琴の音に耳を澄ませて 作:緑雨
「改めて、これからよろしくお願いします!」
「よろしく、クラフトさん」「よろしく」
「早速だけど、トゥインクル・シリーズでクラフトさんがしたいことを、教えてもらえないかな?」
「わたしがしたいこと、ですか?」
…アヤベよ、トレーナーが無事にウマ娘をスカウトできて安心したところ。前にも言ったけど、私はスカウトさえできたら、どんなウマ娘でもいいと思ってる。勝利よりも… ターフを走る楽しさを知って、味わってほしいから。
今はクラフトさんと目標を決めているところ。私はあの子の為に走って、勝つことだけが目標だったけれど… クラフトさんはきっと、他に目標があるから。それを聞いてから、今後の出走レースを決める、予定なのだと思うわ。トレーナーの考えはわからないけど、きっとそう…
でも1つだけ心配なことがあるの。トレーナーは、クラフトさんの適性がマイルだって言った。 …私、マイルの走り方なんて教えられるかしら? それに、クラフトさんは前目でレースをしていた。私、追い込み以外わからないのだけど… 当分は夜中に勉強することになるわね、カレンさんには申し訳ないけど…
「わたし、トリプルティアラを取りたいです! 偉大なティアラの先輩方に、少しでも近づいて、みんなにティアラ路線の面白さを知ってほしいんです!」
「じゃあ、大目標は桜花賞・オークス・秋華賞の3つにしようか。次はそこまでの小目標… 言うならば、チェックポイントを決めよう」
「えっと… どのレースがいいのかはまだわからないです。あの、トレーナーさん、アドマイヤベガさん。わたし、どのレースが向いてると思いますか?」
「フィリーズレビュー*1、とか?」
「ティアラ路線は詳しくないけど… まずはジュニア級の
「じゃあ、今年はG3を走って、来年はフィリーズレビューから桜花賞、にします!」
…案外すんなりと決まるものね。トレーナー、知識は少し心配だったけど、トレーナーとしての資質はあるのかも… だからといって、私が手を抜いて良いわけじゃない。クラフトさんの為に、私も頑張りましょう。
「基本はそれでいこうか。一応、試してみたいレースが1つあるから、今後の結果次第では使ってもいいかな?
「紫菊賞*2… 秋華賞と同じコースのレース、ですよね」
…よく覚えてるわね。レース日程が書かれた資料、この部屋のどこかにはあるでしょうし、探しておきましょうか。紫菊賞と言われても、私はまだわかってないの。
「秋華賞というより、オークスを意識して、だけどね。一番の壁は距離だと思ってるから、早い段階で中距離を試して、確かめたい」
「オークスなら、
「百日草、後は
「わかりました、覚えておきます!」
「2000mのレースなら、エリカ賞*5もあるわよ」
「エリカ賞も候補だけど、時期的に他に走りたいレースもあるだろうから、理想としては使いたくはないかな。使うかもしれないけど、目標にはしたくない」
…よく覚えてるわね、本当に。私が覚えてないだけで、みんな覚えてるのかしら?
「…今、話さないといけないことは終わったかな? 今日はトレーニングはしないから、解散にしようか。改めて、ありがとう、クラフトさん。チームリラに来てくれて」
「今日はありがとうございました、明日からも、よろしくお願いします! 本当に、ありがとうございましたー!」
「…行ったわね。私はここで勉強するけど、あなたは?」
「私も勉強するよ。明日のトレーニングも考えないといけないから…」
…勉強熱心なのはいいことだわ。でも… 今のまま勉強するのは得策とは言えないわね。硬い椅子に座り続けるのは健康によくない。 …部屋から、クッションを持ってきましょうか。
…黙ってチームの部屋を出て、クッションを取って帰ってきた。 …それなのに、トレーナーは気づいてすらいない。集中しているのね。 …一応、話しかけておきましょう。
「クッション、使いなさい。体を痛めるわよ」
「ありがとう、アヤベさん。 …あのさ、1つ聞いてもいい?」
「…答えるかは、内容を聞いてから決める」
「答えられたらで問題ないよ」
…何を聞かれるのかしら。クッションのこと… なら、ここまで勿体ぶらないわね。現役時代のことかしら? それとも、トップロードさんのこと… わからないわ、このトレーナーの考えなんて。
「好きなもの、って何?」
「……聞きたいことってそれなの? 勉強に集中しなさい」
「ごめん… じゃあ、トレーニングの話をするね。この本によると、トレーニングは約2週間単位で同じことをするのが効率的らしいんだけど、本当なのかなって。アヤベさんはどうしてた?」
「…気にもしなかったわ。でも… それ、学園が用意した本なんでしょう? なら、それが正しい、と思う」
「じゃあ、月の前半と後半でわけて考えたほうがいいのかな。年で考えたら24ターンか… ありがとう、また何かあったら聞くね」
「…私からも、1つ聞いていいかしら」
「いいよ、何でも聞いて」
気になることは星の数ほどあるけれど… 特に聞きたいこと、1つだけあるの。初めて会ったときから、ずっと気になってたこと…
「珍しい髪色だけど… 染めてるの?」
「生まれつきだけど、そんなに変? 鮮やかな水色が珍しいのはわかるけど、こんな色のウマ娘だっているでしょ?」
「ウマ娘では見たことあるけど… あなたはウマ娘ではないでしょ?」
「うん、ウマ娘の血は一滴も流れてないよ。 …でも、言われてみたら、同じ髪色の人見たことないな…」
「…まぁ、染めてないならいいわ。 …嫌というわけではないから」
トレーナーの格好、触れないようにしてたけど気になってたのよ。きっちりとしたスーツに、青空のような髪色… 慣れないといけないわね…
「考えれば考えるほど、私の髪の色って不思議だね。双子の姉がいるんだけど、姉はピンクだったんだよ」
「…双子の姉、ね………… 仲、いいの?」
「仲はいいよ、毎日遊んでた。今は遠くにいるから会えないけどね…」
「……近くに来たら教えて、少し話してみたい。私も… 双子の、姉だから」
「それじゃあ、私も「私の妹には会えないわよ。もう… いないから」
「え… ごめん、アヤベさん…」
「気にしないで、謝ることじゃないわ」
……今する話ではなかったわね。別に、トレーナーにあの子のことを知ってほしいとか、そういうわけでもないんだから… あの子だって、トレーナーが私に頭を下げてる姿を見たいわけがないんだから…
「頭を上げて。急に変な話をして悪かったわ、あなたは気にしなくていいから」
「いや、本当にごめん… アヤベさんの気持ちも知らずに、姉妹の話なんかして…」
「私も言ってなかったし… それに、妹のことを引きずってるわけじゃないから。今は、あの子の分まで頑張ろうって思ってるし… だから、あなたは何も気にしないで」
「…今度、お供えでも買ってくるよ」
「…ありがとう」
…もう、あの子のことを引きずってない、本当よ。 …トップロードさんやカレンさんがいなかったら、今でもあの子の為に、自らの脚を壊してでも走り続けてたかもしれないけど… 今はもう、違うから。私が幸せじゃなかったら、あの子も幸せにはなれない… そう、思えるから。
「昔話はまた今度にしましょう。今は勉強よ、明日のトレーニングも決まってないんだから…」
「それなんだけど、併走してもらってもいいかな?」
「…私、先着しちゃうわよ」
「そこは、抑えてもらって… クラフトさんのレースを走る感覚を磨きたくてさ。そのうえで瞬発力を中心に鍛えたいから、2人で5ハロン追いをしてもらえないかなぁって。アヤベさんには6ハロン走ってもらう予定だけど…」
「…なんとなくわかったわ。私が後ろから来て、並んだらスタート。そういうことでしょ?」
「そう! それで、アヤベさんにはハイペースで入ってきてもらって、その速度を維持してもらいたいんだよね。クラフトさんには一気に加速してアヤベさんに並んで、その速度で走り抜けてもらう… どうかな、このトレーニング」
「いいんじゃない? ただ、それだけでいいの?」
「…確かに、軽すぎるのかな… 5ハロン追いの他にはフィジカルトレーニングもしようかな?」
「なんでもいいわよ、怪我をしないなら」
「わかってる、怪我だけは… 絶対に、させない」
このトレーナーなら、そういうと思った。好きなだけターフを走れるように… 怪我だけは、気をつけないといけない。クラフトさんが疲労を隠さないでくれたらいいけど… 疲労を見逃さない、そう思って見たほうがいいわ。私なら… きっと、言わないから。
明日からのトレーニングは“5ハロン追い”、か… ちゃんと決めたタイムを刻めるかしら。 …走るのが楽しくて速くなる、なんてことはしないわよ。ただ… レースでは追い込んでばかりだから、自分でペースを作ることなんてないもの。
「最初から坂路だと負荷が大きいかな… 初めはダートで、2週目を坂路、でどうかな」
「私はなんでも… ダート? 芝じゃなくて?」
「うん、ダート。脚への負荷も小さいし、予報だと晴れみたいだからある程度は力のいるバ場になりそうで、トレーニングに使えるかなって思うんだけど… どう?」
「構わないけど… 私、ダートを走れるか…」
「流石に、デビュー前のクラフトさんよりは走れると思うけど… 単走でもトレーニングになるし、アヤベさんは坂路の時だけ併せる、でも大丈夫だよ」
「…やらない、とは言ってない。やれるだけやってみるわ、無駄かもしれないけど…」
ダートの走り方、カレンさん… に聞いても意味はないか。トップロードさんなら知ってるかもしれないけど、時間を取るのは申し訳ないわね。少し… 走ってみましょう。今日は日曜日、選抜レースも終わってる、他に走ってる人なんて殆どいないはず。
「今から試してくる」
「行ってらっしゃい。無理はしないでね」
「無理に走って脚を痛める、なんてことしないわよ」
「わかってる。トレーニングのためのコースの利用申請してくるから、帰ってきて私がいなくても気にしないでね」
…思ったとおり、誰もいないわね。日も暮れて空に星が姿を現し始める、そんな時間… ジャージを着ている人もいない、トレーニングに使う予定の人がいないなら、勝手に使っても許されるわよね… 星々の下で走る… 久々、楽しみだわ。どのコースでもどこスタートでもいいけど… 適当に、ここにしましょう。
「アヤベさーん! 走るんですか? 併走させてください!」
「トップロードさん? トレーニングの後に、そんなに体を動かしても大丈夫なの?」
「今日はトレーニングしてないです! 今年の予定を決めるために呼び出されてただけで… 少し走りたくて来たんです」
「そう… それなら、構わないけど… 私が走るの、ダートよ?」
「ダート!? アヤベさん、ダートを走るんですか!? 新しいことに… すごい、すごい挑戦心です!」
「…後輩のトレーニングの為に走ることになったから試すだけよ」
「アヤベさんが、人のために… 本当、すごいです!」
「…あなたは私をなんだと思ってるの?」
レースで走ったことはない。生涯で一度もダートを走ったことがない、わけじゃない。でも、本気で走ったことはない。それも、隣に人を置いて走ったことなんて尚更。クラフトさんのトレーニングの為、なんて言ったけど… 走ってみたい、気持ちはあるの。
「本気で行くわよ」
「はい!」
ダートコースに入って、少し体を動かして… 真面目に走るなら、勝負服にしてくればよかったかしら。もうレースでは着ないんだから、こういう時しか機会もない… いや、今は空に星が輝いているもの。纏わなくても、星は見てくれている… はず。
「直線の中心がスタートで、ゴールもここ。丁度1周の勝負、左回り。準備はできた?」
「できてます! 人も集まってきたので、始めちゃいましょう!」
「…そうね、じゃあ… 私が投げたコインが、着地したらスタート。いいわね」
「はい!」
…勝ち負けは重要じゃない、あくまで私がダートを走れるか試すだけ。でも、負けるつもりはない。 …遠くから、少しずつウマ娘が集まってきてるわね… ダービーウマ娘と三冠ウマ娘が走ると聞いて走ってきたのかしら。 …少し申し訳ないわね、ダートで。あの子に、いい走りを見せられるように… 勝ちに行く!
「今!」「いまっ!」
スタートはよかった、恐らくトップロードさんと同時には出れた。だけど、砂に足を取られて上手く加速が… 落ち着いていきましょう、私は追い込めばいい。多少トップロードさんに離されたとしても、最後に前に出ればいいの… 今は、砂を蹴る感覚を掴む、それが優先…
第1コーナー、少しずつダートにも慣れてきた、コーナーでもこの走りを… 上手く走れてるとは思わないけど、最低限は速度に乗れてきたから、このまま突き進む! 第2コーナーも問題はない、ダートだろうと左回りはちゃんと曲がれるわ。トップロードさんは今… 見えた、6バ身くらい… この距離なら射程圏内ね、このまま…
…違う、この距離じゃ届かない。最終コーナーまでこの距離で捕らえられるのは芝の時だけ、今回はダートなんだから… もうすぐ第3コーナー、仕掛けるならここ! トップロードさんもきっとここで動く、でも… 捕らえきってみせる…!
「一気に… 捕まえる…!」
「負けません、から!」
流石は、去年の三冠ウマ娘、まだ伸びる… 差は縮まらなかった、でも… 最終コーナーを回りきって、5バ身差くらいまで来たのよ…! 模擬レースだとしても、あの子に… 勝利を捧げるの!
「瞬く間に… ケリを、つけるわ!」
「きた… それでも…!」
力を込めて、砂を沈んだ足で蹴り飛ばして、無理矢理にでも前に! 芝のように軽やかには走れないけど、舞い上げてでも、押し込んででも、踏み込んで砂を蹴る! 上手いとは思わない、正しいとも思わない、だけど… 今の私にできる、最善の走り方で、一気に!
「…うぁぁっ!」
「ふっ、はぁ… 届かなかった、わね…」
「ありがとう、ござい、ました… アヤベさん…」
「こちらこそありがとう、トップロードさん。少し… 疲れたわね」
「ですね…」
レースには負けた、あの子に勝利を届けることはできなかった… だけど、楽しかった。それに… 砂の走り方も、少しはわかった気がする。最低限、クラフトさんと併せられる程度には… 走れる、と思う。きっと…
「委員長すごーい!」「次どこ走るのー!」「頑張ってー!」
「…トップロードさん、ファンが多いわね」
「ダートでいいから復帰してー!」「アヤベさんまだ走れるよー!」「引退撤回してー!」
「アヤベさんのファンも、多いですよ」
「…困ったものね」
少しずつ人が集まってきているのはわかってた、だけど… 10人程度だと思ってたわ。私の予想が甘かった、100人はいそうね… ここまで囲まれてしまうと、帰ろうにも道がないわ… 応援は嬉しいけど、走った後は休みたいもの。質問に答えてる余裕はないわ。
「私もトップロードさんも疲れてるの、道を開けて… ありがとう、質問は今度答えるわ」
「応援、ありがとうございましたー…」
「…大変ね、あなた。模擬レースでここまで囲まれてたら、好きに走ることもできないんじゃないの?」
「ですね… 私、話しかけられると応えちゃうので、いつもはトレーナーさんが間に入って止めてくれてます…」
「…そのほうがいいわ」
…大変ね、トップロードさんも、そのトレーナーさんも。勝ち続けると、それだけ有名にもなるものね… 私は、そこまで有名にはなりたくないわね。1人で静かに星を見ることも… あの子に向けて走ることも、できなくなってしまうもの。私にとっては… 何よりも大切なことよ。
「今日はありがとうございました、アヤベさん。よければ、また併走してください!」
「…後輩のトレーニングの合間なら、いつだっていいわ」
「…気になってたんですけど、後輩って… アヤベさん、スカウトに成功したんですね?」
「トレーナーが上手くやったのよ、私は何もしてないわ 」
「そうなんですね… あの、よければ、なんですけど… 今度、その後輩さんと3人で天体観測に行きませんか?」
……トップロードさんとは、もう数年の付き合いなの。だから… 私に気を使っているって、わかってしまうの。私を1人には、したくないんでしょうね。最近は忙しくて、あまり人とも話さなかったし… 天体観測も、行けてなかったから… 別に、私は1人でもいいのだけど… そう言っても、トップロードさんは折れないでしょうね。
「別にいいわよ。後輩が来るかはわからないけど… 誘ってみるわ。空いてる日がわかったら… 教えて」
「今日でも明日でも明後日でも、いつでも大丈夫ですっ!」
「今日は無理、後輩の連絡先も知らないし… 明日聞いてみるわ」
「そうだ、後輩さんの名前… 聞いてもいいですか?」
「……ラインクラフト」
「ラインクラフトさん、ですね。覚えておきます! ……ふへへ、アヤベさんと天体観測…」
「…トレーナーを待たせてるから、失礼するわね」
「あ、はいっ! アヤベさん、また明日!」
「また明日」
…いつでも連絡を取れるように、クラフトさんの連絡先は聞いておこうかしら。でも、それでプライベートを縛ることになってしまったら… とりあえず、トレーナーが先ね。トレーナーの連絡先くらいは知らないと… 何かあった時、連絡がつかないと大変だもの。
……さっきまでが嘘のように静かね。1人も好きだけど、ここまで一変してしまうと少し寂しく… は、ならないわね。少ししたら、また騒がしくなるわ… 今はこの落ち着いた空気を楽しみましょう。ジャージが泥だらけね、泥を落として早く着替えて… 髪にも飛んでるし、お風呂にも入ってしまいましょう。
…ふぅ、さっぱりした。この時間のお風呂はいいわね、そこまで人も多くないし… 何より、騒がしくないわ。目立つ髪色じゃなくてよかった、知り合いに会わなければ話しかけられないもの。これがカレンさんやトップロードさんのような色だったら… あの2人の場合知名度もあるし、大変でしょうね。
…そういえば、トレーナーはチームの部屋にいるかしら? トレーニングのためにコース利用の申請を出してくる、とは言っていたけど… ダートを試すだけのはずが、しっかりと走って、それにお風呂まで行ったから、時間が遅くなってしまったのよね… もう帰ってるかしら?
「…失礼します」
「おかえり。どうだった?」
「ある程度は走れたけど… 待ってたの?」
「暇だからね… 他にすることもないし、アヤベさんを待ちながら勉強してたよ」
「…別に、待ってなくてもよかったのに」
勉強なんて、自分の部屋でもできるでしょうに。それに、もう日が沈んで空を星々が賑わす時間、トレーナーに定時退社の概念はないのかしら? …思えば、前にトップロードさんのトレーナーとも夜中に会ったわね。トレーナー業って… 大変ね。
「…明日のトレーニング、申請できた?」
「できたよ、他に使う人もいないみたいだったから何時間でも使っていいってさ。それとフィジカルトレーニングの為に機材も借りてきたよ。ほら、アレ」
「…トレッドミル、ね。よく運べたわね」
「そう、ランニングマシンことトレッドミルさん。たづなさんと2人で持ち上げて、リヤカーに乗せて運んできたんだ。トレセン学園のリヤカーは凄いね、これ180
「…よく持ち上がったわね?」
トレッドミル、私はあまり使わなかったから詳しくないけど… 借りられるような物なのね。学園のジムにある物とは別に、貸し出しされている… ということなのかしら。 …今度、少し使ってみたいわね。機材のことを知らないと、トレーニングのイメージもできないもの。
…そういえば、トレーナーがスーツにバッジをつけてるわね。トレーナー資格の証明になるバッジだったと思うけど、走りに行く前は付けてなかったような。 …気にしていなかったけど、クラフトさんをスカウトした時もつけてなかったのかしら? …まぁいいわ、今更気にしても仕方ないもの。
「…使いたい?」
「少し、気になっただけよ」
「使いたかったら好きに使っていいよ、今はだめだけどね? 体が万全の時なら、好きに使って」
「…今度、使わせてもらうわ」
「うん、わかった」
「…連絡先、教えてもらえる? 何かあった時のために、一応ね」
「オーケー、交換しよう」
…連絡先、これで3つ目ね。増えて嬉しい、ということはないけど… 繋がりが多ければ多いほど、あの子に語れる思い出話は増えるでしょうから。こうやって、1つずつ増やしていけば… やがて、星の数程の思い出を紡げるわ。いつかあの子に、届くように…
「…もう時間も遅いし、今日は解散にしよう。アヤベさんも、しっかり休んでね?」
「…休むわよ、本気で走ったから動きたくても動けないわ。早めに寝て… 早めに動くことにするわ」
「それがいいね。私も早めに来るよ、バ場を見て細かいトレーニングを考えないとだし」
「それじゃあ、さよなら。また明日」
「うん、また明日。今日はありがとう」
「…感謝されるようなことはしてないわ」
今日は… 長い、長い1日だった。 …一応、授業のない休日なんだけど。日が昇るより前から部屋を飾り付けて、月が昇ってもまだ終わらない、これが… トレーナー業の大変さ、なのかしら。私はトレーナーではないけれど…
「…ただいま」
「アーヤーべーさーん! 遅いですよぉ、待ってたんですよ?」
「特に約束もしてなかったと思うけど…」
「むぅ、何もしてないですけどー。スカウトしたんですよね? どんなウマ娘か、教えてくださいよ〜」
「…言えないわ、守秘義務があるの」
「嘘です! トップロードさんが教えてもらったって言ってましたー!」
「…口が軽い人に言うんじゃなかった」
トップロードさん… しっかり者の学級委員長、とは思えないわね。現役唯一の三冠ウマ娘で、インタビューも慣れてるでしょうに、
「…気のせいじゃない?」
「それは無理がありますよ?」
「はぁ… 迷惑かけないなら教えてあげるわ」
「かーけーなーいーでーすっ! カレンをなんだと思ってるんですか?」
「……ラインクラフトさん。背丈は私と同じくらいで、髪の上に白い… 特徴的な跳ね毛があるウマ娘よ」
「ふむふむ…」
「会わせたりはしないわよ。見てみたかったら… 自分で探しなさい」
「は〜い♪」
…探して会う気なのね、この娘は… …寝ようかと思ったけど、私ご飯を食べてないわね。でももう遅い時間だし、学食は閉まってるはず… 簡単に食べられそうなもの、近くのお店で買ってくる、しかないわね。
「…夜食、いる?」
「夜食なんて食べたら、太っちゃいますよ〜?」
「私は何も食べてないの、お昼も忙しくて食べれなかったし…」
「そうなんですか!? それじゃあ、カレンが何か作ってきますよ♪ 待っててくださいね?」
「…不安だわ」
でも、もうカレンさんは出ていってしまった… 寮のキッチンにいるのでしょうけど、追いかけるのも面倒… じゃなくて、カレンさんを信じて待つ、ことにするわ… 不安だけど、そうするしかないもの。不安だけど…
「アヤベさーん、扉開けてくださーい」
「ありがと… う…」
「美味しい、と思います!」
「…どうして、クラフトさんが?」
「キッチンで偶然出会ったので、手伝ってもらったんですよー」
「手伝いましたー!」
「そう… それなら少し安心だわ」
「カレン1人だと不安、みたいな言い方じゃないですか?」
「えぇ、不安よ」
「ひっど〜い!」「あはは…」
30分たって帰ってきたのだけど……これは黒ね。クラフトさんの前で何をしでかしたのか… 聞かないでおきましょう、少なくとも… 目の前にあるサンドイッチに見てわかる可笑しさはないわ。ベーコンとタマゴ、それとレタスかしら。 …これを、2人で作ったの? サンドイッチに2人で作るもの… ある? 分業して作るようものも… ないわよ、スクランブルエッグ以外何も作ってないじゃない。これを、2人で…?
「…1つ聞いておくわ。2人はそれぞれ何を担当したの?」
「わたしがベーコンとタマゴを焼いて…」
「カレンがサンドイッチにしました♪」
「特に変なもの、入れてないわよね?」
「感覚で焼きました!」「見た目には気を使ったよ?」
「……いただくわね」
2人には言えないけど… 心の中では、はっきりと言っておくわ。私も料理に自信はないけど、サンドイッチは手軽に食べられるから好きなの。自分でも作れるわ… そこまで時間もかけずに。だから不安なのよ、2人がかりで30分ほどかけて作ったサンドイッチ、不安しかないわ。普通に作っていたら… そんなにかからないわよ。
「どう…ですか?」「どきどき…どきどき…」
「…美味しいわよ、安心した」
「よぉーしっ!」「イェイ♪」
「喜んでるところ悪いけど、もう少しで消灯時間よ。クラフトさんは部屋に戻りなさい」
「はーいっ、また明日!」
「ばいば〜い♪」
…勉強は、明日にしましょう。食べきったら歯を磨いて、すぐに寝る… それがいいわね。今日は、少しだけ… 気持ちよく眠れそうだわ。
…おやすみなさい。
「…で、反省の弁は?」
「ごめんなさい… 勉強してたら眠くなって… 寝落ちしてしまいました」
「それでここで眠ったと… 人にはしっかり休めと言っておきながら、自分は私室に帰りすらしなかったのね?」
「ごめんなさい…」
「別に… 怒りたいわけじゃないわ。ただ… 情けないと思っただけ」
「はい…」
…おはよう。今は朝の6時頃、早朝に本でトレーニング学を学んでからチームの部屋に来たの。一応、トレーナーに朝の挨拶をしようと思ってね… そしたら寝てるところを見てしまったのよ、残念ながら……他の人よりは私でよかった、とも言えるわね。今日はたづなさんやクラフトさんも部屋に来るでしょうから… まだ私でよかったわ、昨日勉強していたところを見ていた私で。クラフトさんに見られでもしたら、『トレーナーは机で寝る変な人なんですね』なんて思われるかもしれないもの。私は… トレーナーが変な人なのはわかってるから。
「後少ししたら教室に行くけど…あなたは、ちゃんと休んでおきなさい」
「うん、わかった」
「…あなたは、自分の部屋に戻りなさい」
「…アヤベさんが行ったら行く、なんて言っても心配させちゃうね。今から帰るよ、もうここは出る」
「ええ、そうして」
「…優しいね、アヤベさん」
…心配して言ったわけじゃないわ、私のチームのトレーナーとしてしっかりしてもらわないと、評判に関わるもの。トレーナーがどう思われても、私がどう思われてもいいけど… クラフトさんもいるのよ。デビュー前から評判を落とすのは、避けないといけないわ。ここですることもないし、教室で自習しようかしら?
「トレーナーさん、失礼します」
「私しかいないわよ。クラフトさん、どうかした?」
「トレーニングの予定を教えてもらおうと思って… トレーナーさん、いないんですね」
「…トレーニングの予定なら私から話せるわ。ダートを走るから、汚れてもいい運動服を着てくるように… これでいいかしら?」
「はいっ! 失礼しましたー、アヤベさんもありがとうございます!」
「当然のことを… 今、私のことをアヤベさんって… もういない、か」
…カレンさんね、トップロードさんの説もあるけど… 昨日カレンさんと話してた時に吹き込まれたんでしょうね。別に、どう呼ばれてもいいのだけど… 私を〝アドマイヤベガさん〟って呼ぶ人はもういなくなるのかしら? 近いうちに、知らない人からもアヤベって呼ばれるのかしらね。 …昨日、私のことをアヤベって言ってる人、いたわ。
「アヤベさんのトレーナーさん、お願いがあってきました!」
「…私しかいないけど、どうかしたの? トップロードさんまで…」
「アヤベさん! えっと、クラフトさんの予定を聞きたくて…」
「…どうして?」
「天体観測の話、昨日したじゃないですか。それで、予定が知りたかったんです!」
「そういえば… 今日はダートコースを走った後はこの部屋でトレーニングだから、その時ならクラフトさんもここにいるけど… 私から誘うから気にしないで大丈夫よ」
「いえ、私にお任せを! ありがとうございました、アヤベさん、また後でっ!」
「…また後で」
…トップロードさんは何をしたかったのかしら。クラフトさんが自分の予定を聞きに来るのはわかる、自分のことだもの。ただ、トップロードさんは聞きに来る理由、ないわよね? 昨日、私から誘うと言ったと思うのだけど… まぁいいわ、直接誘いたいのかもしれないもの。 …一応、トップロードさんは他のチーム、今後敵になるかもしれない相手なのよね。トレーニングの予定、言わないほうがよかったかしら? …まぁ、今更よね。なんなら、私もトップロードさんのトレーニングを知ってるもの。向こうから全部話してくるから、勝手に。
「アーヤベさーん♪ おはようございます♪」
「…あなたは
「朝起きたらいなかったから、探しに来たんですよ〜? 何してたんですか?」
「面倒な客人対応… あなたも含めてよ」
「ひど〜い、心配して探してたのに〜。今後は朝、早いんですか?」
「えぇ、6時にはいないと思ってもらって構わないわ。それと… 心配させて悪かったわね、それは謝るわ」
「は〜い。会えて安心したので、カレンは帰りますね〜。頑張ってくださ〜い♪」
…授業の時間までには教室に行かないとだけれど、まだ誰が来るかもしれない、そう思うと動けないわね。クラフトさん、トップロードさん、カレンさんと来たら、次は… たづなさん、かしらね。来るとしたら、だけど。
「ただいま、誰か来た?」
「おかえり、3人来たわよ。あなたは… もう大丈夫なの?」
「お風呂も入った、洗濯もした、ご飯も食べた、もう大丈夫だよ。今日一日戦えるよ。誰が来たの?」
「クラフトさんにトレーニングの予定を聞かれたから答えて、トップロードさんにも予定を聞かれたから答えて、カレンさんは私を探してきた、感じね」
「なるほど… え、トップロードさん?」
「…気にしないでいいわ、あなたには関係ないことよ」
「わ、わかった。私はこれからトレーニングの準備をするけど… アヤベさんは授業かな?」
「ええ、そうよ。暇な時間はすぐに来るから、ここで寝ないように」
「わかってる、もう大丈夫だから」
「そう… 行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
カレンさんの後は誰も来なかったわ。少し本も読めたし… 時間的にも、教室に行かないといけないわね。 …色々と不安なことはあるけれど、進むしかないの。今日も… 頑張りましょう。
「アヤベさん! これからトレーニングですよね? トレーナー室まで、ついて行ってもいいですか?」
「…あなたのトレーニングは?」
「昨日勝手に走ったので… 今日は休めと言われました」
「そう… 人が集まってこないなら、好きにしなさい」
午後3時を過ぎた頃よ。今日の授業は終わって、今からチームの部屋… トレーナー室の方が言いやすいわね。トレーナー室に行くところ。少し調べてわかったことなのだけど… 大抵のチームは、平日は軽いトレーニングしかしないらしいわ。それで、休日に1日フルで使ってのハードトレーニング、なんだって。 …平日は授業があるのだから、当然と言えば当然ね。
休日のトレーニングに関しては、この後トレーナーに相談するわ。ダートを1本走ってそれからずっとトレッドミルでは… 少し、味気ないと思って。私はそれでもやるけど、今回トレーニングするのは私じゃないもの。 …トップロードさんも来てくれているわけだし、トップロードさんに意見を貰えればいいけど… 流石に、そこまで塩はくれないかしら。
「失礼します」「お邪魔します…」
「アヤベさん… と、トップロードさん」
「…トップロードさんは暇だから見学に来ただけよ。クラフトさんは…」
「はい! ちゃんといますよ! トレーニングの内容もわかってます! ダートを1000m、ですよねっ」
「…トレーナー、私はどれくらいのタイムで走ればいいの?」
「えっとね… 最初は1ハロン15秒くらいで試してもらえるかな?」
「…やってみるわ」「はい!」
1ハロン15秒、少し遅い気がするけど… 1000mで75秒、というとかなり遅いわね。ダービーの2400mにすると、180秒。つまり3分。本当に遅いわね、芝とダートの違い、私とクラフトさんのダート適性を考えても… もう少し早いタイムでいいと思うのだけど… トレーナーにも考えがあるはずね、今日は従いましょう。意見を言うのは… 走ってからでいいわ。
「それじゃ、初めてのトレーニングに行こう!」
「おー!」「お、おー!」
「…言わないわよ」
トレーニングの準備はしっかりした、はず。さぁ行きましょう、ここから… クラフトさんを導くの。夜空に輝く一等星のように、強く… 何かを、成せるように。
次から、トレーニングの話になるわ
1話で時間が一気に進むことがあるから、テンポは良くなる… と思う