありません。やりとげなければならない。彼を迎え入れる、悪忍へと招き入れなければ」

 

 学園長が画策したのは、ようするにそういうことだった。身内となり、危機を共有する。一蓮托生させる。単なる口約束ではなく、明確な絆の拘束。

 病から現在では最強の座を譲ってしまったが、それでも忍で知らぬ者はいない名家。次期学園長の椅子も用意されているようなものだ。道元を排除し、かつパトロンを確保できれば、の話だが。彼がその点に助力してくれれば一石二鳥でもある。手練れの忍びでも垂涎ものの逆玉の輿。

 そして悪忍は、善忍の強大な戦力を一つ奪うことになる。完成に近い超高度精神制御術者を。

 

「わたしは教師の資格すらない、勇気がないから教え子にこんな真似をさせる」

 

「偽って彼を信頼している、と父上に報告しないのは正しい判断だと思います。もし先生が正直に己の内を言ってくれていなければ、半信半疑の信頼関係の上で秘密を握ったままにさせていました。必要なのは確実性です、先生は忍びの教師として模範的な行動をしたと思います。上司に正確な報告をするというのは」

 

 雅緋は一歩先を進み、振り返った。 「ですから、お願いします。辛いかもしれませんが」

「彼は優しいから。あなたに酷い事はしない」

 

 鈴音はそれだけ言うと雅緋を抱きしめた。雅緋も腕を回す。そっと目を閉じた。身長差から雅緋は鈴音の胸に顔を埋めた。父上から元善忍と聞いたときは、それなりに距離をとった。だが短くない教師と生徒の関係から、鈴音を信用していた。

 だからこそ、心苦しい。乱暴に言えば許可を取って寝取るようなものだから。

 

 

xxxxxxxxxxxxxxxxx

 

 

 その夜、彼は鈴音に携帯で呼び出された。玄関を出るとぽつりと来たので、念のため傘を二本持っていく。場所は近所の公園だった。彼の輝かしいとはいいきれない、鎖鎌大会のデビュー場所でもある。つくころには本格的に降り出してきた。

 

 雨音が支配する場であたりを見渡す。腕時計を確認すると、時間は合っているはずだが。と、公園の街灯が、切れかけの電灯のように数回点滅した。その瞬きの間で、明かりの下に人影が現れた。

 どことなく感じる鈴音の面影に近づく。だがいでたちは彼が目にしたこともなかった。口元を布で覆い、胸部をくっきりと浮きだたせた黒いスポーツブラのような上半身と長手袋。股上がほとんどないような鳶装束につるりとした脛当て。

 忍者みたいな格好だと彼は思ったが、鈴音がずぶ濡れだったので一先ず傘を差し出す。

 受け取ろうともせず、頬に濡れた髪を付けて鈴音が言った。

 

「ごめんなさい」

「いや、おれもちょっとその、きみの気持ちを考えてから口にすべきだった」

 

「いいの。わたしが悪いわ。あなたが何と言おうが、その気持ちはある。その上で厚かましいのだけれど、一つお願いがあるの」

「うん?」

 

「近近、たぶんあなたは婚約を持ちかけられると思う。承諾してほしい」

「ええと、と思うって事はつまり、誰から?」

 

 鈴音はそれ以上口を開こうとはしなかった。ゆっくりと彼に腕を回し、顔を近づける。 「約束して」

 

 彼は茫然と口を開けた。何言ってんだ? が、抱き寄せられた彼女の吸い込まれそうな瞳の奥を見ると何も言えなかった。漆黒だった。泣いているようでしかし、雨なのだろうか。

 鈴音は逡巡し、彼の頬に小さく口づけると後ずさり、闇に溶けるように消えた。

 

 彼はしばらくそこに立ち尽くした。たぶん、今朝と同じように追っても無駄だと理解していた。

 帰宅し、熱いシャワーを浴びてベッドに潜り込む。鈴音の残り香を肺に入れて熟考する。意味のない事を言う人間ではない、つまり鈴音には自分と何者かが婚約しなければならない理由があるのだ。

 その場合、では唯唯諾諾に婚約すべきなのだろうか。

 




次回 街による寝取り

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