オーク「早く人間になりたい」 作:ボボッキュ
得体の知れない不吉の塊が私の心を終始押さえ付けていた。焦燥と言おうか、嫌悪と言おうか……罪も敵意も無い子供を殺した癖に食べもせず遺棄すれば頭がチカチカするように、毎日拳を赤く染めているとそれに相当した時期がやって来る。
それが来たのだ。 これがちょっといけなかった。最近よく夢で見る過去の思い出や、望郷の念がいけないのではない。また背を焼くような衝動などがいけないのではない。いけないのは、その不吉の塊だ。
無気力。覇気の無い足取りで、独り山を歩き回る。ボーッと同族を探して、雑に殺して……そんな自分が、酷く矮小に思えた。
「……おや。こんにちは」
「───! ───────!」
「参ったな。人間が近くに居ることに気付かなかった。ヴォートカが横に居れば気付いてくれていたのだろうが、彼は猫らしく昼寝中だからなぁ」
数は四、何れも武装した男。装備は統一されており、軍や警察の類いの人間であると推測できる。体臭は極めて薄く、足音もやけに小さい。
彼等は剣を抜き、私に斬りかかってくる。その太刀筋は中々見事で、身体能力においても常人のソレではなかった。
「殺すのは楽だが、そうする訳にはいかない。さて、どう切り抜けるか」
単に逃げるだけでは通用しない。彼等は確かな技術を持って、猟犬のように私を追跡するだろう。かと言って、戦闘能力を奪えば何処にあるかも分からぬ人里まで生還するのが難しくなってしまう。例え敵対すれども、彼等は私にとって守るべき対象だ。剣を向ける理由は、痛い程理解できる。
「はて、どうしたものか。その迷いの無い動きからするに私の首が目当てなのだろう? 上から命令でもされたのか? …………まぁ、応えてはくれないか。どの道、何を言われてもロクに理解なんぞできない訳ではあるのだが」
……仕方ない、か。先に攻撃を仕掛けたのはそちらだ。多少の火の粉は、我慢してくれ。
「もしかしたら、他にも良い手はあったかもしれない。しかし、丁度欲求を発散しようとしたタイミングに襲い掛かられては、頭もロクに回らないんだ。私が取れる、精一杯の平和的な解決方法だ」
拳を甘く握り、一番前に出ている彼の腹を狙いう……
「ッ!」
頭が震える。脳がけたたましく警鐘を掻き鳴らし、心臓の鼓動は銃弾のように加速する。
恐怖。
蛇に睨まれた蛙とは、このことか。私も彼等も動きを止め、ただジッとソレを見つめていた。
竜。
空気抵抗という概念を知らないような、非合理的フォルム。しかし彼は悠然と大空を飛び、そして私達の前に降り立った。
見ただけで、顔を付き合わせただけで、よく分かる。アレが、アレこそが、暴力であると。細胞の奥に閉じ籠るミトコンドリアですら、皆揃ってかの化身に怯え切っている。
「ッ!」
気が付けば、竜は消えていた。四人の男達は呼吸を忘れてしまったのか、青ざめた顔色で倒れている。私は急いで彼等に応急処置を施し、目覚めて再び襲われる前に離れる事にした。
「ただいま」
「……うにゅぁっ!」
拠点に戻ってくると、ヴォートカは物陰に隠れ縮こまっていた。どうやら、竜の気配に当てられて怯えていたようだ。
「にゃおーん!」
「よーしよし、怖かったな」
ヴォートカは私に飛び掛かり、頬を舐めてくる。その姿がなんとも愛おしく、心が癒される。私も彼の頭をそっと撫で、落ち着かせる。
私は、弱い。それを心の底から痛感した。私は驕っていたのだ。数多くの巨大な怪物を打ち倒し、数多くの同族を殺し……己を稀有な強者と捉えていた。しかし、それはとんだ思い上がりであった。
なんだ、あの無様な姿は。アレのどこが強者の姿だ? 笑わせてくれる。
今のままでは、何も守れない。ヴォートカも、この世界に生きる人々も、かの災厄の竜からは到底守れない。ただただ、一方的に蹂躙され終幕を迎えるだけだ。
そのような未来は、断じて許容できない。
正義、秩序、それ等は力によってのみ担保される。弱者に、己の信念を貫き通す事ができるものか。力が無ければ、揺らぐ者を引き留め、悪を正し、巨悪を滅する事はできない。
私は、強くなるぞ。力を蓄え、技を磨き、装備を強化する。かの竜を超えるのは、確かに難しい。しかし、人間の歴史とは不可能を当然にしてきた歴史。江戸時代の人々が、スマートフォンなんて考えられるか?
例え荒唐無稽でも、努力を積み重ねれば道は拓ける。例え私の刃が届かなくとも、次の世代の誰かが足跡を辿り継承してくれる。私は、そう信じていたい。努力と覚悟無き者に、栄光なんぞあるものか。
我が名は中院通義、人間である。
◇
山から同族が根絶された事を確認した私は、現在更に東へと向かっている。体感気温はマイナス20度程で、雪が高く積もっている。吹雪の前兆が訪れる度にかまくらを作っている為、歩みは遅い。意外にも野生動物がそれなりに活動してくれている為、食料に悩んではいない。
「みゃー」
ヴォートカは、体毛から見るにおそらく寒帯の生物だ。確かではないが、実際この辺りで生まれ育ったのだろう。最近はいつにも増してご機嫌で、夜に雪遊びをしてやると大層喜んでくれる。
「おっ、エゾライチョウみたいな鳥が居る」
私は矢を放ち、エゾライチョウモドキを撃ち落とす。本当は特に目立った害鳥でも何でもなく、数も減りつつあり、別に狩猟しなくても良いのだが……ただでさえ人手不足な北海道の猟師の更なる人口低下を防ぐ為、及び食文化を背景に制限付きで狩猟鳥獣リストに残っている鳥だ。つまり、味が良い。
「ほら、おやつだ」
「にゃーっ」
「む……また吹雪が来そうだな。日も落ちてきたし、今日はもう休むか」
私は巨大なかまくらをササッと作り上げ、中で火を焚く。鍋に水を張り、大根のような野生の植物をカット。桂剥きし、面も取る。少量の謎穀物と共に鍋に入れ、火に掛ける。大根のえぐ味のあるアクは、澱粉によって消えるのだ。
下茹でした大根を引き上げ、湯を捨てる。新しく水を張り、たっぷりの肉と共に煮込んでいく。味付けは塩だけだが、今回用いるのはオーロックスのような動物。肉は硬めだが旨味が強い。塩だけでも、丹念に煮込んでやれば深い味のスープが生まれる。
煮込みの待ち時間をどのように過ごすか。以前までの私なら、ヴォートカの腹をたぷたぷ言わせるなり、酒を飲んだりしていただろう。しかし、今の私は貪欲に力を求めている。強風が吹き始めた外に出て、中をパンパンに詰め込んだ背嚢付きフル装備で過酷な筋トレを開始。
私の骨と関節の耐久値は無尽蔵である。回数は決めず、その時々の極限まで追い込む。妥協はせず、甘えもせず、徹底的に追い込む。疲れた、休みたい、これ以上はオーバーワークで却って良くないのでは……悪魔が絶えず私を逃げ道へと誘う。
「全てノイズ、私には1mmも聞こえない」
かつてフルマラソンを4時間半で完走した時に匹敵する程の疲労が押し寄せる中、精神力一本で武器を抜く。フォームを崩さず、素早く滑らかな動きで素振り。真の闘争とは、万全の状態で挑めるモノではない。国や時代に関わらず、戦士の研鑽とは苦行に次ぐ苦行。一流の戦士とは、泣きっ面で蜂を握り潰すものだ。
「……来たか」
深い銀世界に鮮明に染み渡る肉の匂い。飢えた獣の鼻には、この上なく魅力的なことだろう。狼達が、私とかまくらを取り囲む。数は11、距離は80m、本来であれば10秒で皆殺しにできる。だが、この状態では中々侮れぬ相手。かまくらから出て追い払おうとするヴォートカを制止し、弓を引く。
力が上手く入りきらず、弦はあまり曲がらない。しかし、放たれた短槍のような矢は確かに先走った個体の前肢を斬り飛ばした。
「私は大砲だ」
霞行く景色の中、成長に背を向ける己を必死に引き止める。狼達には動揺と怒りが走り、直線的な突進を繰り広げる。槍を抜き、指先の震えを気合いで殺す。大きく、得物を振り回し、奴等を裂く。
「この程度で致命傷を負う実力に甘んじる男に、災いを鎮める事なんぞできるものか。停滞からの脱却とは、無茶を乗り越えた先に有るのだ」
かの竜が、人類に敵対的な存在であるかは不明だ。しかし、彼が近付くだけで大半がショック死となり、例え善良でも諸般の事情が重なり暴れ回れば目を覆いたくなるような被害が出るだろう。
もしもその場面と鉢合わせ、何も出来ぬままに死に行く人々を傍観するだけとなれば……私の胸の中には、生涯に渡る後悔が染み付くだろう。幼体の頃、絶望と苦痛の中散って行った彼女等を救えなかった時のように。
インファイト。狼達との距離は詰まりに詰まり、手を伸ばせば届く程。私は剣を抜き、波状攻撃に細かくカウンターを入れていく。
狼の背を突き、脚を斬り、顔を殴る。実戦によってのみ形成され会得した、野蛮な剣技。しかし、敵を殺すという一点においては玉のように磨き上げられていた。
「ッ゛、……ハァ゛ッ!」
残る個体は、たったの一体。身体は一際小さく、怯えている。しかし精一杯の気概を振り絞り、彼は牙を剥き仇討ちに走った。
ぐらり、ぶらり、極度の疲労に脳が揺れる。私は必死に堪え、閉じた瞼をこじ開ける。その間、僅か一秒。されど一秒。狼は私へ飛び掛かり、首に牙が食い込んだ。
「……残酷だ」
私の首は一般的な成人男性のチェストよりも太い。注射針を押し付けられても簡単に折ってしまうであろう程に皮膚は頑丈で、ピアノ線のように硬い剛毛が薄く敷き詰められている。血の一滴を流させる事すら出来ぬまま、狼は分厚い皮膚の弾力に負け押し返される。私は拳を握り締め、彼の無防備な顎にアッパーカットを放った。
「かの竜にとって、私はこの狼のような存在なのだろうな」
差。圧倒的な、肉体の差。どれ程疲弊していようとも、上手く隙を突こうとも、傷一つ付けられない。私が如何に研鑽を重ねようとも、その格差が是正されるとは思えない。
「尤も、それは研鑽を止める理由にはならんがね」
私は人間だ。涎を垂らして獲物を追い回すしかできないような獣ではない。腐らず、徹底的にだ。研鑽と武装の強化に努め続ければ、可能性を抱くことはできる。
今にも倒れそうになりながらも、己の脚でかまくらに戻る。心配そうにか細く鳴くヴォートカを、腹を撫でて安心させる。焚き火の前に腰を下ろし、鍋の蓋を乱雑に外す。
まばたきは遅く、頭は錆び付いたピストンのように動く。それでも鍋をつつき、胃に流し込む。力を欲する者が食事に手を抜くなんぞ言語道断。逆流しそうになる中、何とか鍋を空にした。
それと同時に、私の意識は雪に溶け込んだ。
◇
雪原を抜けた先には、氷山と流氷の群れが浮かぶ海が広がっていた。対岸が見えない以上、オホーツク海のような凍てつく水面を前に東進を続ける気は起きなかった。次の選択肢は北と南、私は直感的に南へと進路を変える事にした。
「おー」
いやはや、それにしても凄いものだ。こんな生態の動物が居るのか。どういったルートでなら、このような進化を遂げるのだろうか。
どうやら、この地域には急激に気候が変動する緯度があるようだ。ケッペン・ラインと勝手に名付けた目には見えない線から北側には極東ロシアのような寒帯が、私達が現在居る南側には東北のような冷帯に近い温帯が広がっている。
そんな訳で、この丘陵には雪原とそう遠くない場所ながら目新しい動植物が大勢居た。羽を高く展開し鷹に擬態して威嚇する鳩、樹木に擬態して獲物を待つ熊、窒素ではなくフッ素あるいはそれに似たモノを作っていると思われるシロツメクサ……大学で専攻していた訳ではないが、博物学や進化生物学は好きな分野。ただ歩いているだけでも、とても面白い環境だ。
とは言え、私が求めているのは実力を伸ばす為の試練と、強力な武器への手掛かりだ。この丘陵には、それが無い。同族を殲滅したら、すぐに離れよう。
「にゃー」
隣を歩くヴォートカが私に飛び掛かってくる。それを受け止め、たぷたぷの腹を揉む。どうやら、空腹のようだ。
「昼食にしようか」
「みゃ」
弓を引き、矢を放つ。数えきれぬ程に繰り返した動作は肉体の奥底まで刻み込まれ、滑らかで正確。ただの和弓とは思えぬ速度で矢は飛翔し、2km先の風下で欠伸する太ったシフゾウの番の首を纏めて切断した。
「うーむ、我ながら惚れ惚れするな。美しい矢筋」
ここ最近、肉体の成長は今一実感できていない。種族的な限界に達している、そう言われても納得してしまう程に。だが、弓術については別だ。矢作りや索敵も含めて、明確に日々上達し続けている。
「鍛練の成果を活かすことに固執せず、もう少し近い獲物を狙えば良かったか」
シフゾウを横取りしようと近付くウンピョウの足元に矢を落として追い払い、自身の肉体に最適化させたフォームで力強く駆ける。燕の急降下に匹敵する速度の走行によって地面は抉れ、風で低木が吹き飛ぶ。
ヴォートカもまた、出会った頃よりも強くなっている。愛玩動物でありながら、その速度は私にも匹敵する。
あっという間に私達はシフゾウの下へ到着。横取りしようと近付いて来ていた鷹の番も慌てて逃げ出し、背後には高い土煙が昇っている。
「首とオスはやろう。私はメスの身体だけで良い」
「んにゃっ」
爪でシフゾウの皮を剥ぎ、血と内臓をサッと掻き出す。お手軽着火セットで焚き火を起こし、表面を炙る。火に落ちた脂が跳ね、焼肉でもしているかのような匂いが立ち込める。かぶり付けば、オージー・ビーフの肩に近い味が広がる。
堂々と煙を焚きながらワイルドなジビエを楽しんだ私は綺麗に後片付けをし、ハンカチで口を拭く。……そう言えば、この丘陵ってトロロアオイみたいな花が生えているんだよな。頑張れば、粗雑な和紙ぐらい作れたりしないだろうか。
「おっ」
シフゾウの焼ける匂いに釣られたのだろうか。同族達の接近を捕捉した私は弓を構え、一体を残して殲滅。どこから受けたのかも分からぬ攻撃に残党は目に見えて動揺し、覚束ない足取りで逃げ出す。
私達は奴の背後をこっそりと追い続け、やがて洞窟へと辿り着いた。ヴォートカを入り口に待機させ、中へ侵入。すると、酷く息を切らした残党と不安そうな幼体共が私に縋るように鳴きながら近付いてきた。
「あぁ、可哀想に。私が敵だとも、自分だけ見逃されたのも巣を見付けて幼体共を残らず皆殺しにする為とも知らずに」
「グォ……ァッ」
残党の首を掴み、握力で切断。残る20の幼体にも拳を振るい、一体も残さず無慈悲に殲滅する。この感覚だけは、どうにも慣れない。
もしかしたら、この子達は人を襲わない生涯を遂げるかもしれない。もしかしたら、私と同じような存在であったのかもしれない。そんなナイーブな考えが、頭の隅にへばり付いているのだ。
夜目を活かし、暗い洞窟の奥へ奥へと進む。悪臭がムンと立ち込め、鼻腔が不快感に包まれる。布を巻いてマスクの代わりにするが、効果は薄い。
「…………。」
「……ふぅ。やはり、奴等は死なねばならない。甘ったれた考えを抱くな、冷徹になるんだ」
洞窟の最奥には、三人の女性が居た。腹は酷く膨れ、全身の皮膚が荒れている。纏うは衣類ではなく、血と精液と糞尿。瞳は虚ろで、ありとあらゆる希望を失っている。
受精してしまった女性の死亡率は、私が観測する中で100%。出産への過程に幸福という概念は一片も存在せず、恐怖を感じることすら忘れきってしまうような苦痛に支配されているのだろう。
こんな惨状を見ながらも、私は今勃起している。大量の透明な粘液が尿道を抉じ開け、パンツをグショグショにしている。そんな自分と、この種族が、憎い。
「これより……この中院通義が、貴女方を介錯致す」
私が今から行うのは、殺人だ。だが、だがしかし、私にはこれ以外の彼女達を救済する方法というものが全く思い浮かばないのだ。せめて、せめてだ。後数週間、耐え難い苦痛を味わうだけ味わってではなく……今ここで、即死させてやりたい。
「ふぅっ……ふぅーっ……」
抜刀。
構え。
振り下ろす。
「どうか、安らかなる眠りを」
「む」
彼女等を遺体用のおくるみに包んだ私は、洞窟を出ようと踵を返す。その時、何やら人工的な物体が落ちている事を確認した。
「鞄……彼女等の誰かの遺品だろうか」
開けてみると、中には旅の道具と宗教的な雰囲気の小道具、如何にも思い出が詰まっていそうなペンダント、それと数冊の本が入っていた。
「この本には、かつて山小屋で見掛けた薔薇と蛇の紋章が無いな」
死体漁りのようで憚られるが、開いてザッと読んでみる。
「文字は同じに見えるな。あれから結構な距離を歩いた筈だが……相当大きな勢力の言語なのだろうか。あぁいや、英語とスペイン語みたいな似ているだけの別言語説もあるか……って、ん?」
なんだ、この本。やたらと図形が多い。しかも正確に描かれているし、図形の中に特定の文字群が書き込まれている。しかもこのレイアウト……
「まさか、数学の本か!?」
稲妻。
そうか数学、数学があった。数学なら、この世界のモノも私の知っているモノも、字が違うだけで中身は同じな筈。なれば、図形や公式と思わしき文字列を見て、単語の意味や文法を……
「いくつか推測できるんじゃあないか……?」
そうと決まれば、急いで彼女等の葬儀を済ませ、解読に集中しよう。鍛練も大事だが、言語の理解も大事だ。
「本当は全ての遺品を共に火葬してやりたいが……すまない。本は貰っていく」