琴の音に耳を澄ませて 作:緑雨
…アドマイヤベガよ。今は、ネットで公開された合格発表を見ていたところ。 …トレーナー試験の1次試験のことよ。まぁ、結果は言うまでもないわね。一発で受かるとも思っていないもの。来年も、根気強く挑み続けましょう。
トレーナーとしての勉強に限らず、一般的な勉強も含めて、まだまだ学ぶことは無限にあるわ。時間は幾らでもある、切り替えてまた1年頑張りましょう。 …私にはもうチームはあるもの。サブトレーナーの地位に不満もないし、のんびりと目指していくわ。
『難しいよね…』
「そうね… 責任の重い仕事だから、厳しくしているんでしょうね」
『来年こそ! だね♪』
「別に来年じゃなくても良いわ。この資格を使う予定はないから」
『今のチームが大好きだもんね♪』
「…えぇ、そうよ」
『わっ、素直』
「…イヤホン外すわね」
『それはやめてー!』
外したりなんてしないわよ。大切な妹だもの、常に声を聞きたいと心から思っているわ。 …本当に、大切な妹だもの。
「…トレーナーに報告してくるわね」
『じゃあ、わたしはクラフトちゃんに会いに行ってくるね』
「また後で会いましょう」
『うんっ、また後で!』
それから、1週間が経過したわ。その間は特に珍しいことはなく、普段通りの日常だったわね。トレーニングは少し珍しかったけど、面白いものではなかったわよ。体内時計を鍛える為に、ストップウォッチ握りしめて目隠ししながら10秒で止めるトレーニングをしたり… 後は、判断力を鍛える為とかいって将棋の早打ちもやったわね。 …それでどれだけ鍛えられたのかは知らないけど、疲労を抜くことがメインの目的だからいいんじゃないかしら?
…もう10月末。クラフトさんのエリザベス女王杯は来月半ば、グランさんの阪神JFまで一月半、ヘヴンさんのデビューも近い… チームとしては忙しくなるわね。それに、ハロウィンとかクリスマスとか、イベントごとも多くて街も騒がしくなるわ。 …今年の年末はどうしようかしら。
久し振りに帰省しようかと思っているの。引退した頃に帰省してから、殆ど帰れていないのよ… 夏休みは合宿、年末年始は一昨年も去年もトレーナーと一緒… チームとして忙しかったのだから仕方ないのだけど、今のチームのこととか、1度親と落ち着いて話したいわね。 …向こうも、聞きたいでしょうから。
今でもチームは忙しいけど… トップロードさんやクロノさんもいるし、クラフトさんも後輩ができたからなのか、少し頼りになってきたわ。あの子達が帰省するなら、私が残らないといけないけど… グランさんとヘヴンさんも帰省するなら、私が残る理由もなくなるわ。 …2人が帰省せず、他が全員いなくなったら大変だけど、そうはならないと思うわよ。少なくとも、トレーナーは帰省するつもりはなさそうだし。
「…あなたは年末はどうする?」
『お姉ちゃんと一緒にいるよ?』
「じゃあ、一緒に帰省しましょうか」
『おぉ! ひっさし振りにお母さん達に会えるね♪ わたしは話せないけどっ♪』
「…そうね、あなたは話せないわね。この機械のことはあまり広めたくはないし… 何より、私がそんな物を持ってきたら困るでしょうから」
『確かに、ちょっと怖いかも』
…こういう時は、逆の立場で物事を考えるの。妹の存在に囚われ閉鎖的だった娘が、突如として『この箱から妹の声が聞こえる』と言って機械を手に帰ってきた。 …私だったら、産めなかった子供の声が聞けるなんてことよりも、娘のことが心配で仕方ないわ。
それに、この機械からの妹の声が本物だと証明できる根拠もないもの。 …私は初めて機械越しに話せた時から妹だと信じているし、その思いはクラフトさんのおかげで確信に変わったけど、それは証明できない。 …証明できない以上、妄想だとか、私の声を録音しただけだと言われてしまうと言い返せない。そんなことをお母さんが言うとは思わないけど… そんな不確かなことをお母さんに話せない。迷惑はかけたくないもの。
『せっかくだし、チームのみんなも呼んじゃう?』
「呼んでも誰も… 来ないって言おうとしたけど、撤回するわ。呼べば何人かは来そうだけど、実家について来られても迷惑よ」
『トップロードさんとか来てくれそうだね』
「間違いないでしょうね…」
…容易に想像がつくわね。トップロードさんと、トレーナーは誘えば来るんじゃないかしら。もしかしたら、クラフトさんやヘヴンさんも来てくれるかもしれないわね。 …少しだけど、嬉しい気もするわ。よほど親しくなければ、友人の実家なんて行かないもの。 …誘ったわけじゃないから、来てくれると決まったわけでもないけど。というか、誘わないけど。
「たーだいーまでー… アヤベさん、来てたんですねっ♪」
「私の部屋だもの、帰ってくるわよ…」
「でも、最近は全っ然帰ってきてくれなかったじゃないですか。今月なんて、今日で2回目ですよ?」
「それは… ごめんなさい。でも、これからは毎日いるわよ。 …用事も済んだから」
「それは良かったですっ♪」
〝用事〟というのはトレーナーのことよ。あの人が心配で長い間トレーナー寮に泊まっていたけど、もう私がいなくても大丈夫そうだから。夏合宿が終わってからも、トレーナー寮に泊まって様子を見ていたの。少し… 不安だったから。夏合宿の時、酷く
長い曇り空が晴れても、枯れてしまった大地はすぐには蘇らない。確かな陽光の下で、長い時を経てやっと草花は育ち始める。心だって、同じはずよ。絶望を超えて、希望が訪れたとしても… その希望が終わることなく、続くものだと確信できなければ、真に救われることはない。
何が言いたいのかというと… トレーナーがこんなに早く元気になるとは思わなかった、ということよ。例え悪夢が晴れて、クラフトさんと共に夏を超えても、元の状態に戻るまでは時間がかかると思っていたの。もちろん、ある程度はすぐに戻ると思っていたわよ。でも… 1人だけにしてしまうと、根強い恐怖に蝕まれて、生活に支障が出ると思っていたの。 …ある意味では、かつての私のように。
「…本当に、凄い人だわ」
「琴葉さんのことですか?」
「えぇ、そうよ。 …あなたも、あんなトレーナーに会えるといいわね」
「カレンはもうトレーナーは決まってま〜す」
「そうだったわね… どんな人なの? …あまり、聞いた覚えがなくて」
「だって、アヤベさん聞いてくれないじゃないですか」
「聞く理由もないもの… 聞いて欲しかったの?」
「…ちょっとだけ」
…長い話になりそうね。長々と全部聞かせるのもアレだから、私の方で纏めておくわね。
「──なんです♪」
「そ、そう…」
『良い話だったね!』
…纏めると言ったからには纏めるわよ。
前提として、決まってると言っていたけど、既に契約したわけでも、契約を約束したわけでもないそうよ。カレンさんが、絶対にその人と契約すると決めているだけ… カレンさん、やると言ったら曲げない人だから、他の人と契約するつもりないんでしょうね。路頭に迷っていたらチームリラで一時的にでも預かればいいか…
それで、その契約したい人のことだけど… 話によると、遊園地で出会った人、らしいわよ。幼かったカレンさんの夢を認めて、背中を押して、信じてくれた人で… カワイイの求道者たる今のカレンさんは、その人に出会わなければ無かったかもしれないと、そう言っていたわ。 …よくわからないけど。
容姿はもう年も経ったから違うでしょうけど… 銀髪の小柄な人だったらしいわ。 …あ、女性よ。ウマ娘ではないらいしわ。 …心当たりは欠片もないわね。恐らく、私の人生には存在していないわ。トレーナーに聞けばわかるかしら… トレセン学園にいるスタッフなら、トレーナーが詳しいでしょうから。ライバルチームのトレーナーなら尚更ね。 …私は他のチームに興味ないから。
「…もし見つけたら、教えてくださいね。カレン、すぐに向かいますから」
「覚えておくわね」
『お姉ちゃんだと関係ない人に声かけそうだから、わたしがちゃんと探すよ♪』
「…覚えておきなさい」
「お願いします… カレンも、頑張って探します」
…いつになく真面目な話をした気がするわね。内容はもう大体忘れたから、後で見た目だけメモを書いてもらおうかしら。 …それを頼むだけなら、話を聞き流していたとは思われないでしょ。
「──だそうよ。心当たりは?」
「……考えたけど、トレセン学園でそんな人に会った覚えはない、かな… ごめんね、役に立てなくて」
「大丈夫よ… もし会ったら教えて、カレンさんに」
後日だけど、トレーナーも心当たりはなし… そもそも、銀髪の女性自体珍しいわよね。ウマ娘にはそこそこいるけど… カレンさんとか、クロノさんとか。
「因みに、学園外では銀髪の知り合いはいるの?」
「1人だけいるよ。幼馴染が、銀髪で小柄で可愛かったんだ」
「一応聞いておくけど、遊園地でウマ娘を助けたような話を聞いたことはあるかしら?」
「ないないない、絶対にない。ウマ娘のウの字も知らないと思うよ」
この世界で生きていて、ウマ娘のことを全く知らないって、それはそれで珍しいわね… それも、トレーナーの幼馴染なのよ? …珍しいわね。昔知らなかっただけなのかもしれないけど、今でもウマ娘を知らないというなら会ってみたいわ。
「…本題に入ることにしましょうか」
「そうだね、エリザベス女王杯の作戦会議を始めよう」
「おー!」
ずっと放置してたけど、トップロードさんも横にいるわ。だって、チームスタッフで集まっての会議だもの。クロノさんはなぜかいないけど… 正直、作戦会議ならトップロードさんよりクロノさんの方が必要だと思うけど、用事があるんでしょうから仕方ないわね。今いる3人で進めましょう。
「知ってると思うけど、コース概要から。京都レース場の芝2200mで開催されるG1競走で、ティアラ路線のウマ娘にとっての最大目標となるレースだよ」
「2200mという距離が特徴的ね。正しく非根幹距離で、同じ長さのG1は宝塚記念のみ。誰にとっても、経験の少ない距離よ」
『お姉ちゃんも走ったことない距離だね』
「クラフトちゃんにとっては、過去最長ですよね」
「そうだね。秋華賞から200m伸びた、未知の世界。コース的にも、秋華賞が1番条件は近い… かな」
エリザベス女王杯は京都2200mで、秋華賞は京都2000m。どちらもティアラ路線のレースで、条件的にも関連性の深いレースね。秋華賞の走りのままに200m距離が延びたなら、結果は悪化するでしょうね。 …でも。
「1年前と今のクラフトさんが同じだとしたら、勝ち目はない。 …でも、そうじゃないから挑戦する。そうでしょ?」
「もちろん。その証拠に、去年と今年のトレーニングの比較を持ってきたよ」
「おー! 見ます!」
トレーナーは、それなりの根拠は持ってエリザベス女王杯を選択したようね。確実に適性のあるマイルCSではなく、初めての距離に挑むわけだから、根拠があるとは思っていたけど… こういうところは信頼できるわね。思いに流されるわけじゃなくて、データを出してくれると走る側も安心できるはずよ。
「私はいいわ。あなたが自信を持っているなら、私はそれを信じる」
「!! わ、私も信じます!」
「いや、折角まとめたんだから見てよ…」
「…そうね」
トレーナーが持ってきたデータは、坂路のタイムの比較ね。それも、1日で複数本走った時のものよ。特記されているのは、その日の1本目と2本目以降のタイム差。 …去年に比べて、今年は2本目以降のタイムが落ちていない、というデータね。もちろん、1本目のタイムが去年より遅くなっている、なんてことはないわ。トリックで良く見せたデータじゃなくて、ちゃんとしたデータよ。
「実際に長い距離を走ったわけじゃないから、参考にはならないかもだけど… それでも、私は信じたい。今なら、去年よりも良い走りができるって」
「私も、そう思います! クラフトちゃん、ずっと走って、すごく頑張ってました。きっと、走り切れます!」
「夏合宿中にでも試しに走ってみればよかったかもしれないわね。でも、過ぎたことを振り返っても仕方ないわ。今は、勝つ方法を考えましょう」
「…ごめんね。良い策を練るよ」
…詳しい作戦立案は出バ表が出てからかしら。結局、クラフトさんの作戦はいつも通りの先行策になるんでしょうけど… 慣れないことをして負けたら後悔するだけだけど、普段通りに走って負けたらそれを参考に今後を考えられるもの。負ける想定で話すのも嫌だけど、そういうのを考えるのも仕事… でしょ?
「距離不安なら、追い込みってどうですか?」
「少しは楽でしょうけど、後ろで走ったからってスタミナが急激に増えるわけじゃないわ。それに、中距離はその作戦に強みを持つウマ娘も多いし… リスクが高すぎるわ」
「…でも、私も追い込みは考えてるんだ。アヤベさんの言うことももっともだし、確実なのは先行策だと思う。 …でも、それで勝てるとは思えない。一か八かに賭けるなら、後方からの直線勝負だと思う」
「…クロノさんがいる時に、しっかり話し合いましょうか」
「そうだね、そうしよう」
バ群の先頭と殿では、各地点の通過タイムに数秒単位の差が出来るわ。その分だけ、後方の方がタイムが遅くなる。その方がスタミナは温存できるし、最終直線で力を出せるのだけど… クラフトさんにその走りが向いているのかしら? 例え上手く作戦通りにスタミナを温存できても、前を捕まえられる速度がないといけないのよ。追い込みがロマンと言われる由縁ね。
…まだ時間はある。勝てる策を考えましょう。
「…校内で迷うとは思わなかったわ」
『でも、三女神像だよ! ここならもうわかるね♪』
「そうなのだけど… どうして迷ったのかしら。迷うような場所を歩いていたわけでもないのに…」
『いつも通りトレーナー室に向かってただけだもんね。 …三女神様に引き寄せられてた、とか?』
「そんなオカルト… ないとは言えないわね」
11月1週の末、来週からの京都遠征の打ち合わせをトレーナーとしたくてトレーナー室に向かっていたのだけど… 辿り着いたのは三女神像のある広場。 …トレセン学園の構造を全部覚えた、なんて驕ったことを言うつもりはないけど、トレーナー室は行き慣れた場所よ。迷うとは、まさか思わなかったわよ…
『あっ! ヘヴンちゃんだよ、道聞きに行く?』
「ここからならトレーナー室の場所は確実にわかるわよ。聞かなくても大丈夫… だけど…」
…ちょっと様子がおかしいわね。三女神像の目の前で、放心しているように見える。何かあったのかしら…? 心配ね、声をかけに行きましょう。なんてことないと思うけど… 何かあった、では不味いもの。何もないことを、ちゃんと確認するわよ。
「ヘヴンさん、こんにちは」
「…あぁ、アヤベさん。こんにちは」
「遠くを見ていたけど、大丈夫?」
「特に問題はありません。ただ… 少し、不思議な感覚がして。ぼーっと、しちゃいました」
不思議な感覚…? より心配になってきたわ。本当に何も問題ないのよね…? トレーナー室にも行きたいけど、放って置くわけにはいかないわね。
「どんな感覚だったの? …私にも、教えてくれないかしら」
「はっ、はい! えっと… 体の中から、燃え上がるように熱くなってきて、体に力が満ちたような、不思議な感覚でした。 …すみません、説明が稚拙で」
「いえ… 大丈夫、なんとなくわかったわ」
『…クラフトちゃんも似たようなこと、なかった?』
…あった。思い出したわ。クラフトさんとトレーナーと、3人で三女神像の近くにいた時に、突然クラフトさんが静かになって… 不思議な感じで、力が湧き出てきたって言い出して、そのままみんなで芝コースに行ったわ。あの時は確か、クラフトさんが私みたいに、最終直線で不思議と速度が出るようになったのよね。 …妹がクラフトさんの背中を押してくれている、そう思ったことも覚えているわ。
『なんでかはわからないけど、速くなったんだよね』
「ヘヴンさん、今からトレーナー室に行くのだけど、一緒にどうかしら? トレーナーに声かけて、2人で走らない?」
「行きます。 …凄く、走りたい気分なんです」
デビュー前に強くなれたのなら、とても良いこと。思い違いだったとしても、気持ちよく走れるならそれでいいわ。走る楽しさを感じることが、何よりも大切だから。 …勝利は、その先にあるもの。追い詰められて走るより、楽しんで走るほうがいい。 …座右の銘にでもしようかしら。
「行くわよ」
「はいっ!」
「2人とも、お疲れ様」
「はぁっ、うあぁ…」
「どんな走りだったかしら?」
「先ず、タイムが良い。まぁ、それはコンディションが良いだけかもしれないから置いておくけど… 私が見た感じ、前とは全然違うように見えたかな」
「それは… どう、違いましたか…?」
走ってきたわ。いつもだけど、私は前でペースを作っているから、ヘヴンさんの様子はわからないわ。強いてわかることがあるとすれば… ゴールしてから振り返ったら、ヘヴンさんが凄まじい勢いで突っ込んできたことかしら。避けたからぶつからなかったけど、ゴール板を過ぎてからも減速しきれず勢いよく駆け抜けていったわ。急減速は危険だからそれでいいのだけど… 気迫があって、少し怖かったわね。 …普段は礼儀正しくておとなしい子だから、イメージが合わなくて。
「前半は、いつもと同じように見えたんだ。いつも通りの、イメージ通りのヘヴンちゃんの走り。それが良いとか悪いとか言いたいんじゃなくて、その… 不思議な力? は分からなかったんだけど…」
「最終直線、ですよね」
「いつの間に…」
「そう、最終直線。元々、末脚は良いものを持っていたんだけど、今日は磨きがかかってた。一気に伸びて、差も詰めて… 最後は少し止まっちゃったけど、それでも抜群の走りだったよ」
最終直線の、一気の末脚… ヘヴンさんの、元々の強みと同じね。それと同時に、私の強みでもあるわ。 …記憶違いでなければ、クラフトさんが三女神像から力を授かった時も、最終直線で脚が軽くなって力が出せたって言っていた覚えがあるわ。ヘヴンさんにも、同じ力が受け継がれたのかしら…?
「良かったです… アヤベさん、トレーナーさん、クラフトさん、ありがとうございます」
「こちらこそ、あなたの走りを感じられてよかったわ。 …トレーナー、来週の話をしたいからトレーナー室に行くわよ」
「はいはーい、2人とも、ばいばい!」
「頑張ってくださーい♪」
「…クラフトさん、あなたが呼んだの?」
「いや? アヤベさんに呼ばれて芝コースに向かってる時… 2人が着替えに寮に行ったから、私は1人で向かったじゃん? その途中であったんだ。アヤベさんを追いかけてきたらしいよ」
「そうなの…?」
「うん、そうだってさ。クラフトちゃん、三女神像の広場でアヤベさんとヘヴンちゃんを見て、声をかけようとしたら走って行ったから追いかけてきたんだ〜って言ってたから」
…クラフトさんも、あそこにいたのね。
「夏の暑さは過ぎ去って、少しずつ冬の空気が近づいてきた京都レース場に、快晴のもとティアラ路線を沸かせた女王たちが集結しました。最強世代の4強が久し振りに揃った一戦、順当か、はたまた波乱か! ティアラの総決算が始まります!」
「自信持って、駆け抜けてきな!」
「努力は嘘をつかない… あなたなら、輝けるはずよ」
「ティアラの頂点目指して! 頑張ってください!」
「距離の不安も、突破できるはずです」
「中距離でも、マイラーの底力を見せてきてください!」
「勝利の花が咲く時を、待っています」
「行ってきます!」
ティアラ最強世代の一角にして、最速の女王、ラインクラフト。スピードだけなら、誰にも負けない… 2200m、駆け抜けることさえ許されるなら、彼女に敵はいない。…楽しんできなさい。観衆をあなたの劇場に
ここまで、長い長い道のりだった。
心躍らせて、夢を叶えた1冠目。
覚悟を決め、夢を紡いだ2冠目。
誇りを胸に、夢を見せた3冠目。
わたしが思い描いていたトリプルティアラとはかけ離れた、3つのタイトル。でも、今はそれが大好きなんだ。わたしだから手にすることができた勲章。誰かの真似でなく、わたしが示したティアラの可能性。
トリプルティアラに憧れた少女は、自分だけの3つの勲章を手に、自分だけのトリプルティアラを作り上げた。きっと、綺麗に仕上がった物語だと思う。
…でも、わたしは、わがままなんだ。4つでも、5つでも、6つでも、何個でも勝利を重ねて、トリプルの先に辿り着きたい。
勝てば、みんなが喜んでくれるから。ティアラの強さを証明できるから。誰かに、思いが届くから。
それだけじゃない。
1番の理由は、わたしのエゴだよ。
もう1人のわたしに約束したから。
わたしの願いを叶えたいって、そんなエゴ。
…行ってきます。長い旅路に、1つ楔を打ち込もう。
「トレーナー、今いいかしら?」
「動画見てただけだから大丈夫だよ、どうかした?」
「あなたに伝えたいことがあるの。 …とても大切なことよ」
「!! だ、だめだよ、そういうのは段階を踏んでからじゃないと」
「…ふざけるならやめるわよ」
「じょ、ジョークだよジョーク。ごめんごめん、真面目な話だったね」
11月3週、トレーナーに用があって私室にお邪魔しているわ。トレーナーが見ていたのは… あぁ、エリザベス女王杯の動画を見ていたのね。 …伝えることはあるけど、動画を見てからにしようかしら。何度だって見たいもの。
「…その動画、私も見せて」
「いいけど… 用事があるんじゃないの?」
「緊急でもなければ、そこまで大切でもないから、動画を見てからにするわ」
「わかった、楽しみに待つね」
ちょうど、ゲートが開く直前ね。トレーナーがタイムシフトを合わせてくれたのかしら? …先にネタバレをするけど、クラフトさんはエリザベス女王杯を勝利したわ。サブトレーナーの私でさえ驚いてしまうような走りで、全てを置き去りにしてしまったの。
…文字通り、置き去りに、ね。
「本当に驚いたよね… まさかあそこまで行ってくれるとは」
「あなたが立てた作戦でしょう…?」
「そうだけどさ… 私を信じてくれたんだって、凄く嬉しかったな」
「あなた以外に言われたら行ききれなかったんじゃないかしら? …きっと、あなただから信じて貰えたのよ」
「そうだと嬉しいな」
レースの最大のハイライトは、スタートから1コーナー。クラフトさんが敢行した、適性無視の大逃げという奇策。シーザリオさん、デアリングハートさん、エアメサイアさんを中心とした有力勢が後方に控えた中で、抜群のスタートから一気に先頭を奪い引き離しにいったの。
「普通に考えたら、マイルが主戦場のウマ娘が中距離で大逃げなんてしたら疲れ果てるに決まっているわ」
「私も、それが怖かった。だからレース前なんて、不安で仕方なかったよ。負けたら私の作戦のせいだってわかってるからさ」
「…確かに、慣れない大逃げで沈んだらあなたの責任だったわね」
「まぁまぁ、勝ったからね♪」
「勝てば官軍、ね」
エリザベス女王杯… もとい、京都2200mは最初の直線が長い。だからこそ、誰でも前に行けるコースなの。 …にも関わらず、誰もクラフトさんを追いかけなかった。普段逃げていた2番手のウマ娘でさえ、クラフトさんを逃がして集団に残り自分のペースを刻むことを選んだの。誰もが最後に失速すると確信していたからこそ、追わなかったし、追えなかった。きっと、ここがターニングポイントだったんでしょうね。
この日のクラフトさんは、完璧なまでに仕上がっていた。普段と違って前に誰もいなくて走りづらいはずなのに、いつものように1コーナーで速度に乗って快調に飛ばしていったの。向こう正面に入ったときには、カメラに映らないほどの差… おおよそ、10バ身程度は離れていたんじゃないかしら。
10バ身もあると、後ろのウマ娘からは誰なのか認識することは難しいわ。クラフトさんは特徴的な跳ね毛があるけど、そんなもの必死で走っている最中には見えないもの。離れていく背中を見ていた2番手の子には前にいるのがクラフトさんだとわかっていたでしょうけど… 更に後ろにいたウマ娘達には、大逃げをしているのが誰なのか… それどころか、大逃げの存在にすら気づけなかったかもしれないわね。
「上手く後ろを離したよね…」
「そうね… ここまで離れるようなペースではないもの」
「最初に一気に仕掛けたのが良かったんだろうね」
「きっとそうでしょうね。クラフトさんの強みが、遺憾無く発揮されたわ」
クラフトさんが刻んだ前半1000mのタイムは1.01.5。1分1秒、そこまで速いペースではなかったの。それでも大きな差がついたのは、誰もクラフトさんを追わなかったから、で間違いないわ。 …この時点で、作戦は成功していたの。無理なく10バ身ものリードは作れた。クラフトさんに2200mを走り切る体力さえあれば、勝ち切れる。そう確信できるほどにはね。
そしてこの10バ身の差は、京都レース場の坂によって更に輝いた。向こう正面半ばからの長い上り坂は、ウマ娘の体力を奪う坂だけど… ある程度差が開いていると、まるで魔法のような奇跡を起こすの。
坂を上れば、当然高いところを走ることになるわよね。そうしたら、後ろのウマ娘にはどう見えると思う? 後ろのウマ娘は必死に走って、正面を見ているわけだから… 少し上に進んでいるクラフトさんは、どれだけ視力が良くても視界に映らない。観客席からはあれだけ目立つ大逃げが、走ってるウマ娘からは消えてしまうのよ。
それに、天運にも恵まれたわ。上位人気のウマ娘が後ろに固まった分、他のウマ娘の意識も自然と後ろに向く。差しや追い込みのウマ娘にとって有利な展開にはしたくない、そう考えてしまう。後ろが不利な展開は、前に有利な展開。大逃げのクラフトさんにとって最高の展開を、後ろの集団は作り始めていたのよ。
「あなたはあの坂も、この展開も頭に入れていたの?」
「もちろん! …なんて言えたら良かったんだけどね。そういう話は聞いたことがあったから、そうなればいいなぁって思ってはいたよ。でも、ここまで上手くいくとは思わなかった」
「嬉しい誤算ね。私も現役時代に知っていれば… と言っても、使う機会はなかったでしょうけど」
「アヤベさんが得意そうな距離のレースもなければ、スタートに強みも… ね」
「…自認しているけど、あまり言うと怒るわよ」
3コーナーを回って、4コーナーへ。長く登ってきた分、ここから一気に下る坂道に突入するわ。既に慣れない距離に到達していたクラフトさんにとって、この下り坂は助かったでしょうね。多少疲れがたまっていても、無理矢理速度に乗せてくれるのよ。とても苦しかったでしょうし、脚が重くなっていたでしょうけど… クラフトさんは、この下り坂を使って更に後ろを離し始めたの。
もちろん、後ろの集団も下り坂で加速してくるわ。ゴールも近づいて、この坂からロングスパート勝負が始まっていくわ。 …後続がスパートをかけた理由は、ゴールが近いから、そろそろ仕掛けないと先頭のウマ娘を捉えられない、そんな理由なの。ここからなら全力を出しても走り切れる、みたいに体力から逆算しているウマ娘もいるでしょうけど… この時になっても、みんなが目指していたのは集団の先頭。
そのまま最終直線。ここでやっと、集団のウマ娘はクラフトさんの存在に気がついたのでしょうね。後方から楽に上がってきたシーザリオさんを中心に、更にギアを上げてクラフトさんを猛追… それでも、ウマ娘には限界がある。どれだけ力があっても、200mを9秒で走ることはできないの。だから、クラフトさんが止まらない限りはもう絶対に追いつけない差だった。
…そして、クラフトさんは止まらなかった。はたから見てもわかるくらい疲れ果てて大きく減速していたけど、なんとか耐えきってくれたのよ。最後の200mは12秒9っていう酷いタイムだったけど、それでも十分だった。それだけのリードを作れていた。 …作戦が完璧に成功したのよ。
中団に控えて真っ向から勝負をしていても、クラフトさんには速い上がりを繰り出せるだけの体力は残っていなかったかもしれない。今回の勝利は… 大逃げという奇策を選んだことが最大の要因よ。奇策なんて、そう決まらないから奇策なのだけど… 決まれば勝てるだけの魅力があるから、誰もが考えるのよね。
「…何度見ても、気持ちのいいレースね」
「私もそう思うよ。 …で、話って?」
…そうだ、忘れていたわ。私はトレーナーに、大切な話があってきたの。 …そこまで勿体ぶるような話でもないし、軽く済ませてしまいましょう。
「年末年始の予定は?」
「ないよ、みんなでパーッと遊ぼうかなぁってくらい」
「それなら、私の帰省に付き合ってくれないかしら」
「…え、アヤベさんの実家に? 私が?」
「…そうよ。久し振りの帰省で、親を安心させたくて……」
「安心させたくて…?」
…自分で言うようなことじゃないけど、言わないといけないわね。
「…チームで孤立してないかって、心配されてるの」
「あぁ… でも、テレビとか、みんなで出てたりするよね?」
「もちろん、私の出たテレビは全部見てくれているわよ。でも… だからこそ、ね。トーク番組とか、あなた達がすぐ脱線するから、私が軌道修正するでしょ? それで… 私がチームの雰囲気に馴染めてないんじゃないかって」
「…ごめん、すぐ楽しくなっちゃって」
「いいわよ、怒ってるわけじゃないから。それに、私がもっと楽しそうに笑えればいい話だもの」
…親からの心配って、結構心に来るのよ。大丈夫だって、孤立なんてしてないって何度も言うけど、それでも心配されるから。それに、チームリラっていつも楽しく笑ってるイメージが強いみたいでね… 実際そんなチームだけど、私にそんなイメージはないから、無理してないかって聞かれることもあるわ。絡まれても適当にあしらっているから無理なんてしてないわよ。
「わかった、私も行くよ。 …ちょっと興味あるし」
「ありがとう… 興味があるっていうのは?」
「アヤベさんの家族とも話してみたいし、実家でのアヤベさんも見てみたいし…」
「…誘う相手を間違えたかしら」
「今からやっぱダメはなしだよ?」
「そんなこと言わないわよ。見られて困ることもないもの」
きっと、愉快な帰省になるわ。今から少しだけ楽しみね。家族に会えることも、家族にトレーナーを紹介できることも。チームの話とか、沢山したいもの。家族が欲しがるかもしれないし、みんなのサインも貰っていこうかしら。
…なんて、浮かれ過ぎかしらね。
〜11月後半
「新しいイヤホンを買おうかな…」
「音の聞こえ方でも悪くなったの?」
『わたしの生命線!』
「ほら、アヤベさんの実家に行くでしょ? だから、付けてても失礼ないような見た目の物にしたいなって思って」
「…確かにそうね。普段は厳かな場に立つ時はイヤホンを取ればいいけど、妹の声も聞きたい場所だもの」
『最高にスタイリッシュにしよう!』