琴の音に耳を澄ませて 作:緑雨
「さ、今年のトレーニングを始めようか」
「今年最初はウッドチップコースの5ハロンね。2人か3人ずつで行くわよ」
「私はクロノちゃんの時に併走すればいいんですよね?」
「そうだよ、みんなもいつ走るのかわからなくなったらアヤベさんか私に聞いてね」
「はーい♪」「はいっ!」「はいっ…!」
「お願いします」
どうも、ナリタトップロードです! 今日から、トレーニング頑張っていきますよ〜! 休み明けなので、まずは脚に負担の少ないウッドチップから始めていきます。ずっと体を動かしていない人が急に動くと大変な目に遭いますからね。 …1週間も休んだかなぁって感じですけどね♪ それでも、段階を踏むのは大切です!
…私もちょっとは太りましたからね。感覚がズレちゃってるかもです。そ、そんなには太ってないですよ? クリスマスもお正月も、美味しいものが多くて、ちょーっと食べ過ぎちゃいましたけど… それに私は現役じゃありませんから! もうレースは走らないので、ちょっとは太っても大丈夫です!
…クロノちゃん、ちょっと太った?
「あの、どうかしましたか?」
「…大きくなりましたね」
「あ、ありがとうございます?」
「うんうん、あたしから見てもおっきくなったよ♪」
「本格化したからでしょうか… 自分では感じないのですが」
本格化… そういえば、私も本格化してからたくさん食べるようになって、体も大きくなった気がします。 …気がする、ですけどね。
「ほら、準備して。スタートするわよ」
「はーいっ♪」「はい!」「おー!」
「設定タイムは1ハロン15秒、頼むわよトップロードさん」
「完璧に、刻みますよー!」
「はい、これ飲んで」
「ありがとうございます、美味しいです」
「ぷはぁー」「ふぅ…」
「ちょっと落ち着いたらまた走るからね。クラフトちゃんとヘヴンちゃんはアヤベさんの場所に向かって」
「はい!」「わかりました」
…タイム、ちょっとズレてますね。最後にちょっと加速しすぎただけなので、大丈夫だと思います。バ場とか気温のせいで上手くラップが刻めなかったってことでお願いします。肌寒い季節ですからね… 凍っちゃったら嫌なので、もうちょっと走ってきますね♪
「…そういえば、あかりさんはどこに?」
「あかりはたづなさんに連れてかれたよ。手続きとかしてなかったから」
「なるほど。あ、私もアヤベさんの場所まで走ってきますね」
「は〜い、怪我しないようにね〜」
行ってきまーす。
「トップロードさん、今いいかしら」
「大丈夫です!」
土曜日です、食堂で朝ごはんを食べていたらアヤベさんに話しかけられました。一緒にごはん食べるなら、隣いいかしら、ですよね。なので、何かの話だと思います。 …皆目見当もつきません!
「今からショッピングモールに買い物に行くんだけど、付き合ってくれない?」
「わかりました。今すぐでも、大丈夫ですよ♪」
「それなら、急いで準備しましょう。急ぐわよ」
「行きましょう!」
…何を買いに行くんでしょうね?
「ありがとう、全て買えたわ」
「荷物持ってただけな気もしますけど…」
「それでも助かるわよ、トレーナー室まで頼むわね」
「トレーナー室で使うんですね」
「そうよ、チームで使う予定だから」
確かに、そんな気がする荷物になりました。ペンのインク、ストップウォッチ、拡声器、叩くようのメガホン、クリップボード、などなど… トレーニングで凄く使いそうな気がします。
「こっちも終わったよ」
「お待たせしました…!」
お店まで車を出してくれた琴葉さんはもちろん、今日はあかりさんもいます。まだあんまり話したことないので、ちょっと分からない人ですけど… 三つ編みで長く揺れた銀髪が綺麗だなぁって、そう思います。
あかりさんは、自分用の道具を買いに来たらしいです。身一つで実家から出てきたので、筆記具から食器まで、全部揃えないといけないんだとか。今は琴葉さんのものを借りているらしいですけど、少しずつ揃えてるらしいですよ。
「それじゃあ、帰りましょうか」
「待って待って、これ貰ったんだよ」
「福引券ですね♪ 私も貰いました!」
「せっかくだし、引いてから帰ろうよ」
「おー!」「そう…」
アヤベさんは興味なさそうですけど、私は福引好きですよ。特等も1等も出ませんけど、もしかしたらを想像するのってすっごく楽しいです! …引くときは、出るって信じてますけどね♪
「2枚だけど、誰が引くの? …私は引かないわよ」
「引きたいです!」「引きます!」
「決まりだね、頑張って」
よーっし、頑張りますよー!
「アヤベさん、賭けをしようよ」
「何に、何を、賭けるつもり? 」
「2人の福引きに、車までの荷物持ちを」
「…乗った」
おぉ、アヤベさんが賭けに乗ってくれるとは思わなかったな。アヤベさんってこういうの『時間の無駄よ』とか『しょーもないわね』とか言ってきそうなのに。アヤベさんも賭けが好きなんだね。
「それじゃあ、あの2人が2等以上を出すかどうかで賭けをしよう」
「2等は人参一箱、1等は山盛りの人参、特等は温泉旅行券… 私は出る方に賭けるわ」
「おぉ、その心は?」
「1等が出たら運ぶのが大変だから。当たったら貴方に重い物を持たせられて、外れたらさっき買った軽い荷物だけ。逆に賭ける場合に比べてノーリスクよ」
無茶苦茶考えてるな… というか、普通に不味いんだけど。私、山盛りの人参なんて絶対に持てないよ? 一箱でも限界だけど… アヤベさんはウマ娘で力があるんだから、私にノーリスクな賭けをさせてくれればいいのに… いや、私から賭けを仕掛けたんだし、これは仕方ないか。
「わかった、それなら私は出ない側に賭けよう」
「確率的にはそっちが有利ね。 …トップロードさんもそこまで幸運ではないし」
「あかりは… あっ、やば」
「…運が良いの?」
「…賭け、やめない?」
「やめないわよ」
思い出した… あかり、運が良い。それも少しとかちょっとじゃなくて、とてもとか凄くでも足りないくらい、ものすっごく運が良い。忘れてた… あかりに賭けを仕掛けたらいけないってことを…! 仕掛けた相手はアヤベさんだけど、やばい!
お、落ち着くんだ私、私の知ってる幸運なあかりは数年前の話だ。今はもう違うかもしれないし、あかりにとっての当たりが温泉旅行券じゃなくてティッシュの可能性も… 流石にないな。いや、逆に温泉旅行券なら問題ないんだ。軽い… というか紙だから。中途半端に1等とか、絶対にやめて…
『おぉ!』
「カランカラーン」
「あっ」「あ…」
「2等賞の人参一箱が出ましたよー!」
「よしっ!」
トップロードさん…! 私の負けは確定したわけだけど、まだあかりも残ってる… というか、一箱もだいぶキツイけどね。駐車場って直ぐ側じゃないし、一箱でも相当重いし。これでもう一箱ってなったら終わりなんだけど…
…妹ちゃんの嬉しそうな声が聞こえた瞬間の絶望感、凄まじかったな。
『凄い凄い!』
「カランカラーン」
「うそ…」「えぇ…」
「なんと! 特等賞! 温泉旅行券が出ましたー!」
「それならいいや」
「凄い運ね…」
「やっったぁっ!」
…あの2人、何も不正とかしてないよね? あの2人に限って何もしないと思うけど、2等からの特等は疑いたくもなっちゃうよ。1等は出さないところが、よりそれっぽいし…
お店の人も大丈夫かな。今日から福引が始まったらしいけど、初日で目玉の商品を綺麗に撃ち抜かれたら集客とかには繋がらないんじゃ… …そこは頑張ってもらおうか。私達は客としてガチャを回しただけだからね。申し訳ない気もするけど、貰えるものを貰って帰ろう。
「おめでとう」「お疲れ様」
「ペア旅行券だよ! えへへ…」
「どなたと行くんですか!?」
「んんん………」
「あかりさん?」「あかり?」
「…一旦、持って考えます」
「それがいいわ。あなたの権利なのだから、落ち着いて考えなさい。 …たかが旅行券1枚、そこまで考えるものでもない気もするけど」
…あかり、どうするつもりなんだろう。私から福引券を貰ったから、とかみんなで買い物に来た時に、とか考えないで好きに決めて欲しいけど… そもそも、あかりの友人って私しかいないんだよね。もちろん、誘ってくれたら私は行くよ。あかりと出かけるのは好きだからね。大好きな親友だから。
「葵。さっきの旅行券だけど…」
「どうする? 私はどんな決定でも受け入れるよ」
夜。みんなと別れて、私とあかりだけ。
言い忘れてたけど、あかりは正式にトレーナー寮に入寮したよ。私と同じ5階の、509の部屋。私が散らかしてた物は全部片付けたよ。 …片付けたって言っても、508に全部移しただけなんだけどね。
「これは、葵がチームの誰かと使って」
「…気なんて使わないで、自分の好きに使えばいいんだよ?」
「これが使えるの1年だけみたいだからさ、私は使えないよ。勉強もたくさんしないとだし、チームで頑張ってる娘と旅行に行ったらきっと喜んでくれるから、ね♪」
「本当に? いいの? …勉強なんて、いつでもできるよ?」
「…ちょっとでも早く、葵に追いつきたいから」
「…わかった。いつか、2人で行こうね」
「うん、絶対。約束だよ♪」
…真面目だなぁ。1年あるんだから、期限が近づくまで待って、それから考えてもいいのに。
でも… この優しさが、実直さが、あかりだなぁって感じるよ。なんだか懐かしい… 嬉しい感覚。昔も、こんな感じだった気がする。あかりは運が良いけど、その運をみんなの為に使おうとする。だから、運が良くなるんだろうね。
…懐かしいな、本当に。
「…わかりました。こんどこそ、勝ってきます」
「頑張ろうね、勝てるだけの力はあるから」
…アドマイヤベガよ、トレーナー室でレーシングカレンダーを眺めているわ。今日はみんなで話し合いをして、それぞれの次走が決まったところ。クラフトさんは去年同様に高松宮記念を目指して、その前のトライアルは状態次第。グランさんは桜花賞を目指して、その前のトライアルを一度使うわ。 …2人ともG1を目標にしているから、奇抜なローテにはならないわね。よくある、基本のローテ。 …基本っていうのは良い意味よ、それが良いから基本になるんだもの。
意気込んでいたヘヴンさんだけど、ヘヴンさんだけは次走がすぐなの。来週の未勝利戦、京都の芝1600m戦になったわ。当日は日経新春杯*1が開催されるけど、私達が気にする必要はないわね。同じ日に中山である京成杯*2の方が、走る可能性はありそうね。クラシック世代限定だから今いるウマ娘は誰も走らないと思うけど…
「今年こそは、目指せ3階級制覇!」
「あたしも変則2冠、獲ります!」
「2人はじっくりトレーニングしていこうね」
クラフトさんの3階級制覇… 短距離とマイルは時の運で勝てる範囲だけど、中距離はまだ苦しいわね。去年エリザベス女王杯を勝てたけど… ああいう奇策は、一度やるともう使えないの。だからこそ、今年は力をつけて真っ向勝負で勝たないといけないわ。 …自信はないけど、目指すわよ。
グランさんの変則2冠は桜花賞とNHKマイルのことだから、既に現実的ね。阪神JFを勝って素質は証明したもの、後はここからの伸びしろ勝負。 …あの時は荒削りな面を心配したけど、今はその面が嬉しいわね。まだ伸びしろがあるという証拠だもの。
「…頑張ろう」
クロノさんはじっくりとトレーニングを続けるのみよ。デビューの時期も未定で、本当にゆっくりと進めていくつもりよ。焦ってもいいことがないのは、彼女もよくわかってるでしょうから、心配はいらないわね。
「…よさそうだね。それでは、今回の会議は終了! 私はトレッドミルの調整をするので、みんなはアヤベさんの指揮で坂路、行ってらっしゃい!」
『はい!』『はーい』
「おぉ、元気…」
『わたしの声が飲み込まれた…』
「ついてきて… と言わなくても、坂路の場所はわかるかしらね」
みんなの予定を話したから、ついでにスタッフ側の予定も話すわね。といっても、私もトレーナーもトップロードさんも、今までと変わらずやれることをやるだけだけど。クロノさんがやってくれていたデータ収集やら分析やらは、あかりさんが担当してくれるらしいわ。 …分析は素人らしいから、トレーナーが手伝うらしいけど。
…あかりさん、子供っぽい印象だったのだけど、私より年上なのよね。トレーナーと同級生らしいから、敬意を持って接しましょう。 …背格好だけを見ると子供らしいけど、子供にしては恵れすぎた体をしているし、落ち着いて見れば子供には欠片も見えないのだけど、それは内緒よ。
さ、急がないとトレーニングが終わらないから、行ってくるわね。
「お忙しい時期に申し訳ありません」
「いえいえ、気にしないでください。私もこうやって発信する場を頂けて助かっているんですから」
「それで、何を答えれば?」
週末、乙名史記者がやってきたわ。毎年恒例のG1予想の招待かと思ったけど、違うみたい。あんなものメールでも手紙でもいいから適当に日付と場所だけ書いて送ればいいもの、こんなに丁寧に対面で伝えるわけがないわ。
「今度、チームリラの特集を組みたいと思っていて、その為にトレーニング風景を撮影させて頂きたいんです。後日インタビューもよろしければと思っているのですが、どうでしょうか」
「乙名史さんなら、ご自由になさってください。 …もっとも、特集を組むほどの内容を提供できるかは自信ありませんが」
「そこはお任せください、記者としてチームリラの魅力は誰よりも知っているつもりですので」
特集、ね… 雑誌の一部に載るのか、一冊の本になるのかわからないけど、本になるならやっぱり表紙はトレーナーが飾るのかしら? 私は章と章の切替わりの部分の余ったページに写真が載るくらいが丁度いいわ。
「…そうだ、私から乙名史さんにお願いしたいことが1つあるのですが、良いでしょうか」
「私にできることであれば、どんなことでも仰ってください」
「乙名史さんはトレセン学園の周りも取材されているので、私よりもこのあたりに詳しいと思うんです。ですので、売られている家や土地があったら教えていただけませんか?」
「…はい…?」「引っ越しでもするの?」
唐突に、チームとか何も関係ない話題が来たわね。そりゃあ乙名史さんも素っ頓狂な声で頭に疑問符を浮かべてしまうわよ。乙名史さんはウマ娘やトゥインクル・シリーズの専門家であって、トレセン学園周辺の土地の専門家ではないし…
「色んなデータを集めていたら、部屋が狭くなってきたので、近くに家を買ってチーム関係の物をきちんと保管できるようにしたいと、そう思ってるんです」
「なるほど… わかりました、何か情報がないか調べておきます」
「ありがとうございます。もちろん、他の仕事を優先していただいて、そのついでで構いませんので」
トレーナー、本気で引っ越すつもりなのね。 …保管するためとか言ってるけど、私は知ってるわよ。あかりさんが寮の同じ階に入ったから、問題がないか1年に1度たづなさんが見回りに来るようになったって、焦っていたわよね。今年の末までに散らかしたものを片付けて、壊したものを直して、復旧しないといけないって青ざめていたわよね。 …私も家を買ったほうが良いと思うわ。寮は、あなたには狭すぎる。
「…アヤベさんも、見つけたら教えてね」
「業者に聞いて」
『わたしも調べて見ようかな』
私に聞かれてもね… まだ私、寮暮らしの高校生よ。高校生が大人相手に物件情報を持ってきたら怖いでしょ…
「…記事に書きますか? 琴葉トレーナーの為ならと売ってくださる方がいらっしゃるかもしれませんよ」
「あ〜……… お願いします」
凄く悩んだわね…まぁ、その気持ちも分かるわ。トレセン学園のすぐ近くなんて、超がつくほどの一等地よ。せっかく提案されたら断りづらいでしょうけど、トレーナーのお金だって無限ではないでしょうし…
…どれぐらい持ってるんでしょうね。トレーナーがどれだけ稼げるのかなんて、全く知らないわ。興味もなかったから聞かなかったし、今後も聞くつもりはないけど… 責任も重い仕事だし、儲かってるのかしらね。私には一銭も入ってないから予想もつかないわ。 …ルールで決まってるのよ、現役の学生の間はサブトレーナーでも報酬はなく、卒業後に学園から支払われる、ってね。
「琴葉トレーナーの理想の物件探しで番組を作るという選択肢も…」
「そこまでは流石に… 」
「で、ですよね。申し訳ありません」
…家のことは、進展があったら教えてもらいましょう。少しは気になるから。
「…因みに、今住みたい家のイメージは?」
「昔ゲームで見た錬金術師のアトリエみたいな建物がオシャレでいいなぁって。どでかい大釜とか憧れるよねぇ♪ 後は地下室とか、プラネタリウムとか…」
「……………」
「じょ、冗談だよジョーダン。普通の家が1番だから、ね?」
「…ほどほどに聞き流しておくわね」
乙名史さんが丁寧に冗談をメモしているようだけど… まぁ、冗談の家はおいておくとしても、見つかるといいわね。
「お疲れ様、よく頑張ったわね」
「…はい」
「大丈夫、次はきっと、ね?」
「はい…」
…数日後、ヘヴンさんの未勝利戦当日よ。 …追込は作戦としてリスクが高過ぎるわね。展開が向かなければ、どんな脚を繰り出しても届かない。ヘヴンさんは未勝利を勝てる力は間違いなくあるのだけど… どうしようもなく運がないわね。さっき確認したけど、靴の蹄鉄も取れていたし…
「私にはわからないけど、蹄鉄って大事なんでしょ? そんな状態で2着まで来たんだから、次は必ず勝てる、そうは思わない?」
「私もそう思ってるわよ、あなたはよく頑張った。まだまだ時間はある、次に備えましょう」
「…はい」
『結構、堪えてそう…』
そりゃあ、堪えるわよね… レース前から一強ムードで、ヘヴンさんが勝ち上がると誰もが思っていたもの。前走のパフォーマンスも、トレーニングのタイムも、臨戦過程も、1番良かった。 …絶対に勝てる、なんて空気だったけど、絶対なんて言葉はあり得ないの。トップロードさんくらい圧倒的でもない限りは…
「あーっ、今から、一緒にご飯食べに行かない?」
「…行きます」
「私もいいかしら?」
「もちろん、3人で行こう」
…妹も一応いるけど、3人だけって少し寂しい気もするわね。重賞でも何でもない未勝利戦だから、みんなを連れて遠征するわけには行かないのだけど… トップロードさんくらいは連れてきたほうが良かったかもしれないわね。明日のトレーニングの為にトレセン学園に残してきたのだけど、あかりさんがいる今ならトップロードさんを連れてきても問題ないし… 京都から今日のうちに帰る選択肢もあるもの。次からは呼べるだけ呼ぼうかしらね。
…行ってくるわね。たくさん食べて、悲しみとか悔しさを1度晴らしましょう。忘れてしまうのも良くないけど、引きずるのも良くないもの。
「トレーナー、失礼す…」
「家探し? へぇ…」
「あかりの要望もあったらここに書いておいて」
「………」
更に数日後よトレーナーから借りた本を読み終わったから、返そうと思って寮を訪ねたのだけど、間の悪い時に来てしまったようね。何で部屋じゃなくて5階の広間で話しているのかわからないけど、真面目な話をしているようだし、1度帰ってまた来ましょうか…
『何でも言ってくれれば、私が探すからね♪』
…妹もいるなら、少し聞いていこうかしら。誰も私に気づいていないようだし、適当な壁の裏に隠れて… いや、隠れる必要もないわね。普通に堂々と聞いてましょう、やましいことはないもの。
「大きな家で、キッチンも大きくて、3階くらいあって、プラネタリウムも欲しいなぁ。後は秘密の隠し部屋とか、地下室とか、庭園とか…」
「私のお金は無限じゃないんだよ? 都心にそんな家は無理だよ、特に庭園」
「それなら… せっかくここに来たんだし、現実的じゃないファンタジーな家とかも住んでみたいな〜」
『…やっぱり大釜?』
「おおがま…? はなんでもいいけど、お菓子の家とか、天空の家とか…」
「それはもっと別の世界に転生しないと無理じゃないかな?」
思ったよりも真面目な話じゃなかったわ。 …プラネタリウムと地下室はトレーナーも言ってた気がするけど、この2人の中ではマストなのかしら? 妹が大釜付きの家を探そうとしているのも不安だけど… ソレ、絶対にないわよ。
…というか、2人で住むのね。昔馴染で同じ街から上京してきたみたいだけど、そんなに仲がいいのね… 私ならトップロードさんと同居とか… まぁ、無理じゃないわね。誘いはしないけど誘われたら断らないわ。
「それじゃ、真面目にまとめよう。10個くらい理想の条件をリストに書いて、それをたくさん満たす家を探して、半年以内に契約する。 …夏には契約しないと引っ越しも間に合わないからね」
「物多いもんね… 私も探してみるよ」
『わたしも頑張るよー』
「話は済んだかしら? 借りてた本、置いていくわね」
「アヤベサン!?」「びっくりしたぁ…」
驚いた顔も見れたし、満足ね。 …本当に良い顔をしていたわ。写真にでも撮っておけばよかったと思うくらいには、ね。
「去年もなかなかだったけど、今年は更に気合いが入ってるわね」
「渡したい人がいるので♪」
「それ、誰なの? …最近、なんだかあなたも雰囲気が変だし」
「変って… どう変なんですか〜?」
「嬉しさと寂しさと悲しさと、後はやる気と闘志と根性に満ちたような雰囲気ね」
「属性が多すぎませんか…?」
「後半だいたい同じ系統だし…」
…1月末よ。カレンさんに呼び出されて、クロノさんとお菓子の試食をやってるわ。 …カレンさん、今年は最高のバレンタインプレゼントを作りたいみたいよ。誰に渡すのかは何度聞いても答えてくれないけど… 例の運命の人でも見つかったのかしらね。
…見つかったなら教えてもらいたいものだけど。探すのも手伝ったのだから、それくらいはね… このままだと、見つかったのかも見つかってないのかもわからない謎の銀髪の美少女を探し続ける羽目になるから、誰とは言わなくてもいいから見つかったのかは教えてほしいわ。
「もうトレーナー寮のキッチンを使うことを躊躇わなくなったよね…」
「バレた時はあなたも道連れだから、気軽に使えるんじゃない?」
「そりゃあ、ここを見られたら私が置いた機材が全部バレるけどさ…」
「ふんふふ〜ん♪」
「待ってる間、外見てますね」
『わたしも周り見てこよ〜』
みんな自由ね…
「あ、あかりから電話だ。ちょっと出てくるね」
「逃げないでよ」
「逃げないよ、カレンちゃんのチョコが食べたいからね」
「それなら私が逃げてもいいかしら」
「ダメだよ? 人に逃げるなって言ったんだから、ねぇ?」
「…言わずに逃げればよかった」
あかりさんは、乙名史さんと2人で街を歩きながら対談するって聞いてたけど… 電話ってことは、トレーナーに確認することでもあったのかしらね。行かなきゃいけないことなら、私が行きたいわね…
…逃げようとしてる理由もちゃんと言ったほうがいいかしら。カレンさんが張り切ってる時はね、だいたいロクなことにならないの。それも、いつも以上に張り切ってる時は尚更ね。それに、今回は私達にキッチンに入ることも許してくれてないのよ。本人曰く、私達が見たら止めるような物を使って、最高のお菓子を作りたいから、だそうよ。 …多分、迷作が完成するわ。
「ごめん、行かなきゃいけないみたい」
「私が行く」
「それは無理だよ、家の話だから」
「…もう進展があったの?」
「そういうわけじゃないよ。近くで業者の人と話せるから、話してみない? って誘われただけ。正直、全然決まってないことも多いから、話だけでも聞いてくるよ」
「この前言ってた家を探してるわけじゃないのね。大釜プラネタリウム地下室庭園付き一軒家」
「流石に無理だと思うからね… それぞれのコストとか、ちゃんと聞いてくる」
「…あまり止めるものじゃないわね。チョコが完成するまで、帰ってくるんじゃないわよ」
「それは食うなってこと…?」
私なりの優しさよ。チョコのことは忘れて、真面目な話をしてきなさいっていう。 …家に求める物は、どこまで削られるのかしらね。大釜とプラネタリウムと地下室と庭園は全て削られると思うけど…
…トレーナー、半年以内に家を買いたいって言ってたけど、それなら新しく建てるのは無理よね。拘りが強いみたいだし、設計図とか書いて新しく作ってもらうのが1番なんでしょうけど… 時間だけでなく金銭的にも無理なんだと思うけど、求めてる全てを兼ね備えた家はそうしないと無理でしょう? …私はそういうの詳しくないから、てんで的外れなことを言ってるかもしれないけど。だからトレーナーにコレを言うこともないわ。その道の専門家に聞いて。
良い新居が見つかったら、私も遊びに行こうかしら。いつになるかわからないけど、気になるもの。一体、どんな家になるのかしら…
「アーヤーべーさん♪ できましたよー!」
「たとえ奇妙な夢であっても、不意に現実に引き戻されてしまうと、夢に戻りたいと思ってしまうものね…」
「カレンのチョコが夢みたいってことですか?」
「それは認めたくない現実よ」
「ひっどい!」
「っ………」
…認めたくない現実よ。私の目の前に置かれた、妙に白いケーキがカレンさんの作った物だと認めたくないの。 …白いケーキというとショートケーキのようだけど、これはそんな生易しいものではないわ。クリームは白、スポンジも白、トッピングはフルーツだけでそれも純白よ。 …純白のフルーツって何?
「カレンさん、このフルーツは何かしら」
「マンゴスチンでーすっ♪」
「なるほど…」「はぁ…」
…名前は聞いたことがある気がするけど、味は知らないわ。ケーキに乗せるくらいなら甘いのかしら…? 次は… 食べる前に、スポンジのことも聞いておきましょう。お店で見たこともあるし、変なものではないと思うけど…
「スポンジ、白いものを買ったの?」
「白いスポンジも焼きました♪」
「そう… 何で白くしたの?」
「雪のように真っ白なケーキで想いを伝えたくて…」
「そう…」
雪のように、ね… 確かに雪みたいね、純白で。少し怖い… 正直、とても怖いけど、食べるわよ。ケーキなんて、レシピ通りに作れば妙な味にはならないはずよ…
「アヤベさん、お先にどうぞ」
「……一緒に食べましょう?」
「…わかりました」
…いただきます。
「あむ… んっ!」「はむ… うぇっ…」
「クロノちゃん!? 大丈夫!?」
「大丈夫… です…」
「…これ、何入れたの?」
「カレンの思い、です…」
『変なのものは入れてなかったよ?』
そんなはずはないわ… これ、食べられたものじゃないわよ。あまりにも甘すぎるの。人の惚気話を聞きながら砂糖を食べてるような気分よ… 砂糖が多いのかしら…?
「…使ったクリームは?」
「作りました! あそこにあります!」
「スポンジも、作ったんですよね?」
「うん! 甘くて美味しいと思ったんだけど…」
「…他に使ったものは?」
「普通のものだと思う…」『普通だったよ』
「ここに残ってるの、ですよね…?」
「うん、用意しすぎちゃって…」
ここに原因が… 砂糖とか牛乳、この果物は例のマンゴスチンかしら? 後はアラザンとか、普通のモノね…
…アラザン? トッピングはマンゴスチンだけだったわよね… これ、もしかして…
「…確かに、普通ですね。私が過敏だったのかも知れません…」
「アラザン、どこに使ったの?」
「食感を楽しんで欲しくて、スポンジの中に入れました」
「たくさん?」
「たくさん…」
やっぱり… 道理で見つからないはずよ。
「…アラザンって砂糖の塊なの。ただでさえ甘いスポンジとクリームに、アラザンをたくさん入れたら甘すぎるわよ」
「そうだったんですね…」
「でっ、でも! 私、アラザンを食べてないと思いますよ?」
「アラザンって溶けるのよ。だから、スポンジを焼く時に溶けて砂糖として取り込まれたのよ」
「なるほど…」『そうなんだ!』
「ごめんなさい…」
原因がわかってよかったわ… 特定できないと、何個も量産されるかもしれないもの。 …今できたコレは何とかしないといけないんだけど…
「失敗は誰にでもあるから、次に活かせばいいのよ。 …だから、次からは私に作ってるところを見せて」
「はい、先生!」
「先生じゃない! …さ、クロノさん」
「はいっ! …どうしました?」
「これ、どうする?」
「…食べられますか?」
「…誰か甘い物に強そうな人、知ってる?」
「いえ…」
…どうしようかしらね。捨てるのは嫌だし… エスプレッソでも淹れて、その中に沈めましょうか。ケーキには悪いけど、そうしないと食べられないわ… あ、クリームは普通に食べられるわね。エスプレッソに入れるならクリームの方が見た目は合いそうだけど、スポンジを沈めましょうか。
「カレンも、食べますね」
「気にしないで、あなたは満足いくまで作りなさい… 大切な人に渡すんでしょ? 私達のことは都合の良い何でも食べる機械だとでも思ってちょうだい」
「えっ…」
「…ありがとうございます! カレンも、頑張ります!」
「私、そこまで覚悟「さぁ! 頑張るわよ? ねぇ?」
「…はい」
…頑張るわよ。最初に言ったけど、カレンさんは最近、過去に類を見ないほど張り切っているの。ずっとカワイイだけを追い求めていたけど、それも拍車がかかった気がするし…
教えてはくれないから絶対とは言えないけど、カレンさんがずっと探していた運命の人に出会えたんだと思うの。カレンさんにとっての道標のようなその人に、私も会いたいけど… 教えてくれないってことは、それだけ大切ってことなんだと思うの。私にも言えないほど、カレンさんにとって大切な相手… そんな相手へのバレンタインチョコ。 …応援してあげたいでしょ?
…最初は逃げたかったけど、ここまで来たからにはもう逃げないわ。乗りかかった船よ、泥舟だろうと装甲船だろうと共に乗ってやるわ。カレンさんなら、沈んだ船でも漕ぎ出すでしょうから… 私だって、それくらいの覚悟は示すわよ。
「うぅ…」
『頑張って、クロノちゃん…』
「…ごめんなさいね」
クロノさんには悪いけど… もう、戻れないところまで来たのよ、私達は。
「んぐぐぐぐ…」
「服、限界なの?」
「ふ、太ったわけじゃないです! ちょーっと、遅れて成長期が来ただけで…」
「そう… 引退してから自堕落なんじゃない? 去年はもう少し抑えてたと思うけど、もっと節制したら?」
「うっ… 私が堕ちたんじゃなくて、アヤベさんが凄いんです! 誰でも、現役時代の感覚で食べちゃって太っちゃうんですよ!」
「…そう。トレーナーに頼んで、あなたを絞る予定も組んでもらうわね」
「…はい」
〜1月後半