それと前話で原作知って云云で予想外に意見貰えてサンクス。参考になりました。ちょっと感想板でのアンケっぽくなっちゃっていろいろ申し訳ない
大狼と鳳凰の者との縁談が、建前ではなく現実味を帯びてきたことを知るものは少ない。当人と当主、それと縁談の話を支持した本家の人間だ。
縁談の種を撒いたのは大狼当主であった。が、両財閥の関係修復のためと持ち掛けたものの、現当主に反感や方針の疑念、嫉妬を覚える反当主派が計画に否定的で難航していた。
実のところ、道元が資金を動かした点はそこにある。反当主派の人間を抱き込み、あるいは金で買って縁談を支持させた。例え本人同士の意思を無視してでも事実上の婚姻まで突き動かす計画はあった。
姦計を実行したのはそのためだ。契りを結ばせた後に彼が淫欲に堕落した映像をネタに、両当主を強請る。
彼は大狼に属しているので大狼当主は勿論のこと、義理とはいえ娘を立てた鳳凰当主も内部に示しがつかない。鳳凰当主も関係修復を望んでいるが、ネタの暴露によって鳳凰内部は完全に大狼を敵視することは想像に容易く、溝は深まるからだ。
彼は媚薬を飲まされた後に違法性のある売春によって下劣で淫靡な酒池肉林を味わい、その様を忍びが撮影するはずだった。善忍の介入があったものの、未成年との淫行は好条件だった。はずがなぜか媚薬は効果を示さず、姦計は失敗に終わる。
道元の計画は半分は成功している。理由は定かではないが、縁談は順調な経過を見せているらしい。あとはネタだが、そこが問題だ。なぜかタイミングよく会社を辞めているので経費の使い込み等を捏造するのは難しい。リアルタイムでならでっち上げは比較的容易だ、ちょっとした勘違いで数字というのは変化させられ、数の持つ無機質性はどのようにでも猜疑心を増長させる。
しかし過去の資料の改ざんともなると、そうはいかない。改ざんした痕跡を消した痕跡まで気を配らねばならず、手を入れた箇所が別の件にまで絡んでいる場合は、そちらも弄らなければならない。
かといって彼を傀儡化して復社させるにしては休職中の期間が短すぎる。さすがに不自然すぎるだろう。
ネタは手に入れがたく、しかし状況は流動している。両財閥の関係修復は、抱える善忍の養成機関である月閃と半蔵の結びつきまで強化される。
そうなると道元がパトロンとなっている悪忍の養成機関、蛇女は苦しい立場に位置することを余儀なくされる。
ふうむ、と道元は唸った。
しかも何故だか蛇女学園長が彼を気にかけている節があるらしい事も頭を悩ませる。学園長が最も信頼していると思われる、娘の雅緋が彼に接触しようと試みているらしい。だが道元が彼に干渉している、ということは知られても構わない。彼はまったくの一般人で、大狼の者と発覚したのは比較的最近だからだ。彼が学園長に傀儡化されても道元に関する情報は彼から出てこない。知らない事は喋れない、これは普遍的な傀儡化対策だ。
それに加えて学園長が病魔に侵されているうちは学内の政争には道元に利があり、両財閥の縁談に関しての情報封鎖は徹底している。
つまり学園長は彼が大狼の者であることはともかく、少なくとも鳳凰と縁談を持ちかけたという事実は知らないはずだ。なのになぜ学園長は彼を気にするのか。
彼が学園長にとって何らかの利益を持つのなら、持ち前の精神制御術で傀儡化させてしまえばいいではないかと、道元は幾度目かの再考を巡らせた。
学園長の精神制御術には目を見張るものがある。相手が並の忍びなら碌な精神抵抗もさせず意のままに操ってしまうほどだ。現役最強と言われた所以はそこにあった。病に伏せているといえ、一般人相手に何を様子見で徹しているのか。
彼のところへ赴くことはできなくても、部下に拉致させればいい。なぜそれを実行しない。
学園長が彼を傀儡化しない可能性を検討してみるが、忍びでもない人間に様子見をする理由がどうしても見つからない。最善手を選択しないのはなぜなのだ。
そこまで考えて、眉をひそめた。
いや厳密には一般人ではないか、薬物に対する先天性の対抗能力を持っている。ならば薬物に並ぶもう一つの土台、忍術に対する抵抗能力も持っている、のか?
学園長は彼を傀儡化しないのではなく、できない根本原因があるとすれば、そうとしか考えられない。
完成に近い精神制御能力者が人間社会に発生する確率は、もちろんゼロではない。知的生命はおそらく、誰しもが精神対抗能力を持っている。興味に対する無意識下の忍耐力とでも表現できた。軽い所で言えば、例えば禁酒禁煙。車がいなくても歩道信号を守る。こどもが夜中に一人でトイレに行く。娯楽からの誘惑を断ち切り、勉学や仕事に励むことがそうだとされている。精神制御術はそういった忍耐力を減衰させ、興味に対してまやかしの増長を補助する。
つまり完成された精神耐性を持つ者は存在しない、というのが通説だった。仮にいるとすればその者は、いったい何に興味を持つというのか。食事も睡眠も言ってしまえば娯楽だ。空腹を満たすという誘惑すらシステマチックに抵抗してしまえば餓死する。だから完成は、存在しない。
故に彼が精神制御能力者であっても、学園長ほどの忍びであるならば抵抗能力を無視するほど強力な忍術で、生まれついての忍耐力をそぎ落としてから傀儡化することは難しくなさそうである。完成は存在しないのだから、理論上は力量差があれば傀儡化は可能なはず。
と、思考を片寄らせるのは安直に過ぎる。彼が完成に近い精神制御能力者である可能性もある、ということを念頭に置いておくことが肝要。学園長の罠かもしれない。
しかしその仮定を満足する場合は非常にまずい。道元が持つサブプランで強請りのネタを作る手段は一気に減る。かといって手をこまねいていては両財閥の関係が修復される。
まず、彼が本当に忍術に対する対抗能力を有しているかどうか。といきたいところだが、体術などと違い、精神制御術は教育手段がマニュアル化されておらず、才能に大きく依存する分野である。故に精神制御に長けた忍びは絶対数が少なく、傀儡化によって支配下に置いた部下はいない。また半端な術者に対抗できたからといって道元の術に抗えるとは限らない。確実性を求めるのならば道元自らが彼に相対して傀儡化を試みるべきだが、表に出るのは得策ではない。これは最後の手段。
いや、と見方を変えてみる。
何も
この場合、蛇女の学園長に非を認めさせるわけにはいかないが、幸いにも彼が大狼本家の連中から疎まれているのは事実だ。大狼本家の差し金で彼が殺され、その責任を蛇女に擦り付けてきた、という偽証は十分に考えられる。そうしておいて、両財閥には第三者が蛇女の忍びを傀儡化し、犯行に及ばせたという逃げ道を塞ぐために、犯人となる蛇女の人物には、彼を殺すに値する動機がなければいけない。
この段階で決断を下せるのは道元の持つ才能でもあった。ネタはおそらく掴めないと見切り、投資した資金を惜しむ事無く彼を殺す手はずを整えた。やるなら徹底してやる。
忌夢という学生のプロファイルをデスクの引き出しから取り出した。詳細は掴めていないが、彼女は雅緋を助けるために己の身を顧みず、結界内の忍びの血を流出させる禁術を行使した、という事は確認できている。それほどの仲であるなら、例えば雅緋が彼にかどわかされているという暗示を掛けてもいい。命を賭して親友を守った、という過去の事情があればそれでいい。親友を盗られたという嫉妬が動機と取れる。客観的に状況を捏造できればそれでいい。
その上で、忌夢の禁術結界を彼が物ともしなければ、まぎれもない一般人だ。忍びの血を漏出させる術が作用しないのであれば、忍びではないという理屈。
彼が死ねば半蔵、月閃、蛇女の三つの学び舎を抗争状態にし、疲弊させる。生き残れば、つまり完全に一般人だと判明すれば道元自ら彼に傀儡化を試み、失敗すれば殺す。
道元は小さく笑った。流失させてしまった資金に対する戒めの嘲笑である。そして新たな謀略に思案した。彼についての対処は付いたのだから。
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やはりらしくないことはするものではない。雅緋は大きなドレスバッグを片手にすっかり日の落ちた住宅街を一人歩いていた。婚約の迫り方など思い浮かばず、同期のマンガ好きにそれとなく恋愛ものを借りて参考にしてみたが、どこの世界に食パンを咥えた女子とぶつかることから始まる恋慕があるのだろうか。
ぶつかって転倒した際に落とした食パンにつけ込んでデートに誘う? だが不注意なのはお互い様のような気がする。曲がり角を飛び出すという事からして、むしろこちらが悪いのでは。
ううむ、と顎に手をやり唸る。こんなことになるのなら、もっとそういった娯楽から知識を得ておけばよかった。しかし今は己のやり方でいくが甲だと、彼の自宅に到着した。こぎれいな二階建ての一軒家だ。
鈴音から借りた合鍵で玄関から堂堂と侵入する、人の気配はない。他人の家が持つ特有の匂いがした。
罠や、特定の人間が侵入すると術者に知らせる結界が貼ってあるわけでもない。もっとも、あたかも結界が存在していないかのような隠密性の結界が貼ってある可能性は存在する。彼ならやりかねないかもしれないと雅緋は考えたが、詮無きことだ。侵入者に危害を加える攻性結界でなければそれでいい。
電気を付けずに一階を見て回る。リビングにはなぜか半壊したテレビがある。台所は意外ときれいに片づけられている、冷蔵庫を開けてみると大したものは入っていない。水回りも手が入っている、鈴音は基本的に学園寮にいるので彼は綺麗好きということだ。雅緋は少し安堵した。
次いで二階。これといって見るものもない。とても忍びの家庭とは思えない、まったく一般人の家だ。寝室のドアを握り、一呼吸置いて開けた。
豪勢にもキングサイズのベッドがあった。なんとなく腰掛けてみる。鈴音と彼はここで寝たのだろうと当たり前の事を考えてみる。ひょっとしたら自分もそうなるのだ、その場面を想像して固唾をのんだ。
親密な男女の関係なのだから、当然のことかもしれない。ましてや婚約ともあれば、彼は今日にでも初夜を望む権利がある。夫婦なのだから、雅緋は断る理由はない。
彼に何のメリットも与えずにこちらの要求をのませるというのは虫が良すぎる話。とはいえ忍びらしく、最善と最悪の状況を考える。
最上は鈴音の秘密について彼が何も知らない振りをしてくれることだ。なんの取引にも応じず、何の事だ、ととぼけてくれるのがありがたい。暗黙の了解で秘密は守られる。彼はわたしと次期学園長の座を得て、父上は学内政争の地盤を固められる。
この場合の利点は間違いなく、万一にわたしが何者かに傀儡化された場合に情報が漏れにくいところにある。彼との密約を最小限の情報量に抑えられるので、例えば、彼と何か重要な取引をしたか、という問いには否定で答えることができる。傀儡化対策された答弁は重要だ。
このあたりは、彼が心得のある精神制御術者であるならば察してくれそうなものだ。
次いで取引。わたしを差し出す以上の要求を迫られるかもしれない。彼は金に執着を見せていないので、何を必要とされるかわからない。やはり、おんなだろうか。
最悪なのは傀儡化されることだ。父上を欺くほどに、彼は極めて深い精神制御の知識を身に着けている。転じてその知識を行使する可能性も高い。しかしそれは詮無きこと。父上の上を行く忍びならば、誰にも対抗できない。一応は精神対抗の備えはしてあるものの、どうせ無意味だ。
雅緋はその際の彼を想像した。男を知らない生娘ゆえに古臭いアーキタイプな男性像を。
無理やりに口を奪われる。股を開かれる。
やがて他のおんなも要求される。忌夢などは、ひょっとしたら少しでもわたしの慰めになればと自ら進んで贄になるかもしれない。そうして二人して彼にかしずき、懸命に奉仕するのだろうか。
そこまで考えて雅緋はかぶりを振った。考え過ぎだ。少女漫画の影響だと憤慨した。少女というわりには過激すぎる。
気持ちを切り替えて一階に戻り、あり合わせで親子丼の下ごしらえを済ますと風呂を沸かしてシャワーを浴びる。
全裸のままドレスバッグから用意していた下着と衣装に着替え、後は玄関で正座して待った。
しばらくして郵便受けを開く音がして玄関のドアの鍵穴が回された。あれ、鍵掛けてなかったっけ? と、彼が新たに届いたカタログ片手に帰宅する。ドアを開けると同時に、うぇあっ、と同時に奇妙な声を上げた。そこには純白のウエディングドレスに身を包み、三つ指を立てた白銀の髪の少女がこうべを垂れていたのだ。
「おかえりなさいませ」 ドレスは袖のないアメリカンスリーブなので、すべすべとした背中を惜しげもなく晒して言った。タイトな前面からは、美しい曲面を描く横乳が露出している。 「お待ちしておりました」
彼は土間を跨がず、いったんドアを閉めた。強く目頭を揉んで、名も無い即席の神に祈った。満員電車で急な腹痛に襲われた時よりも強い信仰心を捧げる。もしも先の少女が幻覚であれば、布教活動に勤しんでもいいとさえ願って再びドアを開く。
彼は神の不在を確認した。人間の不幸を楽しむ悪魔はいるようだが。
とりあえず中に入り、先ほどと一分も変わらない姿勢の少女になんと声をかければいいか戸惑った。少女には、声をかけない限りは不動の意思の強さがある。
「あー、その。ただいま?」
彼はなんとか言葉をひりだした。少女が顔を上げたので一先ずは良しとした。
「食事と風呂、どっちにする」
「どうしてきみはウエディングドレスなんだ? というか誰? あと口調が凄い変わったね」
とりあえずリビングのソファに腰掛けて彼は問いかけた。疲れた一日だった。軽い相談と息抜きのはずが四季と関係に及んだだけでなく、帰宅してみれば更なる難問が悠然とそびえ立っていた。どうしても投げやりで配慮のない口調になってしまう。
「まあ迎える時は礼儀が必要だと思っている。婚約については鈴音から話は通っているはずだ、これからは雅緋と呼んでくれ。ええと、あなた? でいいのか」
「うんちょっと待って」 と彼は顎に手をやり、疲弊した脳に鞭うって思考させた。
ひょっとして自分はものすごい勘違いをしていたのではないか。鈴音の言っていた縁談とは鳳凰の者とではなく、雅緋と名乗る少女となのだろうか。だとしたら非常にまずい。
「鈴音から縁談を受けろという話は聞いている、相手はきみ個人を指すんだな」
「そうだが?」
「二人ではなくて」
「当たり前だ」 と不快な表情。 「答えは?」
まいったなと彼は顔を手で覆いながら言った。
「鈴音の事だから、この荒唐無稽の縁談は何かしらの意味を持つものだろうということは推測できる。わたしは鈴音の要求を無条件で飲むつもりだ」
彼の物言いに、雅緋はやや慎重になった。言質を取りたがっているのかもしれない。彼と道元は繋がってはいないが、蛇女と敵対関係にないとは言い切れない。反面、鈴音の条件を飲むという言葉から、半分は任務を遂行したと安堵する。
「あなたの抱えている鈴音に関する秘密を握ったままにしておいてほしい。その秘密が明るみに出るとわたしの父上は立場上まずいことになる。無論、露見は鈴音にとっても好ましいものではない」
「秘密ってなんの事だ?」 と彼。本心から言った。
「悪かった、忘れてくれ。わたしの思い違いだ」
物足りなさを感じるほどにあっけなく承諾してくれたと雅緋は一息ついた。結局、彼は鈴音の秘密は関知しないというスタンスをとっているわけだ。傀儡化対策が考慮された精神制御術者らしい回答に満足する。
鈴音と同棲状態にある程度には親密だったので、わざわざ窮地に立たせるような人間でなければ当たり前と言えば当たり前だ。むしろ、彼にとっては雅緋こそが秘密を探りに来た刺客であるという可能性を考慮している物言いかもしれない。
もしも雅緋が彼にとって敵性と仮定した場合、彼が『鈴音が妖魔討伐部隊の生き残りだという事か?』などと口にすれば愚かしいと言わざるを得ない。
彼のとぼけた表情は迫真で、本当に秘密など知らないような雰囲気がある。父親の精神制御を欺き、昼間のまったく忍びの気配を感じさせなかったことも相まって、その欺瞞能力は凄まじい。
ふうむと腕を組み、感心して雅緋。 「こうして目の当たりにすると納得はできる」
「なにが?」
「あなたの実力だ。話にしか聞いていなかったので不安ではあった。夫となる人物が頼りないのは困るから」
「すごい気になるところがあるけどまず解決しておきたい事がある。きみはいいのか? 話を聞くにお父さんの都合で会ったこともないような人物と結ばれるのは」
「覚悟はしている。わたしが気に入らないか? 女らしさが足りないというのは自覚しているが」
「魅力的だと思う……そうでなくて、わたしが気に入らないのはきみのお父さんのやり方だ。客観的に、娘を道具に使っているように見える。もちろん婚姻は鈴音の願いという事もあって結ぶが、不愉快なのはその点だ」
それは、と雅緋は口どもる。
これは論理的な問題ではなく、信頼という感情的な問題なのだ。鈴音が、彼はわたしの為に秘密を握ったままにしてくれるはずだと確信していれば問題はない。
だが彼女は過去をひた隠しにしてきたという負い目がある。その点で彼に後ろめたく、よって対等性は欠如している。そのような関係の上にシビアな問題の背を預けることはできない。精神的な安寧が欲しいのだ、身内となった以上は不利には働かないだろうという。
「第一、きみのお父さんはどうした。娘一人を寄越すなんてどうかしている」
「父上は闘病生活を余儀なくされている」
「なるほど、それは悪かったな。だが一度は会って話すべきだと思う」
「父上はしかし、知っているかもしれないが悪忍だ。わたしもまた」 さすがに彼のような善忍と合わせるのはまずい気がする。いや、隠匿された忍びだから問題ないのだろうかと自問する。どのみち答えは父上しだいか。
「そんなことは現状を見ればわかる」 と口を酸っぱくして彼は言った。 「いや、人の事を言えたものではないな。きみのお父さんも、避けることのできない選択をしたのだと願いたい」
年頃の女性の気持ちを踏みにじっている。そして鈴音のガラス細工のような脆い願いを無条件で聞き入れている彼もまた、雅緋の父親を責めることはできない。現代において時代に逆行するような婚姻を結ぶなど、たとえそれが善行を目的としても手段は同様に悪人なのは目を背けることのできない事実だ。
「父上は自己保身のためにわたしを差し出したのではない。それだけは断言できる、誓う」
彼は視線を上げて雅緋を見た。瞳の奥からは何も伺えない。
沈黙に彼の腹の虫が鳴った。
恰好がつかず、頭を掻いて彼。 「とりあえず食事にしない? ちょっと今日は個人的に驚きの連続でまいってるんだ……まあそれは今も続いてるんだけど」
「うむ、わかった」 と言って雅緋は台所に向かった。白いウェディングドレスにピンクのエプロンという斬新なスタイルでコンロに火をつける。
「本当に料理作っていてくれたんだ」
「まあな。なぜだか将来において、料理バトルが開催される気がしたので練習はかなりしていた。味は期待していい」
「ずいぶん具体的な予測だね」
彼はテレビのリモコンを視線で探し、すぐに本機の残骸が目に入ったのでやめた。
「着替えてから料理しなよ、汚れる」
「気を付けるさ」
しばらくして親子丼が運ばれてきた。胃をくすぐる芳醇な香りが漂ってくる。いただきますと箸をとる。
「なんか肉がすごい柔らかいんだけど、わざわざ買ってきたの? 高かったでしょ」
「いや、冷蔵庫にあったものだが」
「よくあんな安い鶏肉でここまで上手に作れるもんだ。わたしが作るとどうもぱさぱさになるんだよね。胸肉って難しくない?」
「下ごしらえをきちんとすれば安くても美味しくなる。ところで先ほどから気になっていたのだが、これは?」
雅緋はテーブルに置いていたカタログを見やった。表紙には、ステップアップ、初めての忍具投擲! と書いてある。彼ほどの忍びが何故と疑問に思わないでもない。
ああこれ、と彼は食後のお茶を飲みつつペラペラと捲った。 「趣味みたいなもん、かな」 軽い眩暈を覚える。しかしカタログからは目を離せない。せめて話題だけでも切り替えようと不自然に切り返す。
カタログをめくるたびに、何者かが紙面に転写した不可視の暗示が、眼球から視神経を通して後頭葉に働きかけ、無意識へとフィードバックした。
いや思い出したと彼は内心で強く思った。少し前に忍者の存在について疑いの目を向けていたが、思い出した。故意に作られた記憶でないと主張するように、不自然なほど思い出したと反復する。
なんだ、忍びは存在したんじゃないかという安堵を得る。しかし表立った組織ではないので、どのみち部下の呆れ果てたリアクションは当然だ。少し恥ずかしくもある。
これからも鍛錬を続けよう。もちろん投擲道具も購入する。
「悪いけど、少し疲れた。もう寝るよ。洗い物は、明日するから置いといて」 と、彼。脳を圧迫されるような感覚がある。情報そのものが質量を持っているかのようだ。
「う、うむ」 雅緋は少しどぎまぎして言った。 「まあ大丈夫だ、一般的な性知識はある。食器はわたしが洗っておくから、先に行ってくれ」
最近のおんなの子はどーなってんだ。彼は奇妙なものでも見るかのように雅緋を眺めた。
「きみ、勘違いしてるみたいだけど……まあ、客間があるからそこで寝なさい」
「ま、予想はしていた。あなたがわたしを抱かないということは」 ころりと表情を戻す。
「ならなんでそれらしい事を言ったんだ……」
「反応が知りたかった。鈴音先生は性交渉には応じないだろうと言っていたから、その高潔性を確認したかった」
彼は口を開きかけて、やめた。客間を案内すると寝間着に着替えてベッドに潜り込む。が、ややあってドアが開かれた。おぼろげな瞳で見やると、パジャマに着替えた雅緋が立っていた。
「なに? お手洗いの場所?」
「いや、性行為はしないが、一緒に寝たという事実がいると思って」 ベッドに近づき、ややためらってから恐る恐る身体を滑り込ませる。部屋とは別の匂いがした。独特の、おんなの匂いというのはわかる。混ざり合っているのは男の性なのだろうか。
彼はもう何も言う気になれずに好きにさせた。斑鳩との縁談をどうするかだけでも大変だというのに。
月明かりがさしこむ部屋で、雅緋がぽつりと言った。
「聞かないのか鈴音先生について」
「聞いて欲しくなさそうだった、わたしは彼女を信頼している。きみと結婚する必要性はないと思うが。とりあえず、きみが彼女の生徒だということで十分だ」
「申し訳ないとは思っている」
「それについてはこっちの方が申し訳ない。くたびれたおじさんが相手だと気が滅入るだろ」
「正直、先生からあなたの人となりを聞いていたから、それほど嫌ではなかった。むしろ幸運だ。もしも相手が下衆な人物だったら、その……」
「言わなくていいよ。ま、そういう信頼があったのなら嬉しいと言えば嬉しい」
「鈴音先生の事は、もう?」
「わたしは振られた、事情はどうあれね。いつまでもぐずっていられない」 彼は話を切り替えるように口調を明るく変えて言った。 「学生なんでしょ、何年生?」
「三年生だ、歳は二十一だが」 禁術が絡む事柄なので言おうかどうか迷って。 「事故にあってな、三年ほど入院生活を送っていたんだ」
「大変だね。懐かしいな、高校生か。わたしもそういう時期があったよ」 しみじみと彼。 「わたしの立場でこんなことを言うのもなんだけど、モテるでしょ?」
うぐっ、と露骨に痛いところを突かれたように呻いた。 「……女性からよく好意を寄せられる。白状するとややコンプレックスでもあるな」
「ほーん、でも男子学生からも声かけられたりするんじゃないの。気になってる子とかいる?」
まったく奇妙な質問をしたものだと彼は小さく苦笑した。一応は結婚するというのに、妻になる女性に意中の相手がいるかと聞くなんて。たぶんあまりにも結婚に対して現実性を感じていないからだろう。
「いない。女子高だから。これは幸いかな?」 雅緋も無意識に答えてしまったことから、初対面の男性と同衾しているにも関わらずリラックスしていることに気付く。 「だがまあ大切な人はいる」
「それは、すまない」
「いや違う、勘違いするな。そいつは女性だよ、事故の時に命を賭して助けてくれた。彼女はその弊害による傷を一年で治癒させたが、その後も二年間、わたしの看病に尽くしてくれた」
「いい子じゃないか、そういった友情は得難い」
「友情、だといいのだが。やや度を過ぎているような節があるのがな。どうもわたしに男らしさを求めている節がある、どう思う?」
「うーん、難しいね。じゃあ彼女からしてみれば、わたしはきみを寝取ってしまったようなものになるのか。わたしたちが謝るべきは互いにではなく、もっとも無関係な彼女なのかもしれない」
「そうかもな……きっとそうだな……わたしはもうあなたに謝罪の言葉を口にしない」
「わたしもそうするよ。わたしたちは誰もが一定の利己に従っている。彼女の、きみに対する無償の情感を無視して」
彼は見知らぬ少女に詫びた。それでどうこうなる問題ではない。やはり自分は悪人になってしまったと再考する。いたいけな少女の淡い思いを、身勝手な都合で踏みにじってしまった。
翌日、彼は雅緋をバス停まで送ることにした。燃費と頑丈さだけを基準に選んだ車に乗り込み、キーを回してエンジンをかける。
夏の終わりも近づいてきたとはいえ、まだ暑い。半分ほど開けた車窓から強い風に髪を弄ばれる。雅緋が外を眺めたまま言った。
「あなたが鈴音先生の願いを無条件で聞き入れたことを前提に、わたしもまた頼みたいことがある」
「うん?」
「いま、わたしの通う学び舎は非常に危ういバランスの上になりたっている。端的に言うとパトロンと実質的な組織の長とで経営方針上の対立が生まれている。問題なのは、前者が私利私欲のために学び舎を利用しようとしている事だ」
「企業ではよくあることだ。でも学校でそうも意見が食い違うのは珍しいんじゃないのか。出資の形式は? 寄付金なら大した額じゃないだろ。オーソドックスな学校法人なら評議会員を抱き込んで孤立させろ……いや、そうされている状況なのか。なら多少の不利益を被っても解散するべきだな」
「パトロンが設立した学校法人の出資金額はそれほどでもない。だが他に出資している複数の個人、団体がそのパトロンの息のかかった者だ。これら反学園長派の合計出資金額が悩みの種なんだ。しかも、おそらく複数存在するだろうという推察でしかなく、関係を特定できていない」
「そこまでいくと文科省の管轄の範囲を超えているな。ま、外部資金を断つしかない」
「それが、そうもいかない。反学園長派の継続的な出資契約と収益事業収入によって安定した資金運用に目途が立った。この時点ではまだパトロンと複数の出資者が裏で繋がっているとはわからなかったんだ」
「学生の教育環境の改善と向上の名目の下、大規模かつ長期的な施設の増改築が行われた? パトロンがそこまで用意周到なら、きわめて自然な流れになるように裏工作が行われていたんだろうな。だが迂闊だと言わざるを得ない、高校で収益事業ってかなり怪しいんだけど、会計上に不審な点は?」
雅緋は言おうとしていた増改築計画案が先回りされた事に驚いて彼を見やった。いや、客観的視点を持てば簡単に推察できるのかもしれない。フロントガラスに映る彼と目が合った。視線で続きを促される。
「……ある、と思いたい。学校施設の改築はともかく新設などについては父上も反対した。だが資金面は数字の上では問題がなかった。仮に外部資金が想定限度額まで減少しても増改築計画を凍結すれば、やや苦しい経営状態にあるがやってはいける算段でもあった。ただ、反学園長派が特定できない以上、すべての外部資金を理由なく断つことはできない。第三者からすればその行動は理解しがたい」
「だろうな、外から見ればわざわざ順調な設備投資の機会を、経営難におちいってまで蹴る理由は見当たらない。部外者には奇異に映るだろう。パトロンは、学園長が意にそぐわなければ一派を操り、客観的に不自然でない動きで定期的に供給されるはずの外部資金量を絞ることができる。こちらは複数の出資者なので絞られる額が想定できず、増改築案全面凍結における資金運用の具体的な絵を描けないのが泣き所だな。着工途中の施設の保全にも金はかかる。かといってこちらから外部資金を断って計画的に全面凍結案を練ろうにも、理由なき設備投資計画の破棄という看板を背負うことになる。どのみち先見の明がないと判断され、パトロンが私利私欲に走っているという証拠がない限り、失脚の原因になりかねない。最悪の場合、施工会社も息がかかっている可能性もある」
「そうだ、それで頼みがある。今から言うことは父上も知らない、身内になる事であなたに期待しているようだったが、決して口にしないだろう」 雅緋は運転する彼の横顔を見つめて言った。 「前述の問題を解決してほしい。わたし個人の願いだ。あなたの……妻からの」
向けられた瞳を一瞥して答える。 「それはまた、骨が折れそうだな。パトロンと水面下で繋がっている一派を合法的に排し、あるいは空いた外部資金の穴を埋めなければならない。そいつの名前は」
「道元……合法的に?」 口に出すのも嫌そうに名を告げた後、意外そうな顔。
「なんか変な事言ったか?」
とぼけた口調の彼に、雅緋は小さくほほ笑む。心なしかこれまでの強張った口調がほぐれている。
「いや、別に。あなたはやはり、善忍らしい」
「悪人だよ。おれたちは、もう」
しばらくすると、郊外に位置した人気の少ないバス停に着いた。雅緋が降車して、言いにくそうに口を開く。
「もしも、その、あなたが道元を排撃できたら……わたしは本当に」
「そのときは婚約を解消しよう」 彼は雅緋の言葉を遮って言った。 「鈴音がわたしに縁談を受けろと言った本質的な原因が学び舎と学園長の地位の維持と道元の排除にあるなら、問題はない。わたしたちはあまりにも独善的すぎる。きみに思いを寄せている……」
「……忌夢という名だ」
「その子の話を聞いて、よくわかった。わたしたちは無関係の人を攻撃しているに等しい、踏み潰しながら行軍している。被害は最小限に抑えるべきだ」
雅緋はまだ何か言いたそうだったが、口を閉じた。儚い笑みで、そうだな、と同意する。簡素な別れを告げて、走りゆく車を眺めた。
うーむ参った。と、ハンドルを適当に握って彼は呻いた。
道元という輩を是が非でも排除しなければならない。それまでに、当面は雅緋くんと斑鳩くんのどちらかが、わたしと一緒に居る時にもう一方とばったりと出会わなければ助かるのだが、まあそんな可能性は無限小だろう。ないない。大丈夫大丈夫。というか考慮しても仕方がない話。
溜息を吐き、アクセルを弱弱しく踏み込む。
次回 タイトルだけ考えてません