琴の音に耳を澄ませて 作:緑雨
「ふんふふ〜ん♪」
「ご機嫌ね… 何か良いことでも?」
「そういうわけじゃないですけど… 来週はあの日じゃないですか!」
「…フェブラリーSではないわよね。何かあったかしら…」
「バレンタインですよ、アドマイヤベガさんも誰かに渡すんですか〜?」
「アヤベでいいわ。 …チームのみんなに渡すくらいね、義理チョコとか友チョコってやつよ。あかりさんは?」
「みんなに配りますよ〜! もちろん、アドマイヤベガさんにも♪」
…あかりさんはどうして頑なに私をフルネームで呼ぶのかしら。特に困ることもないし、変に略されるよりはよほどマシなのだけど… 私以外は短く呼ぶようになったのに、私だけはアドマイヤベガってしっかり言うのよね… 拘りでもあるのかしら? …ないわよね。自分の名前ならまだしも、同僚の名前に拘りを持ってたら少し怖いわ。
…聞くほどじゃないから聞かないけど。
「トレーナーには、特別なチョコでも渡すのかしら?」
「そうだねぇ… 久し振りだし、ちゃんとしたのを頑張っちゃうつもりだよ♪」
「…あかりさん、普段は料理ってするの?」
「するよー、一人暮らしの時は毎日自炊してたんだから♪」
「最近は全部私に任せきりだけどね…」
あ、トレーナー、そういえばいたわね。土曜のトレーナー寮なんだから居て当然だし、それもトレーナーの部屋の目の前なんだから、居てはならない理由なんて何もないのだけど… 朝から出かけていたから、帰ってきていたとは思わなかったわ。呑気に雑談していて気づけなかったのね…
「だって、葵の料理が食べたいんだもん♪」
「はいはい、幾らでも作りますよ…」
『仲いいね』
「今の会話に仲いいところあったかしら…」
「葵はバレンタイン、誰かに作るの?」
「チームのみんなに作るよ、甘くないクッキーを。 …みんな次第で変えるけどさ」
「私にもくれる?」
「あげるよ。 …わかってて聞いてるでしょ」
「まぁね♪」
今の会話は仲が良さそうだったわね。 …そんなことはどうだって構わないのよ。今日だって、理由なくここにいるわけじゃないもの。話を済ませたら、さっさと帰りましょう。
「トレーナー、週末にクルマを出してもらえないかしら」
「いいよ、どこ行くの?」
「ヘヴンさんを連れて、星の見える丘にでも行きたいと思ってね。今から誘うから、断られたら忘れてちょうだい」
「わかった、来週末ね… カレンダーに書いとこっと」
「2人がいないなら私もどっか行こーっと」
ヘヴンさん、先月のレースからまだ立ち直れていなさそうなの。もちろんトレーニングには真剣に取り組んでいるし、話していて笑うこともあるのだけど… 話しかける前とか、1人でいるところを見かけると常に暗い顔をしているのよ。下を向いて、元気なく歩いているし… メンタルが心配なの。
未勝利戦で2連敗、殆どのウマ娘がそうなんだから恥じることでもないし、2着に入っているのだから悲観する必要もないのだけど… 彼女の中では、勝たないといけなかったんでしょうね。未勝利なんて軽く突破して、重賞戦線で戦う… 夢に描いていた自分の理想とかけ離れた今が、悔しくて仕方ないんでしょう。 …気持ちはわからないでもないわ。同じ経験はないけど、負け続けた経験はあるから。
私には、妹という走り続けなければならない理由があった。走らないと、勝たないと、と追い詰められるのが良いと言うつもりはないけど… 今のヘヴンさんを見ていると、そんな理由が必要な気がするの。たとえ次で勝ったとしても、また負けが込んでしまった時に、彼女は諦めてしまう気がする。 …走ることを嫌いになってしまう気がする。
私は最初の頃はそんなことを考える余裕もなかったし、その頃は負けが込むこともなかったわ。ダービーの後は連戦連敗だったけど、ダービーを勝ったという自負と、レースを楽しんで妹に伝えたいという思いがあった。だから余裕があったし、負けても次へ次へと気持ちが切り替えられた。 …そんな余裕と、走りたい理由が、今のヘヴンさんには必要なの。
…でも、私にそれが何かはわからない。メンタリストでもなければ、催眠術が使えるわけでもない。だから… 彼女が、走ることを楽しいと思えるように、走り続けたいと思えるように、きっかけを探す手伝いをしたいの。例えるなら、難解なパズルを解く人に答えを教えるのではなく、より簡単なパズルを与えて解き方を学ばせたい。 …それが私の思いよ。
「…ケーキ屋でも寄ってみる?」
「それもいいわね…」
「えっ、ケーキ? 食べたい!」
「また今度の話だよ、今じゃない」
「そっか… じゃあ、作ったケーキ食べよっと」
「バレンタイン用ではなかったのね…」
「うん、バレンタインのは前日に作るよ」
…ヘヴンさんと話すこと、考えておかないと。
「さぁ、走りましょう?」
「えっと… 今日って、特訓だったんですね。 …頑張ります」
「特訓なんかじゃないわよ。今日は、ただひたすらに走る日。 …私の気が済むまで、付き合ってくれる?」
「もちろんです。どこまででも、お供します」
「私は車で待ってるから、あんまり遠くまで行かないようにねー!」
週末、だだっ広い野原よ。3年前にトップロードさんと来て、ある意味では特訓のようなことをした場所だけど… 今回は、特訓とはかけ離れた目的よ。だからゆっくり走るわ。
…私の気が済むまで走ると言ったけど、半分は本当で半分は嘘ね。だって、私の気にしているのは、ヘヴンさんのことだもの。ヘヴンさんの気が済んだら、私の気も済んだってこと。だから… 決めるのは私じゃなくてヘヴンさんね。そう本人に思わせたくないから、私の気の済むまでって言ったけど。
「こうやって誰かとずっと走っていると、昔を思い出すわね…」
「何か、思い出があるんですか?」
「菊花賞の後、自暴自棄になりかけた頃にね。トップロードさんに誘われて、2人でずっと走っていたの。 …今思うと、彼女も大切な時期だったのに迷惑をかけて、悪いことをしたって思うわね」
「…………」
「…良い思い出ばかりではないけど、大切な時間だったわ。少なくとも、あの頃が順風満帆だったら、今の私はいないもの」
「そうなんですね…」
「…適当に相槌してる?」
「ま、真面目に聞いてます!」
懐かしいわね… チームリラが出来る前、私が現役だった頃の思い出よ。今は思い出に浸りたい気分じゃないから、気にせず走り続けるけど…
「あなたは、私の走る姿が好きだったのよね?」
「はいっ! 凄く、勇気をもらいました」
「それは、私が強かったから? それとも、それ以外の何かに魅力を感じたのかしら?」
「…どうなんでしょう。ずっと好きで、今も好きなんですけど…」
「今の私を見ても、好きって言える?」
「それはもちろん、言えます」
「それなら、あなたは強さ以外のところに魅力を感じていたのよ」
今の私は、決して強いとは言えない。そこまで衰えたわけでもないし、クラフトさんにだって追走くらいは出来ると思ってるけど… それでも、ダービーを勝った時のような、相手を置き去りする圧倒的なスピードはもうないの。
それに、私を超えるような怪物なんて何人も生まれたわ。トップロードさんも、クラフトさんも、グランさんも、戦場は違えど私以上に支配的な強さを誇っている。少なくとも、今の私では絶対に勝てないわ。 …グランさんには勝ちたいけど。
「あなたから見て、私はカッコよかったかしら?」
「はい! とてもカッコよかったです」
「私は、そうは思わなかった。 …走っていて、自分がカッコいいとか、誰かに勇気を与えているとか、考えたこともなかったわ」
「そうなんですね…」
引退するまでは、ファンと話す機会も自分から作ろうとしなかったし、どちらかといえば拒んでいた。だから、知らなかったし知りようもなかったわ。…私が、私の思っているよりも多くの人に応援されていて、多くの人の心に残っていたって。
「私には、生まれることのできなかった妹がいてね。あの子の為に、あの子の分まで走ろうと、トゥインクル・シリーズを目指したの。 …だから、どれだけ苦しくても、足が壊れそうでも、進み続けた」
「………」
「でもね、それじゃあ耐えられないの。自分の思いを殺して走っても、いつか全てが無に帰して、心が壊れてしまう。 …ある日夢の中で、妹が語りかけてきたの。あなたはもう私の誇りだよ、だからもう苦しまないで、自分の為に走って… そんなことを、言われたような気がしたわ」
「………」
「救われたような気がしたわ。 …でもね、それと同時に、走る意味を失ってしまったの。私は何のために走ればいいんだろうってね。 …そんな時に、お節介な人が現れて、私の手を引っ張ってこう言ったの。私はあなたと走っていて楽しい。あなたは、どうですか? …確か、こんな感じだったわ」
「それが、トップロードさん…」
…なんだ、わかってるのね。
「…昔話は終わりにしましょう。最後に1つだけ、あなたに聞くわ。 …あなたは、何のために走ってるの?」
「それは…」
「何のためにトレセン学園に入って、何のためにトゥインクル・シリーズを目指したの?」
「………」
「…自分を忘れないで。自分の心だけは、壊してしまわないで」
…ぱっと答えは出ないかしら。無理に答える必要もないもの。 …でも、思い出してほしいの。ヘヴンさんにも、走りたい理由があったはずだから。少し負けたからって諦めたくなんてない、夢があったはずだから…
「…お父さんに、見てほしかった」
「……」
声が震えてる… 苦しいのね。話してくれてありがとう。でも、どういう意味かしら…?
「アヤベさんの妹さんの話は、何かで聞いたことがあったんです。だから… だから、あなたに憧れた。 私も… あなたみたいに、お父さんの為に勝ちたいって、そう思ったから」
「……え? それって…」
「…お父さんは、私の幼い頃に亡くなりました。あまり覚えていないけど… 優しいお父さんだったと思います。 …だから。天国のお父さんの為に、強くなって、自慢の娘になりたかった」
…そんなに背負っていたのね。 …想像もしていなかったわ。
「でも… 私は、弱いんです。お父さんに誇れるようなウマ娘には、なれないんです」
「本当に? …私は、そうは思わない」
「え…?」
…ヘヴンさんが言ったとおり、私はヘヴンさんと同じように、大切な人の為に走ってた。 …でもね。ヘヴンさんと私には、決定的な違いがある。
…私は、妹の声を聞いた。だから言えることがあるの。ヘヴンさんに、言わないといけないことがあるの!
「私の妹は、こんな事も言っていたわ。 …あなたが楽しく走っている姿が、何よりも見たい。私の為に苦しむくらいなら、私のことなんて忘れてほしい… って。あなたのお父さんも、同じことを思ってるじゃないかしら?」
「……」
「私も、あなたも、他のみんなも… 大切な人には、笑っていてほしいと、そう思うでしょう? …自分の為に勝ってくれたとか、どうでもいいの。ただ、幸せになってくれと、それだけを願っているのよ」
「…でも、私は… お父さんのために…」
「ただ強いだけの娘よりも… 自分の為にって、負けても立ち上がって、進み続けてくれる。そんな娘の方が、誇らしいんじゃないかしら?」
「……!」
あ… ヘヴンさん、全速力で走っていってしまったわ。 …って、止まってないで早く追いかけないと! 相手は全力で走ってるウマ娘よ… 追いつけるかしら…?
「待って」
「!? トレーナー!?」
「そっとしといてあげよう。 …きっと大丈夫だよ」
「…そうね。あなたはどうやってここに?」
「ヘヴンちゃんと大切な話をするって聞いてたからね… いつでも行けるように、妹ちゃんとずっと追いかけてたんだよ。2人ともゆっくり歩いてるから、私でもついてこれた」
「全部聞いてたなら、出てくればよかったじゃない」
「…ヘヴンちゃんには、私よりもアヤベさんのほうが良いと思ってね。私の言葉より、アヤベさんの言葉のほうがきっと響くから」
「そう… あの子は?」
「ヘヴンちゃんを追ってもらってるよ。何かあったら帰ってくるから、すぐに行こう」
「わかったわ」
…ゆっくり、歩いて帰りましょう。私も… 少し、頭を整理したいわ。ヘヴンさんのこと、偉そうに励ましたけど半分は勢いで言ってしまったし… それに、ヘヴンさんのこともちゃんと考えないと。彼女の抱えていたことを、もっと知らないと…
走る理由を見失っているものだと勝手に思っていたけど、実際は真逆で走る理由に縛られて追い詰められていた… 普段からもっと話して、知ろうとしましょう。それで知れるかはわからないけど… 知ろうとする、意思を持つ。それだけでも大切なはずよ。
…クラフトさんやグランさんも、何か抱えているものはあるのかしら。トップロードさん… は何もなさそうだけど、クロノさんだって何かあるかもしれない。カレンさんの昔のことも、私は知らなかったわ…
「さっ、ヘヴンちゃんはどこかな〜?」
「…あなたも、何か抱えてないでしょうね?」
「ないよ、あったらとっくに言ってる。最近は夢も見ないし、あかりとも会えたし… うん、本当に何もない」
「そう、それなら良かったわ」
「アヤベさんは?」
「ないわね。何も」
…取り敢えず、車に戻りましょう。妹かヘヴンさん、どちらかは居るでしょうから…
「アヤベさん、トレーナーさん。私、強くなりたいです!」
「任せて、私はその為のトレーナーだから」
「私も、出来る限りの全てを尽くすつもりよ」
「何年かかったとしても… 絶対に、重賞戦線に辿り着いてみせます!」
…元気になったようね。今はまだ遠くとも、努力を続ければ、必ず… 辿り着けるはずよ。
「バレンタインパーティーだーっ!」
「たくさん食べるぞー!」
「おーっ!」
2月14日、バレンタインデー。どうも、クロノです。 …毎回クロノジェネシスと名乗るのもアレなので、自分でも略していくことにしました。
今年のバレンタインも、チームみんなで集まってのパーティーです。私は前年と同じ、フェナンシェにしました。去年と変えたほうがいいとも思ったんですけど、去年ほど時間もなかったので、確実に作れるものにしたんです。
アヤベさんとグランちゃんも同じですね。クラフトさんは、少しカラフルになったような… ヘヴンちゃんは、今年は忙しくて時間が取れなかったので、簡単に作れるクッキーになったそうです。去年クッキーだったトレーナーさんがアップルパイになったので、ちょうど良かったかもしれませんね。
「……ふふん」
「カレンさん、凄いですね…」
「コレ、私達の分も作ってくれたのね…」
去年と全然違うのはカレンちゃんです。大切な人に贈ると言っていた真っ白なケーキを、私達のパーティーにも作ってきてくださったんです。 …大切な人には、渡せたんでしょうか。カレンさんは勇気のある方ですので、渡せずに終わるなんてことはないと思いますが…
…あ、トップロードさんは作り忘れたそうです。
「カレンちゃん、1つもらってもいい?」
「どうぞ♪ 1つと言わず、たくさん食べてください」
「私ももらうわね」
「もちろんどうぞー♪」
「私の金平糖もみなさん、たくさん食べてくださいね♪」
あかりさんは金平糖を作ったそうです。 …作り方は全くわかりませんが、焼き菓子とは全く違いそうですよね。片手間で食べられますし、データ収集のお供にも良さそうです。少しだけ勉強してみようかな…
「ん〜、甘い! 美味しい!」
「スマイル弾けちゃいますね♪」
「幸せ〜!」
…楽しく、いただいてきますね。
「いち、に、さん、し…」
「ふぅ…」
「少し休んだら、また行きますよー」
「はい!」「はい…」「はーい」
翌週、持続走をしています。 …持続走ってあまり止まって休むものでもないのですが、トップロードさんとヘヴンさんがどんどんと速く飛ばしていくので、私が疲れてしまって… 時折休みながら、頑張っています。
いつもはトレーナさんが後ろにいましたが、今日はあかりさんです。 …いつもペースを落ち着けてくれていたアヤベさんとトレーナーさんが2人ともいないので、速いのかもしれません。それか、私が本格化前よりも疲れやすくなってしまったか…
本格化で成長した結果、能力が落ちる… といったことは基本ありません。ただし、相対的にということはあります。短距離が得意なウマ娘であっても長距離を走ることは不可能ではありませんが、本格化前に比べて本格化後は得意距離と苦手距離の差が大きくなります。短距離が得意なウマ娘であれば、今までよりも短距離に適した身体に成長した結果、相対的に長距離が苦手になる、ということです。
私は、短距離向きなんでしょうか? …そんなことは考えたこともありませんでした。ですが、今の状態を考えると… スピードに比べて、スタミナが成長した感覚はありません。 …後で、相談してみましょう。
「──なんです」
「なるほど… それなら、もっとスタミナを意識したトレーニングを組んでみるよ。周りがみんなマイルからスプリントのウマ娘だから、トレーニングも自然とそっちに寄ってた気がするし…」
「持続走のペースに関してはトップロードさんにキツく言っておくわ。 …正直、私も見送っていて速いと思っていたから。だから、あなたが衰えたとか、そんな話じゃないわよ」
「わかりました。また、頑張りますね」
「うん、頑張ろう」
…どうやら私がスプリンターだというわけではないようです。
「…っと、こんな時間か。ごめん、今日は早めに失礼するね」
「もうトレーニングが終わって結構経った時間よ… これで早めに、なら遅い時はどうなるのかしらね…」
「あはは…」
「無理だけはしないでくださいね」
「大丈夫、みんなが助けてくれてるからね。 …じゃ、本当に失礼するね」
「いってらっしゃい」「さようなら〜」
最近、トレーナーさんは忙しそうです。トレーニング外のことなので、私は知りえませんが… チームの為に奮闘してくださっているのだと思います。初めて会ったときから、トレーナーさんはチームの為にと見ず知らずの私に声をかけたり、乙名史記者と話したり、張り込み調査をしたりと、プライベートな時間をチームに費やしていました。 …自分の時間を大切にしてほしいですが、きっとそういう性分なんだと思います。
「クロノさんも、早く帰って休むのよ」
「そうですね…」
「そう言って、帰らないのね?」
「調べたいことがあるので… アヤベさんが帰る頃に、私も帰ります。 …人に帰るように促しておいて、自分は帰らない、なんてことありませんよね?」
「…1本取られたわね。1時間以内にキリのいいところまで終わらせて帰る、そう決めるわ」
「わかりました、私もそれまでに済ませます」
アヤベさんは、トレーナー資格試験の勉強ですね。 …お互い、頑張りましょう。私はコラムを書くための資料集めですけど…
「頑張ってください!」
「いいとこ、見せちゃうよー!」
「落ち着いてよ? かからず、後ろからの意識だよ」
「負けてもいいから、後ろから、よ」
クラフトさんの阪急杯*1を見に来ました。トレーニングもしないとですので、当日の朝に新幹線で飛んできましたよ♪ クラフトさんの始動戦、見逃すわけにはいきませんから。チームの一員として現地で見る席があるのですから、行くに決まっています。
「いってきまーす」
「…作戦、追い込みなんですか?」
「うん。 …メンバー考えたら、慣れないことしてる場合じゃないんだけどね。キングヘイローにアズールスナイパーと、高松宮でも戦う相手が多いし…」
「それでも、後ろに行かないといけないもの。前走で飛ばして逃げた分、控える感覚を取り戻さないと…」
「あの代償は軽くないからね…」
時々言われることですね… いつもは控えているウマ娘が1度逃げの手を打ってしまうと、意識や感覚が変わってしまい、次走からも自然と身体が前に行ってしまう… 道中のポジションが前に前にと行くのは悪いことではありませんが、掛かるように前に行ってしまうとスタミナが持ちません。ですので、落ち着く感覚を取り戻す為にも… 極端な追い込みの作戦を選んだ、ということだと思います。
このレースの勝ち負けに拘らず、次走以降を見据えて適性外の追い込みを選択する… エリザベス女王杯の時も思いましたが、トレーナーさんってとても決断力がありますよね。 …私も、決断できるようになりたいなぁ。
「上に見に行ってくるわ」
「はーい」
…勝ち負けに拘ってはいませんが、せっかくなら勝って欲しいですよね。がんばれ、クラフトさん…!
「ぐえー」
「お疲れ様、よくやったよ」
「自慢の切れ味が錆びついていないようで安心したわ。本番に向けて、頑張りましょう」
「はい!」
…派手に負けました。1番人気で負けましたが、5着なので飛んだというほどでもありませんが… 追い込みを意識しすぎた結果出負けしてそのまま後方を追走して届かず、という負け方だったので目立ってしまいますね… アヤベさんの言うとおりの豪脚で追い込んだだけに、とても目立ちます。
「次は、頑張るぞ~!」
「おーっ! …かな?」
「お、おー!」
「クロノちゃんのメイクデビューの為にも、最高の流れ、作るからね♪」
「ありがとうございます…?」
「あなたの高松宮記念とクロノさんのメイクデビューは離れすぎよ… 間にグランさんもヘヴンさんも走るんだから、流れはチーム全体で作りましょう?」
「だね。帰ったらまた頑張ろう」
クラフトさんは、どれだけ負けても前に進み、辿り着く強さがあります。私も、そうならないといけませんね…
「………」
「なるほどなぁ… ヘヴンちゃんはどう思う?」
「えっ!? えっと… いいんじゃないですか…?」
「それなら決めちゃおうかな」
「そ、そんな責任は負えません!」
どうしてこんな目に…
クラフトさんのレースを見ていた時、あかりさんから来週末にお出かけしようと誘われたのは覚えているんですが… どうして私はこんなところに…
「ん〜、じゃあ後で葵に相談しよ。それに、次の家が良いかもしれないもんね」
「…あの、あかりさん。それなら最初から葵さんを呼べば良かったんじゃないでしょうか」
「葵にはサプライズ的に最高な物を見せたくて…」
「それでも、どうして私に… 私よりもアヤベさんとか乙名史さんのほうが見る目があると思いますよ?」
「…なんか、ヘヴンちゃんがいい気がしたんだよね」
そんな理由で…
「…そんな理由で、私を内見の相棒に選んだんですか?」
「うん! でも良かったよ、やっぱりヘヴンちゃんは良いね♪」
「私、特に何も言ってないですけど…」
「それでもいいの、なんか良い家に出会って考えられてる気がするか」
「は、はぁ…」
ここまで来たからには、最後まで付き合いますが… 家の内見なんてさせられても、私には何もわかりません。実家と寮にしか住んだことありませんし、気になって調べたこともありません。経験も知識もないんですよ、私。何を言えばいいのかすらわかりませんよ…
「あ、次が1番良さそうって言われてた家だ」
「誰かにオススメされたんですか?」
「あ〜、うん。詳しい人にね」
「…それなら尚更、私、いらなくないですか?」
「いる! 絶対にいるよ!」
私に拘るんですね… 前から次の家を知っていて、情報を持ってる方がいらっしゃるなら、その方に案内してもらうほうが絶対に良いと思うのですが… この家が良い、とオススメできる人なら沢山の家を見てきたプロでしょうし…
「私についてきてねー」
「はい、すぐ後ろについていきますよ」
「はじめまして、チームリラの紲星と申します。ご連絡いただき、ありがとうございます」
「どうも、この家の家主です。どうぞ、ご自由に中をご見学なさってください」
「ありがとうございます…」
「…ブルームトゥヘヴンさん、ですね。応援しています、レースも頑張ってくださいね」
「あっ、ありがとうございます!」
「それでは、私は外で待っておりますので、気の済むまでご自由に」
あかりさんが言っていた、良さそうな家です。家主のお婆さんが出迎えてくださいました。 …こうやって直接応援されると、嬉しくなりますね。そして、頑張らないといけないと、強く思います。
…家主さん、案内はしてくれないんですね。外から見ても大きな一軒家だと分かる家なので、案内してもらえると助かったのですが… 本当に立派な家なんですよ。キャッチボールくらいならできそうな庭のついた、恐らく2階建ての家です。トレセン学園の近くでこの大きさの土地と家… 私の手の出るレベルではなさそうです。
「玄関からまず廊下、良いねー。左がリビングで、右が… 何かの部屋かな。正面に階段があって、廊下の奥にも部屋がある… どこから見る?」
「右からでいいんじゃないですか?」
「オーケー、右の部屋は… 仕事部屋かな? トレーナー室に似た感じがするね」
「綺麗に整った部屋ですね…」
1部屋ずつ見ていきましょう。右手前の部屋が仕事部屋で、右奥が洗面所… 洗面所の奥に浴室もありますね。洗面所の向かいの部屋がトイレのようです。そして、廊下の逆側がリビング… キッチンも食事机もあるので、LDKが揃ってま…
「何アレ…」
「おー! これが例の!」
「えっ… えぇ…?」
「リビングにあったんだね、これは葵も気に入ってくれそう!」
「本気で言ってますか…?」
リビングの玄関側、キッチンから一番遠い側に、奇妙なものがあるんです。奇妙としか言いようがない、そんな代物です。 …家具として置いてあるんでしょうか? 取り付けられているようにも見えますが…
「1メートルくらいあるのかな。これぞ大釜って感じだね♪」
「普通の家に大釜はいらないと思いますが… こんな、魔女の家にありそうな大釜なんて…」
「ん、コレ横に動くな… ハッチ? …まさか、この先に地下室が… ある!」
「この家ってからくり屋敷だったんですか…?」
外から見たら、古風な雰囲気のあるオシャレで大きな家だったのに… 私に理解できないだけで、普通なんですか? …あかりさんが地下室に向かったので、私も追いかけますか。梯子なのですぐには行けませんけど…
「地下室は広い一室って感じか。小部屋もあるけど、特に面白くはなさそう」
「地下室に面白さはいらないと思いますよ… 隠し方を考えたら、面白い可能性もよぎりはしましたが」
「2階行こう、個室がたくさんらしいよ」
「あ、今行きます!」
地下室の梯子を登って、大釜を元に戻して… この大釜、横にスライド移動するんですけど、なんでそんな仕掛けを作ったんでしょうか。そもそも、何のために地下室を隠しているんでしょうか…
「2階は… 聞いてた通りの感じか。同じ構造の個室が4室とトイレ、部屋も広いし1部屋2人は住めそう… ヘヴンちゃんも住む?」
「えっ!? わっ、私がですか?」
「うん。まだこの家って決まったわけじゃないけど… 部屋も余るし、ヘヴンちゃんなら葵もオーケーだと思うよ。私もヘヴンちゃん、楽しくて好きだし」
「そうですか… 考えておきます」
…考えておきます。今の寮生活に満足しているので、引っ越したい思いはありませんけど… でも、楽しそうだとは思います。指導者と生徒が共に暮らすのが適切かはわかりませんし、ずっと気を使わないといけないので暮らしづらそうですが… 不思議とトレーナーさんとあかりさんと暮らすのが、嫌な感じはしません。お二人とも親しい感じがするからでしょうか…
「家主さーん! この家、本当に良い家ですね。来週、葵… チームリラのトレーナーを連れてきます。なので、それまでは誰にも、売らないでくださいね♪」
「もちろん、待っておりますよ」
「本日はありがとうございました」
「葵、良い家見つけた!」
「おぉ! どこ?」
「再来週末、行こう!」
「再来週末!? わかった、行くよ」
「行ってきます!」
「いってらっしゃい。楽しんできなさい」
「自慢の末脚で、全部飲み込んじゃってください!」
翌週の末、中山芝1200mの未勝利戦に行ってきます。 …今日のオーディエンスは、アヤベさんとあかりさんの2人だけです。グランちゃんのフィリーズレビューの裏なので、みなさんは阪神にいるんです。
「最後に電話、声だけ聞いてあげて」
『応援してるから!』
『お互いに頑張ろう!』
「…ふふっ、ありがとうございます♪ 良い報告、届けてみせます」
この1週間、身体も気持ちもベストな状態で今日まで進んでこれました。あかりさんに連れ回されたお陰か、不思議とリラックスもできたんです。 …もう、私を包む焦燥感はありません。父の為にと逸る気持ちを抑えて、自分らしく… その先に、全てがありますから。
…勝とう。天まで、私の思いが届くように。天からでも見えるほどの、大輪の花が咲くように。
『おめでとう! 明日、パーティーを開こうね!』
「そんな、気持ちだけで大丈夫です。それに、今はグランちゃんに集中を」
『あはは… グランちゃんもいつになく気合いが入ってるよ。それじゃ、こっちも終わったらかけ直すね』
「はい!」
…勝った。やっと、やっと… 遠かった1着に手が届いた。
お父さん、見ててくれたかな… 勝ったよ、私。 …ただの未勝利だけど、勝ったんだよ。これより先も… またいつか、絶対に辿り着くからね。
この後、近くの公園に行って3人でスマホを覗き込んで、グランちゃんのフィリーズレビューを見ました。勝ってくれると信じるファンと私達の思いに応えるように、次元の違う豪脚で全てを撫で切りました。 …同じ差し脚質なのに、自分とは全く違うと、痛感しました。
でも、今日はそんなこと忘れようと思います。私は勝った、グランちゃんも勝った。それだけで、十分です。
「…こんなに良い家、本当にこんな金額でよろしいんですか?」
「良いのです。未来ある若い方に住んでいただけるほうが、家にとっても本望ですから」
「ありがとうございます! せめてものお礼に、コレをどうぞ! チームのみんなのサインです!」
……翌週の末です。あかりさんに呼ばれ、トレーナーさんと共に例の家に舞い戻ったのですが… あの、どうして私はまた呼ばれたんでしょうか。今週は最初から休養の予定なので、困ることはないですけど… 他に予定もなかったですし。でも… どうして、また私が…?
「そうそう、つい先日のレース、拝見しました。ヘヴンさん、おめでとうございます」
「あっ、ありがとうございます!」
「それでは、家主様。契約書にサインさせていただきます」
「こちらの部屋にどうぞ、全て準備してあります。あかりさんとヘヴンさんは、もうご自由にリビングでくつろいでしまってください」
「ありがとうございます」「お気遣い、どうも…」
家主さんとトレーナーさんが、仕事部屋と思しき部屋に入っていきました… …リビングで、どうくつろぎましょうか。スマホは持ってきていますが、真面目な話をしている横の部屋でスマホを弄るというのも…
「このソファー、気持ちいいね」
「ですね… ふかふかとしています」
「ふわっふわって感じだよね♪」
「大きな窓から明るい日差しを浴びて、庭の草花を眺めながら、柔らかいソファーで休む… 幸せな休日になりそうですね」
「あの釜をかき混ぜてもいいんだよ?」
「遠慮します…」
釜は置いておいて、凄く快適な家です。実家も好きですけど… この家も、同じくらい好きになってしまうほどには快適です。学園にも徒歩で行けますし、駅も近くアクセスの面も良です。それでいて、広いリビングに綺麗なキッチン、冷暖房完備な個室がたくさん… 最高ですよね。
「住むかどうか、決めた?」
「そんな話もありましたね…」
「覚える価値もないって思われてた…?」
「そんなわけじゃないです! 忙しくて、考えられなかっただけで…」
「じゃあ、今決めちゃう?」
「えっと… それなら…」
寮での暮らしが、悪いと思ったことはないです。ルームメイトとの共同生活の中で培われることも多いですし、私も楽しく思っています。 …ですが、難しいと思ったことも多いです。負けた後は思い詰めることも多かったですし、迷惑をかけてしまった気もします。 …それに
「お二人と暮らしてみたいです。とても、学べることも多そうで… 新鮮で記憶に残る、そんな経験ができる気がするんです」
「…まぁ、確かに。私も葵も隔世の感があるし、良い経験は保証するよ♪ さっ、部屋決めよ!」
「はっ、はい!」
トレーナーさんも、あかりさんも、どこか私の住んできた世界とは違うような、新しい風をまとっているんです。 …私、挑戦するのは好きなので。そんな新しい場所で、新しい自分を見つけたい。そう思いました。
もちろん、お二人と暮らすのが楽しみな思いも強いです。話してても楽しいですし、面白いですから♪
「さっ、部屋決め… あれ? もう行った?」
「星が煌めくとき、星は人を見ていると思う?」
「さぁ… 星から地球の人々が見えるとは思わないけど、見ていてほしいとは思うわね」
「私は、見ていると思うんだ。星はみな、何かを見ている。そして、教えてくれる。私たちの… 可能性を」
(…どうしよう、何の話か全くわかんない)
〜3月半ば