【完結】 おれ会社辞めて忍者になるわ   作:hige2902

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R18版は次話と同時投稿、今週予定です。いろいろと書き足してたので遅れます。
予約投稿してると思ってたら2015年にセットしてました。投稿遅れてすまなんだ。


第七話 おれ忍者辞めて会社やるわ

 道元は蛇女に潜伏させている手の者に、これまでに目にし、無意識下に蓄積された暗示パターンにのみ反応する暗示を、校内で不特定多数が利用する場所へと転写させた。それが蓄積された暗示内容を実行する鍵になる。行動内容は殺害だった。対象は鍵に書き込まれている。

 

 忌夢が女子トイレの鏡を見た時に、それは発動した。視神経からするりと侵入する、生ぬるい液体のようなものを錯覚する。メガネを外し、強く目頭を揉んだ。

 暗示は忍びの忠誠心と目標に対する敵意を増幅させた。どす黒い憎悪が煮えたぎる。なんとしても彼を殺害しなければならないという強烈な使命感が心中で渦巻く。

 本来であれば、学園長が事前に仕掛けた対精神制御術によって抑制されるはずの衝動はしかし、暗示に書き込まれた任務ブリーフィングを読み取った時点で更なる表層化を見せた。

 彼の人物像や、近況による理解を深めるための内容だ。それによれば、雅緋は彼の自宅に泊まったらしい。それが忌夢の本能を任務から私情による殺害へと駆り立て、対精神制御術を決壊させた。

 

 忌夢は正規の手続きを踏んだ後、寮を出た。

 

 それに雅緋が気づいたのはしばらく経ってからだ。

 休日はもっぱら三年間のブランクを埋めるために体術などの自習をしている。忌夢はそれに何も言わずに付き合ってくれていた。ところが今日はいつまで待っても姿を現さない。寮を探してみたが見つからず、もしやと外出届け管理ファイルを覗いてみると忌夢の名があった。いつもならわたしにべったりの忌夢が、黙って姿を消すことがあり得るのか?

 雅緋はかぶりを振る。ありえない、嫌な予感がする。

 父親から対精神制御術が破られたという報があったのは、その確信と同時だった。

 

 

 

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 やはり泥をかぶるのは男の方だろうな、と彼は上品に煎茶に口を付ける斑鳩を見やって思った。しかしまさか、誰がいきなり、ほぼ同時のタイミングで縁談を持ってこられるなどと誰が予測できようか。

 なるべく彼女を傷つけないように、関係をこれ以上発展させずに自然消滅する方向へ持っていくべきなのか。たぶん、そうだろう。

 主観的には、斑鳩のような若い女性と ――しかも美人で清楚!―― と、こうしてデートまがいの事をするだけでも嬉しい。ましてや結婚ともなれば誰もが羨む。彼女にはそう思わせるほどの魅力的だ。それは間違いない。

 しかし歳の差から可哀想だと思うのも事実だ。ひょっとすると干支が一緒かもしれないと考えれば肝が冷える。

 

 要するに、彼自身が斑鳩を心から求めている訳ではなく、わーい棚ボタ的に可愛い子とお茶できてラッキー、程度に思っていることが枷になっている。貞操観念、モラルの問題だった。数日前までは、鈴音の願いという事で枷は引きずりながら断行できた。雅緋との婚約が真であるという事実が発覚しなければ、おそらくこのデートも心血を注いで斑鳩に好かれるように努力したはずだ。

 なんとも自分勝手で排他的な良心だ。いや、悪意の飽和なのかもしれない。自己嫌悪に陥る。

 今なお斑鳩に貧困街目的に近づいたという隠す理由といえば、彼女に敵意を向けられたくないという汚れた心の自己保身以外の何ものでもない。

 本当に悪人になってしまった。彼は内心で辟易とした溜息を吐く。

 

 彼はだから、心の内を斑鳩に白状してしまおうと決断した。隠していた貧困街の問題は、鈴音の願いが消えた今なお秘しておく必要はない。それで斑鳩に幻滅されれば済む話だ。年の近い男性と良い縁があればいい。それが普通だ。被害は最小限に抑える。貧困街の処理は遅れるが、当主たちが計画していた本来の予定はお見合いレベルから始まる関係修復にある。元に戻るだけ。

 そんな心境の彼だから当然に会話は弾まず、社交界の時の方が盛り上がったくらいだ。

 焼きたての団子も喉を通らない。

 

 暗い雰囲気に耐え兼ねてか、お茶の味もそこそこに彼が店を出ようと言った。どこに行くのかと思えばタクシーを拾い、貧困街を一望できる丘の小さな公園を運転手に伝える。

 車中は先ほどの店の雰囲気を引きずっており、淀んでいる。

 斑鳩が信号待ちの時間に街頭の巨大な屋外ビジョンを指し、沈殿する空気に飲まれないよう気丈に話しかけた。映画のプロモーションらしく、少年と少女が見晴らしのよい公園で問答している。

 

「ご存知ですか? あの映画」

「うん? いや、知らないな。有名なの?」

「恋愛物のマンガが原作になった映画らしいのですけど、評判が良いと聞きました」

「ああ、そうなんだ」

 

 気のない返事で彼は会話を打ち切ってしまい、気落ちする。こどもに気を使われる始末。情けない。じゃあ今度見に行く? くらい言えないものか。

 信号が変わり、タクシーは走りだす。

 

 屋外ビジョンに映っていた ――少女は恋愛よりも優先している大きな悩み事がある故に少年の恋慕を本心から受け入れられなかったが、後に少年は少女の悩み事を、告白とは無関係の立場から解決してしまう。そこで少女の心を占有していた悩み事はぽっかりと消え、空いた空洞に少年への気持ちが収まる―― というご都合に過ぎるような王道のボーイミーツガールな映画のPVを後にした。

 

 やがてタクシーは目的の場所に到着し、二人は降車した。

 公園の端に行くとぽっかりと空いた穴のような貧困街が眼下に広がっている。斑鳩は無意識的に目を逸らした。彼は廃ビルやあばら家群を見下ろして口を開く。

 

「急に店を出ようなんて言ってすまない。でもどうしても白状しなければならないことがあった」

 

 斑鳩は彼の熱のない口調に慎重になった。

 

「わたしはきみに恋愛感情を覚えたから婚姻を迫ったのではないんだ。きみの背後にある鳳凰の力が目当てだった……もちろん好きになり、好かれるような努力はするつもりだった」

 

 斑鳩の表情が凍りつく。義兄から聞き、社交界で覚えた彼の人となりが水泡のように消え失せる。

 社交界で何度かそういう輩に声を掛けられたこともあった。いかにもな口ぶりと軽薄なお世辞で塗り固められた表層的好意。そういった人物が義父と親しげに話すだけでも嫌だった。

 それにもまして前述の彼の告白は、彼の事を自慢げに話してくれた義兄までをも裏切られた気分にさせる。心中で零度の炎のような怒りが燃えたつ。自分の事はいい、だが義兄と義父に偽りを働いたことは許せない。

 しかし次の瞬間にはその業火も吹き飛んだ。

 

「他に貧困街の問題の処理を加速させる手段を持ち合わせていなかったからだ。本当に申し訳ないと思っている。だがわたしはどうしても鳳凰とお見合い以上の関係を持ちたかった」

「へ?」

 と斑鳩。呆気に取られた表情。心でとぐろを巻く強い嫌悪感が手品のように消えた。その隙間を何で埋めればいいのかわからない。

 

「きみが呆気に取られるのもわかる。なにせ、きみ自身に興味があるふりをして、実のところ本命は貧困街だったわけだから。きみの心を弄んでしまった。ただ、個人的な理由でどうしても貧困街は早期に解決させなければならないと思っていた」

 

 言葉を失くした斑鳩に、彼は残酷なことだと理解しながら言葉を続ける。

 

「すべて、わたしの私的な理由と目的の為だ。いずれは言わなければならないと思っていた。それをきみから誘ってくれた初めての食事に告げるのがどれほど酷かも考えての行動だ――」

 

 ――だから。と自らの身勝手さを露出させる。平手打ちくらいなら、いくらでも受ける覚悟だった。乙女の純真さに唾を吐いてその程度済むなら安いものだ。殴られたって仕方ない。

 

「わかりましたわ、たとえ今は恋愛感情はなくとも、あなたがわたくしに対して好意を抱かせる努力をするというのなら、わたくしはそれを超えるほどの努力をあなたに対して約束します」

「――だからこの話はなかった事にされても文句は言えな」 言いさして彼は斑鳩に目をやり、貧困街に視線を戻し、再び真摯な表情を向ける彼女を見やった。 「ねえわたしの話、ちゃんと聞いてた? 権力目当てにきみに近づいた最低の男なんだけど、もっかい言おうか? いちから」

 

 わたくし、と斑鳩は彼の言葉を無視して、風にたなびく髪に手をやりながら貧困街を直視して言った。 「実のところ、社交界や学校ではけっこう声をかけられます」

「まあ、その予想は簡単につく」

 

 恥ずかしそうに、はにかんで斑鳩。

「でも、どうにもよくわかりませんでした、その、恋愛感情で誰かとお付き合いするだとか。まだ早いような、もっと相手の事を深く知ってからの方が、と……それに、わたくしにはやるべき事がありました」

「そうだね言われてみればきみはまだ未成年だから早いかもねもうちょっと相手をよく知ってから決めた方がいいと思うよ」 彼は一息で言って。 「それに恋愛にうつつを抜かして、そのやるべき事柄とやらを疎かにするのもよくない。絶対」

 

 斑鳩はほがらかに笑った。

「やはり、そう思われますか?」

「……正直なところ度合いによるとも思うけど」

「その事柄を解決できるのならば、この身を賭す覚悟もありました」

「なおさらだ、そっちに専念した方がいいかもしれない」

 

 斑鳩はその言葉で彼の手を両手で掴み、視線を合わせ、言った。身の内にある信念を言語化する。

 

「では微力ながら、貧困街の問題に関して尽力させていただきます」

「は?」

 

 今度は逆に呆気に取られる彼の手を引き、斑鳩は歩き出した。足を取られながら、彼もついていく。

 

「いやちょっとどこいくの?」

「せっかくのデートなんですもの、先のお店には戻りにくいですし、別のところで間食を取りましょう。あなたの真意と本質はよくわかりましたし、次はわたくしの事を知っていただかないと」

「わたしはきみを私的に利用していた」

「それがあなたのウソ偽りない本心?」

 

「そうだ」

 彼は手を振りほどいて立ち止まると、冷ややかに言った。斑鳩は気にした風でもなく振り返る。

「なら、いちいちお付き合いする相手が、ひょっとしたら遺産目当てなのではないかだとか、お義父さまを失脚させようとしているのではないかと勘繰る必要がなくなりましたわ。裏を返せば、わたくしに赤裸裸の本心を告白していただいたと考えても問題ないでしょう?」

 

「それと、きみの身体が目当てでもあった」

 

 彼は最後の札を切った。が、まあ殿方ですものね、と恥じらいながら流されると為す術がなかった。加えて。

 

「それに下衆びた肉欲を満たすためなら、貧困街の話は伏せたままの方が都合がよろしいのではなくて?」

 

 と一本取ったような表情で言われると降参するしかなかった。

 

「どうして顔を両手で覆われるのですか?」

 

 

 

 日が落ちる前に解散する予定だったが、斑鳩の提案で鳳凰の夕食に招かれる事になった。寮はいいのかと問うと、割と融通が利くらしく外泊許可が下りた。外泊場所が彼女の実家だからかもしれない。

 お抱えの運転手が迎えに来るそうなので、落ちあわせる場所まで数分ほど歩いた。まったく他愛のない会話の途中で、斑鳩は殺されたと思った。

 

 瞬間的な激動だった。失われたのは斑鳩の存在ではなく、彼だった。吐き気を催すほどの悪意に満ちた結界が彼を隔絶した。忌夢による禁術結界、血塊反転によって。

 なんの予兆もなく展開された禁術結界は範囲内の忍びの血を錯動させる。忍びの血そのものに、結界内の空間すべてが、巡るべき血管であると錯覚させる一種の幻術。意識を持たぬモノにまで作用する死への惑わし。封じられなければならない禁忌の術。

 

 彼の指先に針で刺したような、ぷくりとした血の球が浮き出る。その血は ――ゼナを回し飲みした時に体内に入った鈴音の、忍びの血は―― 流れ落ちる前に霧散する。体内に忍びの血を有しなくなった彼は禁術結界から認識されず、結界もまた普遍的機能がエラーなく働き、忍びの血というパスを持たない一般人の意識感覚を偏向させ、内部から事実上の解放をオートマチックに実行する。

 四季と雅緋が先日、彼が結界に侵入したという信号を即座に感覚できなかったのもそのためだ。結界が反応する忍びの血の絶対量があまりにも少ない。しかしパスは持っているので侵入は許さなければならなかった。

 

 そんな事情を知らない結界外にいた忌夢はだから ――内部に居ては術者も血の排出の作用を少なからず受けるので―― 愕然と膝を震わせた。ありえるはずがない。

 血塊反転は忍びの血に幻術を掛けるのであって、忍びの精神ではない。したがって精神制御能力者どうこうの問題ではない。血は結界内の空間をめぐるべき血管と誤認し、錯動するはずだ。血を排出させる、という明確な効力を持つが故に、その際に体内器官を破壊することは許されないが、それでも失血死は免れない。すなわち()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()ということになる。

 禁術を、疎まれてきた異能を。うわ鳥肌がすごい、と袖をまくる彼を見やって、忌夢は失意から意識を手放した。その刹那に、雅緋の気配を感じ取った。

 雅緋、なぜここに。ああそうか、今日は雅緋の自習の日だ。手伝う約束だったのに。なぜ、こんな場所に自分がいるのか。鳥肌を立てる禁術、情けない。笑えない。泣きたい。

 

 

 

 斑鳩が全身の悪寒に気づいたときには結界は消滅しており、おそらく気を失った術者に肩を貸す白銀の髪の少女が立っていた。

 ほんの数秒の内に、めまぐるしく事態は変転している。理解が追い付かない。

 きょとんしているのは彼だ。目の前に神経質そうなメガネを掛けた少女が現れた。ぞわぞわして鳥肌が立ったかと思えば、瞠目して意識を手放しかけるメガネ少女に雅緋が肩を貸していた。

 雅緋……雅緋くん!? ちらと横目で斑鳩を見やる。天からの罰だろうか。あんまりな気がする。

 

 件のメガネ少女 ――忌夢―― によって展開された禁術・血塊反転が術者の意識喪失により解かれた後に、雅緋が慎重に口を開く。 「すまない、敵意はなかった」 ちらと斑鳩を盗み見る。

 禁術を見られたからには消さなければならない。だが、それを彼が見逃すだろうか。いや、そもそも見逃してもらえるのかという疑問すらある。結界は殺害目的に展開されたのだと、素人でもわかる。彼からしてみれば、命を狙った相手をみすみす手放すようなものだ。

 

 しかも、と雅緋はじっとりと嫌な汗をかいた。血塊反転が展開された気配に、間に合わなかったかと肝が冷えたが、別の意味で臓腑が凍える。彼は忌夢の禁術をものともしなかった。化け物か。

 

「いや、よくわからんが別にいいけど」

「お知合いですか」 と、斑鳩。最悪の状況を想定し、おそらく悪忍と決め打って臨戦態勢に移る。彼に明らかな殺傷能力を見せる結界を展開しておいて、ただで返すつもりはなかった。 「何者です?」 視線は雅緋にやったまま彼に問いかける。

 

「知り合いっていうか、うーん。謝ってるし、黙って帰ってもらってもいいんじゃないかな」

 

 その二人のやり取りを見て、雅緋は何とも言えない気持ちになる。おもちゃを目の前で取り上げられたような、おやつを誰かに食べられたような。その横取りされた物に強く固執していれば奪還する気にもなるが、それほどでもないので、どうしてよいものかわからず歯がゆい。

 ただ、彼をかばうように立ちふさがる黒髪の少女は気に入らないということは確かだった。奇妙な違和感も覚える。憮然と言い放った。

 

「わたしはそこにいる男の婚約者だ、いまのところは」 彼に視線を戻す。 「で、そのおんなは?」

「へ」

 と斑鳩。彼に振り返る。

「か、解消の予定だ、その婚約は」 と彼。自身に言い聞かせるように言った。 「えーと、彼女は雅緋くん、で、こっちは斑鳩くん……メガネの子は知らない」

 

「婚約者というのは……」

「話せば長いが、まとめると当人を差し置いて決められた緊急性のある政略結婚のようなものだった。しかしそれが気に入らないので、わたしが政略上の問題を根本から解決することで結婚を解消する約束を取り付けている。だから今のところはといったところ」

 

 はあ、と納得のいかない斑鳩。不貞な気がする。が、それは義父が認める彼の商才目当てなのかもと考えると少し誇らしくもある。恋愛感情のない婚姻を嫌っている一貫性は見て取れるし、それを容認している自分から、雅緋とやらに対する優越感を覚えないでもない。

 

「少少腑に落ちない点もありますが、わたくしの婚約者であることには変わりありませんよね?」

「待て、婚約者だと?」

 と雅緋。

「話せば長いが、まとめると当人を差し置いて決められた形式儀礼的なお見合いそのものが目的の政略結婚のようなものだった。わたしがそれを私的に利用していると白状したものの、斑鳩くんは気にしていないという予想外の答えが出たので、だから婚約者だ」

「なぜ、わたしとの婚約は解消しようと持ち掛けて、そのおんなとは縁を結ぶ」

「誤解するな。わたしは斑鳩くんに鳳凰の権力目当てで近づいたと告白し、その身勝手さからきみと同じように婚約解消を持ちかけた」

 

「わたくし、この方の理念に共感し、好意を覚えましたの」 臨戦態勢を解き、これ見よがしに彼の腕を抱いて斑鳩。密やかにほほ笑んで。 「きっかけは何であれ、彼の心の最奥の吐露を聞いた上での判断です。あなたはそうでないようですけれど……考えてみれば、自らの心中を告白するというのは深い関係になければ不可能ともとれます。そういった彼の信頼を感じたのも理由ですわ」

 

 ぐぬぬ、と雅緋は下唇を噛んだ。斑鳩と条件が同じで、こちらが彼の婚約解消の提案を飲んだ事がどうにも敗北感を覚えさせる。一泊置き、それならばと冷ややかに笑って言った。肩で忌夢がうわ言のように唸っている。うーん、鳥肌禁術、むにゃむにゃ、ひどい、忘れたい。

 

「ま、まあ、いいだろう。仮に多重婚になったとしても、英雄色を好むと言うしな」

「そちらの婚約は解消されるのでは?」 不快そうに、斑鳩。

「予定だ。彼が政略結婚以外の手段で問題を解決できなければ、そうなる。なに、わたしは寛容だからな。そちらは気に食わないようだが……」

「不潔です。その問題とは?」

 

「内内に処理すべき問題なので、部外者には教えることができない」

「それは彼の能力では問題解決に難があると考えているのかしら」

「可能性の話だ。むしろ、彼が予想される結末からはじくような短絡的な思考の持ち主ならば、わたしの方から婚約など願い下げだ」 そういえば、と思い出したように明後日の方向を見て語る。 「そちらは先ほど多重婚が不潔と言ったが、わたしは既に彼と同衾した中にある」

 

 斑鳩は彼を見上げた。頷かれたので力なく口をぱくぱくさせる。そんな斑鳩に勝ち誇ったように雅緋が続ける。 「お嬢さまに耐えられない穢れなら、彼を諦めてはどうだ」

 

「同衾っていうか、一緒のベッドで就寝しただけ……」 言いさし、これはしたりと彼は続けた。 「……だけどもちろん許される事ではないと思っている、だから斑鳩くんがわたしを軽蔑しても仕方がないと思う」

「え、ああ。寝ただけ?」

 

 斑鳩は疑いの視線を雅緋に向ける。雅緋は小さく舌打ちして言葉通りの意味だと認めた。論戦術において、本当の事を言わないというのは手だが、嘘は攻めの起点にされるからだ。

 

「なら、問題ありませんわ」 それでも彼のつま先を踏みつけた。

「しかもその夜はわたしの手作りの料理を食べた! 美味かったろう? 親子丼」

「まあ、うん……なんで話をややこしくさせる?」

「あらそうですか。ちなみに彼は今晩、わたくしの実家で夕食を共にしますのであしからず。もちろんわたし手ずから腕を振るいます。お義父さまも同席して」

 口元に手をやり、上品に笑った。

 雅緋も、つられるように笑った。笑って、不自然なほどのタイミングで笑いを切り上げて、彼をねめつける。

 

「忘れるなよ、もしおまえの力で問題が解決できなければ結婚してくれる約束だからな」

「その問題がどの程度の難度かは知るところではありませんけれど、彼は若くして大狼財閥の中で類まれなる才覚を現当主に評価されるほどの人物ですわ。いまの内に良い人を探しておいた方がよろしいのでは?」

 

 それを聞いて、雅緋は当初の斑鳩に対する違和感の正体に気付いた。ひょっとしたらこいつは、彼が不明瞭なベールに包まれた、計り知れない力を隠す忍びと知らないのではないか? 知っていれば、彼をかばうように立ちふさがる意味などない。斑鳩が彼より優れた忍びならば別だが。

 忌夢の禁術結界は、彼に作用しなかったという不条理な現実に打ちのめされたが故に消失したが、斑鳩は禍禍しく強大な力ゆえに術者が持たなかったと考えているのではないか?

 

 そう考えると、斑鳩の持っていない秘密を彼と共有している事実に内心でほくそ笑む。大狼系列の会社に勤めていたことは調べがついていたものの、一族の者とは知らなかったが。

 思わず笑みが零れる。それに不可解な表情を見せる斑鳩にとどめを刺すように言った。

 

「わたしが悪忍だということは勘付いているだろう? どうして彼が限定的とはいえ、婚約の話に乗ったかを考えないのか? 彼は悪忍だ」

「善忍だとか、悪忍だとか、関係ありませんわ。悪忍と類される人物にも大義を持ち、確固たる信念を持って生きている事を、わたくしは知っています」

 

 やはり斑鳩は善忍だったかと雅緋は客観的に思考した。同年代で自分と相対してこれほどまで啖呵を切り、忌夢の禁術を目の当たりにしても物怖じしない忍び学科の悪忍生徒ならば、知らないはずがない。半蔵か、月閃か。しかし、やはり彼の真の実力までは知らないらしい。

 

「その能天気さが羨ましいよ」

「なんですって!?」

 

 いや悪い、忘れてくれ。雅緋は切なく笑って、忌夢を担いでその場を去った。斑鳩は幸運だ、彼に殺されるという心配をしなくてもいいのだから。と、本心からそう思った。

 残された彼と斑鳩はしばらく立ち尽くしてから、待ち合わせの場所へと再び歩み始めた。遠くに黒塗りの車が見える。待たせてしまったかもしれない。

 

「悪忍ですのね」

 と斑鳩。呟くように。

「否定するつもりはない、蔑んでくれても構わない」

「いいえ。あなたは高潔な目的ためにやむを得ない手段を取っているにすぎないと思います」 一泊置き、ことさら口を重くして言った。 「当初、わたくしと鳳凰を欺こうとした事は問いません。けれど、その高潔さだけは真のままであってください」

「貧困街の問題を処理したいという個人的な目的?」

「それと、わたくしに好かれるように努力するという事、です」

 

 こどものように笑って乗車する斑鳩に、彼は困ったような固い表情で頷いた。

 

 

 

 その後、彼は斑鳩が腕を振るった日本食に鳳凰当主たちと舌鼓を打ち、意味深に当主に晩酌に付き合わないかと言われて書斎へ招かれた。

 

「きみは忍びだそうだな」 バーボンをストレートで一口やって、当主が鋭い視線で彼に言った。 「きょう、斑鳩から聞いたよ。なぜ隠した……いや、隠し通せてこれた?」

「あなた方だって、斑鳩くんが忍びであることをわたしに内密にしていた。わたしにも秘密があると言ったはずです。それに、大狼当主があなたに黙っていた可能性もある」

「大狼当主がわたしに、きみが忍びであることを伝えなかったのは、大狼当主とてきみが忍びであると認知できなかったからだ。言え、きみは、何者だ」

「わたしは、わたしです。ずいぶんとうちの当主を信頼しているのですね」

 

「でなければ、お見合いとはいえ義娘を出さん。相手がきみ以外の人物なら不服を表明するつもりでもいた。わたしはきみを、大狼当主が伏せていた切り札だと考えていた。急速過ぎる、きみが大狼の者だと発覚してからお見合いの話の流れが」

「なら、婚約を先送りにするのも手だと思います。わが国の法律上は未成年者が婚約する場合、両親の承諾が必要ですから」

「きみは……わからんな。破談させたいのか」

「もしも関係者から正当な異議があるのならば、破談されても仕方がないと思っています」

 

 わからん。と鳳凰当主はソファに背を預け、天井を見上げて言った。 「きみは、大狼当主がわが一族を内部から崩壊させるために送り込まれた刺客か」

「だったらいっそ、わたしも楽なのですがね。大狼当主に対する信頼はどこへ行ったんです?」

「信頼している。だから、わたしがその可能性を勘案するのだ。他の者には勘繰らせたくない。きみが忍びであることを本当に大狼当主は知らんのか」

 

 空になった鳳凰当主のグラスに注いで言った。

「第三者から告げられている可能性を除けば、そうです。わたしの口からは言っていません」

 

 鳳凰当主は短く猜疑を思索に走らせた。

 彼の独断で忍びであることを伏せたと仮定する。当主を裏切って。そうする理由はあるのか?

 

 ある。

 

 斑鳩から聞いた、彼が貧困街に強い関心を寄せているという事実を裏付ける形で、ある。

 鳳凰が裏の顔を継がせるために養子を迎え入れた事に対応して、大狼も養子を迎えた ――名を叢――。これには大狼当主も渋い顔をしたが、叢が貧困街出身の少女という事で、偽善的であると理解しながらも最終的には承諾した。

 

 叢は月閃の責任者である黒影の保護下にあったとはいえ、もしも彼が忍びである事を大狼当主に告白していれば、貧困街で苦労したであろう叢を経済的に恵まれた世界に連れくることは叶わなかった。彼が大狼の裏の顔を継げば済む話だからだ。

 もしも今、彼が忍びである事を明かせば大狼一族内部でどのような動きがあるかを、鳳凰当主は容易に想像できた。

 

 血統主義の思想の下、貧困街から引き抜いた叢を排斥する運動は間違いなく加速する。過去に村雨が斑鳩を妬んでいたように。

 だから、彼は大狼当主を裏切ってでも己が忍びであることを秘してきた。という可能性を考慮できる。

 

「きみは私的な理由で貧困街を処理したいそうだな。今でもそうなのか」

「以前ほど強くは思っていませんけれど、そういったモラルは今でもあります。そのために斑鳩くんに、鳳凰に近づきました」

「正直な男だ」 鼻で笑って言った。 「だが、世を生きる上で正直であることがどれほど難しい事か、わからん訳でもあるまい」

「もっと言えば、わたしには同棲相手がいました。その人物に貧困街の問題を解決しろと別れ話を切り出された、と思って鳳凰に近づいた。そりゃあわたしも貧困街を何とかしたいとは普遍的なモラルから思ってはいましたけど、元同棲相手に言われなければ、いや実際はわたしの勘違いだったのですが、斑鳩を騙すように近づくことはなかった」

 

「同棲相手がいた事は知っている。そして今はいないということも。しかし、その人物に言われたから試みた、という話を信用するかは別だ、いや言われていないのか? きみの勘違いだっただけで」 それはともかくと、鳳凰当主は声色を尖らせて続けた。 「斑鳩は養子だ。血は繋がっていない。だが愛娘のようにわたしは接しているし、思っている。その娘の親に、恋愛感情抜きで私的に近づいたと言って、ただで済むと思っているのか」

「関係、ない。最初に斑鳩くんとわたしを利用しようとしたのはそちらだ、わたしはそれに便乗しただけだ。不満があるなら合法的に解消させればいい。婚約に同意しなければそれで終わる」

「だがそうすると貧困街の処理は遅延する。お見合いをした、という形に留まるから財閥間の関係修復はその度合いで収まる。きみは貧困街を盾にわたしを脅している。とも取れる」

「その遅延されたタイムスケジュールが本来の予定のはずだ。わたしの意思でそれを早めようと画策しただけなので、婚約を解消したとしてもそちらが負う責任はない」

 

「わたしが一方的に婚姻を認めないのであれば、大狼側に面目が立たない。つまり、きみが己の計画の為に愛娘と契ろうとしたが故に、婚約を破棄したと説明しなければならない。その場合、きみは大狼当主の怒りを買うぞ。顔を潰したわけだからな」

「かまいません」

 

 鳳凰当主は深いため息の後に言った。「きみは娘と婚約したいのかね、したくないのかね」

 わかりません。という言葉を飲み込んで彼。 「真摯な思いには真摯な行動で返したいだけです」

 

「もういい、わかった。婚約は解消する。大狼にはおまえの不義理な心情ゆえと報告する。大狼側の本家の人間にはおまえを恨んでいる連中もいる、本来ならば、自分こそがお見合いをするはずだったとな。事故には気を付ける事だ。退室。客室にはメイドに案内させる。二度とそのツラを見せるな」

「ご忠告、痛み入ります」

 

 彼が席を立ち、ドアノブに手を掛けると、当主がその背に言葉を投げかける。

「悪かったな、試させてもらった。一杯やろう」

 

「はい?」

 と彼が振り返ると、当主が彼のグラスにスコッチを注いでいる。

 

「気を悪くしたか? そういう男ではないと大狼当主から聞いていたし、わたしはそう感じていたが」

「わたしの話を聞いていましたか? わたしは、私的な理由で鳳凰に近づいた」 デジャヴ。

「仮に娘が好きだと言っても、それは私的な理由だ。本質的に邪か、そうでないかの問題だ」 たっぷりとカイゼル髭を撫でて言った。 「前述のきみの答弁に嘘はないと判断する、大狼に責任を問われるリスクを負っての発言だからな。これからもそうであれば嬉しい。大狼当主からは、意味のある嘘を吐くくらいならきっぱりと言わない、とは聞いていたが……まあ掛けてくれ」

 

 はあ、と彼はソファに腰を預ける。

 

「だから、娘に恋愛感情を持つ努力をする、と言った事も嘘ではないと判断する」

「なんというか、似てますよ、斑鳩くんと」

 

 親子だからな、わーはっはっは。と笑って蒸留酒を一口やる姿を見て、彼はもう逃げ道などどこにもないのだと悟った。あるとすれば、目の前のグラスの液体だ。

 さっと一口胃に流し込む。焼けるようだ。鼻からスパイシーな香りが抜ける。さすがにいい酒だった。

 

「ところで雅緋という少女とも解消を前提とした婚約の約束をしているらしいな」

「はい」

「いや、はいじゃないだろ。理由を聞いていいか? 解消の目途は?」

 と鳳凰当主。しかし、元現役最強の娘と縁を結ぼうとするのだから、蛇女学園長になんらかの思惑があるのはわかる。組織として介入すべきかと考えたが、それは両財閥の関係修復後の方がやりやすいことは明らかだ。

「言いたくありません。先方の問題に関わることです、しかし婚約の解消についての努力は惜しみません。算段もついています」

「だんだんと大狼当主の気持ちがわかってきた。きみは本当にそういう男なのだな。そんな様子では本家連中もいい顔をせんはずだ……意味のある嘘は言わない、というおまえを信用する。大狼当主が信用している事柄を、わたしが信用しないわけにはいかんしな」

 

 こうなったもの、みんな道元のせいだと彼は自棄になる。地球温暖化もきっと道元が深く関わっているに違いない。年を取るたびに白髪が増えるのもそうだ。

 ひょっとしたら今日、雅緋くんと斑鳩くんがばったりと出くわしたのもそうかもしれない。全部道元が悪い。

 八つ当たりに近い思考で彼は、絶対に道元は許さんと決意を固めて酒を呷った。

 

 道元。複数の出資者に裏から金を回すその潤沢な資金源の出所は暗いのだろう。正攻法で探っても特定できないというのは簡単に予想がつく。逆説的に、非合法なビジネスによって築いた富とも。国中の闇を攫ってごた混ぜにした貧困街。すべてはそこが原点だったのかもしれない。

 十中八九、道元の金は汚い。適当に民事訴訟をけしかけて反応を見てもいい、それだけで肯定判断材料にもなる。

 仮に資金源が明るい所から出ているなら正面から食い破るだけだ。商戦で負ける気はまったくない。復社し、大狼当主を頼って子会社の指揮を執り、道元の資金源となっているその市場のことごとくを掌握してやる。今となっては鳳凰とのコネクションも利用できる。

 雅緋との婚姻を解消する絶対的な自信を持って、くそう、と彼は鳳凰当主に勧められるがままに酒をやる。

 昨夜適当なレストランで一人さみしく食事した時、ビーフシチューに嫌いなブロッコリーが入っていたのも道元が関与しているに違いない。なんてやつだ。処理してやる、貧困街が抱える問題と共に。道元の財源を枯渇させてやる。社会経済的に終わらせる。

 彼は会った事もない道元にありもしない恨み辛みを心中で滾らせ、再びグラスを干した。

 

 

 

 少し飲み過ぎたか、と彼は客室のベッドに横になった。ややあって扉がノックされる。寝ている振りでもして居留守を使ったが無駄だった。

 

「雅緋くんが言ってたこと気にしてるの?」

「そういうわけでは……」 戸惑った声で寝間着の浴衣に身を包んだ斑鳩。 「いえ、そうかもしれません。お義父さまとは何を話されたのですか」 彼が潜り込んでいるベッドに腰掛ける。

「きみをよろしく頼むと言われた。それと、今後のこと。あと、わたしが分家ということもあって婿養子の形を取るだとか、跡取りは村雨くんがいるけど。わたしの勤め先がどっちに属するかという問題だな」

「勤め先?」

 

「仕事辞めてたんだけど、復職することにした」

「忍びはどうされるのですか」

「二足の草鞋を履く気はない」

 

 斑鳩は義父に勿論、雅緋の事も話した。名前が正しければ、その少女は過去に現役最強と謳われた忍びの娘らしい。現在では鳴りを潜めているらしいが ――病が原因だが、表には出ていない情報なので当主は知らない――。

 それほどの名家と政略結婚を迫られたのは、商才だけが理由ではない。 ――蛇女の運営状態は客観的には良好にあるので―― おそらく忍びとしての力も認められての事だろう。彼には()()()()()()()()。というのが鳳凰当主の見解だった。両当主にいままで忍びである事を隠し通してきた実力がある。蛇女の学園長が娘の婚約相手に選んだという裏打ちがそうさせた。

 

「お義父さまには止められなかったのですか」

「重婚を回避するために全力を尽くしたい……斑鳩くんも、もう自室で寝なよ」 彼はベッドの端で柔らかく形を変える、肉置きのよい尻を見ないように言った。

「ということは、雅緋さんが抱える内内の問題とは会社の力を持ってして解決する類の事柄なのですね。もちろん、そのつもりですわ。そういった事は結婚してから、というのは常識ですもの」

「はっきり言ってあまり詮索しないでやってほしい。いまのはわたしが迂闊だったけど。彼女も、そのご両親も、他に手がなかった。誰かを傷つけながら前進するしかないと理解している」

 

 そうだろうか。と斑鳩はもう前日になってしまった出来事を脳裏に浮かべてみた。あの雅緋という少女は、本当に仕方がなく彼を求めていたのだろうか。

 なんとなく、お気に入りが他人のものになるのが気に入らず、癇癪を起しているこどもに見えなくもない。いや、あの口論では自分もそうか。

 

「少し無遠慮でしたわ。おやすみなさい」

「うん、おやすみ」

 

 言うが早いか眠りに落ちた彼の寝顔をしばらく見やって、そっと頭を撫でてみる。まだ、彼を愛しているとは言えないのが正直な気持ちだ。好きではあるけれど。だからかもしれない。らしくもなく、雅緋と彼の仲を競うように言い合ったのは。将来的な愛を取られたくない。言い方を選ばなければ、先に手をつけたのはこちらの方だと主張したかった。

 

 という斑鳩の思考と似た弁論で、雅緋は布団の枕に顔を埋めてジタバタしていた。

 け、結婚してもらう約束だからな。などと、まるでわたしが彼に求婚しているようではないか。いや、事実だが、わたしという個人の感情で、というか。まあ政略結婚したいというのも個人的感情でもあって……。

 

 彼を身内にして蛇女内部に招き入れ、学園長派として動いた方が道元一派の排除はやりやすい。それをあえて困難な道を選んで進んでいる。

 そんなにわたしと結婚するのが嫌か。

 もそりと手元の手鏡を覗きこむ。ずいぶんと使っていないので曇ってしまっていた。いや違うか。忌夢、鈴音先生、父上など、他の人間を傷つけたくはないだけだ。たぶん。

 みてくれは悪くない、と思う。わからない、普通のおんなの子ならば手鏡を曇らせはしないか。

 斑鳩という少女は、彼に固執しているように見えた。少なくともわたしよりは。政略結婚がきっかけとはいえ、おそらく周囲の人間を傷つけないから、彼は斑鳩に、わたしにしたように、両断するような決別を告げないのだ。

 

 向こうはたぶん、家族ぐるみで食事をするという事から、祝福されながら婚約するのだ。それに対して、わたしの方はどうだ。彼が一人で道元一派を除外させない限り、忌夢は悲しみ、鈴音先生は傷心し、父上は病に蝕まれる身体に不甲斐なさを悲哀する。

 ずるい。と雅緋は思った。誰にかはわからない。それでも、斑鳩と対極的な婚約結果にあっては、彼も腰引ける。わたしもそうだ、だからわたしと斑鳩はフェアな土台で戦っていない。最初から向こうの方が有利な状況だ。

 

 そこまで考えて、自己嫌悪に陥る。恋愛に勝負事を持ち込むなど非礼だ。だから男勝りだと言われる。女子から告白される。忌夢はそこが魅力的だと言うが、わたしに男らしさを求められても困る。

 

 うだつが上がらず、仰向けになってなんとなしに両手で乳房を包み込む。形のよい柔らかな果実がたぷんと形を変える。

 たぶん、大きい方だ。斑鳩とどっちが大きいのだろうか。そういえば、偶然出くわした金髪の少女とはどちらが……そもそも女の子らしさでは金髪の少女にボロ負けだ。

 

 いや、選ばれたいのか? ばかばかしいと両手を胸から離し、背伸びする。忍びらしい客観的視点を呼び起こす。

 

 たぶん彼に惹かれている、というよりは、興味があるだけだ。もうちょっと内面を覗いてみれば少し気になる異性くらいか。それと、先に婚約の話があったはずなのに斑鳩の方が話が進んでいるのも気に入らない。加えて彼の実力を知らなそうだというのも、腹立たしさすらある。

 鳳凰の裏の顔を継ぐために迎えられた養子らしい、という調べはついているが、それでも雅緋から見れば斑鳩の忍びとしての実力が彼に相応しいとは思えない。そも彼が比類なき忍びなので必然的にそうなってしまうが、それでも実力ならばわたしの方が彼に近い。

 

 ふむむん、と雅緋は ――自分では気づかずに可愛らしく―― 唸った。

 

 金髪の少女よりも、わたしのほうが戦術戦闘能力は上だ。あの時は油断もあったが、その機を金髪の少女はモノにできず、わたしは克服して詰めまで取った。数秒で不利な状況から形勢を引っくり返した。これは客観的な事実だ。

 

 生物学的にはつまり、わたしこそが真に相応しいのでは? 優秀な子孫を残すという遺伝子学的にも。強い種と種が交配し、己の遺伝子を残すというDNAレベルに刻まれた、生命が選択し続けてきた生存戦略。それを人間のしがらみ程度で無為にしてしまっていいのだろうか。――現実にそうなっていないのは、個としての強弱を意識させない社会が作られているからだ。でなければ世紀末――

 ふと、目の前で妖魔に食われた母上が脳裏に明滅した。寒い冬の日だった。雪景色とは切り離されたような赤い何かが湯気を出して撒き散らされる。

 

 雅緋は飛び起きた。呼吸が荒い、身体にはじっとりと気持ちの悪い汗。どうやらウトウトしてしまっていたようだ。顔でも洗おうと洗面所へと足を向ける。

 だいたい、忍びの本来の宿命は妖魔を根絶やしにする事にある。これは善忍悪忍の共通の理念のはずだ。つまり――

 彼がどれほど優れた存在かを理解しているのは、わたしと父上と鈴音先生くらいのものだろうに。斑鳩が彼の腕を双丘で包む姿が瞬間的に想起される。

 ――つまり、強い忍びが必要なのだ。だというのに斑鳩や、あるいは他のおんなに彼の遺伝子を預けておくことが、不愉快だ! 感情抜きの、生物学的な怒りだ。とうてい許せるものではない。

 

 そのように今までの疑獄と不断の思考を両断して洗面所の顔を見やる。忌夢が見れば惚れ直しそうな凛凛しい顔がそこにはあった。

 わたしこそが、鈴音先生が彼を諦めた現状では、最も、適している。斑鳩との対比ともいえる周囲の環境の違いが歯がゆい。だから、あの時、斑鳩に敵愾心を抱いたのだ。宣戦布告のように、彼と同衾したなどと口にするのも恥ずかしいセリフを吐いたのだ。

 

 彼と性行すべきはわたしだ。

 

 そこまで考えて、自嘲気味に笑って表情を崩した。まあ、彼がわたしのことを、種を預けるに値するメスかどうかを決める訳だから、先の結論には大した意味はない。

 

 布団に戻り、しかし冷静になってみるととんでもない場所へと思考を着地させたものだと赤面する。一人部屋でも恥ずかしくなって、頭から布団を被る。

 性行とは、セックスするという事だ。などと当たり前の事柄が浮かんでは消える。保険の授業で学んだ、現実味のない乾いたイラストではない。雅緋の空想の中では、彼がいて、自分がいた。

 自分が下になっていた。そこからシーンが飛ばされ、お腹が大きくなっている。やがて子ができた。彼と笑って子を撫でる。いつの間にか母親になっていた。

 

 彼が任務に出かける。季節は冬だった。雪が降っている。ふと、不穏な気配を察知する。子を逃がすため、育児を理由に長らく離れていた忍びの感覚を呼び戻す。

 妖魔が青い口を大きく開いた。ちらと背後を見やる。そこには自分がいた。こどもの頃の雅緋だ。その子が走りながらこちらを振り返ってしまった。つまり今、妖魔に食われんとするのは、母上であり、自分であり、母親になった自分だった。

 

 身体が上下に引き裂かれた、のは妖魔だった。青い臓腑を撒き散らして破断されている。人間のそれとは対極にある色の血しぶきを浴びることなく、いつのまにか彼が自分の傍らに佇んでいた。振り返る、そこには腰を抜かした子がいた。あの時、母の最期を見てしまった自分ではない。

 雅緋は、涙を流しながら静かな寝息を立てていた。見る者がいれば不思議な事に、微笑みを浮かべて、泣いていた。

 

 

 

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 しばらく経って、両財閥が共同出資して会社を立ち上げたという報は彗星のごとく社会を駆け抜けた。それは世間に対する事実上の休戦、あるいは和解の道を探り始めたという表明に他ならないからである。

 ガワは新しいが、中身は彼の前職と同じ構成員がほとんどだ、両財閥からアドバイザーが派遣されてもいる。形態も合同会社を取る。

 それと引き換えに、鳳凰を考慮して彼は婿養子となる。予定だ。何事もバランスが大事だった。

 

 収支はマイナスか。と道元は自室で呟いた。結局、彼の排除は成功しなかった。遠方から観測していた配下によれば、忌夢の禁術結界は作用しなかったらしい。忌夢本人から詳細を聞きだしたかったが、厳重な護衛がつけられた。

 道元は複数持っている名前から一つを選び、飼っている会社を通じて彼にアポイントメントを取った。建前はビジネスだが、本音は彼の傀儡化か殺害が目的だ。

 本来であれば表に出たくはない、しかし間接的に暗示を掛ける時間的猶予がない。両財閥が抱える圧力団体が国会に働きかけ始めた。やがては立法府を通し、貧困街を対象とした強制力を、国交省は認められるだろう。原則一般入札の公共インフラ事業は特別法を根拠に両財閥へと例外委託され、厚労省と連携して本格的な貧困街の処理に乗り出す。

 彼が管理者に収まっている新会社は、それに特化していた。貧困街を処理する為だけの存在と評してもよかった。両財閥が抱える子会社が、国より委託事業を受けた様様な知識とノウハウをかき集めて出来ている。財閥の持つ立法行政府への太いパイプを使えば政府高官との橋渡しなど朝飯前で、合同会社の持つ強みである迅速な意思決定が彼の手腕により遺憾なく発揮される。

 人権団体を焚き付ける暇もない。

 

 両当主は全権を彼に委任していた。目的は明瞭で、彼が貧困街を処理したという功績を持ってして反当主派を黙らせる。関係修復の道を本格的に歩み始め、長く深い確執を埋めようとしている。

 

 道元はそこまで思考し、計画を実行した。彼を傀儡化させて、徐徐に組織を乗っ取る。それも、両財閥に気が付かれない程度に絞る。露見すれば会社は解体されてしまうだろうからだ。

 タクシーに乗り込み、彼の待つビルへと向かう。

 だが、これはこれで良かったのかもしれない。()()()()彼を傀儡化させても淫楽には走らせる事はできず、不祥事を起こさせようと復職させても、休職期間の短さから不自然だった。

 

 後者のチャンスを得たと考えれば、まあ悪くない。

 道元は会社の応接室の前まで案内された。ドア一枚挟んだ向こうに彼がいるはずだ。忍びの気配を探ってみるが、周囲には感じられない。まず、傀儡化を試み、こちらの精神制御術が彼の先天性の抵抗能力を上回らなければ殺す。

 

 だがしかし、道元は直感した。言いようのない不安に襲われる。ドアノブに手をやる案内係を、ちょっと待ってくれと止めた。怪訝な顔を向ける案内係などは眼中にない。

 なにか、なにかを見落としているのではないか。ひょっとしたら、とんでもない根本的な勘違いをしているのではないかと溺れるように猜疑する。底のない疑獄へと落下し続ける感覚。

 彼は、一般人だ。なんの問題もない。だがこのドアを開けてしまえば、それで合切を奪われると死神が囁いているようだ。

 

 道元は脂汗を額に浮かばせてドアを睨みつける。陥っている気がする、根拠はないがしかし、致命的で取り返しのつかない、本当の勘違いに。人為的運命によって。




次回 本当の勘違い

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