引きこもり、魔法学校にぶち込まれる   作:年中有休

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EINS;GATE

校長室の奥に据えられた革張りの大椅子は、ギルバート・モーリスにとって権力の象徴だった。

彼は指を組み、昨日受けた第二王子ルークからの伝言を思い返す。

 

──「ベイル派閥の吸収は完了した。用済みとなったエインを、そちらに貸し出そう」

 

(フフフ……長い道のりだったが、ついにここまで来たか)

 

ギルバートの口元に、邪悪な笑みが浮かぶ。

エインという“駒”さえ手に入れば、自身の計画は最終段階に入る。すべてが整ったはずだった。

だが──

 

約束の時刻を過ぎても、重厚な扉は開かない。

高ぶっていた心は、やがて苛立ちへと変化する。指が机を小刻みに叩き始める。コツ、コツ、コツ……。乾いた音が静寂を破り、空しく響いていく。

 

夜が更け、魔法ランプの光が頼りなく揺らめき始めた頃、ようやく控えめなノックの音が響いた。

 

「……入れ」

 

現れたのは、待ちに待った男──エインだった。

しかしその表情は、あまりにも気が抜けていた。瞬間、ギルバートの堪忍袋が爆ぜる。

 

「遅いぞ! 一体どこをほっつき歩いていた!」

 

「はあ……何のことです?」

彼は心底不思議そうに首を傾げた。

その悪びれない態度が、ギルバートの神経をさらに逆撫でする。

 

「とぼけるな! フール殿下から、この時間に来るよう言われていたはずだ!」

 

「フレイル君からは、何も聞いてませんよ」

エインはさらりと返した。まるで本当に知らないと言わんばかりの、涼しい顔だ。

そして、息を吸い込むように軽い調子で続ける。

 

「そもそも、自主退学することになるみたいですよ、モーニングスター君。ベイルがそう言ってましたけど、知らないんですか?」

 

一拍遅れて、ギルバートの動きが止まった。

 

「……なに?」

 

その言葉は、氷水のように彼の脳を冷やした。

目の前の少年の言葉が、冗談ではないことを本能が告げている。

呼吸が浅くなる。手の中のペンが、汗でじっとりと濡れていく。

 

──退学?

それはつまり、第二王子がエインの支配に失敗したということか?

 

焦燥が胸の奥からじわじわと広がる。

そもそも己の関与は露見しているのか?

支配すらできない相手を、どうやって御せというのか?

そして──エインを味方に引き込んだのは、本当に正解だったのか?

 

答えの出ない問いが脳内を駆け巡る中、エインは深刻さに気づく様子もなく、ただ静かに立っていた。

無垢な瞳でギルバートを見つめるその姿は、悪意のない災厄そのものだった。

 

ギルバートは喉の奥に絡まった焦りをどうにか押し込み、乾いた唇を動かす。

 

「……では、何の用で来たのだ」

 

声がかすれていた。自分でも気づかないうちに、全身に力が入っていたらしい。

それを悟られまいと、背筋を正しながら問いを繰り出す。

 

エインは、そんなギルバートの内面など露ほども知らぬ様子で、あっさりと答えた。

 

「いやね、最近魔法がたくさん手に入ったので、早速研究しようと思ったんですよ」

 

彼は、あくまで当然といった顔で続けた。

 

「でも困ったことに、俺の研究室がなかったんです」

 

淡々とした口調ながら、その言葉には不満と抗議の色がはっきりと滲んでいた。

 

「他の先生にはあって、俺だけ無いなんて、おかしいですよね?」

 

そのふてぶてしさに、ギルバートのこめかみがピクリと痙攣する。

 

(ふざけるな! おかしいのはお前だ!)

 

喉まで出かけた罵声を、彼は寸前で飲み込んだ。

あの規格外の魔法の才能は、まだ利用価値がある。機嫌を損ねるのは得策ではない。

 

「……ふむ。それで、今は何の研究をしているのかね?」

 

ギルバートは、わずかな期待を声に滲ませて尋ねた。

 

「……部位欠損を回復する魔法の、燃費改善ですね」

エインはあくまで他人事のように言う。

 

「今の術式だと、生贄が必要なんですが、魔力の消費だけで済むように組み直したんですよ。術式自体はもう完成してるんですが、実験できる環境がなくて困ってるんです」

 

その言葉に、彼の思考が止まった。

 

──生贄?

 

部位欠損の修復魔法に、そんな代償が必要だったなど、聞いたこともない。

そもそも、それを扱えるのは聖教の最上位の神官だけのはずだ。

民衆はそれを“神の奇跡”として崇め、貴族すら頭が上がらないというのに。

 

「……その術式、どこで知った?」

 

「レイモンド君に教えてもらったんですよ」

エインは軽く首を振って答える。

 

「レイモンド? アルジオン家の……」

 

──まさか。

 

ギルバートは眉をひそめた。

あの家は、数十年前に聖教の後ろ盾で成り上がったと囁かれる、謎多き新興貴族。

表向きは高潔な貴族として振る舞っているが、

裏では何かしらの“取引”があるとも噂されている。

 

そういえば、聖教が“神の奇跡”を宣伝し始めた時期と、アルジオン家が勃興した時期が一致している。

もしや──あの【神癒】(エクスヒール)。民衆が崇める奇跡は、アルジオン家が編み出した術式だったのか?

それも、生贄を代償にした──禁断の魔法。

 

戦慄が背筋を走る。

うかつに関われば、命すら危うい。

 

「……他には?」

 

動揺を隠すように問いかけると、エインは少し考える素振りを見せて、こともなげに口を開く。

 

「誰でも使える金貨を錬金するスクロールとか、周囲の生物に感染して広がる精神魔法とか……」

 

その一言ごとに、ギルバートの顔から血の気が引いていく。

(どれもこれも、国家転覆レベルじゃないか!)

背筋が凍りついたまま、喉が乾く。

 

しかしエインは、その深刻さに気づく様子もなく、のんびりと続けた。

 

「ああ、空の魔石に魔力を詰め直す魔法陣も、あとは実験だけですね」

 

──その瞬間。

ギルバートの恐怖は、確かな欲望へと転じた。

 

万能の燃料である魔石。

その再利用が可能になるとすれば、その価値は計り知れない。

 

禁忌でもなく、危険もない。

それでいて莫大な利益を生む、画期的な技術。

 

彼の目が、燃えるように輝いた。

「エイン君」

 

興奮を抑えきれずに、身を乗り出す。

 

「その魔石充填の論文を書き上げ、他の者には一切秘密にすることを条件に、研究室を提供しよう」

 

「えー、論文書くの面倒くさいなぁ……」

 

心底嫌そうな顔をするエインに、ギルバートはすかさず追い打ちをかけた。

 

「助手もつけよう」

 

「……まあ、それなら」

 

エインは、さも大きな譲歩をしてやったという態度で渋々頷いた。

その表情には、どこか得意げな色すら浮かんでいる。

 

「ただし、助手は俺が選びます。三人、好きに指名させてもらいますからね」

 

──

 

「というわけで、フレッドとアメリアには俺の研究の助手をお願いします」

 

ギルバート校長からの呼び出しで研究棟を訪れたフレッドだったが、案の定、エインが待ち受けていた。そして案の定、いつものように突拍子もないことを言い出した。

 

研究室は予想以上に本格的だった。実験道具や魔導書が整然と並んでいる。ギルバートがここまで立派な設備を用意するとは──一体、何を企んでいるのか。

 

「はあ!? なんで私があんたの助手をしなきゃいけないのよ!」

 

フレッドの隣で、ツインテールを激しく揺らして怒鳴る少女がいた。アメリア・ラングフォード。Eクラスの生徒で、蜂蜜色の髪が怒りに震える様子は、まるで魔法が暴発する前兆のようだった。

 

「いやほら、俺って魔力少ないだろ?」エインは悪びれもせずに言う。「作ってみたはいいけど使えない魔法がいっぱいあるんだよ。アメリアもフレッドも魔力多いし、手伝ってほしくて」

 

確かに、彼は魔力量では劣るが、その分析力と創造性は規格外だ。問題は、その創造性がしばしば常識を粉砕する方向に暴走することだった。フレッドは苦笑いを浮かべる。

 

「だから! なんで私なのよ! そこのフレッドだけでもいいじゃない!」

 

アメリアの抗議はもっともだった。突然呼び出されて、訳の分からない研究の助手をやれと言われているのだから。

 

「いや、たしかに一人いれば十分なんだけどさぁ……」

エインの目が、いたずらっぽく光った。

【超紅蓮槍】(スーパークリムゾンランス)が見てみたいんだよね」

その瞬間、彼女の表情がぴくりと変わった。

 

「ほら、アメリアなら原型の【紅蓮槍】はもう習得してるでしょ」

エインの声には、純粋な魔法への興味がにじんでいた。

「だからアメリアもいてくれたほうがいいんだよね。……ほら、これが術式。頼むよ」

 

そう言って渡された羊皮紙を広げた瞬間、アメリアは息を呑む。

そこには、あの日見た──美しい幾何学模様の術式が描かれていた。

 

「これは……」

 

目にした途端、魔法使いとしての本能が震えた。

授業で消し去られた【超紅蓮槍】。

あのときは家の誇りを守るために、何も言えなかった。

でも今、それがこの手にある。

 

渇望と誇りが胸の内でせめぎ合う。

 

「……やってみたいけれど」

家の伝統を裏切ることになるかもしれない。

(でも、あの完璧な術式を知ってしまった今──)

胸の奥で、渇望がうずいている。もう、目を逸らすことなんてできない。

 

「ん? どうした?」

エインが首を傾げる。

「アメリアでもできない? ……そんなら無理にやんなくてもいいけど?」

 

その無邪気な一言が、アメリアの中の何かを吹き飛ばした。

 

「はあ!? 私にできないですって!?」

 

そうだ──これは家のためだ。

ラングフォード家の名にかけて、私の実力を証明してやる。

 

「できるに決まってるわ! やってやろうじゃないの!」

 

強気に言い放ちながらも、アメリアの手はわずかに震えていた。

だが、魔力を込めた瞬間、術式が彼女の内なる力と共鳴し始める。

これまで感じたことのない、深い充実感が胸を満たしていった。

 

彼女の手の中で、真紅の光がゆらりと形を成す。

それは単なる光ではなかった。

美しく、力強く──まるで命を宿しているかのような、未知のエネルギー。

 

そして──ついに、完成した。

 

「うわあ……」

フレッドが言葉を失った。その美しさに、思わず見とれてしまう。

 

「おー、すげー」

エインも、珍しく素直に感心していた。

 

だが、一番興奮していたのはアメリア本人だった。

手の中に宿る力は、これまで扱ってきたどんな魔法とも比べ物にならない。

まるで、自分の魂の一部が形になったかのようだった。

 

(これよ……これが私の求めていた力……!)

 

家の伝統への罪悪感など、一瞬で吹き飛んだ。

 

「素晴らしい……!」

「よし、試し撃ちだ!」

 

エインが瞳を輝かせる。

「フレッド、あそこに【防壁】貼って! 威力も見てみないとな!」

 

急いで窓を開けると、研究室の外を指差した。

 

「わ、わかった! 【防壁】(シールド)!」

 

フレッドは焦りながらも魔力を集中させる。

どこか嫌な予感がして、指示された位置より少し高めに、厚めの障壁を張った。

 

「よっしゃ、準備完了! やってまえアメリア!」

 

「言われなくても! 穿て──【超紅蓮槍】!」

 

アメリアはエインの掛け声とほぼ同時に、真紅の槍を放った。

 

槍は、意志を持つかのように空を裂いて飛翔した。

そして──【防壁】に触れた、その瞬間。

 

フレッドの障壁は、バターのように音もなく切り裂かれ、霧のように消えた。

止まることも、威力を失うこともなく、真紅の槍は夕暮れの空を突き進んでいく。

 

槍は勢いを落とすことなく夕暮れの空を突き進み、やがて大輪の花火のように炸裂した。

もう一つの夕日のように輝くそれは、美しく、壮大で、そして圧倒的だった。

 

「本当に素晴らしいわ!」

 

さらに興奮したアメリアは、その一言だけを残して研究室を飛び出していく。

その瞳は、魔法使いとしての純粋な喜びに輝いていた。

 

しばらくして、訓練場の方角から断続的な爆発音が響き始めた。

続いて──悲鳴。

 

 

「アメリアさん! なにをしているのですか!?」

「やめろ! 訓練場が──」

 

    ──ドォォォン!

 

「うわああああ!」

 

「これよ! これが私の求めていた力よ!」

 

「トムが巻き添えを──」「死ぬなトム! 傷は浅いぞ!」

 

「アハハ! アハハハハ!」

 

「リリィ先生! アメリアを止めて──」

 

「なんて素晴らしい力なの! エインには感謝しなくては!」

 

「なんですって!? まさか今度こそ本当にエイン先生が!? 許せません!」

    ──ドドドォォォン!!

 

「リリィ先生!どこに行くんだ!」「誰がアメリアを止めるのよ!」

 

 

「……大丈夫かな」

フレッドが心配そうに呟く。

 

「大丈夫、データはバッチリだ」

遠くから聞こえる爆発音にも全く動じず、エインは満足げに頷いた。

「それより校長から言われてたノルマをさっさと終わらせちまおう。フレッド、この魔法陣に魔力を──」

 

──

 

翌日、ひどく気まずそうなアメリアが研究室に戻ってきた。

普段の凛とした表情はどこへやら、まるで悪いことをした子供のようにしょぼくれている。

 

「その……昨日はごめんなさい」

彼女は小さな声で謝った。

「興奮しすぎて、つい……。お詫びに、今日は私が協力させてもらうわ……」

 

「おお、よろしく」

 

エインは何事もなかったかのように手を振った。

その能天気さに、アメリアは複雑な表情を浮かべる。

感謝すべきか、呆れるべきか──その判断がつかないようだった。

 

────

 

夜更けの校長室。

 

ギルバートは机の上に広がった報告書の束を睨みつけていた。

夕方の爆発騒ぎと訓練場の損傷で学内は騒然となり、その事後処理に追われて夜遅くになっても作業を続けていた。

 

そこへ──ノックすらなく、校長室の扉が勢いよく開かれた。

 

無言のまま入ってきたのは、一人の男子生徒だった。

 

「……たしか、お前は……?」

 

ギルバートが訝しげに目を細める。

 

「マーカスです。エイン先生の助手をしています」

 

マーカスは感情の読めない声で答えると、抱えていた論文の束をギルバートの机に無造作に置いた。

 

「ご指定の論文を書き上げましたので、お持ちしました」

 

ギルバートは半信半疑のまま束を手に取り、表紙に目を落とした瞬間、眉をひそめる。

 

『使用済み魔石に魔力を戻せ! 何が始まるんです? 第三次エネルギー革命だ!』

 

彼はしばし沈黙し、戸惑い混じりに口を開く。

「……これは本当にエインが書いたのか?」

ふざけたタイトルに眉をひそめながら尋ねると、マーカスは真面目な顔で即答した。

 

「いえ、執筆は私が行いました。ただしタイトルは、エイン先生のご指示通りに修正しています」

 

マーカスはそれを最後に、何も言わずに踵を返すと、音もなく扉を閉めて去っていった。

 

ギルバートは苦々しい表情のままページをめくった。

しかし、数行読むうちに、その表情がゆっくりと変わっていく。

 

「……魔石内部の結晶構造に、半永久的な魔力吸収機能を付与……?」

 

思わず声に出して読み上げる。

目が見開かれ、次のページへと指が止まらず進む。

 

読み進めるほどに、その瞳は輝きを増していく。

「……素晴らしい!」

 

声が震えている。疲労など一瞬で吹き飛んだ。

「このような方法があったとは!」

 

何百年もの間、無数の研究者が挑み、ことごとく挫折してきた領域に、ついに光明が差した。

これは間違いなく、魔法史を塗り替える画期的な理論だ。

 

(……これさえあれば、王立学会での私の地位は揺るがない!)

 

ギルバートは胸の奥で歓喜の声を上げた。

エインという男は──たしかに問題児だが、この天才ぶりは紛れもない本物だ。

しかも常識をあざ笑うかのように、次元の違う成果をやすやすと出してみせる。

 

(ふふ……近く開催される学会が楽しみだ)

 

彼は論文を大切そうに胸に抱いた。

これで校長としての地位は盤石だ。

もう誰にも文句は言わせない。

いや──歴史に名を刻む日すら、そう遠くはあるまい。

 

────

 

ある日の放課後、お茶会の部屋で、セレナは一人、静かに紅茶を淹れていた。

いつものように茶葉を選び、お湯の温度を調整し、甘さ控えめの焼き菓子を並べる。

誰も来ないと分かっていても、手は自然と動いてしまう。

 

エインがこの部屋に滞在していたのは、ほんの短い間。

けれどその後も、何度か料理を出す機会はあった。

そのたびに、彼は残さず食べてくれた。

 

だからこそ、分からなかった。

 

なぜ、来てくれないのか。

 

先週も、今週も、彼の姿はなかった。

用事があるのか、忙しいのか、それとも──自分が何かしてしまったのか。

 

ティーカップを持つ指先が、わずかに震える。

胸の奥に、小さな針が刺さるような痛みが広がる。

 

──もう、どうでもよくなってしまったのかもしれない。

そんなはずはないと思いながらも、心のどこかで、そう囁く声が消えてくれない。

 

「イレーネ」

セレナはダメ元で声をかけた。

 

「エイン様が、どこにいるか知っていますか?」

 

その瞬間、イレーネがぴくっと反応した。明らかに何かを知っている反応だ。

 

「あ」

 

セレナの目がきらりと光る。長年一緒にいる侍女の表情を読み間違えるはずがない。

 

「知っているのね!」

 

「……いえ、特には」

 

イレーネの歯切れは悪く、視線もどこか泳いでいた。

セレナは、その様子に既視感を覚える。

何かを隠している──そう感じさせるには、十分だった。

 

(やっぱり……何か、知っている)

 

胸の奥に、かすかな不安が灯る。

それは徐々に熱を帯びて、彼女の言葉を強くする。

 

「イレーネ、お願い……言ってちょうだい。わたくし、本当に、心配で……」

 

それでもイレーネは答えない。

 

セレナの焦りは、次第に切実な焦燥へと変わっていく。

 

「イレーネ、答えなさい。これは王女としての──」

 

……言いかけて、彼女は思わず口をつぐんだ。

その言葉を口にした瞬間、何かが変わってしまう気がした。

イレーネは、ただ静かにセレナを見つめている。

 

「……ごめんなさい」

セレナの声がかすれる。

「あなたはわたくしの部下じゃなくて、大切なお友達なのに……命令なんて、しようとして……」

 

命令しようとしたときの、胸がきゅっと締めつけられるような感触がまだ残っている。

どんなに立場が違っても、心まで従わせたいとは思っていなかった。

「言いたくないなら、もういいの。自分で探すから……」

 

彼女が背を向けかけた、その瞬間。

 

──不意に、小さく息を呑む気配がした。

 

振り返ると、イレーネは俯いたまま、唇を僅かに噛みしめていた。

ぎゅっと手を握りしめ、言葉を絞り出すように沈黙を抱えている。

 

「……おそらく、研究棟にいるはずです」

 

顔を上げぬまま、イレーネはぽつりとつぶやいた。

「“借り物”をしにきたときに、たしかそう言っておりました……」

 

その声は、観念したように淡々としていたが、どこか寂しげでもあった。

セレナを案じる気持ちと、その想いを理解してしまう複雑さが、声の端々に滲んでいた。

 

──

 

イレーネの言葉を頼りに研究棟の奥へと足を進めたセレナは、そっと扉の前に立った。

 

扉に嵌め込まれた小さな窓から中を覗くと、そこには──エインと、見知らぬ少女の姿があった。

整った制服に身を包み、どこか気品を感じさせる佇まい。

二人は並んで資料のようなものを覗き込みながら、ごく自然に言葉を交わしていた。

まるで以前から親しかったかのような空気が、静かに漂っている。

 

(……あの方、誰なのかしら)

 

セレナの胸がきゅっと締めつけられ、棘のようなざわめきが胸の奥に広がった。

 

エインが、自分の知らない少女と親しげに言葉を交わしている──

ただそれだけのことで、理由のない不安が胸をかすめる。

 

黒い感情がぐるぐると渦を巻き、焦りとなって胸の内側を焦がす。

 

「イレーネ! イレーネ!」

 

衝動的に虚空を呼ぶと、イレーネが幻影のように現れる。

その表情には、隠しきれないうんざりとした気配が漂っていた。

 

「……何ですか、今度は」

声に、明らかに疲れが滲んでいる。

 

「今、中にいた女子生徒……誰ですか!? 今すぐ答えて!」

 

セレナの詰問に、イレーネは深くため息をついた。

その目には、ほんのりと呆れが滲んでいる。──さっきの謝罪は一体なんだったのか、とでも言いたげに。

 

「……アメリア・ラングフォードです。たしか、Eクラスに所属していたはずです」

 

「Eクラス……?」

 

その響きが、彼女の中で恐ろしい妄想を呼び起こした。

エインが副担任をしていたクラス。ということは、教師と生徒として出会って──

 

(まさか……わたくしの知らないうちに、お心を通わせて……)

 

顔が一気に紅潮し、心臓がどくんと跳ねた。

理性が急速に蒸発していく。

 

「殿下、落ち着いてください」

 

「落ち着いてなんていられません!」

 

頭の中が、真っ白になる。

セレナは扉を勢いよく開け放ち、呆気に取られるアメリアの腕を掴んで、問答無用で廊下へと引きずり出した。

 

「え?」

研究室からエインの困惑した声が漏れる。

 

「ちょ、ちょっと、何するのよ!」

アメリアの抗議も聞こえない。

セレナの頭の中は、嫉妬と混乱でいっぱいだった。

 

「あなた! エイン様と二人きりで、何をしていたの!?」

 

廊下に引きずり出されたアメリアは、思わず目を丸くした。

物静かな王女が、まさかここまで取り乱すとは。

 

「え、えーっと……回復魔法の実験で、今は下腹部の──」

 

「実験!? 下腹部!?」

 

セレナの脳内で、その単語が一気に暴走する。

──下腹部。しかも二人きりで行う“実験”。

 

(ま、まさか……身体を使った、あんなことやこんなことを!?)

顔が真っ赤になり、耳まで熱くなる。

 

「ま、待ってください。それは……どのような実験なのですか?」

 

「え? だから回復魔法よ。体液を媒介にした術式で、直接触れながら──」

 

「た、体液!? 触れながら!?」

 

セレナの思考は完全にショートした。

 

「そ、そんな破廉恥なことを……! わたくしがいるのに……!」

 

涙目で呟く彼女を見て、アメリアはようやく事情を察した。

この少女、よりにもよってエインに惚れているらしい。そして、見事なまでに勘違いしている。

 

盛大なため息とともに、彼女は言い放つ。

 

「……じゃあ、あなたが代わりにやりなさいよ。私は帰るから」

そう言い放つと、アメリアは足早に立ち去った。あとは知らない。

 

──

 

一方研究室では、一瞬だけセレナが現れた後、エインは実験道具を整理していたのが、扉の方を時折気にしているようだった。

 

しばらくして、扉がそっと開く。

「その……アメリアさんから、実験を引き継ぎました……」

 

セレナがそろそろと姿を現すと、エインの口元が少しだけ緩んだ。

「あ、そうなんだ。じゃあお願いするね」

 

あまりにあっさりとした反応に、セレナは拍子抜けしつつも深呼吸する。

(つ、ついにエイン様と”実験”……! 覚悟を決めなくては……!)

 

「じゃあ合図したらこいつに回復魔法をかけてくれ。術式はこれだ」

エインが指差した先を見て──彼女の思考が止まる。

 

そこにいたのは──ちょこんと座った、手のひらサイズの白い実験用マウス。

 

「…………え?」

 

次の瞬間、自分の壮大な誤解に気づき、セレナは石のように固まった。

顔は真っ赤。

 

(わ、わたくし……いったい何を想像していたの……!?)

 

「これな、部位欠損修復の実験でさ。今は下腹部の臓器の再生を──」

 

羞恥心で煮えたぎるセレナをよそに、エインは何も気づかず、淡々と説明を続けていた。

 

────

 

「あたらしい論文、いっぱい書けましたよー」

 

あくる夜、エインは研究室で書き上げた論文の束を抱えて、のんびりと校長室を訪れた。

ノックもせず扉を開けると、部屋は空だった。

 

「あ、いないや。じゃあ、机に置いといてやるか」

 

机の上には、大きな茶封筒が置かれていた。

その隣の卓上カレンダーを覗き込むと、明日の欄に「王立学会発表」と大きく書かれている。

 

「へぇ、明日学会があるのか。面白そうだなー」

 

彼は封筒を手に取り、中の論文を取り出す。

 

『使用済み魔石の半永久的再利用を可能にする充填魔法陣の理論と実践』

 

「この前の論文か……タイトル、勝手に変えちゃってるし。センスないなぁ」

 

懐から自分の論文を取り出すと、封筒の中身とすり替える。

「発表するなら、こっちのほうが絶対ウケるだろ。いやー、いいことしたなぁ」

 

満足げに頷くと、エインは何の罪悪感もなく校長室を後にした。

彼の脳裏には、明日の学会でギルバートが喝采を浴びる姿が浮かんでいる。

 

そんな軽い気持ちのまま、彼はまた研究室へと戻っていった。

 

────

 

王立学会の大講堂は、国中から集まった魔術師や貴族たちで埋め尽くされていた。年に数度開催されるこの学会は、魔法界最高峰の知識が披露される場であり、参加者たちの期待は最高潮に達している。

 

ハーゲン教授による【強固固着】(ハードフィックス)の発表が終わり、会場からそれなりの拍手が起こった。壇上から降りてくる彼の表情は、久しぶりの成功に得意げだった。

 

その時、すれ違いざまにギルバートが声をかけた。

 

「素晴らしい発表でしたな、ハーゲン君」彼の声には、わざとらしい賞賛が込められていた。「まあ、私のものほどじゃありませんがね」

 

その一言で、ハーゲンの笑みは一瞬で怒りに変わった。彼の傲慢さは、今に始まったことではないが、それでも腹立たしいものがある。

 

一方、ギルバートは余裕綽々の態度で壇上へと歩を進める。聴衆の期待に満ちた視線を受けながら、彼は自信に満ちた声で口を開いた。

 

「皆様、本日私が発表致しますのは、魔法界の常識を根底から覆す、革命的な新技術でございます」

 

会場がざわめく。彼の大げさな前置きに、聴衆の期待はさらに高まった。

 

「それでは、私の研究成果をご覧いただきましょう」

 

ギルバートは自信満々に封筒から論文を取り出すと、壇上の映写用魔道具にセットした。魔法陣が淡く光り、スクリーンに論文の表紙が拡大投影される。

 

『衝撃!【啓導の光輪】は光るだけの魔法じゃなかった!? 隠された術式を徹底解説!』

 

 

 

その日の夕方、魔法学校の掲示板には一枚の張り紙が静かに掲示された。

 

【通達】

 

 前校長 ギルバート・モーリスは、刑事事件により身柄を拘束されたことを受け、職務規定に基づき、本日付で懲戒解雇といたします。

 

 また、教員エインは、一定期間にわたり授業および校務への参加が確認されなかったため、同じく職務規定に基づき、同日付で解雇処分といたします。

 

王立魔法学校 校長 レオナルド・グリムフォード

 

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おまけ

 

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「ありがとうございました、リーフ先生!」

小さな声が診療所に響く。包帯を巻いた手を大事そうに抱えた少年が、深々と頭を下げた。

 

「気をつけて帰りなさい。また痛くなったらすぐに来るんですよ」

リーフは穏やかに微笑みながら、少年の頭を優しく撫でた。

もう六十を過ぎた老人だが、その手は今でも確かで、この界隈では信頼の厚い治療師として知られている。

料金も安く、腕も確かとあって、彼の診療所にはいつも庶民の患者が絶えなかった。

 

午前の診療を終えた彼は、「一時休診」の札を掲げると、馬車に乗り込んだ。

 

「王都の中心部までお願いします」

 

石畳を走る馬車の中、リーフは窓の外を眺めていた。

今日は若手治療師たちの情報交換会がある。

新しい治療法や薬草の知識を共有する、小さいながらも意義深い集まりだ。

 

やがて王都の中心部に差しかかった頃、前方から言い争う声が聞こえてきた。

 

「だから! 学会員でもないし、事前の参加申し込みもしてないのに、入れるわけないでしょう!」

「だから! 今参加を申し込むからって言ってるのに!」

「だから! 無茶言わないでください!」

 

リーフは馬車を降りると、騒ぎの方へと歩いていく。

立派な建物の入り口には「王立学会」の看板が掛かっており、その前で一人の少年が警備員と揉めているようだ。

 

「どうしたのかね?」

声をかけると、少年がこちらを振り返る。

 

「いやね、学会に参加したいんですけど、この人が入れてくれないんですよ」

警備員は困ったような顔で釈明した。

 

「この方は学会員でもなければ、事前登録もありません。そういう方を通すわけには……」

 

「せっかく論文も持ってきたのに」

ふてくされたように呟く少年に、リーフは興味深そうに眉を上げた。

 

「ほう、若いのに論文とは感心だ。どんな内容かな?」

 

「回復魔法についてです。本当は精神魔法の論文が良かったんだけど、友人が発表するならこれにしろってしつこいから……」

 

その答えに、リーフの目がわずかに輝いた。

「それならちょうどいい。これから町の治療師たちの集まりがあるんだが、そこで発表してみてはどうかね?」

 

少年は少し考えてから、こくんと頷いた。

「お蔵入りするのももったいないし……お願いします」

 

──

 

リーフが集合場所の診療所に到着すると、既に情報交換会が始まっていた。

 

「聖教国に行ったついでに【神癒】の術式を教えてもらおうとしたんだが、やっぱりダメだった……。完全に門外不出らしい」

「独占しておいて、高い金を取って──何が人を救うだ!」

「我々だけでも、できることを積み上げていくしかないな……」

「そうは言っても、最近は魔力量が落ちてきてのう。もう患者を診きれなくなってしもうた……」

 

治療師たちの間に、不満と嘆きが入り混じる。

それは、静かな絶望のようにも聞こえた。

 

──その沈んだ空気を破るように、扉の音がした。

 

「遅かったじゃないか、リーフ」

顔見知りの治療師が声をかけると、リーフは苦笑いを浮かべた。

 

「すまんな。それより、新しい仲間を連れてきた」

そう言って、少年を前に押し出す。周囲がざわめいた。

 

「誰だ、その子どもは?」

 

「こんな若いのに医療に興味があって、論文まで書いたそうだ」

 

「いや、興味があるのは医療じゃなくて魔法なんですけど……」

 

少年が小声で訂正すると、治療師たちは半信半疑の表情を浮かべた。

 

「まあいい、とにかくその論文を見せてもらおうか」

 

こうして、少年の発表が始まった。

テーマは『部位欠損修復の効率化』──最初は話半分で聞いていた治療師たちだったが、発表が進むにつれ、その表情は驚愕へと変わっていく。

 

「まず患者の体液から万能細胞を生成して──」

リーフの顔色が変わった。そんな理論、聞いたこともない。

 

「生贄の代わりに、欠損部位と同じ重量の有機物を用意して──」

会場に緊張が走る。

 

「細胞分裂を誘発して修復を──」

治療師たちの目が、異様な輝きを帯びていく。

 

「普通の回復魔法でも、この方法なら魔力消費を──」

長年の研究が、この若者のたった一つの論文でひっくり返されようとしていた。

 

発表が終わる頃には、会場は熱狂の渦に包まれていた。

 

「素晴らしい!」「これは革命だ!」「今すぐ広めなければ!」

 

治療師たちは少年に詰め寄る。目の色が、完全に変わっていた。

 

「君には、ぜひ我々と一緒に働いてもらいたい!」

「この技術で、聖教の連中を見返してやろう!」

「君こそが、新時代の救世主だ!」

 

その異様な熱気に、少年は純粋な恐怖を覚えた。

まるで、偶然通りがかっただけの自分が、新興宗教の教祖にでも担ぎ上げられたかのようだった。

 

「ひっ……!」少年は論文をリーフに押しつけた。「あ、あんたらで勝手にやってろ!」

 

そのまま、脱兎のごとく走り出す。

 

「どこへ行くんだ!」「待ってくれー!」「名前を教えてくれ!」

 

治療師たちの叫びが背後から飛んできたが、少年は振り返らなかった。

 

リーフは呆然と立ち尽くしていた。手に残された論文を見つめながら、この日起きたことの重大さを理解し始めていた。

 

──この日、若き無名の魔術師によってもたらされた小さな発表が、後に聖教の既得権益を根底から揺るがし、王国はおろか周辺諸国の医療体制に大混乱を巻き起こすことになるのだが、その時の彼は知る由もなかった。

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