オーク「早く人間になりたい」 作:ボボッキュ
解読は順調に進んでいた。この言語圏における数字や基本的な数学記号、それと二十進法が採用されていることは一ヶ月で分かった。ただ面倒なことに、この言語圏における7に相当する文字がアラビア数字の4と酷似しているのだ。これによる計算ミスが発生しないよう、注意せねばな。
そんな中、私はとある理由で行き詰まった。解読の手掛かりが見付からない訳でも、モチベーションが無くなった訳でもない。簡単に言えば、記録媒体の不足である。伐採して木板を作り、それを爪で彫るには限界がある。そんなやり方では、解析結果を拠点内に管理しきれない。読み返したくなっても、目当てのモノを探すのが困難だ。
よって、私は和紙作りに挑戦してみる事にした。幸い、原料は揃っている。後は自らの知識で試行錯誤するだけ。そして苦節二ヶ月、私はようやくマトモな品質の和紙を量産することに成功した。マトモと言っても、職人に見せれば鼻で笑われ、書店に安物和紙として置くことも許されない粗悪品だがね。
筆は適当な偶蹄目の毛で拵え、墨も煤と膠で作った。他にも溝引きや円規なんかも作った。私の家は伝統と日本文化を重んじるタイプでな、小学生の頃には父と一緒に書道セットを自作したのだ。実際には、殆ど父が作ったようなものであったが。
「……私も、あんな立派な父親になりたかった」
おっと……いかんな、過去を振り返ると立ち止まりたくなってしまう。私は強力な武器を探す手立てを求めて言語を解析しているのであって、懐古に興味を抱くべきではない。
「やはり、書き心地は悪いな」
急ぐ程でもないが、改善は必要だな。取り敢えず今までのデータを紙に写して、本として纏めておこう。
◇
「…………。」
停滞。
私の言語解読は、一ヶ月に渡る完全なる停滞という醜態を晒していた。
同族を殺し、獲物を狩り、武を磨き、道具を作り、ヴォートカの腹をたぷたぷし、解読する。そういった生活を三年近く続け、ほぼ全ての公式を和訳した。
そう、ほぼ全てだ。たった、たった一つの公式。私は、そのたった一つの公式がてんで理解できないでいる。
「本の内容としては、精々高校一年生レベル。いくら大学卒業後は数学から離れていたとしても、この私が知らない筈がない。もしかしたら、独自の公式や、令和では否定された公式なのだろうか」
今思うと、三平方の定理は実に分かりやすかった。なんせ、図形を見ただけですぐに分かった。この言語圏における平方根の書き方も分かった。
「何か、何か致命的なミスを犯しているのか……?」
私の言語解読は、自らの知識と照らし合わせての推測が主となっている。もしも最初期に字を誤訳してしまい、それを思い込み続けたまま取り組んでいたとしたら……
「少し、気分転換でもしよう。このような状態では、出る案も出ない」
石窯を焚き、湯を張った石鍋を沸かしてから軽く冷ます。ツバキ属の葉を用い、精一杯それっぽく拵えた緑の粉末を陶の茶碗にふるい落とす。そこに湯を注ぎ、手首で茶筅を振る。最後は泡を中心へと集めるようにし、ゆっくりと茶筅を抜く。
「…………ふぅ」
香りは微妙だが、味は悪くない。本物に近い苦味と甘味を、しっかり両立できている。この抹茶モドキは、私が作った嗜好品の中ではかなり再現度が高い方だ。尤も、嗜好品自体殆ど作っていない訳だが。
「環境を変えてみるのも、一つの手か」
おそらく、この丘陵からは同族を根絶させられた。解読に集中する為に居残っていたが、そろそろ潮時かもしれない。寧ろ、居心地の良さに長居しすぎてしまっていたのだ。
「必要な荷物とデータを纏めて、南進を再開しよう。この抹茶と茶器を持っていく余裕は……いや、身長は伸び、リザード革も余っているのだ。背嚢をより大きく作り直そう」
◇
丘陵を南下すれば、目と鼻の先に湿った肥沃な平野が広がっている。極稀に戦士や巡礼者と思わしき人間が訪れる程度だった丘陵と比べ、明らかに人間の気配が濃い。この地は同族の支配領域ではなく、人間の支配領なのだろう。丘陵の同族達は日常生活を北で送りながら、繁殖のタイミングで南へ誘拐遠征に向かうという生活を送っていたと思われる。
という訳で、私達はできる限り人目を避けて動いている。尤も、ヴォートカが居る以上完璧に隠れることはできないが。今の所は、何とか対人戦闘の発生を避けられている。この調子で最後まで……
「……行きたいものだったのだがな」
私はこの世界の理を知らない。戦争の臭いが薄れきった日本で育まれた思想や価値観はおそらく異端的であり、数年のサバイバルを経た所で大きな変化は無い。
故に、この行動は彼等にとっての道徳からは逸脱しているのかもしれない。もしかしたら、てんで筋の通っていない非常識的な行動なのかもしれない。人間達からの悪感情を誘い、また刺客を送られるかもしれない。
けれど、けれどね。
「私は、いつだって人から流れる血が少ない未来を選ぶ」
茂みを突き抜けて放たれた矢は光線のように真っ直ぐ進み、その軌跡は地面と平行に線を描く。熊の牙で拵えた硬質な鏃は零式艦上戦闘機の最高速度を凌駕し、200m先の樫の木と共に文字通り木っ端微塵となった。
耳すら裂いてしまうような風切りの直後、フラググレネードのように撒き散らされた木片と轟音。多少離れていると言えども、決して無視できるモノではない。彼等の動きは止まり、視線は集まる。
僅か数秒。しかし、私にとっては長すぎる程の時間であった。
如何にも貴族といった風貌の、帯刀一つしていない男。対するは、傷だらけの鎧を纏った騎兵隊。その雰囲気は険悪極まり、貴族は強い殺気と共に追い回されていた。騎兵隊の何人かは鮮血が顔と武器に付着しており、既に貴族側の護衛が殉じた後なのだろう。
「事情は分からんが、貴殿等が法律によって保証された正当な逮捕権を有する公の人間である可能性は低いように思える。推定無罪の原則を前提としながらも貴殿等が賊や反社会的暴力組織の可能性を憂慮し、まこと勝手ながら彼の撤退を支援させていただく」
200m近い距離を一気に駆け抜け、両者の間へ飛び出す。八人と八頭が動揺に包まれるのを肌で感じ取りながら、雄叫びで更に動きを止める。
「───!?」
「───────」
「──────────!」
私の気迫に恐れをなしたのか、馬達は一斉に踵を返し駆け出す。一際体格の良いリーダー格と思わしき男は何とか逃走を止めようとしているが、他の者は馬と一心同体であった。貴族風の男もまた逃走を再開し、距離はドンドン開いていく。
「よし、これでもう安心だ。……大丈夫かな。実は覆面警察や野戦直後の軍人達と、逃走する大犯罪者だったりしないよな?」
心配な点が無いと言えば嘘になる。だが、この選択に対する後悔は無いと胸を張って言える。最も悔いの少ない選択をしたのだ。私は、私の正義に従った。ただ、それだけの話だ。
「……見て見ぬフリは、もうしたくない」
◇
キョルフ平野、マーロー侯爵家が治める大陸最東端の僻地。されど肥沃な黒土による農業と海上貿易によって古くから栄えており、領都ケイヨードは王国屈指の文化と芸術の街である。
そのキョルフ平野を、乗馬した男達が歩いていた。中でも一際豪奢な服を纏う男の名は、ファスサード・クロウ・マーロー。マーロー侯爵家が若当主である。
ファスサードは大変な女好きである。時には、少しばかり強引な手法で街の娘を愛人にすることもあった。しかし、想い人を持つ者には決して手を出さず、暴力や嘲笑を向ける事もなく、本人にも家族にも十分な金を渡した。色欲にまみれた下衆なドラ息子ながらも、貴族としての一握りの矜持は確かに父から受け継いでいた。
その証左とでも言おうか。ファスサードは北方のサミ村が大凶作に瀕しているという報が入ると同時に自ら赴き、幼少より積み重ねた多種多様な学問を活かし原因を究明、免税の話も纏めて帰路に就いている所であった。
「いかがなされました」
「よい」
先代マーロー侯爵が提唱した新時代の暴風雪対策こと防風林、その木陰でファスサードは目一杯着飾った白馬を止める。
「出ておじゃれ! 遠慮はいらぬ!」
静寂。護衛の騎士達が怪訝な顔で主を見つめるだけで、他に何も動きはない。それでも尚、ファスサードは種も仕掛けも無い樹木を睨み続ける。彼の目は、''特別''だった。
「臆したか、イウスノアの尖兵よ。姿は隠れていても、獣は臭いで分かりまするぞ!」
「なっ……!」
何処に隠れていたのか。いつの間にか、ファスサードの睨む先には三十三人の騎乗した男達が現れていた。
「お、お下がりください!」
「結構。そなた等では、足止めも難しい」
「……待っておったぞ、ファスサード」
リヴァール・プー・マ・ジサイド、マーロー侯爵領東部に広がる海を渡った先にある大イウスノア帝国の元副宰相。語学堪能であり、周辺国全ての言語を翻訳者抜きに話せる。
大イウスノア帝国は世界一の超大国である。王国もまた列強と数えられてはいるが、人類領域における地表の1/3を支配するイウスノアとの国力差は一朝一夕で埋まるようなモノではない。
帝国を名乗ってこそいるが、皇帝や貴族の力は弱い。一介の田舎騎士であったジサイド家が大内乱で成り上がり、一族で宰相の座を独占し実権を掌握している。イウスノアとの貿易を主要産業の一つとしているマーロー領における影響力は、極めて大きい。
「……何故、理解せぬのだ。阿片輸入の取り締まりを表向きだけに留めよ! 阿片で王都を弱らせ、マーロー港から二十万の兵を上陸させ、王国を植民地とした曉には総督の座と……」
「だまりゃ!!!」
「なっ……無礼者! ここにおわす御方を何方と心得る! 畏れ多くも先の副宰相、リヴァール公であらせられるぞ!」
「無礼じゃと……? 思い上がるでない! 余は恐れ多くも陛下より侯爵の位を賜わり、交通副大臣を務めた身じゃ! すなわち陛下の臣であってジサイドの家来ではおじゃらん! その余の領内で再三の狼藉を働くとは言語道断! 曾祖父より続く縁と言えど、最早堪忍袋の緒は弾け飛んでおじゃるぞ! この事直ちに陛下に言上し、きっと七国議会に掛け合うてくれる故、心しておじゃれ!」
最後通牒の更に後に開かれた小さな交渉は、呆気なく決裂した。ファスサードは強欲で、利己的で、保身家である。しかし、マーロー家五百年の父祖より受け継ぎし王朝への忠誠の前においては、リヴァールの甘言なんぞ寝耳を這う蝿の音に等しかった。
「……残念だ。カーク! スケイド!」
「ハッ!」
「ホッホッホ……たった三十ばかりの騎士で、余を倒せると? 見くびられたものよのぉ」
両軍、武器を抜く。リヴァールは二名の騎士を護衛に引き連れ、北方丘陵沿岸部に停泊させた揚陸ガレオン船に戻る。社交界においてファスサードは王国一の剣豪として人気を博しており、老体のリヴァールにとって相討ちに徹される事だけは避けたかったのだ。
ただ、それは暗殺部隊の戦力低下だけでなく結果を直接確認できない事を意味していた。
リヴァールは暗殺成功を確信している。なんせ一切の家格を無視して戦功と試験のみで選定され、尚且つ百個の椅子しか用意されていない宰相騎士団から三十二人も連れて来たのだ。その全てが、並みのオークならば撲殺できる程の怪物である。
しかし、ファスサードはそれを凌駕する怪物であった。
護衛が十秒で全滅すると同時に、四つの生首が宙を舞った。地面と衝突した衝撃で漸く生首は自身の置かれている状況を理解し、血を流し始める。
「聞き及ぶ以上の実力だな……」
「この圧力……あいつを相手にした時以来か」
戦況は均衡。騎士達は続々と倒れているものの、ファスサードもまた疲労や軽傷を重ね弱っている。そして……ついに、剣が折れた。彼の剣は、ドワーフの名工が親子二代に渡って作成した世界中の剣豪が欲しがる名剣。これが無ければ、大剣豪と言えども分厚い鋼鉄の全身鎧を纏った精鋭集団に打ち勝つ事は困難を極める。
「むぅ……」
「投降しろ、マーロー侯。閣下は寛大で、卿とも遠からぬ親戚。大人しく虜囚となるのであれば、また美女を抱けるであろう」
「例えこの身朽ち果てようとも、国を売るつもりは断じておじゃらん! じゃが、ここで最期を遂げるつもりも無い! 城に戻り、海岸に防衛線を築かせてもらうでおじゃる!」
「愚かな……我々の追跡を振り切れるとでも?」
ファスサードは下がらせていた馬を呼び、飛び乗る。向かうは領都ケイヨード、そこまで到着すれば無数の兵士と兵器が追っ手を殲滅してくれる。騎士達も馬に乗り、逃げるファスサードを最高速で追い掛ける。
距離は少しずつ、しかし確かに縮み続ける。こと馬術においては、普段騎乗戦闘を主とする宰相騎士団に分があった。飛び道具を歩兵の武器と決め付け軽んじていながらも、宰相騎士団が武力の代名詞であるだけの技量がそこにはあった。
「さぁマーロー侯! 後もう少しで、俺のランスが貴様の愛馬の尻穴をぶち抜くぞ!」
「下品な……」
もっと早く撤退を選択しておけば良かった。最後通牒を丁重にお断りした後なのだから、領都から出なければ良かった。ファスサードの脳内を、走馬灯と共に後悔が駆け巡る。
「ッ、なんだ!?」
鋭い風切り音。その直後、酷い耳鳴りを誘う程の轟音と共に小さく鋭利な無数のナニカが騎士達を襲う。馬は怯み、足踏みをして暴れ回る。
土煙。太く、高く昇った土煙。厳しい訓練と重厚な経験から形作られた鎧すら貫通する動揺に支配される両者の間へと電撃のように潜り込んだソレは、木々を抜ける穏やかな風によって徐々に晴れて行く。
「オーク!?」
「デカすぎんだろ……」
「おいおい……久し振りだなァ!」
特別観測個体''碩猪''。体長3mを超える巨体、高度な知能と理性、複数の自作武器。碩の字を与えられた、史上最も奇怪なオーク。
「また……また俺のキャリアに泥を塗りに来たのか!?」
碩猪は大きく息を吸い込み、高らかに叫ぶ。竜が如く天を衝く咆哮は木々を震わせ、鷹を地に墜とす。訓練されきった極上の軍馬や騎士達ですら意識を保つ事で精一杯、本能のままに逃げる以外の選択肢は思い浮かばなかった。
「ッ……今でおじゃる!」
「なっ……クソッ! セトゥーバ! 逃げるな! 奴を追え! 追うんだ! 言うことを聞け! おい逃げてんじゃねぇぞテメェ等! 騎士の敵前逃亡は即刻処刑だぞ!」
暴力。
暴力の化身。
その姿、正に災厄。
絶対的で、根源的な、恐怖の象徴。
醜き獣が、ついに人類へと牙を見せ付けた。