琴の音に耳を澄ませて 作:緑雨
「頑張れー!」
「頑張るぞー!」
「おー!」「おー?」
「お、おー…」
ナリタトップロードです。今はバレンタインの2日後の月曜日ですね。アヤベさんとクラフトさんだけトレセン学園に残って、私達は外に出てずっと走ってます。理由は… まぁ… 食べ過ぎですね。バレンタイン、すごかったですし、先週はトレーニングも休みでしたから。
私はもう引退してますから、食べ過ぎても問題はないですけど… でも、みんなで走るのって楽しいですから。みんなが走っているのに1人だけ走らない、というのも嫌です。それに、アヤベさんに重要な役を託されましたから。1番体力のある私が、先頭で導きます!
「トップロードさん、もうちょっと遅めで」
「あ、はい!」
いくぞー!
「今日もみんなで行くよー!」
「おーっ!」「おー!」「お、おー!」
持続走を始めてから1週間経ちました。まずはこの1週間で分かったことをまとめますね。まず、私のペースで走るとみんながついてこれません。3年前の自分も走れなかったなぁって思いながら、緩く走ってます。速さもですが、距離… 時間もですね。時間も現役時代よりは短く、デビュー前の二人に合わせて設定しました。トレーナーさんと話し合って決めたので、問題はないはずです!
それで、今週からはトレーナーさんもいなくなりました。今週末にクラフトちゃんのオーシャンステークスがあるので、そっちの調整最優先です。 …私はもちろん走ったことないレースですが、短距離のG3になります。短距離レースに向けての調整… 私はしたことないですけど、長距離とは多分違いますよね? それだけ、気になります。
クロノちゃんも私と一緒に走ってますが、オーシャンステークスのデータ分析はしてあるらしいです。明日、そのデータをもとに作戦会議があって、水曜に1度中山に行きます。スクーリング、というやつです。その後はまたトレセン学園内で調整して、土曜に中山近くのホテルに移動。そして、レースという流れになります。 …私は金曜まではずっと持続走を牽引するので、クラフトちゃんの状態はわかりません! 順調… だと信じています!
「今日はこっちに行きましょう!」
「…行ってきます!」
「楽しんできな!」「気楽に行きなさい」「きっと勝てます!」「応援しています…!」「頑張ってください!」「おー!」
今日はオーシャンステークス当日です! 全員で控え室に入ってるので、少し狭い感じもしますが… でも、クラフトちゃんに思いが良く伝わる気がします!
「…行っちゃいましたね」
「みんなで信じて待とう。無事に走りきって、勝ってくれると信じて…」
「そうね…」
…頑張ってください、クラフトちゃん。クラフトちゃんなら、勝てるはずです!
「戻りました!」
「おかえり! そして…」
「おめでとう!」
「あリがとうございます♪」
オーシャンステークス、結果は辛勝でした。クラフトちゃんはスタートを抜群に決めるとそのまま逃げウマのすぐ後ろ、番手に控えてレースを進めて、4コーナーから一気に前を捕まえに行く走りになったのですが、前が中々止まらず… ゴール板手前で、根性で競り落としました。すごく、強さを感じるレースでした。着差的にも、展開的にもギリギリの勝利でしたが… NHKマイルC以来、久しぶりの勝利です! …私にとっては、チームリラとして初めての勝利になります。
「はい、冷やしたタオルよ」
「あリがとうございます… ふぅ… 疲れたぁ…」
「あ、呼ばれてるからインタビュー行ってくるね。本当におめでとう、しっかり休んでね」
「はいっ!」
「私もインタビューに行ってきます」
…いつもは迎えられる立場だったので、迎える側の気持ちは知らなかったんですけど… こんなに、嬉しくて、興奮するんですね。自分がレースで勝った時と同じくらい… チームのみんなも、私を迎えてくれた時、こんなに興奮してくれていたんでしょうか。そうだったなら… 嬉しいですね。
「…あたしも、こんな風に強く…!」
「私も… 必ず…」
「…えぇ、そうね。クラフトさんから色んなことを吸収して、頑張りなさい」
「2人も、絶対に強くなれます!」
「みんなでもっと勝って、この嬉しさを、何度も分かち合いましょうね!」
「はい!」「頑張ります…」
きっと、良い刺激になります。みんなで強くなって、もっと勝ちましょう! …その為にも、私ももっと勉強しないと。サブトレーナーとして、アヤベさんの助手として…!
「これと、これと… それもあった方が良いわね」
「わかりました、買ってきますね」
「…私も、何か買おうかしら」
翌週末、アヤベさんと本屋に来ました。いつもは図書室で本を借りてたんですけど、トレーニング学を勉強するなら、自分の本があったほうがいいかなと思ったんです。それで、詳しそうなアヤベさんにお願いしました。琴葉さんにも頼もうと思ったんですけど、忙しそうだったので…
あ、今週のトレーニングの話をしないとですね。クラフトさんは休みながら高松宮記念に向けて調整で、ヘヴンちゃんは坂路、グランちゃんは芝です。1月後半にやってたトレーニングから、ヘヴンちゃんとグランちゃんが入れ替わった形ですね。ですので、私とアヤベさんは坂路でヘヴンちゃんを主に見ています。
…っと、アヤベさんも買い終わったみたいですね。何を買ったんでしょう…?
「…それ、トレーナー試験の過去問ですか?」
「そうよ。私も、目指してみようと思って。チームリラを離れるつもりはないけど、トレーナーに何かあった時に私が代わりをできたら安心でしょ?」
「流石です… 先を見据えて、ですね」
「…そう簡単には受からないでしょうけど、何年かけてでも資格は取るつもりよ。もちろん、トレーニングに支障は出さないわ。 …試験が近くなったら、あなたに代わりを頼むかもだけど」
「私でよければ、お任せください!」
「信頼してるわ」
トレーナーライセンス試験… 極めて厳しい試験だと聞いたことがあります。トレーナーとして、ウマ娘の全てを預かるわけですから、厳しくて当然なのだと思いますが… アヤベさんなら、必ず受かると信じています。アヤベさんは努力家ですし、勉強も得意ですし、根性もありますし、覚えるのも得意ですし、語彙も豊富です! 私は… 挑まなくていいですね。今は立派なサブトレーナーになることが最優先です!
「…ねぇ、あそこにいるの…」
「琴葉さん… ですね。偶然ですね」
「一応、声だけかけに行きましょうか」
「…ですね♪」
ここの本屋は最近できたばかりなんですけど、すごく大きくて、すごく綺麗で、品揃えもすごくて評判なんです。それもあってか、知り合いと会ったっていう声は聞いたことがあります。現に、今も他のウマ娘が何人かいますから。
…琴葉さんは何を買いに来たんでしょうか。本、なのは間違いないと思います。 …知ったところで何もないんですけど、気になっちゃいますよね。
「何買ってるの?」「何買ってるんですか?」
「おぉ、アヤベさんにトップロードさん、こんにちは。 …アヤベさんが手に持ってるそれを買おうと思ってね」
「過去問? 何に使うの?」
「自分の知識を確かめる為にね。ほら、試験の時だけ勉強して、後からやったらダメ、では良くないでしょ?」
「…立派ね」「流石です…」
「…アヤベさんは何のために買ったの?」
「私がライセンスをとったら、あなたも何かあった時、安心して休めるでしょ? だから、目指してみようと思って」
「あリがとう、応援するよ」
…は! 良いことを閃きました!
「琴葉さんは試験を受けてるわけですし、アヤベさんに模擬問題を作るとか、どうですか?」
「えっ… わ、私でよければ」
「…忙しいでしょ? チームのことを優先して、私は1人でも何とかするから」
「だ、大丈夫、休みに… 少しずつ、作るよ。完成したら伝えるね…?」
「…あリがとう」
トレーナーライセンス試験ってどんな試験なんだ…? 模擬試験用の問題作成、安請け合いしちゃったけど… 私、試験なんて受けてないんだよね。気づいた時にはライセンス持ってたし、何の知識もなくトレーナーになっちゃったから… でも、良い機会かな。この機に、私もちゃんと勉強しよう。基礎的なところで勘違いがあったら困るしさ。
「買い終わりました… 今日はあリがとうございます」
「大丈夫だよ、私も買いたい物があったから。 …持とうか?」
「大丈夫です、このくらいなら楽に持てます」
「そう? …せっかくだし、このままどこか行く?」
「どこへでも、お供いたします」
元々、今日はヘヴンちゃんと買い物に来たんだよね。昨日のトレーニングの後に、明日、一緒に本屋に行きませんかって誘われてね。ヘヴンちゃんが買った本の種類は色々だよ、科学実験をテーマにした本とか、星座の物語を掘り下げた本とか、ファンタジーな漫画とか。私はトレーニングに関する本しか買わなかったけど… 楽しかったよ、人と本屋に行くのなんて久しぶりだからね。
「よし、ケーキでも食べに行こう。確か、あっちに美味しいお店があったはずだよ」
「…体重、大丈夫ですかね」
「大丈夫、その分走れば問題ないよ」
「…それもそうですね」
ずっと根を詰めていたら、大切な時に詰められなくなっちゃうし、遊べる時に遊んで、食べれる時に食べる。それくらい気楽じゃないとね。 …私も、もう少ししたらこんな余裕もなくなっちゃうからさ。今のうちに、楽しんでおこうか。
『私も食べたいなぁ…』
「…あのお店、テイクアウトもあったかな」
「お店で食べて、家でも食べるんですか…?」
「心配しないで、私は幾らでも食べれる人だから」
「それが心配なのですが…」
…テイクアウトしても妹ちゃんは食べられないんだけど、気持ち的にね。お供えしておくよ、何味がいいかな? …チョコミント? 色もアヤベさんに似てる気がするし。後は、ふわふわ… チョコミントスフレケーキ…?
「ヘヴンちゃんは好きな味とか、ある?」
「キャロットケーキをいただきます」
「それなら、私もそれにしようかな」
…まだお店は遠いんだけどね。口をケーキの味にして、美味しくいただこう。
「お邪魔するわね」
「おかえり、アヤベさん。これ食べる?」
「…ケーキ? 美味しそうね。いただくわ」
『私のケーキが…』
「さっきまでお供えしてたんだけど、腐っちゃいけないから、さっと食べちゃってね」
「…そうね。あの子の分まで、美味しくいただくわ」
『美味しそう…』
夜、買って帰ったケーキはアヤベさんに食べてもらったよ。予定ではチョコミントスフレケーキだったんだけど、売ってなかったし、お店で食べたにんじんケーキが美味しかったからそれを買って帰ったんだ。ヘヴンちゃんが思わず『美味しいですっ!』って声に出しちゃうくらいには美味しかった。 …また今度、みんなに差し入れとして買ってこようかな。
「そういえば、1つだけ気になったことがあるんだけど、聞いてもいいかしら」
「どうかした?」
「ライセンス試験、どうやって受かったの? …出会ったばかりの頃のあなたを思うと、勘で受かったのかもって思ってしまうのだけど」
…急に、まずい質問が来たね。もうこの世界に来てから2年以上経って、馴染んできたつもりではあるんだけど… さっき買った過去問を見て気づいたんだけど、出会ったばかりの頃に私、とんでもない失言をしててさ。適性の話の時、よくわからないって言っちゃったでしょ? でも適性って真面目に勉強してたら、最初に習うことみたいなんだよね。 …変に誤魔化したら更に首を絞めそうだから、ちゃんと謝ろっか。
「…ごめん。成り行きで受けたら、素人並みの知識と勘で受かっちゃって、トレーナーやってたんだ。 …ごめん、素人で」
「謝らなくていいわよ。別に、運だろうがなんだろうが構わないわ。今のあなたが立派なトレーナーであることになんら変わりはないもの」
「…あリがとう、アヤベさん」
「それに、あなたが幸運で良かったわ。そうじゃなければ… チームリラはなかったんだもの」
そう言ってもらえると助かるね。でも… 本当に、運が良かったとは思う。神様に転生させてもらう、なんて奇跡が起こらなければ、私はここにいなかったから… この幸運には、感謝し続けないと。
「本当に、運が良くて良かったよ」
「…ただ、私は運に自信はないのよね。だから… 一緒に勉強しない? あなたも、新しい発見があるかもしれないわよ」
「もちろん、一緒にやろう。 …妹ちゃんもね」
『カンニングしほうだいだよ♪』
「試験会場にイヤホンとスピリットボックスなんて持っていったら追い出されるわよ…」
ちゃんと勉強して… アヤベさんが受ける時に、私も運営に頼んで受けさせてもらおうかな。理事長良い人だし、自己研鑽として受けたいって言ったら受けれるんじゃないかな? …それでダメだったら資格失効、みたいになるなら受けるわけにはいかないけど。
「…今日は眠いから、寝るね」
「そうね… のんびりやりましょう」
「2人とも、準備はいい?」
「はいっ!」「できています!」
「私が横でお手本をしますので、わからなくなったら私を見てくださいね」
「わかりました!」「わかりました」
3月2週、月曜日。今日からレースと同じゲートを使ってのトレーニングをするよ。先週、1週間かけて座学したから最低限は出てくれると思うけど… やっぱり緊張するね。ゲートができなければ、G1級の能力を持っていたところで走ることさえ許されない。練習を重ねて上手くなるものだけど… 最初から上手いウマ娘ほど、最終的にも上手いことが多い。だから… 抜群に出てくれって祈ることにするよ。
「あ、ゲートのボタンはわたしが担当します」
「…突然開くから、きちんと準備しておきなさい」
「了解しました…」「大丈夫ですっ!」
……いつスタートだろ。
……………溜め過ぎじゃない?
「…ほいっ」
「あっ、出遅れた」
「…練習すれば何とかなる範囲よ」
2人とも要練習、初めてって考えたら悪いってほどでもないし、まぁ良かったかな。こっから、じっくり頑張ろうか。
「それでは、高松宮記念に向けての作戦会議を始めます」
「まずは概要から。開催される場所は中京レース場、距離は1200m、左回り、格はG1。フルゲート18で、トライアルは共にG3の阪急杯とオーシャンステークス」
さ、ゲートは1度忘れて、作戦会議をやっていこう。 …ゲートはゆっくり鍛えないとだからね。
「コースの特徴は?」
「スタートから最初のコーナーである3コーナーまでの距離がおよそ300mと短いのに対し、4コーナーからゴールまでの最終直線がおよそ410mと、短距離レースとしては最長を誇ります」
「それなら、後方一気の末脚のあるウマ娘が有利でしょうか?」
「そこにもう1つの特徴、坂も付け加えるよ。なんと向正面からコーナーを抜けて直線入り口までの長い下り坂の影響でペースが速くなりやすく、その直後に休む間もなく急な上り坂。息を落ち着けるタイミングのないコースだから、短距離戦にしては前が苦しいコースだね」
「短距離戦の中では相対的に差しが効きやすい… けれど、そもそもとして短距離戦は前有利。脚質の有利不利は少なそうね」
中京1200m、G1が行われるだけあって一筋縄では行かない難解なコースだよ。スタートからコーナーまでが短いから、位置取り争いは確実に激しくなる。それでいて長い下り坂。ペースが速くなるのも間違いなくて、逃げ先行のウマ娘の体力は大きく削られる。そして苦しい状態のまま急坂を登って、その後も200m近く直線が続いてゴール… さぁ、どんな作戦を立てようか。
「それなら… わたしはどうすれば?」
「クラフトさんの作戦は1つです。逃げウマ娘の後ろに控えて、最終直線で抜け出す、いつもと同じ戦い方… それこそが、1番輝ける戦法で間違いありません」
「同感ね。先行が悪いコースでもないなら、普段通りの、得意な走り方をするべきよ」
「私も、そう思います!」
「私も同じかな。枠順次第だけど、先行策を基本線で考えていいと思う。問題があるとしたら…」
「今回のライバル、ですね。逃げの作戦でマイルG1で掲示板に入ったこともあるウマ娘もいますから、とてつもないハイペースを刻む可能性があります」
他の有力なウマ娘も揃って逃げ寄りの先行脚質。前走でクラフトちゃんはハイペースのレースを経験したけど、今回はそれよりも速くなるはず。前走も追走に苦労した部分は少なからず感じたし… どこまで余裕を持って4コーナーを抜けられるか、それがこのレースの鍵になる。ペースについていくので手一杯になってしまうと、直線で弾けることができない。 …でも、末脚を溜めようと思う必要はそこまでないかな。他のウマ娘も苦しいのは同じだからね。120%の力を出さないとG1は勝てないと言うけれど… 今回に限っては、100%を目指すことの方が大切だよ。クラフトちゃんの力はG1でも通用するんだから… その脚を、繰り出すことだけを目指そう。
『誰かマークしたりするの?』
「クロノちゃん、要注意の相手は?」
「…後で、2人の時に話します。混乱させたくはありませんので、先に確認したいです」
「…そうね。2人でまとまったら私達にも話してちょうだい」
「わたしにもわかるように、わかりやすくまとめて下さいね?」
「もちろん、必要な情報を取捨選択してお伝えします」
「その時はあたしも!」
「私も聞かせてください」
「…あ、私もお願いします」
…今日の話し合いは終わりかな。
「今年の芝G1の開幕戦、高松宮記念の日がやってまいりました。好天の中京レース場、最速の肩書は誰の手に渡るのか、瞬き厳禁の6ハロンが今、始まります」
「…これまでの自分を信じて、頑張って」
「努力は裏切ることもあるけど… 報いる時も、必ずあるわ」
「楽しんできてくださいね♪」
「責任は私が取ります。ですから、気を楽に… 頑張ってください」
「マイル女王の強さ、見せつけてきてください!」
「心から、応援させていただきます」
『頑張って!』
「…行ってきます。必ず勝って、帰ってきます!」
…パドックに向かうクラフトちゃんの背中は、いつもよりも力強く、大きく見えた。きっと、やってくれる。心から… そう思えた。史実では2着に敗れたこのレースも… 勝てるはずだって、そう信じるよ。
「…頑張れ」
「これからゲートイン、まずは奇数番のウマ娘から収まっていきます」
…わたしに与えられた枠は、6枠11番。まずは、スタート。短距離戦は、スタートの比重が大きいから… 出遅れだけは許されない! …18番が入った、そして… いまっ!
「揃ったスタートとなりました、内枠勢が前に行って、そしてなんとラインクラフトもハナを奪う勢いで上がっていきました」
作戦は先行策ですが、まずはポジションを取ることが大切です。ですので、スタートで前に出て、落ち着いて内に入って… ここにしましょう。前から2列目、内から2列目。そんなことをしていたら、もうコーナー… 下り坂ですが、ここで何としても落ち着かないといけません。
『整えて!』
「ふぅ… ふぅ…」
…大丈夫、わたしなら行ける。大丈夫、大丈夫… ポジションは… 少し後ろに下げましょう。苦しければ下げて、最終直線にかけるように言われています!
「前半600mの通過は33秒7、速いペースで流れています」
4コーナー、少しですが落ち着けました。脚が楽かと言われたらそんなことはないですけど… もうすぐ下り坂が終わります。仕掛けるなら、最終直線に入った瞬間… 一気に、外に飛び出す!
「さぁ最終直線! 内でまだ3ば──
…余計な声は要りません。自分の脚を、それだけを信じて…
「わたしの願いは、ただ1つ! いつか、誰かが示したように。わたしは、わたしの道を… この走りを祈りに変えて、切り拓く!」
相手がどれだけ速くても、坂がどれだけ苦しくても、前が止まらなくても… そんなの、関係ない! わたしの道は、わたし達の道は、誰にも… 止めさせない! もう脚が動かなくたって、呼吸さえ苦しくたって、わたしは… 止まるもんか!
横は見ない、前だけを見て… あのゴール板を、先頭で駆け抜ける、ただそれだけ…! いっけぇーー!
「 」
「 」「 」「 」
「…おめでとう、迎えに来たわよ」
「アヤベさん! わたし… 勝ちましたよ! これで、G1… 3勝目!」
「えぇ、3勝目よ。トレーナーも部屋で涙を溢れさせてるわ。 …トップロードさんもね」
「お疲れ様でした。凄い末脚でしたね! 脚は大丈夫ですか?」
「痛みはないので、大丈夫だと思います」
「…私から見ても大丈夫そうね。でも、学園に戻ったら一応検査は受けるわよ」
「もちろんです!」
わたしが、勝った… 勝ったんです! まだ、実感はそこまでですけど… でも、9カ月ぶりの勝利ですから、すごく嬉しいです。実感がないのは、嬉しすぎて、感情が飛び越えちゃったからかもしれません。 …変なこと言っちゃうくらいには嬉しいです、えへへ。
「戻りました!」
「G1制覇、おめでとうございます」
「目指せ3階級! ですね?」
「本当に、おめでとう!」
「…トレーナーさん、わたし、勝ちましたよ」
「…クラフトちゃん、おめでとう。 …そして、あリがとう」
「こちらこそ、あリがとうございます!」
…トレーナーさん、しっかり笑ってくれました。良かった…… あぁ、なんだか、涙が出てきました。実感… 湧いてきたかもしれません。
「だ、大丈夫?」
「これは、嬉し涙… ですっ! 」
「うぅ、クラフトちゃんの涙を見たら、また涙が…」
「もう… この後インタビューだから、今のうちに枯らしておきなさい」
「アヤベさんは、大丈夫なんで
「薄情なわけじゃないわよ。ただ… 勝てると信じていたから、感動もそこまでなだけ」
「それだと泣いた私達が信じてなかったみたいじゃん。 …もちろん、信じてたからね?」
「わかってます! 心で、通じてます!」
…嬉しいな。また、みんなで勝てた。ティアラの道の先で… わたしはまた、輝けた。 …でも、また次も、ですね。次はアヤベさんも泣かせられるくらい、劇的に勝ちます! …いや、普通に勝ちたいですね。なんとしても、勝つ。それだけです!
「…えっと、クラフトさん、タオルどうぞ」
「あリがとうございます」
「飲み物もちゃんと飲みなさい。感極まって感じないかもだけど、喉も体も限界のはずよ」
「私も飲み物もらうね…」
「あなたはティッシュも必要ね」
「…ねぇ、トレーナー。あなたの夢は、もう超えたわね」
「…そうだね。クラフトちゃんが、現実を見せてくれた」
「…それでも、まだ怖い?」
「…うん。まだ、怖い」
「…そう。それなら、もっと勝たないといけないわね」
「…それは夢関係なく、目指すけどね」
「…それもそうね」
高松宮記念翌日、帰りの新幹線の中よ。トレーナーが見たという夢の中では、クラフトさんによく似たウマ娘は2着だったらしいから、それは超えた… つまり、その夢は予知夢でもなんでもなくて、本当によく似たウマ娘が夢に出てきただけってこと。 …でも、その恐怖を否定するつもりはないわ。最悪の事態を恐れるのは、正しいことだもの。無事でなければ、どれだけ強くとも意味がない。 …妹に何度も説教された内容よ。
『左から3枚目!』
「はい、これ。揃った?」
『今のと、左から5枚目が揃った』
「…運がいいわね。覗いてるんじゃないでしょうね?」
『覗いてないよ〜!』
…今は呑気にババ抜きをしているわ。妹にもカードをスタンドに立てて参加してもらっているわ。 …はたからみたら、2人3役でババ抜きをしてる愉快な人達ね。それも、1人分は手札を見ずに揃ったら捨てていく… 愉快というより、狂気ね。
「トレーナー、今後の予定は?」
「クラフトちゃんは検査を受けてもらって、問題なければヴィクトリアマイル*1か安田記念*2に向けて調整かな」
「…どうして全く同じ条件のG1が2つも近い時期にあるんでしょうね」
「さ、さぁ…? 私達としては助かるし、良かったんじゃない?」
「…それもそうね。あ、上がりよ」
『お姉ちゃんこそイカサマしてるんじゃない?』
「どうやってイカサマするのよ…」
次走はヴィクトリアマイルか安田記念… どちらも東京レース場で開催される芝の1600m戦、クラフトさんが得意な条件ね。去年NHKを勝ったのと同じ時期、同じ条件のレースだもの、向かないはずがないわ。 …この2レースの違いはよく知らないわ。ティアラ路線のウマ娘はヴィクトリアマイルを使うことが多いようだけど、きっぱり分かれてるわけでもない。 …今後の状態次第ね。回復が早ければ前者、遅ければ後者になると思うわ。
「メイクデビューの2人はどう?」
「どこにするかってところだよね。クラフトちゃんと同じように、早目にデビューさせたいけど… まだ確勝って感じじゃないし、ゆっくり考えたいかな」
「…それもいいわね。個人的にはグランさんは最速でデビューを目指しても大丈夫だと思ってるけど、ヘヴンさんはまだ時間がかかる… そう感じてるわ」
「同感かな。グランちゃんは今デビューしても戦えそうだし、6月中のマイルか短距離になりそう。ヘヴンちゃんはまだわからないね…」
クラフトさんのデビューは、確か6月後半の阪神マイル戦だったわね。グランさんは同じ時期にデビューして、勝っても負けてもそのまま夏合宿に入って、明けた頃に2戦目… という流れになるでしょうね。選抜レースの結果を考えたら、今の時点で既に能力が保証されている。それなら、早いうちに勝ち上がって、将来のレース選びを楽にしたい… そんな考えね。
問題はヘヴンさんよ。選抜レースの頃に比べて明確に成長していて、やる気も十二分にあるのだけど… レースで勝てるかと言われたら、確信を持って勝てるとは言えない。それなら、もっと時間をかけてじっくりと鍛えて、万全の状態になってからデビューしたほうが将来に繋がると私は思うの。
ウマ娘は本格化を迎えると急激に能力が上がる、というのはよく言うけど… 全員が同じペースで、同じように成長するわけじゃないわ。6月には体が出来上がってレースでも速いタイムを刻める子もいれば、10月になっても本格化の途中でレースについていけない子もいる。早熟や晩成、なんて言い方もするけど… 私の認識として、グランさんは前者で、ヘヴンさんは後者よ。
「…難しいことを聞くけど、2人の距離適性、どこだと思う?」
「…あまり長い距離のイメージはないかな。どちらかといえば短距離、マイルの方が向くと思う」
「グランさんはマイルに拘りを持っているようだから、本人の為にもマイル路線が良さそうね。ヘヴンさんは… 今後次第かしら」
「そうなるだろうね…」
…話す話題が尽きてきたわね。もうそろそろ、街並みについて話すか考える段階に入るけど… 最後に、もう1つだけ聞いておきましょうか。
「明日以降のトレーニングの予定は?」
「クラフトちゃんはきちんと休養をとって、その後からレースに向けて調整。他2人もトレーニング続きだったから1度休みをとってからトレーニングかな」
「…それなら、座学でもする?」
「それもいいね。映像、集めてくるよ」
「私も… 最近のレースの映像とか、探してみるわね」
…話すことはもうないわね。この後はのんびりと、新幹線を楽しむとしましょう…
「よし、私の勝ち」
『ぐぁっ』
「…まだ戦ってたの?」
高松宮記念制覇。G1、3勝目。もはやクラフトさんは一介の星でなく、誰よりも輝く1等星になった。 …けれど、星はまだ明るくなれる。夏の夜に輝くベガのような、0等星へ… 必ず、してみせましょう。その為にも… トレーナーの悪夢を、晴らさないと。正夢になんてさせない。
「…持ち得る全てを尽くしましょう」
「…まだまだ、頑張ろうか」
『おー?』
『む〜! 勝てない!』
「これに関しては運だからね… 着狙いもできないし、気楽にやろう」
「そもそも、気を張り詰めるような物でもないわよ。 …あ、揃った。あがりね」
「…アヤベさん、強くない?」
『お姉ちゃん、運は良くないはずなのに…』
「あなた達の運が悪いんじゃない?」
「徳を積んでこないとか…」
〜3月後半