琴の音に耳を澄ませて 作:緑雨
…下を向くのはやめよう。最近はよく下を向いて、考え込んでしまっているような、そんな気がする。理由は1つ、自分の判断が正しかったのかどうか、それだけ。
私の知る史実と、ウマ娘達の綴った史実が全く異なるのはよく知ってる。トップロードさんに何度も、何度も、何度も思い知らされた。ウマ娘は私の知る名馬とよく似ていても、戦績や物語は繋がらないと。それなのに私は… 史実を嫌って、秋華賞に直行する道を選んだ。 …自分でさえも、正しいと思えない選択をした。
それに、この選択が正しかった、なんて答えはきっと返ってこない。秋華賞を勝ったとしても、無事に引退まで駆け抜けたとしても、この選択の影響かどうかわからない。この選択の成否がわかるのは… 最悪の夏が訪れた、その場合だけ。それもわかるのは、間違っていたということだけ。だから… 怖いんだ。
「はぁ… 仕事しよう」
「してなかったの?」
「ごめん… 少し、考え事を」
「…内容は言えないんでしょう?」
「…ごめん」
「謝らないで。あなたの努力、よく知ってるから。怒ることがあるとするなら… 私をもっと頼れってことくらいかしら」
…アヤベさんって、周りをよく見てるよね。私がわかりやすいのかも知れないけどさ… 人が苦しんでる時に側にいて、何度も励ましてくれる、そんな人な気がする。
頼れ、か… 悩んでる内容は絶対に言えない、元の世界のことなんて口が裂けても言えない。私も含めて、本当は知っていちゃいけないことだと思うから。 …知っていたところで意味はないのかもしれないけど、それでも言えない。それに、クラフトちゃんの史実を伝えても、アヤベさんに重荷を一緒に担がせることに他ならない。例えアヤベさんであったとしても、解決できることじゃないから。でも…
「少しだけ、話してもいいのかな」
「それであなたの肩の荷が下りるなら、幾らでも聞かせて」
「…それなら明日、一緒に出かけない? ここだと… 誰かに聞かれるかもしれないから」
「…わかったわ。明日ね、朝9時に迎えに行くわ」
「私から行くよ」
「トレーナーはウマ娘の寮に入れないわよ」
「ウマ娘もトレーナー寮に入れないよ?」
「侵入経路を教えたのは誰だったかしら?」
「…待ってるね」
「ええ、心を整理して、待っていなさい」
少しだけ、言えるだけ… 話してみよう。それで何が変わるのかなんてわからないけど… アヤベさんが聞いてくれるのなら、頼らせてもらおうかな…
「この丘は…」
「覚えてる? クリスマスの日、一緒に登った」
「…一緒に登ったわけではないわ。私が勝手に追いかけただけだもの」
「そうだったっけ? でも… 話すなら、ここがいいと思って」
「…あの時のことを話してくれるの?」
「…うん。あの日、ここで私は何をしていたのか。どうして… 秋華賞に直行しようとしたのか」
次の日、寮から歩いて辿り着いたのは星がよく見える丘。言わないほうが良いことなんだろうって、頭では分かってるつもりなんだけどね… アヤベさんに隠し切るのは大変だし、変な心配もかけちゃうから。話せる範囲で、私のことを話そうと思う。話せる範囲で、ね。
「よく、夢を見るんだ。その中には幸せな夢も、現実にしたいと思う夢もあった。そんな夢が大多数かな。だけど… 二度と見たくないと願うような、儚くて美しいのに涙が止まらない、そんな夢も見るんだ」
「…続けて」
「クラフトちゃんと出会った時に気づいた事があってね。昔見た夢に出てきたウマ娘に、そっくりだって。 …儚く散った、夢にそっくりだって」
「…その夢で、そのウマ娘はどうなったの?」
「…クラシックを駆け抜けた翌年の夏に、永い眠りについたよ」
「…っ。それは… 見たくない夢ね」
…夢。便利な言葉だよね。私は本当は滅多に夢を見ない人間なんだけど、今は夢を見たってことにさせてもらうよ。 …ある意味では、私の知る名馬の物語は夢だからね。跡も形も、誰の記憶にもなく、私だけが知ってる物語。ほら、夢みたいでしょ?
「だから… クラフトちゃんには、そうなってほしくないって、ずっと思ってしまってるんだ。夢と現実は違うのに、重ねてしまってさ」
「…その夢のウマ娘と、クラフトさん。どう重ねてしまっているの?」
「全て、かな。見た目も、脚質も、距離も、戦績も、何もかも。全てが… 重なってしまうんだ。だから… 怖くて、怖くて、仕方ないんだ」
「それは… 辛かったわね。それじゃあ、直行を提案したのは…」
「夢と、変えたかったから…」
「…なるほどね」
…ダメだ、話していて辛くなってきた。声、ちゃんと出てるかな。
「クリスマスの日にここに来たのも、お願いの為だったんだ。どこかで、神様が… 見ていて、くれないかなって。それで、クラフトちゃんを… 夢とは違う未来に、連れて行ってくれって、お願いをしたんだ…」
「…私はその夢を見ていないから、何も言えない。でも、話してくれてありがとう。それと… 苦しいなら、泣いていいのよ。私しかいないんだから」
「ごめん… ごめんね。見苦しい姿を見せて」
「あなたの気が晴れるなら… 何時間でも、泣きついてもらって構わないわよ」
「そうは… いかないよ。私、大人だから…」
「泣きながら言っても説得力ないわよ」
「そう… かもね」
「ふぅ… ありがとう、アヤベさん」
「…どういたしまして、というのも変な気がするけど、どういたしまして」
「ごめんね、本当に。私の話を聞かせるだけ聞かせて、そのまま泣き出しちゃって」
「気にしないで。私も、聞きたかったから。 …聞きたかったことは、全部聞けたから」
「そう…? それなら良かったけど…」
「トレーナー。その夢のウマ娘は、秋華賞で何着になったの」
「…2着」
「それなら、意地でも勝ちにいきましょう。絶対に、負けるわけにはいかないわよ。夢を超えないといけないもの。そうでしょう?」
「…うん。勝とう」
気持ちが少しは楽になったよ… それに、自分の心も整理できた。私が考えないといけないのは、秋華賞を勝つことだけ。結末を変えるには、その過程を変えないといけない。蝶の羽ばたきで嵐が起こるように、小さな変化で結末は変わるはず。ここまではローテを変えても、結局G1で同じ戦績に集約した。だから… どうにかして、次を勝つ。ここが、1番のチャンスだから。
「…もう、1人で抱え込まないでよ」
「…わかった」
「そうだ、一応伝えておくけど、私、明日は寮にいないから」
「やることが済んでるなら好きにして。休みなしならとんだブラックよ」
「わたしは寮にいます!」
「聞いてないし、好きにしなさい」
「私はレース場にいます」
「聞かなくてもわかるから大丈夫よ」
今日は9月2週の金曜日、トレーニング後の雑談中… 私の手元にトレーニングの理論が書かれた学術書があるように、最初は真面目な話をしていたのよ? だけど、途中からどんどんと話がよれていって… 結果的にブランコで効率的に加速する方法を会議していたわ。 …どうして?
ただ、そろそろ解散ね。私も学術書を読み直さないと… 途中からみんなの会話が気になって、本の内容が全然頭に入ってこなかったの。やっぱり読書は1人の時じゃないとダメね… 部屋にはカレンさんがいるし、1人の時なんて滅多にないのだけど。
「…先に失礼するわね」
「わたしも失礼します」
「はーい、お疲れ。私も少ししたら帰ろうっと」
「それなら、明日の予想を話しませんか?」
「いいね、そうしよう」
部屋で休みましょう…
「アヤベさん、何を読んでるんですか?」
「論文… を挿絵付きで簡単にまとめたものよ。読む?」
「遠慮しま〜す♪ …脚、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。もう杖も使ってないでしょ?」
「そうですけど… 庇ったりしてないですか?」
「心配ありがとう。だけど、本当に大丈夫よ。強がりでもないわ。走る… のは怖いけど、山道でも歩けるもの」
「山道を歩いたんですか!?」
「…私用でね」
「気をつけてくださいね…?」
脚の状態は本当に良くなったの。走るなとは言われてるのだけど、それ以外なら好きに動きていいとも言われているわ。トップロードさんと走るのも… もしかしたら、今年中にできるかもしれないわね。一緒に走れるレースは、もう無いのだけど… 引退式の後にでも、2人で星を見ながら走る。そんな事が出来れば幸せね…
「アヤベさん、明日は暇ですか?」
「暇だけど… 付き合わないわよ」
「…ダメですか? アヤベさんと一緒に行きたいお店があって…」
「…話だけは聞くわ」
「ふわっと甘~いパフェが売りのお店なんですけど、カップル限定の新商品が出たんです。 …あ、カップル限定ですけど、二人組だったらどんな関係でもいいらしいですよ?」
「…他に行く相手いないの?」
「うっ!? そ、そういうわけじゃないですよ〜♪」
「それならその人と行きなさい」
「…他に相手、いないんですー! お願いします! その後は何にでも付き合いますから!」
「……仕方ないわね」
「ありがとうございまーす♪」
…行ってみたいと思ってたのよね。少し前に、トレーナーから凄く美味しいパフェのお店があるって聞いたの。もしかしたら違うお店かもしれないけど… トレーナーも新商品って言ってたから、同じだと思うの。トレーナーに相手がいたことも驚きだったけど… 本当に美味しいから一緒に行こうって誘われたの。でも、その時は断ってしまって… ずっと後悔してたのよ。私も… 誘える相手、いないから。
「………」
「アヤベさーん? 大丈夫ですかー?」
「こんなお店だとは聞いてなかったのだけど…?」
「カレンも知らなかったんです!」
パフェを食べに来て、席に座ったわ。メニュー表を見るフリをしながら周りを見ているのだけど… 殆どがカップルなんだけど? カップル限定の新メニューが出たばかりだから当然なのかもしれないけど… 私は、カップルじゃない人も食べれるって聞いてきたのよ? てっきり、カップル限定なんてのは言ってるだけで、私達みたいな友達2人で来るのをターゲットにしているものだと思い込んでいたわ… 本当にカップル用だったのね。
「あの… 頼むの、変えますか? それぞれで食べるのもありますよ」
「…ここまで来て変えたら何のために来たのよ。頼むわよ。 …1つでいいのよね?」
「えっと… あ、1つで2人前だそうです♪」
「注文は… スマホからもできるのね。そっちにしましょう」
「お願いしまーす♪」
えーっと、頼むのは… コレね。カップル限定ラブラブスイートパフェ… 私達が頼んでいいのか、不安になる名前ね。でも、ちゃんと注釈がついてるわ。カップルでなくてもご注文いただけます… って。 …頼みましょう。
「…頼んだわよ」
「待ち時間には… そうだ、夏合宿の思い出話とか聞きたいな〜?」
「もうそこそこ経ったわよ… 他に話すこともないから話すけど」
「わ〜い」
「それで、その時に…」
「お待たせしました、ラブラブスイートパフェになります」
「わ〜! 凄いですね♪」
「…そうね。どう食べる?」
「カレンはこっちから食べるので、反対からお願いします♪」
「わかったわ。 …ん、甘い。美味しいわね」
「ですね〜」
パフェ… 私の想像よりも遥かに大きかったわ。先ずは一番上、果物とクリームの部分から。イチゴとかバナナも気になるのだけど、最初はクリームをいただいたわ。とろける… のはクリームなのだから当然だけど、口に少し含んだだけで甘いと感じるの。けれどそれを苦しいとは思わないわ。自然に、口に溶けて、美味しいと思う、そんな甘さ。 …良いお店だと確信したわ。
果物は、爽やかでありながら甘みが滲み出てきて、その奥から弱い酸味で口が甘みに支配されないように抑えてくれる、そんな印象ね。 …わかりやすく言うなら、美味しいということよ。下手な言葉で飾るよりも、素直に美味しいと連呼したほうが伝わるかもしれないわね…
「はい、あ〜ん」
「…ん、あー」
「いいんですか?」
「…気が変わった、やめるわ」
「…言わずにやればよかったです」
「そうね」
美味しい…
「コレとかどうですか?」
「私には合わないわよ」
「そんなことないですよ! 普段怖い人がカワイイバッグを持ってたら萌えると思いませんか?」
「…私、怖い?」
「…そんなことないです」
「ねぇ、目を合わせて」
パフェを食べた後は買い物に来たわ。買いに来たのはカバンよ、元々使っていたものが少し… 壊れてきてしまったの。具体的には肩掛けカバンの紐が切れそうなの。それと、底が薄くなってるわ。何か刺さるものを入れたら、歩いてる最中に貫くわね。
「この星型はどうですか?」
「…使いづらくないかしら?」
「それは… そうですけど、カワイイですよ♪」
「私は可愛さより利便性を追い求めてほしいのだけど」
「探してきますね〜」
…不安だわ。私も探しに行きたいのだけど、このお店広いのよね… 服とか帽子とかも全部売ってるお店で、デパートの1階層全てを使ってるの。今動いたら… カレンさんと合流できなくなる気がするの。今いる場所の近くで、何か良さそうなものを…
「…靴、か」
ウマ娘用の靴ではないわ。そういう靴は蹄鉄の関係で、普通のお店では売らないの。買うのもウマ娘だけに限られるし、トゥインクル・シリーズを走るようなウマ娘は専門店で買うわ。だから、普通のお店で売ってるとしても子供用のみ。私が見ているのは、人間の大人の女性が履く靴。私が履くこともできるけど… ウマ娘には脚力の問題もあるの。
私生活でも思わず力を込めてしまうことはあるでしょう? ウマ娘用の靴なら力に合わせて曲がりもするし、上手く吸ってくれるの。それが普通の靴だと、脚に負担がかかってしまうわ。力が逃げず、地面にも上手く伝わらず、脚を痛める。だから、今私が手に取った靴は履けないわ。
…買ってくるわ。良い物を見つけたの。誰に渡すのかは、言わなくてもいいわね。 …候補が1人しかいないもの。
「このバッグ、どうですか?」
「淡い青色… 綺麗ね。サイズも丁度良さそう…」
「中も、思ったよりも広いんですよ。私も使いたいので自分用も持ってきました♪」
「色は変えて。 …私も買うから、わからなくなるでしょ?」
「大丈夫です、白色を持ってきましたから」
…カレンさん、白色なのね。髪と同じ色… 私もそのほうがいいのかしら? 私の髪色… 普通の革のカバンになりそうね。それもオシャレだと思うけど、それこそ誰のカバンかわからなくなりそうだわ。 …淡い青色もトレーナーの髪色にそっくりで間違えそうだけど。
「靴も買ったんですか?」
「えぇ。人に贈る用よ」
「なるほど。喜んでもらえるといいですね♪」
「…そうね」
このお店で買うものはもうないわね。この後はどこに行こうかしら… 何か買いたいもの…
「…カレンさんは行きたいところ、あるかしら?」
「付き合ってくれるんですか?」
「私の買い物に付き合ってもらったもの。どこでも付き合うわよ」
「そ〜れ〜な〜ら〜、付いてきてくださ〜い♪」
「…不安になってきたわ」
「本当にここでいいの?」
「はいっ♪ アヤベさんと来たかったんです♪」
連れてこられたのはプラネタリウム。そして、私はその一瞬を見逃さなかったわ。カレンさんは入場の時、スマホでチェックインしたの。予約… してたわね。私が行かないと言ったら誰と来るつもりだったのかしら…? もしも誰か待機させられていたのだとしたら、悪いことをしたわね。 …予約だけして、私とじゃなかったら行かないつもりだったとしても怖いけど。
「アヤベさんの解説、聞かせてくださ〜い」
「私に聞くよりもプロの解説を聞いたほうがいいと思うわよ。プラネタリウムなら誰か解説してくれるでしょ?」
「ここはそういうのないです♪ なので、お願いします♪」
「…わかったわ。気になる星があったら指で示して。わかる範囲で話してあげる」
「わ〜い♪」
この後は2人で楽しく星を見たわ。カレンさんも楽しんでくれたかしら…
「これ、私に?」
「そうよ。この間、色々話してくれたでしょ? 勇気を出してくれたお礼よ」
「あ、ありがとう…」
靴は月曜日にトレーナーに渡したわ。サイズは丁度いいはずよ。私、トレーナーの靴のサイズは知ってるから。夏合宿の前に、一緒にビーチサンダルを買いに行ったのよ。そのサイズを覚えておいたから。後は… トレーナーの部屋に入れば靴があるでしょ、そのサイズも気になって見たことがあるから知ってるの。 …その時は許可なく部屋に入ったけど、きっと大丈夫。気づいてないみたいだから。
「よしっ! この新しい靴でトレーニング、頑張ろう」
「あなたは走らないでしょ?」
「今日は走るよ、せっかくだからね」
「併走ですね!」
「勝つよ〜!」
「お、応援します」
「やめなさい… 走るのは止めないけど、併走は無茶よ。あなたは車より速く走れるの?」
「…そう言われると、ウマ娘って凄いね」
「そうよ、凄いのよ」
今週のトレーニングは坂路よ。秋華賞まで後一ヶ月、今週と来週にしっかりとトレーニングをして、10月の前半は休みながら調整。そして秋華賞の当週に強く追って本番の予定よ。今週もトレーニングこそするけど、秋華賞までの日程を考えて、軽く走るだけにする予定よ。強く鍛えるのも大切だけど、G1が控えてる時期にトレーニングしすぎて本番で体が動かない、なんてことになったら目も当てられないわ。
「…よし、トレーニング行こう」
「ずっと話していても始まらないものね… 今日は単走よね?」
「ですね」
「頑張りますっ!」
「走りすぎて痛めないでよ、私みたいに」
「…はい」
「…ごめん、笑えないジョークだったわね」
「はい…」
行ってくるわね。
「…ここ、どこかしら」
今日は9月4週の土曜日、お昼過ぎの… 明るい時間よ。脚を痛めて動けなかった分、今日は1日中散歩しようと思って外に出たの。それが確か7時頃。歩いていると気分が良くて、もっと遠くに行ってみよう、あの道の先には何があるんだろう、そうやって進んでいったら… 迷子になったわ。
スマホもあるのだけど、残念ながら電池切れよ。昨日は寝るまで星のことを調べていたの。そのせいね… どこかのお店に充電させてもらえばいいのだけど、少し恥ずかしいじゃない? だから、できるだけ粘って、本当にダメそうだった時のための最終手段にするわ。
で、周りを見ましょうか。今いるのは普通の住宅街、ところどころにお店もある良くある風景ね… 駅を見つければ場所もわかるのだけど、駅も見つからないのよ。公園にも地図とかあるかしら? …公園もないのだけど。
来た道を思い出してみましょうか… トレセン学園の正門から右に向かってずっと歩いて、大通りに出たから左折したはずよ。それからずっと進んで… どこかの川の時に右折して川沿いを進んだわ。街の雰囲気が変わるくらい歩いて… お腹が空いたからお店を探して住宅街に入ったわ。そこで蕎麦屋を見つけたから蕎麦を食べて、何も考えずに歩いて… それで今。 …適当に歩いたせいで、どっちから来たのかわからなくなってしまったわね。川も… 近くにある川は小さすぎるわ、別の川ね。
「…不味いわね」
門限までに寮に帰れれば何の問題もないの。だからひたすら歩いて駅を探す… それしかないわね。とりあえず、歩きながら考えましょう。
「あの、アドマイヤベガさん、ですか?」
…小さなウマ娘、子供かしら? このあたりに住んでるのかしら。それなら… この街の地理に詳しいかもしれないわ。子供の記憶力なら、駅の場所くらい知ってないかしら。
「…そうよ。あなたは… どこから来たの?」
「この近くにすんでるの!」
「そうなのね… 駅の場所ってどっちかわかる?」
「えっと… わかんない… まよっちゃって…」
「…仲間だったのね」
この子、小学校低学年くらいに見えるわね。そんな子供を連れ歩いていたら不審者と思われそうだけど… 有名人でよかったわ。変な噂は立つかもしれないけど、人攫いとは思われないですみそうだわ。 …迷子を置いていくわけにはいかないもの。大通りに出て、この子が知ってる場所を探すわ。それでも見つからなければ交番に行きましょう。その為にも…
「…この迷路を脱出するわよ」
「うん!」
「ここ、しってる!」
「お家の方向、わかるかしら?」
「うん! あっち!」
「それは良かったわ…」
「アドマイヤベガさんも、くる?」
「いいの? それなら、お邪魔させてもらうわ」
探している途中で駅を見つけたから、時間も帰り道も確認できたの。今は15時頃、少し寄り道をしても問題ないわ。 …電車で1時間ほどかかるくらいには遠いから、早く帰ったほうがいいに越したことはないのだけど。
それよりも、この子と話すのが楽しかったの。夢はトゥインクル・シリーズで活躍することらしいのだけど、チームリラに入りたいそうよ。ずっと応援してくれているらしくて、クラフトさんのことも大好きだそう。 …それで、私のことも見ただけでわかったらしいわ。
…その繋がりで聞いたのだけど、トレーナーの知り合いらしいわ。良く遊んでくれるって嬉しそうに話してくれたわ… 親戚か何かなのかって聞いたけど、そういう繋がりではないらしいわ。 …前にトレーナーが言っていた、ゲームセンターで出会った子供、それがこの子みたいよ。私までこんな場所で出会うなんて、何か深い縁でもあるのかしら…
子供に名前を聞くのは何か問題な気がするから聞いてないのだけど… 家についていくのも問題よね。親御さんに会ったらしっかりと説明しましょう。名前もその時に聞けたらいいわね… チームリラに入りたいって言うなら、覚えておきたいもの。いつか、スカウトしましょう。 …子供の好きなものなんて数年で変わるかもしれないけど。ここまで縁があるのなら、一緒にやってみたいわ。
「へぇ、偶然会ったの? いい子だったでしょ?」
「いい子だったわ。大人よりも、ああいう子供のほうが優しくて話しやすいわ」
「…私に対して言ってないよね?」
「自覚でもあるの?」
「…少し」
「あなたには言ってないわ。変だとは思うけど、嫌だと思ったことはないもの」
「それはよかった… のかな?」
週明け、10月の第一月曜日に一昨日の話をしているの。あの日は良い体験ができたわ。現役時代はレース場でよくファンから声をかけられたけど、引退してからはファンと直接話す機会なんて殆どなかったの。現役時代も一方的に声をかけられることは多くても、こっちから話す機会はなかったわ。だから… 新鮮で、実りがあったと思うわ。
それに、子供の率直な言葉はよく響くの。頑張れって言われると頑張らないとと思うし、カッコいいって言われると嬉しくなるし、クラフトさんみたいになりたいって言われると誇らしく思えるの。 …単純と思われるかもしれないけど、楽しくて嬉しくて幸せで、あの子のためにももっと頑張ろうと本気で思えたわ。それだけ… ファンの声、子供の声は力になるの。 …走れないのが本当にもどかしいわ。
「…さ、トレーニングの準備をしましょう」
「そうだね、他愛もない話は終わり!」
「すみません、少し遅れました」
「大丈夫、まだ始まってないから」
「遅れました…! ごめんなさい!」
「大丈夫よ、まだ準備もしてないから」
今週のトレーニングは休み。その代わり、座学をするわ。座学と言っても教科書を読んでの勉強じゃなくて、ビデオを見ながらの雑談会よ。具体的に言うなら、ライバル達のレース映像を見ながらクロノさんの解説を聞く時間ね。
ライバルの強みを知ることは武器になるわ。もちろん、秋華賞では過去の映像の走りよりも高いパフォーマンスを見せてくると思うのだけど… それでも、走り方や強みは変わらない。より磨きがかかったとしても、強みは同じなのよ。
レース中に相手の走りを見て考えるのは難しい… だからこそ、レース前に映像で知っておくのが大切なの。言葉や紙の資料で学ぶのとは全く違う感覚のはずよ。映像と言葉と紙、3つ全てで違うように認識できるはず… そうすれば、どれか1つよりも詳しく理解できる… はず。
「よし、映像流すよ」
「最初は… はい、こちらも準備できました」
勉強会、頑張りましょう。
「はいっ! 頑張ります!」
「応援ありがとうございます。頑張ります!」
「凄い行列ね…」
「人が多いね… 波に攫われないように気をつけて」
「あなたもね…」
10月2週の土曜日、今日は聖蹄祭… 秋のファン感謝祭の日よ。去年は9月3週に行われていたのだけど、私は脚を痛めていたから参加しなかったわ。あれよ、大勢でパーティーがあった週の翌週で、私が坂路トレーニングで出遅れて脚を痛めた週末よ。 …碌な思い出がない週ね。バイキングで疲れて、坂路で脚を痛めて、聖蹄祭に参加できず。 …今思うと、最悪の週末。その分、今年は楽しむわ。
「あなたは去年、どこのお店に行ったの?」
「残念なことに、聖蹄祭のことを忘れてたから早朝に電車で東京レース場に行ってたよ」
「…お互い、今年は楽しめるといいわね」
「そうだね」
今年が10月2週の開催になった理由は諸説あるわ。海外に行ってたウマ娘が参加できるように、だとか、トップロードさんが10月1週に走るからその都合だとか、色々説はあるけど… 私達としては助かったわ。秋華賞は来週、最高のタイミングで心身のリフレッシュができるじゃない。
「クラフトちゃんは握手会に出てるから後で行くとして… クロノちゃんはどこだろ」
「クラスで何かやってるならそこでしょうけど… 聞いてないの?」
「何も言わずに言ったほうが、自然な反応が見れると思ってさ…」
「そういうこと…」
聖蹄祭はファン感謝祭と言われるように、トレセン学園の全ウマ娘がファンに様々な形で感謝を伝えるの。お店で何かを売ったり、握手会をしたり、催しで楽しませたり。基本的にウマ娘はみんな、どこかで何かをしているはずだから、クロノさんもどこかにいるはずよ。まだデビューしていなくて実績のないウマ娘も、顔を売るチャンスだもの。
私も今年は参加してないけど、一昨年はトップロードさんと一緒にトークショーしたわ。今年も脚の故障がなければクラフトさんと何かの企画に参加していたはずよ。 …脚の状態的にはもう大丈夫なのだけど、予定は前々から作るもの。動けそうとなった時にはもう参加できる企画はなかったの。レースなんかは当日参加できるものもあるのだけど… 走るのは無理だから。
「カレンさんのSNSに上がってないかしら…」
「カレンちゃんって確か広報担当でしょ? 聖蹄祭の広報アカウントも見てみたけど、クロノちゃんは見つからなかったよ。デビューしてないからね、取り上げられないよ」
「それはそうね… クロノさんの写真があったらその方が怖いわ」
歩きながら探しましょうか…
「どこ向かってるんですか〜?」
「クロノちゃんを探してるの。見てない?」
「ん〜、見てないです。あ、写真撮ってもいいですか?」
「いいけど、見たい人いるかな…」
「いますよ〜。アヤベさんも寄ってくださいね♪」
「私も…? これでいい?」
「はいっ、撮りまーす」
クロノさんより先にカレンさんに出会ったわ。広報のために駆け回ってるんでしょうけど… そんなカレンさんもクロノさんに出会ってないのね。それなら、カレンさんが行っていない場所に私達も向かったほうがいいわね。となると、私達が行くべき場所は…
「グラウンドを見に行こう、走ってるのかも」
「そうね。レースに出てるのかしら…」
「芝とダート、どっちに賭ける?」
「芝」
「…それなら私はダートに賭けるよ」
この賭けは勝てる自信があるわ。クロノさんがダートを走れないことは知ってるもの。聖蹄祭という大勢の人の前で、絶対に大敗するとわかってるダートを走るとは思えないわ。クロノさんはロジカルで考えられる人だもの… ダートはありえない、芝よ。
「それでは第3レース、左回りダート1800m、デビュー前のウマ娘による対決となります! 皆さん、拍手でお迎えください!」
「次はダートらしいよ」
「クロノさんは… いないわね」
…勝った。
「解説のクロノさん、このコースはどう見ますか?」
「…は?」「なるほどそっちか…」
解説… 走るものだと思っていたわ。賭けは不成立ね、選択肢に正解がないんだもの。 …選択肢にあったとしても絶対に選ばなかったけど。だって、解説なんて予想できる?
「距離は再来月に開催されるチャンピオンズカップと同じ、つまりシニア級のG1と同じ条件になります。デビュー前のウマ娘にとって長い距離であるのは間違いありません。ですから、最大の注目は最後まで体力を残せるかどうか、になると思います」
「凄い、板についてる」
「…普通、解説って引退したウマ娘がするものじゃないの?」
クロノさんの予想の良さ、知識の深さは私達はよくわかってるけど… 今日来てるファンの方々はクロノさんのことをよく知らないでしょ? …私だったら、名前を聞いたこともないウマ娘の解説なんて信じないわよ。今言ってるのも、当たり障りのないことだもの。クロノさんの名前は売れるでしょうけど… 異例の抜擢すぎないかしら?
「クロノさんの本命のウマ娘はどなたですか?」
「きた…」
「7番のコパノリッキーさんですね。トレーニングの時計こそ平凡ですが、走りは完全にダート向きだと思います。それに、この距離も問題なく走り切れると思いますよ」
「ありがとうございます。ここまで2戦2的中のクロノさんの本命は7番とのことです。それでは、ここからゲート入りです」
絶好調じゃない… 結果が書かれてる掲示板を見つけたけど、名前を聞いたこともないウマ娘しかいなかったわよ? ここまでのレースは全部デビュー前のウマ娘のレースだから私が知らないのは当然なんだけど… クロノさんは流石ね。
ただ、今回指名したコパノリッキーさん… 同時にやってる予想大会のホームページを見たところ、倍率は16人中の最下位。これだけの伏兵を指名して、これで5着以内に入ったらクロノさんは面白い予想家だってネットで話題になるでしょうね… もしも勝つようなことがあれば大事件になるわ。単勝、3桁ついてるもの。
…あ、単勝っていうのは一着を当てる予想の形式よ。この予想大会はポイント制で、色んな形式の予想ができて、ポイントを賭けて勝負するの。外した人達のポイントを当てた人達が総取りするシステムで、最終的に1番ポイントの多い人の勝ち。それで倍率が3桁って言うのは… 100戦やって1度勝ったら元が取れる、つまり100戦やっても1度も勝たないと思われてる、ということよ。それで勝つこともあり得るのが予想の面白みなんでしょうけど… それをクロノさんは本命にしたの。これが当たったらクロノさんはとんでもない予想家として名が売れるでしょうね。マグレだとしても、そうそう当たらないもの。
「…あなたの本命は?」
「このメンツなら私もコパノリッキーさんかな。強いよ、間違いない」
「あなたも…? それなら、私も乗ってみようかしら。どうせ他のレースには賭けないし、全部コパノリッキーさんの単勝に賭けてみるわ」
「あ、そんなイベントもあったね。私も今から全部賭けよっと」
「…好きそうね、こういうの」
「大好き」
「見たことないくらいの笑顔ね…」
…本当に好きなんでしょうね。迷わずに全ポイント賭けてるもの。
「お、はじまるよ」
「7番よね…? えーっと… 遠くてよく見えないわね」
「前の席は取られてるからね… あそこから見る?」
「…選抜レースの時にいた場所ね、確かにいいけど… もう間に合わないわ」
「確かに、もうスタートしてる」
さ、クロノさんの予想は当たるかしら?
「クロノさん、凄いですね」
「ありがとうございます… 自分でもびっくりしています」
…当たったわ。え? なんで? …少し、恐ろしいわ。
「う〜ん、紐抜け。3着わからなかったなぁ…」
「…紐抜けって何? 用語?」
「3連系で本命は来たのに相手が違った、みたいな感じだよ。3着の子を入れてなかったんだよね」
「…凄い買い方ね」
3着、予想大会の1番人気よ? 最下位人気を本命にして当てて、1番人気を切り捨てたの…? 一か八かの賭けが大好きなのね…
「そう? 固い本命だったから相手は絞らないとかなって」
「…倍率、見てないの?」
「締切1分前で見る暇なくて… でも、1倍台じゃないの?」
「3桁ついてるわよ…」
「…そっっっかぁぁ」
凄い落胆の仕方ね…
「…じゃあ、アヤベさん凄いことになってるんじゃない?」
「お陰様で1位よ… クロノさんも全部は賭けなかったんでしょうね」
「多分、クロノちゃんは全レース解説席で予想するんじゃないかな? それなら、外した時のことを考えてポイントは残してるんでしょ」
「…この大会の1位の景品、なんだったかしら」
「有マ記念のウイニングライブ付き個室観戦チケットと、好きなウマ娘のサイン付きアクリルスタンドとタオルだね」
「い、いらない…」
…実は私、有マ記念は既に特別席の招待が届いているの。有マ記念の後に行うトップロードさんの引退式にシークレットゲストとして呼ばれていてね… その関係で来てることがトップロードさんにバレないようにスタンドの高いところにある個室でレースを見る予定なの… だから、チケットを貰っても誰かに譲るしかないわ。
「…生まれて初めて、誰かに差してほしいと思ってるわ」
「その発言は色んな人に怒られるよ…? 私だってチケット欲しいんだから」
「それなら、私が1位になったらあげるわよ。いらないもの…」
「え、あ、ありがとう… 次のレースは9番の子が勝つよ」
「私のポイントでまだ賭けようとしてる? 別にいいけど、単勝に全部賭けるから外れたら有マもサヨナラよ」
「大丈夫、絶対勝てる」
…9番、単勝30倍台だけど。本当に全部賭けるわよ。私はチケットいらないんだから、ポイントが0になっても困らないもの。
「…賭けたわよ。それと、この後はどうする? 次のレースの後は休憩時間だけど」
「知り合いには一通り会えたよね… どこか適当に歩く?」
「それもいいわね。出店でも巡りましょう」
「焼きそばだってよ、食べ歩きする?」
「私は遠慮するわ…」
「綿あめはどうする?」
「行きましょう」
「射的…」
「やろう、欲しいものある?」
「…それなら、あのトップロードさんカラーのボールペンをお願いするわ」
「細い物を… でも、任せて」
「輪投げ、景品はキーホルダーだってよ」
「クラフトさんのもあるのね… やりましょう」
「2人でやろうか、スコア対決で」
「絶対に勝つわ…!」
「わ〜、たくさん! 聖蹄祭、楽しんでますね♪」
…楽しみすぎたわね。2本目のわたあめと焼きそば、射的のボールペンとついでに取ったお菓子、輪投げのキーホルダー2つとオマケのぬいぐるみ… あ、キーホルダーとぬいぐるみはクラフトさんのグッズよ。これからトレーナー室には小さなぬいぐるみクラフトさんが常駐することになるわ。
「…1度部屋に行こうか」
「そうね… 整理しないと、他の場所に行けないわ」
「そうだ、アヤベさん! 予想大会、独走ですね♪」
「そうなの?」
「ですよ? 2レース連続的中で合わせて1万倍! 凄いですね♪」
「そうだったのね…」
…高い倍率を当ててるのもあるんでしょうけど、一点に全ポイント賭けてる分、独走なんでしょうね… 優勝景品、手に入るといいわね。私はいらないけど…
「カレンはまだ巡る場所があるので、失礼しま〜す♪」
「ばいばい、また後で」
「荷物片付けたら、その後はどうするつもり?」
「考えてない… どこか行きたい場所とか、ある?」
「…あるわ」
「それなら、そこに行こう」
どうも、ラインクラフトです。今はファンの方と交流してます! 来てくれた方と握手をして、頼まれたらペンでサイン! ゆっくり話していると行列になると言われたので、サインは早くしてるんですけど… もう既に行列になってしまってます。頑張らないと…
「…オウエン、してます」
「ありがとうございます♪」
「サイン、コレにお願いします」
「はいっ! どうぞ!」
「ありがとうございます」
…今の人、明らかに変な人でした。知らない人に変な人って言っちゃいけないんですけど、帽子深く被ってましたし、サングラス付けてましたし、マスクもしてましたし、喋り方も変… って! あの後ろ髪!
「トレーナーさん!」
「…ばれた? この後も頑張って」
「はいっ!」
「…あ! じゃあアヤベさん、ですね!」
「…もっと早く気づくと思ってたわ」
「うぐぅ…」
「2人とも、この後も頑張ってね」
「頑張りますっ!」「はいっ!」
声で気づけなかったのは不覚です… というか、変な人って思っちゃいました。アレは変装だったんですね… 目も鼻も口も隠れちゃうと、全然わかりませんでした。それに、髪の色も前は違ったんです! 赤と青の2色のメッシュで、不思議な髪だなぁって眺めてました… ウィッグだったんですね。後ろ髪も半分赤くなってたら最後までトレーナーさんだって気づけなかったかもしれません。変装が上手かったとしても、気づけるようにならないと…!
「次の人は… こんにちは」
「つ、疲れました…」
「大変でしたね…」
「でも、楽しかったです」
「ですね。私も、すごくすごーく楽しかったです」
握手会兼サイン会は16時頃に終わりました。本当は15時までだったんですけど、並んでもらったのに時間でダメっていうのは悪いと思って運営の人に延長させてもらいました。 …これ、昔にしてもらったことがあったんです。わたしが並ぶ側で、憧れのティアラのウマ娘さんの握手会に並んだ時に。 …凄く嬉しかったんです。だから、わたしも同じことをします。喜んでもらいたいですから。
「この後はどうしますか?」
「トレーナーさんを探します!」
「それなら私も手伝います。アヤベさんも一緒だと思いますし…」
「頑張りましょうね」
「ですね!」
少し休んだら… わたしも聖蹄祭を楽しみに行きます!
「お疲れ様でした」
「お疲れ様でした、この後も頑張ってください」
「クロノジェネシスさん、本当に今日はありがとうございました」
「こちらこそ、良い経験ができました。よければ、また呼んで下さい」
メインレースはちゃんとした解説の人が担当しますので、ここで私の出番は終わり…
「…よしっ!」
思わずガッツポーズも出てしまいます。今日、9レース予想して8的中ですよ! パーフェクトこそ逃しましたが、二桁人気を2回も本命で拾って、今日は完璧だったと思います。予想大会は2位ですけど、1位が規格外… それに、私の予想を聞いて当てたと連絡も貰いましたので、最高の気分です。 …1位、アヤベさんですし。1万ポイントスタートで、100億まで増やされましたからね… 流石としか言えません。
私も慎重にならず強気に賭け続けたら辿り着けたのかもしれませんが、悔いはないです。堅い賭け方で堅実に増やす、それが私の予想なので。
「お疲れ様、良いガッツポーズだね」
「トレーナーさん…? わ、忘れてください!」
「忘れてもいいけど…」
「写真を撮りましたよ♪」
「け、消してください〜!」
うぅ… まさかガッツポーズの瞬間を見られてしまうとは… 実況席のすぐ近くですし、私に会いに来てくれてたんでしょうけど… 見られるとは思いませんでした。もう少し人のいないところにすればよかったですね…
「そんなことより、この後って暇?」
「そんなことではないんですが… 用事はないので、レースを見ようと思っています」
「それなら、私達も横にいていいかしら?」
「もちろんです、アヤベさんの予想も聞かせてください」
「私は予想なんてしないわよ… トレーナーに聞いて」
「カレンも巡り終えたので、一緒にいま〜すっ♪」
騒がしく予想しながら観戦しましょう… 隙を見てカレンさんのスマホから写真を消すことは忘れずに。
「あ、さっきの写真、クラフトちゃんに送信しますね」
「待ってください! 保存はまだいいですけど、拡散だけは…」
「そこまで必死になることかしら…」
「な、なります!」
「…わかりました、送らないでおきますね♪」
「よしっ…」
危ない、またガッツポーズが飛び出すところでした。
「じゃ、席は取ってあるから、行こうか」
「今日は1日、お疲れ様でした!」
「あなた何かした?」
「楽しかったですね」
「ですね〜」「ですね」
聖蹄祭が終わって、最後にトレーナー室に集まりました。何をするでもないんですが、レース観戦の時に全員集まりましたので、せっかくならと雰囲気的に集まった感じですね。結局このまま解散になるんですが、やはり最後はみんなでトレーナー室に集まって、少し話してからお疲れ様でしたと言って別れる。ルーティーンのようなものです。
「アヤベさん、予想大会優勝おめでとうございます!」
「…ありがとう」
「おめでとうございます♪ 景品はどうするんですか?」
「クラフトさんのグッズにするつもりよ」
「そんな、わたしのサインなら幾らでも書きますから、もっと… レジェンドの人にしましょう!」
…景品。私の記憶では、有マ記念の個室観戦チケット、最大8人まで行ける物があったはずです。選択式ではなかったはずなので、アヤベさんは必ず手にしているはず… 言うか悩んでいたことがあるのですが、意を決して言おうと思います。私も… 有マ記念が見たいので!
「あの、私も「待ってクロノちゃん」
「は、はいっ、なんでしょうか?」
「その話は後で」
「…? わ、わかりました…?」
土下座する覚悟で観戦に連れて行ってほしいとお願いするつもりだったのですが、口を塞がれてしまいました… どうしてでしょうか。何か言ってはならない理由が…
「さ、もう解散しよう」
「そうね、私も疲れた…」
う、う〜ん…?
「緊張しますね…」
「気持ちはわかるけど、緊張しても良いことはないわ。もっと気楽にいきましょう?」
「ですね…」
「8時間後には結果も出てるのか…」
聖蹄祭の翌日に京都まで移動してきて、数日経って今日は日曜日。秋華賞当日です。変則2冠を成し遂げた開拓者ラインクラフトが変則3冠まで駆け抜けるのか、はたまたオークスを制したシーザリオが2冠目を手にするか、どちらでもない誰かが初戴冠を果たすのか…
「…信じよう」
「…行ってきます」
「胸を張って、楽しんできて」
「頑張って。そして、笑って帰ってきなさい」
「応援しています!」
もうレース直前です… 心がバクバクして、潰されてしまいそうです。落ち着くためにも… 秋華賞の展開を予想しましょう。 …数日前に予想を済ませクラフトさんに説明しましたが、私は予想してる時が1番落ち着けますので。もう一度、予想を振り返りましょう。
先ず、逃げるのは4枠8番のデアリングハートさんが本命です。他にも逃げる候補はいますが、デアリングハートさんはトレーニングの段階から並々ならぬ気合いが入っており、逃げの調整も万全。間違いなく先頭か番手で押し切りにくるでしょう。
クラフトさんはその後ろを目指します。5枠10番と枠はまずまずで、最内に入るのは難しいですが外々を回される展開にはならないはずです。コーナーを回るのも上手ですので、しっかりとレース中は堪え、4コーナーから進出し後続を振り切りにかかる。それがクラフトさんの作戦になります。
対抗として人気を集めているシーザリオさんは3枠5番。後ろに下げると進路が塞がりかねない危険な枠ですので、中団で進めてくると思われます。そこから状況に合わせ内を突くか外に出し、クラフトさんを後ろから捕まえに来るはずです。その猛追を振り切れるか、そこが1番の肝でしょうね…
残りの有力どころではエアメサイアさんが2枠3番です。内を突いて豪快に差し切り勝ちを狙ってくると思われます。もしも完璧にバ群を捌かれ、内から突破された場合は… クラフトさんにとって、最大の脅威となり得ます。それだけの強さをエアメサイアさんは夏期間に成長し手に入れ、前走の秋華賞トライアルで示しました。注意は必ず必要です。
展開次第では、クラフトさんは逃げに行くこともあり得ます。今回は逃げウマ娘が強力ですので、基本的には競りかけず終盤の末脚勝負で先頭に立つ予定ですが… 選択肢は狭めるべきではありません。難しいレースになることは間違いありませんが、クラフトさんを信じましょう…!
「…もうゲート入りだよ」
「瞬き厳禁… と言うには長いわね」
「でも、瞬きはしない気持ちで…!」
「見届けよう…!」
「わたしなら、いけるはず…!」
ゲートが…
開いた! スタートは最高とは言えませんが、悪くもないはずです! 逃げたのは… やっぱりハートさんですね。それなら私はどこに… 見えた! 2番手を取りに行きます! この進路、使わせてもらいます!
1コーナー、前から2番手で内から2列目… 最高の位置です。ここでハートさんの背中にピタリと付けて、最終直線まで脚をためましょう。まだ動かない、何があっても…!
2コーナー、問題はなし。ペースは… 多分、普通のペースです。それなら仕掛ける必要もなし…
『結果はわからなくても、信じることはできます! わからないからこそ、信じてるんです!』
『…私を信じて』
まだ仕掛けない、みんなを… わたしの末脚を信じます! みんなは夢を、わたしの脚に託してくれたんです。ですから、迷いはありません。わたしはわたしの走りをすればいい… 悔も未練もない、そんな走りを…!
向こう正面、並びは変わらず。ペースもそこそこに流れて、少し苦しくなってきましたが… まだ、終わっちゃいません。それに、苦しみなんて関係ありません。折り返しを過ぎてるんですから、疲れてくるのはみんな同じです… それなら、意地と、根性と、思いで走り切るんです!
3コーナー、仕掛けるのは今か… いや、もう少し後か… …揺らいじゃいけませんね。決意を持って、わたしは走るんです。わたしの前にハートさん、少し後ろにメサイアさん、外を回ってシーザリオ。行こう!
『君の走りに、夢を見たんだ』
4コーナー! 前を捕まえて、後ろを引き離す最大の好機…! さぁ… 勝負だよ、みんな!
「みんなの期待に力をもらって… 流星のように夢を叶えるために! わたしの道を、切り拓く!」
『頑張って! クラフトちゃん!』
後少し、ハートさんをかわして… かわして…
「私も、負けられないの!」
…っ、ハートさんが止まらない! 後ろから何人も迫ってきてるのも感じます…! でも、でも! わたしの夢を、みんなの夢を果たすために…!
「負けるかーーっ!!」
「やっっ、たぁ…!」
「…おめでとうございます」
「サンクス、クラフト。あなたも強かったわ。本当に…」
「ファンのみなさんが待ってますよ。声に… 応えてきてください、ハートさん」
「そうね… クラフト。また、走りましょう」
「もちろん。でも次は、わたしが勝ちますよ」
「…クラフトは強いわね。それじゃあ、行ってくるわ!」
「……強くなんてないですよ」
うぅ… 後ちょっとだったのに、届かなかった…! 目の前だったのに、もうちょっとで……みんな見てるから、涙を、堪えないと…
「お疲れ様、よく頑張ったわね」
「…ごめん、私のせいで…」
「お疲れ様です。 …夢を見せてもらいました」
「…トレーナーさん」
「…ごめんね」
控室に戻ってきました。悔しくて、悔しくて、涙がもうすぐそこですけど… 泣きたくても、泣けませんね。その前に、言わないと…
「ここまで連れてきてくれて、ありがとうございます。 …だから、ごめんなんて言わないでください」
「…そう、だね。ごめん、ありがとう、クラフトちゃん。 ……おつかれさま」
「…抱きしめてもらえませんか?」
「わかった… 私でよければ」
…悔しいです、勝ちたかったです。変則3冠をしたかった、ティアラの歴史に新しい1ページを刻みたかった、みんなの想いに応えたかった。でも、それ以上に… トレーナーに、心から笑ってほしかった。いつも、どれだけ笑っていても、遠くを見るように悲しそうな笑顔だったから。勝って、満面の笑みで、迎えて欲しかった。それは… 次に持ち越しですね。
「もっと… 頑張ります。強くなります。絶対、ぜったい…」
「うん… 頑張ろう」
「…頑張りましょう」
「…はい」
秋華賞は終わりました… とめどない涙と、いいしれぬ悔しさと、燃えるような心だけを残して…
「次走は、来年にしてもいいでしょうか」
「…理由だけ、聞いてもいいかな」
「絶対に、勝ちたいんです! もっと強くなって、G1を勝つために… 来年の高松宮記念まで、鍛えたいんです」
「…これが以心伝心ってやつなのかな」
「?」
「私達も話していたの。今のままでは、シニア級で勝ちきれるかわからない。だから、目先の重賞制覇を狙わず… じっくりと時間をかけたいって」
「高松宮記念… 今のうちから、データを集めますね」
「それは早いんじゃないかな…」
次走は来年の3月に開催される高松宮記念、1200mのG1競走です。叩きとしてG2やG3を使うのかどうかはトレーナーさんに任せます。わたしにはわからないことですし、トレーナーさんを信じてますから!
「秋華賞から1週間経ったけど… 元気なようで良かったわ」
「はいっ! まだ悔しさはありますけど… でも、前を向いてます! 次こそ勝ちたいので!」
「…私も切り替えないと」
「…明日、星でも見に行く?」
「…ありがと、お願いするね」
「わたしもいいですか?」
「私も、お供します!」
「…ありがとう、みんな。 …来てもらってもいいかな」
トレーナーさん…… 本当に、気が滅入ってそうです。声に覇気がなくて、ずっと下を向いていて、言葉も途切れ途切れで… わたしが負けたからなのは、わかってます。だから、もっと頑張ろうとも思います。でも… ここまで落ち込んでるトレーナーさんを見るのは初めてなので、不思議な思いです。それだけ信じてくれていたのかもしれませんけど… 心配です。
「…今日は早めに失礼するね。早めに帰って寝ることにするよ…」
「そうしなさい… また明日、迎えに行くわ」
「…ごめん、ありがとね」
…大丈夫かなぁ?
「綺麗な星空…」
「プラネタリウムも綺麗でしょ?」
「ですね〜」
「勉強になります」
お昼過ぎに、プラネタリウムに来ました。山や丘で見る天然の夜空も綺麗ですけど、プラネタリウムはやっぱり違いますね。はっきりと、鮮明に見えるんです。手元のパンフレットを見ながらあの星の名前はなんだろうって、楽しいです。
「トレーナーの好きな星はどれかしら?」
「…あの星かな。何よりも青く、浮き出て美しく見える……」
「確かに綺麗ね… ねぇ、トレーナー。もしもトレーナーが星だったら、どんな星になりたい?」
もしも星だったら… もしもわたしが星だったら、ピカーって輝きたいです。みんなを照らせる、明るい星。それで、何かの星座に入りたいですね。もちろん、その真ん中で!
「6等星になりたいかな」
「とても暗い星ですね… どうしてですか?」
「綺麗な星空を邪魔したくない… って感じかな。それに、あまり目立つのも好きじゃなくて。謙虚に、好きに生きてたい」
「あなたらしいわね…」
目立たず、謙虚に… 大人です。これぞ大人って感じがします。 …わかりませんけど。でも、なんとなくわかる気がします。星空は今の状態が綺麗ですから、自分の入るスペースなんてないような、そんな気はします。
「それじゃあ、問題。私が指さした星は今から何年後に輝きを失い、夜空から消えると思う?」
「100年後、とかですか?」
「一億くらいですか…?」
「…それってわかることなの?」
「トレーナーの答えが1番正しいわね。あの星がいつ消えるのかなんて、誰にもわからない。星によっては何億年後に消えるとかって言われたりもするけど、それでも誤差で千万単位の年数がズレる。 …わからないのよ、誰にも。星に限らず、人の未来も」
「…そうだね」
…はっ! そうだ、今回はトレーナーさんを励ます為にみんなでプラネタリウムに来たんでした。何も考えずに楽しんじゃってました…
「綺麗だね…」
「気に入ってもらえたならよかったわ」
…上手く星を使った励まし方が浮かばないので、黙ってニコニコしておきますね。
「資料館… 初めて来た、こんなに広いんだ」
「私も来たのは初めて… 記憶にある範囲では」
「トゥインクル・シリーズの歴史を全て記録しています。案内しますね」
続いて、トレセン学園から少し離れた場所にある大きな大きなウマ娘資料館に来ました。過去の重賞レースの結果はもちろん、レース場の工事記録、過去のレコードなど多岐にわたります。最近の記録も昔の記録も、全部あります!
「最初に見て頂きたいのが、この区画です」
「歴代ティアラの道…」
「…! わたしもいます!」
「はい。名だたる女傑達の中に、クラフトさんの名前が刻まれています。そこには、NHKマイルCへの転戦にまつわる話や戦績、そして… チームの名前、トレーナーの名前が記されています」
「私の名前がこんなところに…」
壁に、わたしとトレーナーさんの名前が並んで書かれてます! 嬉しいですね… ティアラの歴史に、確かに名を刻めたんです。横に桜花賞の時の写真も貼られてます、懐かしいですね… みんな、泣きながら笑ってる写真です。 …最っ高の思い出です!
「トレーナーさん。チームリラの名前がクラフトさんと共にここに記されていること、私はとても誇りに思います。トレーナーさんの悩みは私にはわかりませんが… 胸を張って下さい。あなたは既に、歴史に名を刻んだのですから」
「歴史に… 私も、誇らしく思うよ」
「…苦しいのなら、話していただけませんか? 頼ってはいただけませんか? 歴史に名を刻んだ過去の名トレーナー達も、幾度と悩み、苦しみ、もがき、その果てで前に進みました。そしてその大切な時、仲間と共に乗り越えたと多くの人が語っています。 …私を、信じられませんか?」
「…心配をかけて、ごめんね。でも、信じてるからこそ言えないんだ。 …信じてもらえないかな」
「…わかりました。次のコーナーに案内しますね」
…今は、資料館を楽しみたいと思います。わたしもトレーナーさんの力にはなれなさそうなので… それに、隣にいるだけでも、安心できると思いますので! アヤベさんやクロノちゃんみたいに言葉で励ますのは諦めて… 態度で励まします! 言葉にしなくても心で通じると信じて…!
「今日は1日、ありがとう。みんなのおかげで、少し前を向ける気がするよ」
「それはよかったわ。 …部屋まで送るわね」
「また明日!」
「おやすみなさーい!」
何もできなかったかもしれませんけど… トレーナーさんが元気になってくれたなら良かったです。もっと元気になって、前みたいに笑ってほしいですけど… 時間をかけてずっと思いを伝えたら、また元気になってくれると信じて待ちます。 …できることは考えて、やりますけどね♪
「…夢を忘れろって言っても、難しいんでしょうね」
「…ごめん」
トレーナーの最近の状態は、はっきり言って異常だった。何かに絶望したようにも、自分の心を無理矢理にでも前向きに変えようとしているようにも、何かを信じようとしているようにも、信じきれない自分自身に失望しているようにも見えた。 …私にはトレーナーの心なんて欠片もわからないけど、無限の深みに陥ったような、そんな苦しみだけは伝わってきたの。だから… 助けたい。
かつての私とは状況も、原因も、立場も、何もかもが違う。だけど、私がカレンさんやトップロードさん、それと… 妹に助けられたように、トレーナーを助けたい。
「寮長に外泊届を出してあるから」
「ここで寝る… ってこと?」
「ホテルなんてとってないわ。あなたに追い出されたら私は野宿ね」
「…他のトレーナーにバレないようにね」
「変装道具はあるから安心して」
「それ、トップロードさんしか騙せないよ」
「…かもね」
今日はトレーナーの部屋で寝るわ。 …できるなら、明日も明後日も、いつまでもここで寝るつもりよ。流石に毎日外泊届を出していたら不純交友等を怪しまれるから無理だけど… でも、思いとしては毎日ここにいたい。トレーナーの苦しみを和らげたいもの。
「隣の部屋から布団と枕を持ってくるわね」
「私も手伝うけど… 流石に怒られないかな」
「誰も来ないからってこの階を改造したのはあなたでしょう?」
「…確かに。見られちゃ駄目な物は沢山あるし、今更か」
植木鉢だらけの部屋のベッドから布団と枕を持ってきましょう。 …この部屋の植木、ちゃんと育ってるのね。邪魔だからってこの部屋に集めて放置してるものだと思っていたけど、水もやって… 時折日にも当ててるのかしら? どちらにせよ、育てようとはしてるのね。 …律儀な人ね。枯らしても咎められやしないのに。
「…枕、硬いのね」
「私の使う? 硬いのが嫌で柔らかいの買って使ってるんだけど」
「…ふわふわな枕も捨て難いけど、遠慮するわ。あなたに元気になってほしいのに、大切な寝具を奪っては本末転倒でしょう?」
「…優しいね」
「サブトレーナーとして当然のことをしてるまでよ」
…サブトレーナーの業務に、トレーナーの健康管理なんてものはないわ。きっと全員、知ってるでしょうけど。にも関わらず、殆どのチームのサブトレーナーはトレーナーの健康を気にかけて、食生活や睡眠習慣の改善を図るそうよ。 …どのチームでも、トレーナーに元気でいてほしいという思いは同じということよ。
「夢のことは聞かないようにするけど… 何か、良い夢を見れるような枕とか、買ってみたら?」
「…そういえば、そんなお守りを昔貰ったような」
「持ってるなら、握って寝たら?」
「あいにく、家… トレセン学園に来る前に住んでたところに置きっぱだね」
「それならもう残ってなさそうね…」
そんなお守りを持ってたなら、トレセン学園にも持ってくればよかったのに。夢を見るのは昔からだったみたいだから… でも、無いものをねだっても仕方ないわね。使えそうなものを探しましょう。
「…ASMRとかって聞くの?」
「聞かないけど、やってくれるの?」
「やらないし、どんな物かも知らないわ。眠れないなら試してみてもと思っただけ」
「それなら大丈夫かな。今も、眠れてはいるから」
「…そうだったわね」
…忘れていたわ。トレーナーを眠らせることが目的じゃない… 最近の状態を見るに、ちゃんと眠れているのかは怪しいところがあるけど。 …眠れているのかどうかは今日わかることね。眠るまでずっと起き続けてやるわ。 …夜更かしは得意なの。いつもは綺麗な星を見る為に… 今日は、自称6等星を見る為に。
「お風呂入ってくるね。それとも、先に入りたい?」
「後で構わないけど… 一緒に入りましょうか?」
「それは… やめよう」
「わかったわ」
まぁ、そうよね。いくら同性といえど、指導者と生徒が一緒にお風呂に入るのは何かしらの規律に違反してもおかしくないわ。 …不純交友と言われた時に反論できなくなってしまうもの。
「棚とか、漁っていてもいいかしら?」
「だめだよ?」
「…おやすみ」
「…おやすみ、アヤベさん」
夜も遅い時間になって、もう眠ることにするわ。明日は月曜、授業もあるし… 私も、あまり夜更かししすぎるのは良くないわね。それに、トレーナー寮を出るところを他の誰かに見られない為にも、早く起きてここを去らないといけないわ。
「…アヤベさん」
「どうかした?」
「…なんでもない」
…なんでもない人は突然人の名前は呼ばないし、なんでもないと言わないわ。 …何をしてほしいのか、1つだけ思いついたからやってみましょう。
「…あリがとう」
手を握るので正解だったみたいね… よくドラマなんかで『私はずっとここにいる! 絶対に離れない!』みたいな感動シーンがあるけど… トレーナーも、同じような気持ちなのかしら。それがどんな気持ちなのか当事者でも役者でもないからわからないけど… きっと、寂しいのよね。
トレーナーが見た夢は、クラフトさんによく似たウマ娘が消えてしまう夢。それなら私は…
「絶対に離れないから、安心して」
「…手術が控えてたりはしないからね?」
「そのイメージはなかったわ…」
「…ごめん」
…おやすみなさい。
「ここがダービーウマ娘の特集コーナーになります」
「アヤベさんは… あそこですね」
「…何書かれてるのかしら」
「言葉の節々に棘があるが、実は仲間思いで優しい青き流れ星…」
「…はぁ? そこのスタッフに、責任者を連れてきてもらうわ」
「あの、端に…」
「トップロードさんが書いたって書いてありますよ…」
「…引退してから、しっかりと問い詰めることにするわ」
「…でも、的を射てるよね」
「ですね…」
〜10月後半