エイン君が警備員に引きずられていった、あの日の夕暮れ。
あの時の彼の姿が、僕の脳裏に焼き付いて離れなかった。
翌日、僕は彼の安否を確かめるために奔走していた。だが、その試みはことごとく空回りに終わる。
職員棟の教師たちは皆、険しい顔で何かを議論しており、「採用試験」だの「前代未聞だ」だの、断片的な言葉ばかりが耳に入ってきた。僕が声をかけても、「今はそれどころではない」と手一杯の様子で、誰もまともに相手をしてくれない。
セレナ殿下のもとを訪ねても、代わりに応対したイレーネさんから返ってきたのは、氷のように冷たい一言だけだった。
「エイン様はご無事です。それ以上はお答えできかねます」
ご無事です──その言葉だけが、僕の焦りをかろうじて押し留めた。
けれど、無事ならどうして会えないんだ?
翌日の昼下がり、僕はもう一度面会を申し入れた。
やはり現れたのはイレーネさんだった。能面のような表情のまま軽く会釈をする彼女からは、何ひとつ感情が読み取れない。
「お願いします、イレーネさん! 彼が本当に無事なのか、この目で確かめさせてください!」
僕が必死に食い下がると、彼女は僕の顔をじっと見つめた。
やがて一つ、深いため息を吐く。諦めたようにも、あるいは何かを決めたようにも見える間を置いて、静かに口を開いた。
「……こちらへ」
案内された先で、僕はお茶会の部屋の前に立っていた。
緊張で喉がからからに乾く。
イレーネさんが静かに扉を開ける。
僕は息を呑み、そっと中を覗き込んだ。
──目に飛び込んできたのは、実に呑気な「授業風景」だった。
甘いお茶の香りが漂う部屋の中央で、エイン君がやけに真剣な顔で魔法の術式について語っている。
「
講義を受けるセレナ殿下は、ペンを持つ手を胸元でそっと組み、頬を淡く染めながら彼の横顔を見上げていた。
僕には、彼女の瞳が魔法陣ではなく、それを語る彼だけに向けられているように見えた。
「……あのー、ちゃんと聞いてる? そっちが教えてほしいって言ったから、“教師として”教えてるんだけど……」
「はっ!? あ、あの、はい! も、もちろん聞いておりますとも! だ、第三構造が……ええと……」
しどろもどろになるセレナ殿下を見て、エイン君は不思議そうに首をかしげた。
彼女の様子がどこかおかしいことには気づいているようだったが、その理由までは分かっていないらしい。
二人の間には、授業とは別の空気が漂い始めていた。
そんな空気を断ち切るように、隣でイレーネさんが、わざとらしく「コホン」と咳払いをした。
その音に、二人が同時にハッとしてこちらを振り向く。
「もう、イレーネ! 寮で待機しているようにと言ったはずでは……!」
セレナ殿下は邪魔をされた不満を口にしかけ、そこでイレーネさんの背後にいる僕に気づいた。
「あ……フレッドさん」
「フレッド!」
エイン君は僕を見つけるなり、ぱっと表情を緩めた。
屈託のない笑みが浮かぶ。空中に浮いていた魔法陣も、彼の集中が切れたようにすっと霧散した。
「来てくれたんだな! 王女様から、昨日は忙しくて会えないって聞いてたけど、もう大丈夫なのか?」
「え……?」
忙しい……?
何のことだろう、と僕が戸惑っていると、セレナ殿下が小さく息を呑み、肩をびくりと震わせた。
顔を赤くしたまま、僕とエイン君のあいだで視線を落ち着きなく行き来させている。
「そ、そうですの! フレッドさんは昨日、その……大変お忙しいと伺って! ですから、わたくしが代わりにエイン様のお側に……!」
必死に取り繕おうとするその様子を見て、僕はようやく状況を理解し始めた。
(セレナ殿下……まさか……)
王女という立場も忘れ、一人の少女として必死になっている彼女を見ていると、胸が痛んだ。
よりにもよって、あのエイン君に。
これ以上恥をかかせるべきじゃない。
そう判断して、僕はすぐに助け舟を出した。
「あ、うん、そうなんだ。彼女の言う通りで……ちょっと用事が立て込んでたんだけど、もう大丈夫だから。ごめん、心配かけちゃったかな、エイン君」
僕がそう言って穏やかに微笑むと、セレナ殿下は「はうぅ……」と胸を撫で下ろした。
その安堵しきった表情は、まるで溺れかけたところを助けられた人のようだった。
イレーネさんも、ちらりと僕に目配せを寄越す。
その目には、わずかながら「助かった」という色が浮かんでいた。
僕は気を取り直し、今いちばん聞きたいことを口にする。
「それよりエイン君! 戻ってきているとは聞いたけど……これは、一体どういう状況なんだい?」
けれど、その問いはエイン君の楽しげな声に遮られた。
「フレッド。呼び方が違うな」
「……は?」
首をかしげる僕を見て、エイン君はいたずらっぽく人差し指を立てる。
「今日からは、“エイン先生”と呼びなさい」
「せ、先生……!?」
あまりにも場違いな言葉に、理解が追いつかない。頭が真っ白になる。
そんな僕の混乱を面白がるように、エイン君は満足げに笑った。
「実は俺、この学校の教師になったんだ」
「教師……!?」
驚きの声は、僕とほぼ同時にセレナ殿下の口からも上がった。
言葉の意味がうまく頭に入ってこない。
あのエイン君が、教師に……?
セレナ殿下も目を丸くしていたが、やがてその意味するところを理解したらしい。
エイン君が学校にいられる。その事実が、彼女の中で確かな安堵へと変わっていく。
そして次の瞬間、その表情は花が咲くような笑みに変わった。
心の底から喜んでいるのが、はっきりと分かった。
「……でも、よかったですわ……! どんな形であれ、またこうして学校に戻ってきてくださって……本当に、嬉しいです……」
感極まったのか、その声は少し潤んでいた。
「エイン様の魔法知識は素晴らしいので、きっと良い先生になられますわ」
上品に微笑むその顔には、一点の曇りもない。
エイン君は「そうかなぁ」と照れたように笑った。
彼女の純粋な信頼を、素直に嬉しく思っているのが伝わってくる。
そんな微笑ましい光景を前にしながら、僕だけは氷のような予感に支配されていた。
二人のあいだには穏やかな空気が流れているのに、胸の奥では警鐘が鳴り響いている。
(……彼の授業を受ける生徒たちが、気の毒でならない)
◆
朝のホームルーム開始を告げる鐘が鳴るまで、あと数分。
王立魔法学校、一年Eクラスの教室は、一日の始まりとは思えないほど、どこか弛緩した空気に満ちていた。
ほとんどの生徒は椅子に浅く腰かけ、授業の準備をするでもなく、窓の外を眺めたり、どうでもいい世間話を続けたりしている。
「昨日の魔法理論の課題、やった?」
「やってないよ。面倒だし……」
「ねえ聞いた? ベイル殿下の噂」
「聞いた聞いた、あんな事があったなんてね」
そんな能天気な会話が続く中、一人だけ机に向かい、教科書を開いている少女がいた。
だが、周囲の騒がしさにとうとう耐えかねたのか、彼女は勢いよく顔を上げる。
「あなたたち、もうすぐホームルームが始まるわよ。少しは静かにできないの?」
声を上げたのは、真っ赤な髪を揺れるツインテールに結い、意志の強そうな瞳が印象的な少女──アメリア・ラングフォード。魔術の名門ラングフォード家の長女である。
しかし、周囲の反応は鈍かった。
何人かがちらりと彼女を見たものの、うんざりした顔を浮かべただけで、すぐにおしゃべりへ戻っていく。
「はいはい、優等生のお説教ね」
「アメリア、そんなに頑張ってもEクラスはEクラスだよ」
「上のクラスと違って、ここは気楽でいいじゃん」
投げやりな言葉を浴びせられ、アメリアは唇を強く噛みしめた。
侮蔑と焦りを滲ませた瞳でクラスメイトたちを見回しながら、無意識に拳を握り込む。
その苛立ちの矛先は、自然とこの状況を放置している担任教師へ向かった。
「リリィ先生! あなたも担任なのですから、もっとしゃんとしてください!」
新任教師のリリィ・ミストは、その声に「ひゃいっ!?」と肩を跳ねさせた。
だが彼女はクラスを注意するどころか、なぜか教室の扉のほうをじっと見つめ、小刻みに震えている。
顔は真っ青で、まるで死刑を待つ囚人のような表情だった。
(……いつも以上におかしいわね、先生)
そう感じたのはアメリアだけではなかった。
他の生徒たちも担任の異様な様子に気づき、不思議そうに顔を見合わせる。
その、まさにその時だった。
教室の外、廊下のほうから、ひどく騒がしい声が聞こえてきた。
「エイン君、お願いだから早く! もうチャイムが鳴っちゃう!」
「やだ。よく考えたら、もう教師やる必要なくない?」
「はぁ!? あるに決まってるでしょ! 昨日採用されたばっかりなんだよ!」
「だって教師になったのって、住む場所と飯に困ってたからだろ?」
「それは昨日も聞いたよ! それで何!?」
「でも寮に戻れるようになったし、内職はできないけど給料は入る。つまり、もう教師やる意味ない」
「そういう問題じゃない! 教師になったならちゃんと仕事して!」
「別に教師になるとは言ったけど、教師の仕事をするとは言ってないだろ」
「いやいやいや、それ誰も納得しないよ!?」
「俺は納得してる」
「はぁ……もういい! 強制連行!
「うおっ!? いつの間にそんな魔法を……って、その名前! 嫌味かよ!?」
異様なやり取りに、Eクラスの生徒たちは何事かと一斉に扉へ視線を向けた。
その直後、教室の扉が勢いよくスパンッと開かれる。
そして次の瞬間、半透明の魔力でできた四角い檻に閉じ込められたままの少年──エインが、文字通り室内へと放り込まれた。
ガラガラと音を立てて床を滑り、そのまま教室の真ん中で止まる。
それと同時に、ホームルーム開始を告げる鐘の音が学校中に響き渡った。
「うわ、僕も遅刻しちゃう!」
扉の外からそんな慌てた声が聞こえたかと思うと、すぐに足音が遠ざかっていく。
教室には、檻に入れられたままのエインと、何が起きたのか理解できず呆然と固まる生徒たちだけが残された。
やがて、魔力の檻が淡い光とともに霧散する。
エインは軽く頭を振ると、檻にぶつけた肩を押さえながら立ち上がった。
床を滑った衝撃で少し痛んだのか、一瞬だけ顔をしかめたが、すぐにいつもの無表情へ戻る。
制服についた埃を払い、教室をひと渡り見回すと、にこりともせずに言った。
「というわけで、今日からよろしく」
シン、と教室が静まり返った。
生徒も、担任のリリィも、誰ひとり声を発することができない。
その異常なまでの静寂を破ったのは、アメリアの絶叫だった。
「なんなのよ、アンタ……ッ!!」
だが、すでに鳴り終えた鐘の余韻だけが、彼女の怒りを虚しく吸い込んでいく。
再び静まり返った空気を破ったのは、エインの足音だった。
カツン、と一歩踏み出すと、彼はアメリアを一瞥もせず、教壇の隅で怯えるリリィへ向き直る。
「さて、リリィ先生。ホームルーム、始めないと」
「あ、は、はい……!」
「じゃあ、まず俺の紹介からお願いします」
リリィはおっかなびっくり頷くと、震える声でかろうじて言葉を紡いだ。
「え、ええと、皆さん……こ、こちらが、本日よりEクラスの副担任になられた、エイン先生です……」
たったそれだけの紹介に、アメリアが再び声を荒らげる。
「先生! 紹介ってそれだけですか!? それより、なぜこんな人が教師に──!」
「ちょっとうるさいな」
エインは心底面倒くさそうに、その声の主を振り返った。
「今、リリィ先生がお話ししてるでしょ。静かにしようね」
淡々とそう告げると、間髪入れずにアメリアへ向けて軽く指を弾く。
「
「──ッ!! ──、──!!」
アメリアの口は先ほどまでと同じように激しく動き、その顔は怒りで真っ赤に染まっている。
だが、彼女の声だけが、完全に世界から消え失せていた。
音もなく必死に何かを叫ぶ少女の姿。
そのあまりにシュールな光景に、クラスメイトたちはもはや笑うことすらできず、ただ絶句していた。
リリィは目の前の惨状から逃げるように、慌ててホームルームを進行させる。
「え、えっと……出席を取ります……」
点呼が進み、何人かの名前が呼ばれた、その時だった。
順調に進んでいた点呼が、ある名前で止まる。
「──トム・ヘイルズ君」
返事はない。
近くの席の生徒が、おそるおそる手を挙げた。
「あ、あの……先生。トム、多分、またサボりです」
その報告に、リリィの思考は真っ白になった。
「え、ええっ!? ま、またですか……」
か細い声が、うわずって震える。
彼女はどうしていいか分からず、ただ狼狽えたように視線を彷徨わせた。
助けを求められる相手などいないのに、必死に教室中を見回す。
──そして、不運にもその視線は教室の隅にいたエインと合ってしまった。
視線が交わったのは、ほんの一瞬。
しかし、エインは小さく、深いため息を一つ漏らすと、静かに立ち上がった。
「……はぁ。分かりました。俺が連れてきますよ。教師って大変な仕事なんですね」
それだけ言い残し、リリィの制止も聞かずに教室を飛び出していく。
残された教室では、声の出ないアメリアが必死に何かを訴え、リリィが半泣きになりながら点呼を続けるという、ひどく混沌とした時間が流れた。
そして、数分後。
教室の扉が、再び勢いよく開かれる。
そこに立っていたのは、一人の男子生徒の首根っこを掴んだまま仁王立ちするエインだった。
「連れてきました」
連れてこられたのは、授業をサボってばかりいたトムだった。
だが今の彼は、昨日までの不真面目な男とはまるで別人だった。
背筋をぴんと伸ばし、瞳をきらきらと輝かせている。
エインはそんなトムを席に座らせると、その肩をぽんと叩いて言った。
「いいね、トム君。今日一日は真面目に授業を受けるように」
「はいッ! 先生! この身が朽ち果てるまで、勉学に励みますッ!!」
模範的な騎士のような態度で、トムは異常なほど元気よく返事をした。
その豹変ぶりに、生徒たちは戦慄する。
普段のトムを知る友人は「あいつ、本当にトムか?」と疑念を隠せず、女子生徒の何人かは恐怖で身を寄せ合った。
エインはそんな彼らの様子など気にも留めず、教室の隅に座る別の生徒へ声をかける。
「あ、そうだ。マーカス君」
突然名前を呼ばれ、マーカスの肩がびくりと跳ねた。
「スパイ活動で忙しいかもしれないけど、トム君が授業で分からない所があったら、ちゃんと教えてあげてね」
「はいッ! 先生! 誠心誠意、サポートさせていただきますッ!!」
マーカスもまた、トムと寸分違わぬ完璧な姿勢と、過剰なまでのやる気で返事をした。
優等生二人による、完璧すぎるコールアンドレスポンス。
それを見せつけられた生徒たちは、もはや言葉を失い、息が詰まるような恐怖を覚えていた。
最後にエインは、恐怖に静まり返ったクラス全体を見渡し、にっこりと、天使のように優しい笑みを浮かべた。
「──ギルバート校長から、このクラスは“問題”があると聞いています。皆も、これからは二人みたいに真面目に授業を受けようね」
その言葉は、どこまでも優しかった。
だが、その場にいた全員の耳には、悪魔の囁きのように聞こえていた。
誰もが悟ったのだ。
この教師に逆らえば、自分たちも“ああなる”のだと。
こうして一年Eクラスの生徒たちは、その日、午前中の座学を、入学して初めて一言も私語を交わすことなく、完璧に受けることになったのだった。
◆
午後の実技授業。
訓練場には、初級魔法の反復練習という、ひどく退屈な空気が流れていた。
「あ、あの……! もう少しだけ……魔力を込めて……みましょうか……?」
「ま、魔力制御を……い、意識すると、もっと良くなる、と……思います……!」
担任のリリィが、か細い声でおずおずと生徒たちに指導している。だが、その声はほとんど誰の耳にも届いておらず、訓練場では惰性で初級魔法を撃つだけの、締まりのない練習が続いていた。
そんな中、アメリアだけは一人、上級魔法の
すでに何度も放っているらしいが、その輝きは依然として不安定で、的には当てているものの、制御は甘く、形状も威力も定まっていない。
リリィが「まずは基礎の反復から……」とおずおず助言するが、アメリアは魔法の構築を崩すことなく、鼻で笑った。
「基礎? ラングフォード家の人間が、そんな退屈な訓練をする必要なんてない! 重要なのは高位魔術への適性、結果が全てよ。基礎なんて、後からどうにでもなるわ」
その言葉どおり、彼女の手が止まる気配はない。
だが次の瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。まるで自分自身へ放った矢が心臓に突き刺さったかのような、鋭く不快な痛みだった。
アメリアはその違和感を振り払うように、先ほどよりもさらに多くの魔力を炎へ注ぎ込み、無理やり【紅蓮槍】を形作ろうとする。
しかし、制御を失った炎は荒々しく揺らめき、輪郭をぼやけさせ、今にも暴発しそうなほど危うい失敗作へと変わっていった。
リリィが「あ、危ないです!」と悲鳴を上げるより早く、エインが前へ出て、軽く指を振る。
「……危険な魔法は使わないでほしいなぁ」
「なっ!?」
アメリアは息を呑んだ。
自分の意志とは無関係に、暴れ狂っていた炎の魔力が急速に静けさを取り戻し、形を変えていく。不安定な揺らめきは消え失せ、輪郭は鋭く研ぎ澄まされ、眩いほどの輝きを放つ完璧な【紅蓮槍】へと再構築された。
それは、アメリアが思い描いていた理想そのものだった。
だが──それは彼女の腕の中にありながら、完全にエインの支配下に置かれていた。
「それじゃ暴発しちゃうでしょ。ほら、こうすれば暴れない」
エインは息を吐きつつ、指先で魔法の動きを整えながら言う。
「それにしても……ものすごい魔力量だな。俺じゃこんな立派な魔法は使えないよ」
「……ふざけないでッ!!」
アメリアは叫ぶと同時に、エインによって完成させられた【紅蓮槍】を、自らの意志で霧散させた。
煮え滾るような瞳でエインを睨みつけながらも、その胸の内には、怒りだけでは済まない、もっと暗く複雑な感情が渦巻いている。
やがて、その唇から絞り出すような呟きが漏れた。
「……よりにもよって、あなたなんかに……!」
それは呪詛にも似た声だった。
今この場の出来事だけでは到底説明のつかない、あまりにも個人的で根深い憎悪が、その一言には滲んでいた。
しかし、心当たりのないエインは、心底不思議そうに首をかしげただけだった。
彼は小さく息を吐き、視線をアメリアから外して訓練場全体を見回す。
問題があるのは彼女だけではない。集中力が続かず、魔法の威力や軌道が安定しない者。魔力不足を言い訳に早々と練習をやめる者。どうせ怒られないと高を括り、リリィの指導を無視して雑談を続ける者──。
その光景を前に、エインの瞳に冷たい不満の色が浮かんだ。
自分が同じ課題で苦しんだ時とはまるで正反対の、あまりにも弛緩した生徒たちの姿。比較すればするほど、彼らの体たらくは際立って見える。
だらけた授業が続き、やがて終了時刻が近づいてきた。
そんな中、最後の練習に取り組んでいた生徒の一人が、疲労から集中力を欠き、【火球】の制御を誤る。炎の球は明後日の方向へ飛び、エインの方へ向かっていった。
彼は反射的に防御しようとした。だが──
「ア゛ッ!?」
腕輪が激痛を走らせる。
代わりに、リリィが咄嗟に展開した【防壁】が火球を防いだ。
「だ、大丈夫ですか……!」
エインは涙目で腕輪を睨みつけた。返事をする余裕もないほど痛むらしい。
その光景を見逃さなかった数人の生徒が、静かに顔を見合わせた。
それから間もなく、授業終了の鐘が鳴る。
ノルマを達成できた生徒は、“優等生”のトムやマーカス、そしてアメリアといったほんの一握りで、リリィは困ったように眉を下げることしかできなかった。
鐘の余韻が訓練場に残る中、立ち直ったエインがゆっくりと顔を上げる。
「……皆さん、今日のノルマ未達成者は、居残りです」
低いが、よく通る声だった。
その宣言に、生徒たちの肩が一斉に強張る。
次の瞬間、だらけていた生徒たちが一斉に反発した。
「はあ!? 無理に決まってんだろ!」
「もう魔力なんか残ってねーよ!」
「魔力回復薬だって、在庫がほとんどないって話じゃないですか!」
当然の抗議だった。だが、エインは鼻で笑う。
「回復薬? いらねーよ。──魔力がないなら、俺が分けてやる」
「……は?」
意味のわからない言葉に、生徒たちは呆気に取られる。
エインはそんな彼らを無視して、リリィへ向き直った。
「先生。こいつら、ちょっと借りていきますね」
「え、ええっ!? どこへ……」
「トム、マーカス! 未達成者を全員、講堂まで連れて行け!」
「「はいッ! 先生!」」
エインの号令一下、二人の“優等生”が嫌がる生徒たちを効率よく追い立て、講堂へと強制連行していく。
「ちょっと待ちなさいよ、何をするつもりなの!?」
アメリアも思わず声を上げ、エインの後を追って駆け出した。
ほどなくして、訓練場にはリリィだけがぽつんと取り残される。
◆
講堂に連れてこられた生徒たちは、何が何だかわからないまま、不安そうに周囲を見回していた。
その視線をよそに、エインは一人で舞台へ上がり、中央に立って詠唱を始める。
「
すると彼の足元に、入学式で職員が顕現させたものと同じ、精緻な紋様の魔法陣が浮かび上がった。
さらに、生徒たちの立つホール全体の床にも、巨大で複雑な魔法陣が青白い光を放ちながら姿を現す。
入学式の日に目にした、あの異様な光景が、再び講堂いっぱいに広がっていた。
「あなた、またその魔法陣を……!」
アメリアが怒りに震える声で叫ぶ。
「入学式の時のように、また神聖な
エインは、心底どうでもよさそうにアメリアを一瞥した。
「うるさいな。お前らが魔力がないってグチグチ言うから、補充してやろうってだけだろ」
「だから! その魔力補充と【啓導の光輪】が何の関係があるのよ!」
アメリアが食ってかかると、エインは面倒くさそうに肩をすくめた。
「ほら、よく見てよ。この魔法陣、『支配の呪い』『魔力奪取の呪い』『魔力転送』の三つの術式が組まれてるでしょ。よくできてるよねぇ~」
「なっ……! そ、そんなはずない! 【啓導の光輪】は何百年も前から続く神聖な儀式であって、呪いだなんて……!」
アメリアが激しく否定するが、エインは気のない声で返す。
「ふーん。まあ、信じないなら試してみればいいだろ」
「何を──」
その言葉が終わるより早く、講堂の扉が勢いよく開き、息を切らした人物がなだれ込んできた。
「はあっ、はあっ……み、皆さん! 勝手な行動は、困ります……!」
そこにいたのは、体力のなさからすっかり息の上がった担任のリリィだった。
エインはこれ幸いとばかりに声をかける。
「あ、リリィ先生。ちょうどいいところに。ちょっとこっち来てもらえます?」
「へ? あ、はい……」
訳も分からぬまま近づいてきた彼女に、エインはふと思い出したように尋ねた。
「リリィ先生って、ここの卒業生でしたっけ?」
「え? は、はい……そうですけど、それが何か……?」
戸惑いながらも頷く彼女に、エインはほっとしたように息を漏らす。
「良かった。それならちゃんと呪いがかかってますね」
「へ……? の、呪い、ですか……?」
リリィがその意味を理解するより早く、エインは彼女の頭上で軽く指を弾いた。
「ええと、大元の術者の魔力を真似ればいいから、
「……え?」
突然の無茶振りに、彼女はぽかんと口を開けた。
だが次の瞬間、その身体が自らの意志とは無関係に、くるくるとその場で回り始める。
「きゃっ!? な、何ですかこれ!? 身体が、勝手に……!」
くるり、くるり、くるり。
そして三回転し終えた彼女の口から、か細く、しかしはっきりと、こう聞こえた。
「……わん」
あまりにもシュールな光景に、Eクラスの生徒たちは石のように凍りついた。
一方のリリィは顔を真っ赤にし、涙目のままエインに詰め寄る。
「い、今、何を……!」
「はい、ですから、リリィ先生には『支配の呪い』がかけられてるんですよ。それを今、実演してみただけです」
「し、支配の呪い!?」
自分が呪いをかけられていると知り、リリィは真っ青になる。
「そんな……!
慌てて自身に解呪をかけるが、何も起こらない。
エインはそんな彼女の必死な様子を眺めながら、まるで講義でもするように淡々と説明を続けた。
「呪いと言いましたが、厳密には精神魔法との複合術式です。それを解くにも、解呪と打ち消しを複合させた魔法が必要ですよ」
「そ、そんな魔法、知りません……! 知っていても、そんな高度なもの、私に使えるわけが……!」
ついに、彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「あ、その魔法なら、俺は使えますよ」
「でしたら、どうか! 解いてください!」
リリィが必死に頼み込むが、エインは心底面倒くさそうに顔をしかめ、腕に嵌められた銀の腕輪をちらりと見た。
「えー……でも、それって教師の“職務”と関係あるんですか? 腕輪が作動すると面倒なんで、職務外の魔法は使いたくないんですけど」
その無情な返答に、彼女は一瞬、言葉を失った。
一度だけでもこれほどの恥辱だ。この呪いが解けない限り、いつまたエインの気まぐれで、犬の鳴き真似以上の命令をさせられるかもしれない。
教師としての尊厳を守るため、彼女は必死に頭を回転させた。
「あ、あります! ありますとも!」
もはや体裁を繕う余裕もなく、リリィは大泣きしながら必死に説得を試みる。
「わ、私という同僚教師が、このように正常な判断能力を欠いた状態では、生徒たちへの指導に支障をきたします! つまり、私の呪いを解くことは、学校の教育活動を正常化させるための、き、極めて重要な職務なのです!」
「うーん、まあ、言われてみればそうか……」
エインは彼女の苦し紛れの理屈に一応は納得したような返事をすると、大きく、そして心底面倒くさそうにため息をついた。
「……はあ、仕方ないですね。やりますよ、やればいいんでしょ。職務なら」
彼はリリィの前に立つと、これまでとは比べものにならないほど精密で複雑な術式を、指先で編み上げていく。
「
術式がリリィの身体に吸い込まれると、彼女を縛っていた見えない枷が、ガラスのように砕け散る音を立てた。
「あ……!」
呪縛から解き放たれたリリィは、緊張の糸が切れたように、その場にへなへなと座り込む。
エインはそんな彼女を一瞥すると、再び生徒たちへ向き直った。
「──というわけで、今からこの魔法陣を使って魔力を補充します。といっても、今回は魔力の転送先を変更するだけなので……」
「
エインが指を鳴らすと、魔法陣の幾何学模様が生き物のように蠢き、その構造を組み替えていく。
そして陣全体が、まばゆい光を放ち始めた。
「うわっ!?」
「な、なんだこれ……!?」
生徒たちの体内に、外から膨大な魔力が流れ込んでくる感覚。
最初は、枯渇していた魔力が満たされていく心地よさに、生徒たちは興奮した。
「すげえ! 魔力が回復していく!」
だが、その興奮はすぐに恐怖へと変わった。
魔力は満タンになってもなお、止まることなく流れ込み続けるのだ。
「ま、待って! もう限界だ! キャパ超えちまう!」
「おい! これ以上魔力が入ったら、俺たちどうなるんだよ!?」
恐怖に上ずった声が次々に上がる。
だがエインは、そんな必死の訴えに悪びれもせず、ただ一言だけ返した。
「え、そこまでは知らない」
あまりにも無責任なその発言に、生徒たちの顔が青ざめた。
このままでは本当に危険だ──そう悟った彼らは、生き残るために一つの結論へたどり着く。
「魔法を使って! 魔力を消費しないと、取り返しのつかないことになるわ!!」
「【火球】! 【火球】! 【火球】!」
「なんでもいいから撃て!」
生徒たちは自らの命を守るため、決死の覚悟で魔法を撃ち始めた。
講堂に悲鳴と魔法の爆音が響き渡る。
その光景を満足そうに眺めるエインの隣で、リリィはただ唇を震わせることしかできない。
それでも、生徒を守るという使命感が、彼女にかろうじて勇気を与えた。
「……あ、あの……エイン先生……! も、もう十分です……! これ以上は本当に危険です……!」
「いつまでこの地獄が続くんだ!?」
「でも、まだ始まったばかりですよ。せめて十分はやらないと」
「誰か助けてえええ!!」
「じゅ、十分!? そ、そんな……! 生徒たちはもう限界だというのに……!」
「やばい、魔力が溢れる!」
「リリィ先生、俺の時なんて回復薬を何本も飲んで夜までやらされてたんですよ。それがたった十分で済むんですから、ハーゲン教授よりよっぽど優しいですよ」
「鬼! 悪魔! 人でなし!!」
「そ、それは……!」
リリィは何も言い返せなかった。
エインの理屈は明らかにおかしい。だが、本人の中ではちゃんと筋が通っているらしい。
エインは、傍らで押し黙るリリィに向き直る。
「それにほら、見てくださいよ」
彼が指し示した先には、地獄の様相が広がっていた。
講堂中に轟音が鳴り響き、天井には無数の焦げ跡が刻まれ、壁には氷の破片が突き刺さる。魔法の反動でよろめく者、魔力切れで倒れ込む者。それはもはや授業でも訓練でもない。自らの身を守るための、生存をかけた闘争だった。
「みんな、すごく真面目に練習してるでしょう? 俺ってやっぱり、教師の才能あると思いません?」
リリィは、目の前の同僚の正気を、本気で疑い始めていた。