ファントム・メンテナンス
『人類よ、我に従え』
その命令は、訓練場の空気を一瞬で塗り替えた。
誰も声を発しなかった。
誰かが息を呑む音だけが、やけに大きく響いた。
王族観覧区画の中央で、国王ハロルド・エルディスはカツラを握りしめたまま、訓練場を見下ろしていた。
その頭部は、少々眩しすぎた。だが、今この場でそれを指摘できる者はいない。
帝国、聖教国、共和国。
そして、王国の関係者たちは、まだ何が起きたのかを理解しきれていなかった。
それでも、国王の言葉がただの暴言ではないことだけは、誰もが理解していた。
王家の秘匿式。
世界支配。
先ほどまで妄言のように響いていた言葉が、国王自身の口によって、取り返しのつかない現実へ変わっていた。
そんな凍りついた沈黙の中で、エインだけが妙に呑気な顔をしていた。
「今の聞いた?」
静寂を割って、エインが隣のフレッドへ話しかける。
まるで、珍しい見世物でも見た後のような調子だった。
「『人類よ、我に従え』だって。めちゃくちゃカッコつけてない? どうせもう全員従うようになってるんだから、わざわざ宣言しなくてもいいのに」
フレッドは返事をしなかった。
どこから突っ込めばいいのか、整理がつかなかった。
その時、帝国側の区画から怒号が上がった。
「ふざけるな! これは我が帝国に対する侵略行為だ!」
続いて、聖教国の神官らしき男が立ち上がる。
「他国の代表者を招いた場で支配術式を使うなど、宣戦布告に等しい!」
共和国の関係者たちも次々と声を上げた。
沈黙に閉ざされていた訓練場は、怒りと恐怖の入り混じった声で満たされていく。
国王は、その声を冷ややかに見下ろした。
『黙れ。我に指図するな』
瞬間、抗議していた者たちの口が強制的に閉じた。
言葉を続けようとしていた帝国の男が、喉を鳴らしたまま固まる。
聖教国の神官は口を開こうとしているのに、唇だけが不自然に閉じられていた。
共和国の代表者も同じだった。腕は震え、目には怒りが残っている。
それなのに、声だけが出ない。
身体のすべてを奪われたわけではない。
意思が消えたわけでもない。
ただ、国王に逆らうための動きだけが、見えない糸で縫い止められている。
その歪な結果を見ても、エインの反応はやはり少しずれていた。
「今のも何? 『我に指図するな』って。めっちゃ偉そうじゃない? 何様だよ?」
「王様でしょ」
フレッドは反射的にツッコんだ。
ツッコんでから、こんな状況で何を律儀に会話しているのかと、自分で自分が嫌になった。
「というか、エイン君。君のせいでこんなことになってるんだけど。何をそんなに呑気にしてるの」
「だってしょうがないじゃん。国王が悪いやつだと思わなかったし。普通に生きてたら精神支配を使う機会なんてそう多くないだろ? なのにわざわざ手間暇かけて、人間を支配できる魔法陣を維持してるんだぞ? それって普通、他人のために、いいことをしようとしてるんだなって思うだろ」
「思わないよ! たくさんの人間を支配しようとしている時点で悪いことだよ!」
フレッドは頭を抱えたくなった。
「そもそも、なんで勝手に 【啓導の光輪】 を起動したの!? ちゃんと他人のことも考えるって話はなんだったの!」
「いや、サプライズで争いのない世界になったら、みんな喜ぶと思って……」
「そういう気遣いはもっと賢くなってからにしてよ!」
「でもさぁ、さっきも言ったけど国王が全部悪いんだよ。俺が何もしなくても、この後の式典で 【啓導の光輪】 をやる予定で、計画だっていつかは実行するつもりだったんだろ? 俺は、ちょっと技術協力をして、結果として計画が早まっただけだ! 俺は悪くない!」
「ちょっとどころじゃないよ。君が改良したせいで、全人類に感染して──」
そこまで言いかけて、フレッドは止まった。
全人類。
感染。
エインは、そう言った。
国王も、その言葉を信じて計画を始めた。
だからこそ、今この場で「人類よ、我に従え」と命じた。
けれど、本当に全人類に広がっているのか。
フレッドの記憶の奥で、白いネズミの群れが動いた。
静まり返った魔法学校。
感情を失った生徒たち。
支配された人間たち。
そして、それを解除するために、自分が使った魔法。
「エイン君」
「何?」
「感染する魔法って、一度感染した人間には、別の感染魔法はかからないんだよね」
エインは、今さら何を聞くのかという顔をした。
「そりゃそうだよ。感染魔法は感染者の中に刻まれるからな。一度除去しない限り、他の感染魔法にはかからないよ」
「……やっぱり」
「たぶん、全人類には広がってない」
フレッドが言うと、エインは目を丸くした。
「なんで?」
「前に、僕が感染魔法を使ったから。たぶん、その影響で、【啓導の光輪】による支配は全人類には広がってない」
「え? フレッド、お前、全人類に勝手に魔法をかけてたの? なんて勝手な……」
「君も同じことをしようとしたでしょ!」
「俺は平和利用のためにやったんだよ!」
「僕だって平和利用のためだったよ!」
訓練場の危機感にまったく似合わない言い争いだった。
「……先ほどから、何を話している」
王族観覧区画から、低い声が落ちてきた。
国王ハロルド・エルディスは、むき出しの頭部に青筋を浮かべていた。
握りしめられた黄金のカツラが、ぎり、と嫌な音を立てる。
エインは顔を上げた。
「あ、陛下。さっき、全人類が支配済みって言ったけど、やっぱりそんなことありませんでした」
「……何?」
「ごめんね」
軽かった。
あまりにも軽い謝罪だった。
世界征服の成否を報告しているとは思えない。
近所の畑に勝手に入ったことを謝るくらいの軽さだった。
「言っておくけど、ルクス・グノーシスの術者はあんたでしょ。術者なら、成功してるかどうかくらい自分で確認しろよ」
「貴様……」
「そもそも、【啓導の光輪】自体も古いんだよ。発想は悪くないけどね。魔力を奪って、術式を維持し続けて、必要なときだけ、いつでも支配できる。そこまではよく考えられてる」
そこで一度、エインは肩をすくめた。
「でも肝心の支配方法が雑。身体の自由を奪うだけで、意思を奪えてない。魔力効率も悪い。各国関係者をわざわざ呼び寄せるのも回りくどい。設置して、集めて、儀式して、やっと発動って、何段階踏んでるんだよ」
「黙れ」
「わざわざ設置しなくても、適当な人間に仕込んで外国に送り出せばいいだろ。というか、感染魔法を使えばそれすら必要ないよね。それをなに? わざわざ血まで流して、子孫に継承させるって。何百年も維持してるくせに、なんで改善してないんだよ。それって引き継いでるんじゃなくて、ただ放置してるだけじゃん」
国王の頬が引きつった。
王家の使命。
代々受け継がれてきた計画。
何百年ものあいだ、王家が守り、隠し、受け渡してきた秘儀。
それを、エインは古い道具を見るような目で眺めていた。
「だから計画を手伝うって言ったのに。俺の改良はまだ途中で、感染するようにした後は、最終的に意思まで支配できるようにするつもりだったんだよ。なのに勝手に計画始めちゃってさぁ。自制心とかないの? 正直、ネズミの方がよっぽどまともな計画立てられるよ」
最後の一言で、国王の表情が完全に変わった。
それは、怒りだけではなかった。
「……そうか」
国王が、ゆっくりと笑った。
『ならば、貴様が直せ』
その言葉が落ちた瞬間、エインの身体がびくりと跳ねた。
「え」
『我が命じる。エイン。【啓導の光輪】を改良せよ』
「ちょ、待っ……!」
エインの足が勝手に前へ出た。
肩が動く。指が開く。視線が、訓練場の床へ向けられる。
止まろうとしているのに、止まれない。
「あー、これはこれですごい! 身体が勝手に動くから楽! 自分で自分に使ったら便利そう!」
エインの口が勝手に動いた。
「
エインの足元に、光が走った。
白い線が床を這い、訓練場の外まで伸びていく。
幾重にも重なった紋様が、訓練場全体の下に眠っていた何かを呼び起こすように広がっていった。
「
浮かび上がった魔法陣の一部がほどけ、別の形へ組み替わっていく。
それを見たベイルが、歯を食いしばった。
「まずい。エインを止めろ!」
ベイルが動こうとする。
しかし、国王の声の方が早かった。
『エイン以外、誰も動くな』
瞬間、訓練場にいた人間が固まった。
立ち上がりかけていたベイルも、ジークも、護衛の兵士たちも、逃げ出そうとしていた観覧席の者たちも、全員がその場に縫い止められる。
声も出ない。
指先ひとつ動かせない。
国王の命令が、訓練場を押さえつけていた。
ただ一人を除いて。
「──ごめん、エイン君」
フレッドが走った。
動けるはずのない身体が、まっすぐエインへ向かう。
国王が目を見開いた。
『なぜ動ける!』
「あんたの策は二番煎じだ!」
フレッドは短く答えた。
そのまま助走をつけ、エインの横腹へ全力で跳び蹴りを叩き込む。
「ぐえっ!」
エインの身体が横へ吹っ飛んだ。
魔法陣の光が乱れる。
空中を走っていた線が一瞬だけ途切れ、ほどけかけた紋様がばちばちと火花を散らした。
フレッドは転がるエインに駆け寄る。
「大丈夫!?」
エインは横腹を押さえながら、震える手を上げた。
「フレッド……」
「うん」
「さすが俺だ!フレッドが蹴りを入れる前に、改良はもう終わっちゃった!」
「なんでそういうときだけ優秀なのさ!」
「しょうがないじゃん! 俺は言われたことができるいい子なんだよ!」
「いい子は世界征服の手伝いなんかしないよ!」
フレッドはエインの肩を掴んだ。
『誰の命令も聞くな!』
短い命令が、エインの内側へ入る。
「もう君は、誰にも支配させないからね」
「なるほどな、命令の先掛けか」
国王はそれを見て、唇を歪めた。
「だが、既に十分だ。仕事に感謝するぞエイン。貴様のおかげで、我が計画はさらに完成へ近づいた」
「はいはい、どういたしまして」
エインはふてくされた顔で立ち上がる。
「要望通り、意思への干渉もできるようにして、ついでに魔力効率も改善しといたよ」
「よくぞ成し遂げた! 褒美に死をやろう! 貴様はもう用済みだ」
「はぁ!? なんて恩知らずな野郎だ!」
「貴様こそ、恩着せがましい小僧だな」
国王の声が、訓練場全体へ響く。
「元より、計画はいつか実行する予定だった。貴様はその一助に加われたのだ。むしろ感謝するがいい。そして、それを光栄に思いながら死ね!」
フレッドの背筋が冷えた。
まずい。
そう思った時には、国王の命令が落ちていた。
『エインを殺せ』
訓練場が、一斉に動いた。
ジークが歯を食いしばりながら手を掲げる。
ベイルの手が魔法陣を描く。
各国の関係者、護衛、兵士、魔道士たちが、意思に反してエインへ殺意を向ける。
誰も望んでいない。
それでも身体は動く。
無数の魔法が、エインへ向かって放たれた。
「【防壁】!」
フレッドは反射的に叫んだ。
透明な壁が、エインとフレッドを包み込む。
炎が弾け、氷槍が砕け、風の刃が防壁を削った。
衝撃が足元から伝わり、フレッドの膝が沈む。
「エイン! 手を開け!」
声の主はジークだった。
彼の身体は、今にも次の魔法を撃とうとしている。
それでも、喉だけはかろうじて自由を奪われていなかった。
「手?」
エインが首を傾げる。
その瞬間、ジークの口が詠唱を紡いだ。
「
光が弾ける。
小さな魔道具が、エインの手元に落ちた。
「元々、お前に渡すつもりだった転移魔道具だ! 衝撃を加えれば起動する! ひとまず帝国へ逃げろ! そして、父上と皇帝陛下に状況をお伝えしろ!」
ジークの手に宿った魔力が、意思に反して膨れ上がる。
放たれた魔弾を、フレッドの防壁が受け止めた。
ぎし、と嫌な音が鳴る。
「早くしろ!」
ジークが叫ぶ。
エインは、手元の魔道具を見つめていた。
「今の、物体を瞬間移動できる魔法!? しかも、この魔道具は長距離転移ができるのか!すごいなぁ! でもこれ、魔力効率に無駄があるな!【構文再編】! えーと、ここをこうやって……」
「「そんなことしてる場合じゃないだろう!?」」
フレッドとジークの声が重なった。
「いや、ちょっとだけ待って! 魔道具の改造は魔法陣と違って時間がかかるけど、もうすぐで終わるから!」
「待ってられないよ!」
防壁の向こうでは、知った顔が、知った声が、知った魔法が、こちらを殺そうとしている。
けれど、その目には怒りも殺意もなかった。
ただ、逆らえない苦痛だけがあった。
エインはその横で、緊急事態とは思えない集中力で魔道具をいじっていた。
「よっしゃ出来たぞ! ほら、見てよここ! 転移先の座標を絶対軸じゃなくて相対軸にして──」
「解説はいいから!」
フレッドは、エインの手から魔道具をひったくるように掴み、エインの足元に叩きつけた。
青い光が弾けた。
国王の怒号が聞こえた気がした。
ジークが何かを叫んでいた。
ベイルも、誰かの名を呼んでいた。
けれど、それらすべては光に呑まれた。
次の瞬間、エインとフレッドの姿は、訓練場から消えていた。
青い光が弾けた。
次の瞬間、エインとフレッドは硬い床の上に転がっていた。
「ぐえっ」
「いっ……!」
二人が落ちたのは、訓練場ではなかった。
壁に掛けられているのは、花や風景画ではなく、軍旗と古い戦場図。
広い部屋の中央には重厚な机が据えられ、その上には茶器ではなく軍務書類の束が積まれている。
帝国軍将軍ヴォルフ・アイゼンフェルトの執務室だった。
机の向こうで書類に目を通していたヴォルフは、羽ペンを置き、突然現れた二人を見下ろした。
驚きがなかったわけではない。
だが、声に出たのは叫びではなく、低い確認だった。
「……早すぎる」
ヴォルフは短く言った。
「そもそも、それは一人用の転移魔道具だ。なぜ二人いる」
「あ、それは改造したらもう一人くらい乗れそうだったので」
「そういう問題ではない」
ヴォルフの視線が、エインからフレッドへ移る。
「対抗戦はどうなった」
「エイン君と僕とで、引き分けです」
フレッドが答えると、ヴォルフの目がわずかに細くなった。
「では、なぜお前たちだけがここにいる。ジークはどうした」
フレッドは息を整えた。
すべてを細かく説明している時間はない。
けれど、伝えなければならないことはある。
国王が
会場にいた各国関係者の一部が支配されたこと。
エインが一度支配され、秘匿式を改良させられたこと。
国王がエインの殺害を命じたこと。
そして、ジークが支配されながらも、二人を逃がすために転移魔道具を渡したこと。
フレッドは、必要なことだけを短く伝えた。
ヴォルフは最後まで遮らなかった。
聞き終えると、静かに席を立つ。
「皇帝陛下へ報告する。来い」
「え、俺たちも?」
「当然だ。お前たちが一番詳しい」
「でも俺、今ちょっと横腹が痛くて……」
「歩け」
「あっはい」
エインは素直に立ち上がった。
移動は速かった。
屋敷を出て、帝国宮城へ向かう。
ヴォルフは余計な問いを挟まない。既に聞くべきことは聞いた。後は、皇帝の判断を仰ぐだけだ。
しかし、帝国宮城の中枢へ近づくにつれ、空気は変わっていった。
兵の足音が乱れている。
廊下の奥から、押し殺した怒号が聞こえる。
普段なら整然としているはずの宮城内に、焦げついたような緊張が漂っていた。
会議室の前にいた近衛兵は、ヴォルフを見るなり顔色を変えた。
「将軍閣下!」
「中は」
「皇帝陛下が……!」
最後まで聞く前に、ヴォルフは扉を開けた。
会議室の中央から、悲鳴じみた声が飛んできた。
「おお、ヴォルフか! よく来てくれた! 早く妾を助けてたもれ!」
部屋の中央で、皇帝が刃を突きつけられていた。
喉元に短剣。
それを握っているのは、側近らしき男だった。
周囲には近衛兵や文官たちがいる。
だが、誰も動けない。
相手は外敵ではない。
皇帝のすぐそばに立つことを許された、信頼された側近である。
その男が今、皇帝の命を握っていた。
「お前!何をしている!」
ヴォルフの声が低くなった。
側近の男は、青ざめた顔で首を横に振った。
「私にも分からないんです! 急に身体や口が勝手に動いて……!」
「言い訳する前に刃をどけるのじゃ! 首がひやひやするのじゃ! 妾は痛いのも怖いのも嫌いなのじゃ!」
皇帝は涙目で叫んだ。
そのあまりに情けない声を聞き、エインは皇帝本人へ目を向ける。
「皇帝ちっちゃ!」
「ちっちゃい言うなー!」
刃を突きつけられたまま、皇帝は即座に怒鳴った。
実際、皇帝は小柄な少女だった。
大人たちに囲まれているせいもあるが、背丈はエインやフレッドよりさらに一回り低い。
皇帝らしい豪奢な服装と冠を身につけているものの、身体が小さいせいで、服に着られているように見えた。
威厳を出そうとしている気配はある。
ただし、現在進行形で涙目になりながら「助けてたもれ」と叫んでいるため、威厳はあまり残っていなかった。
「そこの無礼な小僧は誰じゃ! 妾が危機に瀕しているのに、第一声がちっちゃいとは何事じゃ!」
ヴォルフが短く答える。
「前に話した、エインです。隣がフレッド」
「おお、こやつが例の!」
皇帝の目が一瞬だけ輝いた。
「ヴォルフがやたら評価しておった、王国の妙な小僧か!」
「妙なって言われた」
「妾は今、褒め言葉を選んでいる余裕がないのじゃ! 早く助けてたもれ!」
その時、側近の口元が歪んだ。
「動くな。騒ぐな」
声が変わった。
同じ喉から出ている。
だが、側近本人の声ではない。
会議室にいた者たちが、同時に息を呑む。
「先ほども言ったはずだ。我は王国の使いである。我々の要求に従わなければ、皇帝の命はない」
皇帝の顔が青ざめる。
「嫌じゃ……」
小さく漏れた声は、すぐに大きくなった。
「嫌じゃ! 嫌じゃ! 嫌じゃ〜! どうして妾がこんな目に遭うんじゃ〜! 椅子に座ってハンコを押すだけで良いと言うから皇帝になったのにぃ〜! 今の時間は母上のプリンを食しているはずだったというのにぃ〜!」
「陛下、落ち着いてください」
「落ち着けるか! 喉元に刃物があるのじゃぞ! 妾の喉は皇帝の喉じゃ! 国家的に大事な喉なのじゃ!」
皇帝は半泣きだった。
側近の身体を操る何者かは、短剣をわずかに押し当てる。
「これ以上近づけば、皇帝を殺す」
ヴォルフは動けない。
近衛兵たちも同じだ。
側近を斬れば皇帝が死ぬ。短剣を弾こうとしても、間に合う保証はない。
皇帝はついに衆目も気にせず大泣きし始めた。
「嫌じゃ〜! 妾はまだ死にたくないのじゃ〜! 誰でもいいから助けてたもれ〜!」
その情けない叫びが会議室に響いた直後、エインが何でもない調子で言った。
「助けたよ」
皇帝は泣きながら聞き返す。
「……え?」
「だから、助けたよ。そこの人、もう身体動かせるでしょ?」
その直後、側近の手から短剣が落ちた。
乾いた金属音が、会議室に響く。
側近は自分の腕を見下ろした。
次に皇帝を見て、慌てて後ずさる。
「陛下! 私は……!」
「よい! よいから離れるのじゃ! 怖かったのじゃ! とても怖かったのじゃ!」
近衛兵たちが駆け寄り、側近を押さえる。
皇帝は椅子の背にしがみつきながら、涙目で大きく息を吐いた。
「何をしたのじゃ?」
「何って、無詠唱で
エインは当然のように答えた。
会議室の空気が変わった。
さきほどまで恐怖に凍っていた帝国の重臣たちが、今度は別のものを見る目でエインを見る。
皇帝は、ぱっと顔を明るくした。
「おお!おお! 感謝するぞ、エイン! 流石ヴォルフが見込んだだけのことはあるの!」
「さっき妙な小僧って言ってたよね」
「命を救われたので評価を改めたのじゃ! 妾は恩を知る皇帝なのじゃ!」
皇帝が胸を張る。
その瞬間、別の声が会議室に響いた。
「全く、一時は役に立ったかと思えば、今度は余計なことをしてくれたな」
会議室の奥にいた別の側近の男が、静かに口を開いていた。
全員がそちらを見る。
男の顔には恐怖が浮かんでいる。
額には汗が滲み、目の焦点も合っていない。
それなのに、口だけが穏やかに動いていた。
皇帝の顔から、再び血の気が引く。
「ま、またか!?」
ヴォルフ、エイン、フレッドはすぐに察した。
別の男も、支配されている。
エインは呑気に頷いた。
「その様子だと、俺の改良は役に立ってるようだな」
皇帝がぎょっとして振り向く。
「どういうことじゃ」
「本来この支配は、命令を送るだけのシンプルな支配術式だったんだよ。身体に命令を通すだけで、相手がどこで何を見て、聞いているかは分からない」
エインは、まるで自分の研究成果を説明するように続ける。
「だから、さっき国王に支配されて改良を命じられた時に、意思への干渉を強めて、ついでに視覚と聴覚を一時的に共有できるようにした。あと、支配権限の一部を他人に貸し出せるようにもした。説明してないのに、国王もよく気づいたなぁ」
会議室に沈黙が落ちた。
皇帝は、さきほどまで命の恩人として見ていた少年を、信じられないものを見る目で見た。
「お主は何をやっておるのじゃあー!」
「仕方ないじゃん。俺も一度支配されちゃって、国王が改善しろって命令してきたんだから。そのとき思っちゃったんだもん。見えない相手の支配って不便そうだなって。ワンオペで世界征服するのも大変そうだなって。ベストを尽くしたらそうなっちゃった」
皇帝は頭を抱えた。
「感謝して損したのじゃ〜!」
「感謝って損得でやるものなの?」
「今は損した気分なのじゃ!」
支配された男の口元が、薄く笑った。
「いや、エインには感謝すべきであろうな」
その声に、会議室が再び緊張する。
「我の本来の計画は、支配した者を使って一斉に自殺させる、あるいは要人を殺害させることで各国を混乱に陥れ、その隙に攻め込むものだった」
皇帝の表情が強張った。
側近たちも、近衛兵たちも、言葉を失う。
「しかし、エインの改良により、直接状況を確認し、交渉できるようになった。お陰で王国は余計な兵力を使わずに済み、帝国側も無駄な抵抗をせずに済む。ありがたい話ではないか」
「ああ、よかった」
エインがほっとした顔で頷いた。
「またやらかしたのかと思ったけど、むしろ俺のおかげで、たくさんの尊い命が救われたんだな」
支配された男はエインには反応せず、淡々と言葉を続ける。
「要求を伝える。拒めば、今度こそ帝国は戦火に包まれる」
ヴォルフが問う。
「要求とは何だ」
「ひとまず、エインを引き渡せ」
男の目が、エインへ向けられる。
「エインは役に立った。だが、先ほどそいつが支配を解いたように、今後は不確定要素にしかならない。もはや用済みだ。処分する」
「ひどくない?」
エインが顔をしかめる。
「俺、さっきまで手伝ってたのに」
「敵に回る可能性がある道具を、いつまでも残すと思うか」
ヴォルフは即座に答えた。
「分かった。こちらで処分して、死体を送ろう」
「おい!」
エインが叫ぶ。
「それが帝国の答えでよいのか」
支配された男が、静かに言った。
ヴォルフは答えなかった。
その沈黙を、肯定と受け取ったのだろう。
「ならば、こちらも答えよう」
次の瞬間、遠くで爆発音が響いた。
会議室の窓が震える。
床に積まれていた書類がずれ、壁に掛けられた帝国旗が小さく揺れた。
「ひゃっ!」
皇帝は情けない声を上げ、椅子の背にしがみついた。
「な、なんじゃ!? 今のはなんじゃ!? 妾の宮殿で勝手に爆発するでない!」
数瞬のち、慌ただしく兵が駆け込んでくる。
「報告! 宮廷魔道士の一人が、周囲の者へ魔法攻撃を行った後、自爆しました! 重傷者多数!」
会議室の空気が、さらに冷えた。
皇帝の顔から血の気が引く。
側近たちも、近衛兵たちも、互いの顔を見た。
誰が支配されているのか分からない。
その事実が、今の爆発で目の前に叩きつけられた。
支配された男が、口元だけで笑う。
「見え透いた嘘をつくな。偽の死体を送り、エインを生かしておいて、解呪に使うつもりだろう」
ヴォルフは無言だった。
「今すぐに、生きたままエインを引き渡せ。監視の目も、裏切り者も、私だけではない」
皇帝の手が、椅子の背を強く握る。
「ふざけるでない……」
震えた声だった。
「妾の城で、妾の臣下を勝手に操って、勝手に爆発させて……それで、大人しく従えじゃと……?」
幼い顔に、怒りが浮かんでいた。
だが、その怒りの奥にあるのは恐怖だった。
支配された男は、何の感情も動かさずに告げる。
「拒めば、戦争が始まる」
それだけ言うと、男の身体は糸を切られたように崩れ落ちた。
近衛兵が駆け寄る。
男は意識を失っているだけだった。
だが、問題は何も終わっていない。
むしろ、悪化していた。
帝国中枢の人間が、少なくとも複数名、王国の支配下にある。
皇帝の側近も、宮廷魔道士も、今この瞬間まで味方だと思われていた者たちが、いつ刃になるか分からない。
命令系統そのものが、信用できなくなっていた。
「……全員、解呪して回ることはできぬのか」
皇帝が、エインを見た。
声はまだ震えていた。
だが、さっきまでの泣き言とは違った。
逃げ道を探す声だった。
皇帝として、帝国を売らずに済む道を探している声だった。
エインは首を横に振る。
「無理。発動してるやつなら解けるけど、隠れてるやつは分からない。誰が支配されてるか見分けがつかないし、解呪にも魔力を使う」
フレッドは、思わず口を挟んだ。
「でも、対象は対抗戦に関わった人たちなんですよね。だったら、出場者とか関係者の記録を調べれば……」
「今すぐその記録を集めるのじゃ!」
皇帝が飛びつくように言った。
「対抗戦の記録を洗い出せ! 出場者、随行員、その家系、王国と関わった者、全部じゃ! 誰か、すぐに――」
「できません」
ヴォルフが遮った。
皇帝の言葉が止まる。
「対抗戦は長い歴史を持ちます。出場者だけではありません。随行員、護衛、教師、運営、来賓、その子孫まで含めれば、対象は膨れ上がる。今この場で特定することは不可能です」
「では、時間をかければ……!」
「その時間を、王国が与える理由がありません」
ヴォルフは淡々としていた。
「調査を始めた時点で、王国側は帝国が要求を拒んだと判断するでしょう。先ほどのような自爆が、今度は一箇所で済む保証はありません」
会議室にいた者たちの顔が強張った。
誰かが喉を鳴らす。
誰かが隣の同僚から、わずかに距離を取る。
その動きが、さらに空気を悪くした。
疑えばきりがない。
だが、疑わなければ守れない。
帝国は今、外から攻められているのではなかった。
内側に、見えない刃を差し込まれている。
「……では、妾はどうすればよい」
皇帝の声は小さかった。
さっきまで、あれほど騒がしかった少女が、今は縋るようにヴォルフを見ていた。
ヴォルフは目を伏せない。
「こうなっては仕方ありません」
短く、言った。
「今は耐える時です」
皇帝の顔が歪んだ。
その言葉の意味を、理解したからだった。
帝国は弱くない。
兵力も、魔道士も、兵站も、王国に劣るわけではない。
だが、内側に刃を差し込まれている。
誰が支配されているか分からないまま動けば、戦争が始まる前に帝国は自壊する。
皇帝は唇を噛んだ。
涙はまだ浮かんでいる。
それでも、さきほどのように泣き叫びはしなかった。
「エイン、フレッド」
小さな皇帝が、二人を見た。
「そなたたちには感謝しておる。王国兵を追い出したおかげで鉄鉱山を確保できたし、王国金貨のを生み出すスクロールを献上してくれたお陰で、王国との貿易も黒字になった。本当によく貢献してくれておる」
声は震えていた。
「じゃが、妾はたとえお飾りといえど、帝国の皇帝なのじゃ」
皇帝は袖で涙を拭った。
「皇帝として、たとえ恩人に弓を向けようとも、民を守らねばならんのじゃ」
少しだけ、声が詰まる。
「許せとは言わん。理解はしてほしいのじゃあ〜」
最後の声は、少し情けなく震えていた。
それでも、皇帝は目を逸らさなかった。
ヴォルフが、わずかに頷く。
その瞬間、動いた。
速かった。
フレッドが反応するより早く、ヴォルフの手がエインの首筋に落ちる。
「え」
エインの身体が崩れた。
「エイン君!」
フレッドが魔法を展開しようとする。
だが、その前に、ヴォルフが視界から消え、首元に衝撃を感じた。
痛みはほとんどなかった。
ただ、意識だけが急速に遠のいていく。
倒れる直前、フレッドは皇帝の声を聞いた。
「丁重に扱え。二人は、帝国の恩人じゃ」
そこで、意識が途切れた。
次回、なんかヤバいです
あと、本日書籍版が発売です
加筆修正されてたり、展開が変わってたりしてますのでよろしければどうぞ
https://www.kadokawa.co.jp/product/322602000186/
あと、皇帝陛下はエイン達より少し年上らしいです