部下は一息ついてデスクを離れると、窓から眼下を眺めた。ビジネス街ともあって仕事に汗を流す人間がまばらに動いている。ビルから見下ろす姿は働きアリだ。つまりなくてはならない存在だ。時間からして昼食を取りに行っているのだろう。
彼もこの光景を見ていたのだろうかと、いまは自分が座っているデスクを振り返る。思い返せば奇妙な人物だった。入社してすぐに頭角を現し、驚異的な速さで出世していった。管理者の立場を任されるようになって大狼と所縁があったと知らされたが、身内びいきの昇進という感じはしなかった。仕事はもちろん申し分なく、人となりも好感が持てた。
突然現れて、突然消えた。嵐のようだ。しかし忍者ときたかと溜息を吐く。
まあ、上司にしては異様に親しみやすく、その点では少し変わっていたかもしれない。部下は苦笑して、目をキラキラさてカタログを広げる彼を思い出した。
それでふと部下は思った。彼と遊ぶという名目でも、身体を鍛えるという意味でも、手裏剣とかなら始めてもいいかもしれない。バーで飲んだ時、余っているらしいカタログを貰えばよかった。デスクに戻り、昼休憩を利用して記憶の片隅にあるカタログの発行元をPCで検索してみる。が、類似キーワードがヒットするのみだ。ダブルクオーテーションを用いた完全一致検索だとまったくヒットしない。
部下は記憶力に自信を持っていた。それは彼の保証するところでもある。不安の蛇が首をもたげた。念のため会社を出て、公衆電話から記憶している番号にかけてみたが案の定使われていないナンバー。休憩時間では無理だったので休日を使い、本社があるはずの住所と登記を確認しに足を運んだ。
わかったのは、彼にカタログを送った会社は存在しないという事だ。
詐欺だろうか、と部下はせっかくなので広島風お好み焼きを食べて思案にふけった。 ――う、美味い! おたふくソースは最高だ!
お好み村はぶっちゃけボッタだ、その辺の店の方が良心的価格で味も――
いや、彼に限って詐欺の過失はないだろう。価格も趣味にしては手軽な料金形態だったし、現金後払いのみでカードも絡んでいない。上場しているのに登記そのものがないので、ペーパーカンパニーという事でもなさそうだ。
しかしカタログの製本はかなり本格的だったし、重心は本物と変わらず当たってもバスケットボール程度というスペックの練習用鎖鎌を製造するのなら、それなりの資金がいる。
いたずらにしては手が込み過ぎている。会社のスキャンダルを狙うにしても彼は既に部外者だ。合同会社の元管理者という肩書に興味を示す株主はいない。外部資金は財閥から出ている。
では個人が趣味と実益を兼ねて活動しているのかと言われれば、それでは未登記の説明がつかない。
つまり、何者かがなんらかの個人的な理由で彼にカタログを送ったという事になる。
翌日、数人の同僚に頼んで休日を利用して、彼の自宅周辺の家に件のカタログに関する聞き込みを行ってもらったところ、どの家庭も受け取っていなかったそうだ。
つまるところ、彼をピンポイントに狙ったダイレクトメールということになる。関係ないが、自宅のごみ箱にあったという事から、未婚の彼には同棲相手がいることも容易に想像できて、部下は言いようのないモヤモヤを抱えた。
何の意味があるのだろうか。部下はビルから働きアリを眺めて思った。
犯人 ――仮称―― は、私的な理由で彼を忍者にさせたがっていたということになる。
だが相手が通常の神経では叶わぬ謀略だ。趣味で鎖鎌を始めるというのはわからないでもない。現実に忍者教室なるものは存在する。 ――もっぱら観光に来た外国人向けだが――
犯人は会社の弱体化を狙って彼を退職に追い込むためにカタログを送った? 短絡的に考えれば犯人は鳳凰財閥か。
だがあまりにも計画が雑すぎる。常識で考えれば、カタログを見て本格的に忍者を目指すために彼が会社を辞める確率は小数点以下だろう。
それに、そういった怪しいダイレクトメールから、彼に対する敵意を理由に会社が出所を探り、万一証拠が出れば致命的なダメージを被る。競争関係にある鳳凰財閥が画策したにしては、あまりにも稚拙だ。そういった思考の裏を突くやり方かもしれないが、そもそも彼が大狼の者だというのは比較的最近になって
つまり鳳凰以外が彼を狙った。小規模の組織だ。雇われ者の個人かもしれない。これ以上の詮索は、大狼財閥としての会社の力を行使する必要がある。が、既に部外者の彼を保全するためにリソースを消費するのは理念に反する。会社は存続の為に利益を生み出し、翻っては構成員の為に存在し、その構成要件を保存する。部外者は感知しない。
定期的にポストに投函されているという彼の言葉が真であるなら、まるで彼がカタログを見れば忍者の道を断行すると確信しているような犯人の動きは不気味だ。
カタログに特定の人間にだけ作用する強力な
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これでいいかな。と、四季は寮内自室の姿鏡で身だしなみを整えた。黒のゆったりとした半袖のカットソーにワインレッドのフレアスカートのミニ。胸元は四季にしては珍しく控え目に隠されていたが、背中がざっくりと開いていた。それに合わせた薄紫のビスチェをインナーにガーターストッキング。
髪を二三回撫で降ろす。パープルのアイシャドウと透明リップグロスは、まじまじと見つめあわないとわからない程度の薄化粧。
控え目のヒールのパンプスを履く。
シャワーも浴びたし、香水もほんのりと忘れずに。こじゃれたミニバッグを肩にかけて、洋服で散らばった部屋を後にした。
善忍の学び舎、結界によって世間から隔絶された死塾月閃女学館を後に、外界へのバスに乗る。そこから一般のバスに乗り継ぎ、ようやく市街地に出た。何人かのナンパをあしらい、待ち合わせ場所に急ぐ。途中、ショーウィンドウで髪を整えた。
緊張しているのだろうか。目的地に近づくにつれ、鼓動が早くなってくる。一応の予定としては、映画を見て食事をして、夕暮れ前には解散という事になっている。同棲相手に関する相談料として、という形だった。彼はデートとは考えていなさそうだ。どこかしら天然っぽさがあるから。
まあ、それはいいんだけど。と、半ばあきらめを交えた溜息を吐く。どうも自分は市街地にあっては縁がないのかもしれない。腕時計を確認する。約束の時間まで十五分の猶予がある。オープンカフェを裏路地からぐるりと回り、表通りを伺う怪しげな背に敵意を隠して接敵する。
不穏の気配が漏れている。からして腕は立つまい。しかし悪忍がなぜこんなところに。だが、感知したからには対処しなければならない。悪忍は許して置けない。月閃のトップである黒影の教えを覚えているうちは。
目標はまだこちらに気付いていない。近接戦術戦闘距離、というところで目標が振り返った。僅かに狼狽の気配を滲ませ、前を開けた白いパーカーに黄色いTシャツ、ホットパンツとスニーカーのいでたち。白銀の髪の、無感動に黄昏た瞳。その少女は一枚の食パンを咥えていた。なぜ、食パン。
そこからの時間の流れは、四季の主観においては非常に長く、滑らかに感じられた。双方が無意識にセオリーを実行した。
骨の軋みが骨格を通じて耳に響くようだ。斜めに受けてよかった、足を捉えようと水平に構えていたら折れていただろう。
見誤ったかもしれない。数秒前とは格が違う。自分より使うかもしれない。事実として黒炎は禍禍しい怨嗟を露出していた、それを受ければ致命は必至だ。それを単なる視線誘導の道具に使い、一瞬の隙を突く判断力。下がった視線を利用する上段からの攻撃という合理性。
凄まじい実力、ひょっとすると釣られたのかもしれない。
理解とは最も強い力である。だからこそ四季は認めた。この距離では負ける、逃げられない。目標は手練れだ、並の忍びが束になったとしても、少なくとも近接戦術戦闘距離下にあっては適わないだろう。
白銀の少女の黒炎を纏った左手が霞む。単なるジャブだったが、四季が抱える問題はその繰り出された速度と、黒炎が及ぼす推定被害と、どこで受けるかだった。
つまり敗北を受け入れる時間の先延ばし方法――
だが白銀の少女は四季にとって予想外の行動に移った。背から黒い片翼を一息で羽ばたかせると跳躍して姿を消した。遅れて四季は結界がパスを持ったものを検知し、侵入を許したことに気が付く。
逃げた? 四季はどっと疲れて壁に寄りかかりたい衝動を何とかこらえる。その理由を自答して小さく笑った。バッグの中で携帯が鳴っている、これから彼と会うからだ。服を汚したくはない。
腕時計を確認する。まだ三分ほどしかたっていない、彼が時間にルーズでないばかりか気を使う人物でよかったと、四季は思った。携帯を取り出し、着信を認める。
『たぶん先に到着したみたいだから、とりあえず外の席に居るよ』
悪忍に負けそうなところに駆けつけておいてこれなのだ。やはり彼は天然なのかもしれない。四季は嘆息にも似た小さな笑いで表の通りへと歩み出る。
その様子を、一回り高い雑居ビルの上から白銀の髪の少女、雅緋が無感動に見下ろしていた。婚約を迫るという未体験の出来事に精神を乱し、善忍の接近にぎりぎりまで気が付かなかった。それはいい、自らの油断が生んだことだ。だが彼が結界内に侵入したことにも知覚が遅れたのはどういうことだろうか。まったくと言っていいほど忍びの気配がなかった。撤退が数瞬でも遅れていれば、善忍と戦闘状態にあっては彼に攻撃されていたかもしれない。
その際の予想に雅緋は身震いした。忍び結界に気付かれることなく侵入され、背後から一撃を受けていたかもしれなかった。忍び結界は一般的なもので、それは長い忍びの歴史を彩った証拠でもある。特徴が多ければ裏を突かれて欺かれる可能性が高まるが、単純な構造は小細工が利かない。そのはずだった。しかしまったく、侵入信号を感覚した後も、一般人がなんらかの理由で迷い込んだのかと思った。
超高度精神制御術に加えて、恐ろしいほどの隠密能力。善忍と彼の動向も気になるが、まずは父にこの事を報告しなければならない。ひょっとしたら、気づかぬうちに彼に捕えられるかもという嫌な予感を振り払って。
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『ゆる……許して、くれ――』
『何がですか?』
男は情けなくも、息も絶え絶えに涎を口の端から垂らして言った。それでもよかった、体面などどうでもよかった。後のことなど知ったことではなかった。ただ今は、たった一つの事を許してほしいと思った。それに対する些細な恩赦の言葉さえあれば、何を失っても構わないと本当に考えた。命さえ。
『――許してくれ、きみに、会いに来なかったことを。嘘ついてごめん。正直忘れてた」
スクリーンの中の男とスクール水着の日焼け後が眩しい少女の悲劇的な再開とその救済の場面を、四季は心ここにあらずと眺めていた。話の展開は確かにロマンチックで、年齢差を超えた恋愛のような感情は心を打つのかもしれない。
映画のストーリーはヒロインのピンチに駆けつけるヒーローや、ボーイミーツガールのような見飽きた王道物ではない。外道に近い。
これっぽちも感情移入できなのは、だからなのかもしれない。つい今しがた、使い古された安っぽい展開を体験してきたのだから。
現実は小説よりも奇じゃなくて、似だった。と、四季はぼうっと思った。普遍的なモラルがあって、善忍で、ピンチの時に駆けつけてくれて、薬物対抗能力からして頭も良くて、正体不明のミステリアスさもあるし、それに――
――それにあの悪忍が尻尾を巻いて逃げるほどの実力が、あるのかもしれない。
白銀の少女ほどの使い手ならば、あのままわたしにケリを付けた後に彼と一対一の状況にできた。にも関わらず、どうして引いたのか。
可能性は二つだ。
一つは忍び結界からの感知が遅れた異常性に、万全を期すため。もう一つは、単純に彼我の力量を瞬時に読み取って撤退したか。
前者についてはわからない。どのみちわたしの切羽詰まった思考では、結界からの侵入の感覚を受け取れていなかった可能性があるからだ。それでもあの実力なら、侵入者と十二分に闘えるという自信があってもよさそうなものだ。いや、実力があるからこそ不測の事態に撤退したのだろうか、だとすると、わたしが接敵した時点で撤退すべきだ。ほんの少しだが、狼狽の気配はその時点で感じることはできた。
となるとやはり、彼の戦闘能力に恐れをなした? 白銀の少女の目標は彼だったのかもしれない。正面から闘いを挑むことは困難だが、不意打ちならと計画した。が、わたしとの戦闘で忍び結界を貼らざるを得ず、結界に気付いて警戒状態にある彼を仕留めることは困難と離脱した?
どうも四季はそれが一番妥当に思えた。不穏の気配が漏れていた事に関しては謎だ、そういう要素を含んだ作戦なのかもしれない。
しかしこれでもかと言わんばかりのヒーロー要素に、苦笑した。ちらと彼を盗み見ると、二人の間に置いたポップコーンを片手に目じりを拭っていた。全然忍びに見えない。まったくの一般人の様だ。
彼はボーイという年齢ではないが、四季は花も恥じらうガールだった。四季もひょいとポップコーンを口に放り込む。ボーイミーツガールも悪くない。
幕が下りると適当な飲食店に入り軽食を取ることにした。
「和食でいい?」 と彼。
「いいけど、好きなの?」
「ふつうかな」
「変なの」
「説明すると長くなる」
それなりに有名な天ぷら屋に入り、注文を待った。
「期待してたよりは面白かったな」
「うーん、そう? わたしはそれほどでもって感じだったかな」
「恋愛物はほとんど見ないから印象が強かったのかも」
「泣いてたもんね」
「年とると涙腺が緩くなるとでも言いたいのかね」
「後ろの人の話だけど? 自覚があるのかなぁ」してやったりといった表情。
「ぐぬぬ」
「ま、それはいいとしてさ」 なんとなしに毛先を弄んで四季は言った。 「その、同棲相手の人とは結局、いまどんな感じなの?」
「端的に言うと振られた結果になった。と思う」
「ふうん」
「だからそれに関して、きみのアドバイスを貰うという事はできなくなってしまった」
「それは、ふぅん、残念だったね」
言って四季はグラスを弄び、中のトマトジュースを揺らした。残念なのだろうか。心のどこかでそうなる事を期待していなかったと言えば嘘になる。だとしたら、メールをした時と同棲相手との状況が変わらなかった場合、適切なアドバイスを彼に提案することはできただろうか。
意図的に仲を切り裂く案を口にしてしまうかもしれない。可能性はゼロではない、仮定の話なのだから。
「それってさ、いつの話?」
「ここ二三日前くらい」
という事は、相談を受ける日程を取り決めた後ということになる。
「平気なんだ」
「ショックだったよ、そりゃあ」
「でも前に会った時とあんまり変わんない」
「彼女も覚悟を決めて振った訳だから、めそめそするのは彼女に失礼というものだ」 何せ鈴音を寝取ったのは街だ。と、彼は確信していた。ならばやるべきことは祝福であって、つまりは抱える問題である、貧困街の解決に奔走すべきなのだ。
「未練はない? 好きだったんでしょ」
「まあね」
「浮気?」
「してないし、されてない」
「言い切っちゃうんだ」
「まぁね」
まいったなあ、と四季は前腕を腕枕にテーブルに突っ伏した。アドバイス料の代わりに一日付き合ってくれるという建前だったが、それも崩れた。彼は既にアドバイスを必要としていなかったのだ。ただのデートだ、これでは。だったら最初から振られたと言ってほしかった。そうすれば初めからデート気分で映画も見れたし、食事も楽しめたのに。
「じゃあさ、今日はどうして付き合ってくれた訳?」
「前から約束してたし、振られたからアドバイスもいらないとドタキャンするのは失礼だろ」
「義務的に?」 そうだ、と答えられたら、ちょっと泣くかも。
四季の声色が僅かに震えていることに気が付き、彼は慎重に答えた。
「約束を守るということはそもそも義務だ。だからと言って機械的に出かけた訳じゃない、別の件できみのアドバイスが欲しいと思っているし。それにまあ……一緒に危機を乗り越えた仲だろ? ちょっとくらい、つるんでもいいと思うんだけど」
四季はおっかなびっくりに顔を上げ、視線だけを彼にやった。そこには困惑した彼の顔がそこにあった。どうして赤ん坊が泣いているのか、どうしたら泣き止むのか理解できない親のような。
「ごめん、ちょっと子どもすぎたかな」
ざっくりと髪をかき上げて上体を起こす。同棲相手にフラれた事に少しとはいえ喜んだ自己嫌悪を意識的に終わらせる。よくよく考えれば彼は元カノに後腐れがあるわけではない。その点に喜べばいい。口調を一転させ、明るく言った。
「それで、ブログの女王と名高い四季ちゃんに相談事とはなにかな」
「実はきみくらいの歳の子と縁談があって、どうすれば円滑に結婚できるかという相談内容なんだが」
四季は再びテーブルに突っ伏した。後腐れなさすぎ、と。
「おじさん節操なさすぎ」
「男らしいと言え、男らしいと。うじうじしてても仕方がない」
「ロリコン」
「相手は十八だよ、縁談だからご両親も承諾している。ていうか、どこ行くの」
突然に四季が店を出て行こうとしたので、彼は手早く支払いを済ませて不恰好にも追いかけた。足早に街を行く背に投げかける。傍から見れば若い女に未練がましく関係を迫る中年のようだ。
「その子の事、好きなの?」 不意に四季は足を止めた。
「恋愛感情は、今のところあるとは言い難い。でも好きになる努力はするし、されるようにもする」
「あのさあ、おじさん」 振り返り、腕を組む。豊満な胸がたゆんだ。 「わたしさ、ほんとにおじさんが好きなのかもって考えてた。吊り橋効果なのかもしれないし、流されてるだけなのかもしれないし……単にその、欲情、してるだけかもだし」
視線を逸らして言った四季の言葉に、彼はぽかんと口を開けた。
「よーするにさ、そういう余計な要素を取り除いた普通の状態のおじさんを、わたしが好きになっているのかどうかが今日、わかればいいなーって思ってて。だってのに縁談なんて、それ、あんまりじゃん」
四季自身、言葉の正当性などないことは承知だった。しかし言ってしまいたかった。機会があるとしたら今しかない気がした。もし縁談がうまくいったら、この言葉は永遠に発せられることなく不純物のように沈殿し、自身までもが濁っていくように思えた。
道行く人が朱に照らされた往来で立ち止まる二人を奇異の目で見やる。
「おじさんはわたしの事、どう思ってるの?」
「どうって……正直、割と友達感覚」
「ばか、嘘でもいいからモノにしたいだとか、ちょっとくらっと来ただとか言いなよ」
「意味のある嘘は言わないんだ」
「どういう意味を持つ真実を言ったの?」
それは、と言いどもる彼に嘆息し、四季はさっさと歩き出した。放っておくわけにもいかず、彼も後を追った。やがて表通りとは違った喧騒に包まれる。いかがわしい色の毒毒しいネオンが、傾きかけた陽にあっても揺らめいていた。
おい。と彼が声をかけるが、四季は迷うことなく進んで行った。やがて彼も見覚えのある場所にたどり着く。初めて会ったとき、逃げ込んだラブホの前だ。
あのな、と言いさした彼を制するように振り返って四季。 「その縁談の子にも、わたしにも恋愛感情はないんでしょ?」
「今のところは」
「でもその子には好きになる努力もされる努力もするんだ。そこがわたしとは違うんだね」
「理由がある、詳しくは言えないが」
「好きになるのに理由が必要不可欠なら、わたしはもがいてないよ。その明確な理由でもって、はっきりと好き嫌いを自分に言い聞かせられるはずでしょ」 言って彼の胸に額をそっと預けた。鼓動が伝わる。わたしとどっちが早く脈打っているだろうか。
「でも、だが急すぎるだろ。きみの言いたいことはわかったけど、まずは段階を踏んでからでいい」
「何が? わたしは思い出話をするためにここに来ただけだよ。あの時は恐かったねって。それで、急って? 段階を踏んでから、何をするつもりだったの? こんなところで」
「言質を取るのが好きらしいな」
「子どもの癇癪に見えるんだね。たまにするそういう突き放すような物言い、嫌いじゃない」
「錯覚している。吊り橋効果だ、きみも言っていたじゃないか」
「確かめたい、本当にそうなのか」
「手段を間違えている」
「時間の猶予があったらよかったのにね。縁談が破談するように祈るような女にさせないで」
四季はおそるおそる彼の腰に手をまわそうとした。これで本当に拒絶されるかもしれない、たぶんもう会えはしないだろう。何せ公には存在しない忍びなのだ。それも白銀の少女レベルの遣い手でさえ距離を取るほどの手練れだ。次の瞬間にも額から伝わる心臓の鼓動は消え失せ、わたしは空虚を抱いているかもしれない。
「わかったよ、きみの気持ちは。ありがとう」 彼は小さく溜息を吐くとあやすように軽く頭を叩いた。 「だから泣くなよ」
「泣いてない」 四季は小さく鼻をすすると目じりを拭った。開いた手を握手のように彼に向ける。
彼は仲直りの印かと思ったが、実際は違った。連れてって、と言われる。
「どこに?」
「お部屋」
「もう引っかからないぞ。おまえの部屋だよな、帰るから送れって意味だよな」
「やだ、違う。言わせないで」
「それはこっちのセリフだ、言わせるな」 彼は四季を引っ張ろうとするが、びくともしない。やはり、強い。
四季は真面目な口調で言った。忍びという過酷な生き方を示した先輩の警句を口にする。彼が初めて見る、シリアスな表情だ。
「次の瞬間にだって死んじゃってるかも、明日は約束されていない。だから後悔をするのも今日でいい。わたしは寮に住んでるし学生だから比較的安全だけど、今日は危なかった。おじさんだってそうでしょ?」
「そういうのはだけど、交通事故に合うだとかいうレベルで日ごろから意識する問題じゃないだろ。注意していれば問題ない。地球に隕石が落ちてくることを恐れるようなものだ。明日死ぬ可能性を否定はしないが、そんなことを普遍的日常間で意識していては胃が持たんだろ……ちゃんと信号は確認するんだぞ」
「ま、おじさんならそうかもね」 と、苦笑して思った。覚悟があっても死は免れないなら、にわか雨に打たれたように受け止めるのも一つの考え方だ。きっとどんな危険な任務も平常心でこなすのだろう。 「たぶんさ、まだわたしが駄駄をこねてると思ってるんだろうけど、本気だよ。ひょっとすると、もう二度とおじさんと会えなくなるんじゃないかって、本気で思ってるよ」
「……大人に憧れてるだけだ」 粘り強く、彼。
「じゃあ大人にしてよ。そうしたら憧れているかどうかわかる」
「責任が取れない。わたしは縁談に関する計画を完遂するつもりだ」
「それはどうかな、わたしに惚れちゃうかもよ」 泣き笑いで言った。
彼は深く息を吸って、長く吐き出した。 「幻滅するかも、想像とは全然違うって」 ゆっくりと四季の手を引いて歩き出す。
「ねえねえ、どんな部屋にする。こないだ逃げ込んだ時はあんまりじっくりと見れなかったけど、好きなの選んでいい?」 けろりと表情を変えて四季がはしゃぐ。
「おお、おま、おまえ。さっきまで泣いてたろ」 口をパクパクさせて、彼。
「やだなー、おじさんっておんなの子が泣いてたら無条件で言う事聞いちゃうの? 違うよね。だからラブホに入ったこととわたしが泣いてたことの因果関係なんて無いよね?」
彼はぐぬぬと悔しそうに顔をしかめたが、まあこういうノリも悪くないのかもしれないと部屋のパネルに目移りしている四季を眺めて思った。
「ねえねえこの部屋可愛くない?」
室に入ると見覚えがあった。以前逃げ込んだ場所だった。
彼はとりあえず飲料を冷蔵庫から取り出そうと思ったが、四季はつないだ手を離そうとしない。
「どうした?」
「あ、いやごめん」
慌てて手を離すと周囲を観察しながらベッドに腰掛けた。 「トマトジュースある?」
「ない。トマトジュースが好きなの?」 お茶を手渡した。
「うん、まあ」 と固い口調。
「こないだ来たところだろ」 隣に腰掛ける。
「でもあの時はそんな気なかったし……サウナとか、あるんだね」
「入る?」
「やめとく、門限もあるしそんなにのんびりできないから」
微妙な沈黙が訪れた。
どうすればいいんだっけ。と四季は早る鼓動を押さえて必死に思い返していた。服は自分から脱いだ方がいいのか、それともシャワーだろうか。その場合は下着を付け直すべきなのか。ネットで調べた気がするが、どうだったっけ。
「シャワーいってきなよ」 と彼。
うん、と唯唯諾諾に四季は腰を上げ、そこでふと見下ろして言った。 「あのさ、同棲相手の人とは、その、どうやってたの?」 言って、しまったと気が付く。配慮がないにもほどがある。 「……ごめん」
「いいよ、もう吹っ切れてるから。だから婚約に必死になってた。きみを身代りにしようとも思わない」
「そういう意味じゃなくて、あーもう。白状する、誘ったはいいけどどうすればいいのかよくわからないから元カノとか関係なく同じようにして欲しいって事」
一息で言って、四季は再びベッドに腰掛けた。すると肩に手をまわされ、優しく押し倒された。カットソーを下から捲られ、健康的な柔肌が露わになる。おもわずぎゅっと目を閉じた。いよいよだ。が、それ以降の彼の動きはなかった。
「ねえこのコルセットみたいなのってどうやって脱がすの?」
小さく笑って答える。 「いいよ、そのままで」
「汗かくよ」
「そん時はそん時。はあ、もっとこう、ロマンチックにお願いしたいところね」
「ビビってたくせに」
「ばーか」
言って彼の頭に手を回す。途中まで引き寄せて再び目を閉じる。手の感覚から、彼がゆっくりと近づいてくるのがわかる。ファーストキスのシチュエーションにしては少し間抜けだが、これくらいでいいのかもしれない。緊張のほぐれた気持ちで、四季はそう思った。ウーロン茶の味だ。唇が離れる、潤んだ瞳で彼を見上げた。媚薬を服用してしまったときよりも心地よい鼓動が胸を打つ。
事を終え、四季は使用済みのゴムを咥えて映る記念撮影の写メを眺めてご満悦。
彼はとりあえず汗を流すべく浴室へ向かうが、結局一緒に入った。背中を流してあげようと言う行為に甘えながら、ぼうっと夢想する。
それを留める理由を懸命に探し、まだ破瓜の痛みもあるだろうと性欲を納得させる。ソーププレイに興じようとする四季を小突いて一緒に室を出てバスローブに着替えた。とりあえずベッドに並んで横になる。
なんとなしに四季はテレビのリモコンを取り、アダルトな映像を流した。女優は巨乳だったが、四季より小ぶりだ。あんあんと声を出している。
「なんでAV?」
「勉強になるかなって思って、やっぱり逝くときは逝くって言った方がいい?」
「とりあえずテレビ切って」
「そうだよね、これからはパパが教えてくれるもんねー」
「ぱ、パパはやめろ。中年と同じ雰囲気がある」
「えーなんでー。パーパ、ユキチさん五人でどう?」
「やっぱわかってて言ってんじゃないか。そういう知識ってやっぱネット?」
「ま、ソーシャル・ネットワークでコミュニケーション取ってると、嫌でも目に付くっていうか」
「年齢制限とかあるんじゃないの」
「出会い系とかはあるって聞いた。わたしは興味ないからそっち系はやってないよ、十五だし」
嘘だろ……と、彼はバスローブの中で呼吸に合わせて艶めかしく動く大きな胸を見やった。去年まで中学生というなんとも犯罪ちっく言葉が脳裏をよぎる。
テレビの中では女優が口淫している。それを見ても彼は興奮しなかった。もし仮にこれが四季ならばと考え、下腹部に血が集まるのを感じて思考を投げ捨てた。斑鳩なら、ともすればよいというものでもない。誰かを当てはめる事自体が無礼だ。
「ふ、ふうん。大人びてるんだね」
「ロリコン」
「やめよう、年齢の話は」
「これってピロートーク?」
「どうかな」
四季はこれ見よがしに、ベッドに横になった時から繋いでいた互いの手を上げた。
「……そうかも」
「そっちに寄っていい?」
返事を待たず、彼の肩に頭を預ける。 「今日帰るの面倒だな」
「寮だっけ? いいじゃん、料理とか出してくれるんでしょ」
「うん。おじさん、いま食事どうしてんの。今度作りに行ってあげようか。練習しとくよ、天ぷら」
彼は迷った末に言った。 「シチューがいい。ビーフシチュー」
しばらく休憩してホテルを出た。四季の下着は汗と愛液で湿って着用したくないということなので、不透明のビニール袋に入れた。
「なんでおれがきみの下着を持たなくちゃダメなの」 表通りを歩きながら、彼。
「おんなの子の荷物を持つくらいしてくれたっていいじゃん。持って帰る?」 と四季。彼の腕に抱き付きご満悦。ブラをつけていない胸で挟み込むように。
「いらない」 極力腕を伝わる感触を無視して言った。ビスチェのタグを見るにIカップだった。十五でこれとは恐れ入る。
「すっごいスースーする。ねえ、どんな感じ? つけてないおんなの子を隣に町を歩くのって」
「気が気じゃない」
「興奮する? なんだったら路地裏で抜いたげようか」 口を開け、ぺろりと可愛らしい舌を覗かせて言った。
門限あるんだろう、と彼はむりやりバスに押しやってドアが閉まるのを待った。運転手の声で発車が告げられ、ドアが閉まってゆっくりと走りだした。
四季はちらと背後を振り返った。曲がり角で見えなくなるまでそうして、門限ギリギリで寮に帰った。
大浴場で身体を清めようと思ったが、ホテルで洗ったとはいえ性行の後で他人も浸かる湯を利用するのは気が引けた。古くから続くエリート校ならではの個室に備え付けられたシャワーで済ませる。
それから食事をとり、すぐにベッドで横になった。すっきりした思考を走らせる。
さてもしも、事に及んだ理由は吊り橋効果だったのだろうか。あるいは彼の忍びとしての能力に憧れているだけなのだろうか。彼が一般人だったとしてと想像してみる。
きっとピンチには助けにこないし、わたしより弱いのだから脅威を取り除くことはできない。逆にわたしが彼を助ける立場になってしまう。
四季は媚薬で発情する彼を脳裏に描いて小さく笑った。なんだか滑稽だ。
そこでわたしが一つ手で抜いてあげるという形になる。彼の頼み方によっては口でしてあげてもいいかもしれない。いや、できるだけ知的かつ冷静にその発情は薬物の影響だと諭さなければ善忍ではない。
それでも彼は、わたしの事が忘れられなくて連絡を取ってくるのだ。この前のお詫びがしたいからと映画とショッピングに付き合ってくれて、それが下心と手淫させてしまったことに対する謝罪が混濁していることに罪悪感を覚えてしまっている。
彼は忍びだけど、媚薬に対する抵抗能力がわたしより低い事から腕は未熟だ。ひょっとしたら最近になって忍びを目指したのかもしれない。半蔵学園の卒業生なのだから、トップである半蔵がOBである彼に声をかけたのかもしれない。最初は忍び学科の用務員とかに迎え入れるつもりだったが……そこから忍びに憧れるようになった。だとしたら色色と教えてあげてもいい。
それで秘密の訓練を定期的に続けるようになって、やがて子弟関係以上の親密さを求めるようになる。
ううむ、なんだかヘタな恋愛ものになってきてしまったと四季は唸った。ま、とにかく立場が逆になったとしてもデートくらいはしていただろう、吊り橋効果ではないと暫定的に決める。
次はええと、生存競争からくる本能的に優秀な遺伝子を求めているにすぎないという問題も同上で解決して、単に欲情しているだけなのかどうか。不意に情事を思い出して、顔を赤くした。
もしも性行が朝からならと考えてみる。遅めの昼食を取りに外に出る。水族館とか行って、買い物にも付き合ってもらって帰る、戦利品でファッションショーをしてもいい。昼からならディナーだ、うんとセクシーなドレスを着て夜景の綺麗なホテルがいい。夜からなら、朝までくだらない会話をしよう。
そこまで考えて、どれも後戯に近いことに気付いた。買い物に付き合ってもらって帰る、の帰るとは彼の自宅を無意識していた。つまりは性欲が満たされた後も彼と居たいという訳で、ううむ。
わからん。と匙を投げる、そも理由で恋愛ができるものかと言ったのは自分ではないか。つまりこの理由なき思考の混沌こそが……そう、なのかも。
次回 無償の婚前交渉による無償の排撃依頼
私服に違和感あったらすまなんだ。