琴の音に耳を澄ませて 作:緑雨
「よしっ、頑張ろう!」
「はい!」「お〜!」
「…上手くいってるわね」
アドマイヤベガよ、今日は今年最初のトレーニング日。内容はダート1000m、クラフトさんの時も最初はダートだったけど、中身は違うわ。あの時はただ、私とクラフトさんで走っただけ。今回は…
「…緊張しますね」
「気楽に」
クロノさんを除いた、5人での集団走よ。私とトップロードさんは本気で走るわけじゃないわ。私はダートOPを勝っていて、トップロードさんは先月有マを勝っている。どれだけ重しをつけても、デビュー前の2人と同じ速度にはなりようがないもの。
クラフトさんもそれは同じだけど、あの子は私ほどダートが得意なわけでも、トップロードさんほど圧倒的な強さがあるわけでもない。重しをつけて、ある程度は真面目に走ってもらうつもりよ。あの2人と比べたら圧倒的に強いでしょうけど、走る速度には限度があるわ。圧倒的と言っても、200mで10秒もタイムに差があるわけじゃないってことよ。
「私の合図でスタートでお願いします」
「はいっ!」「わかりました」
「それでは、構えて… さん、に、いち、スタートです!」
私の役目は、いつもと同じ… 後ろの様子を見ながら、ギリギリついてこられるペースを刻み続ける。マーチングバンドの指揮者のように、寸分の狂いもなく…!
「はぁっ……はぁ…」
「つかれた〜!」
「お水もらいます… ふぅ」
「お疲れ様。トップロードさんは?」
「はい、いますよ?」
「…飲み物はいる?」
「あ、いただきます」
「キャンディもあるよ」
「いただきます…」
…まだキャンディケインを持っていたのね。常にストックしているのかしら? …私は食べないわよ、糖分が欲しい気分でもないもの。 …正直、糖分が欲しくても貰わないわ。コーヒーにスティックシュガーを10本入れたような、過剰な甘さを感じるの… 私には合わないだけで、トレーナーは好きなんでしょうけど。
「私もいただきますね」
「それならあたしも!」
「わたしもー」
「幾らでもあるから好きに食べてね」
「それはいいけど、タイムは?」
「タイムは秘密、気にしても仕方ないから」
「…まぁ、ダートの適性はなさそうだものね」
「…ないね。ダートは無理だよ」
これは確実よ。 …初めてクラフトさんと走った時よりも悲惨だったわ。クラフトさんだってダートは得意じゃないのに、全く疲れてないの。それは、2人がそのレベルのペースでしか走れないってことを意味しているわ。でも、悲観することじゃない。元から芝の走りを見てスカウトしたんだもの、使わない才能があっても迷うだけだわ。 …芝で勝ち上がれない時にダート転向って選択肢が潰れるけど、芝で勝てれば問題ないもの。
「ダートは大変ですね…」
「あなたは初めてだものね」
「はい… でも、頑張って練習します!」
「…次にダートを使うのは当分先よ」
「えぇっ!?」
…ひと先ず、トレーナー室に戻りましょう。寒いわ。
「アヤベさん、トレッドミルの調子は?」
「トレッドミルはいいわよ、クラフトさんは…」
「絶好調っ、ですっ!」
少し負荷が足りないから、クラフトさんは追加で走ってるわ。 …年末年始は食の誘惑も多いから、本数も多く、時間も長く、速度も速く。 …私も、少し走ろうかしら。少しだけど… 不安は払拭しておいたほうがいいもの。
「私も、お願いします」
「あたしも!」
「熱心なのは良いことだけど… 今日はやめておこう。代わりに、これとかどう?」
「…ボタン? クイズ大会でもするんですか?」
…クラフトさんは放置でも何とかなるわね。後ろは何の話を… って、あぁ、懐かしいわね。クラフトさんのゲート練習の時も使った、早押しボタンとランプ。確か、トレーナーがスマホでランプを光らせて、光ったと思ったらボタンを押す、そんな練習だったわね。 …楽しそうだけど、効果があるのかは未だに不明なトレーニングよ。
「ゲート練習ボタン
「ちっちゃなゲート… こっから飛び出すんですね」「が、頑張ります…!」
「ボタンは床に置いて、利き足で踏んでくださいね」
名ばかりの2号機じゃなくて、ちゃんと改良されているのね。それが有用かどうかは相も変わらず不明だけど… 楽しければそれでいいわ。ずっと
「それじゃあいくよ〜」
「…ほいっ」「…!」
「2回目ー」
「ほっ!」「……」
…楽しそうね。今度、私も触らせてもらうわ。ゲート練習としてではなく、遊びとして。今は… クラフトさんのことを見守っていましょう。
…今は週末の朝7時前、トレセン学園の広場よ。トップロードさんと外出の予定なの。どこに行くのか知らないけど、一緒に出かけないかって誘われてね。集合は7時15分だけど… 変装してるトップロードさんを見つけたわ。 …サングラスだけで変装と言ってはダメな気もするけど、それは忘れて声をかけに行きましょう。 …私もサングラスと帽子だけだもの。ふわっとしたニットな帽子… の話はまた今度ね。
「おはよう、待たせたかしら?」
「大丈夫です、待ってません!」
「…こうして、2人で出かけるのも久しぶりね」
「いつ以来ですかね… すごく久しぶりです」
「今日は、どこか行き先は決まってるの?」
「いえ! アヤベさんの行きたい場所に付いていきます、どこでも!」
「…そんなことを言うと、寮に帰るわよ」
「えぇっ!?」
「冗談よ、帰ったりしないわ。 …行き先を決めてないなら、適当に歩きましょうか」
「はいっ!」
…行き先を決めずに呼び出すことってあるのね。私と出かけられればそれでいいってこと? …不思議な子ね。私が言えたことじゃないのかもしれないけど。楽しんでくるわ、ただ歩くだけでも楽しいもの。
「さぁ、行くわよ」
「行きましょう!」
「あの… 周り…」
「コレ、頼むわね」
「えっ!? それって…」
前にカレンさんと来たお店よ、ほら… ラブラブスイートパフェを売ってる、カップル御用達の喫茶店。あの時はもう二度と来ないと思っていたけど、丁度近くを通ったから来てみたの。パフェの味は間違いないし、周りの雰囲気さえ気にしなければ最高のお店よ。
「私達も、そういう…」
「別に、カップル専用店でもなければ、専用パフェでもないわよ」
「あ… そ、そうですよね」
…こういうお店は嫌だったのかしら。気持ちは分かるし、ちゃんと聞いてあげれば良かったわね… でも、パフェは最高なのよ。きっとトップロードさんも、食べれば来てよかったと思ってくれるはずだわ。
「美味しかったですね」
「でしょ? また来る?」「はい! また、必ず来ましょう!」
「今度はみんなで来ても良いかもしれないわね」
「…いや、2人で来ましょう。2人で行く雰囲気のお店ですよ」
「それは… そうね。ムードを壊しちゃまずいわ」
気に入ってもらえたみたいでよかったわ。 …さぁ、今度はどこに辿り着くかしら。気の向くままに、進むとしましょう。
…何かいいお店はないかしら。結構歩いたし、途中でバスにも乗って遠くまで来たけど… 気になるお店は見つからないわ。面白いお店もあったのでしょうけど、外観と看板だけで見抜くのは至難の業ね… ちゃんと下調べせずに出かけるのは愚かだってことね。少なくとも、私達にとっては。
「…どうする? もうそろそろ帰るかしら?」
「う〜ん… まだ、行ってみませんか?」
「あなたがそれでいいなら構わないけど… 面白い話もできないわよ」
「いえ、楽しいですよ。アヤベさんのお話、面白いですから」
「…褒めても何も出ないわよ」
「見返りは求めてません!」
…話すだけなら、寮でもできるわ。歩きながら話すのが風情があって楽しい… と言われたら言い返せないけど、ただ話すために歩くのはもったいない気がしない? せっかく外に出て歩いているのだから、何かしたほうがきっと、もっと楽しくなる。 …何もしないなら寮に戻って勉強するわ。
「…あ、見てください! あのお店、ふわふわカフェらしいですよ」
「…何がふわふわなのかしらね。確認しに行かない?」
「行きましょう…!」
「…まぁ、良かったわね」
「アヤベさん、すごく幸せそうでしたよ」
「…誰にも言わないで」
「もちろん、私とアヤベさんの秘密です」
「…不安だわ」
良いお店だったわよ。ふわふわなパジャマに着替えて、ふわふわなベッドに寝転がって、ふわふわした小動物に囲まれながら、ふわふわな綿あめを食べる。 …謎なお店なのは間違いないし、経営もふわふわしてそうだけど、空想の世界に入ったようで面白かったわ。雲の上はあんな世界なのかしら…
「…あの子にも届けてあげたいわね」
「……はい、ですね…」
「あぁ、しんみりしなくて大丈夫よ。空に消えると思って言った言葉だから」
「あ、そうなんですね。気にしてるのかなって…」
「気にしないことはないけど… あの子の分まで楽しむって決めてるから」
「! それなら、頑張ります!」
「…ショーでもしてくれるの?」
「わ、わかりました」
「冗談よ、開演しなくていいわ」
…もう暗くなってきたわ。門限を破りたくはないから、そろそろ帰りましょうか。トレーナー寮に泊まる日なら門限はないのだけど… 今日は外泊届を出してないの。それに、トップロードさんもいるから。
「帰るわよ」
「はい!」
「え〜、またあのお店に行ったんですか」
「そうだけど… 何か問題でも?」
「カレンとも、また行きましょうね♪」
「そう…」
「うぅ… アヤベさんにとって、カレンってそんな扱いなんですね…」
「もう泣き落としに惑わされないわよ」
「むぅ…」
「…別に、行きたいなら付き合うから。一緒にパフェを食べに行く相手がいないんでしょ?」
「…わ、わ〜い」
…刺しすぎたかしら?
「…言い過ぎたわね、誘ってくれてあリがとう」
「そうですよ、カレンだって傷つくんですからね?」
「…そうは見えないけど」
「むぅ〜!」
まぁ、カレンさんなら大丈夫でしょ。強いもの、カレンさんは。 …それに、私を誘うって、一緒に行く相手がいないってことでしょ? クラスメイトとか… いや、クラスメイトと行くにはあのお店の雰囲気は苦しいわね。恋人ばかりのムードのお店に入れるほど
でも仕方ないわ。まだカレンさんはデビュー前で、チームに所属してないんだもの。私も、チームのみんなを除いたらカレンさんしか友人なんていないわ。チームの仲間とは毎日のように会ってトレーニングするのだから、必然的に絆はどのチームでも強固になる。その時には、カレンさんも私以外の人とあのお店に行けるんじゃないかしら。
…カレンさんも、良いチームに入れると良いわね。どこか、入る予定がある、みたいな話を聞いた覚えがあるもの。 …そもそも、いつデビューになるのかさえ知らないけど。
「…寝るわね、もう眠いの」
「おやすみなさい♪」
「おやすみ… 電気は消さなくていいわよ」
「カレンも寝るので消しちゃいますよ」
「そう…」
…おやすみなさい。
「うぅ… つか…… れた…」
「ふぅ… はぁ… ふぅ…」
「わたしだけ… 長くないですか…?」
「お疲れ様、ダートは今日で終わりよ」
…クラフトさんだけ長いのは本当よ。私と新人2人に対して、トップロードさんとクラフトさんには600m後ろからスタートしてもらったの。つまりダート1600m、それを重しなく強めに併走… 疲れてるでしょうね。
「お疲れ、椅子持ってきたから座りな」
「あリがとうございます…」
「…ちなみに、もう1本走りたい人はいる?」
「…いなさそうですね。あ、私も遠慮します」
…少し休みましょう。
「来週の予定を説明するね。グランちゃんとクラフトちゃんは坂路の併走で、ヘヴンちゃんだけ芝の予定。時間は坂路の2人の後にヘヴンちゃんの芝に行く感じかな。待ち時間にすることも決めてあるから、安心して」
「あの、私だけ別なのは、どうしてでしょうか」
「そもそも、芝で何をするの?」
「いわゆるタイムトライアル、今の状態とか適性をしっかり確認しておきたくて。2週間かけて、じっくりやるよ」
「あたしは大丈夫なんですか?」
「ヘヴンちゃんを先に確かめたかっただけで、グランちゃんはまた別の機会にやるから安心して」
実際に芝を走るのは大切ね。今の弱み、強みを理解するのはもちろん、将来成長を確認する時の為にも走っておくに越したことはないわ。ヘヴンさんが先なのは… 理由は想像できるわね。グランさんの能力はこの間の選抜レースで証明されていて、メイクデビューの距離もマイルで間違いない。それに対してヘヴンさんの能力はいまだ未知数… 私も気になるわ。選抜レースの時は見れなかったから… いったい、どんな走りをするのかしら。
「私はどうすればいいでしょうか」
「ヘヴンちゃんの側は私だけで大丈夫だから、みんなはアヤベさんの指揮で坂路をお願い」
「…つまり普段通りってことね」
「ふ、普段は私頑張ってるよ…?」
「私の指揮なんてなくても大丈夫なくらい、あなたの指示が溶け込んでるってことよ」
「それならいいけど…」
本当にそう思ってるわよ。私がそんなお世辞を言える人じゃないこと、わかってるでしょ?
「…それじゃあ、これで話し合いは終わり! 解散!」
「琴葉さん、今いいですか?」
「と、当然大丈夫だよ?」
「じゃあ、外で話しましょう」
「う、うん…?」
…トレーナーがトップロードさんに連れていかれたわ。他は… みんな、トレーナー室に残るみたいね。クラフトさんは読書、クロノさんとグランさんは談笑、ヘヴンさんは自習ね。私は… 部屋にアレを取りに戻りましょうか。 …私の部屋じゃなくて、トレーナーの部屋ね。
アレって言うのは、あの子の声を聞くためのアレよ。トレーニングの時はチームのみんなと向き合いたいから使わないようにしているのだけど… やっぱり、できるならあの子と話したいの。菊花賞の後から、あの子を感じられることは滅多になかったから… あの日からのこと、まだまだ話し足りないわ。チームリラのこと、一月じゃ語り尽くせないもの。
それじゃあ、行ってくるわね。
「琴葉さん、手伝ってほしいことがあるんです!」
「頼まれたらなんでもやるけど、何をしてほしい?」
「すごいチョコの作り方を、教えてください!」
「…それ、私で大丈夫?」
「はい!」
今は1月2週、バレンタインまで後1ヶ月しかないんです。1ヶ月もあれば十分かもしれませんが… 平日はチームで行動ですし、休日の数で言うと8日ほどしかありません。どんなのにするか考えて、練習して、最後にラッピングもしなきゃですから… 今から、頑張ります!
去年も一昨年も、この時期はレースも近かったので、凝ったチョコは作れませんでしたから… 今年こそ、すごいチョコでアヤベさんを感動させてみせます! その為にも… アヤベさんのことをよく知っていて、オシャレなチョコが作れそうな琴葉さんの力が必要なんです!
「…お願いします」
「もちろん、やれるだけやるよ。 …ただ、どんなチョコを作るの? バレンタインでしょ、贈る相手は… 聞かないほうがいいかな?」
「アヤベさんが感動するような、すごい凝ったチョコが作りたいんです♪」
「わかっ… た。明日、一緒に出かけない? ほら、何を作るのか考えるなら、実物を見に行ったほうがいいでしょ?」
「わかりました、明日の朝に伺いますね」
「9時に正門前にしよう。トレーナー寮に来るとアヤベさんに鉢合わせちゃうから」
そうでした、アヤベさんは琴葉さんの部屋に泊まってるんでしたね… バレンタインの日まで何としても隠し抜かないとですから、気をつけましょう。
「それじゃあ、また明日」
「また明日!」
こんにちは、クロノジェネシスです。今日は1月の最終水曜日で、私はトレーナーさんから呼ばれて芝コースに来ています。昨日までは坂路で計測係をしていましたが、ヘヴンさんの走りを見てほしいと言われ異動になりました。もちろん、トレーナーさんとヘヴンさんも芝コースにいますよ。
「トレーナーさん、どこを見ればよいのでしょうか」
「全体の印象… って言うと困っちゃうよね。走り方とか、脚質的な部分を聞きたいかな」
「わかりました、お任せください」
「それじゃあ、スタートの合図を出すね」
ヘヴンさんの走り… 芝での走りをしっかりと見てみたいとずっと思っていました。選抜レースでは外に出さずバ群に突っ込むような追い込みで進路も塞がっていましたので、どこまで伸びるのか全くわかりませんでした。短距離の速い流れに少し置いていかれてる印象もありましたので、自分のペースでの走りならどれだけの末脚が使えるのか、気になるんです。
今回の条件は、右回り、ワンターンコースのマイル戦になります。桜花賞などが行われる阪神マイルと近いコースになりますね。
「…はい、スタート。出脚は… 特別良くはないけど、悪くもないでしょ?」
「そうですね… ただ、少しペースが遅くないですか?」
「…少し遅い。実戦になったら他のウマ娘について行ってくれるとは思うけど… 課題だね」
「ここからコーナーですけど…」
当然とも言えますが、速度が遅ければコーナーは内を回れます。ですので、絶対とは言えませんが… コーナーを回るのは上手に感じます。速度がもう少し速かったとしても、コーナーで膨らむことはなく、綺麗に回れる… そんな姿が想像できます。
「もうそろそろ仕掛けよー!」
今はもう4コーナーの終わり際で、ゴールまでは残り500mほどです。前半のペースが遅かった分、脚は残っていると思いますが…
「良い末脚ですね…」
「良く伸びるよね… 内の芝、結構荒れてるはずなのに」
「パワーがあるのかもしれませんね」
「そうかもね。 …で、脚質はどう思う?」
「今回は追い込みのイメージですよね…? あの末脚なら、合っていると思います」
「だよね… あリがとう、自信を持てたよ。 …迎えに行こうか、倒れ込んじゃったし」
トレーナーさんと私のイメージは同じだったようですね。 …私も、自信を持てました。私の見る目は、感覚は間違っていなかったということですので。
今回の走りは個人走で、実戦でどうなるのかは走ってみなければわかりませんが… ですが、ヘヴンさんは将来、重賞戦線に辿り着けるだけの強さがあると、そう感じました。もちろん、課題をクリアした先の話ではありますが… ヘヴンさんを重賞戦線に送り届ける為にも、私も頑張りましょう。
「お疲れ様、ヘヴンちゃん」
「どう…… でしたか……?」
「強い走りだと、そう感じました」
「…よかったです」
「担ごうか?」
「…お願い …します」
…全力を出し切ったんですね。トレーニングから本気になれる… とても大切なことです。私もそうでありたいと、そう強く思います。
「トップロードさん、落ち着いて… いこう!」
「ほっ、はぁ!」
「そう、それくらいで…」
「いま!」
「…良さそう!」
「やっと上手くいきました…」
「これを何度もやるんだよ、本番は」
「ミル、ですもんね」
騒がしくごめんね、今はトップロードさんとミルクレープを焼いてるんだ。今日はアヤベさんが1日いないから、バレンタインに向けての練習をしてるんだけど… ミルクレープ、本当に難しくて。うすーく焼くのも大変だし、それをたくさん重ねるっていうのが本当に大変。安定して作れる技術を身に着けないと、私のお腹が大変なことになるから…
「もうバレンタインまで2週だけですから… 気合い入れて、頑張ります!」
「私も、精一杯手伝わせてもらうよ」
『私も応援してるよー』
「…そういえば、琴葉さんは何か作らないんですか?」
「私の心配はしなくていいよ、みんなにクッキーを配る予定だから」
「美味しそうですね♪」
「楽しみにしててね?」
去年までは忙しくてバレンタインは何もできなかったけど… できるなら、みんなに感謝を伝えたいよね。ただ… 何人分作ればいいかな。アヤベさん、クラフトちゃん、トップロードさん、カレンちゃん、クロノちゃん、グランちゃん、ヘヴンちゃん… 妹ちゃんにも供えてあげたいし、他の人にも渡すかもしれない… 10人分作ろう、余ったら食べればいいし。 …それくらいなら太らないでしょ♪
「…話してばかりじゃなくて、そろそろ手を動かそうか」
「ですね。2枚連続成功目指して…!」
「頑張ろー!」
「試食お願いしまーす」
「…変なものは入れてないでしょうね?」
「大丈夫ですよ〜、信じてください♪」
「…いただくわね」
バレンタインの1週間前、カレンさんのチョコ作りの手伝い… もとい、試食係をしているわ。今週はトレーニングは休みだから、手伝うのは問題ないのだけど… カレンさんの作ったチョコを食べるだけ、というのは怖さがあるわ。
今いるのは学園近くのレンタルキッチンよ。今日と、バレンタイン前日… 金曜日の午後もここを借りているわ。 …借りているのは私じゃなくてカレンさんよ。それで… 今日はトレーナーと話し合いをしていたから、さっき来たばかりなの。だから、カレンさんがどんなチョコを、どうやって作ったのか知らないの。
トレーナーと話し合ったのはクラフトさんの次走のことよ。目標としている高松宮記念*1の前にどこを使うか、という話。阪神1400mの阪急杯か、翌週に開催される中山1200mのオーシャンステークスか、どちらも使わないか。 …結論としては、オーシャンステークスになったわ。
クラフトさんの前走は2000mの秋華賞で、それも世代限定戦。電撃戦とも称される高松宮記念の速度に置いていかれないためにも、1度シニア級の短距離戦でハイペースを経験しておきたいの。阪急杯に比べて短く、それでいてスタート直後の下り坂で自然と速度が出る。ハイペースを経験するならもってこいのレースよ。
「アヤベさ〜ん? カレンのチョコ、かわいくって勿体ないかもですけど、食べてくださ〜い♪」
「食べるわよ……」
目を逸らしたくて別の話をしていたわけじゃないわよ。私の目の前にあるのは、見た目は綺麗なエクレアよ。エクレアというと完全に生地で包まれているものと、パカっと開かれたものの2つがあるけど、これは開かれているタイプね。だから中身もわかるわ。ラズベリーと生クリーム、それとチョコソースかしら。
…腕を上げたわね。美味しそうにしか見えないもの。 …いただきます。
「…これは誰に贈るのかしら?」
「大好きなみんなに贈ります♪ もちろん、アヤベさんにも♪」
「…ラズベリーは酸味が強くて、エクレアの生地も甘くはないわ。だから、クリームはもう少し甘くても良いわね。 …でも、今のままでも美味しいわよ」
「わかりました! …アヤベ先生、あリがとうございます♪」
「先生じゃない!」
美味しかったわよ、嘘じゃないわ。 …私も、何か作らないといけないわね。貰うだけもらって何も返せないでは悪いもの。ホワイトデーに返すよりも、バレンタインに贈り合ってしまった方が面倒がないわ。
その日まで後1週間… 準備は始めないといけないわね。
「何を作ってるの?」
「ふぇっ!? あぁぁ、コレは… ひ、秘密です!」
「チョコ、だよね? わたしも作ろうと思ってて… クロノちゃんも一緒に作らない?
「…作ります」
2月12日、寮のキッチンでバレンタイン用にチョコの用意をしていたのですが、クラフトさんに鉢合わせてしまいました… クラフトさんにも渡す予定ですので、隠したかったのですが仕方ありません。こうして共に作ることでよりよいチョコを作れる可能性もありますから、希望的に捉えましょう。
…あ、キッチンのことを説明しないとですね。普段も職員の方にお願いすれば使えるようになっているのですが、バレンタインシーズンは特別にチョコ作りに必要な物が揃えられています。具体的に言うと、大量の板チョコやカラースプレーなどが用意されています。もちろん、牛乳や卵といった、普段料理に必要な物も増量されていますよ。
「クロノちゃんは誰に渡すの?」
「普段お世話になっている皆さんに、感謝として… クラフトさんは?」
「わたしも同じかな。友達と、トレーナーと、チームのみんな」
「…楽しみにしますね」
「お互いに頑張ろう!」
…ずっとチョコと言っていましたが、私が作るのはチョコではありません。焼き菓子のフィナンシェです。バターを多く使うお菓子で、アーモンドパウダーの香りが特徴的でしょうか。作り方として、卵黄を使わず卵白のみを使うことが1つの特徴だと思います。
さて… 長々と話していても、お菓子は勝手にはできません。口でも頭でもなく、手を動かすといたしましょう。
「え〜、ハッピーバレンタイン! 昨日連絡した通り、お菓子をチームのみんなに渡したいって声が沢山届いたので、パーティーを開くことにしました。まずは、私からバレンタインのプレゼントだよ。クッキー、たくさん焼いてきたから、好きなだけ食べちゃって」
「お〜!」「たくさんですね!」
ついに、バレンタイン当日が来ました。琴葉さんの呼びかけで、チームのみんなとカレンちゃんが集まってのパーティーですね。 …そして! みんな、それぞれ袋を持ってきてます。パーティーの呼びかけは昨日されたばかりですけど、みんな、準備してたはずですから…
「それじゃあ、私からも。色んなフルーツを使ってフルーツサンドを作ってきたの。早いもの勝ちで、好きな味を持ってって」
「私も色んな味のフィナンシェを焼いてきました。よければ、お好きな味をお食べください」
「私はアプフェルクーヘンを作ってきました。慌てて作ったので少し歪ですが… 味は保証します」
フィナンシェと、アプフェ… どっちも美味しそうですね。ですがまずは、フルーツサンドをいただきます。アヤベさんの手作りサンドイッチはすごく美味しいですし、滅多に食べれませんから!
「あたしはチュロを作りました。マイルなスマイルチュロです!」
「色んなお菓子を詰め込んで、お菓子箱にしたんです。 …色々作ってたら楽しくなっちゃって」
「カレンはエクレアでーす♪ 美味しいですよ♪」
「私はミルクレープです! ホールで、作ってきました!」
…机に全部並べるとすごく豪華です。8人分、お互いに渡し合う予定だったお菓子たちですから… 好きに食べるってことになってますけど、できるなら全員のを食べたいですよね。それぞれの思いがこもってるはずですから♪
「…どれから食べようかしら」
「ミルクレープ、美味しいですよ!」
「カレンのエクレアも自信作ですよ〜♪」
「味なら、私も負けるつもりはありません…!」
「全部食べるから…」
「…甘くないのはクッキーだけだから、甘さにやられたら食べてね」
「…! マイルクッキーもあるんですね!」
「マイルフィナンシェ、いただきますね」
「フィナンシェはマイルではないです…」
楽しんできます!
「…甘いわね」
「…どれのことだろう、クッキーかな?」
「クッキー以外の全部よ。甘さに甘さを重ねて口が砂糖に溺れそうだわ…」
「コーヒーでも淹れてこようか?」
「お願い…」
〜2月前半