引きこもり、魔法学校にぶち込まれる   作:年中有休

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昨日の続きです。


主役は遅れて顕れる


 

 

 

 

 

 あなたは観測した。

 

 

 

 

 


 

 巨大なボルトは、もう目の前まで迫っていた。

 

 フレッドは即座に【分形防壁】(フラクタルシールド)を展開した。

 

 次の瞬間、凄まじい衝撃が謁見の間を揺らす。杭のようなボルトが幾重もの防壁へ食い込み、次々と亀裂を走らせる。それでも最後の一枚までは届かず、やがて自身が耐えきれずに砕け散った。

 

「……防げた」

 

 フレッドが息を吐く。

 

「戻れた!」

 

 隣でエインが声を上げた。

 

「誰か観測してくれたんだな!」

 

 答えるより早く、ヴォルフの大剣が一閃した。続けざまにもう一閃。

 

 左右から轟音が響き、二本の巨大なボルトが空中で弾け飛ぶ。

 

「え?」

 

 フレッドが顔を向けた。

 

 左右それぞれ、崩れた壁や柱の陰から、先ほどと同じ大型バリスタがこちらを向いている。

 

「左右からも!?」

 

「さすがに三方向全部は無理だからな。後ろは任せた」

 

「二方向でも普通は無理ですよ」

 

 ヴォルフは返事の代わりに大剣を構え直した。

 

「気ぃ抜くな。まだ終わってねえぞ」

 

 再び刃が振るわれる。

 

 踏み込んですらいない。それでも遠く離れた正面で重い破砕音が響き、バリスタの本体が中央からへし折れた。続けざまに背後、左、右。剣が振るわれるたび、四方に据えられた鉄と木の巨体が次々と砕けていく。

 

 木材が裂け、金具や部材が床を打つ音だけが、遅れて遠くから届いた。

 

「……剣って、あんな使い方できるんですか?」

 

「気合いだ」

 

 真顔でそう言うと、ヴォルフは視線を敵へ戻した。

 

 四基のバリスタはすべて潰れたが、敵まで消えたわけではない。壁際や崩れた柱の陰にはまだ大勢の兵士が残り、攻撃を止めていた魔法師たちも再び杖を構え、その先端へ魔力を集め始めていた。

 

「エイン、お前は【啓導の光輪】(ルクス・グノーシス)の本体を探しに行け」

 

「俺だけ?」

 

「国王本人は隠れてる。あいつを探して城中走り回るより、制御を奪った方が早い」

 

 ヴォルフは大剣を構えたまま、周囲の兵士たちを見据えた。

 

「ここの連中は俺たちで抑える。その間にお前が【啓導の光輪】を押さえろ」

 

「でも、本体がどこにあるか分かんねえぞ」

 

「セレスもセレナ嬢も地下に閉じ込められて、光輪のために血を抜かれてるんだろ。なら、本体も地下にある可能性が高い」

 

「セレナ……!」

 

 エインの表情が変わった。

 

「そうだ、早く助けに行かないと」

 

 アリアを振り返る。

 

「フレッド、母さんも頼む」

 

「うん。任せて」

 

 フレッドが手をかざし、アリアと影武者を囲むように【防壁】(シールド)を展開する。

 

「よく分からないけど……気をつけてね、エイン」

 

「うん」

 

 短く返し、エインは足元へ目を落とした。

 

「エイン君」

 

 フレッドが片手を床へ向ける。

 

「【超紅蓮槍】(スーパークリムゾンランス)!」

 

 深紅の炎で形作られた槍が、フレッドの前に現れた。穂先の周囲で空気が陽炎のように揺らぎ、近くの石床まで熱だけで赤く染まり始める。

 

「これ使って。床を溶かして、そのまま下へ行けばいい」

 

「なるほど」

 

「――エインを行かせるな!」

 

 宰相の口から、国王の怒声が飛んだ。

 

 その命令に呼応し、周囲の兵士たちが一斉に動き出す。

 

「行け!」

 

 ヴォルフが前へ出た。横薙ぎの大剣が、殺到する兵士たちをまとめて押し返す。

 

 フレッドも【超紅蓮槍】の制御をエインへ渡した。

 

「任せた!」

 

「おう!」

 

 エインは床を溶かすと、開いた穴へ迷いなく飛び込んだ。

 

「いってぇえええええ! 足くじいたああああああっ!」

 

       ◆

 

 母の声は、今日も変わらなかった。

 

「……どうして、まだここにいるの」

 

 壁にもたれたまま、セレスは誰へともなくそう呟いている。

 

 昨日なら、その一言だけで胸の奥を抉られていたはずだった。

 

 なのに今日は、痛みが鈍い。

 

 そのことに気づき、セレナは顔を上げた。

 

 ――慣れた、というのだろうか。

 

 だとしたら、母の言葉そのものより、その事実のほうがずっと恐ろしかった。

 

「こんにちは。……ああ、今日はあんまり元気なさそうですね」

 

 場違いなほど穏やかな声とともに、いつもの男が姿を見せた。

 

 セレスが反応し、勢いよく顔を上げる。

 

「ちょっと! どうして私はまだここにいるのよ!」

 

「はい?」

 

「代わりが来たでしょう! 約束が違う!」

 

「ああ……その話は、僕は聞いてないんですよ」

 

「嘘よ!」

 

「本当ですって。僕が言われたのは、これからは二人分必要だから両方から取れ、それだけで――」

 

 セレスが身を起こしかける。

 

 男は困ったように息をつき、慣れた手つきで鞄から小瓶を取り出した。

 

「はいはい。今日は前と違うのを持ってきましたから」

 

「何を――」

 

 ほどなく、セレスは男の腕の中へ崩れ落ちた。

 

「前のは、思ったより早く切れましたからね。今度はもう少し長く眠れると思いますよ」

 

 なだめるような声のまま、男はセレスを横たえる。小さな刃物で腕の皮膚を浅く切ると、血が細く瓶の中へ流れ始めた。

 

 セレナは黙ってそれを見ていた。

 

 昨日の自分なら、止めてほしいと叫んでいたかもしれない。

 

 今日は、声すら出ない。

 

 何も感じなくなったわけではない。ただ、湧き上がるはずの感情だけが、どこか遠くへ離れてしまったようだった。

 

 沈黙が気になったのか、男は瓶の目盛りを覗きながら口を開く。

 

「最近、うちのほうも落ち着かなくて」

 

「何か、あったんですか」

 

「妻と娘が、王立魔法学校に来いって呼ばれましてね」

 

 セレナは顔を上げた。

 

「学校に……?」

 

「ええ。うちだけじゃないですよ。近所でも何人も。子どもから、お年寄りまで、順番に呼び寄せてるらしくて」

 

 王立魔法学校には、【啓導の光輪】の子機がある。

 

「学校で、何をされるんですか」

 

「さあ。二人に聞いても、特に何もなかったって言うんですよ。行って、帰ってきただけだって」

 

 ――何もなかった。

 

 そう思っているのは、呼ばれた本人たちだけかもしれない。

 

「それとは別に、お城のほうも妙でしてね」

 

「妙、とは」

 

「兵士も魔法師も、やたら増えてるんですよ。倉庫の古い魔道具まで引っ張り出してるらしくて」

 

 男は首を傾げた。

 

「戦でも始めるのかと思ったら、誰も外へは出ていかないんです。城門だの廊下だの、内側ばかり固めてるって話で」

 

 そこで思い出したように付け足す。

 

「攻城戦で使うような、大きな兵器まで運び込んだって噂もありましたよ。城を守るのに、城を攻める道具を持ち込んでどうするんでしょうね」

 

 冗談めかして笑う男に、セレナはつられなかった。

 

 エインとフレッドが王都へ戻ってくるという話。

 

 もし父が待ち構えている相手があの二人なら、これほどの支度は、王都へ入れないためではない。

 

 入った後のためだ。

 

 そう考えた途端、セレナは立ち上がった。

 

 視界が急に狭くなる。

 

「あ――」

 

 膝から力が抜けた。

 

 床へ崩れるはずだった身体が、途中で止まる。

 

「……イレーネ?」

 

 すぐ隣にいた。

 

 いつ動いたのか、まるで見えなかった。

 

「大丈夫ですか」

 

「今……」

 

 セレナは扉へ目をやる。ほんの一瞬前まで、イレーネはそこにいたはずだった。

 

「助けてくれたんですか」

 

「監視対象の生命維持も、監視任務に含まれます」

 

 抑揚のない声だった。

 

 自力で立てると分かると、イレーネはすぐに手を離した。

 

「……ありがとう、イレーネ」

 

       ◆

 

 それから、同じ日々が続いた。

 

 採血に来る男。眠らされる母。変わらない会話と、変わらない天井。

 

 何日そうして過ごしたのか、途中から数えるのをやめていた。

 

 そんな中で、ついにいつもと違う日がきた。

 

「すみません。もう一度だけ、いいですか」

 

 いつもの採血は、とっくに終わっていたはずだった。

 

 再び現れた男の手元を見て、セレナは眉を寄せる。

 

 空の瓶が、何本も並んでいる。

 

「先ほど、取ったばかりではありませんか」

 

「そうなんですよ」

 

 男も困り顔だった。

 

「急に追加が必要になったとかで。取ったら、すぐ下へ持っていけって」

 

「……急に、ですか」

 

「ええ。理由までは、聞いてません」

 

 男が慌ただしく道具を広げていく。

 

 王立魔法学校へ集められていく人々。

 

 城の中へ運び込まれた兵器。

 

 王都へ戻るというエインたち。

 

 そして今、突然必要になった血。

 

 考えを整理しきる前に、一つの確信が浮かんだ。

 

(――来た)

 

 根拠はない。

 

 それでも分かった。

 

 エインたちが、来た。

 

 もう父が待ち構えるこの城の中へ、入ってしまった。

 

 傷口に手早く布が当てられる。

 

「では、急いで持っていきますね」

 

 男が瓶を鞄へ詰め、足早に出ていった。

 

 セレナはその背中を見送った。

 

 血は、さらに地下にある魔法陣へ運ばれている。それが【啓導の光輪】に関わるものなら、父の計画にとって要となる場所のはずだった。

 

 自分がそこへ行ったところで、何をどうすればいいのかは分からない。

 

 それでも――エインなら。

 

 魔法陣を前に「なんだこれ」と顔をしかめ、勝手に触り始める姿が妙にすんなり想像できた。

 

 そして最後には、きっと何とかしてしまう。

 

 自分に壊せなくても、そこまで案内することならできる。

 

 セレナは立ち上がった。

 

「……どこへ、行くの」

 

 背後から、セレスの声がした。

 

 構わず出口へ向かう。

 

「逃げるな」

 

 低い声が鋭く突き刺さった。

 

 足の裏が床に貼りついたように動かなくなる。

 

 振り向かなくても、誰の声かは分かっていた。

 

「置いていかないで……お願い、行かないで……」

 

 縋るような響きに、セレナはようやく振り返った。

 

 母の顔にあったのは、怒りでも拒絶でもない。

 

 ただ、必死に縋る者の表情だった。

 

「私は、逃げるんじゃありません」

 

 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

 

「今は、お母様を置いていきます。でも、それで終わりにはしません。あなたを縛っているものに、立ち向かいに行くんです」

 

 一度息を継ぎ、まっすぐ母を見る。

 

「だから――必ず、戻ってきます。今度は二人で、ここを出るために」

 

 言い終えると、前を向いた。

 

 一歩、また一歩。

 

 今度は足が止まらなかった。

 

 部屋を出て、いくつか角を曲がらないうちに、腕を強く引かれる。

 

「お戻りください」

 

 イレーネだった。

 

 振りほどこうと力を込めても、指はびくともしない。

 

「……離してください」

 

「できません」

 

「父を止めに行くんです。手伝ってください」

 

「お戻りください」

 

「エインさんたちが、来ているんです」

 

「関係ありません」

 

「私にはあります」

 

 抜けようとするたび、イレーネが先回りして立ちはだかる。表情も声の高さも、何一つ変わらない。

 

「お願いです、イレーネ」

 

「国王陛下の、命令ですので」

 

 同じ答え。同じ顔。

 

 セレナは、自分の腕を掴む指先へ目を落とした。

 

「――あの時も、そうでしたね」

 

「何が、でしょうか」

 

「私が倒れた時です。離れたところにいたはずなのに、気づいたら支えてくれていました」

 

 セレナの腕を掴む指が、ほんの一瞬だけ強張った。

 

「監視対象の生命維持も、監視任務のうちです」

 

「知っています。それでも、私は嬉しかった」

 

 沈黙のあと、抑えた声が返ってくる。

 

「……任務です。それ以上の意味は、持たせないでください」

 

「イレーネが持たせなくても、私は持っています」

 

 答えはなかった。

 

「小さい頃から、何度も助けてもらいました。ずっとそうでした」

 

「それが、私の役目ですから」

 

「私にとっては、役目なんかじゃありません」

 

 掴まれた腕はそのままに、一歩詰め寄る。

 

「イレーネは、私の侍女です。でも、それだけじゃありません」

 

「…………」

 

「友達です」

 

 セレナの腕を掴んでいた指の力が、わずかに緩んだ。

 

「そのようなお立場では、ありません」

 

「私はそう思っています」

 

「……セレナ殿下」

 

「家族だとも、思っています」

 

「おやめください」

 

 初めて、声に揺らぎが混じった。

 

 それでもセレナは続けた。

 

「今まで、ずっと私が助けてもらっていました。だから今度は、私が助けたいんです」

 

 イレーネの眉が、かすかに歪む。

 

「戻ってきてください、イレーネ」

 

「私は……国王陛下の、命令が……」

 

 指が一本ずつ力を失っていく。

 

「……セレナ、殿下」

 

 その呼び方に、セレナの喉が詰まった。

 

 何度も聞いてきたはずの名前だった。

 

「イレーネ」

 

「命令……してください」

 

「え?」

 

「私に、命令を……」

 

「嫌です」

 

 即答だった。

 

 イレーネが目を見開く。

 

「絶対に、嫌です。友達に命令なんて、できません。家族にだって、したくない」

 

「…………」

 

 セレナは、掴まれていた手を今度は自分から握り返した。

 

「だから、お願いします」

 

 かすかに震えるイレーネへ向けて続ける。

 

「私の友達に戻ってください。私の家族に、戻ってきてください」

 

 それでも足りない気がして、咄嗟にもう一言付け足した。

 

「何でもします。……あなたの大好きなメイド服だって、いくらでも着てあげますから」

 

 イレーネが目を見開いた。

 

「だから――戻ってきて」

 

 握られていた手から、ふっと力が抜けた。

 

 しばらくの静寂のあと。

 

「……先ほどのお約束、お忘れになりませんように」

 

「……イレーネ?」

 

「メイド服の件です。何でもすると、仰いましたので」

 

 あまりにも、いつも通りだった。

 

 セレナは泣きそうになって――結局、笑った。

 

「……おかえりなさい、イレーネ」

 

 イレーネは手を離し、静かにその隣へ並び直した。目元がほんの一瞬だけ和らぐ。

 

「ただいま戻りました、セレナ殿下」

 

 すぐにいつもの表情へ戻り、周囲へ視線を配った。

 

「それで、これからどちらへ?」

 

「はい。まずは、エインさんも探さないと――」

 

 言い終わらないうちに、少し先の牢から石の欠片が落ちる音がした。

 

 二人同時にそちらを見る。

 

 扉の開いた、誰もいないはずの牢。

 

 その天井が、じわりと赤く色を変え始めていた。

 

「殿下、下がって」

 

 イレーネがセレナの肩を引いた直後、天井が抜けた。

 

「うおおおおおおおっ!」

 

 石片と土煙に紛れ、人影が落ちてくる。

 

 誰もいない牢の床へ、盛大な音を立てて転がった。

 

「エインさん!?」

 

「セレナ!」

 

 埃の中から、エインが勢いよく顔を上げる。

 

「無事だったか! 良かった、間に合った――」

 

 そこで言葉が途切れた。

 

 牢の外に立つセレナ。

 

 その隣のイレーネ。

 

 そして、自分だけが転がっている空の牢。

 

「……あれ? 俺、いらなかった?」

 

「そんなことは――」

 

 言いかけたセレナが、エインの足元に気づく。

 

「エインさん」

 

「ん?」

 

「その……足が……」

 

「足?」

 

 エインが視線を落とし、そのまま動きを止めた。

 

 片足が、明らかにおかしな角度で曲がっている。

 

「ぐあああああああああっ!」

 

 絶叫が地下に反響した。

 

「折れてる! これ完全に折れてるだろ!」

 

「今まで気づかなかったんですか!?」

 

「一回目はくじいただけで済んだから、何回飛び降りても同じだと思って!」

 

「どうして何回も飛ぶんですか!?」

 

「セレナ探してたんだから、しょうがないじゃん!」

 

 悲鳴を聞きつけたのか、廊下の奥からいくつもの足音が近づいてきた。

 

「いたぞ、こっちだ!」

 

「侵入者!」

 

「うわ、まずい」

 

 座り込んだまま、エインが片手を構える。

 

「セレナ、頼む! 治してくれ!」

 

「はい!」

 

 セレナは牢の中へ駆け込み、エインの足元へ膝をついた。

 

「【昏睡】(カーマ)!」

 

 真っ先に飛び込んできた兵士が、崩れるように倒れた。

 

 地面に寝転んだまま、エインは苦痛に顔を歪めながら腕を振るい続ける。続けて放たれる魔法に、後続の兵士たちも次々と昏倒していった。

 

 イレーネも牢の入口を塞ぐように立つ。

 

 振るわれた剣を最小限の動きで避け、その腕を掴んで投げる。次の斬撃も身をひねるだけでかわし、そのまま足を払って沈めた。

 

 一連の動きに迷いがない。

 

 セレナはエインの足へ意識を戻し、慎重に回復魔法をかけていく。

 

 やがて、廊下に静けさが戻った。

 

 倒れた兵士たちの間に、イレーネだけが息一つ乱さず立っている。

 

 セレナも手を止めた。

 

「これなら、歩けると思います」

 

 エインはおそるおそる足を伸ばし、ゆっくり立ち上がった。一歩、二歩と踏みしめ、詰めていた息を吐く。

 

「……いける」

 

「無茶は、しないでください」

 

「分かってる」

 

 足の具合を確かめてから、エインはセレナへ視線を戻した。

 

「……なんかさぁ、セレナを助けに来たはずなのに、俺のほうが助けてもらってるのおかしくない?」

 

「エインさんらしい、と思います」

 

「それ褒めてるの?」

 

 答える代わりに、セレナは小さく笑った。エインもつられたように口元を緩める。

 

 だが、その表情は長くは続かなかった。

 

 エインの視線が、セレナの腕へ落ちる。

 

 細くなった腕には、採血の跡がいくつも残っていた。

 

「……セレナ」

 

「はい」

 

「大丈夫か」

 

 自分の腕を見下ろす。身体はまだ重いままだし、母のことも何も解決していない。「大丈夫」と言い切れる要素なんて、数えるほどもない。

 

 それでも。

 

「はい」

 

 顔を上げ、もう一度答える。

 

「大丈夫です」

 

「……そっか」

 

 エインの張っていた肩が落ちた。

 

「よかった……」

 

 言った直後、その頬を、涙が伝った。

 

「え……」

 

 驚いたのはエイン自身だった。

 

 セレナも、とっさに言葉が出てこなかった。いつも粗野なくらい元気なエインが涙をこぼす姿など、見たことがなかった。

 

 エインは慌てて袖で目元をこすった。

 

 だが、拭ってもまた溢れてくる。

 

「なんで……なんだよ、これ」

 

 何度こすっても止まらない。

 

 エインは困り果てたように黙り込み、やがて途切れながら言葉を出した。

 

「国王からさ、聞いてたんだ」

 

「セレナが地下にいて、母親と一緒に血、抜かれてるって……。それ聞いてから、ずっと、どうなってるか分からなくて」

 

 もう一度、目元を拭う。

 

「もっと、ひどいことになってるかもって。だから、早く来なきゃって……」

 

 そこで言葉を止めた。

 

「……無事で、良かった」

 

 セレナはすぐには返事ができなかった。

 

「エインさん」

 

「ん?」

 

「来てくれて、ありがとうございます」

 

「……おう」

 

 エインは照れたように視線を逸らした。

 

「んんっ」

 

 わざとらしい咳払いが割り込む。

 

 二人が振り向くと、イレーネが涼しい顔で立っていた。

 

「仲がよろしいのは結構ですが」

 

「なんだよ」

 

「まだ、他にやることがあったのでは?」

 

 二人とも固まった。

 

「【啓導の光輪】です!」

 

「そうだった!」

 

 セレナが地下の奥を指し示す。

 

「お母様と私の血は、このさらに下へ運ばれていました。おそらく【啓導の光輪】に関わっているはずです。案内します!」

 

       ◆

 

 セレナたちは、さらに深い地下へ足を進めた。

 

 正確な場所を知っているわけではない。ただ、自分と母の血が「さらに下」へ運ばれていることだけは分かっている。

 

 石造りの壁そのものは変わらない。

 

 だが、下るにつれて見慣れない紋様があちこちに刻まれ、床にも細い線が走るようになっていった。

 

 囚人を閉じ込めるためだけの場所ではないことは、説明されなくても分かった。

 

「あ……」

 

 曲がり角の先に人影が見えた。

 

 先ほどまで自分たちの血を採っていた男だ。鞄を抱え、足早に歩いている。

 

「あの方です」

 

 セレナが囁く。

 

 男は一度も振り返らず、いくつかの階段を下りていく。

 

 やがて、分厚い扉の向こうへ消えた。

 

 三人も少し遅れて扉へ近づく。

 

 その先を見た瞬間、セレナは足を止めた。

 

 床いっぱいに、巨大な魔法陣が刻まれていた。

 

 そこから伸びた無数の線は壁を這い、柱を巡り、天井近くまで複雑に絡み合っている。低い唸りのような振動が、かすかに足元から伝わってきた。

 

 部屋全体が、一つの巨大な魔法装置になっている。

 

 三人は入口に留まり、その様子を窺った。

 

 中央付近で、男が鞄から何本もの瓶を取り出している。

 

 中に入っているのは赤い液体。

 

 つい先ほど、自分の身体から抜かれた血だった。

 

 瓶の中身が細い管へ注がれる。

 

 血は奥へ吸い込まれ、床を走る溝を伝って魔法陣の中へ消えていった。

 

 毎日、母から。

 

 そして今は、自分からも。

 

 抜かれていた血が、こうして使われていた。

 

「これだ」

 

 隣でエインが呟く。

 

「学校にあったのは子機だ。こっちが【啓導の光輪】の本体」

 

「これが……」

 

 最後の瓶が空になった。

 

 男はそれを鞄へ戻そうとして、ようやく入口に立つ三人へ気づいた。

 

「……あれ? どうしてここに?」

 

 驚くというより、困ったように眉を下げる。

 

「ここ、来ちゃ駄目なところなんですけどね」

 

 そう言いながら壁際へ歩いていく。

 

 三人が動くより早く、壁に埋め込まれた小さな魔道具へ触れた。

 

 淡い光が一度だけ灯る。

 

「すみません。こういう時は、人を呼ぶことになってまして」

 

 男はそのまま空の瓶を鞄へ戻し始めた。

 

「では、追加分も届けましたので、今日はこれで」

 

「……帰るんですか?」

 

 思わず、というようにセレナが尋ねた。

 

「はい。今日の仕事は終わりましたから」

 

 鞄を持ち上げ、軽く頭を下げる。

 

「では、お先に失礼します」

 

 本当に、そのまま出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 三人はしばらく無言で見送った。

 

「エイン、今のうちに」

 

 イレーネに促され、エインも我に返る。

 

「おう」

 

 巨大な魔法陣へ歩み寄り、術式の線が密集する一角へしゃがみ込む。

 

 しばらく目で追っていたが、すぐに顔をしかめた。

 

「うわ……なんだこれ。スパゲッティコードじゃん、時間かかりそう……」

 

「大丈夫なんですか?」

 

「まぁ全部直すわけじゃないからな。とりあえず国王から管理者権限だけ奪えばいい」

 

 床へ手をつく。

 

「【構文再編】(リライトスクリプト)」

 

 指先から広がった魔力が、刻まれた術式へ染み込んでいった。

 

 間もなく、通路の奥でかすかな衣擦れの音がした。

 

 イレーネが入口へ視線を向ける。

 

「来ます」

 

 先ほどの呼び出しに応じたのだろう。

 

 灯りの届かない暗がりから黒い人影が現れ、その背後にもいくつもの影が続く。

 

 揃いの黒衣。

 

 顔の大半を隠し、手には短剣や暗器。

 

 国王直属の暗部たちだった。

 

「エイン。そのまま続けてください」

 

「頼んだ!」

 

 先頭の一人が床を蹴る。それを合図に、残りも一斉に左右へ散った。

 

 一人二人なら、イレーネの相手にはならない。

 

 先頭を投げ飛ばし、続く刃も難なく受け流す。

 

 だが、その脇を抜けた暗部がエインへ暗器を放った。

 

 セレナが咄嗟に両手を掲げる。

 

「【防壁】(シールド)!」

 

 エインの前に半透明の壁が立ち上がり、暗器を弾いた。

 

 自然と役割が決まる。

 

 イレーネが前を抑え、抜けてくる攻撃をセレナが防ぐ。その間もエインは魔法陣から目を離さない。

 

 暗部たちも正面からの突破は難しいと悟ったのか、すぐに戦い方を変えた。

 

 数人でイレーネを引きつけ、その外側から別の者がエインを狙う。

 

 イレーネはエインへ迫った一人を蹴り倒し、そのまま別方向からの攻撃を受け流した。

 

 さすがに手数が多い。

 

「殿下、私に応援を」

 

「えっ?」

 

「少し、力が出ますので」

 

 イレーネの声は、いつも通り真面目そのものだった。

 

「が、頑張ってください、イレーネ!」

 

「ありがとうございます」

 

 途端に、イレーネの動きが目に見えて鋭くなった。

 

 数人に押さえ込まれていたはずが、短剣の間をすり抜けて一気に包囲を崩す。

 

 それでも暗部たちは退かない。

 

 イレーネを足止めしながら、エインへの攻撃を途切れさせない。セレナの防壁にも亀裂が増えていく。

 

「殿下!もう一度お願いします」

 

 今度はセレナもすぐに口を開く。

 

「頑張ってください、イレーネ!」

 

 だが、続いた言葉は予想と違った。

 

「いえ、今度は両手を組んで、少し上目遣いでお願いします」

 

「……え?」

 

 意味を問う暇はない。

 

 セレナは胸元で両手を組み、言われるままイレーネを見上げた。

 

「頑張ってください、イレーネ!」

 

「ありがとうございます」

 

 イレーネはさらに深く敵陣へ踏み込み、押さえ込んでいた暗部たちを崩していく。

 

 だが敵もすぐ狙いを変えた。

 

 エインへ回り込む人数を減らし、今度はイレーネ一人へ戦力を集中させる。

 

 正面から二人、左右からも刃が迫り、その外側から魔法と暗器。

 

 かわした先へ、また次の一撃が重なる。

 

 イレーネの足がじりじりと後ろへ押された。

 

 短剣が肩口を掠める。

 

 別の一撃を受け流したところへ横から蹴りが入り、身体が大きくよろめいた。

 

 さらに三人が同時に踏み込む。

 

「セレナ殿下!」

 

「今度は何ですか!?」

 

 迫る刃をぎりぎりで弾きながら、それでもイレーネは平然と言った。

 

「『大好きなイレーネ、頑張って』とお願いします」

 

「……え?」

 

「お願いします!」

 

「こんな時に何を言わせるんですか!」

 

 答えている間にも、一撃をかわし損ねた。

 

 刃が袖を裂く。

 

 さらに別の暗部が死角へ回り込み、振り向くより先に短剣を突き出した。

 

 考えている場合ではなかった。

 

「大好きなイレーネ! 頑張って!」

 

「はい」

 

 その声とほとんど同時に、イレーネが身を沈めた。

 

 短剣が髪を掠めて空を切る。

 

 そこから一気に相手の懐へ潜り込み、崩れかけていた包囲を逆に押し返した。

 

 その様子を横目に、エインが声を上げる。

 

「セレナ! 俺にも同じやつ!」

 

「エインさんまで!? それに、お、同じのって……」

 

 セレナの頬が見る間に赤くなる。

 

「だ、大好きな……」

 

 急に声が小さくなった。

 

 エインを見られず、視線を逸らす。

 

「エ、エイン……さん……」

 

 それ以上は続かない。

 頬だけが、ますます赤くなっていく。

 

「頑張れセレナ!」

 

 唐突な声に、セレナが顔を上げる。

 

「え?」

 

「セレナなら俺も応援できる!」

 

 エインは、何の疑いもなく言い切った。

 

「――大好きなセレナ! 頑張れ!」

 

「なっ……なんで私より先に言うんですか!」

 

 狼狽えながらも、もう口は止まらなかった。

 

「だ、大好きなエインさん! 頑張って!」

 

「よっしゃ!」

 

 さっきまで慎重に術式を追っていたエインの指が、一気に速度を上げる。

 

「取ったぞ!」

 

 同時に、暗部が再び踏み込んだ。

 

 イレーネの左右から刃が迫る。

 

 エインが顔を上げる。

 

「攻撃をやめろ!」

 

 振り下ろされるはずだった刃が止まった。

 

 投げられようとしていた暗器も、握られたまま動かない。

 

 地下が、唐突に静まり返った。

 

    ◆

 

 宰相は、人目につかない細い通路を早足で進んでいた。

 

 謁見の間からは、もうずいぶんと離れている。

 

 ほんの少し前まで、自分の身体は国王の支配下にあった。それが唐突に消え、同時に謁見の間の兵士や魔法師たちまで、一斉に攻撃をやめた。

 

 考えるまでもない。

 

 【啓導の光輪】は、奪われたのだ。

 

 国王は、敗れた。

 

 そう悟るや否や、宰相は玉座を振り返りもせず、その場から逃げ出していた。

 

(――陛下に付いたのが、間違いだった)

 

 王国と心中する義理などない。政治の勘所も、他国へ渡りをつける伝手もある。潰れるというなら、潰れる前に降りればいいだけの話だ。

 

 その一心で、宰相は秘密の通路を抜け、王城の奥にある小部屋へ滑り込んだ。

 

 中央には、人ひとりが立てばそれでいっぱいになるほどの、小さな転移魔法陣が描かれている。

 

 迷わずその中央へ足を乗せ、魔力を注ぎ込んでいく。

 

 術式に光が走る。淡い輝きが少しずつ強さを増していく。

 

 あと少し。

 

 これさえ起動すれば、この国とも――

 

「どこへ行くんだぁ?」

 

 指先が止まった。

 

 聞き覚えのある声に、宰相はゆっくりと振り返る。

 

 そこに立っていたのは、玉座にいた影武者ではない。

 

 本物の国王だった。

 

「こ、国王陛下!」

 

 硬直したのは一瞬だった。次の瞬間には、いつもの愛想のいい笑みが顔に貼りついている。

 

「ちょうど、陛下とご一緒に避難する準備をしていたところでございます!」

 

 国王の視線が、宰相の足元へ落ちた。

 

「一人用の脱出転移陣でかぁ?」

 

「こ、これは陛下にお使いいただくため、先に起動していたのでございます! 私はすぐに後を追うつもりでございました!」

 

「そうか。ご苦労だったな」

 

「はっ!」

 

「では、もう一つ頼まれてくれるか?」

 

 宰相は間髪入れず頭を下げた。

 

「もちろんでございます! たとえ王国が滅びましても、陛下のために一生懸命に――」

 

「勘違いするな」

 

 国王が、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。宰相は動けなかった。

 

「お前には、私の新たなる力の実験台になってほしいのだよ」

 

「ま……まさか……」

 

 国王の手が、宰相へ伸びた。

 

「ホッ、ホワワワワワワァァァ!!」

 

 王城の奥深くに、聞いたこともないような絶叫が響き渡った。




次回、ラストバトルです。
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