琴の音に耳を澄ませて 作:緑雨
「トレーナーさん! また、やりましたよ!」
「おめでとう! これで2冠だね」
「はいっ!」
「おめでとう。強いわね」
「おめでとうございます!」
「ありがとうございます!」
NHKマイルC、勝ちました! 難しいことは考えず、自分の走りに専念して走り切りました。もう少し掘り下げると、前に行ったウマ娘のすぐ後ろに入ってレースを進めて、最終直線で内を突きました。すぐ後ろにいたハートさんに迫られたんですが、何とか振り切って、1着です。
G1連勝… きっと、1年前のわたしに言ったら信じてもらえませんよ。その難しさは、よく知ってましたから。桜花賞を勝って、オークスで涙をのんだウマ娘は数多くいます。勿論、トリプルティアラ、つまりG1を3連勝することが目標で、夢ではあったんですけど…
とても難しいことですから、あくまで夢だったんです。本気で目指すけど、それは夢物語。心からの自信も、高々と掲げられるだけの決意も、まだあの時はありませんでした。トリプルティアラを目指して、ティアラの魅力を色んな人に知ってもらう… それが、あの時の目標でしたから。
でも、メイクデビューと新潟ジュニアを勝って、トリプルティアラの夢が現実味を帯びて、そこからアイビーステークスで砕け散って、阪神JFで涙をのんで。でも、あの負けも良い思い出です。負けたのが良い、なんてことはないですけど… あそこで負けたから、今、わたしはここにいるんですから。
あの時、本気で悔しかったんです。それで、自分でも気づきました。わたし、トリプルティアラの夢を、本気で追い求めていたんだって。ずっと夢として語ってきたその舞台に、全てを懸けてでも辿り着いて、ティアラを手にしたいと、本気で思ってるんだって。あの日から、曖昧な夢じゃなくて、確かな目標になったんです。
その目標も、砕かれることにはなりましたけど… マイル路線に道を定めて、良かったと思います。桜花賞を勝てたこと、NHKマイルCを勝てたことはもちろんですけど… わたしが目指した、ティアラの夢。それが今日、叶ったんですから。ティアラ路線のウマ娘が、クラシック路線のウマ娘を倒して、ティアラの未来を照らす。わたしがその中心にいれたこと… この上ない、幸せです。
「本当に、ありがとうございました」
「こちらこそ。何度だって感謝するよ。ありがとう、そしておめでとう」
「おめでとうございますっ! 本当に、おめでとうございます!」
「クラフトちゃん、凄かったね♪ おめでとう!」
「ありがとうございます、応援のおかげですっ!」
NHKマイルCの興奮が冷める間もなく、翌日にトレセン学園まで帰ってきました。そのまま夜にみんなとパーティーです。みんなって言うのは、チームのみんなとトップロードさんと、カレンさんです。
「そうだ、トロフィー持って写真撮影しようよ。そこの桜花賞のトロフィーと、今回のトロフィー両方持ってさ」
「いいですね、お願いします!」
「じゃ、棚の鍵開けるよー」
桜花賞のトロフィーは、トレーナー室のガラス棚に飾られています。今日からはそこにトロフィーが2つ並ぶわけですね… 桜花賞とNHKマイルC、わたしのトロフィーが2つ、壮観です。もちろん、新潟ジュニアやフィリーズレビューのトロフィーもちゃんと保管していますよ。親に送って、実家に飾ってもらっています。実家に帰る時は桜花賞のトロフィーも持って帰りますけど、必ずトレーナー室に戻します! だって… これは、チームリラで勝ち取ったものですから。わたしのトロフィーですけど、わたしだけのトロフィーじゃないんです。
「撮りますねー」
「カレンも撮りまーす」
「私も撮ろっと」
「…私も、スマホで撮って親に送るわ」
「折角なので私も撮ります」
「写真会みたいですね」
カメラ2つとスマホ3つ、こんなに向けられると少し照れ… は、しないかもです。G1勝った後の会見は、もっと沢山カメラがありましたからね。 …知り合いにここまで向けられたことはないですけど、向けたことはあります。場馴れ… って感じです。
「よしっ、料理取ってくる!」
「お供します!」
「いや、トレーナー寮だから1人で行くよ」
「それなら私が行くわ」
「ん… それなら手伝ってもらおうかな」
「…え、アヤベさんは入っていいんですか?」
「許可は取ってるから」
「私も写真を現像する為に、少し離席いたしますね」
…アヤベさんはどうして許可を貰えたんでしょうね? わたしも入りたくて、たづなさんにお願いしたんですが、ダメと言われました。現役だから… ですかね? あ、アヤベさんも復帰したから現役ですよね。それなら、どうして…?
「そーれーなーらー、待ってる3人でトランプなんてどうですか? 確か、この棚に…」
「カレンさん、詳しいですね」
「アヤベさんに教えてもらったんです、暇な時用に置いてるらしいですよ」
「なるほど…」
「…あ、ガラス棚の下は開けないでくださいね。詳しくは聞いてないんですけど、開けちゃだめらしいです」
「そう言われると気になっちゃう… 後で聞いてみませんか?」
「はいっ! 実はわたしも、凄く気になってるんです!」
トロフィーを飾ってるガラス棚は、桜花賞のトロフィーを飾りたかったので、その為にわたしが頼んで、トレーナーさんとアヤベさんに用意してもらったんですけど… ガラスになってるのは上半分だけで、下半分は普通の棚なんです。そこに何が入ってるのかは、わたしも知りません。
もちろんですけど、勝手に開けるのはダメです。見ていいものなのかわかりませんからね。チームに関する大切な物とか、プライベートな物かも知れません。ですので、必ず許可を取ってからです。 …気になるなぁ。
「はーい、お寿司だよ」
「ジュースとケーキもあるわよ、机を片付けて」
「あ、はいっ、片付けます!」
「あの、1つだけ気になったことがあるので、聞いてもいいですか?」
「どうかした?」
「あそこって、何が入ってるんですか?」
「……思い出よ。天に届けたい、大切な物をしまっているの。あの子に、見てほしくて」
「…さ、料理食べよ?」
アヤベさんの言う、あの子って… 妹さんのこと、ですよね。妹さんに届けたい物を、この棚に… 私室の棚じゃなくて、わたしのトロフィーの下にしまっているんですね。もしかして、ですけど…
「わたしのトロフィーも、妹さんに…」
「見てほしいと思ってるわ。あなたは誇りだもの。 …不快だったら、ごめんなさい」
「そんなことないです! 凄く、嬉しいです。アヤベさんに大切な物って、認めてもらえたような気がして…」
「認めてもらえたって… そんなこと、気にしたことすらなかったわ。認めるとか認めないとか、考えたこともないわよ」
「それは、わかってましたけど… 誇りとまで言ってもらえるのは初めてですから。アヤベさんの誇りとして… これからも、頑張ります!」
「アヤベさんだけの誇りじゃなくて、私達の誇りだよ、クラフトちゃんは」
「…そうですね。チームリラの誇りとして、もっと精進します!」
…少し、照れちゃいます。写真は慣れましたけど、褒められるのは慣れてない… 色んな人に褒められたことはありますけど、やっぱりアヤベさんとトレーナーさんに褒められるのは特別です。それも、誇りって最大級の褒め言葉じゃないですか。なので… とても、嬉しいです。この気持ちを表すのに、それ以外の言葉は要らない気がします。
「現像できました! こちら、どうぞ!」
「ありがとう、部屋に飾るわ」
「私もそうしようかな」
「カレンは… 大切に保管しますね♪」
「私もそうしますね」
「わたしは… 親に送ろうかな」
…綺麗な写真です。自分がトロフィーを両手で抱えてる姿なんて、中々見る機会のない写真ですが… こうやって見ると、トロフィーってとても綺麗ですね。桜花賞とNHKマイルC… 見た目は全く違うのに、どちらも美しいです。
「さ、料理を食べるよー! 好きなだけ食べていいからね」
「そうね… 今日だけは体重とか考えず、幾らでも食べていいわ。トップロードさんも、トレーナーさんに許可を貰ってあるから、好きなだけどうぞ」
「でーもー、まーずーはー?」
「クラフトちゃんが最初に、どうぞ!」
「いただきます!」
マグロにサーモン、イカやエビ、ハマチにイクラ、その他もろもろ… こんなにお寿司が並んでるの、初めて見たかも知れません。もちろん、わたしだけのお寿司じゃありませんけどね。さ、何から食べましょう…
「…久し振りね。前に誰かを置いて走るのなんて」
「に、逃げ切るぞ〜!」
「必ず捕まえるわ… たとえ砂上でも、私の末脚が錆びることはないもの」
「準備、良さそうですね。それでは、よーい… ドン!」
今は5月3週、月曜日です! えっと、アヤベさんのレースに向けて、実戦感覚を補う為の併走をしています! その… ダート、とても走りづらいですっ! それでも、アヤベさんの為に、本気で頑張ります!
「例え、砂の上であっても… わたしは、わたしの道を切り開くのみ…!」
「…絶対に、射程圏から逃さない」
今回の条件は三宮ステークスと同じ、1800mになります。トレセン学園内のコースなので、その他の条件は違うと思いますが… 1周回る右回りのコースというところは同じです。1周するコースは芝でも走ったことはないので、どうすればいいのかわかりませんが… 最初のコーナーは、仕掛けずに素直に回りましょう。
2コーナーも、特に何かを意識することなく、素の状態で回りますよ。落ち着いて、落ち着いていきます。いつもと違って前で誰かが引っ張ってくれることはありませんから、わたしは冷静に自分の走りを貫かないといけないんです。大丈夫、わたしならできる…!
ここから向こう正面、アヤベさんとの距離は… だいたい、2バ身から3バ身程度。全盛期のアヤベさん相手なら絶対に足りないリード… まだ衰えてる印象もありませんし、ダートの上でもあの末脚が出てくるかもしれません。それなら、更にリードを…
いえ、そんな必要はないですね。今回はアヤベさんの調整の為に走ってるんですから。負けたくはないですが… 勝ちに拘る必要はないんです。わたしがするべきなのは、自分の走りをすること。普段と違うことはせず、そのまま行きます!
3コーナー、差は変わらず。普段通りに行くなら、仕掛けるのは… もう少し待って…
「ここだ〜っ!」
「焦らない、焦らないわよ…」
仕掛けるのは、第4コーナーの入り! 最終コーナーの入りであり、終盤区間の始まりでもあるこの場所で仕掛けて、そのまま押し切る! それが、それこそが… わたしの、必勝のパターン! 一気に、振り切りに行きます!
「最終直線、このまま…!」
「たとえ、どんなレースでも… 私の願いは、常に1つ。あの子に誇れる勝利の為に…!」
「…っ! 来た…」
振り返らなくても、わかります。アヤベさんが、わたしを飲み込むような勢いで迫ってきているんです! アヤベさんもダートは走りづらいはずなのに… 3バ身、2バ身、1バ身と、どんどんと近づかれて…
「並ばれた… けどっ!」
「競り合うつもりはないわ」
…くぅっ、無理です。競り合って、粘り込もうと思ったのに… 並ぶこともなく、そのまま差し切られてしまいました。これでは… どうしようもありませんね。 …後で反省しましょう。どうすれば、勝てたのか…
「…案外、動けるものね」
「負けたー!」
「G1級とは言わないけど、十分タイムも出てる。全然、衰えてないんじゃない? ほら、こんな感じ」
「例年の三宮ステークスの勝ち時計を考えれば、戦えると思います」
「それは良かった… だけど、飲み物貰える?」
「はい、どうぞ」
ふぅ… 負けちゃいましたけど、楽しかったです。アヤベさんと本気で走ることなんて滅多にないですし、本気の末脚を受ける機会もありませんでしたから。やっぱり、アヤベさんは凄いです。少しは粘れると思ってたんですけどね… 手も足も出ませんでした。もう少し長かったら、大差をつけられていたかも知れません。
「…部屋に戻りましょう、人が集まってくるわ」
「そうだね、急ごうか」
「先に資料を準備してきます!」
「ありがとっ!」
クロノちゃんが走っていっちゃいましたけど… 走るのは無理ですね、レースの直後ですから脚が限界です。資料… 三宮ステークスの資料、ですよね。あまり詳しくない… というよりも、全く知らないので、勉強しないとですね。阪神1800m、でしたよね。そこだけは覚えてます。
「それでは、三宮ステークスが開催される阪神ダート1800mのコース解説を始めます。まずはお手元の資料をご覧ください」
「マップだね、スタートが4コーナーの直後で…」
「ゴールが1コーナーの手前ね。1周回って、最終直線を走る。わかりやすいコースね」
「ですが、この直線が曲者です。芝コース同様の急坂が存在しており、スタート直後とゴール手前という要所で襲いかかってきます。また、直線も長いとはいえませんので、1コーナーまでの位置取り争いは苛烈を極めます。短く坂のある直線… ダートということも加えると、パワーが重要なコースと言えます」
「なるほど… 難しそうですね」
難しそうです!
「それに、急坂が2回もあるなら体力も使うわね。スタミナ勝負… って認識でいいのかしら?」
「一般的な1800mのコースに比べれば、遥かにスタミナが必要なコースで間違いありません」
「逃げを絶対に許さないような位置の坂だね… スタート直後の出足を削がれ、ゴール手前でスタミナを刈り取る。ダートは基本差しが不利だけど… このコースなら、アヤベさんの末脚が効くんじゃない?」
「それでも追込は厳しいわよ。昔のように走れるわけでもないもの… 前目で行くわ」
アヤベさんが前目で… イメージにないです。アヤベさんといえば、スタートから最後方に下がって、4コーナーで大外を回って、最終直線でズバッと切れる末脚で全てを抜き去る! そんなイメージです。
「トレーナー、クロノさん。さっきのタイム、少し騙ったでしょう?」
「…バレた?」
え… そうだったんですか!?
「わかるわよ… 私もクラフトさんもダートが本職じゃないもの。そう簡単にOP競走を勝てるようなタイムが出せるなら、私はダートのスペシャリストになれるわ」
「すいません… でも、悪いタイムじゃないのは本当です。まだレースまでは一ヶ月ありますから、何とかなります!」
「必ず、何とかしてみせるけど… 今はダートに慣れるのが先ね」
「たった一ヶ月、じっくりやるほどの余裕はないし… ハードな予定を組んであるけど、大丈夫?」
「大丈夫よ。 …クロノさん、三宮ステークスの話の続きをお願い」
「あ、はいっ! 他に出走を予定しているウマ娘は現時点で確認できていません。これから調査しますので、お待ちください。 …以上です!」
…わたしが何をすればいいのかはまだわかりません。いつもアヤベさんにしてもらっているように、わたしがペースを刻んで併走をする… というのは、必要じゃないですよね。今しないといけないのは、ダートへの適応… う〜ん…
トレーナーさんが何か考えていると思いますから、指示が出るまで待機… に、なってしまうのでしょうか。でも、自分でも何かしたいです! わたしにできること… 考えてみます。
「トレーナー、予定を詰めましょう」
「オーケー、2人でやろうか。クロノちゃんは情報収集を、クラフトちゃんは… ダートに関する資料を集めてきてもらえるかな」
「はいっ!」「行ってまいります!」
ひとまずは、資料集めに行ってきます。図書室にある使えそうな資料、かき集めますよぉ〜!
「こうすると…! なるほど、なるほど?」
「ハァイ、何してるの?」
「あ、ハートさん! ダートの走り方を試してるんです」
「ダート? わお、新しいことにチャレンジしてるのね?」
「はいっ! チームの先輩がダートを走るんですけど、役に立ちたくて… その為に、勉強してるんです」
「グレイト! 私も手を貸すわ!」
「ありがとうございます!」
土曜日、ダートコースに来ました。アヤベさんはトレーナーさんとデート、クロノちゃんは情報収集をするらしいので、1人で暇になりまして… 少しでもアヤベさんの役に立つ為に、ダートを走ることにしたんです。わたしがダートの走り方を理解できれば、アヤベさんに教えられます!
それで、ウォーミングアップをしている時にハートさんに会いました。ハートさんも次走まで間隔が開くと聞いたので、今は長い休暇だと思います。もちろんトレーニングはしてると思いますが、自由に気を休める時期ということです。G1の前は他のことを考える余裕もなくて、ずっと苦しいですから… 息を抜いて、体を休める時間も大切なんです。わたしも今はそうです、走りすぎないように指示も出てます。でも、今日は走ります。走るのが好きなので。
「クラフト! さぁ、行きましょう!」
「はいっ! 行きましょう!」
とりあえず、走ってきます!
「それなら、ここをこう変えたらどうかしら?」
「なるほど… 試してみましょう!」
数時間、話し合いを続けながら走り続けています! もちろん適度に水分を取って、休憩もしながらですよ。それでも疲れてきたので、次の併走でラストにします。併走といっても軽いものなんですけど、もう何本走ったかわからないほど走りましたから。それでも、進展はありました! 少し… 感覚的ですが、走れるようになったんです。
「スリー」
「とぅー」
「ワーン」
「ごー!」
踏み込む時の脚の角度とか、走る時の体勢とか、色々試したんです! 何が良いのかもわかりませんでしたし、普段の走りを崩したら不味いので試しきれませんでしたけど… どうすればダートを走りやすいのか、頭の中では理解できたんです。それはハートさんも同じですから… お互いに、実りのある1日になったと思います。
…ダートの走り方が少しわかって、それで何になるんだーって聞かれたら答えられませんけど… でも、知識はいくらあっても損はないって、そう思います。アヤベさんに教えられることは、特にないかもしれませんけど… それでも、意味はあったと思います。
なにより、楽しかったです。楽しいって大事です!
「クラフトさん、最近ずっとダートコースにいませんか?」
「そうなの?」
「そう… ですね。ダートの走り方を身に着けるために、よく走ってます」
「…私の為?」
「はいっ! アヤベさんの為に、研究してるんです!」
「ありがとう… だけど、自分の脚は痛めないでよ?」
「大丈夫です、抑えてますから」
更に翌週の月曜日… そう言うと結構に感じますけど、日付にすると2日後です。今日はトレセン学園の一室で、テレビのインタビューを受けることになっています。“変則2冠の裏側”みたいな特集です。もうレースから、2週間と少し経ってますから、振り返るような感じですね。
今はトレーナーさんが1人でインタビューを受けてます。きっと、わたし達に言えないようなことを話してるんですよ。 …冗談です。トレーナーさんはそんなことはしませんから。
「入って、こっからみんなで」
「どんな話をしたの?」
「秘密だよ、ヒミツ」
「よろしくお願いしますっ!」
「よろしくお願いいたします。今回インタビューさせていただく乙名史です」
…乙名史さんってなんでもしてるんですね。雑誌の取材、コラムの連載、レース後の会見の進行、テレビのインタビュー… あまりにも、幅が広いです。凄いですね。ウマ娘に例えるなら、春の天皇賞とフェブラリーSの両方で結果を出すような物でしょうか。 …凄いですね。
それでは、インタビュー頑張ってきます。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました…」
「ありがとう、ございました」
「ありがとうございましたー!」
…とても楽しかったです。自分のレースの映像をみんなで見て、途中で止めたり巻き戻したりしながら振り返る、普段からやることではあるんですけど… いつもは反省会ですから。こうやって、良い思い出を振り返ったり、懐かしむのは楽しいです。
クロノちゃんが来る前のレースもあったんですが、その時はクロノちゃんの、観客目線での話も聞けたんです。昔に自分が抱いたのと同じような感想が聞けて… とても嬉しかったです。わたしは、かつて自分が憧れたティアラウマ娘のようになれたんだって… そう、実感しました。
後は、今後の話もしました。夏はトレーニングに励んで、秋に始動するのは決まっています。ですが決まっているのはそこまでで、その後の大目標は決まっていません。適性を考えるならスプリンターズS*1からマイル
もう1つ想定しているのが、ティアラを目指すローテーションです。最後のティアラ、秋華賞*3に狙いを定めて、その前のトライアル競走で始動。年末はマイルCSに拘らず、余裕を持って使えるレースに向かう… というものです。これも、トレーナーさんが考えてくれたものです。
前から話し合っていて、わたしが決めるように言われているのですが… どうしようか、悩んでるんです。ティアラを走りたい思いもありますし、適性のある短距離からマイルの路線を走り抜けるのも面白そうです。どっちでも良いと言われて… どうしましょう。夏合宿の半ばまでには結論を出してほしいと言われたので、考えておきます。
で… こんな葛藤を乙名史さんに話しても困っちゃいますから、どちらのローテーションもお話しました。それで、決まったらすぐに連絡します、と。まだまだ決まりそうもないですけど… 絶対に決めないといけませんからね。
他に話したのは… そうだ、アヤベさんとトレーナーさんの馴れ初めも聞きました。アヤベさんって、最初は新人トレーナーの補佐としてチームに来てたんですね。トレーナーさんと仲良い姿しか知らなかったので… 現役時代から、何か繋がりのある知り合いなんだと思っていました。わたし… 2人のこと、全く知らなかったんだなって思わされました。なので… これからは、もっと知りたいって、そう思います。トレセン学園に来るまでの話… 今度、聞くつもりです。
「綺麗な花畑… 良い場所だね」
「ですよね! わたしも初めて見た時、驚いちゃいました。凄く綺麗ですよね…」
「こうやって街を離れるのはいいね… 自然に包まれると、心が癒される気がするよ」
日曜日、トレーナーさんを連れて遠くに来ました。遠くといっても、車で1時間ほどの距離です。トップロードさんにお願いして、車を貸していただきました。一応、走ってもこれなくはない距離なんですけど… トレーナーさんの脚をイタズラに痛めつけるわけにはいきませんので。 …連れてきたって言いましたけど、運転してるのはトレーナーさんなので、わたしは連れてこられた側ですね。案内はしましたよ。
「…良い場所だ。クラフトちゃんが気に入るのもよくわかるよ」
「トレーナーさんにも、気に入ってもらえましたか?」
「もちろん。この場所が大好きになったよ」
「それなら、よかったです」
忙しい中で来てもらってるので、つまらない思いはさせたくないですから…! 気に入ってもらえたなら、良かったです。
…このまま癒されるのもいいですけど、今日は話したいことがあってきたんです。数日前に受けた乙名史さんのインタビューから、ずっと考えてたんです。トレーナーさんの昔を知りたいって。アヤベさんはダービーウマ娘ですし、お母さんはティアラ路線のスターでしたから、少しはわかるんです。妹さんの話も、少しは知ってます。でも、トレーナーさんのことは想像もつきません。なので… 聞きたいんです。
「トレーナーさんは、その… こういう場所には、来たことってありましたか?」
「あまりない、かな… 根っからのインドア派で、家を出ること自体少ないタイプだから。だから凄い新鮮な気持ちでね、本当に楽しいよ」
「そうだったんですね… あの、日なたぼっこに誘ったりしたの、迷惑でしたか…?」
「そんなことないよ! 自分から外に出ないってだけで、外が嫌いなわけじゃないから。それに、日なたぼっこも楽しいと思ってる、本当だよ。自分からしないからこそ、誘ってくれて嬉しかったよ」
「それならよかったです」
インドア派… でも、あんまりインドアなイメージはないです。確かにトレーナー寮に籠ってデータを集めたり、1日中予想をしてるのは知ってますけど… でも、仕事のない時はレース場に行ったりしてたはずですし、この間だって知り合いと遊びに行ってたって聞きました。毎週のようにみんなで出かけてますし… 昔はインドア派だったんでしょうか?
「あの… トレーナーさん」
「ど、どうかした? かしこまって…」
「わたし、トレーナーさんのことを全然知らなくて… 昔の話、聞かせてもらえませんか?」
「良いよ、大して面白い話もないけど… 何が聞きたい?」
「それなら、トレセン学園に来る前はどこに住んでいたのか、とか…」
「………難しい質問だね」
「難しい質問… ですか? あの、答えたくないなら、大丈夫です。質問、変えますね」
「そういうわけじゃないよ、答えたくないわけじゃないんだけど…」
……? えっと、およそ1年半前まで住んでた場所を聞くのって、そんなに難しい質問なんでしょうか? 生まれた場所とか暮らした場所って、そう簡単に忘れないと思うんですけど… トレーナーさんは、簡単に言えないような場所に住んでたんでしょうか…? う、宇宙とか…
「う〜ん… 悩んじゃってごめんね、話すって言ったのに。でも、難しくて… えっと、抽象的でもいい?」
「抽象的… も、もちろんです!」
「凄く似ているのに、ずっとずっと遠くて、どう頑張っても辿り着けない場所… って感じの場所なんだ」
「む、難しい…」
哲学的なことを聞かされているような気分です…! 全く見当もつきません… どう頑張っても辿り着けない…? わたしがアヤベさんみたいに聡明だったら、すぐにこの謎を解けたんでしょうか… でも、頼ったりしません。トレーナーさんに教えてもらったことは心に秘めて… 自分で、解き明かしてみせます!
「他には、どんな話が聞きたい? 今のは詰まっちゃったけど… なんでも答えるよ」
「なんでも… それなら、前に初めて見たって言ってた、桜花賞の話をお願いします」
「っ… わかった。その桜花賞は、私が子供の時のレースだったんだけど、まだレースのことなんて何も知らなかった私には、とても衝撃的だったんだ。だって、若い女の子が長い長い1600mを、私の全力の何倍も速い速度駆け抜けていくんだよ」
「わかります…! わたしも、そうだったなぁ…」
「…でも、子供の記憶って不思議なものでさ。その時は絶対に忘れないって思ってたのに、少ししたら忘れちゃったんだよね」
「ええっ!?」
…でも、今は覚えてるんですよね。それなら、思い出した… ってことです、よね? どんなふうに思い出したんでしょうか…
「そ、その後は…?」
「私が次にレースを見たのは、高校生の頃なんだ。高校1年の時に、友達とクレーンゲームをしてね。そこで、ウマ娘のぬいぐるみを見つけたんだ。それで、なんだか懐かしい気持ちになって… また、見るようになった。そのうちに、昔見たレースって何だったんだろうって思って、ネットで調べたりして。それから、そのウマ娘の物語を知って… レースの世界に引き込まれたんだ。 …まさか、トレーナーとして関わることになるとは、その頃は思いもしなかったけどさ」
「そうだったんですね… あの、そのウマ娘って、どなたなんですか? 教えてください!」
「ヒミツだよ、それだけは言えない」
「そこをなんとか…!」
「だめ、これはトップシークレットだから。オトナの秘密だよ」
くぅ… トレーナーさんはどうして隠すんでしょうか…? 勝ったウマ娘を言いたくない… きっと、どのレースなのか知られたくないってことです。わたしはティアラのウマ娘は全員覚えていると自負してますから、名前を聞いたら何年の桜花賞か当てられる自信があります。そして、いつの桜花賞か知られたくない理由は… なんでしょう? う〜ん… わかりません。わたしもトレーナーさんのように大人になったらわかるんでしょうか?
「さぁ、他の質問は?」
「え〜っと… トレーナーを目指した理由ってなんですか?」
「理由か… 驚かれるかもしれないけど、無いんだよね」
「そうなんですかぁ!? お、驚きです!」
「ふふ、ビックリでしょ? でも、本当なんだ。いわゆる、成り行きってやつでさ。トレーナーになりたいって思ったから今こうしてトレーナーになってるんだけど、目指してたわけじゃないんだよ」
「なるほど… それなら、こうしてわたしとトレーナーさんが出会えたのは、奇跡なんですね」
「奇跡… そうだね。きっと、神様が巡り合わせてくれたんだよ」
「三女神様はウマ娘とトレーナーを結びつける… そんな話を、聞いたことがあります。きっと、三女神様がトレーナーさんを導いたんですね」
三女神様の話、あまり詳しくはありません。それでも、トレセン学園にいれば至るところで聞く話があるんです。それは、三女神像に祈れば、自分にあったトレーナーに巡り会える… そんな噂です。わたしは祈ったことはないので、真偽はわかりません。 …今は、祈らなくてよかったと思ってます。今のトレーナーさんが、わたしには1番ですから。
「さ、他に聞きたいことはある?」
「それなら… 最後に、答えにくいことを聞いてもいいですか?」
「答えにくいこと…? いいよ、答えられるなら答えるから、言ってみて」
トレーナーさんに絶対に聞きたいことが1つだけあるんです。ずっと聞いてみたかったんです、でも聞けなかったんです。それを聞いてしまったら、何か… パンドラの箱を開けてしまう、そんな気がしたんです。でも… ずっと不思議で、頭の隅っこにずっと残ってるんです。なので… 怖いですけど、開こうと思います。
「選抜レースの時、どうしてわたしがティアラ路線のウマ娘だってわかったんですか?」
「…直感かな」
「本当… ですか?」
「うん、本当だよ」
…嘘です。1年半の付き合いですから、わかります。でも…
「…わかりました。信じます」
「…あリがとう」
騙されてみようと、そう思います。
「そうだ、クラフトちゃんにプレゼントがあるんだ」
「そうなんですか!? 楽しみです!」
「実はトランクのここに…」
葵だよ、ドライビングでクラフトちゃんお気に入りの花畑に来たんだ。綺麗な景色で心も癒されたんだけど… 最後に、クラフトちゃんに気を使わせちゃった。昔の話はあまりしないほうがいいかも知れないね。言えない話が多い… 好きな桜花賞の勝ち馬とか、クラフトちゃんだもん。昔の話って言ってクラフトちゃんの名前を出すわけにはいかないから… 気をつけよう。
「少し屈んで貰えるかな?」
「は、はいっ!」
「それじゃあ、はいっ」
「わぁっ…! 綺麗な花かんむりですね!」
「フラワーティアラって奴だよ、造花だけどね。造花づくりから全部やったんだ。ちょっと入ってる宝石は流石に自分で掘ったわけじゃないけどね… 変則2冠のお祝いに、ティアラを渡したくて」
「ありがとうございますっ! 大切にします! 絶対、絶対大切にします!」
フラワーティアラ、花と宝石で作ったティアラのこと。 …そんなに高い宝石は使えないし、貴金属を加工する技術もないし、造花だって少し歪だけどね。でも、自分の思いは形にしたくて。NHKマイルCの後、少しずつ作り進めてたんだ。喜んでもらえたならよかったな。 …大変だったからね、本当に。
「さ、どこかにご飯でも食べに行こうか」
「行きますっ!」
…切り替えていこう。反省することは反省しないとだけど、それは後で1人の時に。今はフラワーティアラを被ったクラフトちゃんとの楽しいデートだからね。 …似合ってるなぁ。作った自分が言うのもなんだけど、凄く似合って可愛い… おとぎの国のお姫様みたいだよ。
「お姫様、何か食べたいものはございますか?」
「えっ、えーっと… 美味しいものが食べたいです」
「…かしこまりました」
「…綺麗な花冠ね」
「あリがとうございます」
「私の手作りなんだよ、凄いでしょ?」
「…おかげさまで、仕事が溜まってるようだけど?」
「…ごめんなさい」
「別にいいわよ、片付けておいたから。さ、トレーニングにいきましょう? 予定は組んであるんでしょ?」
「もちろん、行こう」
次の月曜日、トレーニングの時間だよ。クラフトちゃんは私のフラワーティアラを気に入ってくれたみたいで、ずっと被ってるよ。 …授業中もね。私的には特に問題はないんだけど、校則とか大丈夫なのかな… それと、頭の上に乗るわけだから邪魔だよね。後ろの席の人から前が見えなくなりそう。 …元々派手なアホ毛があるんだから同じか。
「あ、クラフトちゃんも走ってもらうんだけど… フラワーティアラは預かろうか?」
「…お願いします。落したら嫌なので」
「で、走るのはダートよね? 着替えてくるから、先に行ってて」
「ダートだよ、着替え行ってらっしゃい」
「すいません、少し遅れました。今からトレーニング… ですか?」
「うん、そうだよ。クロノちゃんにも走ってもらうから、着替えてダートコースに来てね」
「わかりました、急いで向かいますね」
今日のトレーニングはダート、明日も明後日も、先週も来週もずっとダート。三宮ステークスまでにダートに慣れるために、少しでも使いたいからね。3人併せで少しでも実戦に近い感覚にして、経験を積んでいこう。ダービーウマ娘に対して経験を積む、なんて言うのはおかしい気もするけど…
「時計よし、飲み物よし、椅子も持った。 …行こう」
「物静かですね… 向こうを見てきてもいいですか?」
「…いいよ。多分、怒られない」
「必ず併走までには戻ってきますので、行ってきます…!」
6月2週の水曜日、場所は阪神レース場。三宮ステークスに向けて、現地に入っての調整中だよ。今週は宝塚記念も行われるんだけど、流石に水曜日は静かだね… ターフで調整してるウマ娘もいないことはないけど… 確かあの子はメイクデビューを走るんだったかな。宝塚記念を走るようなウマ娘は… 1人だけかな。
「アヤベさんの状態はどうですか?」
「順調だよ。勝てるかはわからないけど、走れる」
「それは良かったです。頑張ってくださいね」
「そちらこそ宝塚記念、頑張って」
「頑張ります!」
トップロードさんは今日ターフで調整。今日の最終追い切りで仕上げて、レース当日まで体を休める… って言ってた。宝塚記念でちゃんと体を動かせるように、明日とか明後日も軽くストレッチとかはするんだろうけど… コースに入るのは今日が最後ってことだと思うよ。
かくいう私達も同じで、今日アヤベさんにダートコースを走ってもらったら当日まで休み。こっから本番まで状態を維持するのも凄く大変なんだけどね… 走る感覚を忘れないように緩く軽く走ったり、脚をマッサージでケアしたり… あ、マッサージは私がやるよ。専門的な知識はないから頼んだほうが良いのかもしれないけど、アヤベさんの体のことはよく知ってるつもりだし、やり方も多少はわかるからね。本とかネットの知識と、昔の経験だから不確かではあるんだけど…
話を戻そうか。今回はアヤベさんに単走をしてもらう予定だよ。本当はクラフトちゃんに併走してもらおうかと思ったんだけど、アヤベさんに本番を意識して速いラップで走ってもらう予定だったから、単走にしたんだ。併走の方が走りやすいとは思うんだけど、クラフトちゃんはダートが苦手だからね… クラフトちゃんに無理をさせるわけにはいかないし、無理をしても走れるかわからないから。だから、今回は単走。
「着替えてきたわよ。 …他2人は?」
「クラフトちゃんは芝コースを散策中。クロノちゃんはあっちの、バックヤードの方に入っていったよ。それで、トップロードさんも今ターフに向かった」
「トップロードさんはいいわ。クラフトさんも構わないのだけど、クロノさんは呼ばないといけないわね。頼める?」
「電話かけるよ。アヤベさんはコースに入って、ウォーミングアップを始めてもらえるかな」
「わかったわ」
必要な物は全部あるんだけど、人が1人必要なんだよね。私がアヤベさんに指示を出すから、その横でタイムを計りながら報告する担当。1人でやってもいいんだけど、誰かいたほうが確実だから。 …クラフトちゃんに頼まないのは、ちょっと不安だからだよ。なんか… 任せるのは不安じゃない?
「さぁ… 頑張りますか」
「…行ってくるわね」
「楽しんで」「頑張ってください!」「応援しています」
パドックに向かうのも久し振りね… クラフトさんに付き添って向かったのも、今から1年近く前。まさか、またこの道を通ることになるとは… それも、出走するウマ娘として。周りのウマ娘達のことはよく知らないけど、きっと強力なウマ娘なんでしょうね。 …みんな体操服なんだから、私も体操服の方が良かったかしら? せっかくだからと勝負服を着てきたのだけど… 少し、浮いてしまったわね。
「アヤベさーん! 頑張ってくださーい!」
こうやって応援されるのも久し振り… G1を走っていた頃を思い出すわ。あの頃とは全く違う条件のレースだけど… そんなこと、重要ではないわね。三宮ステークス、本気で勝ちに行く。走り慣れないとか、ブランクがあるとか、そんな言い訳をするつもりはないわ。走る以上は、全員が勝利を目指すもの。私だって、その1人だもの。
手にした枠は8枠12番。13人で走るのだから、外にいるのは1人だけ。内の方がロスは少なかったけど、12番でも問題はないわ。やることは1つだけ… 覚悟は済んでいるもの。
さぁ、もうすぐゲートが開く。 …楽しみましょう?
「夜空に煌めく星のように、この砂の上で… 誰よりも、輝いてみせる…!」
『さぁゲートが開いた! 12番アドマイヤベガが完璧なスタートだ! 既に1バ身2バ身前に出た!』
観客の興奮に似たざわめきが聞こえる… 私を応援するために駆けつけてくれた人もいるのかしら。でも… ゲートだけで盛り上がるようでは、最後まで喉が持たないわよ。だって… 私が、熱狂の渦で包み込んでしまうから。
サブトレーナーとしてレースを見て、関わって、学んだ知恵が、身につけた経験があるの。
宴を始めましょう。
『最初のコーナー、なんと先頭はアドマイヤベガが行きました! バ群を引き連れて、引き離すように逃げていきます!』
後ろには… 誰もいないわね。いいのかしら? こんなに簡単に私を逃がして。ハイペースの逃げだから潰れる… そう思われてるのかしら。このペースは… 私なりに、計算尽くしたペースなのよ。誰も競りかけてこないというのなら、楽に行かせてもらうわね。
『先頭から振り返ります。逃げたのはアドマイヤベガ、およそ8バ身の大逃げとなりました。かつて追い込みでダービーを制したウマ娘が、まさかまさかの大逃げです!』
…そうね。でも… これは奇策なんかじゃない。頭の中で大体のタイムはわかってる、平均より少し早い程度のペースのはず。最後にもある程度の脚が使える、そんなペース。後ろは平均より遅いペースだから4コーナーあたりから長く脚を使ってくるでしょうね。 …そうなれば、今の私では逃げ切れない。かつてのような末脚はないからこそ… 私が、先に仕掛ける!
『ここから第3コーナー、アドマイヤベガのリードは10バ身ほどまで広がっています! 後方勢はまだ動かない! ここから届くのか!?』
まだまだ、こんなところで止まるつもりはないわ! 長い阪神の直線は芝の話。この差のまま阪神ダートの短い直線に辿り着けたなら… 絶対に逃げ切れる!
「かつて、あの子に示したように。私は、私の為にこの道を… この脚で、未来へ駆け抜ける!」
『いっけぇー!』
…脚が、重い。ゴール板は、もう見えてるのに… 後少しなのに… 私も、衰えたわね… 自分で自分の力を見誤ったわ。まさか… このペースで、この距離で潰れてしまうなんて。 …悔しいわね。想像以上に、体力が… 尽きている。
後ろは… もう、横に来てるかしら。掲示板に残れてたらいいわね…
「…脚が痛い」
「大丈夫!? 担ごうか?」
「そんな大きな怪我じゃないわよ… 少し足首を痛めただけだから」
「…ごめん、信じられないな。背中に乗って、医務室に行くよ」
「…わかったわ。だけど、絶対に落とさないでよ」
「任せ…… て…」
「…そこまで重くないわよ」
「大丈夫、走ってくよ」
「走る必要はないわよ…」
…疲れた。それ以外、何も考えられないわ。レースの振り返りなんて後でいいもの、今は休みましょう。 …トレーナーの背中、小さいわね。本当に落とさないでよ…
「アヤベさーん!」
「クラフトちゃん! 話は後!」
「…? …! あ、案内します!」
運ぶ人を変えたらと思ったけど、それでクラフトさんまで脚を痛めたら困るわね。トレーナーには後少し頑張ってもらいましょうか。
「大丈夫ですか!」
「大丈夫、大した怪我じゃないわ」
「信じます! 先に医務室に行ってますね」
クロノさん… に頼むのも危険ね。ウマ娘は力があると言っても、まだ本格化前。あまり負担をかけたくはないわ。 …トレーナーに頑張ってもらいましょう。
「ふう、ついた」
「あリがとう…」
医務室に着いてからは、患部を説明して簡単な処置をしてもらったわ。診断によると、安静にしていれば治るもので、競走能力を喪失するような大怪我ではないそうよ。 …安心したわ。大丈夫と言ってはいたけど、不安ではあったもの。私には、怪我の程度なんてわからないから。
「…それじゃあ、レースの話をしようか」
「そうね、お願い」
「…せーのっ!」
「「「おめでとう!」ございます!」」
「…あリがとう。みんなのお陰よ」
レース結果、ゴールした瞬間は負けたものだとばかり思っていたわ。脚も痛かったから、敗者はすぐに去ろうと思って歩き出した時に違和感に気づいたの。勝者に向けられる歓声が、自分に向けられていたのよ。それで電光掲示板を確認したら、1着に12番が点灯していて… 私が勝ったのだと理解したわ。
どうして勝てたのかはわからないけど… 後方から追い込んできたウマ娘達の脚が、私の想像より鈍かったのだと思うわ。私も酷く遅れたのだけど、大きなリードで粘り込めた… みたいよ。リプレイ映像も少し見たけど、自分の減速には驚いたわ。最後1ハロンだけで14秒はかかったんじゃないかしら?
失敗したと思っていた大逃げが、思っていたよりも上手くいっていた… そう感じているわ。詳しい勝因はわからないけど… 運もあったんだと思う。勝ち時計も確認したのだけど… 例年より数秒遅くて、想定も軽く下回っているのよ。
でも… 例えどんなに遅くとも、運に恵まれたとしても、勝ったのは私よ。それだけは揺るぎない事実だわ。1度引退して、チーム人数を増やすためだけに復帰して、結果的に勝利できた。この結果だけは… 心から、嬉しく思うわ。
「トレーナー、本当にあリがとう」
「アヤベさんの力だよ、私は何もしてない」
「…そういうの、あまり好きじゃないわ。あなたが居なければ、私はここまで走れなかった。謙遜しないで」
「…わかった。どういたしまして」
「もちろん、クラフトさんの併走、クロノさんの分析にも助けられたわ。2人もあリがとう」
「どういたしまして!」
「こちらこそ、あリがとうございました」
この勝利を糧に、これからも… この最高のチームで、頑張っていきましょう。
「アヤベさん、おめでとうございます!」
「あリがとう。トップロードさんも、宝塚記念制覇おめでとう」
「次は一緒に京都大賞典を走りましょうね♪」
「その話なんだけど…」
「ど、どうかしましたか…?」
「…ごめんなさい。レースの後から脚の炎症が酷くて、いつ走れるようになるのかわからないの。今年中に走れるようになるのかすら… 一緒に走る約束、破ってしまって、ごめんなさい」
「そんなの気にしないでくださいっ! アヤベさんの脚の方が大切です!」
6月3週の月曜日の夜、私の部屋よ。本当は私からトップロードさんの部屋に行くべきなのだけど… 脚の状態が想像以上に悪くて、私の部屋に来てもらったの。客人を立たせて、私はベッドの上… 失礼なのはわかってるけど、こうせざるを得なかったの。理解してもらえると嬉しいわ。
あの時は軽症だと思ったのだけど、日曜の朝には脚の痛みが増していたの。それで今日の昼間にトレセン学園に帰ってきて、詳しい診察を受けたのだけど… 左の足首部分の靭帯の炎症で、軽度でも腫れと痛みは長続きするそうよ。半年もすれば走れるようになるそうだけど… それでは、トップロードさんとは走れない。楽しみにしてくれていたのに… 申し訳ないわ。
「いつか、直ったら… また、一緒に走りましょう!」
「…そうね。その時が来たら、笑って走りましょう」
「カレンも入れてくださいね?」
「もちろんです! その時は、みんなで走りましょう!」
「…大ごとみたいになってるけど、来年には走れるようになってるわよ。迷惑はかけると思うけど… どうしようもない怪我ではないわ」
私自身は走れなくても困らないもの。問題は、トップロードさんとの約束と… クラフトさんと併走できないことよ。杖を突きながら動くことはできるから、日常生活は少し不便なだけで済むのだけど、走ることはできないの。クラフトさんとの併走が務まる相手… そう簡単には見つからないわ。
「…トップロードさんも、怪我には気をつけて」
「気をつけます」
「それ、代わるわ」
「…あリがとう。だけど、大丈夫?」
「事務仕事くらいなら何の問題もないわよ…」
「…わかった。お願いするね」
翌日、クラフトさんのトレーニング中… 併走はクロノさんに任せたのだけど、本格化していないクロノさんでは苦しいものがあるわ。トレーナーも策を練ってるようだけど…
…悔しいわね。私のせいで、トレーニングに穴を空けてしまうのは。
「…夏合宿の申し込み書。どうする?」
「申請しておこう。メンバーは全員の名前を書いておいて」
「私の名前は書かないほうがいいんじゃない?」
「…書いてほしい。あまり動けないないかも知れないけど… チームリラにはアヤベさんが必要だから。来てくれない… かな?」
「…何もできなくてもいいなら、行かせてもらうわ。得意じゃないけど、賑やかしは任せて」
「お願いするね」
夏合宿… もうそんな時期なのね。私はもう走れない… 併走はできないけど、それ以外の何かで手伝いましょう。クラフトさんの為にできること、私なりに考えてみるわ。
「みんな、荷物はちゃんと準備してる?」
「問題ないわ」「もちろんです!」「大丈夫です」
「それじゃあ、明後日の朝9時頃にあの駐車場に集合で!」
「ここがチームリラの合宿地なんですね…!」
「とある人から教えてもらった場所だけどね」
6月4週の日曜日の夜、合宿地に辿り着いたわ。普通はトレセン学園が出すバスで行くのだけど、私達はトレーナーの車で来たわ。厳密にいうと、トップロードさんの車をトレーナーが運転して来たわ。つまり…
「良い場所ですね!」
「あなたが去年トレーニングしていた場所よ」
トップロードさんも一緒よ。でも、去年とは少し違うわ。去年はトップロードさんの合宿にお邪魔させてもらう形だったけど、今年は合同合宿。チームの人数が2人になったから、制度の穴をつくようなやり方ではなく、真っ当に合宿ができるの。 …やることは何も変わらないのだけど。気分が少し変わるだけね。
「話す前に… 宿に荷物、運んでもらえるかしら」
「アヤベさんの荷物は私が運びますね」
「いやっ、私が!」
「クロノさん、お願いするわ」
「お任せあれ」「んなぁっ!?」
明日からの合宿、私は簡単な手伝いしかできないけど… 頑張りましょう。
「まだまだー! もっと早くー!」
「ぐぅぅ… ふぅぅ… あぁぁー!」
「まだいけるでしょー!」
ソリの上から野次を飛ばしてるわ。慣れないことだから、少し難しいけど… 途中から楽しくなってきたわ。レース場でされるような野次を思い出しながら、クラフトさんを叱咤激励するだけといえばだけなんだけど… 楽しいわ。ソリ遊びが楽しいわけではないわよ。
「んんんー! っぐぁぁ…あ!」
「…終わりにしましょう。飲み物いるかしら?」
「頭から… かけてください…」
「…ジュースよ? いいの? 髪がベタつくわよ」
「飲みます」
「…飲んだら少し休んで、宿までお願いするわ」
「はいっ!」
みんなが今何をしているのかも話しておくわね。トレーナーとクロノさんは他のチームの合宿地に乗り込んで情報を集めているわ。夏合宿でどんなトレーニングをしているのか、その意図は何なのか、そんなことを聞いてまわってるはずよ。帰ってきたら情報を纏めたり、クラフトさんの予定を考えるんじゃないかしら?
トップロードさんは宿で休んでるわ。クラフトさんが宿に着いたら、このソリの運転手がクラフトさんからトップロードさんに代わる予定なの。
…真面目にトレーニングしてるかのように話したけど、楽しく騒がしくやってるわよ。トレーナー達が出かけてるのも、私達がトレーニングで忙しくて構ってもらえないからっていうのが最大の理由だもの。昨日は持ってきた本で勉強してたはずだけど、飽きたんでしょうね。トレーニングに生きるなら何だっていいわ。相手のチームの人に怒られないならね…
「着いたー!」
「お疲れ様、休んでなさい」
「今度は私が行きますよー!」
「あっちの方向にお願いするわ」
「おもかじ、いっぱーい!」
「…それでもいいけど、本当に面舵でいいの?」
「…適当に言いました。面舵ってどっちですか?」
「右だから海よ」
「と、とりかじー!」
…ほら、楽しくて騒がしくて、良い合宿でしょ?
「ここでしょ!」
「よーっし!」
「お、追い詰められましたよアヤベさん…!」
「…あの2人に勝てる気がしないのだけど」
今日はトレーニングの後にスイカ割りをしているわ。せっかくだからとチーム対抗で、どちらのチームが正確にスイカを割れるか競ってるのだけど… トレーナーとクラフトさんのチームが強すぎるわ。今のところ4回やって4成功。クラフトさんの指示は去年から変わらず酷いのに、トレーナーは導かれるようにスイカに向かっていくの。私達は3回で1成功… 勝ち目ないでしょ。
「えっと… 私が離席している間に何があったんですか?」
「おかえり、スイカ割りしてたの」
「5つも… 食べられるんですか?」
「……」「……」「……」「……」
「えっ… 食べられないのに割ったんですか?」
「ま、まぁまぁまぁ。頑張れば食べれるよ」
「これ以上割るのは止めにしましょう。1人1玉よ」
「…わ、私もですか!?」
スイカを食べたらトレーニング再開… したいのだけど、食べきるのにどれだけかかるかしら。1番の問題はクラフトさんが最初に砕いたスイカね… 力が有り余って派手に割れてるのよ。散らばった分は回収したのだけど… 砂も混じってるから洗わないといけないわ。でも… 割ったスイカを洗ったら味が薄まったりしないかしら? …まぁいいわ、そのスイカは本人に食べてもらうもの。私は自分が割ったスイカを食べるつもりよ。力を加減したから綺麗に真っ二つなの。凄いでしょ?
…当たらないと思って適当に振ったから力が入ってなかったのだけど。
「あー! 疲れたー!」
「お疲れ様… 得意なの?」
「学生の頃に練習したお陰かな」
「次はもっと行きましょうね!」
「無理だよ、疲れた」
今日は海を泳いでるわ。もちろん私は見学よ、ドクターストップがかかってるわ。それで、私がタイムを測ることになったから… トレーナーも含めて、私以外の4人で競走してたの。 …競泳? 競争でいいわね。
「もう1本、行ってきます!」
「私もお供しますっ!」
「それならわたしも!」
「…トレーナーは?」
「それなら… とはならないよ」
「無理に泳いで溺れられても困るから泳がないで」
「はい…」
…特別泳ぐのが大好きということはないのだけど、海に来たからには泳ぎたいものね。トレーニングとしてではなく、遊びとして。浮き輪でプカプカと波と遊びにいこうかしら。浮き輪から落ちたら大変だから付き添いに誰か必要なのだけど… 誘えば誰でも来てくれそうね。
「…あなたに頼むのはやめたほうが良さそうね」
「な、何を!?」
「浮き輪の牽引」
「…私はやめたほうが良いね」
「もう少し遠くまでいきますか?」
「そこまで行かなくて大丈夫、この辺りでいいわ」
「ビーチボールを持ってきたので、遊びませんか?」
「わたし達の分の浮き輪も持ってきました!」
「…あリがとう。クロノさんからスタートでお願いするわ」
数日後、4人で海に出たわ。4人でそれぞれ浮き輪に乗って、相手に向かってボールをパスするように打つ。波にあおられながら、みんなと和気藹々と遊ぶ… 楽しいわ。宿で1人寂しく関係各所との連絡や事務処理をしているトレーナーが可哀想ということ以外は。 …可哀想ね。
「トップロードさん!」
「はいっ! それじゃあ、クラフトちゃぁぁぁーん!」
「大丈夫ですか!?」
「お、落ちただけです。ふぅ…」
「気をつけてよ…」
「再開しますね。クロノちゃんに向けて、おりゃあ!」
「うわぁっ!?」
「あっ!」「大丈夫!?」
「だ、大丈夫です…」
「…気をつけてよ」
打とうとして浮き輪から落ちるのも、全力で打って相手にボールをぶつけるのも、気をつけてほしいわね… やるとは思っていたけど。私にぶつけるのは絶対にやめてよ…
…と、そんなことをしていたら夏合宿も終わりが近づいてきたわ。トレーニングも順調、遊びもそこそこ、楽しくて実りある合宿だったわ。それで、今は… みんなで車に乗り込んで、星を見に行くの。去年と同じ場所で、同じように星を見に。
「よし、着いた。ここであってるよね?」
「あってるわ」
「ベガを見に行きましょう!」
「えっと、確か大三角の…」
「探し方があるんですよね…」
「それじゃあ
夏の大三角、もちろん私はどの星が何なのかわかるわよ。都市の光のないこの丘からなら、それぞれの星座も指で線を結べるわ。ベガを囲む大小さまざまな星々も、しっかりと見える。やっぱり、こういう場所での天体観測は普段と違うわね。プラネタリウムで見るような、綺麗な星空… ずっと見ていたいわ。
「私はわかったよ、事前に調べてきたからね」
「私もわかりました」
「自信はあります!」
「アヤベさんに習いましたから、間違いありません!」
「それじゃあ… 一斉にベガを指差してもらえるかしら」
「はーい」「はい」「はいっ!」「ほいっ!」
…1人だけ違う星を指してる人がいるわね。
「あれぇ…?」
「クラフトさん以外正解よ。クラフトさんのはアルタイルね」
「ふぅ、よかった」
クラフトさんは間違えたけど… あの星は、今日も綺麗ね。ずっと昔に見た時から姿を変えず、ずっと同じように、輝き続ける。まるで彦星を待つ織姫のように、ベガの輝きは色褪せない。それは他のほぼ全ての星にも言えるのだけど… 勝手に、特別視してしまう。
今年は七夕の日も1人で祈りには来たのだけど… 星に願いを込めるのは、何度だって多すぎるということはないはずよ。強く、願いましょう。
「…いつまでも、見守っていて」
「きっと見守ってくれるよ」
「ですね」
「…そうだといいわね」
「わ、私も何かお願いを…」
「予想が当たりますように…」
「そういうお願いは流れ星にしなさい」
煩悩を叶える仕事まで押し付けたら星に悪いわ… 流れ星に背負わせるのも酷な気はするけど。もしも私が星で、誰かの願い事を叶えてあげられるのなら、そんなお願い事なんかじゃなくて… 優しい人の、些細な願いを叶えてあげたいもの。
「…何度でも、ここに来たいものね 」
「………そうだね」「………ですね」
「次走、秋華賞に決めたのね」
「はい… ティアラの夢を、追いかけたいんです。目指すは、変則三冠!」
「この夏合宿でクラフトちゃんは強くなった。今のクラフトちゃんなら… 2000mは走り切れると思う」
「必ずとは言えませんが、十分勝機のあるレースだと思います!」
夏合宿の最終日、クラフトさんに目標を聞いたわ。元々、夏合宿の間に決めてもらう予定だったのよ。本当は早めに決めてもらって、そこに向けてのトレーニングをしたかったのだけど… 悩んでいるようだったから、急かしはしなかったわ。
秋華賞は京都レース場で開催される2000mのG1… クラフトさんが憧れて、トレーナーと駆け抜けたトリプルティアラの最終戦。まだまだクラフトさんの競走人生は続くのでしょうけど、一つの区切りとなるレースよ。秋華賞の後は同期との対戦も減って、世代を代表して先輩達に挑むことになるのだから… まず、ここで強さを証明する必要があるわ。強く勝って、世代の先頭を掴み取りましょう。
「…勝とう。策はもう練ってある」
「…トライアルは使うの?」
「それはお任せします。わたしは、秋華賞を勝つことだけ考えてます」
「戦略的に言うなら、今のクラフトさんの状態を確かめるためにも走ったほうが良いと思います。それに、夏明け初戦より2戦目のほうが動けるはずです」
トライアルを使うなら… 次走はローズステークスかしら。中山で開催される2000mのG2、適した条件とは言えないし、阪神1800mの紫苑ステークスの方が適しているとは思うけど… 秋華賞を目指すための最大の課題は距離。経験する為にも、ローズステークスの方が良いでしょうね。G2を勝ちに行くわけではないもの。秋華賞を考えるなら、ローズステークス… だと思うわ。
「…わがままを言ってもいいかな」
「? 珍しいわね。何? キャンディでも買ってくればいいかしら?」
「できることならお手伝いしますよ」
「秋華賞には直行したい」
「…どうして、でしょうか」
「大した理由のない私のわがままだよ。理論もない、直感と妄想だけで言った、わがまま。 …変なこと言ってごめん」
…本当に珍しいわね。変なことを言うのは良くあることだけど、いつも言うのは意味なんてなく私を笑わせようとしたジョーク。もしも私が男性だったらとか、星を掴めたらとか、トレーナーがウマ娘だったらとか、そんな突飛で面白そうな話。トレーニングや次走なんかの真面目な話には、絶対に考えがあった。鉄ソリを持ってきたり、早押しボタンを持ってきたこともあったけど、あれも全部意図があった。だから… 理由のない話を、こんな時に言うのが不思議で仕方ないの。
それでも… 私はトレーナーと、1年と8ヶ月という長い時間を過ごしてきた。夫婦のような連携も、双子のような読心術もないけど… 1つだけ、知ってることがある。トレーナーは、信頼に足る人物であるということよ。何か大きな隠し事を抱えていることも知ってはいるけど… それを加味しても、信じられる。かつての私なら、こんな非理論的でワガママな提案を受け入れたりなどしなかったでしょうけど…
「いいんじゃない? 私はそう思うわよ」
私は、それが例え見えない舟だったとしても、提案に乗りたいと思うの。
「わたしも賛成です。直行のリスクもわかりますが… トレーナーさんがそう思うなら、わたしもそれが良いと思います」
「いい…の…?」
クラフトさんも同じ思いのようね。トレーナー自身も驚いているようだけど… 人を信じずに負けるよりは、信じて砕けたほうがいいでしょう? もちろん、負けるつもりなんてないけど。
「…それなら、直行でいきましょう」
「…あリがとう。私を、信じてくれて」
道は定まった… ここからは、駆け抜けるのみ。さぁ… 秋の華を掴みに行くわよ!
「秋の花も造らないと…」
「クラフトさんの花冠に足すの?」
「うん、秋華賞に向けて秋の要素も多そうと思って」
「…トリプルティアラなんだから、3つ作ったら?」
「た、確かに…!」
「…その時は、私も手伝わせてもらうわ」
〜8月末