あなたは観測した。
巨大なボルトは、もう目の前まで迫っていた。
フレッドは即座に
次の瞬間、凄まじい衝撃が謁見の間を揺らす。杭のようなボルトが幾重もの防壁へ食い込み、次々と亀裂を走らせる。それでも最後の一枚までは届かず、やがて自身が耐えきれずに砕け散った。
「……防げた」
フレッドが息を吐く。
「戻れた!」
隣でエインが声を上げた。
「誰か観測してくれたんだな!」
答えるより早く、ヴォルフの大剣が一閃した。続けざまにもう一閃。
左右から轟音が響き、二本の巨大なボルトが空中で弾け飛ぶ。
「え?」
フレッドが顔を向けた。
左右それぞれ、崩れた壁や柱の陰から、先ほどと同じ大型バリスタがこちらを向いている。
「左右からも!?」
「さすがに三方向全部は無理だからな。後ろは任せた」
「二方向でも普通は無理ですよ」
ヴォルフは返事の代わりに大剣を構え直した。
「気ぃ抜くな。まだ終わってねえぞ」
再び刃が振るわれる。
踏み込んですらいない。それでも遠く離れた正面で重い破砕音が響き、バリスタの本体が中央からへし折れた。続けざまに背後、左、右。剣が振るわれるたび、四方に据えられた鉄と木の巨体が次々と砕けていく。
木材が裂け、金具や部材が床を打つ音だけが、遅れて遠くから届いた。
「……剣って、あんな使い方できるんですか?」
「気合いだ」
真顔でそう言うと、ヴォルフは視線を敵へ戻した。
四基のバリスタはすべて潰れたが、敵まで消えたわけではない。壁際や崩れた柱の陰にはまだ大勢の兵士が残り、攻撃を止めていた魔法師たちも再び杖を構え、その先端へ魔力を集め始めていた。
「エイン、お前は
「俺だけ?」
「国王本人は隠れてる。あいつを探して城中走り回るより、制御を奪った方が早い」
ヴォルフは大剣を構えたまま、周囲の兵士たちを見据えた。
「ここの連中は俺たちで抑える。その間にお前が【啓導の光輪】を押さえろ」
「でも、本体がどこにあるか分かんねえぞ」
「セレスもセレナ嬢も地下に閉じ込められて、光輪のために血を抜かれてるんだろ。なら、本体も地下にある可能性が高い」
「セレナ……!」
エインの表情が変わった。
「そうだ、早く助けに行かないと」
アリアを振り返る。
「フレッド、母さんも頼む」
「うん。任せて」
フレッドが手をかざし、アリアと影武者を囲むように
「よく分からないけど……気をつけてね、エイン」
「うん」
短く返し、エインは足元へ目を落とした。
「エイン君」
フレッドが片手を床へ向ける。
「
深紅の炎で形作られた槍が、フレッドの前に現れた。穂先の周囲で空気が陽炎のように揺らぎ、近くの石床まで熱だけで赤く染まり始める。
「これ使って。床を溶かして、そのまま下へ行けばいい」
「なるほど」
「――エインを行かせるな!」
宰相の口から、国王の怒声が飛んだ。
その命令に呼応し、周囲の兵士たちが一斉に動き出す。
「行け!」
ヴォルフが前へ出た。横薙ぎの大剣が、殺到する兵士たちをまとめて押し返す。
フレッドも【超紅蓮槍】の制御をエインへ渡した。
「任せた!」
「おう!」
エインは床を溶かすと、開いた穴へ迷いなく飛び込んだ。
「いってぇえええええ! 足くじいたああああああっ!」
◆
母の声は、今日も変わらなかった。
「……どうして、まだここにいるの」
壁にもたれたまま、セレスは誰へともなくそう呟いている。
昨日なら、その一言だけで胸の奥を抉られていたはずだった。
なのに今日は、痛みが鈍い。
そのことに気づき、セレナは顔を上げた。
――慣れた、というのだろうか。
だとしたら、母の言葉そのものより、その事実のほうがずっと恐ろしかった。
「こんにちは。……ああ、今日はあんまり元気なさそうですね」
場違いなほど穏やかな声とともに、いつもの男が姿を見せた。
セレスが反応し、勢いよく顔を上げる。
「ちょっと! どうして私はまだここにいるのよ!」
「はい?」
「代わりが来たでしょう! 約束が違う!」
「ああ……その話は、僕は聞いてないんですよ」
「嘘よ!」
「本当ですって。僕が言われたのは、これからは二人分必要だから両方から取れ、それだけで――」
セレスが身を起こしかける。
男は困ったように息をつき、慣れた手つきで鞄から小瓶を取り出した。
「はいはい。今日は前と違うのを持ってきましたから」
「何を――」
ほどなく、セレスは男の腕の中へ崩れ落ちた。
「前のは、思ったより早く切れましたからね。今度はもう少し長く眠れると思いますよ」
なだめるような声のまま、男はセレスを横たえる。小さな刃物で腕の皮膚を浅く切ると、血が細く瓶の中へ流れ始めた。
セレナは黙ってそれを見ていた。
昨日の自分なら、止めてほしいと叫んでいたかもしれない。
今日は、声すら出ない。
何も感じなくなったわけではない。ただ、湧き上がるはずの感情だけが、どこか遠くへ離れてしまったようだった。
沈黙が気になったのか、男は瓶の目盛りを覗きながら口を開く。
「最近、うちのほうも落ち着かなくて」
「何か、あったんですか」
「妻と娘が、王立魔法学校に来いって呼ばれましてね」
セレナは顔を上げた。
「学校に……?」
「ええ。うちだけじゃないですよ。近所でも何人も。子どもから、お年寄りまで、順番に呼び寄せてるらしくて」
王立魔法学校には、【啓導の光輪】の子機がある。
「学校で、何をされるんですか」
「さあ。二人に聞いても、特に何もなかったって言うんですよ。行って、帰ってきただけだって」
――何もなかった。
そう思っているのは、呼ばれた本人たちだけかもしれない。
「それとは別に、お城のほうも妙でしてね」
「妙、とは」
「兵士も魔法師も、やたら増えてるんですよ。倉庫の古い魔道具まで引っ張り出してるらしくて」
男は首を傾げた。
「戦でも始めるのかと思ったら、誰も外へは出ていかないんです。城門だの廊下だの、内側ばかり固めてるって話で」
そこで思い出したように付け足す。
「攻城戦で使うような、大きな兵器まで運び込んだって噂もありましたよ。城を守るのに、城を攻める道具を持ち込んでどうするんでしょうね」
冗談めかして笑う男に、セレナはつられなかった。
エインとフレッドが王都へ戻ってくるという話。
もし父が待ち構えている相手があの二人なら、これほどの支度は、王都へ入れないためではない。
入った後のためだ。
そう考えた途端、セレナは立ち上がった。
視界が急に狭くなる。
「あ――」
膝から力が抜けた。
床へ崩れるはずだった身体が、途中で止まる。
「……イレーネ?」
すぐ隣にいた。
いつ動いたのか、まるで見えなかった。
「大丈夫ですか」
「今……」
セレナは扉へ目をやる。ほんの一瞬前まで、イレーネはそこにいたはずだった。
「助けてくれたんですか」
「監視対象の生命維持も、監視任務に含まれます」
抑揚のない声だった。
自力で立てると分かると、イレーネはすぐに手を離した。
「……ありがとう、イレーネ」
◆
それから、同じ日々が続いた。
採血に来る男。眠らされる母。変わらない会話と、変わらない天井。
何日そうして過ごしたのか、途中から数えるのをやめていた。
そんな中で、ついにいつもと違う日がきた。
「すみません。もう一度だけ、いいですか」
いつもの採血は、とっくに終わっていたはずだった。
再び現れた男の手元を見て、セレナは眉を寄せる。
空の瓶が、何本も並んでいる。
「先ほど、取ったばかりではありませんか」
「そうなんですよ」
男も困り顔だった。
「急に追加が必要になったとかで。取ったら、すぐ下へ持っていけって」
「……急に、ですか」
「ええ。理由までは、聞いてません」
男が慌ただしく道具を広げていく。
王立魔法学校へ集められていく人々。
城の中へ運び込まれた兵器。
王都へ戻るというエインたち。
そして今、突然必要になった血。
考えを整理しきる前に、一つの確信が浮かんだ。
(――来た)
根拠はない。
それでも分かった。
エインたちが、来た。
もう父が待ち構えるこの城の中へ、入ってしまった。
傷口に手早く布が当てられる。
「では、急いで持っていきますね」
男が瓶を鞄へ詰め、足早に出ていった。
セレナはその背中を見送った。
血は、さらに地下にある魔法陣へ運ばれている。それが【啓導の光輪】に関わるものなら、父の計画にとって要となる場所のはずだった。
自分がそこへ行ったところで、何をどうすればいいのかは分からない。
それでも――エインなら。
魔法陣を前に「なんだこれ」と顔をしかめ、勝手に触り始める姿が妙にすんなり想像できた。
そして最後には、きっと何とかしてしまう。
自分に壊せなくても、そこまで案内することならできる。
セレナは立ち上がった。
「……どこへ、行くの」
背後から、セレスの声がした。
構わず出口へ向かう。
「逃げるな」
低い声が鋭く突き刺さった。
足の裏が床に貼りついたように動かなくなる。
振り向かなくても、誰の声かは分かっていた。
「置いていかないで……お願い、行かないで……」
縋るような響きに、セレナはようやく振り返った。
母の顔にあったのは、怒りでも拒絶でもない。
ただ、必死に縋る者の表情だった。
「私は、逃げるんじゃありません」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「今は、お母様を置いていきます。でも、それで終わりにはしません。あなたを縛っているものに、立ち向かいに行くんです」
一度息を継ぎ、まっすぐ母を見る。
「だから――必ず、戻ってきます。今度は二人で、ここを出るために」
言い終えると、前を向いた。
一歩、また一歩。
今度は足が止まらなかった。
部屋を出て、いくつか角を曲がらないうちに、腕を強く引かれる。
「お戻りください」
イレーネだった。
振りほどこうと力を込めても、指はびくともしない。
「……離してください」
「できません」
「父を止めに行くんです。手伝ってください」
「お戻りください」
「エインさんたちが、来ているんです」
「関係ありません」
「私にはあります」
抜けようとするたび、イレーネが先回りして立ちはだかる。表情も声の高さも、何一つ変わらない。
「お願いです、イレーネ」
「国王陛下の、命令ですので」
同じ答え。同じ顔。
セレナは、自分の腕を掴む指先へ目を落とした。
「――あの時も、そうでしたね」
「何が、でしょうか」
「私が倒れた時です。離れたところにいたはずなのに、気づいたら支えてくれていました」
セレナの腕を掴む指が、ほんの一瞬だけ強張った。
「監視対象の生命維持も、監視任務のうちです」
「知っています。それでも、私は嬉しかった」
沈黙のあと、抑えた声が返ってくる。
「……任務です。それ以上の意味は、持たせないでください」
「イレーネが持たせなくても、私は持っています」
答えはなかった。
「小さい頃から、何度も助けてもらいました。ずっとそうでした」
「それが、私の役目ですから」
「私にとっては、役目なんかじゃありません」
掴まれた腕はそのままに、一歩詰め寄る。
「イレーネは、私の侍女です。でも、それだけじゃありません」
「…………」
「友達です」
セレナの腕を掴んでいた指の力が、わずかに緩んだ。
「そのようなお立場では、ありません」
「私はそう思っています」
「……セレナ殿下」
「家族だとも、思っています」
「おやめください」
初めて、声に揺らぎが混じった。
それでもセレナは続けた。
「今まで、ずっと私が助けてもらっていました。だから今度は、私が助けたいんです」
イレーネの眉が、かすかに歪む。
「戻ってきてください、イレーネ」
「私は……国王陛下の、命令が……」
指が一本ずつ力を失っていく。
「……セレナ、殿下」
その呼び方に、セレナの喉が詰まった。
何度も聞いてきたはずの名前だった。
「イレーネ」
「命令……してください」
「え?」
「私に、命令を……」
「嫌です」
即答だった。
イレーネが目を見開く。
「絶対に、嫌です。友達に命令なんて、できません。家族にだって、したくない」
「…………」
セレナは、掴まれていた手を今度は自分から握り返した。
「だから、お願いします」
かすかに震えるイレーネへ向けて続ける。
「私の友達に戻ってください。私の家族に、戻ってきてください」
それでも足りない気がして、咄嗟にもう一言付け足した。
「何でもします。……あなたの大好きなメイド服だって、いくらでも着てあげますから」
イレーネが目を見開いた。
「だから――戻ってきて」
握られていた手から、ふっと力が抜けた。
しばらくの静寂のあと。
「……先ほどのお約束、お忘れになりませんように」
「……イレーネ?」
「メイド服の件です。何でもすると、仰いましたので」
あまりにも、いつも通りだった。
セレナは泣きそうになって――結局、笑った。
「……おかえりなさい、イレーネ」
イレーネは手を離し、静かにその隣へ並び直した。目元がほんの一瞬だけ和らぐ。
「ただいま戻りました、セレナ殿下」
すぐにいつもの表情へ戻り、周囲へ視線を配った。
「それで、これからどちらへ?」
「はい。まずは、エインさんも探さないと――」
言い終わらないうちに、少し先の牢から石の欠片が落ちる音がした。
二人同時にそちらを見る。
扉の開いた、誰もいないはずの牢。
その天井が、じわりと赤く色を変え始めていた。
「殿下、下がって」
イレーネがセレナの肩を引いた直後、天井が抜けた。
「うおおおおおおおっ!」
石片と土煙に紛れ、人影が落ちてくる。
誰もいない牢の床へ、盛大な音を立てて転がった。
「エインさん!?」
「セレナ!」
埃の中から、エインが勢いよく顔を上げる。
「無事だったか! 良かった、間に合った――」
そこで言葉が途切れた。
牢の外に立つセレナ。
その隣のイレーネ。
そして、自分だけが転がっている空の牢。
「……あれ? 俺、いらなかった?」
「そんなことは――」
言いかけたセレナが、エインの足元に気づく。
「エインさん」
「ん?」
「その……足が……」
「足?」
エインが視線を落とし、そのまま動きを止めた。
片足が、明らかにおかしな角度で曲がっている。
「ぐあああああああああっ!」
絶叫が地下に反響した。
「折れてる! これ完全に折れてるだろ!」
「今まで気づかなかったんですか!?」
「一回目はくじいただけで済んだから、何回飛び降りても同じだと思って!」
「どうして何回も飛ぶんですか!?」
「セレナ探してたんだから、しょうがないじゃん!」
悲鳴を聞きつけたのか、廊下の奥からいくつもの足音が近づいてきた。
「いたぞ、こっちだ!」
「侵入者!」
「うわ、まずい」
座り込んだまま、エインが片手を構える。
「セレナ、頼む! 治してくれ!」
「はい!」
セレナは牢の中へ駆け込み、エインの足元へ膝をついた。
「
真っ先に飛び込んできた兵士が、崩れるように倒れた。
地面に寝転んだまま、エインは苦痛に顔を歪めながら腕を振るい続ける。続けて放たれる魔法に、後続の兵士たちも次々と昏倒していった。
イレーネも牢の入口を塞ぐように立つ。
振るわれた剣を最小限の動きで避け、その腕を掴んで投げる。次の斬撃も身をひねるだけでかわし、そのまま足を払って沈めた。
一連の動きに迷いがない。
セレナはエインの足へ意識を戻し、慎重に回復魔法をかけていく。
やがて、廊下に静けさが戻った。
倒れた兵士たちの間に、イレーネだけが息一つ乱さず立っている。
セレナも手を止めた。
「これなら、歩けると思います」
エインはおそるおそる足を伸ばし、ゆっくり立ち上がった。一歩、二歩と踏みしめ、詰めていた息を吐く。
「……いける」
「無茶は、しないでください」
「分かってる」
足の具合を確かめてから、エインはセレナへ視線を戻した。
「……なんかさぁ、セレナを助けに来たはずなのに、俺のほうが助けてもらってるのおかしくない?」
「エインさんらしい、と思います」
「それ褒めてるの?」
答える代わりに、セレナは小さく笑った。エインもつられたように口元を緩める。
だが、その表情は長くは続かなかった。
エインの視線が、セレナの腕へ落ちる。
細くなった腕には、採血の跡がいくつも残っていた。
「……セレナ」
「はい」
「大丈夫か」
自分の腕を見下ろす。身体はまだ重いままだし、母のことも何も解決していない。「大丈夫」と言い切れる要素なんて、数えるほどもない。
それでも。
「はい」
顔を上げ、もう一度答える。
「大丈夫です」
「……そっか」
エインの張っていた肩が落ちた。
「よかった……」
言った直後、その頬を、涙が伝った。
「え……」
驚いたのはエイン自身だった。
セレナも、とっさに言葉が出てこない。
セレナも、とっさに言葉が出てこなかった。いつも粗野なくらい元気なエインが涙をこぼす姿など、見たことがなかった。
エインは慌てて袖で目元をこすった。
だが、拭ってもまた溢れてくる。
「なんで……なんだよ、これ」
何度こすっても止まらない。
エインは困り果てたように黙り込み、やがて途切れながら言葉を出した。
「国王からさ、聞いてたんだ」
「セレナが地下にいて、母親と一緒に血、抜かれてるって……。それ聞いてから、ずっと、どうなってるか分からなくて」
もう一度、目元を拭う。
「もっと、ひどいことになってるかもって。だから、早く来なきゃって……」
そこで言葉を止めた。
「……無事で、良かった」
セレナはすぐには返事ができなかった。
「エインさん」
「ん?」
「来てくれて、ありがとうございます」
「……おう」
エインは照れたように視線を逸らした。
「んんっ」
わざとらしい咳払いが割り込む。
二人が振り向くと、イレーネが涼しい顔で立っていた。
「仲がよろしいのは結構ですが」
「なんだよ」
「まだ、他にやることがあったのでは?」
二人とも固まった。
「【啓導の光輪】です!」
「そうだった!」
セレナが地下の奥を指し示す。
「お母様と私の血は、このさらに下へ運ばれていました。おそらく【啓導の光輪】に関わっているはずです。案内します!」
◆
セレナたちは、さらに深い地下へ足を進めた。
正確な場所を知っているわけではない。ただ、自分と母の血が「さらに下」へ運ばれていることだけは分かっている。
石造りの壁そのものは変わらない。
だが、下るにつれて見慣れない紋様があちこちに刻まれ、床にも細い線が走るようになっていった。
囚人を閉じ込めるためだけの場所ではないことは、説明されなくても分かった。
「あ……」
曲がり角の先に人影が見えた。
先ほどまで自分たちの血を採っていた男だ。鞄を抱え、足早に歩いている。
「あの方です」
セレナが囁く。
男は一度も振り返らず、いくつかの階段を下りていく。
やがて、分厚い扉の向こうへ消えた。
三人も少し遅れて扉へ近づく。
その先を見た瞬間、セレナは足を止めた。
床いっぱいに、巨大な魔法陣が刻まれていた。
そこから伸びた無数の線は壁を這い、柱を巡り、天井近くまで複雑に絡み合っている。低い唸りのような振動が、かすかに足元から伝わってきた。
部屋全体が、一つの巨大な魔法装置になっている。
三人は入口に留まり、その様子を窺った。
中央付近で、男が鞄から何本もの瓶を取り出している。
中に入っているのは赤い液体。
つい先ほど、自分の身体から抜かれた血だった。
瓶の中身が細い管へ注がれる。
血は奥へ吸い込まれ、床を走る溝を伝って魔法陣の中へ消えていった。
毎日、母から。
そして今は、自分からも。
抜かれていた血が、こうして使われていた。
「これだ」
隣でエインが呟く。
「学校にあったのは子機だ。こっちが【啓導の光輪】の本体」
「これが……」
最後の瓶が空になった。
男はそれを鞄へ戻そうとして、ようやく入口に立つ三人へ気づいた。
「……あれ? どうしてここに?」
驚くというより、困ったように眉を下げる。
「ここ、来ちゃ駄目なところなんですけどね」
そう言いながら壁際へ歩いていく。
三人が動くより早く、壁に埋め込まれた小さな魔道具へ触れた。
淡い光が一度だけ灯る。
「すみません。こういう時は、人を呼ぶことになってまして」
男はそのまま空の瓶を鞄へ戻し始めた。
「では、追加分も届けましたので、今日はこれで」
「……帰るんですか?」
思わず、というようにセレナが尋ねた。
「はい。今日の仕事は終わりましたから」
鞄を持ち上げ、軽く頭を下げる。
「では、お先に失礼します」
本当に、そのまま出ていった。
扉が閉まる。
三人はしばらく無言で見送った。
「エイン、今のうちに」
イレーネに促され、エインも我に返る。
「おう」
巨大な魔法陣へ歩み寄り、術式の線が密集する一角へしゃがみ込む。
しばらく目で追っていたが、すぐに顔をしかめた。
「うわ……なんだこれ。スパゲッティコードじゃん、時間かかりそう……」
「大丈夫なんですか?」
「まぁ全部直すわけじゃないからな。とりあえず国王から管理者権限だけ奪えばいい」
床へ手をつく。
「
指先から広がった魔力が、刻まれた術式へ染み込んでいった。
間もなく、通路の奥でかすかな衣擦れの音がした。
イレーネが入口へ視線を向ける。
「来ます」
先ほどの呼び出しに応じたのだろう。
灯りの届かない暗がりから黒い人影が現れ、その背後にもいくつもの影が続く。
揃いの黒衣。
顔の大半を隠し、手には短剣や暗器。
国王直属の暗部たちだった。
「エイン。そのまま続けてください」
「頼んだ!」
先頭の一人が床を蹴る。それを合図に、残りも一斉に左右へ散った。
一人二人なら、イレーネの相手にはならない。
先頭を投げ飛ばし、続く刃も難なく受け流す。
だが、その脇を抜けた暗部がエインへ暗器を放った。
セレナが咄嗟に両手を掲げる。
「
エインの前に半透明の壁が立ち上がり、暗器を弾いた。
自然と役割が決まる。
イレーネが前を抑え、抜けてくる攻撃をセレナが防ぐ。その間もエインは魔法陣から目を離さない。
暗部たちも正面からの突破は難しいと悟ったのか、すぐに戦い方を変えた。
数人でイレーネを引きつけ、その外側から別の者がエインを狙う。
イレーネはエインへ迫った一人を蹴り倒し、そのまま別方向からの攻撃を受け流した。
さすがに手数が多い。
「殿下、私に応援を」
「えっ?」
「少し、力が出ますので」
イレーネの声は、いつも通り真面目そのものだった。
「が、頑張ってください、イレーネ!」
「ありがとうございます」
途端に、イレーネの動きが目に見えて鋭くなった。
数人に押さえ込まれていたはずが、短剣の間をすり抜けて一気に包囲を崩す。
それでも暗部たちは退かない。
イレーネを足止めしながら、エインへの攻撃を途切れさせない。セレナの防壁にも亀裂が増えていく。
「殿下!もう一度お願いします」
今度はセレナもすぐに口を開く。
「頑張ってください、イレーネ!」
だが、続いた言葉は予想と違った。
「いえ、今度は両手を組んで、少し上目遣いでお願いします」
「……え?」
意味を問う暇はない。
セレナは胸元で両手を組み、言われるままイレーネを見上げた。
「頑張ってください、イレーネ!」
「ありがとうございます」
イレーネはさらに深く敵陣へ踏み込み、押さえ込んでいた暗部たちを崩していく。
だが敵もすぐ狙いを変えた。
エインへ回り込む人数を減らし、今度はイレーネ一人へ戦力を集中させる。
正面から二人、左右からも刃が迫り、その外側から魔法と暗器。
かわした先へ、また次の一撃が重なる。
イレーネの足がじりじりと後ろへ押された。
短剣が肩口を掠める。
別の一撃を受け流したところへ横から蹴りが入り、身体が大きくよろめいた。
さらに三人が同時に踏み込む。
「セレナ殿下!」
「今度は何ですか!?」
迫る刃をぎりぎりで弾きながら、それでもイレーネは平然と言った。
「『大好きなイレーネ、頑張って』とお願いします」
「……え?」
「お願いします!」
「こんな時に何を言わせるんですか!」
答えている間にも、一撃をかわし損ねた。
刃が袖を裂く。
さらに別の暗部が死角へ回り込み、振り向くより先に短剣を突き出した。
考えている場合ではなかった。
「大好きなイレーネ! 頑張って!」
「はい」
その声とほとんど同時に、イレーネが身を沈めた。
短剣が髪を掠めて空を切る。
そこから一気に相手の懐へ潜り込み、崩れかけていた包囲を逆に押し返した。
その様子を横目に、エインが声を上げる。
「セレナ! 俺にも同じやつ!」
「エインさんまで!? それに、お、同じのって……」
セレナの頬が見る間に赤くなる。
「だ、大好きな……」
急に声が小さくなった。
エインを見られず、視線を逸らす。
「エ、エイン……さん……」
それ以上は続かない。
頬だけが、ますます赤くなっていく。
「頑張れセレナ!」
唐突な声に、セレナが顔を上げる。
「え?」
「セレナなら俺も応援できる!」
エインは、何の疑いもなく言い切った。
「――大好きなセレナ! 頑張れ!」
「なっ……なんで私より先に言うんですか!」
狼狽えながらも、もう口は止まらなかった。
「だ、大好きなエインさん! 頑張って!」
「よっしゃ!」
さっきまで慎重に術式を追っていたエインの指が、一気に速度を上げる。
「取ったぞ!」
同時に、暗部が再び踏み込んだ。
イレーネの左右から刃が迫る。
エインが顔を上げる。
「攻撃をやめろ!」
振り下ろされるはずだった刃が止まった。
投げられようとしていた暗器も、握られたまま動かない。
地下が、唐突に静まり返った。
◆
宰相は、人目につかない細い通路を早足で進んでいた。
謁見の間からは、もうずいぶんと離れている。
ほんの少し前まで、自分の身体は国王の支配下にあった。それが唐突に消え、同時に謁見の間の兵士や魔法師たちまで、一斉に攻撃をやめた。
考えるまでもない。
【啓導の光輪】は、奪われたのだ。
国王は、敗れた。
そう悟るや否や、宰相は玉座を振り返りもせず、その場から逃げ出していた。
(――陛下に付いたのが、間違いだった)
王国と心中する義理などない。政治の勘所も、他国へ渡りをつける伝手もある。潰れるというなら、潰れる前に降りればいいだけの話だ。
その一心で、宰相は秘密の通路を抜け、王城の奥にある小部屋へ滑り込んだ。
中央には、人ひとりが立てばそれでいっぱいになるほどの、小さな転移魔法陣が描かれている。
迷わずその中央へ足を乗せ、魔力を注ぎ込んでいく。
術式に光が走る。淡い輝きが少しずつ強さを増していく。
あと少し。
これさえ起動すれば、この国とも――
「どこへ行くんだぁ?」
指先が止まった。
聞き覚えのある声に、宰相はゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、玉座にいた影武者ではない。
本物の国王だった。
「こ、国王陛下!」
硬直したのは一瞬だった。次の瞬間には、いつもの愛想のいい笑みが顔に貼りついている。
「ちょうど、陛下とご一緒に避難する準備をしていたところでございます!」
国王の視線が、宰相の足元へ落ちた。
「一人用の脱出転移陣でかぁ?」
「こ、これは陛下にお使いいただくため、先に起動していたのでございます! 私はすぐに後を追うつもりでございました!」
「そうか。ご苦労だったな」
「はっ!」
「では、もう一つ頼まれてくれるか?」
宰相は間髪入れず頭を下げた。
「もちろんでございます! たとえ王国が滅びましても、陛下のために一生懸命に――」
「勘違いするな」
国王が、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。宰相は動けなかった。
「お前には、私の新たなる力の実験台になってほしいのだよ」
「ま……まさか……」
国王の手が、宰相へ伸びた。
「ホッ、ホワワワワワワァァァ!!」
王城の奥深くに、聞いたこともないような絶叫が響き渡った。
次回、ラストバトルです。
【告知】
『このライトノベルがすごい!2027』の投票が始まっています。
このライトノベルはすごいので、よろしければ投票お願いします。
https://konorano2027.oriminart.com/