琴の音に耳を澄ませて 作:緑雨
「ふんふふ〜ん♪」
「クラフトさん、何か良いことでもあったんですか?」
「あっ、クロノちゃん! うん、今日はティアラ路線の先輩と沢山話したんだ! …楽しかったなぁ」
「それは良かったですね。 …いつかはクラフトさんも、逆の立場で後輩と話すことになりますよ」
「そうだといいな♪」
4月1週、金曜日の放課後です。クラフトさんのお話も聞きたいですが、私はやらないといけないことがありますので… また今度、聞かせていただきましょう。
「…急がないと」
「…………………」
「…熱心なのはいいことだけど、飲み物はちゃんと飲みな。それと、ご飯も。もうすぐ食堂閉まっちゃうよ?」
「ここの検討が終わったら…」
「…少し星を見てくるわね」
「いってらっしゃい、今日は10時頃までここにいるから」
「私もその予定です…」
直近こそ後方から差す戦法ですが、成績が振るわず。逆に逃げ先行策を取っていた頃は掲示板を安定しており、今回のレースも前残りの可能性が高い… それならばやはり軸はこの子が正解でしょうか…? ですが、先行策を取る保証はありません。もしも私がトレーナーなら先行指示を出しますが、近走後方に控えているのには理由があるはず。ゲート難にも見えませんが、何か私の知らない理由があるのだとしたら… 今回も後方待機だと仮定して予想するべきでしょうか…
「…こっちを軸に考えるほうが…」
「…パンドラの箱を開けた気分だ…」
「戻りました…」
「おかえり、新しい資料を用意しておいたよ」
「これは… なるほど、あリがとうございます」
日曜メインレースに出走するウマ娘のトレーニング時計とその日のバ場情報、そして風と天候… 流石はトレーナーさんです、私が欲しい情報を的確に… これだけデータをいただいたんです、必ず予想を的中させてみせます…!
「…本当に好きなんだね」
「そうですね… 歴史は、知っているだけでは意味がありません。それを元に、未来を紡いでこそ過去は意味を持つのです。 …予想は、それを私に感じさせてくれます」
「…良いこと言うね。私も明日のメインでも予想しようかな…」
…予想をすること、それが的中することが楽しいという理由もありますが、今はカッコつけさせて下さい。
「…それじゃあ、予想タイムといこうか」
「はい…!」
「よーっし!」
「私達の勝利ですね!」
「突然叫ばないで… 何があったの…?」
「昨日2人でした予想が当たったんだ」
「そう… 坂路4Fのタイム言うわね」
「はーい」
…よしっ。
「ここがわたしのオススメスポットだよ♪」
「わぁ…! 綺麗さ100マイルな花畑ですね…!」
「前に来た時とは少し雰囲気が違って、これはこれで魅力的だね」
「前はいつ来たんですか?」
「去年の5月だったかな。あの時とはあっちの花がよく咲いてたんだ」
「区画で花が分かれてるんです!」
翌週末、クラフトさんに誘われて、グランちゃんと花畑に来ました。本当はヘヴンさんも呼んで中等部4人でお花見の予定だったのですが、既に先約があったようで… あぁ、中等部4人と言いましたが、トレーナーさんもいますよ。
「…少し、日向ぼっこでもしていく?」
「ですね! あそこの木陰で、どうですか?」
「…気持ちよさそうですね」
「だね♪」
普段は外で眠ることはないので、新鮮な気分ですね… でも、気持ちいいに決まっています。寒いとも暑いとも感じない気持ち良い気温、体を包む太陽の温もり、流れる風の感触、眼下に広がる花園… ほのかに香る芳しい花々の香りも、きっと気持ちいいでしょう。 …今だけは、非日常な感覚に身を委ねましょうか。
「ん… あぁ、ねむってしまいました…」
「おはよう、静かにね」
「静かに…?」
「すぅ…すぅ…」「ふぁぁ… んぅ…」
「なるほど…」
ひなたぼっこしていたら、眠ってしまったみたいです。 …とても気持ちよかったです。疲れもどっと抜けたような、そんな気がします。クラフトさんも、グランちゃんも、ぐっすりと眠っています。起こさないように気をつけないと…
「気持ちよさそうに寝てたね」
「顔に出ていましたか…?」
「うん。幸せそうな顔だったよ」
「うぅ、少し恥ずかし… トレーナーさんは眠らなかったんですか?」
「一応ね… 外で無防備に寝て、何かあったら困るでしょ? みんな、可愛いんだから。 …それに、私はみんなの寝顔を見れただけで十分だよ」
…寝顔を見られたのは恥ずかしいのですが、今なら私も皆さんの寝顔を見られますね。クラフトさんは… 時折見ますので特別感はないですが、気持ちよさそうに寝ています。横を向きながら少し丸まっていて… あまり見過ぎるのも失礼でしょうか?
グランちゃんの寝顔、初めて見たかもしれません。溌剌な姿しか見たことありませんでしたから… …起こさないように、慎重に動かないとですね。
「…どこか行くの?」
「少し、お花を見てきます。必ずここに戻ってきますので」
「わかった、また後で」
「それでは…」
…お花を見るついでに、写真も撮りたいですね。車にカメラを載せてきたはずですので、それを回収してきます。グランちゃんの寝顔は… 私のカメラでは上手く撮れなさそうです。そっちは鞄のスマホで撮っておきますね。
「…よしっ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
「あ、おかえり。早かったね?」
「…すみません、車のトランクの鍵をいただけませんか?」
「あ〜、はい」
鍵のことを失念していました… うぅ、お恥ずかしい…
「よく寝ました… 」
「気持ちよかったです…!」
「みんな、お目覚めかな? 寝起きで悪いけど、私、お腹がすいちゃってさ…」
「…同じくです」
「寝起きでも!」
「食べられます!」
「よしっ! それじゃあご飯を食べに行こう!」
写真は撮れましたので… それでは、トレーナーさんのオススメのお店に向かいましょう。
「こういうお店のナポリタンってどうしてこんなに美味しいんだろう…」
「サラダも美味しいですよ?」
「フレンチトーストも美味しいです」
「…何でも美味しいならとても良いお店ですね」
トレーナーさんに連れられて辿り着いたのは、喫茶店でした。丁寧に飾ったような上品なお店ではなく、気楽に立ち入れる空気でありながら木造りで
「……」
「一口食べますか?」
「いいの? それならもらおうかな…」
「はいっ、どうぞ♪」
「ありがと。お返しのナポリタンとか、いる?」
「食べたいですけど… 手に乗せるのは危険ですよね」
…ナポリタンをシェアしそうな雰囲気ですね。取り皿は… あぁ、自由に取れるように置いてありますね。私が取りに行きましょうか。
「口開けて、はい」
「なるほど! あ〜」
「あーん、美味しいでしょ?」
「で
「の、飲み込んでから喋ろっか」
なるほど… 確かにクラフトさんが口を開けて、トレーナーさんが食べさせれば取り皿は要りませんが… 私、あーんなんて子供か恋人だけの物だと思っていました。 …中等部も子供といえば子供ですが、もっとこう、幼児に親がするイメージだったんです。悪いことだとは欠片も思いませんよ。仲がいいんだなって、そう感じました。
「…マイルールに追加しておこうっと」
「な、何をですか?」
「取り皿がなければ直接! よしっ!」
「親しい相手以外にはダメだよ?」
「マイルールは人に押し付けないので、大丈夫ですっ!」
大丈夫でしょうか…? …ただ、グランちゃんなら大丈夫だろうという不思議な確信もあります。なぜだかわかりませんが… グランちゃんならきっと、マイルールを上手く使ってくれるでしょう。 …このルールが適用される機会も殆どないと思われますが。
昼食を終え、今はトレーナーさんの運転でドライブをしています。目的地はなく、のんびりとしたドライブです。オープンカーでもありませんから、気持ちよく風を受けるようなことも起こり得ませんが、楽しいものですよ。
「次の交差点、右と左のどっちがいい?」
「左です!」「右で!」
「…それでは、問題を出しますね。中央のレース場で、直線がもっとも長「新潟!」
「…不正解です、続けますね」
「違うの!?」「え、え…?」
「直線がもっとも長いレース場は、芝では新潟レース場ですが、ダートではどこでしょう?」
「…どこ?」「習ったような気がする…!」
気の向くままのドライブですので、交差点でどう進むかは後部座席に座っているグランちゃんとクラフトさんに決めていただいています。 …ですが、意見が割れる場合もありますので、その時は私がクイズを出してどちらにするかを決めています。 …今回の問題は難しすぎたでしょうか? 引っ掛け問題ですが、引っ掛けの後はすんなりと答えが出ると思ったのですが…
「どこだろ…」
「う〜ん、当てずっぽうは嫌だなぁ…」
「残念だけど、もう交差点だよ」
「えっと、函館!」「あたしは阪神!」
「…不正解です」
「正解は東京だよ。ダートコースは芝コースの内側にあるから、芝コースで4コーナーからの直線が長い東京が答えなんだよね」
…車は直進になりました。問題の答えはトレーナーさんの言った通り、東京レース場になります。 …さて。この道の先には、どんな景色が待っているのでしょうか。変わらない街並みなのか、変わりゆく自然の景色なのか… カメラは常に手にしていますので、何かを捉える準備は万全です。
「今日は楽しかった?」
「はいっ!」「楽しかったです!」
「私も、とても楽しかったです」
「それは良かった。 …もちろん、私も楽しかったよ。じゃあ、気をつけて寮に帰ってね」
「すぐそこですけど… 気をつけて帰りますね!」
今日1日、幸せな旅でした。寮に戻ったら、カメラに収めた思い出を現像しないといけませんね… 撮ったのは花畑の写真のみですが、大切な思い出ですので。
「アヤベさん、これを渡しておくね」
「…拒否するわ」
「えっ、な、なんで!?」
…4月末の休日、トレーナーの部屋よ。4月後半のトレーニングは坂路だったわ。 …なんて、そんな話をする時じゃないわね。
少し前から、トレーナーが何かを書いていたのは知っていたわ。私がトレーナー室に行くと、何か紙のようなものを隠すんだもの。 …みんなが坂路でトレーニングをしている時に、こっそりと部屋に戻って確認したから、内容も知ってる。だから… その紙は、受け取れない。
「そんな物、捨てておきなさい」
「…中身、知ってるんだね?」
「夏シーズンのチームの予定表、でしょう?」
「そうだよ。 …夏が近づいて、怖くてたまらないんだ。明日、明後日、私が正しい判断を下せるかわからない。 …だから、アヤベさんに、コレを持っていてほしい」
…言いたいことは全てわかってるつもりよ。トレーナーが恐れている物も、私に託そうとした理由も。 …トレーナーとして、チームを考えてのことだって、わかってるわ。
…でもね。だからこそ私は、サブトレーナーとして、その提案に反対するわ。
「大前提として、夢はそうそう現実になんてならないし… 夏合宿、自分だけ行かないつもりなんでしょ?」
「っ… よく、わかったね。 …ごめんね。自分だけ、逃げようとして」
…確かに、そんな見方もあるわね。トレーナーの見た悪夢では、夏に最悪な結末を迎えることになる。だから、トレーナーだけその場から逃げて、その瞬間を見ないように、逃げようとしている。少しでも絶望を和らげるために… なんて、私が思うと思っているのかしら?
「…逆でしょう? クラフトさんから離れようとしてるんじゃなくて、自分をクラフトさんから遠ざけようとしている。違うかしら?」
「…何でもお見通しだね」
トレーナーは、ずっとその夢に怯えて、少しでも夢と違う結末を辿るために、色んな手を尽くそうとしていた。そんなトレーナーが、最後の最後で逃げるだなんて思ってもないわよ。
…トレーナーが夏合宿に行かない理由は、自分が邪魔になると思ったから、でしょうね。夢の先に辿り着いたと確信できるその時まで、トレーナーはありとあらゆる手を尽くそうとする。そうなれば、クラフトさんにどんなことをするかわからない。
無理にトレーニングを休ませたり、過度に守ろうとするのは間違いないでしょうね。 …それがチームの邪魔になると、トレーナーはわかっている。だから… 自分が邪魔にならないように、夏合宿を私に任せようとした。 …私はそう推理したわ。
…だからこそ。私はトレーナーの作った予定表は受け取らない。
「私はあなたを夏合宿に連れて行く。これは絶対よ」
「…私が行っても、何の役にも立たないよ」
「だから何? 私達は、役に立つから協力している、そんな関係じゃないでしょ? …仲間だから、一緒にいる。違うかしら?」
「それはそうだけど… ほら、気でも触れて邪魔しちゃったら困るでしょ?」
「あなたが不安定な時は、私がこの手で支えるわ。 …妹も、きっとあなたを支えてくれるはずよ」
『まかせて!』
「何があろうと、私はこの手を離すつもりはないから。あなたを… 必ず、連れて行く」
「…ありがとう。ここまで言われるとは思わなかったな」
…1つでも星が欠ければ、星座は描けないのよ。
…怖い。訪れるかもしれない、その瞬間が。でも、同じくらい怖いことが1つあったんだ。それはね…
自分が、チームに迷惑をかけてしまうこと。クラフトちゃんを守りたい、そんな一心で未来の私が何をしでかすか、想像しただけで恐ろしい。精神的に追い詰められたら、きっとクラフトちゃんのことをずっと見張ってるだろうし、お風呂だろうと寝室だろうと横にいようとすると思う。 …そんなことをしたら迷惑だって今の私にはわかるけど、その瞬間の私にはそんなことを気にする余裕はないと思う。 …だから、怖い。
アヤベさんの言う通り、夢の通りに… 元の世界の史実の通りに、この世界が進むとはそこまで思ってない。アヤベさんにも、トップロードさんにも、クラフトちゃんにも… その走りで、示されたから。でも… 心の奥底の恐怖感だけは拭えないんだ。きっとこの世界では大丈夫だって思ってても、その時が近づいたら… もしもを恐れてしまう。 …きっとね。
でも… 私も、夏合宿に行かないと、か。 …あそこまで思いをぶつけられて、それでも行かないとは言えないよ。 …できるだけチームの邪魔にならないように、気を強く保とう。
「…大丈夫。私が支えるから」
「まだ大丈夫だよ。でも… その時が来たら、よろしくね」
「もちろん… 私を信じなさい」
…すぐそこの未来を語っているような雰囲気だったけど、夏合宿はまだまだ先の話。今は1度頭から離して、トレーナーとしての職務を全うするとしようか。
「ん〜、変わったかなぁ?」
「…元の硬さを考えたら、良くなったんじゃない?」
「君達が柔らかいだけで、元も硬くなかったと思ってるけど…」
「えっへん!」
「あたしも、柔軟なら自信あります!」
「問題はない程度には…」
「私も自信ある側ですね」
アドマイヤベガよ。 …柔軟の話だけど、私は特別自信はないわ。硬いとも思わないけど… 周りと比べるとね。だって、この学園にいるのはトゥインクル・シリーズを走る為にここに来た、アスリート達なのよ? 私以上に体の柔らかい人なんて、ごまんといるわ。 …万はいないけど。
…あぁ、柔軟をしている理由を話さないといけないわね。今回のトレーニングが柔軟性のトレーニングだから、以上。 …なんて説明では足りないわね。グランさんのデビューが近づいて、今後はトレーニングの強度を上げていく予定なんだけど… そうなると、今まで以上に怪我のリスクは高まるわ。だから、少しでも怪我を予防する為に柔軟トレーニングをすることにしたの。普段からストレッチはしてるけど、時間をかけて… ね。
「…クロノちゃんは硬そうだね」
「残念ながら、柔らかい側です」
「…ウマ娘って凄いね」
「そうね… でも、あなた以上に硬い子もいるわよ」
「ちょっと嬉しい… とはならないかな」
「怪我は少ない方がいいですからね…」
それは間違いないわ。たとえライバルであっても、怪我を望むことだけはありえない。勝ちたいと強く思うけど、負けろとは思わないもの。お互いに最高の状態で戦い、それで勝つ。そうでなければ、折角の勝利も錆びついてしまう。栄誉の為にも… 全員が無事であることを願うわ。
「ぬぅ〜」
「わ、私も… ぐっ…」
「あたしの柔らかさに勝てるかな〜?」
「…リ、リタイアします!」
「グランちゃんは本当に柔らかいですよね」
「柔らかさは、マイルに大切だからね♪」
「…そうかも?」
…クラフトさんがその調子なら、マイルに柔らかさは重要じゃないのかもしれないわね。ただ… グランさんの柔らかさは特筆に値するわね。元々身体能力は高かったけど、柔軟性も中々のものよ。 …柔軟トレーニングの必要性が疑われるレベルだけど、更に上を目指してみましょう。猫のような柔らかさを目指して…
「アヤベさん、おはよう」「おはようございます、アヤベさん」
「おはよう… トレーナーは朝も話したでしょ」
「それはそうだけど、挨拶なんて何回してもいいでしょ?」
「…こんにちは、ならまだしもおはようは1度で十分よ」
「おはようございます!」
「おはマイル〜!」
「お、おはマイル〜…」
「…おはようございます」
6月1週の土曜日… 今日はみんなで揃っての外出よ。 …珍しい気もするわね。トレーニングでもレースでもなく集まることなんて、過去にあったかしら? …別にプライベートを縛りたいわけじゃないから、集まらなくてもいいのだけど。休みは各自で好きに休む、それが1番よ。 …こうやって集まるのも好きだけど。
「じゃ、行こうか」
「…行き先は?」
「それは車内で」
「…そう」
…この人数だと、全員の話を聞くのは難しいわね。駐車場に向かって歩いてる最中も、それぞれで好きに喋ることになるわ。 …おはマイルの言い方を私に指導されても困るから聞こえなくて良いけど。
「…誰が助手席座る?」
「私が」「乗りたいです!」「乗ります!」「良ければ…」「参る!」
「…ヘヴンちゃんにしよう」
「えっ、わ、私ですか!?」
助手席ってここまで争奪戦になるものなのね… いつも当たり前のように座ってきたけど、譲ってあげた方が良かったのかしら…? …下手な人に譲ると恐ろしくもあるけど。案内したいとか言い出してカーナビを消したのに案内しなかった人も前にいたし…
「ど、どうかしましたか?」
「…あなただけは助手席に座るべきじゃないわね」
「そんなぁ!?」
…トップロードさん、新しい服を買ったのね。元の白い服の上に青い… ビスチェとかキャミソールって言うんだったかしら? それを重ねた服も良かったと思うけど、胸元にふわっとしたフリルのついた半袖のラフな服に変わっているわ。 …私も新しく服を買おうかしら。冬はニットで決まりだけど、夏は適当なのよね… 考えておきましょう。
「あの、どこに向かってるんですか?」
車で結構な時間を揺られたところよ。 …行き先、聞き忘れていたわね。勝手にレース場だと思っていたけど、頭の中の地図によれば少し方角が違う。地図が正しいのなら、行き先は予想できるけど… 一応、確認しておきましょう。自信はないもの…
「どこだと思う?」「ここに飛車です」
「ショッピングモールでしょうか」「なら金をこう!」
「ヘヴンちゃんはどう?」「むぅ〜…」
「…東京レース場、とか?」「桂馬をそこはどうですか?」
「残念、正解はね…」「ダメですね、そうすると…」
「ごめん、1回静かにして」
車内でそれぞれが好きに喋ると、何が何だかわからなくなるわ。後ろは何を… 将棋? 車の中で対局していたの? 揺れるのに? …正気の沙汰じゃないわね。それに、イメージのない2人が打ってるのね。 …トップロードさんは中等部2人の対局に口を挟んでダメ出しされたのね。かわいそう…
「今向かってるのはプラネタリウムだよ。混んでるから前と違う道を使ってるけど、よく行くプラネタリウムだよ」
「…確かに、少し混んでるわね」
「明日は安田記念ですから!」
「…どちらかといえば、メイクデビューが始まったからだと思います。安田記念を見たい方であれば、土曜の朝に移動することはないでしょうから…」
「世代の一番星は誰か… 盛り上がってますね♪」
「…ですね」
「………」
…安田記念。高松宮記念の後に話したこと、覚えているかしら? クラフトさんの回復次第で、次走はヴィクトリアマイルと安田記念のどちらかを選択する、という話よ。ヴィクトリアマイルは先月、既に終わっている。そしてクラフトさんは、万全なほどに回復している。ということは…
「…気合い入れないと」
クラフトさんは安田記念に出走するわ。そう、明日走るのよ。 …だから、私もヘヴンさんも東京レース場に向かっているものだと思っていたの。東京レース場はトレセン学園から直接行ける距離だから、阪神の時のように早目に現地に向かう必要はないのだけど… 明日走るのよ? 余裕を持ちすぎじゃないかしら…? スクーリング… はよく知ったコースだから必要ないかもしれないけど、バ場はその日ごとに変わるのよ。 …大丈夫なのかしら。
「あまり気負わないで下さい。今日は気楽に、楽しみましょう」
「そうです! 思い詰めたら結果は出ませんよ。ね、アヤベさん♪」
「…そこで私に振るのは悪意かしら? でも、そうね。今やあなたは誰も疑わない主役。あなたにかかる期待は並のものじゃないわ。 …休める時に休まないと、私みたいになるわよ」
…言っていて、少し恥ずかしいわね。過去の自分の醜態を話題に挙げるのは。 …でも、本当に大切なことよ。何度も、何度も思い詰めて、どうしょうもない大敗を喫したからよくわかってるわ。 …今のクラフトさんにかかる重圧は私にはわからないけど。トップロードさんが1番、よくわかってるんじゃないかしら。
「プレッシャーはマイルの天敵、です!」
「…想いの強さは、力になります。けれど重すぎては、枷にもなり得ます」
「必要な情報は集めてあるから、安心して今日は休もう。 …大丈夫、きっと、何とかなるよ」
「…ですね。今日はのんびり休んで、明日頑張ります!」
…真剣な話をしてしまったわね。折角の外出なんだから、楽しまないと…
「あ〜っ、楽しかった!」
「勉強になりました」
「何度来ても学びがありますね」
「マイル座も作れないですかね?」
「マイル型に星が並んでくれる日を待ちましょう!」
「星の並びがそう簡単に歪んでは、星座が全て崩れ散るわよ」
「…そもそも、マイル座って何ですか?」
…なんなのかしらね。何もわからずに適当なことを言ったけど、1600個の星が並んでる、なんてことはないわよね。 …マイルの形ってわからないわね。だって、単位だもの。実体のあるものじゃなければ星座には難しいわ。グランさんの中には描けているのかもしれないけど…
「ハロン棒のほうが現実的ね…」
「それ、信号とか電柱でも良さそうだけど」
「縦長の物って沢山ありますね…」
「8本集めて1マイル、ですね」
「あれは棒よりも距離が大事だから」
「あう…」
結局、マイル座ってなんなのかしら…?
「さ、車に着いたわけだけど… ヘヴンちゃん、助手席どうする?」
「私はどちらでも…」
「乗りたいです!」「はいっ! はいっ!」「今度こそ…!」「お任せください!」
「…アヤベさんで」
「え…? 良いけど…」
…マイル座と同じくらい、トレーナーが何をしたいのかもわからないわ。朝も助手席に興味を示してなかったヘヴンさんをなぜか乗せたけど、今回も反応しなかった私を… …変なのはいつものこと、なのかもしれないけど。
…前まではトレーナーのこと、変な人だと思っていたけど、そうじゃないのよね。意味不明な話も場を和ませるための作り話、突飛な行動もチームの役に立つと思っての行動… 私に理解できないだけで、真面目なことを考えて… いや、真面目に考えた結果として理解不能な言動に辿り着くなら、変な人ね。考えを改めるわ、やっぱりトレーナーは変な人よ。
「…どうかした? 私の顔に何かついてる?」
「ただ見ていただけよ… それに、何もつきようがないでしょ?」
「よ、よだれとか?」
「…歩きながらよだれを垂らすの?」
「…流石に私には無理だね」
…関係ない話はやめて、次の行き先を考えましょうか。クラフトさんの気分転換が目的なんだとしたら… プラネタリウムの次は、花畑かしら? …少し前に行ったという話を聞いた気がするわ。それなら… 浮かばないわね。
「星を見た後に星を見るのね…」
プラネタリウムを出た後はショッピングモールで昼食をとって、そのままウィンドウショッピング。夕食もモール内のお店でとって、夜。車に揺られて辿り着いたのは、近くの山。 …昔来たような気もするけど、いつ来た山だったかしら。山とか丘とか、よく行くからわからなくなってきたわ。いつも夜だからよく見えないし…
「アヤベさん、あの星は何ですか?」
「…クイズにしましょうか。プラネタリウムの記憶を呼び戻してみなさい。みんなも、考えてみて」
周りの星に比べて明るくて目立つ白い星。近くにはより明るいオレンジの星と青白の星、更に少し暗い白い星もあるわね。4つを結べばダイヤモンドに、前者3つを結べば三角形が描けそうだけど… さぁ、この星の名前はわかるかしら?
「…頭文字がAだと思うならこっち、Bならそっち、Cならあっち、後は… そうだ、Dならそこにしましょうか」
「記憶が正しければ…」「多分こっちのはず…」「間違えるわけないですっ!」
「勉強しましたから」「…大丈夫、あってるはず」「マイルには記憶力も大切だから…」
正しい場所に行ったのは3人…酷いわね。軽く罠を仕掛けた人間が言うことじゃないのかもしれないけど、みんなわかるものだと思っていたわ。 …プラネタリウムは寝る場所じゃないのよ。簡単な問題ではないけど… 学んだ直後なんだから、みんなで正解してほしかったわね。
「…トレーナー、ヘヴンさん、グランさん、Dで正解よ」
「えっ!? ベガじゃないんですか!?」
「ベガじゃないし、ベガはVよ」
「コルなんちゃらだと…」
「私もそれとデネボラで迷って、アヤベさんの反応的にCにしてしまいました」
「…それはまぁ、仕方ないわね。プラネタリウムの空と実際の空では星の明るさは違うもの」
正解はD、デネボラよ。しし座の2等星ね… アークトゥルスとスピカと共に春の大三角、コル・カロリも加えて春のダイヤモンドを形成する星の1つね。 …ベガとは何の関係もないわ。
「あっちの星は?」
「あれがスピカ」
「じゃああれが、あーくとぅるす、ですね」
「そうよ」
「アヤベさん! もしかしてあれがベガですか!?」
「えーっと…」
「あの星はなんだろう…」
…忙しいわ。星の解説をする暇はないわね。
…翌日、安田記念。クラフトさんは3度目の敗北を喫した。
4着、タイム差は0.4。G1競走でこの結果は、誇るべき結果よ。私も、そう思っているわ。嘆くような結果では決してない。勝ちたいと思う気持ちはあっても、胸を張って掲げることができる結果。それはクラフトさんも、クロノさんも、みんなわかっているわ。
「次は必ず、リベンジしてみせます!」
「今日は相手を褒めるしかありませんが… この差は、埋められるはずです」
「ライバルが強くても、クラフトちゃんは超えられます!」
「そうです… 力の差は感じませんでした」
「あたしが、ティアラの無念を晴らします!」
「あなたは来週のメイクデビューからよ」
「2人がシニア級に来るまでに、安田記念も勝ってみせるから、頑張ってここまで来てね♪」
「…そうだね」
…トレーナー、ただ1人を除いて。勝者を讃える気持ちも、リベンジに燃える闘志も、トレーナーから感じられない。 …既にトレーナーの思いは、レースの外に向けられているのかしら。ずっと気にしていたものね…
もう、夏が来る。
…希望の夏にしましょう?
「ぶつぶつ…」
「…トレーナー、クロノさん何も食べてないわよね? …声、かけなくていいの?」
「かけないとなんだけど… あの空気、近寄りがたくてさ…」
「「……」」
「この場合がもっとも妥当ですが…」
「…キリの良さそうな時に声かけよっか」
「そうね… その方がいいわ」
〜4月後半