王宮は深夜の静寂に沈んでいた。
執務棟の最奥、重厚な扉の内側には、香と墨の香りがわずかに漂っている。
国王ハロルド・エルディスは、積まれた文書をただめくっていた。
だがその視線は、文字の上ではなく、もっと遠くの空白を見ていた。
わずかな筆音が止んだとき、扉をノックする音が三度。控えめでありながら、場慣れした間合いだった。
「入れ」
現れたのは、情報局の文官ルディ・ファーン。
整った服装と落ち着いた声音。その奥に、どこか演技じみた余裕があった。
──まるで、報告の内容が“想定通り”であるかのように。
「報告を。ベイル殿下が、王立学院にて平民の生徒と非公式の決闘を行い──敗北されました。重傷を負いましたが、即座に治療が施され、命に別状はございません」
ハロルドの眉がわずかに動いた。
「……敗れた、か」
視線が机の端に置かれた家族肖像に移る。
まだ幼かったベイルが、金の刺繍を施した制服に身を包み、誇らしげに胸を張っていた。
「……あれほど育て、授け、鍛えたというのに。誇りも、威厳も、全て潰して戻ってくるとは」
時間も、機会も、王としての道も、すべて与えた。
だが、愚かさと慢心が積み重なれば、最期はこうなる。
失望の吐息が、部屋の空気を冷やした。
「……学校側は?」
「目撃証言では、王子の魔法が何らかの魔法によって“跳ね返った”ように見えたとのことです。ただ、その魔法は未登録。属性・効果・意図、すべて不明。防御か攻撃かの判断もつかず、規律違反として扱うには根拠が薄いとされております」
「……つまり、“わからない”と?」
ハロルドは立ち上がり、窓辺に歩を進める。
「見たことも、聞いたこともない魔法で、王子が地に伏した。それを“判断不能”とは……もはや茶番だ」
王子が誰に命じられて剣を抜いたかなど、関係はない。
“平民に敗れた”という事実が残る──それがすべてだ。
「他にあるか」
ルディは一歩前へ出て、懐から封筒を差し出した。
“極秘”の印と、王立秘術院監査局の封蝋がある。
「式典で発生した事態について、監査局より非公式報告がございます」
王は封を切り、中の羊皮紙に目を通した。
そこに記されていたのは、わずかな報告文だった。だが、王にとっては決定的だった。
『式典において、無許可の【秘式顕現】を確認。象徴式だけでなく秘匿式も一時的に展開されたが、発現原因は不明』
『象徴式構造に断絶および再構築の痕跡を確認』
『魔力効率は従来式より最適化。意図は不明』
『象徴式・秘匿式間のパスが切断。修復作業中』
『関連現象はすべて、生徒エインの干渉によるものと推定』
報告書の端が、王の指で軋んだ。
象徴式──秘匿式へと、魔力を流し込むための“外殻”。
秘匿式──本来は顕現すら許されぬ、王家機構の中枢。
象徴式を、無許可で、無意識に、しかも再構築と最適化まで行ったというのか。
しかも、その過程で、秘匿式との接続まで断ち切った──本来なら、誰にも触れられぬはずの、回路に。
偶然。意図不明。目的不明。
ならば、なおのこと恐ろしい。
(構造を読まれ、断たれ、繋ぎ直された。本人にその意図がなかったとしても──)
(次に“偶然”で王家が崩れることもありうる)
そして今、ベイルの失墜が重なった。
すべての誤算を、一つに集約して処理する機会は──今しかない。
「檻に戻せ」
ルディの表情が、僅かに引き締まる。
ほんの一瞬、その目が光を宿した。
「対象を」
「生徒エイン。罪状は、第一王子に対する殺害未遂。審問は形式でよい。判決は決まっている」
「承知いたしました。拘束は、夜明け前に完了する見通しです」
王はそれに答えず、静かに机へ戻る。
ペンを取ると、命令書の空白を静かに走らせた。
その背後でルディは深く一礼し、踵を返す。
去り際、彼の口元には、わずかな曲線が宿っていた。
それが報告の達成感なのか、それとも──別の誰かの意志を思い出していたのかは、定かではなかった。
音もなく夜は深まっていく。
命を下す手だけが、確かに動いていた。
────────
……静かだった。
まるで音のない水底に沈んでいるような、ぬるい静寂が満ちている。
天井がある。
それだけで、ベイル・ドラン・エルディスは自分が生きていることを知った。
(……どこだ、ここは)
見慣れない設備。簡素な寝台。清浄な空気と、かすかに香る治療薬の匂い。
救護室だ。
意識はまだ霞んでいたが、眠気は薄れ、痛みだけが残っていた。
腹部に残る鈍痛。
体を動かそうとした途端、背筋に重い疲労感が走る。
(……決闘……あの平民と……)
断片的な記憶が浮かぶ。
どんな魔法を撃っても通らず、最後に、
思い出した瞬間、喉の奥がひりついた。
(……ありえない)
ベイルは顔をしかめ、天井をにらむ。
夢ではなかった。現実だ。
(俺が……?)
王族が。第一王子が。
平民の、しかも年下の、無名の学生に。
堂々と、公衆の面前で──完敗した。
悔しいという感情が、まだ追いついてこない。
それよりも、ただ呆然としていた。
(なぜ……どうしてだ)
何もかもが理解できなかった。
自分は手を抜いたわけでも、油断したわけでもなかった。全力を尽くした。
それなのに、エインは防ぐだけで──何ひとつ、傷も負わず、勝っていった。
(なんだあの魔法は……誰が、教えた)
誰の設計だ。どの書物にも載っていなかった。王立魔法典にもない。
王族として授けられてきたすべての体系と、整合しない構造だった。
──なのに、あれは完成していた。
恐ろしいほど洗練されて、理論に基づき、計算され尽くした結果だった。
(まさか……自分で、あれを……?)
そこまで思い至って、ベイルは無意識に天井から目をそらす。
その可能性を認めた瞬間、自分の中の「格」が崩れる気がした。
「……チッ」
低く吐き捨てる。
悔しさというより、まだ名前のつかない感情だった。
(勝ちたかった)
その一言が、胸の奥で小さく響いた。
プライドを、地位を守るためでも、名誉のためでもない。
あの“平民”に、負けたくなかった。
それだけが、今の彼を突き動かしていた。
けれど──現実は変わらない。
ベイルは拳を握ることもできず、ただ静かに目を閉じた。
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おまけ
逮捕前の話
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あの決闘の直後、ベイル王子が重症を負ってしまい、治療の邪魔になるからと、エイン君と観客たちは訓練場から追い出された。
彼は勝ったはずなのに、なぜか敗者側みたいな空気で、ひっそりと。
訓練場を後にしてすぐ、石畳を数歩踏んだその瞬間だった。
「──あっ!いたぞ!エインだ!!」
唐突に飛んだその声を皮切りに、建物の陰から、塀の隙間から、平民寮の生徒たちがどこからともなく溢れ出した。
まるで雨後の筍みたいに、一斉に、ワラワラと。
「すげぇなエイン!!」
「最後のあれ、なんだったんだ!?」「ベイル王子に勝ったとかマジ!?」「あいつ平民見下してたからザマァ!」「土下座はいつ!?」「お前とベイルがおばちゃんを取り合ってたって本当なのか!?」「熟女枠!?おばちゃんがヒロインだったのか!?」
うわあああああ……質問が多い……!
いや質問というか、もう妄想と憶測と興奮のミックスグリル状態。
「えっと……その、実際は──」
僕がなんとか止めようと口を開いた、まさにその瞬間。
隣でエイン君が、突然、叫んだ。
「──ばかやろう!!」
その一言で、場の空気がピタリと止まった。
口を開けたまま硬直する寮生たち。僕も自然と同じ表情になっていた。
彼は、やたら芝居がかった声で続けた。
「……そんなくだらねぇこと、今はどうだっていいだろうが」
「えっ、くだら──」
「お前らは何も分かってねぇ……誰のための決闘だったと思ってんだ?」
沈黙。みんな息を呑む。
エイン君は、月の光に照らされた学院の屋根を遠く見上げながら──何かを背負った男の顔で言った。
「今この瞬間、一番泣いてるのは誰だと思う?」
「えっ……」
「食堂のおばちゃんだよ!!」
「「「!?」」」
「誰も来ない食堂で、ハンバーグが冷めていくのを見ながら、
一人、鍋をかき混ぜていたんだ……。その背中が、どれほど寂しそうだったか……」
(……半分くらい、いや9割は君のせいなんだけど)
ツッコむべきタイミングを逸した僕の横で、エインは続けた。
「くだらないこと聞いてる暇があったら──」
彼は寮生たちを一人ずつ、真剣な目で睨みつけ、
「──さっさと!おばちゃんに!元気な顔見せてこい!!」
ビシィッと指を突き出したその瞬間、寮生たちの魂に火がついた。
「うおおおおおお!!」
「俺たちは何やってたんだ!!」
「おばちゃんを一人にしちまった……!」
「おばちゃーーん!!今行きますうううう!!」
──まるで戦場に向かう兵士のように、拳を握りしめて、
青春ど真ん中の魂を燃やしながら、彼らは寮へと全力疾走していく。
僕は呆然とその光景を見送った。
「……で?」
「ん?」
「今の、なに?」
「こういうの、一回やってみたかった」
────
僕たちが食堂にたどり着いたとき、そこは──
歓声と湯気と肉汁の香りが渦巻く、熱狂の渦だった。
平民寮の食堂は、生徒たちでぎっしり埋め尽くされ、
開け放たれた扉の奥からは「おばちゃーん!ありがとうー!!」
「これが俺たちの愛だああ!!」と、謎の叫びが飛び交っている。
それだけならまだしも──
彼らはその熱量のまま、ハンバーグを食べていた。
泣きながら、叫びながら、肉汁滴るハンバーグを口いっぱいに頬張っていた。
「うめぇえええ!!」「おばちゃん最高ぉおおお!!」
「この味を忘れない……絶対に……!」
青春だの忠誠だのを語りながら、手にはフォークとナイフ。
まるで戦場の祝宴みたいだった。
……いや、どうしてこうなったんだ。
カウンターの奥では、当のおばちゃんが満面の笑みを浮かべながら、フライパンを振っていた。
手際よくハンバーグを皿に盛り、ひとりひとりに声をかけては、
「ほら、ちゃんと野菜も食べなよ」「はい次、あんた、もう三枚目でしょ」と、戦場の司令官のように厨房を駆け回っていた。
嬉しそうで、忙しそうで、それでもずっと──楽しそうだった。
それがまた、騒ぎに拍車をかけていた。
あの空間だけ、完全に別の物語が始まっている。
「……なにこれ」
「う~ん、おばちゃん感謝祭?」
「余計に意味わからないよ!!」
……それが、僕の限界だった。
盛大にため息をつき、もう何も言う気になれず、自分の部屋へ戻っていった。