琴の音に耳を澄ませて 作:緑雨
おはよう、アドマイヤベガよ。昨日はトレーナーの部屋で寝たわ。頼まれたから手を握って…… おかしいわね。私はトレーナーの手を握って、トレーナーが眠ったのを確認してから、床に敷いた布団で寝たはず。どうして私はベッドに…?
「おはよう、いい夢は見れたかな?」
「特には… いつ起きたの?」
「少し前だよ、それでコーヒーを淹れたところ。飲む?」
「今はいらない…」
時間は… 6時前ね。 …早い時間だけど、普段からこの時間なのかしら。私がホームルームの前にトレーナー室に寄ったらいつもいるし… 普段からこの時間には起きてそうね。私も、急いで寮に戻らないと。本当はこのまま教室に向かいたいところだけどね… 荷物が部屋なの。カレンさんに持ってきてもらうのは悪いし…
「寮に戻るわ、また後で」
「うん、また後でね♪」
…昨日よりは元気そうね。声も少し躍って聞こえるし、笑って手を振って見送ってくれてる。 …心配させないように芝居してるって可能性も捨てられないけど、今のトレーナーがそんなことするとは思えない。 …心配をかけて励まされた直後に元気なフリをする人なんて、そうそういないでしょ? よほど励まされるのが嫌いな人じゃなければ。
さ、寮に着いたし… 荷物取ったらすぐに登校しましょうか。学食でも食べて、その後は教室でのんびりと。
「後3レース… もうすぐね」
「ですね… 自分でもまだ実感はないです」
「最後まで楽しむのよ」
「はいっ! 走れることに感謝して… 楽しみます」
休み時間、トップロードさんと少し話してるの。話すのはいつものことなのだけど、今日は引退のことについて。トップロードさんはこの後、天皇賞・秋*1、ジャパンカップ*2、有マ記念*3と走るわ。秋のシニア級王道路線、去年も歩んだ道よ。 …引退と聞くと寂しいイメージが浮かぶけど、不思議と楽しみな気持ちのほうが強いの。トップロードさんは、最後に… どれだけの強さを示して、華々しくターフを去るのか。敗れての引退式になったとしても… それでも美しく見えるのは、これまで積み重ねた全てのおかげなんでしょうね。
「…授業よ、席に戻ったら?」
「はーい」
「アヤベさんも一緒に、どうですか?」
「遠慮しておくわ」
「楽しいよ? 日向ぼっこ」
「何度誘われてもなびかないわよ」
時は流れて、金曜日。来週のトレーニングも決まって、それぞれの寮に帰るところよ。トレーニングは坂路、クロノさんと併走してもらうわ。秋華賞は前も後ろも速い上がりの決着だったから、脚にダメージが残らないか不安だったのだけど、問題はなさそうなの。負荷を強くかけるのは不安だから設定タイムは少し緩めるけど、トレーニングにはなるはずよ。
…トレーナーはだいぶ元気になったみたいよ。少なくとも、チームで過ごしている限り嫌な感覚はないわ。 …部屋に戻ると頭を抱えたりして、悩んでいるようだけど。秋華賞を負けた悔しさは落ち着いても、例の嫌な夢は忘れられないんでしょうね。それは仕方ないけど… これから時間をかけて、夢は夢だと証明されたらそれもなくなるはず。時が解決してくれるまでは、じっと側にいることしかできないわ。
「私もご一緒してもよろしいでしょうか?」
「もちろん」「行きましょう!」
「行ってらっしゃい」
…楽しそうね。夜に星を眺めるのも好きだけど、日の光を浴びるのも嫌いなわけじゃないわ。レースは昼間だもの、嫌いだったら走れないわ。1人でやろうとは思わないけど… みんなで寝転がるのは楽しそうじゃない? 日向で話して仲良く笑って、寝たいだけ寝る… 青春って感じがするわ。青春に憧れはないけど。
「先に失礼するわね」
「早いね、どこか行くの?」
「星を見に、丘に登ろうと思うの。ほら、あの場所よ」
「私もついて行っていい?」
「わたしも!」「よろしいでしょうか」
「静かにしてくれるならいいわよ」
日が沈むまで後少し… 少し急ぎながら、小走りで行きましょうか。
「…あなたに会うのは、今年はこれが最後になるわね」
「この時期にも見れるんだ…」
「夏だけだと思ってました」
「思っているよりも永い時間見れるものなのですね」
見に来たのは夏の大三角、その中のベガ。いつも見に行く星だけど、綺麗に見れるのは今の時期が最後ね。いつものように、拝んで帰るだけでもいいけど… しっかりと言葉で思いを伝えることにするわ。今を逃したら次に見れるのはおおよそ半年先だもの。悔いのないように。
「…1年、ありがとう。高いところから見守ってくれて、導いてくれて。苦労した1年だったけど… それ以上に、夢を見れた1年だったわ。また来年… 5月頃に会いましょう」
「あの星への挨拶? …私もしておこうかな」
「来年もみんなで見れますように…」
「えっと、えーっと… 何か、良くなりますように…」
「言うことがないなら黙ってもいいのよ」
それに、言葉を絞り出して願うのは流れ星にすることよ。 …前もこんなことをしてなかったかしら。成長していない… とは言わないけど、それだけ欲があるのかしら。それに、そんな簡単な願いなら幾らでも言ってくれれば叶えられ… るはずよ。トレーナーの悪夢のとおりにはさせないもの。必ず、来年もここに来ましょう。
…
「…あなたも、私を見ていてくれたかしら。空の彼方で楽しく笑って見ていてくれたなら、嬉しいわ。私は怪我でまた少し走れなくなってしまったけど… もう走れるようになった。きっとあなたのお陰ね。 …来年もまた、見守ってて。お姉ちゃんは、頑張るから」
「…きっと見ていてくれるよ、妹さんも」
「わたしがもっと重賞を届けます!」
「私の予想が当たるように祈ってください…!」
「あの子にそんなことをさせないで」
「ご、ごめんなさい!」
…いい仲間でしょ? 最高のチームよ。あなたの為にも、私はここでこれからも頑張るから、見守っていて。 …急いで生まれ変わってくれてもいいわよ。必ず迎えに行くから。このチームを無くすつもりはないから。
「…帰りましょう」
「わかりました」「私は少しお店に寄ってから帰ります」
「じゃ、街に降りたら解散にしよう」
トレーナー寮に帰りましょう。 …いっそのこと、私の部屋をトレーナー寮に移せないかしら。 …まぁ、無理でしょうけど。ウマ娘とトレーナー、私達は同性だけど異性の関係であることも多いわ。成人した男性と、中高生の女子。寮とはいえ、1つ屋根の下で暮らすことを誰も許可しないでしょうね。
…私もトレーナー資格を取れば正式に入れるのかしら? 考えておきましょうか… サブトレーナーとしても持っておけば役に立つかもしれないもの。 …どんな資格なのか知らないけど。
「おやすみなさい」
「おやすみ…」
週末も、来週以降も、頑張りましょうか。
「トレーナーさん! 戻りまし…」
「おめでとう。本当に、止まることを知らないわね」
「アヤベさん! 来てくれたんですね…!」
「ちょっと、抱き着かないでよ… 汗、凄いわよ」
「ご、ごめんなさい… えへへ…」
日曜日、天皇賞を見に来たの。凄かったわよ。最終直線でバ群の中団半ばから外に抜け出して、残り200mの地点で先頭に並び、その後は追い込んできた後続をなんとか振り切ってクビ差の辛勝。 …着差は辛勝だけど、見ていると圧倒的な強さを感じさせられたわ。
それで、私がいるのはトップロードさんの控室。普通に観客席で見てたんだけど、トップロードさんのトレーナーに呼ばれたの。良ければ控室で見ないかって。その言葉に甘えて、控室で楽に見させてもらったわ。そのトレーナーはインタビューを受けてるわよ。どこかで。
「…次も、期待していいのよね?」
「もちろん、お任せあれ!」
…楽しみね。
「へぇ、秋天、見に行ってたんだ」
「あなたは行かなかったの?」
「お酒飲んでた」
「…そう」
月曜日、トレーニング前よ。2人が着替えてくるのを待ってるの。
「行けます!」「準備できました」
「じゃ、行こっか」
「私が白い旗を上げたらクロノさん、赤い旗を上げたらクラフトさんがスタートよ。準備はいい?」
「はいっ!」「行けます」
白上げて………ここで赤も上げる。4秒くらいの差のはずよ。クラフトさんには後ろから追いかけてもらって、最後には並ぶようなイメージで走ってもらうわ。クロノさんには倒れない範囲で全力で走るように指示が出てるはずよ。本格化前のクロノさんには大変だと思うけど、よく頑張ってくれているわ。
「…上に帰りましょうか」
「おかえり、休む?」
「ゆっくり歩いてきたから大丈夫よ。クロノさんは?」
「ここ… です…」
「…大丈夫?」
「息が… 上がっただけですので… 大丈夫です…」
「あ、わたしも、大丈夫です! 」
「あなたが元気なのは見てわかるわ」
ストップウォッチは… あった、ペースはそこまで速くはなかったのね。それでも坂路は苦しいでしょうけど… 今のクラフトさんなら、立っていられるのね。疲れはもちろん、余裕はないはずだけど、普通に話せる。最初の頃は今のクロノさんのように倒れ込んでのに…
…クロノさん、倒れない程度に抑えるよう指示されてたと思うのだけど、倒れたのね。全力なのは良いことだけど、限界を超えて走る必要はないわ。何度も言うけど、クロノさんはまだ本格化していない。クラフトさんと同じように走れるはずがないんだもの。抜かれても焦らずに、落ち着いて走ってもらわないと… 無茶をして体を壊したらクロノさんの将来に関わるから、気をつけてもらわないといけないわね。
…久しぶりのトレーニングだから飛ばしすぎた、だけならいいわ。前に併走していた時は、ここまで苦しそうにしている姿を見た覚えないもの。私ももうすぐ走れるようになるはずだから、後少し頑張ってもらいましょう。
「おつかれさま」
「…はいっ…」
少し心配はあるけど… 2週間、坂路トレーニング頑張りましょう。私は何もしないけど…
どうも、琴葉葵だよ。今いるのは…
「それじゃあ、こうしたらどうする?」
「えっと、えっとねぇ… こう!」
「それなら私はここに香車を打とう」
「そしたら、よけて… あ! 動かしたら、王様がとられちゃう…」
仲良くなった子供の家。最近は気が沈むことも多くて、みんなに心配されちゃったし… 気分転換に遊びに来たんだ。子供と話すのって楽しいというか、心が洗われるというか… 何かあってもすぐに前を向ける子供の強さを感じると、頑張らないとって思えるでしょ? だから、自分に激を入れる為にもお邪魔したんだ。
「はい、王手」
「逃げなきゃ、逃げなきゃ… ここ…」
「だと、この桂マにやられちゃうね」
「こっちは…」
「ここから角が飛んでくるよ」
「…まけ?」
「実は…」
「まけた… でも、たのしかった」
…大人げなかったかな。相手が子供でも、勝負で手を抜くのは嫌いでさ。それに将棋で手を抜くってどうすればいいのかわからなくて… 考えずに早打ちするようにしてたけど、それでも負けるのは難しいね。露骨に負ける手を打つのは失礼だし…
「…おなかすいた」
「頭を使うとお腹もすいちゃうよね…」
さて、どうしようか。ご両親は2人で外出中、いるのは子守を任された私とこの子だけ… 外食だと誘拐してるみたいだし、出前を呼ぶには住所をちゃんと知らない。家にあるものは好きに使っていいって言われてるし… 料理、しようか。
「何か食べたいもの、ある?」
「おでん!」
「…それは難しいなぁ、他には何かないかな?」
「う〜ん… カレー!」
「カレーライスならイケるかな… ちょっと待っててね、今から作ってみるよ」
この世界に来てから学食かコンビニ弁当しか食べてない私だけど、元々は一人暮らしで自炊もやってたからね… ひっさしぶりの料理、腕を振るってみせよう。 …どれぐらい作ろうかな。時間的に完成するのはお昼時。その頃にはご両親も買い物を済ませて帰ってくるはず… よしっ、多めに作ろう。育ち盛りのウマ娘は沢山食べるらしいし… お母さんに連絡して、やりますか。
「お待たせしました、お嬢さん」
「美味しそう!」
ふ〜、疲れた… 久しぶりだと疲れるね、昔は毎日やってたのに。 …昔は1人前だったか。今日は5人前くらい作ったよ、野菜切りすぎて腕が痛い… でも、喜んでもらえたみたいでよかった。
「あおいさんも食べないの?」
「…そうだね、いただくよ」
…うん、美味しい。味見もしてるから美味しいはずだって思いながら作ってたけど、完成してみると別物ってこともあるからね… 少しは不安もあったよ。使い慣れないキッチン、初めて振る舞う相手、久しぶりの料理… それでも上手く作れた、と思う。
「美味しい!」
「それは良かった」
…嬉しそう。笑顔なのはもちろんだけど、眉が上がって目も見開いて、驚くように大きな声で喜んでくれる。料理人妙味に尽きる、って感じかな。 …私もこんな風に、オーバーに思ったことを表現したほうがいいのかな。子供にとってはオーバーじゃないんだろうけど、今じゃこんなに大きく喜べないもんね。そうしたら、みんなも安心してくれるかな… わかりづらいよりはわかりやすいほうがいいはずだから、意識してみよう。 …うざがられたらやめよ。
「なにかなやんでるの?」
「少しね。トレーナーって大変だからさ」
「がんばってね! おうえんする!」
「ありがとう、頑張るよ」
子供にも背中を押されちゃった… もっと頑張らないとね。
「これで坂路は終わり… 来週の予定は?」
「久しぶりに持続走はどうかな? これからクラフトちゃんはシニア級、同じ距離でもペースが速くなると思うんだ。そう考えたら、ハイペースでも最後まで走り切れるように… 前よりも速めの持続走、どうかな?」
「なんでも頑張ります!」
「私も付き添わせていただきます」
「…それなら、私が先導するわ。ペースを刻むのは私の仕事だもの」
「…脚、大丈夫?」
「任せて。全力疾走は難しいけど、持続走ならなんとかなるわ」
11月2週金曜日、坂路が終わって次の予定も持続走で決まり。明日明後日の予定は… 特になし。でも今は部屋に籠りたくないし、何か予定を作って出かけよう。ほら、気が沈んでる時って1人で部屋にいると静かで更に沈んじゃわない? だから、出かけたり、誰かと話す。 …少しずつ切り替えてはきたけど、まだ不安も怖さもあるよ。未来は誰にもわからないからね…
「クロノちゃん、明日って用事ある?」
「トレーナー寮にお邪魔してデータ集めをしようかと思っています」
「それなら手伝うよ」
「ありがとうございます、朝早い時間に伺いますね」
「…私も手伝うわ。そこにいる予定だもの」
アヤベさん、最近はよく私の部屋にいるんだ。寝る時はもちろん、休日の暇な時間も私の部屋でスマホを触ってたり、本を読んでたり、勉強してたり。自分の部屋でもできることだと思うんだけど… 多分、私を1人にしないように気にかけてくれてるんだと思う。勘違いだったら恥ずかしいけど…
「わたしは勉強しないとなので… お先に失礼します!」
「私も失礼します、また明日」
「…私達も帰りましょうか」
「そうだね…」
…平然と私の部屋にいるけど、良いのかな? 最初来てくれた頃は私も心細かったし、助かったけど… 今思えば、割と問題だと思うんだよね。女子高生がスポーツの指導者の家で寝泊まりしてるって… 良いことじゃないよね。それに、ウマ娘にはウマ娘、トレーナーにはトレーナーで寮が分かれてるわけだしさ。分かれてるのには理由があるんだよ。だから… 今の状態は良くないよね。
「…じっと見つめてどうかしたの?」
「いや… なんでもない」
…言うのはやめておこう。今は1人になると余計なことを考えちゃいそうだから、アヤベさんにいてもらえたほうが嬉しいんだ。 …次の夏まではずっとこんな調子だろうけど、こんな調子なりに頑張ろう。必ず、報われると信じて。
「
「はーい、綺麗な加速時計だね…」
「次、坂路4
「こっちも良いね… あ、予定だともう午前は終わりだよ」
「戻ります」「お疲れ様」
つ、疲れた… クロノちゃんとアヤベさんから交互に来る報告を聞いて、たづなさんに貰ったコースの利用予約と照合してウマ娘を特定、タイムを1F毎に記録する。それを2時間くらい続けてたんだ。 …疲れた。でも、楽しいね。他に何も考えられないこの感じ、好きだよ。
「午後の予定ってどうなってますか?」
「1時から坂路、それが終わる頃からダート、ちょっと空いて坂路、更に空いて坂路、2時から芝とWと坂路で全部終わりだね。その後はコースを使う予約はなし」
「…急いで何か食べに行きましょう、お腹が空いたわ」
「それなら作るよ、座ってて」
「…作れるの?」
「もちろん」
トレーナー寮には各階にキッチンがあるんだ。だから、料理は作れる。先週料理したのが楽しかったから、食材も数日前に少し買って用意しておいたんだ。 …せっかくだし、久しぶりにトレーナー寮の作りを説明しようかな。前と変わったところもあるし。
実は階段周りに細工をしたんだ。もちろん、たづなさんから許可は取ってるよ。階段と各階は直通じゃなくて、間に1枚扉があるんだけど、それに鍵をつけさせてもらったんだ。5階は私しかいないから、防犯の為にもいいですかって頼んだら、いいですよって。私は屋外階段しか使わないから常に鍵はかけてるよ。 …ついでに、リビングに物を散らかしても大丈夫ですかって聞いたら、節度を守っていただければと許可を貰えたよ。今が節度を守ってるかと言われたら… 聞かれても笑っておこうね。
「カレー作るから、待ってて」
「…料理できたのね」
「プロですから」
「プロではないですよね… でも、美味しいです」
好評好評、よかった。私も食べて、午後に備えようっと。
「お疲れ様… これで今日は終わり!」
「お疲れ様でしたー!」
「お疲れ様でした、大変ですね…」
「お疲れ様。トレーナー、話があるんだけど、いいかしら」
「はーい、すぐにトレーナー室に行くよ。 …ちょっと汗が凄いから、ね」
月曜日、トレーニングが終わったところ。相も変わらず私は自転車、アヤベさんが先頭。でも、今回はクロノちゃんが横にいてくれたから楽だったよ。疲れは変わらないけど、気持ち的にね。併走ってこんなに気分がいいだって、ウマ娘気分で。
…アヤベさんに呼ばれてるし、急いでシャワー浴びないとね。また走るか…
「…あの2人は行ったわね。私がそっちの寮に行くから、ゆっくりしてていいわよ」
「あ、わかった。お茶菓子用意しておくね」
…急いで悪いことはないし、急ごうか。
「…で、話したいことって?」
「私、走れると思う?」
「レースを… ってこと?」
「そうよ。勝てるかではなく、走っても大丈夫かどうか」
…今日の持続走をして、アヤベさん的に走れるって感じから言ってるんだよね、多分。ただ、私は医者でも何でもない一介のトレーナーだし…
「お医者さんからは?」
「本人とトレーナーの判断」
ってことは、脚に問題はないってことだよね。問題があったら止めるでしょ、トレセン学園から紹介された専門のところだし。それなら私の結論は1つだね。私はウマ娘の意思を尊重する方針だから。
「どのレースを走りたい? 登録したいレースがある、そういうことでしょ?」
アヤベさんは今年、既に三宮ステークスを走ってる。最初は現役復帰の理由付けの為にダートを1回走るって言ってたけど… 何か走りたいレースがあるんだろうね。そうじゃなかったら走る理由も、今ケガから復帰する理由もないはず。このまま再引退じゃなくて、今走りたい理由。 …多分、アレかな。
「「有マ記念」
「だよね」「…お見通しなのね」
今じゃないといけない理由、トップロードさんの引退だよね。トップロードさんは今年の有マ記念で引退する。確か、トップロードさんもアヤベさんと走りたいってインタビューでよく言ってたはず。トップロードさんの願いを叶えるには、今年じゃないといけない。
「お願いできるかしら」
「断るとでも?」
「…思ってないわ」
「登録するけど、他の人には言わないようね。登録情報が出るまで、秘密だよ」
「…そうね。ファン投票が0票でも、収得ポイントで走れる。ダービーだけだと怪しかったけど… 三宮の1着も効きそうね」
「まさか、ここで活きるとはね」
有マ記念の枠は16。その内10個がファン投票枠で、残り6枠は収得ポイント順。ファン投票枠が先に決まるから、何があろうとポイント枠は6枠ある。アヤベさんは条件戦を除くとエリカ賞、ダービー、三宮しか勝ってはないけど… ダービーのポイントは大きいし、三宮で少し加算もできてる。今年G1を勝ってるようなウマ娘はファン投票の枠に入るだろうし… 出走は事実上確定かな。登録情報が公表された時まで黙っておくのは… サプライズってやつだよ。その方が、トップロードさんも喜ぶでしょ?
「…登録情報が出る時、私テレビに出てるのよね」
「…そうなの?」
「トップロードさんと2人で、最速予想とか言って番組に出るの。 …反応が楽しみね」
「私も見学させてもらえるかな…」
「伝えておくわ」
…真面目な話は終わりかな? こっからはゆるりと、休みながら話そっと。
「久しぶりにレース場に来たなぁ」
「…あの日以来かしら?」
「…だね」
11月最終日曜日。みんなでトップロードさんを応援に東京レース場に来てるよ。ここに来るのはNHKマイルの時以来、レース場に来るのは秋華賞以来… 前はよく来てレースを見てたのに、あの日から遠ざけてたな… 楽しんで帰ろう。その為にも、トップロードさんには勝ってもらわないとね。
「席は、自由席じゃないんですよね?」
「うん、来賓室とかって言われるような場所だよ。ドレスコードもあるけど、みんなは学生服で大丈夫だから安心して」
「緊張します…」
「早く行きましょう、この辺りはもうすぐ席を巡っての戦場と化すわ」
「案内お願いしま〜す♪」
本当は自由席で見る予定だったんだけど、自由席で見るのは辞めて欲しいって偉い人に言われちゃったんだ。私達ってもう、道を歩いていたら話しかけられるくらいには有名なんだよね。悪いとは思わないし良いことなんだけど、今日はそれが問題でさ。
G1の日は人がとてつもないほど集まるし、来る人はみんなレース好き。そりゃ私達のことも知ってるし、写真撮りたいとかサイン欲しいとかってなるかもしれないでしょ? でも、今日の主役はレースを走るウマ娘達で、私達はレース無関係の人。目立っちゃいけないんだよね。それで、上の方に隔離。来賓席、もとい関係者席でのんびり観戦だよ。
…G1の日の自由席は恐ろしいほど人が多いし、大声が響いて耳が痛くなったりもするから、ゆっくり見れる席を貰えてラッキーって感じだね。元の世界じゃもちろん入ったことない場所だし、緊張もするけど… 自信持っていこう。
「控室よりも豪華なんですよね…?」
「そうでしょうね…」
「アヤベさんも初めてですか?」
「そうよ。いつもは雑に変装をして指定席で見てるわ」
「今後もそう来ることはないし、楽しむ気持ちでね」
「…失礼はないように」
開門時間よりも早く入れてもらってるわけだし、そろそろ行こう。 …服、大丈夫だよね? 髪に合わせて黒寄りの青いパーティードレスを買って着てきたんだけど… 浮いてたらどうしよう。たづなさんにでも聞いておけばよかったかな… 数万円したけど、何も考えずに買っちゃったんだよね。
「…あの、6番がいいと思います」
「私は4番かな…」
「………」
「…もう少し気楽でいいと思うわよ」
「ちょっと歩いてきます♪」
「…あの子くらいに」
…今はジャパンカップの前のレースの予想中。思ったよりも雰囲気が厳かでね… いつも騒ぎながら予想してる私には、自由席の方が合ってるのかもしれない。アヤベさんはこの空気に馴染んでるけど… 慣れてるのかな。トレセン学園のウマ娘って良い所のお嬢様も多いらしいし、慣れてても違和感はない…
クロノちゃんとクラフトちゃんはずっと緊張してるけど… 少しも解れた感じはしないね。中学生に慣れろって言うのは酷な空気感だし、仕方ないよ。どこかの会社のお偉いさん、みたいな人しかいないもん。ジャパンカップデーだもんね… その点カレンちゃんは凄いよ、自分から話しに行ってるもん。それで仲良くなって、写真撮ったり… 凄いなぁって思うけど、私には無理だとも思う。私、普通の人だもん…
「…クラフトさんは慣れたほうがいいわよ」
「どうして… ですか…?」
「G1を2勝もしたのよ… こういう空気のパーティーに呼ばれることは何度もあるわ」
「その時は… どうにか… します」
「…ゆっくり慣れていきましょうか」
…私も慣れないとなのかな。この部屋に来ることも… 結構ありそうだしさ。
「…本当に強いわね」
「負ける気配がありません…」
「凄いなぁ…」
ジャパンカップ後、これからみんなで帰るところ。結果? トップロードさんが先行押し切りで完勝って感じかな。 …何度見ても、トップロードさんは強いし、強すぎるよ。私の知る史実と欠片も重ならない、そんな戦績になっちゃってる。同じなのは、みんなに愛される人気だけかな? …1番良いところが史実と同じで戦績も上げる、私が目指すべき結果なんだろうね。いつかは… そんなウマ娘を育ててみたいね。頑張ろう。
「車は… あった、帰ろう」
「…有マ記念も、勝ち切るのかしら」
「トップロードさん、おめでとう」
「あリがとうございます! 有マも勝ちます!」
「今のあなたなら、きっと現実にできるわ」
12月の第一月曜日、ジャパンカップ後の最初の登校日よ。普通、レース直後の日は体のケアのためにも学校は休むんだけど、トップロードさんはいつも登校してくるわ。なんでって前に聞いたら、みんなのお陰で勝てたんだから、みんなと直接話して喜びを分かり合いたい、なんて言ってたわよ。 …今は登校の前、他の誰よりも先に伝えたかったから直接部屋に会いに来たわ。本当は昨晩に伝えたかったのよ? でも、門限までに帰ってこなかったから… お陰でトレーナー寮に忍び込む時間もなかったわ。
「急いで準備しますね!」
「…あぁ、迎えに来たわけじゃないわよ。いつも登校は別々でしょ?」
「せっかく朝から会えたので… ダメですか?」
「…別に構わないわ。部屋、入るわね」
トップロードさんは一人部屋だから私が入っても問題ないわ。 …前はルームメイトも居たんだけど、その子が卒業して1人になったの。その時にはトップロードさんは皐月賞を勝って3冠を期待されていたから… 新入生がそんなウマ娘と同じ部屋だと萎縮してしまうでしょ?
「…着替えの間は出てたほうがいいかしら」
「問題ないです!」
「アヤベさん、今週のクラフトちゃんのトレーニングはなんですか?」
「休みよ、冬休みに走らせる為にね」
「スパルタですね…」
「休みは取るわよ、年末年始もクリスマスも。他の日にトレーニングするってだけ」
「それなら、優しいですね」
「優しくはないと思うわよ…」
放課後。今週はトレーニングがないわ。トップロードさんはあるわ、トレーニングと言っていいのかわからないけど… 流石に今日は休みだけど、明日からはトレーナーと話し合いながら有マ記念に向けて調整するのよ。本当は休みたいでしょうけど、週単位で休んでしまうと体がなまって状態が落ちてしまうの。最高の状態で引退レースを迎えるためにも、今は休んでる場合ではないんでしょうね…
「トレーナーに呼ばれているので、行ってきますね♪ また明日!」
「また明日… 私もトレーナーに会いに行きましょうか」
「…そういえば、来年の選抜レースは参加するの?」
「…もうそんな季節か」
木曜日、トレーナー室でお茶を飲みながら書類を確認していたら、チームのメンバーを確認する書類を見つけたの。それで、選抜レースを思い出して… 次の選抜レース、どうするのか確認しようと思って。
前にも言ったけど、選抜レースは年4回。今年は1度も参加しなかったけど、来年はメンバーを増やしたいって前に言ってたと思うの。クラフトさんのクラシックシーズンも終わったから、スカウトするには良い頃合いなんだけど… 今のトレーナーの状態を考えたら、クラフトさんの引退まではこのままの方が、とも思うわ。
…判断はトレーナーに任せるわ。大切な判断はトレーナーに委ねる、私はそれに付き従うのみよ。 …できるだけ私も一緒にチームを背負うつもりだけど、こういう判断は私独断ではできないわ。
「…行こう」
「…本当に大丈夫?」
「…まだ大丈夫じゃないかもしれないけど、トレーニングに穴は空けない。絶対に仕事はこなすよ。 …アヤベさんに迷惑をかけるかも知れないけど、いいかな?」
「任せて。もしあなたが旅に出ても、帰ってくるその日まで、リラという家を守ってみせるわ」
「頼もしいけど… ここを守るのは私の務めだよ」
選抜レースに向けて、情報は集めたほうが良いわね。その日見て決めるにしても、事前の情報はあって損はないわ。クラフトさんはあの日のパフォーマンスだけで出会えたけど… 選抜レース当日にコンディションを落としてしまうウマ娘もいるもの。そういう原石を見つけるためにも、情報は欠かせないわ。
「…そろそろ行く?」
「…そうね」
ずっと2人で書類を捌いていたけど、ただその為に私がここにいたわけじゃないの。暇だから先々の書類も今のうちに準備していただけで、本当の目的は時間を待っていたのよ。日が沈み、ターフが静かになる時間… 私が走る時間の始まりよ。
「有マに向けて、今日も頑張ろう」
「星と共に、駆けましょう」
「今年の有マ記念、最速予想特番のスペシャルゲストは… アドマイヤベガさんと、ナリタトップロードさんです!」
「よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします」
12月2週の日曜日、阪神JFの当日よ。前にも言った、有マの登録情報を見てどこよりも誰よりも早く予想をする、そんな番組よ。今はその前番組。司会者の横に予想家達が並んで、的中させた予想家の前に蹄鉄型の置物を置いて、最後に一番多く置いてあった人の勝ち… そんな予想番組ね。
「有マ記念の予想大会はこの後17時頃になりますので、ぜひお楽しみに。 …それでは阪神10R、竹田城ステークスのパドックです」
予想は残りのレースを全部見てからね… 今は、レースを楽しみましょう。 …ところどころで有マの話題は出るでしょうから、上手くかわさないといけないわね。私が走るのはサプライズ、発表の瞬間にトップロードさんの驚いた顔を見る為にも、隠しきらないといけないわ。
「スタジオの皆さんの予想はこのようになっています! まずは──
「以上、本日のレースの振り返りでした」
楽しかったわ。ここまでの予想はトップロードさんとチームでやったのだけど… JFも含めてボロボロね。トレーナーとクロノさんにどんなウマ娘が勝ちそうなのか、バ場や脚質分布をメモに書いてもらってきたのだけど… ダメね。あの2人のメモが悪いんじゃないわ、私が理解できていないだけ。いっそのこと、本命対抗も全部教えてもらえばよかったわ。 …こんなはずじゃなかったのに。
「ゲストのお二人は… その… 的中はありませんでしたが、ここからが本番ですから」
「そ、そうです!」
「…あなたは大変ね、自分を本命にできないもの」
有マ記念の予想は、自分を除いたウマ娘の中から予想することになっているわ。私は迷わずトップロードさんを本命にするのだけど… トップロードさんはそれができない。心の中では誰にしようか、事前に出ている情報で決めているんでしょうけど… やっぱりテイエムオペラオーさんかしら。話したことはないけど、トップロードさんは気にかけてるようだったし、今年もトップロードさんを除けば最高に近い戦績よ。
「予想家の皆さんは隣の部屋に移動していただきます。ゲストのお二人の予想を聞いた後に伺いますので、最高の予想を考えておいてくださいね?」
「後3分…」
「…ドキドキするわね」
URAから発表されたら、私達の目の前のスクリーンに登録したウマ娘の名簿が表示されるわ。 …私の名前はアドマイヤベガ、五十音順だとおそらく最初よ。アルファベットでもAだからそう。 …こういうのって名前順でしょ? だから、私の名前は嫌でも最初に目に入るはずよ。
「…カメラさん、トップロードさんの顔を抜いておいてください」
「えぇ!? アヤベさんの方を!」
「カメラは沢山ありますので、どちらもワイプで映っております。 …さぁ! 10!」
「きゅう!」「はち」「7!」「ろく!」「ご」
「4!」
「さんっ!」
「に」
「1!」
「ゼローー! っえぇー!? 」
「アドマイヤベガさん!?」
…ここで言おうと思っていた言葉があるから、スタジオのどよめきが収まったら言うわね。
「え、あ、アヤベさん! 走れるんですか! えぇ!?」
「…トップロードさん」
「はっ、はいっ!」
「最高の夜にしましょう?」
「はい!!」
…勝てるとは思っていないけど、恥ずかしくない走りはしてみせるわ。今から丁度2週間後… トップロードさんの長い旅路の最後を飾れるように。
「本命、アヤベさんで!」
「やめて」
「アヤベさん、聞きましたよっ! 有マ記念、走るんですね♪」
「そうよ。 …やれるだけやるわ」
「頑張ってくださいね♪ 応援します」
「…できれば、トップロードさんの応援をしてあげて」
「どっちも応援します!」
その日の夜… あの後はずっと上の空なトップロードと予想しあったわ。予想家の本命を聞いたりもしたけど… 忘れようかしら。私に印を打っていた人はいなかったし、私にはクロノさんという信頼できる予想家がいるもの。他の予想はノイズになりかねないわ。
「こんこんこ〜ん、アヤベさんいますか?」
「帰ってますよ〜」
「アヤベさん! 有マ記念を走るって本当ですかっ?」
「本当よ。黙っていてごめんなさい、トレーナーと話して隠すことにしたの」
「あの、調整ってできてますか? いつもわたしのトレーニングを手伝ってもらってばかりですけど…」
「密かに進めていたから問題ないわ」
「手伝えることがあったら教えてください! アヤベさんの晴れ舞台、できるだけ手伝います♪」
「大丈夫よ、トレーナーに有マまで全部予定を組んでもらってるから」
トレーナー、まだ元気が戻りきった感じはしないけど、仕事はちゃんとこなしてくれてるの。プロ意識って、こういうことを言うんでしょうね。 …本当に助かっているわ。
…私の手伝いは必要ないけど、クラフトさんに頼みたいことはあるのよね。一応、伝えておきましょうか。 …クロノさんに比べて頼りないけど…
「クラフトさん、来月の選抜レースのことは知ってるかしら?」
「もちろん、今知りました」
「もしかして、スカウトに行くんですか?」
「そうよ。新しい仲間をスカウトする為に、トレーナーと見に行くの。クロノさんも来るけど、クラフトさんは?」
「行きます!」
「それなら、このリストをあげる。参加予定のウマ娘のリストよ、ここに載ってるウマ娘と話すことがあったら、気になることとか聞いてみて」
「情報収集ですね! 頑張るぞぉ〜」
…大切な話は終わりね。有マの話も済んだし… そろそろ、消灯時間ね。トレーナーも… おやすみってメッセージが来てるわ。私も寝ましょう…
「…もうすぐ消灯だから、クラフトさんは部屋に戻ったら?」
「そうですね、また明日!」
「おやすみ」
「おやすみなさい♪」
…また明日。
「…久し振りの併走ね」
「あの、私が後ろからでいいんですか?」
「あなたのトレーニングだからそれでいいのよ」
翌週日曜日、丁度有マ記念の1週前よ。 …手伝いは要らないって言ったけど、トレーナーに併走するよう言われたわ。クラフトさんのトレーニングとしてって言ってたけど… きっと私の調整のためなんでしょうね。 …事前に言ってくれればよかったのに。この前、手伝いはなくて大丈夫って言ってしまったのよ? 少し… 気まずいわ。クラフトさんは気にしてないでしょうけど…
「…こっちの旗でアヤベさん、こっちの旗でクラフトさん、よしっ」
「準備できたよ〜!!」
「それでは… はいっ! ほいっ!」
…切り替えて、しっかり走りましょう。私はペースを刻む機械… 心で走りが乱れてはいけないわ。有マも走りやすい精神状態ではないでしょうから…
有マまでに、完璧に仕上げてみせる… トップロードさんの引退レースを、最高の物にする為にも…!
「天候晴れ、バ場は良。例年に比べて芝の状態も良く、まさに最高のコンディションとなりました、本日の中山レース場です」
「もう、最後なんですね…」
「…神妙な面持ちね」
今日、私は引退します。ラストランは有マ記念、私が初めて負けたレースであり、唯一負けたレースであり… アヤベさんと一緒に走った、最初で最後のレースでした。まさかもう一度、アヤベさんと走れるとは思いませんでしたが… 走れるからには、あの頃よりももっと成長した、私の走りを見せたいと思います。
「1つ言っておくわ。私も、簡単に負けるつもりはないから。私だけでなく、ここにいる全員、きっとそうよ。 …勝った気でいると、悪夢を見ることになるわ」
「…わかってます。ですから、私も、本気で勝ちにいきます! アヤベさんの胸を借りて… 本気で、本気で走ります!」
「…そう。それなら、楽しみにしているわ」
必ず、勝ちます! 相手がアヤベさんでも、各世代を代表するスターでも、負けるつもりはありません! みんなの思いを、夢を、背負って走ってるんです!
「最後に1つだけ… 鳥籠で踊らないように」
「…はい?」
…アヤベさんの得意な例えでしょうか。意味はわかりませんが… 何かに気をつけろってことだと思います! 覚えておきましょう…!
「それでは、ゲート入りの時間です!」
1人、また1人とゲートに吸い込まれていきます。私の枠は1枠1番なので、もう入らないとですね。 …3冠を成し遂げた菊花賞の時と同じ縁起の良い枠です。負けた有マの時とも同じですけど… でも、真横がアヤベさんですし、最高の枠です!
「絶対に、勝つ…!」
「共に咲きましょう…」
…スタート! いつも通り、悪くはないスタートです。逃げは… 外からデアリングハートさん、それとアヤベさんも行きましたね。4コーナーを前にアヤベさんが内に切り込んで私の右前に、外から来たデアリングハートさんが左前に… すぐ左にはオペラオーちゃん、左後ろにシーザリオさんやキングヘイローさん… バ群が固まってきましたね…
「いけー!」「頑張れ委員長!」「がんばれー!」
最初の直線です… みんなの声、確かに届いてますよ。必ず、応えてみせます。その為にも、いつものようにこの好位に控えて、仕掛ける好機まで待ちましょう。脚に余裕はあります、問題は進路だけ…
1コーナー、バ群は変わらず団子の形です… もう少し縦長になってくれたら走りやすいんですが、このままだと最終直線の末脚勝負になりますね… それでも、勝てる自信はあります! みんなの思いを背負ってるんです、どんな展開でも勝ってみせます!
ペースは平均的… よりも少し速い気がします。となると、ハートさんには苦しいペースのはずです。それなら、そこに進路が開けるでしょうか。 …いや、外はオペラオーちゃんに塞がれてます。私は… あれ…?
2コーナーを抜けました、バ群はまだ変わりません! ま、まずいです! このままの形で行くと、私は進路がありません! 内の前をアヤベさん、正面をデアリングハートさん、外をオペラオーちゃんに塞がれてます… 後ろも直ぐ側、最終直線までに進路を見つけないと…!
…アヤベさんが言ってた鳥籠って、包囲網のことだったんですね。進路を探さないと… 内に寄ったら更に詰められるでしょうし、前をアヤベさんに塞がれるので危険… 外に出るにはオペラオーちゃんの動きを待たないといけませんが、動く気配はまだありません。正面のデアリングハートさん… が垂れてきたとしても、真後ろの私の進路は開かない、というか更に塞がれてしまいます! 誰かが仕掛けるのを待たないと、道がない…!?
さ、3コーナー、もうすぐ最終直線です。中山の短い直線を考えたら、そろそろ仕掛ける準備をして、4コーナーで動き出したいんですが… このままだと、完全に進路を塞がれてしまいます! 無理矢理進路をこじ開けるしか… でも、そんなことは…
「……」
「んっ!? こっちに!?」
アヤベさんが、外によれた…? ハートさんも押されて、それで… 私の前に、進路が… この道を、使わせてもらいます!
「みんなの期待に力をもらって── 駆け抜けます!頂点への道を!」
「ナリタトップロード! 有終の美を、自らの脚で飾ってみせました!」
「勝った……」
…勝ったんですね。着差は… 5バ身、タイムは2分32秒6… 応援してくれたみんなの歓声と拍手が混ざり合って、もう何も聞こえません。私も、なんだか… 実感が沸かなくて。何度もG1を勝ったのに、いつもよりも嬉しくて、なんだか悲しくて、涙がこぼれそうで…
「おめでとう」
「あリがとうございます… あの、4コーナ「内の芝が荒れていたから外に出ただけよ。 …結果は大敗だから、意味なんてなかったけど」
「…アヤベさん。今日の内の芝は、とても綺麗でしたよ」
「…そうだったかしら? 私には酷く荒れて見えたけど、気のせいだったのかしらね」
…あリがとうございます、アヤベさん。おかしいと思ったんです。内の芝は綺麗なのに、4コーナー前に早仕掛けして前に飛び出して、コーナー中なのに突然外に進路を取るなんて、作戦として奇策が過ぎます。アヤベさんと琴葉さんが、そんな作戦を選ぶわけがありません。あれは、きっと…
私の進路を、開けてくれたんですね、アヤベさん。 …そんなところが…
「…やっぱり、大好きです、アヤベさん」
「突然何?」
「思いはちゃんと、伝えたいと思って…」
「…それは、ファンのみんなに言ってあげなさい。この後引退式よ、準備があるんでしょ? …頑張って」
…これからのこと、考えないと。
「…アヤベさん、失礼します。あの、お願いがあるんです」
「どうかしたの?」
「カレンは買い物に行ってきますね♪」
次の日です。引退式も終えて、私はトゥインクル・シリーズの登録を抹消されました。中山レース場全体から名前を呼ばれて、花火も上がったり、過去の映像も流れたり、とても幸せな引退式でした。 …同時に、悲しくもありました。もうこれで終わりなんだって。でも… 応援してくれたみんなに、ちゃんと私からも感謝を伝えられて良かったです。『いつも応援がすごく嬉しくて、すごく幸せでした。あリがとうございました』って。
…引退したばかりですが、止まってはいられません。実は、引退してからのことはトレーナーさんと少し話してたんです。トレーナーさんには、私のしたいことを、したいようにすると良いと言われました。テレビとか、出演オファーが沢山来てるので、応えないとなんですけど… 何よりも先に、やらないといけないことがあるんです。
「アヤベさんの手伝いをさせて貰えませんか?」
「それは… どういう意味かしら? 経緯も教えてもらえる?」
「引退して、もう走ることはないので、指導者の道に進みたいと思ったんです。それでトレーナーに相談して、チームリラの一員になれないかなって、思いまして…」
「と、途中をもっと詳しく聞かせて? 相談して、どうして私達のチームに?」
「私、アヤベさんのお役に立ちたいんです! トレーナーさんも、チームのみんなも、もちろん大好きです。でも、それでも… 引退したら、アヤベさんと一緒が良いって、そう思ってて… あの、だめ…ですか?」
「…とりあえず、トレーナーには伝えてみるわ」
「…え? と、とりあえず向こうのトレーナーに確認しよう」
「確認してあるわ。将来良い指導者になる為には、自分の所属したチームに縛られず、他の良いチームで経験を積むことが大切だから、ぜひ迎え入れてほしい… だそうよ」
「…そう、なんだね」
…え? まだ飲み込めてないや、トップロードさんが私達のチームに…? 確かに、プライベートでも付き合いはあるし、関係も良好だと勝手に思ってはいたけど… でも、こういうのって普通は自分のいたチームでサブトレーナーになるんじゃないのかな…? 無敗3冠ウマ娘で、数多のG1を制したトップスターだよ? それが突然、チームリラに…
「…気持ちはわかるわ。私も、今のあなたにこれ以上、重い責任を与えたくはないもの」
「…怖い気持ちはある。トップロードさんの指導を受けたいウマ娘は今後沢山トレセン学園にやってくるだろうし、チームリラへの期待感も強まる。それで不甲斐ない結果になってしまったらと思うと、期待より不安の方が強い。 …でも、受けよう」
「…大丈夫? 本当に?」
「大丈夫だよ。私は、ウマ娘の夢を叶える為にトレーナーをしてるんだから。トップロードさんが手伝いたいというのなら、その思いを無下にはしたくない。 …トップロードさんが嘘を言うとも思えないから」
「…わかったわ。それなら、明日伝えて」
「わかった、クリスマス会でね」
今日は12月23日、明日のクリスマスイブはみんなでパーティーするんだ。チームとしても仕事納めにして、1月4日までは自由にしてもらうよ。 …もちろん、仕事するなとは言わないよ。私も情報収集の為にトレセン内を駆け回る予定だから。 …本当に駆けはしないよ、ウマ娘にぶつかったら私が危険だし。
…パーティーに向けて、買い出しに行こうかな。
「…私の勝ち」
「ジェネシスメソッドでも、敵わないなんて…」
「ゆっくり考えるスタイルは格闘ゲームには不向きじゃないかな…」
パーティー当日のお昼前、みんなでゲームしてるよ。今いるのは私とアヤベさんとクロノちゃんの3人。クラフトちゃんは同期のみんなと出かけて、その後から合流だって。トップロードさんは子供向け番組の生放送でサンタ役をやった後に合流だから… もうすぐかな?
「…そうだ、プレゼント持ってこなきゃ」
「えっ… 私、何も用意してません…」
「大丈夫よ、そういうのじゃないから」
「そうそう、トップロードさんに渡す物があって、せっかくだからプレゼントにしたの。 …2人も何か欲しいなら、良さそうな物
「あなたの私物を貰っても困るわ…」
「申し訳ないです…」
…取りに行ってくるね。
「戻ったよ〜」
「おかえり」「おかえりです」「お邪魔してます!」
お、トップロードさんがいる。それなら、もう渡しちゃおうかな。隠せる場所ないし…
「トップロードさん、少し早いクリスマスプレゼントをどうぞ」
「わぁ! あの、もう開けてもいいですか!」
「どうぞ」
「なんでしょう… 楽しみですっ!」
「…きっと良い物よ」
「…! こっ、この紙は…!」
「…名前を書いてもらえると嬉しいな」
「もちろんです! これから、よろしくお願いしますっ!」
私、アヤベさん、クロノちゃんの3人の名前が書かれた名簿と、ペン。定期的に学園に提出する、チームのスタッフ名簿だね。渡した理由は言うまでもないか。
「…え!? そういうこと… ですか?」
「チームリラの一員として、よろしくお願いします、クロノちゃん。 …あ、ここだとクロノ先輩… ですかね?」
「ちゃんか呼び捨てでお願いします…」
ふぅ、これで今日やんなきゃいけないことは終わり… 夜までは呑気にゲームと洒落込もうかな?
「短い用事だけど、ちょっと出かけてくるね」
「は〜い」「わかりました」「いってらっしゃ〜い」「待ってますね♪」
「…私も同席していいかしら?」
「…そうだね、2人で行こうか」
「…クリスマスデートだ」
もう夜も深く星々が煌めく時間、去年と同じようにパーティーを抜け出して… いつものように、丘を駆け登る。 …いつもは歩いて登るけど、今日は時間も有限だし急いで駆けよう。 …ふぅ、キツイな。微妙に重い袋持ってるんだよね…
「息、大丈夫?」
「…アヤベさんは余裕なの…?」
「ウマ娘の脚を舐めないことね」
「そりゃ… そうか…」
「後少しだし、背負ってもいいわよ」
「大丈夫… 行きで背負われたら帰れないよ」
「…帰りは歩きにしましょう」
…登りきった。今年もここで、やることやっていこう。
「…ここで何をするの?」
「去年はここに捧げ物として箱を埋めたんだけど… まずは掘り出そうか。袋にスコップあるから」
「…どこに埋めたの?」
「えっと… ここらへんかな」
…これは骨が折れるぞ?
「あったあった、これは持って帰ろう」
「中身は?」
「写真が… あ、なくなってる」
「…怪奇現象ね。でも、誰かへの捧げ物なんでしょ? それなら届いたってことなんじゃない?」
「…そうかも。それじゃあ、代わりに今年の箱を埋めようか」
私がこの世界に来た時、神様が言ってたからさ。私とウマ娘達が仲良く笑ってる姿が見たいって。私としても、この世界に来れて良かったって思うし、あの神様には感謝してるから… お礼として、色んな時に撮った記念写真を箱に詰めて埋めてたんだ。
「…これで終わり?」
「去年はそうしたけど… 今年は、試したいことがあってさ」
「…試したいこと?」
「ほら、さっき怪奇現象って言ってたでしょ? その犯人を探せないかなとね…」
「…何をするつもりなの」
上手くいったら儲けものって感覚で、一応持ってきただけなんだけど… 写真がなくなってたなら、本当にワンチャンあるかもしれない。だって、ここに何か居たってことでしょ? そういう心霊は信じない人だったけど、神様に会っちゃったし… 探るだけなら罰も当たらないでしょ。 …ゲームみたいで、やってみたかったんだよね!
「アヤベさん、これ持って」
「…凄いレーザーポインターね」
「レーザーグリッドだよ、それでこっちがスピリットボックス」
「スピ… 幽霊調査に来たの?」
「写真を持ってった人も、何か私に言いたいことがあるかもしれないし… 聞けたら良いなって」
「そう… 好きにやりなさい」
本気で聞けるとは思ってないけど… ちょっとお金の話をするけど、私って元の世界だと普通の人だったでしょ? それが、トレーナーになって収入が凄い増えてさ。趣味に使おうにもバ券はない、ゲームは買い切りしかやらないからそこまでお金がかからない、食事は学食が美味しい… それで、チームの為に器具を買おうとかも考えるんだけど、トレセン学園からレンタルできる物の質が凄いから結局買わなくて、結果貯金が結構な金額になってね。
だから、ちょっとくらい、使い方も原理もわからないオカルト用品に使っても良いかなって。さっきも言ったけど、上手くいったら儲けもの。 いわばローリスクハイリターンな賭けなんだよ。 …リターンが何かわからないけど。
「どうやって使うんだろ」
「…私はここに立ってるわね」
「ここかな… わっ、と」
「何か聞こえた?」
「天気予報、多分使い方間違えてる」
「でしょうね…」
確か、周波数をあーだこーだして幽霊の声を聞くんだったかな? 私が聞きたいのは神様の声だけど、同じでしょ。本当に聞こえるとは思ってないけど… あ、このボタンっぽい。で、ここをこうして… そうだ、声を聞くんだから相手に喋ってもらわないとだよね…?
「もしも〜し、聞こえますか〜」
『も…も〜し』
「うぇっ!?」
え!? 今、聞こえたよね…? もしもしって、やまびこじゃないよね…?
「どうしたの!?」『え、う…!』
「もしもし! 琴葉葵です!」
『き、き…えて……か〜?』「何か聞こえたの!?」
「きこえる…」
ラジオみたいに少し加工されたような声だけど、何か言葉が聞こえてる… 気がする。途切れ途切れになってるのかな… でも、絶対に、何か声が聞こえてる! これ… 幽霊の声だよね…? アヤベさんの腹話術とかじゃない… よね?
「私にも聞かせて!」
「喋ってもらえませんか、幽霊さん」
『もし…〜し、い……とだ…』
「…確かに聞こえるわ。ノイズを取り除けないかしら…」
『も…も…』
「そうだ、もう一個良い物を持ってきてて… これ、ウィジャボード!」
「アルファベットが書かれた板…? どう使うの?」
「確か、ここに矢印みたいなのを置いて… 幽霊さん、そこにいますか?」
『いる…〜』
「…これダメだ使い方がわかんない」
「やっぱりこのスピリットなんたらね…」
これならちゃんと仕組みを調べてくればよかった… でも確か、ラジオの周波数か何かを高速で切り替えて、音を繋げるとか、ノイズが声になるとか、そんな商品説明だった気がする。 …だから、私達に聞こえるのはラジオの音か、ノイズの音を繋ぎ合わせて幽霊の言葉にした物、のはずなんだよ。でも… それなら、声は色んな音が混ざってるはずだよね…?
『ず……こ…にい…よ…』
初めて聞こえた時から、聞こえてるのはずっと1人の女性の声だけ… 私が勘違いしてるだけで、スピリットボックスってそういう機器なのかな…
今はそんなことより、幽霊と話すことを考えないと。声が聞き取りづらいなら、それでも伝えられる手段を…
「…そうだ、私がウィジャボードの文字を順番に指で指すから、伝えたい文字の時に声を出して。それで、文字を繋ぎ合わせて私達に何か… 伝えてほしい」
『わ……た』
「…わかった、かしら。私がメモするわ、始めて」
順番に差して… 一文字目はI、次が… M、O、その次がU… それでT、O… ローマ字読みで、妹…?
「え… え?」
「妹… 誰の? アヤベさんの?」
『うん!』
「…本当に? 本当に、あなたなの? 私の… 妹、なの?」
「…帰るのが遅くなるって、クラフトちゃんに連絡しておくね」
「お願い、まだ帰れないわ」
これは… とんでもない大物を釣り上げたのかもしれない。
「…ただいま、遅くなったよ」
「待たせてごめんなさい」
「大丈夫ですか?」
「あの、帰るのが遅くて不安で…」
「大丈夫… 良い気分よ」
「顔色がすっごくいいですよ♪」
「何かいいことでもあったんですか?」
「…秘密。強いて言うなら、夢のような経験ができたわ」
「その話は置いておくとして… こっちはもうケーキの時間かな?」
「ですね♪」
アヤベさんの秘密は置いておきたくないですけど… でも、秘密って言われちゃったので聞けませんね。 …気になるなぁ。
「切り分けて… くれたんだ、あリがとう」
「トップロードさんが切ってくれましたよ」
「えっへん!」
「それじゃあ、食べながら… 順番に、来年の抱負とか言っていかない? 年末は帰省する人もいるだろうし、今のうちに」
「それなら… 目が会ったトップロードさんから右回りで」
私から抱負ですか… もう引退しちゃったので、勝つっていうのはなしですよね。来年からはこのチームでお世話になるわけですから、チームで勝ちたいって思います。でも、やっぱり1番は…
「アヤベさんの役に立ちます!」
「…そう、頼りにするわね。クロノさんは?」
「少しでもチームのお役に立てるよう、予想の精度を高めたいと思います」
「わたしも、1つでも多く勝てるように頑張ります!」
「カレンはもっとカワイイを探求します♪」
「次は私ね… チームで怪我なく走り切る、以上」
「締めか… みんなで来年も笑って終える、それを目指す!」
このまま、クリスマスパーティーは終わっていきました。来年はチームリラのスタッフとして… 頑張りましょう! まだ何をすればいいのかわかりませんが、アヤベさんと琴葉さんが的確に指示を出してくれるはずですので… 言われたことをこなす、これを目標に、頑張るぞ〜!
「これで2周年ね…」
「2年か… そんなに経っていない気もするし、もっと経ったような気もする」
「…時計、壊れたの?」
「壊れたとしたらカレンダーかな?」
「でも、おめでたいことですよね」
「それはそうよ、間違いなく祝うべきことだわ」
「これからも、ずっと続くといいね」
「…そうね、そうしたいわ」
2年目終了