琴の音に耳を澄ませて 作:緑雨
「アヤベさんは、誰かに作るんですか?」
「…渡さないで面倒になっても嫌だから、5つだけ」
「5つも! カレンにも、くれますか?」
「私の知り合いの数を考えればわかるでしょうに… あなたに渡さないなら、4つで済むわ。わざわざ言わせないで」
「じゃあ、残りはトップロードさんと、クラフトちゃんと、琴葉さんと… 妹さん、ですね」
「…えぇ」
2月1週の土曜日。気が向いたからカレンさんの買い物に付き合ったのだけど… 最悪のタイミングだったわね。こんな時期の買い物なんて、バレンタイン関連に決まってるもの… 今年はカレンさんのお菓子作りから逃げ… 他の人に試食を変わってもらおうと思っていたのに、これじゃあ私がやらされるわ。バレンタインは再来週の月曜… 作るのは直前の土日ね、なんとかして逃げられないかしら?
「今年は2人で作りましょうね、アヤベさん♪」
「…トップロードさんに誘われたから、遠慮するわ」
「…今考えましたよね? 確認しちゃいますよ〜?」
「…わかったわよ、やればいいんでしょ」
「…嫌なら、大丈夫ですよ?」
「あなたがちゃんと作ってくれるなら嫌じゃないわ」
「カレンだってちゃんと作りますよ!」
…あぁ言われてしまうと、逃げられないわね。似合わない泣きそうな声で頼まれたら断れるわけないでしょ、普段からお世話になってるのは私の方なんだから。それに… 別に、一緒に作るのが嫌というわけではないもの。 …試食担当、別で捕まえてくれば良いわね。カレンさんは時折、変なものを入れるから… ちゃんとレシピ通りに作ればいいだけなのに、作れないタイプなのよ。 …私も料理に自信はないけど。
「あ! アヤベさん、あそこにレンタルビデオのお店ありますよ。確か、探してましたよね?」
「クラフトさんに座学をするために集めてるの。見てきていいかしら?」
「もちろんです♪ カレンもついていきまーす」
今週と来週、クラフトさんにはレースについての座学をしているの。トレセン学園の指導の中にも含まれているから、基礎的な話はしないわ。するのは、レースを見て状況に合わせた作戦を考えること。数は集まってるから、これ以上集める必要はないのだけど… ウマ娘につけたカメラで撮影した映像も、時々あるの。その映像なら実際に走っているのに近い感覚だから、探しているのよ。 …重賞レースの動画はトゥインクル・シリーズの運営が動画投稿サイトにあげているのだけど、できればそれより下のレースの映像が欲しくて。クラフトさんが見たことないレースじゃないと、展開を予想する勉強にならないもの。
「……………」
「…集中モードかな。カレンは向こうを探してきますね♪」
「……」
「このペースなら前がタレるかな。そしたら、内は避けて外から行きたいよね」
「ただ、先行勢が多いわ。こういう時に外から行くと、大外を回ることになるわよ」
「前が開くことにかけて、この位置を保つのも選択肢としてはありなんですか?」
「内にも外にも寄らない、相手に依存する策にはなるけど… 内も外もリスクがあるなら、それも選択肢にはなる」
「それじゃあ、映像を進めて答え合わせしようか」
…今は、みんなで映像を見て勉強中。誰かも知らない、昔のウマ娘のレース映像よ。 一応、名前もレース名も書いてあるけど… 日付的には数年前なのに、案外覚えていないものね。カレンさんと集めた甲斐があったわ。この月の全レース映像、借りてきたから。
「早めに外に回したんだ、しかもそれで… 外を回って差し切った」
「外に行くのが正解だった… ということなんですか?」
「…末脚に自信があったのでしょうね。内で埋もれるよりも、先に外を回して綺麗なバ場を使ったほうが伸びる、そう考えて外を選んだ。と、思う」
「そういえば開催4週目だったね。外を回すリスクよりも、内で埋もれるリスクのほうが大きいと判断して外を通ったんだ。他が外に広がる前なら、少しは楽に外を回れるから早めに仕掛けていったってこと、だよね」
「…私もそう思う、確証はないけど」
「1つ前のレースは内から伸びての押し切りでしたけど、やっぱり外の方がいいんですね」
「…そう考えると、あのウマ娘は荒れたバ場に自信があったんだよ。自分なら荒れたバ場でも伸びれると考えたから内を通った。実際、あのレースでは全員が内を避けたから、内を通って楽に前に出れた」
…私はいつも追い込みだったから、内を通って押し切ることなんて殆どなかったわ。内の進路は基本塞がるから、追い込むなら外一択だったもの。ただ、それは私の話。クラフトさんは予定では先行するから、内の進路も選択肢になる。 …内と外、距離で考えたら内を通るのが理想だわ。
「今のレース、勝った娘に注目してたけど、気になる娘がいたんだよね。少し戻すけど… ほらここ、内で包まれてる娘がいる」
「最終コーナーで内を選ぶ最大のリスクね、タレた逃げウマ娘と他の先行勢に道を塞がれて前に出られなくなって、道が開いた時には間に合わない」
「…これだけは避けないと、ですよね」
…2週間かけて座学をしていれば、ある程度は展開も予想できるようになるわね。それに、避けなければいけない展開も。今日で最終日だけど… 十分、時間を使った価値はあった、と思う。そう… 信じましょう。
「これで座学は終わりにしよう。少しだけ、体も動かす?」
「お願いします、疲れない程度に… 走らないと、不安になっちゃって」
「もう準備してあるわよ」
一応、毎日少しだけトレッドミルを使ってのトレーニングもしたわ。休みを兼ねての座学だったのだけれど、全くトレーニングをしない必要はないもの。疲れて来週以降のトレーニングに影響が出るのは絶対に避けないといけないけど… 今は、完全な休養をする段階でもないわ。本当に休まないといけない時もいつかくるわ。その時までは… 休みすぎないで、トレーニングを続けましょう。
…トレッドミル以外の設備も何か用意しないといけないわね。本当はトレーナーが申請して学園から借りるのでしょうけど… うちのトレーナーはトレッドミルで脚を鍛えることが好きみたいだから、私が借りに行ったほうがよさそうね。頼んだらしっかり借りてきてくれるとは思うけど… 手を煩わせるわけにはいかないわ。トレーナー、少し疲れているみたいだもの。 …助け合うのが大切なのは、よく知っているから。誰かが背負いすぎない、それがチーム、でしょう?
「ちょっと借りるね、ビデオの名前… というか、今見たレースの名前だけ記録しとく」
「…好きにすれば良いと思うけど、記録してどうするつもり?」
「トレーニングの内容は全部記録しようと思ってね。ダートとか坂路のタイムも記録してあるよ」
「…そう」
…前から思っていたことだけれど、トレーナーはことあるごとに記録を取るわね。 …人の趣味に口を出すつもりもないけど、明らかに必要ないことまで記録しているのよね。座学で使ったレースなんて記録して、何になるのよ…
「失礼します! アヤベさん、いますか?」
「いるよー」
「…私より先に答えないで」
「明後日の雑誌取材のことで話が…」
「…そういえばそうだったわね。トレーナー、クラフトさんのトレッドミル、お願いするわ」
「もちろん、私に任せて行ってきな」
「心配させませんよー!」
…少し前にオファーがあったのよ、トップロードさんと2人セットで。引退したばかりのダービーウマ娘と、現役トップのスターウマ娘に特別取材! 今年のG1戦線の展望や、2人の今を深掘り! …みたいな、特集を組みたいって話だったわね。 …一昨年のダービーウマ娘ってだけで呼ばれた気がするわ。その後は勝ちもなく… トップロードさんのように、輝かしい戦績ではないもの。
「…打ち合わせしましょうか」
「はいっ!」
「本日はよろしくお願いいたしします、アドマイヤベガさん、ナリタトップロードさん」
「…はじめまして、よろしくお願いします」
「お久しぶりです、
「ナリタトップロードさんとお話させていただくのは菊花賞の後の雑誌取材以来ですが、アドマイヤベガさんに取材させていただくのは初めてになりますね」
「…そうですね、今までは取材も断っていたので」
…雑誌記者の、
「アドマイヤベガさんは、どうして今回の取材を受けてくださったのですか?」
「…引退して、暇ができたのが1番の理由です」
「なるほど… 引退後は体を休めてから次の道に進む、と引退時に語っていましたが… 今は、何かしたいことはありますか?」
「…今は、とあるチームでサブトレーナーのようなことをしています。ですから、目標は… チームのウマ娘を勝たせること、です」
「引退して間もないのに、すでに後進の育成を… チームの名前、お聞きしてもよろしいですか?」
「………リラという、今年創設されたチームです」
…チーム名、出さないほうがよかったかしら。どこまでなら話しても問題ないのか、トレーナーに確認しておけばよかったわね。問題はないと思うけれど… 確認しておけば、悩むこともなかった。反省ね、次があるかわからないけど、その時はしっかりと確認しましょう。
「リラ、ですね。無知で申し訳ないのですが、どのようなチームなのでしょうか?」
「…新人のトレーナーと私、そして今年デビューを予定しているウマ娘の3人だけの、小規模なチームです」
「今年デビューするウマ娘は1人、ということですね?」
「はい」
「順調ですか?」
「順調、だと思っています」
「なるほど… アドマイヤベガさんの想いを継ぐウマ娘、デビューまで追いかけさせていただきます」
「…期待に応えられるように努力します」
…追いかけるって、取材しに来るってことなのかしら。私やトレーナーが取材されるならトレーニングに支障はないけど… クラフトさんにされると困りものね。デビュー直前は、精神的にも不安定になりやすいもの… この記者は、そういうのもわかってそうだけど。
「では、ナリタトップロードさんにもお聞きします。今年はシニア級に入り、さらなる活躍を期待するファンの方も多いと思われますが、ナリタトップロードさん本人の目標は何でしょうか?」
「目標は、応援してくださるファンの期待に応え、勝つことだけです」
「では、今年の予定もお聞きしてよろしいでしょうか?」
「…言って大丈夫かな。アヤベさん、言って大丈夫、ですか?」
「私に聞かれても… トレーナーには何か言われてないの?」
「好きに話してこいと…」
「なら、話してもいいんじゃない? 責任は取らないけど…」
「じゃあ、言います。予定では、来週の〝京都記念〟で始動して、〝阪神大賞典〟を挟んで〝天皇賞・春〟、状況を見て〝宝塚記念〟。秋は〝京都大賞典〟で始動して、〝天皇賞・秋〟、〝ジャパン
…全て走れば8レース、それもG1が5レース。もしも全て勝つことがあれば… トップロードさんは、歴史を作ることになる。私には手の届かないほどの高みに、挑もうとしているのね…
「中長距離路線のG2を3つにG1を5つ、自信はありますか?」
「勝てるかはわかりません、でも… 自信はあります」
「私も、応援させていただきます。 …この後は今年のG1戦線の展望をお聞きしますが、少し休憩しますか?」
「私は大丈夫です」
「電話がかかってきたので… 少しだけ、失礼します」
「それでは、休憩してから10分後に再開させていただきます」
休憩は… 特に何もすることはないわね。休んでましょう。それに… ここから、問題のコーナーだもの。申し訳ないけど、私は自分が走るので精一杯だったから… 他にどんなウマ娘がいるのか、戦った相手しかわからないの。 …多少は調べてきたけど、一応メモを確認しておきましょう。
「今回はナリタトップロードさんが走る中長距離路線の予想は致しません。まずは注目のクラシック世代。皐月賞、ダービー、菊花賞、そしてトリプルティアラの桜花賞、オークス、秋華賞に加えてNHKマイルC。ナリタトップロードさんにとっては今後のライバルになるわけですが、気になっているウマ娘はいますか?」
「テイエムオペラオーさんです。少し話したのですが、自信もありましたし、気になっています!」
「なるほど… アドマイヤベガさんはどうでしょうか?」
「メイショウドトウさん。クラシックのタイトルに届くかはわかりませんが… 将来、何かを成し遂げてくれると思っています」
今年のクラシック世代… つまり、来年以降クラフトさんの前に立ちはだかる先輩達。戦ってみなければ誰が強いのかわからないけど… 今年のクラシック、誰が輝くのか楽しみね。見る余裕があるのかと言われたら… ないでしょうけど。
「なるほど、ありがとうございます。それでは続いて、短距離・マイル路線をお聞きします。お二人の主戦場とは異なりますが… ご注目は?」
「わかりません! 考えてきたんですけど、魅力的な娘が多くて…」
「私も、誰というのはありません。ただ、最近は毎年違うウマ娘が勝っていますから、今年もまた新しいウマ娘が勝つのではないかなと、思っています」
…私は走ったことのない、短距離G1、〝
「最後に、ダート路線を伺います。お二人はレースで走ったのない未知の世界だと思いますが、どのように見ていますか?」
「前にアヤベさんと走ったんですけど、本当に走りづらくて、すごい難しくて… ダート路線の方は、すごいなぁ… っていう思い、です」
「お二人でダートを? それは、トレーニングで?」
「はい、トレーニングとして全力で。 …走ってみると、芝とは全くの別物だと痛感しました。だからこそ… ダート路線のウマ娘のことは、尊敬しています。私には… 走れませんから」
ダート、私にとってもトップロードさんにとっても、クラフトさんにとっても縁の遠い世界。どうなるかはわからないけど… 走ることはないでしょう。適性の壁は… そう簡単には越えられない。距離の壁よりも、バ場の壁の方が高く険しいもの… それに、無理に走る必要もないわ。
「なるほど… それでは、本日は以上になります。貴重な時間に取材させていただき、ありがとうございました」
「ありがとうございました!」「ありがとうございました…」
…疲れた。ただ話をしただけなのに、色々考えながら話したからどっと疲れた… 明日からのトレーニングに支障がないように、今日はしっかり休みましょう。 …取材ってこんなに大変なのね。もっと楽に話したほうがいいのかしら。 …疲れた、考えるのは後でにしましょう。
「少しずつ、形になってきた気がするね…」
「芝で走ると… よくわかるわね」
2月後半、トレーナーの提案で一度だけ全力で芝を走ってみることになったの。私が前で引っ張るわけでもなく、クラフトさんの単走。距離は1600、右回り。 …メイクデビューを意識して、タイムの計測をしているのよ。今の力量を測っておきたい、そんな理由。
「ふー、ふー… タイム、どうでした?」
「1ハロン目から纏めて言うよ。12.9-12.3-12.5-12.9-12.6-12.2-11.8-11.6で、合計で98.8だね。途中遅れたところはコーナーだから、問題はないよ。本番もこのコースと同じでコーナーが大きいから、近いペースになると思う」
…一昨日にトレーナーからタイムを測ると言われたから、昨年のメイクデビューのタイムを調べてみたの。バ場の状態や、相手との兼ね合いによってタイムは変わるけど… 今のクラフトさんのタイムより、1秒から2秒ほど速かった。それをどう捉えるかは人によると思うけれど…
「…このままいけば、勝てますか?」
「絶対とは言えないわ… ただ、自信は持っていい。少なくとも… クラフトさんには、勝てるだけの力がある」
「アヤベさんの言う通り、クラフトさんの力を再確認させられたよ」
「よかったです! …でも、慢心はだめ、ですよね」
「うん。これからもっと鍛えて… もっと、強くなろう」
タイムがどうであろうと、クラフトさんがどうであろうと… 結局、トレーニング以外にすることはないのよ。強くなるために、夢を叶えるために… トレーニングを続ける、それに変わりはない。
…少し、走りたくなってきたわね。走っていこうかしら。ただ、それなら… クラフトさんに、見てもらいましょう。何か、クラフトも掴めるかもしれないもの。
「じゃあ、部屋に戻ろうか。今週と来週は水中トレッドミルをメインでやるからね」
「はい!」
「…その前に、1本走ってきていいかしら。クラフトさんに… 感想を聞かせてほしいの」
「? はいっ、わかりました!」「私も見てるよ」
…最近はクラフトさんを意識して走っていたけど、今は別。あの子に、妹に… 届くように、全力で。 …久し振りのマイルね、メイクデビューの時以来かしら。あまり… 良い思い出はないわね。それでも、走るわよ。スタートは… 今!
今はレースじゃない… 最初っから、飛ばしていくわよ。芝を蹴る感覚、懐かしいわね… 右回りのコーナーだって、減速する必要はないわ。あの子、見てくれているかしら。 …レースではないけど、お姉ちゃんは本気で走るわよ。そのほうが… 楽しいもの。コーナーは後少しで回り切る… 更に速度を上げるなら、ここね。
…きっと今日も、どこかで星が流れている。私が捧げる願いは、たった1つ。この走りを祈りに変えて… あの子に、届くように! ふたご座の… ディオスクロイの流星のように!
「すごい…」
「お疲れ様。速いね、やっぱり」
「これでも、ダービーウマ娘だもの」
「あの… 最後、コーナー曲がってから一気にビューンって、すごい速くて… すごかったです!」
「トップロードさんみたいになってるわよ…」
「どうやったら、あんなに速度を上げられるんですか?」
…難しい質問ね。私は… 理論に基づいて走ってるわけでも、誰かに指導を受けて走ってきたわけでもない。ただ、あの子に勝利を捧げたかった、その思いだけで走ってきた。 …気がついた時には、今の走りになっていた。最後方から、最終直線で一気に速度を上げて全てを抜き去る。まるで、あの子が背中を押してくれているかのように… 自然と走っていた。 …どう答えればいいのかしら。技術的な指導は… できないわ。
「…わからない。ただ… 勝ちたいと、前に出たいと思うと、誰かが背中を押してくれているような感覚で… 体が、前に出ているの」
「な、なるほど…?」
「アヤベさんにわからないなら私達にもわからないけど… メンタル的なものなんじゃないかな?」
「そう… かもね」
…私の走りはクラフトさんの役には立たなかったようね。 …別にそれでも構わないわ。クラフトさんにはトレーニングの中で私が教えていけば良い。今の走りは… あの子に届けば、それでいい。ふたご座が輝く季節はもうすぐ終わってしまうから…
「…よしっ、部屋に戻ってトレーニングしようか」
「はい! …よーっし、頑張るぞ~!」
これからはクラフトさんに向き合う時間。切り替えて… 頑張りましょう。
「そうだ、アヤベさん、クラフトさん。これ、チョコレート。美味しいかわかんないけど、作ってみたんだ」
「…そういえば、今日だったわね。私も部屋から取ってくるわ、待ってて」
「…あ! バレンタイン! 忘れてました…」
…一応、作ってはあるわ。カレンさんを見張りながら、ある程度はしっかりと作れた… と思う。レシピ通りに作ったし、味見もしたけれど… 不安はあるわ。
「はい、これがトレーナーの分。クラフトさんには… トレーニングが終わったら渡すわ」
「クッキー? ありがとう、アヤベさん」
「…凝ったものじゃないけど、変に気取った物よりはいいでしょう?」
「うん、後でゆっくり食べることにするよ」
「…感想は言わなくていいわ」
「わかった、胸に秘めておくね」
…ただの星型のクッキーを袋に詰めただけよ。凝ったものを作るような関係でもないし… 凝ったものを作ろうとして失敗するよりは簡単なものを作ったほうがいいわ。凝ったものを作って失敗すると… カレンさんのように、日が暮れても作り直す羽目になるわ。こだわりが強すぎると… 大変だとよくわかったわ。
「チョコ、クッキー、食べたーい!」
「…今日は終わりにしましょう。これ以上続けても… 集中できていないわ」
「…そうしよっか。トレーニングも十分だったと思うし、今日は終わりにしよう」
…ここからはトレーニングの話だけど、その前にチョコレートの味だけ言っておくわね。
美味しかった、半分残して天体観測に持っていくわ。クッキーと一緒に… あの子に、食べてもらいたいから。
「…わからないわね」
「やっぱり、アヤベさんの思いの力、なんですよ」
「私も、あの子… 妹が背中を押してくれていると思ってる。でも… それでは、クラフトさんに伝えられない」
「…私も併走します、疲れない程度にですけど」
「助かるけど… 絶対に、レースに支障のないように」
2月末。クラフトさんのトレーニングは順調に進んだわ。だけど… クラフトさんに走りのコツを聞かれて答えられなかったことを、私は悔やんでいるの。だから今日は、トップロードさんに見てもらいながら走り始めて… これから4周目ね。まだ何も、自分の走りを理解できていないけれど… 併走したら何かわかるかしら。
「…後ろで走らせて貰うわね」
「それじゃあ、飛ばしていきますね!」
「疲れないように!」
「わかってますよー!」
…走りながら、今の説明をするわね。今日はトレーナーに車を出してもらって、ひとけのない草原に来ているの。気が済むまで走りたかったから、どれだけ走っても人に囲まれないように… ね。トランクに積んできたハロン棒を置いて作っただけのコースだけど、走るだけなら問題はないわ。 …1ハロンあたりの距離は適当だから、170mの区間もあれば230mの区間もあるけど。タイムを測るわけではないもの… 問題はないわ。
連れてきてくれたトレーナーはどこかに行ったわ。ハロン棒を運ぶために車が欲しかっただけだから、構わないのだけど…少しは気にはなるわ。ウマ娘でもないのに車を置いて徒歩でどこかに行ったのよ。買い物だとは思うけど、ここからでは最寄りのお店に行くのは大変よ… 倒れていなければいいけど…
「…もうすぐ最終直線ね」
「何か、掴めそうですか!」
「…わからないけど、一気にいくわよ。瞬く間に、捕らえてみせるわ」
「速くしすぎないように… だけど、抜かれたくない!」
…捕らえはした。だけど… やっぱり、わからない。最終直線で、私は… どうして、これだけの速度が出るの? 現役のウマ娘としてレースに出ている時は気にもならなかった。勝てるなら、何でもよかったから。 …考えてもわからないなら、走るしかないわね。
「少し休んだら… もう1本走ってくる」
「わかりました。アヤベさんも、無理はしないでくださいよ?」
「わかってる、体を壊してしまったら… 誰も、幸せにならない」
…結局、この日は何も掴めなかった。きっと… あの子が私の背中を押してくれているのよ。そうとしか思えないもの。だけど… このままで終わらせてはいけない、とも思うの。私の切り札とも言える最終直線での追い上げ。この力を… クラフトさんに繋ぐ方法はないのかしら。完璧に受け継げるものではないと思うけど… 少しでも、私の力をクラフトさんに繋げたら… 彼女にとっても、切り札になるはず。
何か… ないのかしら?
「お〜い、寝てる?」
「…起きてる。こんなところで寝るわけないでしょ、少し休んでいただけ」
「別に、眠かったら寝てもいいんだよ?」
「大丈夫だから…」
3月1週、平日のトレーニングはなし。完全な… 休みね。前と同じように座学をしてもいいんだけど… 心身の休養の為に、クラフトさんには何も指示を出さなかったわ。頼まれたら幾らでもするつもりだけど… クラフトさんの自由に、休んでもらうことにしたの。
「というか、ここに来る必要もないんだよ。トレーニングはしないんだから、アヤベさんも自由にしてて大丈夫だからね」
「部屋よりもここの方が静かで… 考え事には向いているの」
「そう? ならいいけど… 考え事って、何か悩むことでもあった?」
「…少しだけ。あなたも暇なら、手伝ってもらおうかしら」
「役に立てるかわからないけど、任せて」
「…私の走りを見て、考えてほしいの。私の力を、どうすればクラフトさんに教えられるか…」
「…自分で言うのもなんだけど、私ってトレーニングもアヤベさんに任せてばかりだし、多分役に立たないけど… 本当に私で大丈夫?」
…トレーナーが、ウマ娘を育てるという、1番大切な部分を苦手にしているのはわかっているわ。2カ月も一緒にいたのよ、2カ月もトレッドミルを動かしていれば流石に気づくわよ。予定はトレーナーが立てているけど、指導してるのは基本私だもの。 …そもそも、トレーニング途中にいなくなるじゃない。
でも… 苦手な部分を改善しろとは言わないわ。改善しようと努力しているのは知っているもの、口には出さないけど… 応援はしてる。私だって… 苦手なことは多いもの。お互いに苦手なことを補うのが… チーム、でしょ?
それに… トレーナーの得意なことも、よくわかっているから。私にも、トップロードさんにも、クラフトさんにもできないことを… トレーナーだけはできる。だから… 私の走りを、見てもらう。
「どんな機材を使っているのか知らないけど… 私の走りを、データで他のウマ娘と比較してほしいの。 これは… あなたにしかできない」
「…わかった。やるだけやってみるよ」
これで何か… わかればいいけど。
「ごめん、走りを分析しても… 私には、説明できる理由が見つけられな……い」
「…謝らなくていいわ、誰にもわからないことだもの」
走り終えてトレーナー室に戻ってきたのだけど… …仕方ないわ。私でさえわからないことだもの、少しデータを集めただけでわかるほど… 簡単だとは思ってない。それに… あの子が私の背中を押してくれているとしたら、私の走りは変わらない。途中からタイムだけが変わる、その理由なんて… 見つけられるわけがないのよ。 …無理なことをさせて、トレーナーには申し訳ないわね。
「また、考えてみるけど…」
「…何か気になることでもあったの?」
「…確定してないことを言うと、混乱させちゃうかもだけど、いい?」
「構わない」
…見ているの、私のデータじゃないわね。私と比較するためについさっき測った、他のウマ娘のデータ? ライバルの急成長の話なら… 今はしないでしょう。何か、気になる事があったのでしょうけど…
「妙なデータの娘がいて… この娘、前までは併走しても終盤に引き離されていたのに、ある日を境に残り400m地点から速度を上げて併走相手に先着してる」
「…毎回、400m地点なのね。映像はあるの?」
「今探してる… あった、流すよ。これが前まで、こっちが最近」
「…走り方は全く変わってない。それなのに、速度は変わってる。400m地点になってギアを変えている、そんな様子もない。なぜか… 400m地点から速度が上がっているわね」
「…この娘のトレーナーに話を聞いてみよう、追い返されるかもしれないけど」
…私も、最終直線で速度を上げる時に、走り方は変わっていない。走り方も、何も… 変化はないのに、速度だけは上がる。このウマ娘の走りは… そういう意味で、私に共通している。この娘のトレーナーは… 名前を見てもわからないわね、行ってみましょう。何か… わかるかもしれない。
「突然失礼します、伺いたいことが…」
「アヤベさん? 琴葉さんも、どうしたんですか?」
「こんにちは、トップロードさん。トレーナーさん、いる?」
「今は外ですね。用事があるなら、私が聞きますよ?」
例のウマ娘のトレーナーに会いに来たら… トップロードさんがいたの。トップロードさんと同じチームだったのね、知らなかったわ。 …トップロードさんのトレーナーが誰なのか、知らないもの。話したことはあるわよ、伝言を頼まれることだってあるもの。だけど… 名前もチームも知らなかった。元々、私はチームに所属していたわけじゃないから… トップロードさんのチーム以外と関わりもなかったから、名前を知らなくても問題なかったのよ。私がトレーナーの話をしたら… トップロードさんのトレーナーだと誰もがわかるから。
「このウマ娘のことを聞きに来たの。 …トップロードさんの話せる範囲で、教えてもらえないかしら」
「ん… 大丈夫ですけど、何を話せばいいんでしょうか」
「えっと… 先月の1週か2週に何かなかった? この娘の走りが変わるきっかけとか…」
「私の走りに… 似ているような気がして」
「ん〜、何か… あ! 取材の時、電話で言ってました。トップロード先輩みたいな走りができるようになりましたって」
あの時、電話がかかってきたって言ってた… ような気がするわね。確かに… 乙名史記者と話したのは2月の2週目、例のウマ娘には何があったのかしら。私の力をクラフトさんに伝える方法を探していたのだけど… それを抜きにしても、興味があるわ。
「じゃあ、その前日に何かあったとか… 言える範囲で、教えてもらえないかな?」
「私が知ってることだと… 広場で、ぼーっと本を読んでるのを見ましたよ。三女神像のある、あそこです」
「…行ってみましょう」
「三女神像は、思いを受け継ぐなんて話もあったような… ありがとうトップロードさん、急にごめんね」
「気になるので、私も行きます! 暇ですし…」
…この後広場に行ったのだけど、何もわからなかったわ。何か見つかることも、何か起こることもなく… 2週間クラフトさんに休んでもらっている間は、トレーナーと2人で他のウマ娘のデータを集めて回った。クラフトさんのライバルに限らず… 既にデビューしているウマ娘も含めて。それでも… 有力な情報は得られなかったけど。
あぁ、この間に誕生日もあったけど… 特に何もなかったから、省くわね。カレンさんやトップロードさんに祝われたけど… 特にパーティーをしたわけでもないわ。普通に、祝ってもらっただけよ。 …夜には星を見に行ったけど、本当にそれだけよ。
「…何もわからないわね」
「今日も収穫なし… ん〜、何にもわからないね」
「そうね… これ以上は、時間の無駄かもしれない」
3月3週の土曜日。クラフトさんのトレーニングは坂路の併走、それと学園のジムでの上半身のトレーニング。今までは脚ばかり鍛えてきたけど… 上半身のトレーニングも必要だと思うから。土日はいつも通りの休養ね。
…今は、トレーナーと三女神像を見ながら話し合い。トップロードさんに教えてもらった話を思い出しながら、どうすれば私の走りをクラフトさんに伝えられるか考えていたのだけど… 諦めることにするわ。どれだけ考えても、あの子が私の背中を押してくれている… それ以外の結論に辿り着けない。残念だけど… 諦めるしかないのよ。
「…付き合わせて、悪かったわね。それと… ありがとう」
「感謝されることはしてないよ。それに… 私も楽しかった、ありがとうね」
「…変な人」
…部屋に戻って、トレーナーの事務作業でも手伝おうかしら。最近は私が連れ出してばかりで… 疲れているのは見てわかるわ。
「誰か呼びました〜?」
「クラフトさん?」
「あ、アヤベさんとトレーナーさん。あの、わたしのこと呼びました?」
「呼んでないけど… どうかしたの?」
「なんか、呼ばれた気がして… せっかくなので、少しお話しませんか?」
「いいわよ、私は。トレーナーは暇かしら?」
「常に暇だよ、これでも仕事は先に片付けるタイプだから」
「…いいことね」
クラフトさんの話はしていたけど… 呼んではいないわ。ずっと話していたから名前が聞こえたのかもしれないけど… そういえば、クラフトさんとここに来たことはなかったわね。そもそも、私達が何をしているのか話してもいなかった。クラフトさんが来たからって、何か起こるとは思えないけど…
「三女神さまって、お日さまみたいですよね。いつもみんなを、見守ってくれているみたいで…」
「ウマ娘を導くらしいし… 何か画期的な指導法とか、教えてくれないかな〜」
「…自分の仕事を神に頼むような人に、助けはないでしょうね」
「うっ、辛辣…」
「………」
まったく… 画期的なトレーニングがあるなら、私も知りたいけど… それは私達で見つけるもの。クラフトさんを導くのは、三女神でも何でもなく、私とトレーナーの仕事よ。教えてもらえるなら… 喜んで聞きに行くけど。
「そういえば、クラフトさんは休みの日は何してるの?」
「………」
「…クラフトさん?」「おーい?」
「…んえっ? わ、すみません。ぼーっとしてました… えっと、もう一度お願いします」
「大丈夫? 寝不足だったりしない?」
「いえ! 元気です! 何だか… 少し、ぼーっとしちゃっただけです。体も心もぽかぽか、元気いっぱいです!」
「…無理をしているわけではなさそうね」
大丈夫かしら。少し前まで休んでいたから、体の疲労はないと思うけれど… 心の疲労は、私には見えないもの。トレーニングを見ても、調子は良く見えて安心していたのだけど… 不安ね。
「…三女神さまのおかげかな。体がぽかぽかして、力が湧いてくるんです」
…私は何もしてないわよ。三女神像にそんな力があるなんて、感じたこともないわ… 信じられるかと言われたら、難しいわね。だけど… 私の背中をあの子が押してくれているのなら、三女神像の力がクラフトさんの背中を押しても… おかしくはないのかもね。非科学的と言っても… あの子の存在も、科学では証明できないもの。私は… 三女神像の力を信じるわよ。
「………」「………」
…クラフトさんは力が湧いてくると言っているけれど、その力は… 私の力を受け継いだ、のかしら。ずっと、私の力をクラフトさんに伝える方法を探して、三女神像を調べていたけれど… そもそも、例のウマ娘は誰かの力を受け継いだのか、さえわかっていないのよね。三女神像に力を貰えたのは良いことだけど… 私の力が伝わった、とは限らないわ。
もし、私の力をクラフトさんに伝えられたのだとしたら… 例のウマ娘は誰から力を受け継いだと言うの? 近くにいたウマ娘の力を受け継ぐのだとしたら、クラフトさんに湧き上がる力は私の力だと思うけど… それなら、例のウマ娘は近くに、残り400m地点で速度を上げるのが得意なウマ娘がいた、ということになる。
トップロードさんが近くにいた、って言っていたけど… トップロードさんにそんな強みがあるのかしら?
「………」「………」
…クラフトさんが何か力を手に入れたというなら、それは良いことよ。それだけは… 間違いないわ。それでも、私の… 最初の目標は果たされたのかしら? 私は、私の走りを伝えたかったのだけど… 三女神像なら私の走りをクラフトさんに伝えられる、なんて前提すら正しいのかわからない。
…反省ね。三女神像を調べる前に、裏取りをするべきだった。例のウマ娘の謎の力を調べて… 三女神像が誰かの力を継承してくれると、確認しないといけなかった。 …悔やむ必要はないわね。結果として… クラフトさんが成長できたなら、構わない。私の思った形じゃなくとも…
「………」「………」
「…あの、喋りませんか?」
「あー、ごめん。考え事は… また後でにするよ」
「…そうね。悩むのは、1人の時でいいわ」
「どうする? 少しだけ… 走ってみる?」
「んー、はい! 走ってみたいです」
「わかった。適当に空いてるコース、探してくるよ!」
「…行くわよ」
「トレーナーさんが帰ってくるの、待たなくていいんですか?」
「…きっと、同じ場所に辿り着くわ」
…色々考えるのは後にしましょう。それに、幾ら悩んでも答えはわからないけれど… クラフトさんの走りを見れば、答えはわかる。トレーナーが行ったコースに、私達も行きましょう。
今月は、クラフトさんのトレーニングよりも他のウマ娘を見てた時間のほうが長いもの。 …好きに使えるコース、わかってるわ。
「いつでもいいよ、準備はできてる」
「こっちもできてるわ。合図を」
「旗を上げたらスタートで… カウント、始めるよ」
来たのは、左回りの芝コース。トレーニングで使われることが少ないの。それに… 今は、左回りのレースが少ない。これからの時期は右回りのレースが多いから、実戦感覚を掴みたいウマ娘は他のコースを使うの。 …他のウマ娘を見たから気付けたことね。想像以上に… 芝コースは好きに使える。突発的にレースをするウマ娘も多いけれど… それは私達も同じこと。芝コースは、走りたいウマ娘が走りたい時に使う… そんなコースなの。
「アヤベさん、お願いします」
「…本気で行くわよ」
「さーん、にー、いーち、ゴー!」
…本気で勝ちに行くなら、私は後ろに下がるべきね。最後方から、大外を回っての追い込みが私の勝ち方。だけど… 今だけは、前で行きましょう。クラフトさんに沸き上がる力が気になるもの。もしかしたら、三女神像を通して… 私の走りが、伝わった可能性はあるから。確かめるためにも… 私は前で走る。私なら、前に誰かがいた方が走りやすいもの。
あの子に背中を押してもらって、最後方から最終直線で追い込む… そんな走りを、クラフトさんは見せてくれるのかしら。私はこのまま… 前で、引っ張らせてもらうわよ。
今回は、トレーナーがいる場所まで走るから… 丁度1周回ることになるわね。それなら、この先のコーナーは軽く走って… いえ、逃げると決めたからには、ここで緩めてはいけないわね。最後に脚が残るペースを、刻み続ける。クラフトさんは… すぐ後ろね。どれだけ圧をかけられても、この速度を変える気はないわよ。このコースは1周およそ2100mだったはず。ダービーを逃げる感覚なら… 余裕を持って走りきれる。
最初のコーナーを曲がり切って、クラフトさんは… 5バ身以上後方ね。クラフトさんはメイクデビュー、つまりマイルレースに向けてトレーニングを積んできたもの… この距離ではスタミナに不安がある。それに対して、私はこの距離が主戦場… そもそも、クラフトさんはデビュー前なのに対して、私は3ヶ月前に有マ記念を走っていたウマ娘よ。少し… 緩めたほうがいいわね。このペースでは… クラフトさんの脚が壊れかねない。 …クラフトさんに本気で行くと言ってしまった以上、疲れたふりをしながら速度を落としましょう。
向こう正面で、少しずつ速度を落として… 今のクラフトさんの速度よりも、下げたほうがいいわね。おそらく、私に追いつこうと無理をしている。更に下げても、私の前には… 出ないわね。それでいいわ。クラフトさんが、自分でペースをコントロールできるようにトレーニングはしたけれど… もう少し、考えたほうがいいわね。前との差が大きく開いて… 不安になる気持ちは、よくわかるもの。
これからコーナー、速度を上げるのはまだ… だけど、最終直線で追い込むのは難しいわね。前に誰もいないと、目標が見えないの。速度を上げようにも、目標がないと難しいわ… ずっと追い込んできた弊害ね。追い込み以外の走り方をした時に… どう走ればいいのか、わからない。こうなったら… 早めに仕掛けて、逃げ切りにいくとしましょう。
「体が… 暖まってきた。氷星を溶かすまで、もっと熱く…!」
「追い、つけない…」
途中でペースを落としたおかげね… 脚に、余力がありすぎるほどよ。一気に速度を上げて、このまま押し切れるわね…
さぁ、クラフトさん。これから最終直線だけど… もう仕掛けないと、置いて行ってしまうわよ。あなたは… どうするのかしら。
「苦しいけど… とどけー!」
「…お疲れ様」
…まだ余裕はあるけど、更に速度を上げるのは大人げないわね。このまま… 終わりにしましょう。
「お疲れ様ー、ビデオ見る?」
「私は見るけど、クラフトさんは… 休んだほうがいいんじゃない?」
「少しだけ、時間をください…」
「タイムに関しては… いいか。距離も中途半端な上に、ハロン棒もないから合計タイムしか測ってないんだよね」
「…タイムは、そうね。言われても… わからないもの」
…クラフトさんの走り、私からは殆ど見えていないの。私の方が前で走っていたんだから、当然のことだけど… 少し、楽しみね。クラフトさんがどんな走りをしたのか… ゴールした時、クラフトさんは私のすぐ後ろまでは来ていたの。私が緩めたにしても… 想像以上に、差を詰められた印象ね。
「前半は… 普通な感じかな。アヤベさんのハイペースな逃げに崩されて、少し歪な走りになってたけど… アヤベさんが脚を残すために緩めたところから、クラフトさんも自分の走りを取り戻したって展開」
「…目標になるように逃げようと思ったのだけど、ペースを考えずに逃げたのは申し訳なかったわ。 …トップロードさんから逃げるような感覚でペースを上げてしまったの」
「大丈夫です! レースでは、予想外のことはよくありますから… 対応できるようにならないと、ですね」
予想外のことはよく起こるけれど… 追い込みでG1を制したウマ娘が突然大逃げをする、なんてことあり得ないわよ。思いついても… そうそう成功しないわ。もしそれで逃げ切れるとしたら… それこそ奇跡ね。
「最終コーナーあたりでアヤベさんが速度を上げて、少し差が開いていった」
「この時、少しバテちゃったんです。思ったよりも長かったのと、最初で息が上がっちゃって…」
「デビュー前で2100mを走りきれるウマ娘はいないわよ。それも… このペースでは」
「こっから最終直線。この走りだと差がもっと開くかと思ったんだけど… 逆に詰まったんだよね」
「上手く、言葉に出来ないんですけど… コーナーを曲がり切ってから、自分でも不思議なくらい脚が軽くて、少しですけど速度が上がっていったんです」
「なるほど…」「………」
…三女神像の力、私にはわからないわよ。学者じゃないもの、科学的に説明なんてできないし、理解もしていないわ… だけど、そんなことどうだっていいの。クラフトさんに… 私の力が、受け継がれたのかもしれない。その事実のほうが… よほど大切ね。
私は… あの子に背中を押された、そんな感覚がした。クラフトさんは… どんな感覚で走っているのかしら。あの子がクラフトさんの背中も押してくれている… それなら、嬉しいわね。 …違うとは思っているわよ。それに… あの子に、私達のためにそこまで頑張ってもらうのは申し訳ないわ。
「クラフトさんは… どんな感覚だったかしら?」
「う〜ん、言葉にするなら… 併走していた誰かに、背中を押されたような… でも、何か… 違うような気もします」
「その、力が湧き上がってくるって言ってたでしょ? それは、今でも?」
「はいっ! もう、わたしの中にある… そんな気がします!」
…わからないことばかりよ。私がクラフトさんの立場なら、もう少しわかったのかもしれないけど… 私はそんな経験、したことないから。わからないまま… この日は、解散になった。少しだけトレーナーの仕事を手伝ってから、カレンさんの待つ部屋に帰ったわ。
…トレーナー、ずっと何かを考えている様子だった。聞くつもりはないけど… 気になるわね。
…悩んでいても何も進まないわ。ひとまずは… トレーニングを進めましょう。
「次のトレーニング、個人的にはゲートをしたいんだけど…」
「いいんじゃない? メイクデビューまでには、必ずしないといけないもの。それに、クラフトさんは先行… 出遅れは致命傷になりかねない」
「今までのトレーニングと違って 、出来るようになるまでは続けないとだけど… 上手くいったとしても、最低でも2週間は続けよう」
「…そうね。ゲートは… 得意に越したことはないわ」
「が、頑張ります」
ゲート、レースのスタート地点。ウマ娘は決められたゲートに入り、スタートを待ち… ゲートが開くと同時にレースがスタートする。出遅れれば大きな不利を背負うことになるわ。それも… 内枠のウマ娘が出遅れると悲惨ね。最初のコーナーに向けて全員が内に切り込んでくるから、出遅れると前を塞がれる。私のように追い込みが得意なウマ娘はスタートしてから後ろに下がるから出遅れても問題にはならないのだけど… クラフトさんは先行脚質。出遅れて後ろからのレースになると、勝利は厳しくなる。それだけ… ゲートは、勝敗に直結する。
模擬レースの時、クラフトさんは… 比較的、
「それじゃあ、3月最後の会議は解散! ちょっと買い物があるので、また月曜日に!」
「はーい! アヤベさんも、お疲れさまでした! 失礼しまーす。あ、鍵閉めときますね」
「…久し振りに、暇な週末ね」
今は3月の最終金曜日。先週、クラフトさんが不思議な力に目覚めてから、およそ1週間が経ったわ。あれから特に変わりはなく… クラフトさんは、レースの時だけ最終直線で速度を上げるようになった。先週末にラップを刻むトレーニングをした時も… 自然と、速度が上がってしまっていた。 …無意識に速度が上がる、そんな状態よ。悪いことではないのだけど… 少し、不安ね。脚への負担が増えていなければ良いのだけど…
「アヤベさん! 暇なら、天体観測に行きませんか?」
「どこから… そういえば、トレーナー室の鍵を持ってるんだったわね。天体観測… 良いわよ」
「じゃあ、明日の朝に集合して… 行く場所、考えてきますね!」
「ええ、それと… この間の阪神大賞典、お疲れ様。テレビ越しだけど… 応援してたわよ」
「見ててくれたんですね! すごい、うれしいです! 次も、頑張りますね!」
…体を休めなくていいのか、なんて心配はしないことにしたの。よそのチームの私が言っても余計なことかもしれないし… トップロードさんなら、自分で体調管理はしっかりしているでしょうから。何がトップロードさんを突き動かすのか、私にはわからないけど… 今年も無傷でG2を連勝して、次走は春の天皇賞。本当に… 私とは、違う世界を走っているわ。私が勝てるとしたら… 中山のレースくらいかしら。有マ記念は… 一応、私が先着しているもの。トップロードさんを意識しすぎて、更に前のウマ娘には届かなかったけどね…
「そうだ、この時期って流星群は見えますか? 勝利祈願、したくて!」
「…南の海を越えれば見えると思うわよ」
「…流石にやめておきます」
「それが賢明ね。 …流星群は見れなくても、星はよく見えるわよ。冬の星と春の星… 時間さえ許せば、両方見れるわ」
「そうなんですね! ん〜、楽しみです!」
…星、見に行ってくるわ。トップロードさんと2人で見に行くのは… 本当に久し振りね。最近はカレンさんやトレーナーと居ることが多かったから。星を見に行くなら… トレーナーに車を出してもらったほうが楽だったから。それに帰りが遅くなるとカレンさんに伝えると… すぐについてくるのよ。トップロードさんと2人で出かける理由も… なかったものね。
トップロードさんと2人… 1番、落ち着くわ。他の人は… 騒がしいか、何も言わないか、何も分かっていないか… それだけだもの。トップロードさんは、無駄に騒がないし、ちゃんと喋ってくれるし、勉強してきてくれるから…
「すごい、すごい綺麗です! こんな場所に、アヤベさん秘密の場所が…」
「別に、秘密じゃないわよ。トレセン学園の近くには星が良く見える場所は幾つもあるから… 隠す必要はないわ、人が来たら他の場所に行くだけよ」
「でも、いつもの場所より綺麗です!」
…トレセン学園の近くは栄えているわ。建物も多くて、人工の光も多い… でも、星を見れる場所はある。山というほどではない、小高い丘から見る星空。少し走って、河川敷から見る星空。トレセン学園の敷地内でも… 端のあたりなら、綺麗な星空が見れるわ。見る場所によって… 違う星空に出会える。 …殆ど、違いはないけれど。
今日は、トレセン学園のすぐ近くよ。探せば… 幾らだって、星を見れる場所はあるのよ。
「ん〜、あの星ってなんですか?」
「あれは… 前に見た、冬の星よ。1月に見た時は低い位置に見えた星が… 今は、高いところに見えているだけ。名前、覚えているかしら?」
「えっ!? えーっと、えー、えー… カストルですか!」
「…適当に言ったようにしか見えないけど、正解よ。あの時よりも早い時間なのに、高いところに見える。冬の星座だけど… 門限を考えたら、今の時期の方が見やすいわね」
3月は… 日が沈んだばかりの時間に、冬の星が良く見えるの。ふたご座のカストルとポルックス以外にも… ペテルギウスやシリウス、プロキオンだって見られる。季節は冬から春に移ろってきても… 星空では、冬の星が輝いている。
それでも、日付が変わる頃になれば… 春の星々が天上で輝くわ。うしかい座のアークトゥルス、おとめ座のスピカ、しし座のデネボラ… 夜空は、時間によって姿を変える。春の星が見れる時間に、ここで星を見ていたら… 門限破りになるわ。
「アヤベさん、楽しいですか?」
「えぇ、楽しいわよ」
「それなら、よかったです」
「…あなたは?」
「私も、楽しいです!」
「そう…」
星を見て、心を休めて… また明日から、頑張りましょう。あの星々のように、輝けるように… 輝くのは私ではなく、クラフトさんだけど。トレーニング… 上手くいくように、祈っておきましょう。
「ほっ!」
「おー、まだ行ける! もう一回やってみよう!」
「…そう言いながら、何回やるのかしら」
4月1週… ゲートトレーニングをしているの。今は… ゲートではなく、ランプとボタンを使ってのトレーニングよ。トレーナーが持ってきた謎の装置だけど… 面白いわね。トレーナーがスマホでランプを光らせて、それを見てからクラフトさんが手元のボタンを押すと… そのタイムがパソコンに表示される。ランプもボタンもテレビで見るような見た目だけど… ホームセンターで売っているのかしら? 本当に… 良く見つけてくるわね、こういう物を。
この装置を使うのは今日だけで、明日からはゲートを使ってトレーニングをする予定。トレーナーもクラフトさんも、この装置を気に入ったみたいだから… 暇になったら遊んでいそうだけど。このトレーニングに意味があるのかどうかは… 私に聞かないで。おそらく… 遊びの延長線上にある物だから。
「これならゲート、上手くいきますか?」
「いけるよ、多分」
「…やってみないとわからないけど、元々苦手ではないでしょう? きっと… できるわよ」
「よーっし、頑張るぞ~!」
「…やっぱりスタートは上手いね」
「…ええ、これは強みになるでしょうね」
「えへへ…」
翌日から、ゲートを使ってのトレーニングを始めたわ。実際のレースは緊張もするから、練習通りにいくとは限らないけど… 練習でも上手くいかなければ、実際のレースでも上手くいかないわ。練習くらいは… しっかりと出る。大切よ。 …最低限、と言うこともできるけど。
「今日はここまでにして、後はフィジカルトレーニングにしよう。さ、帰るよー」
「…今日はどこも行かないの?」
「大手のチームはG1シーズンだから張り詰めててね… 集められる範囲でデータは集めてるけど、刺激しないように毎日はやめたんだ」
「…無許可で集めてるなら、余計なことはしないほうがいいわね」
今は4月、先月の後半から… 毎週のようにG1レースがある、大切な時期。それに今週は… トリプルティアラを巡る第1戦、桜花賞。来週開催される、クラシック戦線の第1戦である皐月賞も含めて… トリプルティアラとクラシック三冠に挑む資格を、ただ1人だけが手に入れることができる、大切な戦い。来月末の第2戦、オークスとダービーも含めて… 緊張感がもっとも高まる時期よ。きっと、来年は… 私達も、そうなれるといいわね。
他のチームからしたら、私達は敵だもの。敵がストップウォッチとカメラを抱えて乗り込んできたら… 私だって、良い思いはしないわ。普段は人に見られていても気にしないけど… この時期は、どんなことにも敏感になる。ただ見ているだけの人にさえ… 帰ってほしいと、切に願うでしょうね。それだけ… 誰もが、掴みたい夢なのよ。
「少し前までは、記者の人と話しながらデータ集めてたんだけど… 今は、記者の人さえ追い払われてる。流石に私でも近づけないや」
「まだ先の話でしょうけど… 私達だって、そうするでしょ?」
「ん〜、わかんない。普段もいないし…」
「…もっと注目して貰わないと、ですね」
「…そうね」
当分は、普通にトレーニングをするしかないわね。トップロードさんも今月末にG1が待っているから… 出かけることもないでしょうから。
ゆっくりと、トレーニングをしたいけど… もうメイクデビューまで3ヶ月もないのよね。私の強みは託せた、気になっていたゲートも済んだ… ここからは、体を鍛えるだけ。そして、調子も整えて… 心技体、全てを揃えましょう。たった3ヶ月、されど3ヶ月。ここから… 更に追い込むわよ。
〜4月前半
「…カレンさん、出番少なかったわね」
「カレンも、作戦会議に混ぜてほしーなー?」
「それは…」