魔術の申し子エルンストと呪術の天才セシリアは、政略結婚の相手同士。しかし二人は「愛を科学的に証明する」という前代未聞の実験を開始する。手を繋ぐ時間を測定し、心拍数の上昇をデータ化し、親密度を数値で管理する奇妙なカップル。一方、彼らの周囲では「愛される祝福」を持つ令嬢アンナが巻き起こす恋愛騒動が王都を揺るがしていた。理論と感情の狭間で、二人の天才魔術師が辿り着く「愛」の答えとは――

本作はなろうはじめいろいろ転載します。
あと8万字あるから!

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侯爵令息と伯爵令嬢

 ◆

 

 王都アルカディアの高級街に佇む『銀の薔薇亭』は、貴族たちの重要な会合に使われる格式高いレストランだった。

 

 水晶のシャンデリアが放つ柔らかな魔術光が、磨き上げられた大理石の床に複雑な光の紋様を描いている。

 

 エルンスト・フォン・ヴァイスベルクは、灰色の瞳で向かいの席に座る銀髪の令嬢を見つめていた。

 

 今日この場所に彼女を呼んだのは、二週間前に正式に決まった婚約について、重要な話があったからだ。

 

「セシリア嬢、改めて我々の婚約について話したい」

 

 セシリア・ド・モンフォールは、青い瞳に知的な光を宿したまま、優雅にティーカップを置いた。

 

「はい、エルンスト様。私も同じことを考えていました」

 

 黒髪の青年は、まるで学術会議で発表するかのような真剣な表情で続けた。

 

「周知の通り、この婚約は両家の魔術研究における相乗効果を期待したものだ」

 

「ええ。ヴァイスベルク侯爵家とモンフォール伯爵家は共に魔術の階梯を昇らんとする同士」

 

 セシリアは冷静に状況を整理した。

 

「魔術の発展のために、最適な組み合わせでしょう」

 

「その通りだ。だが私は考えた」

 

 エルンストは身を乗り出した。

 

「より大きな──そして、実りある成果を生み出すには、より深い関係性が必要ではないか、と」

 

「深い関係性、ですか」

 

「そう。そこで提案がある」

 

 彼は一呼吸置いて、宣言した。

 

「私は君を愛するつもりでいる」

 

 静寂が二人の間に落ちた。

 

 隣のテーブルから、押し殺したすすり泣きが聞こえてくる。

 

 セシリアは一瞬だけ瞬きをしたが、すぐに冷静さを取り戻した。

 

「つもり、とおっしゃいましたね。興味深い表現です」

 

「そう、つもりだ」

 

 エルンストは、いつもの魔術理論を語る時のような熱っぽい口調になった。

 

「考えてみたまえ、セシリア嬢。歴史上、最も偉大な魔術的発見の多くは、深い信頼関係にある者たちによってなされている」

 

「第三世紀の『双子の月理論』を確立したレオニードとカタリナ夫妻」

 

 セシリアが例を挙げた。

 

「空間転移術を完成させたアルベルトとソフィアの師弟」

 

「そして彼らに共通するのは、単なる協力関係を超えた精神的結合だ」

 

 エルンストの目が輝いた。

 

「だからこそ、我々も政略結婚という枠組みを、より生産的なものに昇華させるべきではないか」

 

 隣席から、グラスが割れる音がした。

 

 振り返ると、紺色のドレスを着た伯爵令嬢が、震える手でナプキンを口元に当てていた。

 

「リシャール様……三年間の婚約を、たった一度の舞踏会で破棄なさるのですね」

 

 向かいに座る青年貴族は、居心地悪そうに視線を逸らしている。

 

「エリーゼ、これは突然のことではない。アンナ嬢と踊った瞬間、私は真実を悟ったのだ」

 

「一度踊っただけで、私との三年間が」

 

 エリーゼの声は震えていた。

 

「無意味になるというのですか」

 

 エルンストとセシリアは、同時に眉をひそめた。

 

「非論理的だ」

 

 エルンストが呟く。

 

「三年間の蓄積を、数分の接触が上回るとは」

 

「もし魅了術だとしたら.」

 

 セシリアは声を潜めた。

 

「いや、それはありえない」

 

 エルンストは即座に否定した。

 

「魅了術は第一級禁呪だ。発覚すれば魔術師資格の永久剥奪どころか、極刑もありうる」

 

「それに、リシャール子爵は相当な魔力の持ち主のはず」

 

 セシリアも同意した。

 

「我々貴族は幼少期から対魔術防御を叩き込まれています。生半可な魅了など」

 

「通じるはずがない」

 

 エルンストは考え込んだ。

 

「だとすると、これは純粋な感情の変化なのか?」

 

「しかし、あまりにも急激すぎます」

 

 二人が小声で議論している間に、隣席の伯爵令嬢は立ち上がった。

 

「お幸せに、リシャール様」

 

 優雅に、しかし悲しみを隠しきれない足取りで、彼女はレストランを後にした。

 

 エルンストはその様子を観察しながら、セシリアに向き直った。

 

「もし仮に、禁呪を使える者がいるとしたら」

 

「王国にとって重大な脅威ですね。難易度自体はそうでもないのでしょうが──」

 

「うむ、倫理観の問題だ」

 

 セシリアの表情が引き締まった。

 

「でも、今はまず我々の話を」

 

「そうだな」

 

 エルンストは話題を戻した。

 

「私の提案は、我々の婚約期間を愛の実証的研究期間とすることだ」

 

 セシリアは少し首を傾げた。

 

「つまり、感情を意図的に構築し、その過程を学術的に記録すると?」

 

「正確には、既存の好意的感情を発展させ、それが真の愛と呼べる状態に至るかを検証する」

 

 エルンストは準備していたかのように説明を続けた。

 

「君も認めるだろう? 我々は既に優れた研究パートナーだ」

 

「それは事実です」

 

 セシリアは素直に認めた。

 

「あなたの『十三層構造理論』に対する私の古代文献からの補強は、学会でも高く評価されました」

 

「君の解読がなければ、理論の実証は不可能だった」

 

 エルンストは真剣な表情で続けた。

 

「この知的な結びつきを、感情的な結びつきにまで発展させることができれば」

 

「研究における相乗効果は計り知れない、ということですね」

 

「その通りだ!」

 

 彼は興奮を隠さなかった。

 

「しかも、これは魔術史上でも稀有な実験となる。愛という感情を、リアルタイムで観測・記録した例はない」

 

 セシリアの瞳に、学者としての興味が宿った。

 

「確かに、愛に関する研究は回顧的なものばかりです」

 

「詩人の感傷的な記述や、哲学者の抽象的な考察に留まっている」

 

「でも、エルンスト様」

 

 セシリアは慎重に言葉を選んだ。

 

「感情は制御できるものでしょうか」

 

「完全な制御は不可能だろう。だが、方向付けは可能なはずだ」

 

 エルンストは自信を持って答えた。

 

「適切な刺激と環境を用意すれば」

 

「刺激と環境.例えば?」

 

「定期的なデート、贈り物の交換、共同作業の増加」

 

 彼は指を折りながら数え上げた。

 

「そして何より重要なのは、互いを深く知ること」

 

 セシリアは、ふと微笑んだ。

 

「既に私たちは、お互いの研究については誰よりも理解し合っています」

 

「だが、人間としての側面はどうだろう?」

 

 エルンストは問いかけた。

 

「君の好きな食べ物、嫌いな天候、子供の頃の思い出.そういったことを、私はほとんど知らない」

 

「確かに」

 

 セシリアは考え込んだ。

 

「私も、あなたの研究以外の面については.」

 

「だからこそ、この実験には意味がある」

 

 エルンストは熱を込めて語った。

 

「単なる政略結婚で終わらせるには、我々はあまりにも相性が良すぎる」

 

 セシリアは、しばらく黙って考えていた。

 

 やがて、顔を上げた。

 

「一つ質問があります」

 

「何だろう?」

 

「もし実験が失敗したら? 愛が生まれなかったら?」

 

 エルンストは真剣な表情で答えた。

 

「その時は、少なくとも友情と尊敬に基づいた関係が残る。それは政略結婚としては上等な結果だ」

 

「なるほど」

 

「それに」

 

 彼は少し照れたような表情を見せた。

 

「失敗する気がしない。君といる時の知的な高揚感は、既に特別なものだから」

 

 セシリアの頬が、ほんのりと赤く染まった。

 

「それは.私も同感です」

 

「では?」

 

「お受けいたします」

 

 彼女は微笑んだ。

 

「共同研究者として、そして実験対象として」

 

「素晴らしい!」

 

 エルンストは、子供のような純粋な喜びを見せた。

 

「早速、研究計画を立てよう」

 

「まず必要なのは、初期状態の測定ですね」

 

 セシリアはすでに研究モードに入っていた。

 

「現在の好意度、親密度、信頼度などを数値化しておく必要があります」

 

「測定方法も標準化しなければ」

 

「古代の『心魂計測術』を応用できるかもしれません」

 

「ああ、第九文書に記載されていたものか」

 

 二人は熱心に議論を始めた。

 

 給仕が新しい料理を運んできても、ほとんど手をつけずに話し続ける。

 

「ところで、セシリア嬢」

 

 議論の合間に、エルンストが言った。

 

「先ほどの隣席の一件、気になることがある」

 

「アンナという女性のことですね」

 

「もし本当に魅了術が使われているとしたら」

 

 エルンストの表情が真剣になった。

 

「それも、貴族の防御を突破できるほどの」

 

「前代未聞の事態です」

 

 セシリアも声を潜めた。

 

「第七位階以上の術者でなければ不可能でしょう」

 

「しかも、それを堂々と使うとは」

 

「いずれ調査が必要かもしれません」

 

「ああ。だが今は」

 

 エルンストは微笑んだ。

 

「我々の研究が優先だ」

 

「もちろんです」

 

 セシリアも微笑み返した。

 

 二人は顔を見合わせて、同時に笑い出した。

 

 レストランの他の客たちは、奇妙な恋人たちだと思っただろう。

 

 料理もそこそこに、難しい理論を語り合う若い男女。

 

 だが二人の間に流れる空気は、確かに温かかった。

 

 やがて日が暮れ、魔術灯が通りを照らし始めた。

 

「実り多い夕食だった」

 

 エルンストは満足そうに言った。

 

「ええ。次回は具体的な実験手順を」

 

「それと、君の好きな食べ物も聞かせてほしい」

 

 セシリアは少し驚いた顔をした。

 

「実験の一環として?」

 

「いや」

 

 エルンストは首を振った。

 

「純粋に知りたいんだ」

 

 セシリアは、優しく微笑んだ。

 

「甘いものが好きです。特に、蜂蜜菓子」

 

「覚えておこう」

 

 そうして二人は立ち上がり、レストランを後にした。

 

  ◆

 

 モンフォール伯爵家の書斎は、天井まで届く書架に囲まれた知の聖域だった。

 

 古代から現代まで、あらゆる時代の魔術文献が整然と並び、羊皮紙特有の甘い香りが漂っている。

 

 セシリアは愛用の机で、エルンストとの「実験」に使う測定術式の設計図を広げていた。

 

「心拍数の変動係数と魔力の共振周波数を同時に測定するには」

 

 彼女が複雑な術式を書き込んでいると、扉を叩く音がした。

 

「セシリア様、マリアンヌ様がお見えです」

 

 使用人の声にセシリアは顔を上げた。

 

 マリアンヌ・ド・ラフォーレは、王立魔術学院時代からの親友だった。

 

「通してちょうだい」

 

 数分後、薄紫のドレスを着た栗色の髪の令嬢が入ってきた。

 

 いつもは快活な彼女の顔が、今日は曇っている。

 

「マリアンヌ、どうしたの? 顔色が優れないわ」

 

 セシリアは立ち上がり、友人を迎えた。

 

「セシリア……相談があって」

 

 マリアンヌは力なく椅子に腰を下ろした。

 

「アルベルトのことなの」

 

 アルベルト・ド・ヴィルヌーヴ子爵は、マリアンヌの二年来の婚約者だった。

 

 誠実で優しい青年として知られ、二人の仲は社交界でも評判が良かった。

 

「彼がどうかしたの?」

 

 セシリアは向かいに座り、紅茶を勧めた。

 

「最近、様子がおかしいのよ」

 

 マリアンヌはカップを両手で包むように持った。

 

「アンナ様のことばかり話すの」

 

「アンナ様?」

 

 セシリアの眉がぴくりと動いた。

 

 昨日のレストランでも、その名前を聞いたばかりだった。

 

「リーベンシュタイン男爵家の令嬢よ。半年ほど前に社交界にデビューしたの」

 

「ああ、聞いたことがあるわ」

 

 セシリアは慎重に言葉を選んだ。

 

「とても魅力的な方だとか」

 

「そうなの。蜂蜜色の髪に、翡翠のような瞳」

 

 マリアンヌの声が震えた。

 

「先週の舞踏会で、アルベルトが彼女と一曲踊っただけなのに」

 

 涙が頬を伝い始めた。

 

「それ以来、私といる時も上の空で、アンナ様の話ばかり」

 

 セシリアは友人の手をそっと握った。

 

 しかし、同時に学者としての興味も湧き上がっていた。

 

「マリアンヌ、辛いでしょうけど、詳しく聞かせてもらえる?」

 

「え?」

 

「アルベルト様がアンナ様について話す時、具体的にどんなことを言うの?」

 

 セシリアは手帳を取り出した。

 

「例えば、容姿について? 性格について?」

 

 マリアンヌは戸惑いながらも答えた。

 

「『アンナ様の笑顔は太陽のようだ』とか、『声は銀の鈴のよう』とか」

 

「ふむ」

 

 セシリアはペンを走らせた。

 

「他には?」

 

「『彼女といると心が安らぐ』『話していると時間を忘れる』」

 

 マリアンヌは思い出すのも辛そうだった。

 

「でも、セシリア、なぜそんなことを?」

 

「マリアンヌ、一つ聞いてもいい?」

 

 セシリアは顔を上げた。

 

「アルベルト様は、以前あなたに対して似たような言葉を使ったことはない?」

 

「え?」

 

「例えば、『君の笑顔は太陽のようだ』とか」

 

 マリアンヌは考え込んだ。

 

「そういえば.去年の誕生日に、『君の笑顔は僕の太陽だ』って」

 

「『声は銀の鈴のよう』は?」

 

「それも.初めて会った時に言われたわ」

 

 マリアンヌの表情が変わり始めた。

 

「まさか」

 

「興味深いわね」

 

 セシリアは冷静に分析を始めた。

 

「同じ表現を、別の対象に使っている」

 

「でも、それって」

 

「普通、人は特別な相手にしか使わない言葉があるはずよ」

 

 セシリアは立ち上がり、書架から一冊の本を取り出した。

 

「『感情表現の言語学的分析』.ここに書いてあるわ」

 

 ページをめくりながら説明する。

 

「恋愛感情を表現する際、人は独自の比喩や言い回しを開発する傾向がある」

 

「つまり?」

 

「同じ表現を使い回すということは、感情そのものが」

 

 セシリアは言葉を切った。

 

「テンプレート化している可能性があるということ」

 

 マリアンヌは青ざめた。

 

「じゃあ、アルベルトの気持ちは本物じゃないの?」

 

「断言はできないわ。でも」

 

 セシリアは友人の肩に手を置いた。

 

「不自然な点があるのは確かね」

 

「不自然」

 

「マリアンヌ、もう少し教えて」

 

 セシリアは再び椅子に座った。

 

「アルベルト様がアンナ様に心を奪われたと感じたのは、正確にいつ?」

 

「舞踏会の翌日よ」

 

 マリアンヌは涙を拭いた。

 

「朝、いつものように手紙が届いたんだけど」

 

「内容は?」

 

「『昨夜は素晴らしい体験をした』『世界が違って見える』」

 

 彼女は震え声で続けた。

 

「『君には申し訳ないが、心が別の方向を向いてしまった』って」

 

 セシリアはペンを置いた。

 

「一晩で?」

 

「そうなの。前日まで、私たちは結婚式の相談をしていたのに」

 

「結婚式の相談を」

 

 セシリアは眉をひそめた。

 

「それほど具体的な段階まで進んでいたのね」

 

「ドレスの生地も選んで、式場の下見も」

 

 マリアンヌの声が途切れた。

 

 セシリアは立ち上がり、窓の外を見つめた。

 

 王都の午後は穏やかで、庭園では薔薇が咲き誇っている。

 

 しかし、その平和な光景の裏で、何か不穏なことが起きている予感がした。

 

「マリアンヌ」

 

 振り返ると、セシリアの青い瞳には決意が宿っていた。

 

「アルベルト様と話をしてみない?」

 

「でも、もう彼は」

 

「いいえ、諦めるのは早いわ」

 

 セシリアは微笑んだ。

 

「もし彼の感情が何らかの影響を受けているなら、論理的に解きほぐせるはずよ」

 

「論理的に?」

 

「そう。感情も結局は、因果関係の連鎖から成り立っているもの」

 

 セシリアは自信を持って言った。

 

「その連鎖に矛盾があれば、本人も気づくはずよ」

 

 マリアンヌは半信半疑だったが、友人の確信に満ちた様子に希望を見出した。

 

「やってみる価値はあるかもしれないわね」

 

「その意気よ」

 

 セシリアは手を叩いた。

 

「ところで、アンナ様について他に知っていることは?」

 

「そうね」

 

 マリアンヌは思い出すように言った。

 

「不思議な噂があるの」

 

「噂?」

 

「彼女と関わった殿方は、皆心を奪われてしまうって」

 

 マリアンヌは声を潜めた。

 

「でも、それって単に彼女が魅力的だからでしょう?」

 

「どうかしら」

 

 セシリアは昨日のレストランでの出来事を思い出していた。

 

 三年の婚約を一夜で破棄した子爵のことを。

 

「他にも似たような話があるの?」

 

「ええ、いくつも」

 

 マリアンヌは指を折りながら数えた。

 

「ベルトラン侯爵の御曹司、フィリップ男爵、それにジャック准男爵も」

 

「全員、既に婚約者や恋人がいた?」

 

「そうよ。でもアンナ様と出会ってから」

 

 セシリアはメモを取りながら、パターンを分析し始めた。

 

「共通点があるわね」

 

「共通点?」

 

「全員、一度の接触で心変わりしている」

 

 セシリアは顔を上げた。

 

「通常の恋愛なら、もっと段階的なプロセスを経るはずよ」

 

「確かに」

 

 マリアンヌも気づき始めた。

 

「私とアルベルトも、友人から始まって、徐々に」

 

「そう、それが自然な流れ」

 

 セシリアは立ち上がった。

 

「だからこそ、この急激な変化には何か理由があるはず」

 

 二人が話し込んでいると、再び扉を叩く音がした。

 

「セシリア様、ヴァイスベルク侯爵家からお手紙が」

 

「エルンスト様から?」

 

 セシリアは封を切った。

 

 中には、几帳面な文字で実験計画が記されていた。

 

「明日の午後、第一回観測を行いたい」という一文に、彼女は微笑んだ。

 

「良い知らせ?」

 

 マリアンヌが尋ねる。

 

「ええ、婚約者からよ」

 

「そういえば、ヴァイスベルク侯爵令息と婚約したのよね」

 

 マリアンヌは少し元気を取り戻した。

 

「どんな方なの?」

 

「変わった人よ」

 

 セシリアは苦笑した。

 

「愛を実証的に研究しようなんて言い出すんだから」

 

「愛を研究?」

 

「そう。データを取って、分析して、法則を見つけようって」

 

 マリアンヌは呆れたような顔をした。

 

「それってロマンチックなの?」

 

「分からないわ」

 

 セシリアは正直に答えた。

 

「でも、真剣に向き合おうとしてくれているのは確かよ」

 

 手紙を机に置くと、セシリアは友人に向き直った。

 

「マリアンヌ、明日アルベルト様に会いに行きましょう」

 

「でも」

 

「私も同行するわ。客観的な第三者として」

 

 セシリアの申し出に、マリアンヌは勇気づけられた。

 

「ありがとう、セシリア」

 

「友人として当然のことよ」

 

 セシリアは微笑んだが、内心では別のことも考えていた。

 

 もしアンナという女性が、本当に人の心を操る力を持っているなら。

 

 それは王国にとって、いや、人々の幸せにとって大きな脅威となる。

 

「マリアンヌ、一つ約束して」

 

「何?」

 

「明日の会話で、何か不自然なことに気づいたら、すぐに教えて」

 

 セシリアの真剣な表情に、マリアンヌは頷いた。

 

「分かったわ」

 

 夕暮れが近づき、書斎に橙色の光が差し込んできた。

 

 二人の令嬢は、それぞれの思いを胸に、明日の対面に向けて準備を始めた。

 

 セシリアは、エルンストへの返信も書かなければならなかった。

 

「追伸:明日は少し遅れるかもしれません。友人の恋愛相談という、格好の観察機会がありまして」

 

 そう書き加え、封をした。

 

  ◆

 

 ヴィルヌーヴ子爵家の応接間。

 

 大きな窓から差し込む陽光が磨き上げられた家具に反射し、部屋全体を柔らかく照らしている。

 

 そんな中、アルベルト・ド・ヴィルヌーヴは、いつもより落ち着かない様子で二人の令嬢を迎えた。

 

「マリアンヌ、それにモンフォール伯爵令嬢も。朝早くから、どうされたのですか」

 

 栗色の髪の青年は、婚約者に向ける視線に困惑を滲ませていた。

 

「アルベルト様、お話があって参りました」

 

 マリアンヌの声は震えていたが、セシリアの存在が彼女を支えていた。

 

「私も同席させていただいてよろしいでしょうか」

 

 セシリアは穏やかに微笑んだ。

 

「マリアンヌの親友として、お二人のお力になれればと思いまして」

 

 アルベルトは一瞬戸惑ったが、頷いた。

 

「もちろんです。どうぞお座りください」

 

 三人が席に着くと使用人が紅茶を運んできた。

 

 香り高い茶葉の匂いが緊張した空気を和らげる。

 

「アルベルト様」

 

 マリアンヌが口を開いた。

 

「最近のあなたの様子について、心配しているのです」

 

「私の様子?」

 

 青年は首を傾げた。

 

「何か問題でも?」

 

「先週の舞踏会以来、あなたは変わってしまった」

 

 マリアンヌの瞳に涙が浮かんだ。

 

「口を開けばアンナ様のことばかりで……」

 

 その名前を聞いた途端、アルベルトの表情が一変した。

 

 まるで魔法にかかったように、瞳が輝き始める。

 

「ああ、アンナ様! 彼女は素晴らしい方です」

 

「どのように素晴らしいのですか?」

 

 セシリアが静かに問いかけた。

 

「それは……」

 

 アルベルトは言葉を探すように宙を見つめた。

 

「彼女の笑顔は太陽のようで、声は銀の鈴のよう」

 

 セシリアとマリアンヌは視線を交わした。

 

「なるほど」

 

 セシリアは手帳を取り出した。

 

「他には?」

 

「彼女といると心が安らぎ、時間を忘れてしまうのです」

 

 アルベルトは夢見るような表情で続けた。

 

 セシリアはペンを走らせながら、鋭い質問を投げかけた。

 

「アルベルト様、アンナ様とは何について話されたのですか?」

 

「え?」

 

「舞踏会で踊られた時、どんな会話を?」

 

 アルベルトは考え込んだ。

 

「それは……天気の話や、音楽の話を……」

 

「具体的には?」

 

「具体的に……」

 

 彼の表情に困惑が浮かんだ。

 

「覚えていないのです。ただ、素晴らしい時間だったことだけは」

 

 セシリアの青い瞳が、学者特有の輝きを帯び始めた。

 

 彼女は、今まさに古代から伝わる魔術解体理論の実践を目の当たりにしていることを理解していた。

 

「これは実に興味深い現象ですね」

 

 彼女は立ち上がり、まるで講義でもするかのように歩き始めた。

 

「第四魔術理論によれば、すべての感情には『発生点』と『展開過程』、そして『定着機序』があります」

 

 アルベルトとマリアンヌは、突然始まった講義に戸惑った。

 

「セシリア?」

 

「ああ、失礼」

 

 セシリアは振り返ったが、その瞳は爛々と輝いている。

 

 根っからの魔術オタクである彼女は、こういった話をさせれば何時間だって話す事が出来るのだ。

 

「つまりですね、真の感情には必ず具体的な記憶が伴うのです」

 

 彼女は指を立てて説明を続けた。

 

「例えば、マリアンヌ様への愛情を思い出してください」

 

「はい……」

 

「図書館での出会い、最初の会話、共に過ごした時間」

 

 セシリアは熱弁を振るった。

 

「これらの記憶が感情の『根』となり、樹木のように成長していく」

 

「なるほど……?」

 

 アルベルトは理解しようと努めた。

 

「しかし!」

 

 セシリアは急に声を大きくした。

 

 二人がびくりと身を震わせる。

 

「アンナ様への感情には、その『根』が存在しない」

 

 彼女は手帳にさらさらと図を描き始めた。

 

「これは第十三世紀の魔術師ヘルメティウスが提唱した『感情樹理論』でも説明できます」

 

「感情樹……理論……」

 

 マリアンヌは友人の変貌に困惑していた。

 

「根のない樹は枯れる運命にある」

 

 セシリアは断言した。

 

「では、なぜアルベルト様の感情は持続しているのか?」

 

 彼女は目を輝かせた。

 

「これこそが今回の現象の特異性です!」

 

 アルベルトは恐る恐る口を開いた。

 

「あの、モンフォール伯爵令嬢……」

 

「セシリアで結構です」

 

 彼女は微笑んだが、すぐに真剣な表情に戻った。

 

「さて、私の仮説はこうです」

 

 また講義が始まった。

 

「何らかの外的要因により、既存の微細な好意が異常増幅されている」

 

「微細な好意?」

 

「そうです。例えば『綺麗な人だな』程度の印象」

 

 セシリアは立ち上がり、身振り手振りを交えて説明した。

 

「それが通常の千倍、いや万倍に増幅されているとしたら!?」

 

 マリアンヌが小声で呟いた。

 

「セシリア、少し落ち着いて……」

 

「ああ! そうだ!」

 

 セシリアは突然叫んだ。

 

「魔術根源解体理論を応用すれば!」

 

 彼女は興奮のあまり、アルベルトの両肩を掴んだ。

 

「アルベルト様、今から実験をさせてください」

 

「実験!?」

 

「はい、とても簡単な実験です。正直効果があるかはわかりませんが、簡単な魔術解体の手順を取ってみましょう」

 

 セシリアは一歩下がり、深呼吸をした。

 

 古代の魔術師たちは、あらゆる魔術には「認識の土台」があることを発見していた。

 

 術者が対象に植え付けた認識が、魔術効果を維持する基盤となる。

 

 しかしその認識に矛盾が生じた時、魔術は内部から崩壊を始めるのだ。

 

 要するに、中身が入っていない水差しに「水」というラベルを貼りつければ、多くのものがその中に水があると思い込むだろう。

 

 本当は水がないにも関わらずだ。

 

 これが魔術である。

 

 しかし、何かの拍子で水差しが床に落ちて割れたとする。

 

 もちろん水がこぼれたりはしない──そもそも水はないのだから。

 

 すると多くの者が水は入っていなかったのだと気付くだろう。

 

 これが魔術の根源崩壊である。

 

 魔術とは言ってしまえば、“世界”を騙す事なのだから、その虚偽のヴェールをはぎとってしまえば魔術は形を成さなくなる。

 

「まず、アンナ様への気持ちを数値化してみましょう」

 

「数値化……」

 

「1から10までで表現してください」

 

 アルベルトは困惑しながらも答えた。

 

「それは……10です」

 

「素晴らしい! では次に」

 

 セシリアは嬉しそうに手を叩いた。

 

「その10という数字の根拠を、一つずつ挙げてください」

 

「根拠?」

 

「そうです。なぜ10なのか、理由を10個」

 

 アルベルトは考え込んだ。

 

「笑顔が太陽のよう……声が銀の鈴……」

 

「それで2つです。あと8つ」

 

 セシリアは容赦なく迫った。

 

 彼女が今行っているのは、魔術の根源に対する「論理的圧迫」だった。

 

 人工的に作られた感情は、その構造が単純であるがゆえに、詳細な検証に耐えられない。

 

 質問を重ねることで、魔術的に構築された認識の脆弱性が露呈していく。

 

「えっと……美しい……優しい……」

 

「具体的にどう優しいのですか?」

 

「それは……」

 

 アルベルトは言葉に詰まった。

 

 セシリアは勝ち誇ったような顔をした。

 

「ほら! 10の根拠が4つしか出てこない」

 

 彼女はくるりと回って、窓の外を指差した。

 

「これこそが、人工的に作られた感情の証拠です!」

 

 マリアンヌはため息をついた。

 

「セシリア、あなた楽しんでるでしょう」

 

「いえいえ、これは純粋に学術的な興味から……」

 

 セシリアは咳払いをした。

 

「さて、本題に戻りましょう」

 

 彼女は再びアルベルトに向き直った。

 

「今度はマリアンヌ様への気持ちを数値化してください」

 

 アルベルトはマリアンヌを見つめた。

 

「それは……測れません」

 

「測れない?」

 

「数字では表せないんです」

 

 彼の声は確かだった。

 

「彼女の存在は、私の人生の一部だから」

 

 セシリアの表情が真剣になった。

 

「それです」

 

「それ?」

 

「真の感情は数値化できない」

 

 彼女は静かに言った。

 

「逆に言えば、簡単に数値化できる感情は……」

 

「人工的なもの」

 

 アルベルトが理解し始めた。

 

 この瞬間、彼の中で魔術的な影響が揺らぎ始めていた。

 

 論理的な矛盾の自覚は、魔術の「認識の土台」に亀裂を生じさせる。

 

 それはまるで、精巧に組み上げられた積み木から、最下段の一つを抜き取るようなものだった。

 

 セシリアは頷いた。

 

「では、解体作業を始めましょう」

 

「解体作業?」

 

 マリアンヌが不安そうに尋ねた。

 

「大丈夫です、痛くありません」

 

 セシリアは微笑んだ。

 

「ただ、質問に答えていただくだけです」

 

 彼女は椅子に座り直した。

 

「アルベルト様、アンナ様の誕生日はいつですか?」

 

「え? それは……」

 

「好きな食べ物は?」

 

「……」

 

「趣味は? 家族構成は? 将来の夢は?」

 

 矢継ぎ早の質問に、アルベルトは一つも答えられなかった。

 

 セシリアの質問は、単なる情報収集ではなかった。

 

 魔術によって植え付けられた「愛情」という概念と、その実体の乖離を明確にすることで、魔術の構造そのものを崩壊させていく。

 

 知識の欠如は、感情の虚構性を暴露する最も効果的な手段だった。

 

「でも、マリアンヌ様については?」

 

 セシリアが促すと、アルベルトは淀みなく答え始めた。

 

「10月15日生まれ、好物は苺のタルト、趣味は読書と乗馬」

 

 彼は愛おしそうに婚約者を見つめた。

 

「三人兄妹の長女で、将来は魔術図書館を作りたいと」

 

 マリアンヌの頬が赤く染まった。

 

「全部覚えていてくれたのね」

 

 セシリアは満足そうに頷いた。

 

「これが真の愛情です」

 

 彼女は立ち上がった。

 

「相手を知りたいという欲求、知識の蓄積、そして共有された記憶」

 

「なるほど……」

 

 アルベルトの表情から、夢見るような曖昧さが消えていく。

 

 魔術の解体は、今まさに完了しつつあった。

 

 対比によって明確になった「本物」と「偽物」の違いは、もはや否定しようのない事実として彼の意識に刻まれた。

 

 認識の土台が完全に崩壊した今、魔術的な影響を維持することは不可能だった。

 

「私は一体、何に夢中になっていたのでしょう」

 

「それは今後の研究課題ですね」

 

 セシリアは手帳にメモを取り始めた。

 

「この現象、論文にまとめたら学会で大騒ぎになりそう……」

 

「セシリア」

 

 マリアンヌが苦笑した。

 

「今は学術的興味より、アルベルトのことを」

 

「ああ、そうでした」

 

 セシリアは我に返った。

 

「アルベルト様、完全に回復するには時間がかかるかもしれません」

 

 彼女は真面目な顔で続けた。

 

「でも、矛盾を自覚した今、もう後戻りはしないでしょう」

 

 アルベルトは深く頷いた。

 

「マリアンヌ、本当に申し訳なかった」

 

「いいえ」

 

 マリアンヌは優しく微笑んだ。

 

「あなたのせいではないわ」

 

 二人が見つめ合う中、セシリアは思考に没頭していた。

 

「感情を人工的に増幅させる能力……」

 

 彼女は呟いた。

 

「これは王国にとって重大な脅威かもしれない」

 

 しかし、その考察は、親友の幸せな姿を見て一旦棚上げされた。

 

「さて、私は失礼します」

 

 セシリアは立ち上がった。

 

「エルンスト様との実験が……」

 

「セシリア」

 

 マリアンヌが呼び止めた。

 

「ありがとう」

 

「当然のことをしたまでよ」

 

 セシリアは微笑んだ。

 

「それに、素晴らしい研究材料を得られたし」

 

 アルベルトが苦笑した。

 

「我々は実験材料ですか」

 

「いえいえ、貴重な症例です」

 

 セシリアは真顔で訂正した。

 

 三人は顔を見合わせて、笑い出した。

 

 窓の外では、王都の昼下がりが平和に流れている。

 

 しかし、セシリアの胸には新たな疑問が生まれていた。

 

 アンナ・フォン・リーベンシュタインとは、一体何者なのか。

 

 そして、なぜこのような能力を持っているのか。

 

  ◆

 

 ヴァイスベルク侯爵家の朝食の間。

 

 大きな窓から見える庭園では、秋薔薇が最後の輝きを放っている。

 

 エルンスト・フォン・ヴァイスベルクは、いつもより神妙な面持ちで両親の前に座っていた。

 

「父上、母上、相談があります」

 

 侯爵夫妻は顔を見合わせた。

 

 息子がこのような改まった態度を取るのは、新しい魔術理論を発見した時くらいだ。

 

「どうしたの、エルンスト?」

 

 母のマルガレーテは、優しく微笑んだ。

 

 蜂蜜色の髪を緩やかに結い上げた彼女は、息子とは正反対ののんびりとした雰囲気を纏っている。

 

「セシリア嬢へのプレゼントについてです」

 

 エルンストは真剣な表情で続けた。

 

「我々の『愛の実証的研究』において、贈り物の交換は重要な要素となります」

 

 父のゲオルクは、新聞から顔を上げた。

 

「ほう、プレゼントか」

 

 銀髪に柔和な笑みを浮かべる侯爵は、息子の言葉に興味を示した。

 

「しかし、何を贈るべきか判断基準が」

 

 エルンストは困惑していた。

 

「通常の魔術研究なら、必要な資材や文献は明確ですが」

 

「あら、難しく考えすぎよ」

 

 マルガレーテは紅茶を一口飲んだ。

 

「相手が喜ぶものを贈ればいいのよ」

 

「相手が喜ぶもの」

 

 エルンストは考え込んだ。

 

「セシリア嬢の好みは、古代魔術文献と甘いもの、特に蜂蜜菓子です」

 

「じゃあ、それを贈れば?」

 

 ゲオルクがのんびりと提案した。

 

「いえ、それでは単純すぎます」

 

 エルンストは首を振った。

 

「プレゼントには、贈り主の意思と労力が反映されるべきでは」

 

 夫妻は再び顔を見合わせ、くすりと笑った。

 

「やっぱりこの子は私たちの息子ね」

 

 マルガレーテが呟く。

 

「どういう意味ですか、母上」

 

「いいえ、何でもないわ」

 

 彼女は微笑みを深めた。

 

「ゲオルク、あなたが私にくれた最初のプレゼントを覚えている?」

 

「ああ、もちろん」

 

 侯爵の目が優しく細められた。

 

「『星霜術式大全』の完全手写本だった」

 

「三ヶ月かけて、一文字一文字写してくれたのよね」

 

 マルガレーテの頬がほんのりと赤らんだ。

 

「魔術陣も全て、寸分違わず」

 

 エルンストは両親を見つめた。

 

 普段はのんびりしている二人だが、王国屈指の魔術師でもある。

 

 その二人が若い頃に交わした愛の形を、今初めて知った。

 

「手写本」

 

 彼は呟いた。

 

「それだ」

 

 突然立ち上がったエルンストに、両親は驚いた。

 

「どうしたの?」

 

「禁書庫にある『古代共鳴理論』」

 

 彼の灰色の瞳が輝いた。

 

「セシリア嬢が探していた文献です。門外不出ですが、手写しなら」

 

 ゲオルクは苦笑した。

 

「あれは300ページを超える大著だぞ」

 

「問題ありません」

 

 エルンストは自信に満ちていた。

 

「私の並列思考術式なら、効率的に」

 

「まあ、好きにしなさい。渡す相手もセシリア嬢ならば問題はないだろう」

 

 侯爵は肩をすくめた。

 

 エルンストは一礼すると、すぐに書斎へ向かった。

 

 残された夫妻は、温かな眼差しで息子の背中を見送った。

 

「あの子も、ようやく」

 

 マルガレーテが呟く。

 

「ああ、愛を知り始めたようだ」

 

 ゲオルクは妻の手を優しく握った。

 

 ◆

 

 ヴァイスベルク侯爵家の禁書庫は、屋敷の最深部に位置していた。

 

 幾重もの魔術結界に守られたその場所には、数世紀にわたる秘伝書が眠っている。

 

 エルンストは、目当ての書物を慎重に取り出した。

 

 革装丁の表紙には、古代文字で『共鳴理論』と刻まれている。

 

 書見台に本を置くと、彼は深呼吸をした。

 

「並列思考展開」

 

 詠唱と共に持参してきた50本のペンが浮遊し──それぞれが独立した意思を持つかのように、羊皮紙の上で踊り始めた。

 

 通常、写本は一文字一文字を丁寧に書き写す地道な作業だ。

 

 しかしエルンストは違った。

 

 彼の並列思考術式は、50の思考を同時に稼働させることができる。

 

 各ペンは彼の意識の一部であり、完璧な連携を保ちながら文字を紡いでいく。

 

 古代の術式図も、複雑な注釈も、全てが正確に再現されていく。

 

 インクが乾く間もなく、次のページが書き上げられていく。

 

 この光景を見た者がいれば、まさに神業と評しただろう。

 

 しかしこれほどの高等技術を用いても、作業は困難を極めた。

 

 並列思考の維持には膨大な集中力が必要となるし、並列思考中にインプットされた情報の処理も大変な頭脳労働だ。

 

 基本的に貴族は例外なく魔術をたしなむが、エルンストと同年代の貴族子弟で彼と同じ事をやってのけるものはいない。

 

 それどころか、大人であってもエルンストに及ぶ魔術師など滅多にいなかった。

 

 その彼をして、この作業は困難を極める。

 

 ただ文字を書き写すだけならばともかく、この『共鳴理論』という書は読むだけで精神を削る“力のある文字”で書かれているからだ。

 

 常人ならば一頁目を目にしただけで廃人となるほどに。

 

 禁書庫におさめられている書というのは、おおむねそういった“有害性”を持つ事が多い。

 

 ゆえにここへ立ち入る事ができる者はエルンストとその両親だけである。

 

 そうして書き写す事数時間──額に汗が滲み、指先が震え始めてもエルンストは手を止めなかった。

 

 彼の脳裏にはセシリアの笑顔が浮かんでいた。

 

 古代文献を前にした時の、あの知的好奇心に満ちた表情。

 

 それを思い出すだけで疲労が吹き飛んでいく。

 

 そうして夕暮れ時、エルンストは完成した写本を前に深い満足感に浸っていた。

 

 300ページ全てが完璧に書き写されている。

 

 古代の知恵が新しい命を得て羊皮紙の上に蘇った。

 

「これでセシリア嬢の研究が飛躍的に進むはずだ」

 

 慎重に写本を革装丁で綴じるエルンスト。

 

 表紙には金箔で『セシリアへ』と記されてある。

 

 ふと窓の外を見ると、王都に夜の帳が下りようとしていた。

 

 ◆

 

 王立魔術学院の貴賓サロンは一般学生とは区別された特別なサロンで、高位貴族の子弟たちが集まる格式高い社交空間だ。 

 

 水晶のシャンデリアから降り注ぐ光が、集まった若い貴族たちの装飾品をきらめかせている。

 

 エルンストは、革装丁の分厚い本を抱えて入室した。

 

 すでに到着していたセシリアは、小さな箱を手に微笑んでいる。

 

「遅くなって申し訳ない」

 

 エルンストは彼女の前に立った。

 

「いえ、私も今着いたところです」

 

 二人の様子に、サロンにいた令嬢令息たちの視線が集まった。

 

 ヴァイスベルク侯爵家とモンフォール伯爵家の婚約は、界隈でも注目の的だった。

 

「では、第一回プレゼント交換実験を開始しよう」

 

 エルンストが宣言すると、周囲からくすくすと笑い声が漏れた。

 

 ──「実験って」

 

 ──「さすが魔術の申し子と言われるだけあるわね」

 

 セシリアは箱を差し出した。

 

「まず私から。エルンスト様の研究に役立つものを選びました」

 

 エルンストが箱を開けると、黒曜石のような艶を持つ文鎮が現れた。

 

 表面には見たこともない複雑な紋様が刻まれている。

 

「これは?」

 

「『固定の文鎮』です」

 

 セシリアが少し得意げに説明を始めた。

 

「この文鎮で押さえた書類は、どんなことがあっても動きません」

 

 エルンストの眉が上がった。

 

「どんなことがあっても?」

 

「ええ。窓を全開にしても、魔術で突風を起こしても」

 

 セシリアは自信満々に続けた。

 

「一枚たりともめくれることはありません」

 

「──ふむ、()()()のかね?」

 

 エルンストが興味深そうに文鎮を手に取って言った。

 

 セシリアもまた若くして魔術の達人ではあるが、原理・現象を操る魔術を得意とするエルンストと違って、彼女は呪術の類を得手としている。

 

「その通りです。『固着の呪法』を応用しました」

 

 セシリアの青い瞳が輝いた。

 

「書類が勝手にめくれて実験データが散らばったり、重要な術式の途中でページが飛んだりする煩わしさから解放されます」

 

「素晴らしいな!」

 

 エルンストは感嘆の声を上げた。

 

「インテリアとしても美しく、実用性もある」

 

「でしょう?」

 

 セシリアは嬉しそうに微笑んだ。

 

「もちろん文鎮を持ち上げれば即座に固定化は解除されます。ただし──」

 

「ただし?」

 

「持ち上げる事ができるのは文鎮の所有者だけ。つまり、あなただけです」

 

 周囲で聞いていた令嬢や令息たちが、ひそひそと囁き合った。

 

 ──「呪いをプレゼントって」

 

 ──「でも実用的よね」

 

 ──「呪いは祝いとも言うからね。使い方次第だろう」

 

 彼らも皆魔術を嗜むゆえに、セシリアのプレゼントを奇妙なものだとは思わない。

 

「製作には三週間かかりました」

 

 セシリアは少し照れたように言った。

 

「あなたの魔力波長に合わせて調整する必要もありましたし」

 

「君は私の魔力波長を」

 

「先日の共同研究で測定したデータを使いました」

 

 二人が熱く語り合い始めると、周囲の空気が微妙に変わった。

 

 ──「さすがはセシリア様ね」

 

 ──「実用性と高度な術式を両立させるセンスは並の魔術師にはないわ」

 

 ──「それを一目で価値を理解して喜ぶエルンスト様も」

 

「私からは、これを」

 

 セシリアが表紙を見た瞬間、息を呑んだ。

 

「まさか『古代共鳴理論』!?」

 

「禁書庫のものを写本した」

 

 エルンストは少し誇らしげだった。

 

「ぎりぎり間に合ったよ。内容も問題ないはずだ。()()()()()()で確認したからな」

 

 五十人がかりというのはもちろんエルンストの疑似人格が五十人分という事だ。

 

 セシリアは震える手でページをめくった。

 

 そこには見事な筆跡で古代の知識が記されている。

 

「素晴らしい(わざ)ですね……」

 

 セシリアの声が感動で震えた。

 

「術式図も、注釈も、全て」

 

「君の研究に必要だと言っていたから」

 

 エルンストは照れたように頭をかいた。

 

 サロンがざわめいた。

 

 ──「『古代共鳴理論』を!?」

 

 ──「あんなもの写本したらそれこそ廃人になってしまうだろうに……」

 

 禁書庫に入れられるような書は大体有害だ。

 

 複製を試みる者の精神を蝕む呪詛、書き写す手を麻痺させる術式などはざらに施されている。

 

 セシリアは本を抱きしめた。

 

「ありがとうございます。大切にします」

 

「それより、早速内容を確認したくないか?」

 

 エルンストが提案した。

 

「第三章の共鳴増幅理論は、君の仮説を裏付ける可能性がある」

 

「本当ですか!? では早速──」

 

 二人が本を開いて議論を始めようとした時、誰かが咳払いをした。

 

「あの、お二人とも」

 

 近くにいた伯爵令嬢が遠慮がちに声をかけた。

 

「せっかくの贈り物交換なのですから、もう少し」

 

「もう少し?」

 

 エルンストが首を傾げる。

 

「その、恋人らしいというか」

 

 セシリアがはたと気づいた。

 

「ああ、そうでした。実験の評価段階でしたね」

 

 彼女は手帳を取り出した。

 

「エルンスト様、現在の親密度を測定しましょう」

 

「そうだな」

 

 エルンストも真面目な顔になった。

 

「プレゼント交換後の感情変化を数値化する必要がある」

 

 二人は向かい合って座った。

 

「まず、喜びの度合いは?」

 

 セシリアが質問する。

 

「測定不能なほど大きい」

 

 エルンストは即答した。

 

「数値化すると誤差が生じる」

 

「私も同感です」

 

 セシリアは頬を赤らめた。

 

「では、親密度の上昇は?」

 

「少なくとも当初に比べて30パーセントは上昇したと思われる」

 

「控えめな見積もりですね」

 

「正確を期すためだ」

 

 ・

 ・

 ・

 

 二人の「分析」を聞いていた周囲の令嬢令息たちは、複雑な表情を浮かべていた。

 

 実のところ、この場の者たちはエルンストとセシリアの関係を以前から温かく見守っていたからだ。

 

 二人が共同研究で夜遅くまで議論している姿、魔術理論を語り合う時の輝く瞳、互いの論文を嬉しそうに引用し合う様子──誰が見ても、二人は特別な関係だった。

 

 しかし当の本人たちは「優秀な研究パートナー」という認識から一歩も進まず、周囲はやきもきしていたのだ。

 

 婚約が決まった時、皆は内心で安堵した。

 

 ようやく二人の関係が進展すると思ったのだ。

 

 それなのに今目の前で繰り広げられているのは「親密度30パーセント上昇」などという、相変わらずの分析だった。

 

「まったく、あの二人は」

 

 とある侯爵令息が小声で呟く。

 

「去年、エルンスト様がセシリア様の論文を『私の人生で最も美しい理論』って評したのを覚えてる?」

 

「覚えてるわ」

 

「セシリア様も真っ赤になって、でも嬉しそうだったわよね」

 

 ・

 ・

 ・

 

 窓際の席では銀髪を優雅に結い上げた令嬢が、その様子を静かに見つめていた。

 

 キャリエル・ド・ハイエスト公爵令嬢。

 

 王太子レインの婚約者である。

 

 ──相変わらずの二人ね。変わった形だけれど

 

 キャリエルは思った。

 

 ──()()()とは大違い

 

 溜息をつく。

 

 最近、レインは彼女に対して冷たかった。

 

 以前のような優しい笑顔も親密な会話も減っている。

 

 理由は分からない。

 

 ◆

 

「ところで」

 

 エルンストが真剣な表情で続けた。

 

「恋人同士の一般的な行動様式について、データが不足している」

 

「確かに」

 

 セシリアも考え込んだ。

 

「参考文献はありますが、実践が」

 

「では観察してみよう」

 

 エルンストは周囲を見回した。

 

「他のカップルの行動を」

 

 その言葉に、サロンにいた恋人同士が一斉に身構えた。

 

「観察されるのは」

 

「ちょっと恥ずかしいわね」

 

 エルンストとセシリアは、きょとんとした。

 

「なぜ恥ずかしいのだ?」

 

「学術的な観察なのに」

 

 その真顔での反応についに誰かが吹き出した。

 

 それをきっかけにサロン全体に笑い声が広がった。

 

「本当に面白いわ」

 

「仲良しなのは確かよね」

 

「ええ、独特だけど」

 

 笑い声の中、一人の伯爵令息が提案した。

 

「じゃあ、僕たちが実演しましょうか」

 

 彼は恋人の手を取った。

 

「例えば、こうやって手を繋ぐとか」

 

 エルンストとセシリアは、真剣な眼差しで観察した。

 

「なるほど、手を繋ぐ」

 

 エルンストがメモを取る。

 

「物理的接触による親密度の表現ですね」

 

 セシリアも頷いた。

 

「では実践してみましょうか」

 

 二人は向かい合い、ぎこちなく手を差し出した。

 

 指先が触れ合うと、両方とも少し驚いたような顔をした。

 

「温かい」

 

 エルンストが呟く。

 

「魔力の循環も感じます」

 

 セシリアが科学的に分析した。

 

「でも、それ以上に」

 

 彼女の声が小さくなった。

 

「安心感があります」

 

 二人は手を繋いだまま、顔を見合わせた。

 

 その瞬間、分析も理論も忘れて、ただお互いを見つめていた。

 

「やっぱり」

 

 誰かが小声で言った。

 

「お似合いよね」

 

 キャリエルはその光景を見ながら小さく微笑み、そして思う。

 

 ──レイン様と私もこれくらい親密になれたら

 

 と。

 

 そうして、ふと自分の手を見つめる。

 

 最後にレインと手を繋いだのは、いつだっただろう。

 

「キャリエル様」

 

 侍女が声をかけた。

 

「お時間です」

 

「ええ、分かったわ」

 

 キャリエルは立ち上がった。

 

 去り際、もう一度エルンストとセシリアを見る。

 

 二人は相変わらず手を繋いだまま、今度は「手の温度と感情の相関関係」について議論を始めていた。

 

「体温上昇は0.3度」

 

「心拍数は15パーセント増加」

 

「でも数値以上の何かを感じます、エルンスト様」

 

「同感だ。これは興味深い現象だな」

 

 キャリエルは少し元気を取り戻してサロンを後にした。

 

 ◆

 

 その頃、リーベンシュタイン男爵邸ではアンナが一人悩んでいた。

 

 鏡に映る自分を見つめながら、深いため息をついている。

 

「どうして、みんな」

 

 アンナは呟いた。

 

「私のことを、そんなに」

 

 アンナがこの世界に生まれて十余年。

 

 最初は乙女ゲームの主人公になれたと喜んでいた。

 

 生まれた家も貴族家としては下級とはいえ、元豪商だけあって生活に不都合は全くない。

 

 見目も悪くなく、憧れの貴族生活を十二分に堪能出来ている。

 

 後は素敵な男性貴族とロマンスを──といった所なのだが。

 

 ここで躓いてしまう。

 

 周りの男性たちの反応は、明らかに異常だった。

 

「お父様は神からの祝福が強く作用していると言うのだけれど……」

 

 ──私は確かに“次に生まれた時はもっと愛される人間になりたい”と願った。でも

 

「こんなふうに、他の人の幸せを壊したいなんて思ってないのに」

 

 そうして首にかけているペンダントのトップに触れる。

 

 アンナは震える手でペンダントを握りしめた。

 

 銀の鎖に通された小さな水晶は、窓から差し込む光を受けて虹色に輝いている。

 

「お父様がくださったこれも、何の効果もないみたい」

 

 社交界デビューの朝を思い出す。

 

 朝食の席で、父ダンカンが神妙な面持ちで小さな箱を差し出してきた。

 

「アンナ、これを身に着けなさい」

 

 箱を開けると、見たこともない複雑な紋様が刻まれたペンダントが入っていた。

 

「これは?」

 

「解呪のアミュレットだ」

 

 父の声は静かだったが、どこか切実さを含んでいた。

 

「昔の伝手を頼って、東方から取り寄せた」

 

 アンナは困惑した。

 

「解呪……私は呪われているのですか?」

 

「呪いとは違う」

 

 ダンカンは娘の肩に手を置いた。

 

「だが、お前の祝福を抑える効果がある」

 

「祝福……」

 

「ああ、お前は神に強く愛されている。いや、愛されすぎている。このままでは皆、正気を失ったようにお前に執着し始めるだろう」

 

「それは……」

 

「うむ、お前も困るだろう。だからこそ、このアミュレットが必要なのだ。幸い、私のような年齢の者には、お前の『祝福』は効かないようだがな」

 

 祝福。

 

 ダンカンはアンナの体質をそう呼んだ。

 

「肌身離さず身に着けていなさい」

 

「はい、お父様」

 

「いいか、アンナ」

 

 ダンカンの声が急に真剣になった。

 

「絶対に、絶対に外してはいけない」

 

「え?」

 

「約束しなさい」

 

 ダンカンの表情には、アンナが今まで見たことのない強い意志が宿っていた。

 

「どんなことがあっても、このペンダントは外さないと」

 

「は、はい……約束します」

 

 アンナはダンカンの剣幕に押されて頷いた。

 

 それ以来、アンナはペンダントを外したことがない。

 

 入浴の時でさえ着けたままだ。

 

 しかし──

 

「何も変わらない」

 

 鏡の前で呟く。

 

 今日も学園では、異常な事態が続いていた。

 

 講義中、男子生徒たちの視線が全てアンナに集中し、教授が何度も注意しなければならなかった。

 

 休み時間には、アンナの周りに男子生徒が群がり、女子生徒たちは冷たい視線を向けてくる。

 

「こんなの、おかしいわ」

 

 アンナは部屋の中を歩き回った。

 

 豪商出身の男爵家らしく、調度品は上質だが派手さはない。

 

 その落ち着いた空間が、今は息苦しく感じられた。

 

 ふと、今朝の出来事が蘇る。

 

 親友だったエリザベートが、学園の中庭で涙を流しながら言った。

 

「アンナ、あなたって本当に罪な女ね」

 

 エリザベートの恋人が、アンナと一度すれ違っただけで心変わりしたのだ。

 

「ごめんなさい、でも私」

 

「言い訳なんて聞きたくない!」

 

 それ以来、女子生徒たちからも距離を置かれるようになった。

 

 学園では孤立無援の状態だ。

 

「どうしたらいいの」

 

 アンナは窓辺に立った。

 

 外では王都の午後が穏やかに流れている。

 

 同年代の令嬢たちは、普通に友人と過ごし、普通に恋をして、普通に青春を謳歌している。

 

 なのに自分だけが、この奇妙な『祝福』に翻弄されている。

 

 ノックの音がした。

 

「お嬢様、お茶の時間です」

 

「今行くわ」

 

 アンナは鏡をもう一度見た。

 

 蜂蜜色の髪、翡翠の瞳。

 

 確かに美しいと言われる容姿ではある。

 

 でも、それだけで人の心がここまで狂うだろうか。

 

 前世の記憶では、この世界は乙女ゲームの舞台だった。

 

 でも、ゲームでこんな設定はなかった。

 

 主人公は確かに男性たちに愛されたが、それは彼女の優しさや強さゆえだった。

 

 こんな、理不尽な力によるものではなかった。

 

 再びペンダントを握る。

 

 解呪のアミュレット。

 

 でも、もし自分にかかっているのが呪いではなく『祝福』なら。

 

 神からの祝福を、人の手で作ったアミュレットが打ち消せるだろうか。

 

「お嬢様?」

 

 使用人の声に、アンナは我に返った。

 

「すぐ行きます」

 

 最後にもう一度、鏡の中の自分を見つめる。

 

 この『祝福』を解く方法を、見つけなければ。

 

 そうでなければ、自分も周りの人々も、誰も幸せになれない。

 

 アンナは決意を新たに、部屋を後にした。

 

 廊下を歩きながら、ふと思う。

 

 そういえば、一人だけ。

 

 学園で見かけても、自分の『祝福』が効かない男子生徒がいる。

 

 黒髪で、いつも難しい顔をしていた──

 

「ヴァイスベルク侯爵令息」

 

 名前を思い出した。

 

 魔術の申し子と呼ばれる、あの変わり者の青年。

 

 先週、学園の図書館で偶然すれ違った時も、彼は自分を一瞥しただけで魔術書に戻っていった。

 

 他の男子生徒なら間違いなく心を奪われるはずなのに。

 

 もしかしたら、彼なら。

 

 この呪いめいた『祝福』について、何か分かるかもしれない。

 

 アンナは小さな希望を胸に、階段を降りていった。

 

 ◆

 

 王立魔術学院の中庭は、秋の陽光に包まれていた。

 

 噴水から流れる水音が学生たちの談笑と混じり合い、穏やかな午後の雰囲気を作り出している。

 

 エルンストはいつものように魔術理論書を片手に、人気のない木陰のベンチへ向かっていた。

 

 そこへ、蜂蜜色の髪をした令嬢が近づいてきた。

 

「エルンスト様」

 

 アンナだ。

 

 切実そうな声。

 

 エルンストは一瞬だけ視線を上げ、すぐに本に戻した。

 

「リーベンシュタイン男爵令嬢か。何か用かね」

 

 声色は冷淡でこそないが、明らかに距離を置いたものだった。

 

「お話があるんです」

 

 その言葉に、エルンストの手が止まった。

 

 しかし顔は上げない。

 

 目も合わせない。

 

 アンナを嫌っているからではなく、警戒しているが故の態度であった。

 

「残念だが私は急いでいる」

 

 本を閉じ、立ち上がるエルンスト。

 

「次の講義に遅れるわけにはいかない」

 

「待ってください!」

 

 アンナは必死に呼び止めた。

 

「お願いです。あなたならこの異常な状況を理解してくださるはず」

 

 エルンストは足を止めたが、振り返らなかった。

 

 脳裏にはセシリアとの約束が浮かんでいる。

 

 もしアンナと話すなら、セシリア同席のもとで──それが二人の取り決めだ。

 

「申し訳ないが今は話すべき時ではない」

 

 エルンストは歩き始めた。

 

「失礼する」

 

「そんな……お待ちください!」

 

 アンナは声を震わせ、小走りでエルンストの前に回り込んだ。

 

「お願いです。誰も私の話を真剣に聞いてくれないんです」

 

 翡翠の瞳に涙が浮かんでいる。

 

 ──魅了される条件が分からない現状、これ以上彼女と話すのは危険だな

 

 そう思ったエルンストだが──

 

 その様子を見ていた一人の青年が、憤然として立ち上がった。

 

「待て、ヴァイスベルク!」

 

 レオナルド・ド・カルディナ伯爵令息の声が、中庭に響いた。

 

 栗色の髪をした長身の青年は、大股でエルンストに近づいてきた。

 

「レディを泣かせるとは、貴族として恥ずべき行為だ」

 

 エルンストは溜息をついた。

 

「私は何もしていない。単に時間がないと伝えただけだ」

 

「言い訳は聞きたくない」

 

 レオナルドは剣の柄に手をかけた。

 

「アンナ嬢への無礼、私が正す」

 

 周囲の学生たちがざわめき始めた。

 

 決闘の気配を感じ取ったのだ。

 

「くだらない」

 

 エルンストは冷たく言い放った。

 

「君は関係ないだろうに」

 

「関係ならある! 私のアンナ嬢を想う気持ちをも貴様は侮辱したのだ!」

 

 レオナルドの顔が真っ赤になった。

 

「エルンスト・フォン・ヴァイスベルク、貴様に決闘を申し込む!」

 

 中庭が静まり返った。

 

 決闘──それは貴族社会において、名誉を賭けた戦いだ。

 

「断る」

 

 エルンストの返答は簡潔だった。

 

「そのような非生産的な行為に時間を割く価値はない」

 

 レオナルドの表情が侮蔑に変わった。

 

「腰抜けめ! 侯爵家の名が泣くぞ」

 

 その言葉に、周囲からさまざまな反応が起こった。

 

 令嬢たちからは同情的な囁きが漏れる。

 

「エルンスト様がお気の毒」

 

「理不尽な決闘よね」

 

 しかし、アンナに心を奪われた令息たちは違った。

 

「彼は臆病者だ」

 

「決闘から逃げるとは、貴族の恥」

 

 エルンストは周囲の声など聞こえていないかのように、踵を返した。

 

「時間の無駄だ」

 

 彼は何事もなかったかのように歩き去っていく。

 

 残されたレオナルドは、怒りに震えながら叫んだ。

 

「逃げるのか臆病者!」

 

 アンナは青ざめた顔で、その場に立ち尽くすばかりだった。

 

 ◆

 

 数日後、ヴァイスベルク侯爵家の書斎。

 

 この日はセシリアと2人で魔術談義をする予定であった。

 

 いわゆる家デートというやつだ。

 

 エルンストは黙々と書を読んでいたが、ふと顔を上げた。

 

 向かいに座るセシリアの様子がおかしい。

 

 いつもの穏やかな表情の奥に、苛立ちが見え隠れしている。

 

「セシリア嬢、何か気がかりなことでも?」

 

 エルンストの問いかけに、セシリアは少し驚いた。

 

「いえ、何も」

 

 彼女は微笑もうとしたが、その笑顔は固い。

 

「本当に?」

 

 エルンストは本を置いた。

 

「君の魔力波動が通常より17パーセント乱れている」

 

 セシリアは苦笑した。

 

「相変わらず鋭いですね」

 

 彼女は息をついた。

 

「実は、学院で聞いた噂が」

 

「決闘の件か」

 

 エルンストは淡々と言った。

 

 セシリアは頷いた。

 

「あなたが『腰抜け』と呼ばれているそうですね」

 

「事実だ。私は決闘を拒否した」

 

 エルンストの声に動揺はない。

 

 セシリアは立ち上がり、窓辺に歩いた。

 

「理屈では分かっています。もちろんエルンスト様が腰抜けだなどとは思っていませんが」

 

「それは嬉しいが。ともかく決闘に応じる意味はない。非合理的で、危険で、何の生産性もない」

 

「その通りです。ただ──」

 

 セシリアが続ける。

 

 青い瞳に、珍しく感情が渦巻いていた。

 

「あなたが侮辱されるのは、不快極まりないと思う自分がいるのです」

 

 エルンストは黙って彼女を見つめた。

 

「私は矛盾しています」

 

 セシリアは自嘲的に笑った。

 

「決闘を受けてほしくもありません。怪我をする可能性もありますし」

 

 セシリアは小さくため息をつきながら言った。

 

「私は私が何を望んでいるのか、あなたにどうしてほしいのか、分からないのです」

 

 やがて、エルンストが口を開いた。

 

「なるほど、理解した」

 

 彼は立ち上がった。

 

「解決策は簡単だ」

 

 セシリアが顔を上げる。

 

「決闘を受け、その上で無傷で勝利すればいい」

 

 エルンストは断言した。

 

「そうすれば、君の理性と感情、両方が満たされる」

 

 セシリアは目を見開いた。

 

「でも、それは危険で──」

 

 危険なものか、とエルンストは言った。

 

「決闘で魔術を使う事は禁止されていないのだから」

 

 事実ではあった。

 

 ただ、それでも魔術を使う者は滅多にいない。

 

 というのも、剣の距離で魔術を使っても意味がない。

 

 魔術は精神集中と詠唱を必要とするため、魔術が感性する前に剣で斬られてしまうからだ。

 

 特に攻撃に使うような魔術は()()が長い傾向にある。

 

「まあ見ていたまえ。それにひとつ試してみたい実験もある」

 

「実験……ですか? でもそれなら私が……」

 

「婚約者を相手にするような実験ではなくてね」

 

 そういってエルンストは笑った。

 

 彼の常の笑みではない。

 

 貴族がしばしば浮かべる冷たい笑みだ。

 

 ◆

 

 なぜ、私はこんな──

 

 思考がかすむ。

 

 体が重い。

 

 剣を握るのも精一杯だ。

 

 なぜ、こんなにも苦しい。

 

 あの男が何かをした──それは私にも分かっている。

 

 だが何をしたのかが分からない。

 

 魔術を使った様子もなかった。

 

 ただ、話しただけだ。

 

 内容も愚にもつかないようなものだった。

 

 そう、確か──

 

 ◆

 

 王立魔術学院の第三訓練場は、決闘のために設けられた特別な空間だった。

 

 石造りの円形闘技場を模した構造で、観客席には既に多くの学生が詰めかけている。

 

 午後の陽光が斜めに差し込み、中央の決闘場を劇的に照らし出していた。

 

 エルンストは黒い学院服に身を包み、腰に帯剣して現れた。

 

 その冷静な表情からは、これから決闘を行うという緊張感は微塵も感じられない。

 

 対するレオナルドは、真紅の上着に身を包み、愛用の剣を手に既に待ち構えていた。

 

「来たか、臆病者」

 

 レオナルドの声には侮蔑が滲んでいる。

 

 観客席では、アンナが青ざめた顔で成り行きを見守っていた。

 

 その周りには、彼女に心を奪われた令息たちが群がっている。

 

「ところでレオナルド」

 

 エルンストは決闘場の中央に立ちながら、退屈そうに言った。

 

「君は私が根っからの魔術師だと知ってそうやって剣を握っているのかい?」

 

 言葉の端々に、奇妙なリズムが混じっている。

 

「君は確かカルローン流という実践剣術を修めていたと思うのだが」

 

 レオナルドは鼻で笑った。

 

「挑発は無駄だ。貴様の臆病な本性は既に露呈している」

 

 彼は美しい構えで剣を構えた。

 

 カルローン流の基本型、攻防一体の構えだ。

 

 エルンストも仕方なさそうに剣を抜いた。

 

 しかし、その剣先は明らかにレオナルドからずれている。

 

 まるで素人が見よう見まねで構えたような、不格好な姿勢だった。

 

「なんだその構えは」

 

 レオナルドが嘲笑した。

 

「まともに剣も握れないのか」

 

「まあ、剣は慣れていなくてね」

 

 エルンストは淡々と答えた。

 

 審判役の教官が前に出た。

 

 白髪の老教師は、厳かに宣言する。

 

「これより、レオナルド・ド・カルディナとエルンスト・フォン・ヴァイスベルクの決闘を開始する」

 

 手が振り下ろされた。

 

「始め!」

 

 その瞬間、エルンストは剣を下げた。

 

「だから魔術を使う」

 

 一言そう告げると、彼は宙空に腰を下ろした。

 

 まるで見えない椅子に座るかのように、足を組んで空中に浮いている。

 

 次の瞬間、レオナルドの顔色が蒼白になった。

 

 膝から崩れ落ち、両手で喉元を押さえる。

 

「が……はっ……」

 

 呼吸が荒く、苦しそうに地面に這いつくばった。

 

 観客席がざわめく。

 

「何が起きたの?」

 

「レオナルド様が苦しんでる!」

 

「でも、エルンスト様は何もしていないように見えたけど」

 

 セシリアだけが、冷静に事態を見つめていた。

 

「なるほど」

 

 彼女は小さく呟いた。

 

 隣に座っていたマリアンヌが振り向く。

 

「セシリア、何が分かったの?」

 

「決闘が開始された時、既に詠唱は終わっていたのです」

 

 セシリアは感心したような表情で説明を始めた。

 

 マリアンヌは首を傾げた。

 

「でも、詠唱なんて聞こえなかったわ」

 

「それもそのはず」

 

 セシリアは身を乗り出した。

 

「エルンスト様の挑発的な言葉、違和感を覚えませんでしたか?」

 

「違和感?」

 

「言葉の端々に、魔術の詠唱が組み込まれていたのです」

 

 セシリアは興奮を隠せない様子で続けた。

 

「古代の『隠匿詠唱術』。通常の会話の中に詠唱を紛れ込ませる高等技術です」

 

 エルンストが空中から声を上げた。

 

「その通りだ。私がレオナルドを挑発し、『私』が魔術を詠唱した」

 

 セシリアの青い瞳が輝いた。

 

「疑似人格を作ったのですね」

 

「正解だ」

 

 エルンストは満足そうに頷いた。

 

「レオナルド、剣では君に勝てないからね」

 

 彼は苦しむ青年を見下ろした。

 

「ところでどうする? そのままだと窒息してしまうが」

 

 レオナルドは息も絶え絶えに顔を上げた。

 

「ひ……卑怯者め……」

 

 その言葉に、観客席の令嬢たちから罵声が飛んだ。

 

「どちらが卑怯よ!」

 

「理不尽な決闘を申し込んだのは誰?」

 

 エルンストは苦笑した。

 

「まあ、それはいい。で、どうするのだね?」

 

 レオナルドは屈辱に震えながらも、かろうじて言葉を絞り出した。

 

「ま……負けを……認める……」

 

 しかし、その表情は悔しさに歪んでいる。

 

 アンナに魅了された令息たちも、エルンストの勝利を実力とは認めていない様子だった。

 

「魔術なんて卑怯だ」

 

「正々堂々と剣で戦うべきだった」

 

 セシリアが立ち上がりかけた。

 

 しかし、それより早くエルンストが動いた。

 

 彼は人差し指をレオナルドに向けた。

 

「火」

 

 静かな呟きと共に、赤い閃光が走った。

 

 レオナルドの頬を掠めた光線は、地面に小さな穴を穿つ。

 

 穴は深く、底が見えない。

 

 本来ならば指先に小さい火を灯すだけの魔術である。

 

 しかしエルンストが使えばこうなる。

 

 観客席が静まり返った。

 

「正々堂々と戦わなくてすまなかった」

 

 エルンストの声は氷のように冷たい。

 

「ただ、私が害意を以て君を魔術で攻撃すると、どうあがいても君は死ぬよ」

 

 レオナルドは震えていた。

 

「私は君が死んでも余り悲しくはない」

 

 エルンストは淡々と続けた。

 

「ただ、君の婚約者が悲しむのではないかな」

 

 彼は肩をすくめた。

 

「まあでも私の配慮は無駄のようだし、そういった配慮は『卑怯』だとされるようだ」

 

 エルンストの表情が、貴族特有の冷酷さを帯びた。

 

「だから殺すとしよう」

 

 今度は顔面に指を向ける。

 

「決闘法では相手を殺しても構わないとされている。──さようなら、レオナルド」

 

 その瞬間、一人の令嬢が観客席から飛び出してきた。

 

 栗色の髪を振り乱しながら、レオナルドの前に立つ。

 

「エルンスト様、どうか──」

 

 レオナルドは呆然と彼女を見つめた。

 

「決闘法によれば」

 

 エルンストは感情のない声で言った。

 

「決闘中にこの様に横入りしてきた者は、どう処分されても文句は言えない事になっている」

 

 それでも令嬢は退かない。

 

 涙を流しながら、両手を広げてレオナルドを庇っていた。

 

「アイラ……」

 

 レオナルドが震え声で呟いた。

 

 何かがはじけたような表情で、彼は剣を捨てた。

 

 そして、エルンストに向かって深く頭を下げる。

 

「申し訳ございませんでした」

 

 彼の声は、先ほどまでとは違っていた。

 

「私の無礼、深くお詫びいたします」

 

 レオナルドは土下座するように跪いた。

 

「どうか、私の命だけで収めてください」

 

 エルンストは指を下ろした。

 

「結構! 二度とこのように絡んでくれるなよ」

 

 そう言うと、エルンストは軽やかに空中から降り立った。

 

 レオナルドは婚約者のアイラに支えられながら立ち上がる。

 

 彼の目には、もうアンナへの異常な執着は見られない。

 

「エルンスト殿」

 

 レオナルドが改めて頭を下げた。

 

「重ねてお詫び申し上げます。そして……感謝を」

 

 エルンストは頷いた。

 

「気にすることはない。良い実験材料になった」

 

 アイラがレオナルドの腕にすがりついた。

 

「もう、こんな馬鹿なことはしないでくださいね」

 

「ああ、約束する」

 

 レオナルドは愛おしそうに婚約者を見つめた。

 

 その一方、セシリアの元へと歩いていくエルンスト。

 

「セシリア嬢」

 

 耳元で囁くエルンスト。

 

 その距離感はまさに恋人同士といった感じだ。

 

「見たかい? 実験は成功だ。生命の危機に直面した時、人工的な感情よりも本来の絆が優先されるという仮説が証明された。彼の心は婚約者へと戻ったようだ」

 

 セシリアは小さく微笑む。

 

「なるほど、極限状態では魅了の影響よりも、真の感情が表出するということですね」

 

「その通りだ。アイラ嬢が身を挺して守ろうとした瞬間、彼の中で何かが切り替わった」

 

 エルンストは満足そうに続けた。

 

「魅了による感情は表層的なものに過ぎない。真の危機においては、より深い部分にある本来の感情が呼び覚まされる。私の思った通りだ!」

 

 そういってたエルンストは、思わずセシリアを抱きしめた。

 

 セシリアもエルンストを抱きしめ返す。

 

 実験が思う様に進んだ時の喜びは何物にも代えがたい事を彼女は知っているからだ。

 

 魔術を探究する者同士の実に健全な姿。

 

 が、近くにいた令嬢は照れたような表情で茶化した。

 

「まあ、お二人ったら。こんな場所でいちゃいちゃして」

 

「そうよ、せめて決闘場の外でなさって」

 

 エルンストとセシリアは顔を見合わせた。

 

「いちゃいちゃ?」

 

「私たちは実験成功の喜びを共に──ああ、もしかしたら!」

 

 セシリアは何か気づいたような表情になった。

 

「エルンスト様。今、他者から『いちゃいちゃ』と評価されました。これは恋人同士として、また一つ親密さが増したということではないでしょうか」

 

 エルンストは考え込んだ──セシリアを抱きしめながら。

 

「なるほど、第三者からの観察による評価か。確かにこの抱擁は予定外の行動だ。しかし」

 

 エルンストは真剣な表情で続けた。

 

「肉体的接触には明確な意義があると判断できる。心拍数の上昇、体温の変化、そして」

 

 少し照れたように咳払いをするエルンスト。

 

「言語化できない満足感があった」

 

 セシリアも頷いた。

 

「私も同じです。理論的には予測していましたが、実際の体験は想定を上回りました」

 

「では、今後の実験計画に『適度な肉体的接触』も組み込むべきだろうか」

 

「それが自然な恋人同士の振る舞いなら、必要でしょうね。ちなみにこの満足感は“愛”と言えるのでしょうか?」

 

 エルンストは愁眉を寄せて考え込む。

 

「愛──ではない気がする。文献によれば愛とは唯一無二の素晴らしいものとされているが、そんなものを感得したならばそれと分かるはずだ」

 

 確かに、とセシリアは同意する。

 

「今しばらく実験を続ける必要がありそうですね」

 

「ああ、続けよう。愛を知る事は、愛を育てる手段を知る事でもあるはずだ」

 

 そんな風に二人が真面目に議論を始めると、周囲の令嬢たちは呆れたように首を振った。

 

 処置無し、といった感であろうか。

 

 ◆

 

 リーベンシュタイン男爵邸の朝食の間は、重苦しい空気に包まれていた。

 

 窓からは朝の陽光差し込み、磨き上げられた銀食器を輝かせているが──その明るさとは対照的に、アンナの表情は暗い。

 

 向かいに座る父ダンカンは、いつも通り新聞に目を通していた。

 

 豪商から男爵位を得た彼は、情報収集を何より重視している。

 

 アンナは震える手でフォークを置き、意を決して口を開いた。

 

「お父様、私、学園を休学したいのです」

 

 ダンカンの手が止まった。

 

 彼はゆっくりと新聞を下ろし、娘の翡翠の瞳を見つめる。

 

 どこか探るような視線だ。

 

「理由を聞かせてもらえるかな」

 

 アンナは俯いた。

 

 喉の奥に言葉が詰まる。

 

 友人を失い、男子生徒たちの異常な執着に晒される日々。

 

 もはや限界だった。

 

「学園での生活が……辛いのです」

 

 彼女の声は震えていた。

 

「皆が私を避けるか、異常に執着するかの二択で」

 

 ダンカンは娘の言葉を黙って聞いていた。

 

 表情に変化はないが、その瞳の奥で何かが動いた。

 

「それで休学したいと」

 

「はい」

 

 アンナは小さく頷いた。

 

「少し時間をいただければ、この『祝福』との向き合い方も」

 

 しかしダンカンは首を横に振った。

 

「それはできない」

 

「でもお父様──」

 

「アンナ」

 

 ダンカンの声が急に厳しくなった。

 

「我が家は男爵家だ。それも成り上がりの」

 

 彼は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。

 

「私が商人から爵位を得るまでに、どれほどの苦労があったか」

 

 アンナは父の顔を見つめた。

 

 普段は温厚な父が、こんなに真剣な表情を見せるのは珍しい。

 

「貴族社会で生き残るには、人脈が全てだ」

 

 ダンカンは続けた。

 

「学園を辞めれば、お前の将来の縁談にも影響する」

 

「でも、このままでは」

 

「聞きなさい、アンナ」

 

 父の声は静かだが、有無を言わせない重みがあった。

 

「我が家の立場は、まだ脆弱だ。古参貴族たちは今も我々を『成金』と蔑んでいる」

 

 ダンカンは立ち上がり、窓辺に歩いた。

 

「だからこそ、お前には立派な貴族の子女として振る舞ってもらわねばならない」

 

 アンナは唇を噛んだ。

 

 父の言うことは理解できる。

 

 しかし、この苦しみをどう耐えればいいのか。

 

「それにお前の『祝福』は神からの贈り物。それを隠して生きることは、神への冒涜になる」

 

「お父様、それは……そうかもしれませんが」

 

「だからこそ、その祝福を否定してはならない」

 

 ダンカンは娘の言葉を遮った。

 

「与えられた恩寵に感謝し、それを活かして生きるのが人の道だ。反すれば罰が与えられるぞ」

 

 アンナは反論できなかった。

 

 父の言葉は正論に聞こえる。

 

 確かに、愛されたいと願った。

 

 確かに、その願いは叶えられた。

 

 だが胸の奥で、何か違和感が疼いた。

 

 これは本当に祝福なのだろうか。

 

 人の心を歪め、関係を破壊するものが。

 

「分かりました、お父様」

 

 アンナは力なく頷いた。

 

「学園には通い続けます」

 

「良い子だ」

 

 ダンカンは微笑んだ。

 

 しかしその笑顔は、どこか作り物めいていた。

 

「ペンダントは肌身離さず着けているね?」

 

「はい」

 

 アンナは胸元のペンダントに触れた。

 

「一度も外していません」

 

「それでいい」

 

 ダンカンは満足そうに頷いた。

 

「決して外してはいけないよ」

 

 朝食が終わり、アンナは自室に戻った。

 

 扉を閉めると同時に、彼女は扉にもたれかかった。

 

 涙が頬を伝う。

 

「神様」

 

 アンナは小さく呟いた。

 

「私は、こんな形で愛されたかったわけじゃないのに」

 

 学園に向かう時間が近づいていた。

 

 今日もまた、あの地獄のような一日が始まる。

 

 アンナは深呼吸をして、制服に着替え始めた。

 

 逃げることは許されない。

 

 ならば耐えるしかない。

 

 そう思うアンナだがしかし、心の奥底で小さな疑問が芽生え始めていた。

 

 父は本当に、自分のことを思って言っているのだろうか。

 

 それとも──

 

 その考えを振り払うように、アンナは首を振った。

 

 ◆

 

 ◆

 

 リーベンシュタイン男爵邸の朝食の間は、重苦しい空気に包まれていた。

 

 朝の陽光が窓から差し込み、磨き上げられた銀食器を輝かせているが、その明るさとは対照的に、アンナの表情は暗い。

 

 向かいに座る父ダンカンは、いつも通り新聞に目を通していた。

 

 豪商から男爵位を得た彼は、情報収集を何より重視している。

 

 アンナは震える手でフォークを置き、意を決して口を開いた。

 

「お父様、私、学園を休学したいのです」

 

 ダンカンの手が止まった。

 

 彼はゆっくりと新聞を下ろし、娘の翡翠の瞳を見つめる。

 

 その視線は穏やかだが、どこか探るような鋭さを含んでいた。

 

「理由を聞かせてもらえるかな」

 

 アンナは俯いた。

 

 喉の奥に言葉が詰まる。

 

 友人を失い、男子生徒たちの異常な執着に晒される日々。

 

 もはや限界だった。

 

「学園での生活が……辛いのです」

 

 彼女の声は震えていた。

 

「皆が私を避けるか、異常に執着するかの二択で」

 

 ダンカンは娘の言葉を黙って聞いていた。

 

 表情に変化はないが、その瞳の奥で何かが動いた。

 

「それで休学したいと」

 

「はい」

 

 アンナは小さく頷いた。

 

「少し時間をいただければ、この『祝福』との向き合い方も」

 

 しかしダンカンは首を横に振った。

 

「それはできない」

 

「でもお父様──」

 

「アンナ」

 

 ダンカンの声が急に厳しくなった。

 

「我が家は男爵家だ。それも成り上がりの」

 

 彼は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。

 

「私が商人から爵位を得るまでに、どれほどの苦労があったか」

 

 アンナは父の顔を見つめた。

 

 普段は温厚な父が、こんなに真剣な表情を見せるのは珍しい。

 

「貴族社会で生き残るには、人脈が全てだ」

 

 ダンカンは続けた。

 

「学園を辞めれば、お前の将来の縁談にも影響する」

 

「でも、このままでは」

 

「聞きなさい、アンナ」

 

 父の声は静かだが、有無を言わせない重みがあった。

 

「我が家の立場は、まだ脆弱だ。古参貴族たちは今も我々を『成金』と蔑んでいる」

 

 ダンカンは立ち上がり、窓辺に歩いた。

 

「だからこそ、お前には立派な貴族の子女として振る舞ってもらわねばならない」

 

 アンナは唇を噛んだ。

 

 父の言うことは理解できる。

 

 しかし、この苦しみをどう耐えればいいのか。

 

「それに」

 

 ダンカンは振り返った。

 

 その表情に、奇妙な光が宿っている。

 

「お前の『祝福』は神からの贈り物。それを隠して生きることは、神への冒涜になる」

 

 アンナは息を呑んだ。

 

「神からの贈り物……ですか」

 

「そうだ」

 

 ダンカンは断言した。

 

「お前が前世で願った『愛される人間になりたい』という願い。神はそれを叶えてくださった」

 

 その言葉に、アンナの背筋が凍った。

 

 父は知っているのだ。

 

 自分の前世の記憶のことを。

 

「お父様、それは」

 

「だからこそ、その祝福を否定してはならない」

 

 ダンカンは娘の言葉を遮った。

 

「与えられた恩寵に感謝し、それを活かして生きるのが人の道だ」

 

 アンナは反論できなかった。

 

 父の言葉は正論に聞こえる。

 

 確かに、愛されたいと願った。

 

 確かに、その願いは叶えられた。

 

 だが胸の奥で、何か違和感が疼いた。

 

 これは本当に祝福なのだろうか。

 

 人の心を歪め、関係を破壊するものが。

 

「分かりました、お父様」

 

 アンナは力なく頷いた。

 

「学園には通い続けます」

 

「良い子だ」

 

 ダンカンは微笑んだ。

 

 しかしその笑顔は、どこか作り物めいていた。

 

「ペンダントは肌身離さず着けているね?」

 

「はい」

 

 アンナは胸元のペンダントに触れた。

 

「一度も外していません」

 

「それでいい」

 

 ダンカンは満足そうに頷いた。

 

「決して外してはいけないよ」

 

 朝食が終わり、アンナは自室に戻った。

 

 扉を閉めると同時に、彼女は壁にもたれかかった。

 

 涙が頬を伝う。

 

 父の言葉は正しいのかもしれない。

 

 でも、この苦しみは一体何なのだろう。

 

 ペンダントを握りしめる。

 

 解呪のアミュレット。

 

 でも、呪いではなく祝福なら、これに効果があるはずもない。

 

「神様」

 

 アンナは小さく呟いた。

 

「私は、こんな形で愛されたかったわけじゃないのに」

 

 窓の外では、学園に向かう時間が近づいていた。

 

 今日もまた、あの地獄のような一日が始まる。

 

 アンナは深呼吸をして、制服に着替え始めた。

 

 逃げることは許されない。

 

 ならば、耐えるしかない。

 

 でも心の奥底で、小さな疑問が芽生え始めていた。

 

 父は本当に、自分のことを思って言っているのだろうか。

 

 それとも──

 

 その考えを振り払うように、アンナは首を振った。

 

 ◆

 

 王立魔術学院の図書館は、知識の宝庫であると同時に、学生たちの憩いの場でもあった。

 

 高い天井まで届く書架の間を、柔らかな魔術灯の光が照らしている。

 

 そんな中、アンナは最奥の席に身を潜めるようにして分厚い魔術史の本を開いていた。

 

 視線は文字を追っているが、内容は頭に入ってこない。

 

 周囲の気配に神経を尖らせながら、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

 

「この席、空いているかな」

 

 突然の声に、アンナは顔を上げた。

 

 そこに立っていたのは、金髪碧眼の青年だった。

 

 王太子レイン・アルカディア。

 

 アンナは一瞬息を呑んだが、すぐに小さく頷いた。

 

「はい、どうぞ」

 

 レインは優雅に腰を下ろし、自分の本を開いた。

 

 アンナは再び視線を本に落としたが、心臓が早鐘を打っている。

 

 なぜ王太子が、こんな奥まった席に。

 

 しばらく沈黙が続いた。

 

 ページをめくる音だけが、静かに響く。

 

「リーベンシュタイン男爵令嬢だね」

 

 レインが口を開いた。

 

「最近、よくここで見かける」

 

 アンナは顔を上げた。

 

 王太子の碧眼は穏やかで、まだ「あの光」は宿っていない。

 

 少し安堵しながら、彼女は答えた。

 

「静かな場所が好きなので」

 

「僕も同じだ」

 

 レインは微笑んだ。

 

「最近は特に、静寂が恋しくてね」

 

 その言葉に、どこか疲れたような響きがあった。

 

 アンナは相槌を打ちながら、早くこの場を離れたいと思っていた。

 

 しかし、王太子に対して無礼な態度は取れない。

 

「政務でお疲れなのですか」

 

 当たり障りのない言葉を選ぶ。

 

「政務もあるが」

 

 レインは苦笑した。

 

「それ以上に、人間関係というものは難しい」

 

 アンナは黙って頷いた。

 

 深く踏み込まないよう、注意深く距離を保つ。

 

「君は」

 

 レインが続けた。

 

「人間関係で悩むことはあるかい」

 

 アンナは一瞬言葉に詰まった。

 

 正直に答えるべきか、当たり障りのない返答をすべきか。

 

「誰にでも、そういうことはあると思います」

 

 結局、曖昧な答えを選んだ。

 

 レインは少し首を傾げた。

 

「君も苦労しているんだね」

 

 その声には、予想外の共感が込められていた。

 

「社交界は時に残酷だ。特に、目立つ者には」

 

 アンナは驚いた。

 

 王太子が自分の状況を知っているのだろうか。

 

「私は」

 

 言いかけて、口を閉じる。

 

 レインは静かに待っていた。

 

 押し付けがましさのない、穏やかな沈黙。

 

「私は、ただ普通でいたいだけなんです」

 

 アンナは小さく呟いた。

 

「普通に友人と話して、普通に学んで、普通に」

 

 声が震え始めた。

 

 涙をこらえる。

 

「すまない」

 

 レインが謝った。

 

「辛いことを思い出させてしまったようだ」

 

「いえ」

 

 アンナは首を振った。

 

「殿下のせいではありません」

 

 二人の間に、また沈黙が流れた。

 

 今度は先ほどとは違う、どこか温かみのある静けさだった。

 

「実は僕も」

 

 レインが口を開いた。

 

「最近、『普通』というものに憧れている」

 

 アンナは顔を上げた。

 

 王太子の表情には、意外な寂しさが浮かんでいた。

 

「生まれた時から決められた道を歩き、決められた相手と」

 

 言葉を切る。

 

「時々、息が詰まりそうになる」

 

 アンナは何も言えなかった。

 

 王国の頂点に立つ者にも、こんな悩みがあるなんて。

 

「でも、君と話していると」

 

 レインの声が柔らかくなった。

 

「なぜか、肩の力が抜けるんだ」

 

 その瞬間、アンナは気づいた。

 

 レインの瞳に、うっすらと「あの光」が宿り始めている。

 

 心臓が跳ね上がった。

 

「あの、私」

 

 アンナは慌てて立ち上がった。

 

「次の講義があるので、失礼します」

 

「待って」

 

 レインも立ち上がる。

 

「また、ここで会えるかな」

 

 アンナは振り返らずに答えた。

 

「はい、きっと」

 

 嘘だった。

 

 もう二度と、ここには来ないだろう。

 

 足早に図書館を出ながら、アンナは震えていた。

 

 振り返る勇気はなかった。

 

 きっと王太子は、あの恐ろしいほど熱い視線で自分を見つめているはずだ。

 

 廊下を小走りに進みながら、アンナは絶望的な気持ちになった。

 

 王太子まで。

 

 これ以上、誰かの人生を狂わせたくない。

 

 特に王太子には、キャリエル公爵令嬢という立派な婚約者がいるのだ。

 

「神様」

 

 アンナは心の中で祈った。

 

「どうか、これ以上私を試さないでください」

 

 しかし、その祈りが届くことはなかった。

 

  ◆

 

 執務室に戻る廊下を歩きながら、僕は先ほどの図書館での出来事を反芻していた。

 

 リーベンシュタイン男爵令嬢──アンナ。

 

 彼女と話している時だけ、この重苦しい日常から解放されたような気がした。

 

「普通でいたい」という彼女の言葉が、妙に心に残っている。

 

 僕も同じことを願っているのかもしれない。

 

 王太子という肩書きを捨てて、ただの一人の青年として生きることができたら。

 

 執務室の扉を開けると、そこにはキャリエルが待っていた。

 

 銀髪を優雅に結い上げ、紺色のドレスに身を包んだ彼女は、いつも通り完璧な貴族令嬢の姿だった。

 

「レイン様、お待ちしておりました」

 

 その声には、かつてのような温かみがない。

 

 いつからこうなってしまったのだろう。

 

「キャリエル、何か用かい」

 

 僕は努めて穏やかに尋ねたが、声には疲労が滲んでいた。

 

「来月の舞踏会の件で、打ち合わせが必要かと」

 

 彼女は淡々と用件を告げる。

 

 まるで業務連絡のようだ。

 

「ああ、そうだったね」

 

 正直、舞踏会のことなど頭になかった。

 

 最近は政務に追われ、社交行事まで気が回らない。

 

 キャリエルは僕の様子を見て、小さくため息をついた。

 

「また忘れていらしたのですね」

 

 その言葉には、明らかな非難が込められていた。

 

「申し訳ない。最近は──」

 

「最近は政務がお忙しい、でしょう?」

 

 キャリエルが僕の言葉を遮った。

 

「いつも同じ言い訳ですわ」

 

 彼女の青い瞳に、苛立ちが浮かんでいる。

 

 僕は椅子に座り、額に手を当てた。

 

 頭痛がする。

 

「キャリエル、僕は本当に」

 

「分かっています」

 

 彼女の声は冷たい。

 

「レイン様がお忙しいのは理解しております。でも」

 

 言葉を切って、彼女は窓の外を見つめた。

 

「私たちは婚約者同士です。もう少し、お互いのための時間を作るべきではありませんか」

 

 正論だった。

 

 彼女の言うことは全て正しい。

 

 だが、なぜかその正しさが重くのしかかってくる。

 

「君の言う通りだ」

 

 僕は認めた。

 

「もっと努力すべきだった」

 

「努力」

 

 キャリエルが振り返った。

 

 その表情には、悲しみが浮かんでいた。

 

「私との時間を作ることが、そんなに努力を要することなのですか」

 

 胸が痛んだ。

 

 彼女を傷つけるつもりはない。

 

 でも、最近は彼女と過ごす時間が苦痛に感じられるのも事実だった。

 

「そういう意味では」

 

「では、どういう意味ですか」

 

 キャリエルが詰め寄る。

 

「最近のレイン様は、私を避けているようにしか見えません」

 

 否定できなかった。

 

 確かに、僕は彼女を避けていた。

 

 理由は自分でもよく分からない。

 

 ただ、彼女といると息が詰まるような感覚があった。

 

「疲れているんだ」

 

 結局、僕はそう言うしかなかった。

 

「王位継承者としての責任が、日々重くなっている」

 

 キャリエルは唇を噛んだ。

 

「私は、レイン様の支えになりたいと思っています」

 

 彼女の声が震えた。

 

「でも、最近のレイン様は私を必要としていないように見える」

 

 その言葉に、僕は何も返せなかった。

 

 沈黙が二人の間に横たわる。

 

 重く、息苦しい沈黙。

 

 ふと、先ほどのアンナとの会話を思い出した。

 

 あの時の沈黙は、こんなに苦しくなかった。

 

 むしろ心地よいくらいだった。

 

「レイン様?」

 

 キャリエルの声で我に返る。

 

「何を考えていらっしゃるのですか」

 

 まさか別の女性のことを考えていたとは言えない。

 

「いや、何でもない」

 

 僕は首を振った。

 

「舞踏会の件、詳細を聞かせてくれ」

 

 キャリエルは少し躊躇った後、書類を取り出した。

 

「招待客のリストです。確認をお願いします」

 

 リストに目を通しながら、僕の意識は別のところに飛んでいた。

 

 もし、僕の婚約者がキャリエルではなく、アンナだったら。

 

 そんな考えが、不意に頭をよぎった。

 

 彼女となら、こんな重苦しい打ち合わせも、もっと楽しいものになるのではないか。

 

「レイン様、聞いていらっしゃいますか」

 

 キャリエルの苛立った声。

 

「ああ、すまない」

 

 集中しようとするが、思考は勝手にアンナのことに戻ってしまう。

 

 図書館で見せた、あの寂しそうな表情。

 

「普通でいたい」という切実な願い。

 

 なぜか、その言葉が心に刺さって離れない。

 

「もういいです」

 

 キャリエルが書類を片付け始めた。

 

「今日のレイン様と話しても無駄のようですから」

 

「キャリエル」

 

「また後日、お時間のある時に」

 

 彼女は優雅に立ち上がった。

 

 しかし、その動作の端々に怒りが滲んでいる。

 

「待ってくれ」

 

 僕は彼女を呼び止めた。

 

「本当に申し訳ない。君に対して不誠実だった」

 

 キャリエルは振り返った。

 

 その瞳に、一瞬希望が宿る。

 

「では、今週末、一緒に過ごしていただけますか」

 

 彼女の提案に、僕は頷くべきだった。

 

 それが正しい選択だと分かっていた。

 

 でも。

 

「今週末は、少し一人になりたいんだ」

 

 言葉が口を衝いて出た。

 

 キャリエルの表情が凍りついた。

 

「そうですか」

 

 彼女の声は静かだった。

 

 静かすぎて、かえって恐ろしい。

 

「分かりました。レイン様がそうおっしゃるなら」

 

 キャリエルは深く礼をした。

 

 完璧な作法だが、心がこもっていない。

 

「失礼いたします」

 

 彼女が部屋を出て行った後、僕は椅子に深く沈み込んだ。

 

 なぜ、あんなことを言ってしまったのだろう。

 

 キャリエルは何も悪くない。

 

 完璧な公爵令嬢で、将来の王妃として申し分ない。

 

 でも、完璧すぎるのかもしれない。

 

 彼女といると、自分も完璧でいなければならない気がして、疲れてしまう。

 

 窓の外を見つめながら、僕はまたアンナのことを考えていた。

 

 彼女となら、こんな風に疲れることはないのではないか。

 

 お互いに「普通」を求める者同士、きっと分かり合えるはずだ。

 

 もし彼女が僕の婚約者だったら。

 

 朝、目覚めた時に最初に会うのが彼女だったら。

 

 政務に疲れて帰った時、彼女が温かく迎えてくれたら。

 

 そんな想像が、次から次へと湧き上がってくる。

 

「何を考えているんだ、僕は」

 

 自分で自分に呆れた。

 

 キャリエルとの婚約は、国家間の重要な取り決めだ。

 

 個人の感情で覆せるものではない。

 

 それに、アンナとは今日初めてまともに話したばかりだ。

 

 なのに、なぜこんなにも心が惹かれるのか。

 

 執務机の上の書類が山積みになっている。

 

 やるべきことは山ほどある。

 

 でも、集中できない。

 

 頭の中は、蜂蜜色の髪と翡翠の瞳でいっぱいだった。

 

 立ち上がって、窓辺に歩み寄る。

 

 王都の午後は穏やかに流れている。

 

 どこかで、アンナも同じ空を見上げているのだろうか。

 

「また図書館で会えるかな」と聞いた時、彼女は「はい、きっと」と答えた。

 

 でも、あの時の彼女の様子から、それが社交辞令だということは分かっていた。

 

 きっと彼女は、もう図書館には来ないだろう。

 

 なぜか、その思いが胸を締め付ける。

 

 もう一度、彼女と話がしたい。

 

 あの穏やかな時間を、また共有したい。

 

「殿下」

 

 侍従の声で現実に引き戻された。

 

「次の予定のお時間です」

 

「分かった、すぐ行く」

 

 最後にもう一度窓の外を見て、僕は執務室を後にした。

 

 歩きながら、ふと思う。

 

 これが恋というものなのだろうか。

 

 だとしたら、なんと苦しく、そして甘美なものだろう。

 

 キャリエルに対して申し訳ない気持ちと、アンナへの抑えきれない想いの間で、僕の心は引き裂かれそうだった。

 

  ◆

 

 王立魔術学院の貴賓サロンは、午後の陽光に包まれていた。

 

 窓から差し込む光が、磨き上げられた大理石の床に金色の模様を描いている。

 

 そんな穏やかな空間で、一組の若い男女が向かい合って座っていた。

 

 エルンスト・フォン・ヴァイスベルクとセシリア・ド・モンフォール。

 

 学園屈指の魔術オタク・カップルである。

 

 二人は真剣な表情で手を繋ぎ、じっと見つめ合っている。

 

「現在、接触開始から十五分が経過した」

 

 エルンストが静かに報告した。

 

「心拍数の上昇は安定期に入ったようだ」

 

「ええ、私も同じです」

 

 セシリアが頷く。

 

「ただ、手の温度は依然として通常より0.5度高い状態を維持しています」

 

 周囲の令嬢令息たちは、そんな二人を興味深そうに見守っていた。

 

 ──「相変わらずね、あの二人」

 

 ──「でも、なんだか微笑ましいわ」

 

 エルンストは周囲の声など聞こえていないかのように、分析を続けた。

 

「興味深いのは、視線の交換による瞳孔の変化だ」

 

「どのような変化ですか?」

 

 セシリアが身を乗り出す。

 

「通常の会話時と比較して、瞳孔が平均して12パーセント拡大している」

 

「それは交感神経の活性化を示唆していますね」

 

「そうだ。つまり、我々の身体は無意識のうちに──」

 

 エルンストが言いかけた時、銀髪の令嬢が二人に近づいてきた。

 

 キャリエル・ド・ハイエスト公爵令嬢だった。

 

「失礼します」

 

 キャリエルは優雅に微笑んだ。

 

「お二人の仲睦まじい様子を拝見していて、つい声をかけたくなりました」

 

 エルンストとセシリアは、手を繋いだまま立ち上がった。

 

「キャリエル様」

 

 二人は丁寧に頭を下げた。

 

「仲睦まじい、とおっしゃっていただけるとは光栄です」

 

 セシリアが恭しく答えた。

 

「私たちは実験の最中なのですが」

 

「実験でも」

 

 キャリエルは苦笑した。

 

「はたから見れば、とても親密な恋人同士にしか見えませんわ」

 

 その言葉に、エルンストの顔が輝いた。

 

「そう見えますでしょうか!」

 

 エルンストは嬉しそうに言う。

 

「やはり実験の方向性は間違っていないようです。刻一刻と我々の親密さは増しているように思えます」

 

 エルンストはセシリアに向き直った。

 

「セシリア嬢はどう思う?」

 

「私も同感です」

 

 セシリアは真面目な表情で頷いた。

 

「第三者からの客観的評価、それもキャリエル様のような方からのご評価は、我々の主観的な感覚を裏付けるものです」

 

 キャリエルは二人の反応に少し戸惑いながらも、興味深そうに尋ねた。

 

「お二人も政略結婚でしたよね」

 

「はい、その通りでございます」

 

 セシリアが答える。

 

「でも、なぜそのように心を通わせることができるのですか?」

 

 キャリエルの声には、切実な響きがあった。

 

「私も政略で婚約しましたが、最近は」

 

 言葉を濁す彼女に、エルンストが真剣な表情で向き直った。

 

「恐れながら、キャリエル様も恋愛関係の構築にお悩みでいらっしゃるのですか」

 

「悩みというか」

 

 キャリエルは苦笑した。

 

「むしろ後退しているような気がして」

 

 セシリアが同情的な表情を浮かべた。

 

「それはお辛いことでしょう」

 

「ええ、正直なところ」

 

 キャリエルは小さくため息をついた。

 

「お二人のような関係が羨ましいです」

 

 エルンストは恭しく頭を下げた。

 

「僭越ながら、我々の経験がキャリエル様のお役に立てるのであれば、喜んでお話しさせていただきます」

 

「ぜひ聞かせてください」

 

 キャリエルは身を乗り出した。

 

 エルンストは立ち上がった。

 

 セシリアの手を引いて、一緒に立たせる。

 

「まず第一に、共通の目的意識でございます」

 

 彼は丁寧に説明を始めた。

 

「我々は『愛の実証的研究』という明確な目標を共有しております」

 

「目標の共有」

 

 キャリエルは頷いた。

 

「第二に、相互の尊重です」

 

 セシリアが続けた。

 

「エルンスト様の理論を私が補強し、私の発見を彼が発展させる。対等な関係性でございます」

 

「なるほど」

 

「そして第三に」

 

 エルンストは一呼吸置いた。

 

「段階的な発展でございます」

 

 キャリエルが首を傾げる。

 

「段階的、ですか?」

 

「はい、愛というものは」

 

 エルンストは急に真剣な表情になった。

 

「恐れながら申し上げますと、あるいは出世魚のようなものなのかもしれません」

 

 サロンに一瞬の沈黙が流れた。

 

「出世魚?」

 

 キャリエルが困惑した声を上げる。

 

 周囲で聞いていた令嬢令息たちも、顔を見合わせた。

 

「どういう意味ですか?」

 

 セシリアでさえ、少し戸惑っているようだった。

 

 エルンストは恐縮しながらも説明を始めた。

 

「お聞き苦しい例えで恐縮ですが、出世魚というのは、成長と共に名前が変わる魚のことでございます」

 

 彼は空中に指で図を描きながら続けた。

 

「最初は小さく、ありふれた名前で呼ばれます」

 

「はあ」

 

「しかし成長するにつれ、より立派な名前に変わっていきます」

 

 エルンストの目が輝いた。

 

「最終的には、最初とは全く違う、威厳ある名前で呼ばれるようになるのです」

 

 キャリエルは理解しようと努めた。

 

「それが愛と、どう関係が?」

 

「つまりですね」

 

 エルンストは慎重に言葉を選んだ。

 

「愛もまた、段階を経て成長し、その都度違う名前で呼ばれるのではないかと」

 

 セシリアが目を見開いた。

 

「ああ、なるほど!」

 

 彼女は控えめに手を打った。

 

「最初は『好意』という小さな感情から始まり」

 

「その通りです!」

 

 エルンストが頷く。

 

「それが『親愛』に成長し、やがて『恋情』となり」

 

「最終的には『愛』という最も崇高な名前に至る」

 

 セシリアが締めくくった。

 

 周囲の令嬢令息たちから、感嘆の声が漏れた。

 

「なるほど、確かに」

 

「出世魚とは、面白い例えね」

 

「段階的に成長するという意味では、的確かも」

 

 キャリエルも納得したような表情を浮かべた。

 

「つまり、焦ってはいけないということですね」

 

「恐れながら、その通りでございます」

 

 エルンストは頷いた。

 

「小魚にいきなり大魚の名前をつけても、それは偽りでしかありません」

 

「自然な成長を待つ必要があるのですね」

 

 セシリアが付け加えた。

 

 キャリエルは考え込んだ。

 

「私とレイン様の関係は」

 

 彼女は呟いた。

 

「もしかしたら、まだ『好意』の段階なのかもしれません」

 

「それなら希望がございます」

 

 エルンストは慎重に言った。

 

「適切な環境と栄養を与えれば、必ず成長いたします」

 

「環境と栄養」

 

 キャリエルが繰り返す。

 

「愛における栄養とは?」

 

 今度はセシリアが答えた。

 

「共有する時間、会話、経験」

 

 彼女は指を折りながら数えた。

 

「そして何より、相手を知ろうとする努力でございます」

 

 エルンストが頷く。

 

「我々も日々、お互いについて新しい発見をしております」

 

「例えば?」

 

 キャリエルが興味深そうに尋ねた。

 

 エルンストとセシリアは顔を見合わせた。

 

「セシリア嬢は、考え事をする時に髪を触る癖がある」

 

「エルンスト様は、嬉しい時に右眉が少し上がります」

 

「君は紅茶に蜂蜜を二杯入れる」

 

「あなたは本を読む時、気に入った箇所で微笑みます」

 

 二人の間に、温かな空気が流れた。

 

 キャリエルは、その様子を羨ましそうに見つめた。

 

「素敵ですね」

 

 彼女の声には憧れが滲んでいた。

 

「私も、レイン様のそういった小さな癖を見つけたいです」

 

「きっと見つかります」

 

 セシリアが優しく言った。

 

「ただし、観察には客観性が必要でございます」

 

「客観性?」

 

「感情に流されすぎると、相手の本当の姿が見えなくなります」

 

 セシリアは真面目な表情で続けた。

 

「だからこそ、我々は実験という形を取っているのです」

 

 エルンストが補足した。

 

「データを取ることで、主観的な思い込みを排除できます」

 

「なるほど」

 

 キャリエルは感心したように頷いた。

 

「でも、それでは冷たい関係になりませんか?」

 

 その質問に、エルンストとセシリアは同時に首を振った。

 

「恐れながら、むしろ逆でございます」

 

 エルンストが言った。

 

「相手を正確に理解することで、より深い愛情が生まれます」

 

「誤解や幻想に基づく感情は、脆いものです」

 

 セシリアが付け加えた。

 

「真実に基づく感情こそが、永続的なものとなります」

 

 キャリエルは深く息を吸った。

 

「つまり、私はレイン様を」

 

 彼女は決意を込めて言った。

 

「もっとよく観察し、理解する必要があるということですね」

 

「そして」

 

 エルンストが恐縮しながら付け加えた。

 

「失礼を承知で申し上げますが、キャリエル様ご自身も、素直にご自分をさらけ出される必要があるかと」

 

 キャリエルが驚いたような顔をした。

 

「自分を?」

 

「はい」

 

 エルンストは慎重に続けた。

 

「愛は相互作用でございます。一方通行では成立いたしません」

 

 セシリアが優しく微笑んだ。

 

「完璧な公爵令嬢を演じるのではなく」

 

 彼女は言った。

 

「ありのままのご自分を見せることも大切かと存じます」

 

 キャリエルは考え込んだ。

 

 確かに、自分は常に完璧であろうとしていた。

 

 王太子の婚約者として恥ずかしくない振る舞いを心がけ、常に優雅で、知的で、美しくあろうとした。

 

 でも、それは本当の自分なのだろうか。

 

「私は」

 

 キャリエルは小さく呟いた。

 

「本当の自分を、レイン様に見せたことがあるでしょうか」

 

 その問いに、誰も答えなかった。

 

 答えは、彼女自身が見つけるべきものだったから。

 

 しばらくの沈黙の後、キャリエルは顔を上げた。

 

「ありがとうございます」

 

 彼女の声には、新たな決意が宿っていた。

 

「お二人のお話を聞いて、希望が見えてきました」

 

「恐れ多いことです」

 

 セシリアが頭を下げた。

 

「キャリエル様のお役に立てたのであれば、光栄の至りでございます」

 

「ところで」

 

 エルンストが急に思い出したように言った。

 

「出世魚の例えで言えば、我々の関係は今どの段階だろうか」

 

 セシリアは考え込んだ。

 

「難しいですね」

 

 彼女は首を傾げた。

 

「『好意』は確実に超えていますが」

 

「『親愛』も通過したと思われる」

 

 エルンストが続けた。

 

「では『恋情』?」

 

「恋情」

 

 セシリアは手を繋いだままのエルンストを見つめた。

 

「これがそうなのでしょうか」

 

「分からない」

 

 エルンストも素直に認めた。

 

「文献によれば、恋情とは胸が高鳴り、相手のことが頭から離れない状態らしいが」

 

「それなら当てはまりますね」

 

 セシリアが頷いた。

 

「私は最近、エルンスト様の理論のことばかり考えています」

 

「私も君の古代文献解釈が気になって仕方ない」

 

 周囲の令嬢たちが、くすくすと笑い始めた。

 

 ──「それは恋情とは少し違うような」

 

 ──「でも、ある意味では正しいかも」」

 

 キャリエルも微笑んでいた。

 

 二人の関係は確かに特殊だが、そこには確かな絆があることが分かる。

 

「私も」

 

 キャリエルは呟いた。

 

「レイン様と、そんな風に夢中になれる何かを共有したいです」

 

「必ず見つかります」

 

 エルンストが励ました。

 

「愛の形は人それぞれでございます。我々のような形もあれば、もっと情熱的な形もあるでしょう」

 

「大切なのは」

 

 セシリアが続けた。

 

「お二人に合った形を見つけることでございます」

 

 キャリエルは深く頷いた。

 

「はい、頑張ってみます」

 

 彼女は立ち上がった。

 

「貴重なお話をありがとうございました」

 

「とんでもございません」

 

 エルンストが恭しく頭を下げた。

 

「もしまたお悩みがございましたら、いつでもご相談ください。我々の実験データも、必要でしたら共有させていただきます」

 

「それは心強いです」

 

 キャリエルは優雅に一礼した。

 

「では、失礼いたします」

 

 彼女が去った後、エルンストとセシリアは再び向かい合った。

 

「良い分析ができたな」

 

 エルンストが満足そうに言った。

 

「はい」

 

 セシリアも頷いた。

 

「出世魚の例えは秀逸でした」

 

「思いつきだったが、意外に的確だった」

 

 二人はまだ手を繋いだままだった。

 

「そろそろ一時間になりますね」

 

 セシリアが懐中時計を確認した。

 

「手を離しますか?」

 

「いや」

 

 エルンストは首を振った。

 

「もう少しデータを取りたい」

 

「私も同感です」

 

 セシリアは微笑んだ。

 

  ◆

 

 私がアンナの異常に気付いたのは、娘がまだ五歳の頃だった。

 

 使用人の子供たちと遊ぶアンナを見ていて、些細な違和感を覚えたのだ。

 

 男の子たちが妙にアンナに優しい。

 

 最初は娘の人柄だと思った。

 

 しかし注意深く観察を続けるうちに、パターンがあることに気付いた。

 

 アンナと接した男児は、彼女を特別扱いする傾向がある。

 

 ただし、その程度は微々たるものだった。

 

 せいぜいお菓子を分けてくれたり、遊びで譲ってくれたりする程度。

 

 私は密かに観察を続けた。

 

 商人時代に培った分析力で、娘の"体質"を調べ上げた。

 

 あるいはアンナは無意識のうちに魔術を行使しているのではないかと思ったからだ。

 

 アンナに流れる血はいうまでもなく貴族のものではない。

 

 魔力があるにせよ微々たるものだろう──そう思っていたが、もしアンナに魔術の素養があるならば、と期待した。

 

 結論は明確だった。

 

 アンナは生まれながらにして、男性に好かれやすい何かを持っている。

 

 ただし、その効果は極めて限定的。

 

 同年代の男児に、ほんの少し好意を抱かせる程度のものだった。

 

 成人男性には全く効果がなく、女性にも作用しない。

 

 正直なところ、この程度なら「愛嬌のある子」で済む話だった。

 

 日常生活に支障はなく、むしろ友人関係を築きやすい利点とも言えた。

 

 転機が訪れたのは、アンナが七歳の誕生日を迎えた朝だった。

 

「お父様、不思議な夢を見たの」

 

 朝食の席で、アンナが唐突に言い出した。

 

 翡翠の瞳には、いつもと違う輝きが宿っていた。

 

「どんな夢だ?」

 

 私は新聞から顔を上げずに尋ねた。

 

「光に包まれた方が現れて、私に話しかけてくださったの」

 

 その言葉に、私の手が止まった。

 

「その方は何と?」

 

「『汝の願いは聞き届けられた』って」

 

 アンナは不思議そうに首を傾げた。

 

「それから『愛される者となれ』とも」

 

 私は娘の顔をじっと見つめた。

 

 嘘をついている様子はない。

 

 神の祝福かと私は思った。

 

 極めて稀に、神に愛された者が現れる。

 

 これは厳然とした事実だ。

 

 まさか、我が娘がその一人だったとは。

 

 しかし、その後も変化は微々たるものだった。

 

 確かに以前より男子に好かれやすくなったが、劇的な変化ではない。

 

 相変わらず「少し魅力的な女の子」という程度に留まっていた。

 

 恐らくはそこまで強力な祝福ではないのだろう。

 

 私は考えた。

 

 祝福を強める事はできないのか、と。

 

 そこで私は、かつての人脈を頼った。

 

 東方との交易で築いた繋がりから、ある情報を得た。

 

 それはとある呪具だ。

 

 もっぱら相手を呪うために使われるものなのだが、あるいは祝福を強めるためにも使えるのではないかと私は考えた。

 

 相手を呪う事、そして相手を祝福すること──作用は真逆だが、性質は同じだ。

 

 そうしてついに手に入れた呪具。

 

 アンナが十五歳になり、社交界デビューが近づいた頃。

 

 私は満を持して、彼女にペンダントを渡した。

 

「解呪のアミュレットだ」

 

 私は真顔で嘘をついた。

 

「お前の体質を抑えるためのものだ」

 

 純真な娘は、私の言葉を疑わなかった。

 

「でも、お父様。私の体質ってそんなに問題でしょうか?」

 

「社交界は学園とは違う。節度が必要だ」

 

 私は父親らしい心配を装った。

 

「これを着けていれば、適度な距離を保てる」

 

 アンナは素直に頷いた。

 

「分かりました。大切にします」

 

 効果は劇的だった。

 

 ペンダントを身に着けた途端、神の祝福がその効果を増大しはじめた。

 

 もはや「少し好かれる」程度ではない。

 

 男たちは一目でアンナに心を奪われ、理性を失うほどの執着を見せた。

 

 私の計画がついに動き出した。

 

 次は、最大の獲物──王太子レイン・アルカディア。

 

 しかし、ここで慎重にならねばならない。

 

 王太子がアンナに心を奪われたとしても、それだけでは不十分だ。

 

 彼にはハイエスト公爵令嬢という婚約者がいる。

 

 王家と公爵家の政略結婚。

 

 これは個人の感情で簡単に破棄できるものではない。

 

 もし強引に婚約を破棄すれば、王太子は廃嫡される。

 

 継承権を失い、ただの貴族に落とされるだろう。

 

 そしてアンナは、王太子を誘惑した悪女として修道院送りになる。

 

 それでは意味がない。

 

 私が求めているのは、アンナの王太子妃の座だ。

 

 だが、抜け道はある。

 

 公爵令嬢に重大な失点があれば、話は別だ。

 

 許されざる醜聞、看過できない失態。

 

 そういったものがあれば、婚約破棄も正当化される。

 

 むしろ、王家の名誉を守るための当然の措置となる。

 

 そのための準備は、既に整えていた。

 

 私は書斎の引き出しから、一枚の名簿を取り出した。

 

 そこには、十数名の貴族の名前が記されている。

 

 皆、私が金で買い取った協力者たちだ。

 

 ジャコバン子爵家、ベルモント男爵家、ラシュフォール准男爵家……。

 

 名誉はあるが金はない、没落寸前の貴族たち。

 

 彼らは学園に子弟を送り込んでいる。

 

 表向きは普通の学生として。

 

 だが実際は、私の指示を待つ駒として。

 

 公爵令嬢の失点を"作り出す"ために。

 

 もちろん、単純な罠では通用しない。

 

 公爵令嬢ともなれば、警戒心も強いだろう。

 

 だからこそ、複数の家から協力者を送り込んだ。

 

 彼らは互いの正体を知らない。

 

 それぞれが独立して動き、多角的に公爵令嬢を追い込む。

 

 ある者は友人として近づき、信頼を得る。

 

 ある者は敵対者を装い、公爵令嬢を挑発する。

 

 そしてある者は、傍観者として状況を記録する。

 

 複雑に絡み合った糸が、やがて一つの罠となる。

 

 私は満足げに名簿を眺めた。

 

 金の力は偉大だ。

 

 誇り高い貴族も、破産の前では膝を屈する。

 

 彼らにとって、私からの報酬は命綱だ。

 

 裏切ることはできない。

 

 計画は順調に進んでいる。

 

 アンナと王太子を"偶然"出会わせ、祝福の力で心を掴む。

 

 同時に、公爵令嬢の醜聞を演出する。

 

 タイミングが全てだ。

 

 王太子がアンナに夢中になった頃に、公爵令嬢の失態が露見する。

 

 そうなれば、世論は王太子の選択を支持するだろう。

 

 ◆

 

 王立魔術学院の中庭は、秋の陽光を受けて金色に輝いていた。

 

 落ち葉が風に舞い、石畳の上に複雑な模様を描いている。

 

 そんな中、エルンストとセシリアはいつものように肩を並べて歩いていた。

 

 お散歩デートというやつだ。

 

「昨日の『感情増幅理論』の検証結果だが」

 

 エルンストが切り出した。

 

「予想以上に興味深いデータが得られた」

 

「どのような結果でしたか?」

 

 セシリアが青い瞳を輝かせる。

 

「感情の増幅率は、対象との物理的距離に反比例することが判明した」

 

 エルンストは手振りを交えて説明を始めた。

 

「つまり、近づけば近づくほど」

 

「効果が強まるということですね」

 

 セシリアが理解を示す。

 

 二人が噴水の近くを通りかかった時、エルンストが急に足を止めた。

 

 視線の先には、ベンチに座る二人の人影があった。

 

 蜂蜜色の髪の令嬢と、栗色の髪の青年。

 

「アンナ嬢と……」

 

 セシリアも気づいた。

 

「ラファエル・ド・モンターニュ子爵令息ですね」

 

 二人は楽しそうに談笑している。

 

 その様子は、まるで親しい友人同士のようだった。

 

「興味深い」

 

 エルンストが呟いた。

 

「彼も魅了されているのだろうか」

 

 セシリアは眉をひそめた。

 

「でも、様子が違うように見えます」

 

「確かに」

 

 エルンストも同意した。

 

「他の男性たちが見せる、あの異常な執着が感じられない」

 

 二人はしばらく観察を続けた。

 

 ラファエルの瞳には、「あの光」が宿っていない。

 

 穏やかで、自然な好意の表情だった。

 

「データを取る必要がある」

 

 エルンストが提案した。

 

「聴覚拡張の魔術で会話を聞いてみよう」

 

「盗み聞きですか?」

 

 セシリアが難色を示した。

 

「それは少し……」

 

「学術的な観察だ」

 

 エルンストは真顔で言った。

 

「もし彼も魅了されているなら、パターンを分析する必要がある」

 

 セシリアは迷った。

 

 確かに理屈は通っている。

 

 でも、倫理的にどうなのか。

 

「君の友人たちを守るためでもある」

 

 エルンストが付け加えた。

 

「この現象を解明しなければ、被害者は増え続ける」

 

 その言葉に、セシリアは頷いた。

 

「分かりました。でも、最小限に留めましょう」

 

 二人は木陰に身を潜め、エルンストが静かに詠唱を始めた。

 

 空気が微かに震え、遠くの音が鮮明に聞こえ始める。

 

 ◆

 

「──本当に美しいペンダントですね」

 

 ラファエルの声が聞こえてきた。

 

「とても珍しい細工です」

 

「ありがとうございます」

 

 アンナの声には、警戒心がなかった。

 

「父が東方から仕入れてくれたお守りなんです」

 

「東方の品ですか」

 

 ラファエルが興味深そうに言った。

 

「何か特別な意味があるのですか?」

 

 アンナは少し躊躇った後、答えた。

 

「詳しくは分からないのですが、父は肌身離さず着けているようにと」

 

「大切なお守りなのですね」

 

「ええ、一度も外したことがありません」

 

 アンナの声が少し明るくなった。

 

「ラファエル様は、東方の文化にお詳しいのですか?」

 

「少しだけ」

 

 青年は謙遜した。

 

「家に東方の美術品がいくつかありまして、子供の頃から見ていました」

 

 会話は他愛のないものだった。

 

 学院の講義のこと、最近読んだ本のこと、来月の舞踏会のこと。

 

 二人の間に流れる空気は、穏やかで自然だった。

 

「最近、図書館にいらっしゃらないようですが」

 

 ラファエルが尋ねた。

 

「ええ、少し……」

 

 アンナの声が曇る。

 

「人が多い場所は避けているんです」

 

「分かります」

 

 青年の声には同情が込められていた。

 

「私も、時々一人になりたくなります」

 

 ◆

 

 エルンストが魔術を解いた。

 

 二人は顔を見合わせ、聞こえてきた場所から離れた。

 

「どう思う?」

 

 エルンストが尋ねた。

 

「彼は明らかに魅了されていません」

 

 セシリアが断言した。

 

「会話も自然で、執着的な要素がありませんでした」

 

「同感だ」

 

 エルンストは考え込んだ。

 

「だが、なぜ彼だけが」

 

「それより」

 

 セシリアが真剣な表情で言った。

 

「ペンダントが気になります」

 

「ペンダント?」

 

「東方から仕入れたお守りと言っていましたが」

 

 セシリアは声を潜めた。

 

「東方は呪術が盛んな地域です」

 

 エルンストの表情が変わった。

 

「まさか、あのペンダントが」

 

「可能性はあります」

 

 セシリアは慎重に言葉を選んだ。

 

「私の専門は呪術ですから、少し分かるんです」

 

 彼女は続けた。

 

「東方の呪具には、様々な効果を持つものがあります」

 

「例えば?」

 

「感情を増幅させるもの、人の意識を操作するもの」

 

 セシリアは指を折りながら数えた。

 

「そして、それらの効果を強化するもの」

 

 エルンストは愁眉を寄せた。

 

「つまり、アンナ嬢の能力は」

 

「元々の体質に、呪具の効果が加わっている可能性があります」

 

 二人はしばらく沈黙した。

 

 風が吹き、落ち葉が舞い上がる。

 

「直接話す必要があるな」

 

 エルンストが決意を込めて言った。

 

「これ以上の推測は無意味だ」

 

「私もそう思います」

 

 セシリアも同意した。

 

 しかし、ふと疑問が浮かんだ。

 

「エルンスト様」

 

 セシリアは立ち止まった。

 

「なぜ、こうして積極的にアンナ様に関わろうとするのですか?」

 

 エルンストも足を止め、セシリアを見つめた。

 

「それは君も同じではないか?」

 

「私は……」

 

 セシリアは言葉を探した。

 

「確かにそうですね」

 

「君の友人、マリアンヌ嬢の件があった」

 

 エルンストは静かに語り始めた。

 

「君は彼女のために手を貸した。なぜか?」

 

 セシリアは考え込んだ。

 

「友人だからです」

 

「そう、友人だから」

 

 エルンストは頷いた。

 

「他人だが、無関係ではない。そういうことだ」

 

 彼は続けた。

 

「君がアンナ嬢を気にかけるのも、同じことが起きては友人が困ると考えているからだろう」

 

 セシリアは小さく頷いた。

 

「つまり、君の中には『友人には手を貸すべき』という価値観がある」

 

 エルンストは真っ直ぐにセシリアを見つめた。

 

「では、私と君はどういう関係だ?」

 

「婚約者同士です」

 

 セシリアは即答した。

 

「ならば」

 

 エルンストの声が優しくなった。

 

「私が君の懸念を払うべく動くのは、極々当然のことではないか」

 

 セシリアは息を呑んだ。

 

「私のために、ということですか?」

 

 エルンストは目を見開いた。

 

「君は要約が上手いな」

 

 彼は感心したように言った。

 

 セシリアは苦笑した。

 

 エルンスト様が回りくどいだけでは、と口に出さないのは淑女のたしなみというやつだった。

 

 しかしその笑顔の奥で、セシリアは心が温かくなるのを感じていた。

 

 エルンストは確かに優しい。

 

 でも、決してお人好しではない。

 

 セシリアは決闘の時のことを思い出した。

 

 もしアイラがレオナルドを庇うために出てこなければ。

 

 そしてレオナルドが降参しなければ。

 

 恐らくエルンストは、躊躇なくレオナルドを殺めていただろう。

 

 もしかしたらアイラその人でさえも。

 

 なぜなら、決闘法でそれが許されているから。

 

 見逃した理由も勝利条件が満たされたからに過ぎない。

 

 そういう冷たさがエルンストにはある。

 

 しかし、それでもセシリアはエルンストを恐れたり嫌悪したりはしなかった。

 

 むしろ、その冷徹さと優しさの両面を持つエルンストに深い魅力を感じていた。

 

「どうした?」

 

 エルンストが心配そうに尋ねた。

 

「いえ、何でもありません」

 

 セシリアは微笑んだ。

 

「ただ、あなたという人について考えていました」

 

「私について?」

 

「ええ」

 

 セシリアは少し照れたように言った。

 

「とても興味深い研究対象です」

 

 エルンストも微笑んだ。

 

「君もまた、私にとって最高の研究対象だ」

 

 二人は顔を見合わせて、小さく笑った。

 

「さて」

 

 エルンストが真面目な表情に戻った。

 

「アンナ嬢と話をする機会を作らなければ」

 

「そうですね」

 

 セシリアも頷いた。

 

「でも、どうやって?」

 

 二人は考え込みながら、再び歩き始めた。

 

 中庭の向こうでは、アンナとラファエルがまだ談笑を続けていた。

 

 ◆

 

 アンナは噴水のそばのベンチで、ラファエルの話に耳を傾けていた。

 

「それで、サリヴァン教授が突然『この術式を間違えると爆発する』と言い出したんです」

 

 ラファエルは苦笑しながら語った。

 

「皆、慌てて術式を確認し始めて」

 

 アンナは小さく笑った。

 

「サリヴァン教授はジョークがお好きですものね」

 

「あの人は優れた教授だと思うのですが、人を脅かすことをジョークだと思っている節があります。この前なんて──」

 

 最近、こうしてラファエルと過ごす時間だけが、彼女の心の支えになっていた。

 

 彼だけが、普通の友人として接してくれる。

 

 異常な執着も、冷たい視線もない。

 

 ただ、穏やかな友情だけがそこにあった。

 

「アンナ様も、その講義を受けていらっしゃいましたよね」

 

「ええ、後ろの方で」

 

 アンナは頷いた。

 

「最近は目立たないようにしているので」

 

 ラファエルの表情が少し曇った。

 

「大変でしょうね」

 

「慣れました」

 

 アンナは努めて明るく答えた。

 

 しかし、その笑顔は少し寂しげだった。

 

 そんな時、石畳を踏む足音が聞こえてきた。

 

 二人が顔を上げると、そこには金髪碧眼の青年が立っていた。

 

 王太子レイン・アルカディア。

 

 その瞳には、アンナがよく知る「あの光」が宿っていた。

 

「殿下」

 

 ラファエルがすぐに立ち上がり、恭しく頭を下げた。

 

 アンナも慌てて立ち上がり、深く礼をした。

 

「モンターニュ子爵令息」

 

 レインの声は冷たかった。

 

「アンナ嬢と何を話していたのかね」

 

 ラファエルは顔を上げた。

 

「学院の講義について話しておりました」

 

「講義について?」

 

 レインの眉が上がった。

 

「ずいぶん親しげに見えたが」

 

 アンナは震える声で口を開いた。

 

「殿下、ラファエル様とは友人として」

 

「友人」

 

 レインはその言葉を噛みしめるように繰り返した。

 

「そうは見えないが」

 

 ラファエルは困惑した表情を浮かべた。

 

「殿下、私たちは本当にただの」

 

「黙れ」

 

 レインの声が鋭くなった。

 

「私は君に聞いているのではない」

 

 彼はアンナに視線を向けた。

 

「アンナ嬢、彼との関係を正直に話してもらおうか」

 

 アンナは唇を噛んだ。

 

 レインの瞳に宿る異常な光が、彼女を怖れさせていた。

 

「本当に、友人なんです」

 

 彼女の声は震えていた。

 

「それ以上でも以下でもありません」

 

 レインは二人を交互に見つめた。

 

 その視線には、明らかな疑念が浮かんでいる。

 

「ふむ」

 

 しばらくの沈黙の後、レインは肩をすくめた。

 

「まあいい。だが、モンターニュ子爵令息」

 

 彼はラファエルに冷たい視線を向けた。

 

「今後、アンナ嬢にあまり近づかないことだ」

 

「しかし、殿下」

 

「これは忠告だ」

 

 レインの声には、有無を言わせない響きがあった。

 

「理解したね?」

 

 ラファエルが困惑しているとレインは満足そうに頷き、踵を返した。

 

「では、失礼する」

 

 レインが去った後、重い沈黙が二人の間に流れた。

 

 アンナは力なくベンチに座り込んだ。

 

「申し訳ありません」

 

 彼女の声は小さかった。

 

「私のせいで、ラファエル様にまで」

 

「アンナ様のせいではありません」

 

 ラファエルは優しく言った。

 

「殿下の様子が、少し尋常ではないように思えます」

 

 アンナは顔を上げた。

 

「やはり、そう思われますか」

 

「ええ」

 

 ラファエルは考え込むように言った。

 

「以前の殿下なら、あのような態度は取られなかったでしょう」

 

 二人はしばらく無言で座っていた。

 

 風が吹き、噴水の水音だけが静かに響いている。

 

「私、もう学園に来るのをやめようかと」

 

 アンナが呟いた。

 

「こうして誰かに迷惑をかけ続けるくらいなら」

 

「それはいけません」

 

 ラファエルが強く言った。

 

「アンナ様は何も悪くないのですから」

 

 彼は立ち上がった。

 

「キャリエル様に相談してみます」

 

「キャリエル様に?」

 

「はい」

 

 ラファエルは決意を込めて言った。

 

「殿下の婚約者として、何か力になってくださるかもしれません。何か事情をご存じかもしれませんし」

 

 アンナは不安そうな表情を浮かべたが、頷いた。

 

「お願いします」

 

 ◆

 

 ハイエスト公爵家の別邸にある小さな応接間。

 

 キャリエルは優雅にティーカップを置き、向かいに座るラファエルの話に耳を傾けていた。

 

「なるほど」

 

 彼女の青い瞳に、憂いが浮かんだ。

 

「レイン様がそのような態度を」

 

「はい」

 

 ラファエルは頷いた。

 

「正直なところ、少し常軌を逸しているように思えました」

 

 キャリエルは窓の外を見つめた。

 

 銀髪が午後の光を受けて、淡く輝いている。

 

「ラファエル様」

 

 彼女は静かに言った。

 

「わざわざ知らせてくださって、ありがとうございます」

 

「いえ、当然のことです」

 

 ラファエルは恐縮したように言った。

 

「アンナ様も大変お困りのようでしたし」

 

 キャリエルは深く息を吸った。

 

「私が、レイン様と話をしてみます」

 

 決意を込めた声だった。

 

「このままでは誰も幸せになりませんから」

 

 ◆

 

 翌日、貴賓サロン。

 

 キャリエルは真っ直ぐな足取りで、窓際に座るレインに近づいた。

 

「レイン様、お話があります」

 

 レインは書類から顔を上げた。

 

 霜がおりたかのような冷たい視線。

 

「キャリエル? 何の用だ」

 

「アンナ様のことです」

 

 キャリエルは単刀直入に切り出した。

 

 レインの表情が一変した。

 

「アンナ嬢がどうかしたのか」

 

 その声には、明らかな関心が含まれていた。

 

「レイン様」

 

 キャリエルは真っ直ぐにレインを見つめた。

 

「昨日の件について、お聞きしたいことがあります」

 

 レインの眉が上がった。

 

「君には関係ないだろう」

 

「関係あります」

 

 キャリエルは譲らなかった。

 

「私はレイン様の婚約者です」

 

「だから何だ」

 

 レインの声が冷たくなった。

 

「私が誰と話そうが、君の知ったことではない」

 

 キャリエルは唇を噛んだ。

 

 しかし、引き下がるわけにはいかなかった。

 

「レイン様は変わってしまわれました」

 

 彼女の声が震えた。

 

「以前のレイン様なら、あのような振る舞いはなさらなかったはずです」

 

「変わった?」

 

 レインは鼻で笑った。

 

「むしろ、今の私の方が正直なのだよ」

 

 彼は立ち上がり、キャリエルに近づいた。

 

「君こそ、なぜアンナ嬢のことにそこまで首を突っ込む?」

 

「それは」

 

「まさか、嫉妬か?」

 

 レインの声には嘲りが含まれていた。

 

 キャリエルの顔が屈辱で青ざめた。

 

「違います」

 

「では何だ」

 

 レインは詰め寄った。

 

「なぜ、私がアンナ嬢に会うことを邪魔する」

 

「邪魔などしていません」

 

 キャリエルも声を荒げた。

 

「ただ、レイン様の行動が」

 

「私の行動がどうした」

 

 二人の声は次第に大きくなっていった。

 

 サロンにいた他の学生たちが、心配そうに視線を向けている。

 

「王太子として相応しくありません」

 

 キャリエルが言い放った。

 

「他の女性に執着するなど」

 

「執着?」

 

 レインの顔が怒りで歪んだ。

 

「私はただ、素直な気持ちに従っているだけだ」

 

「素直な気持ち?」

 

 キャリエルの声も震えていた。

 

「では、私との婚約はどうなるのですか」

 

「それは」

 

 レインは一瞬言葉に詰まった。

 

 しかし、すぐに開き直ったように言った。

 

「政略結婚だろう。感情など関係ない」

 

 その言葉が、キャリエルの胸に突き刺さった。

 

「そうですか」

 

 彼女の声が急に静かになった。

 

「レイン様にとって、私との婚約はその程度のものなのですね。ただ、一つだけ」

 

 キャリエルは顔を上げた。

 

 青い瞳に、決意が宿っている。

 

「レイン様は、本当にアンナ様を愛していらっしゃるのですか」

 

「当然だ」

 

 レインは即答した。

 

「彼女は素晴らしい。美しく、優しく、そして」

 

「そして?」

 

「私の心を満たしてくれる」

 

 レインの声は熱っぽかった。

 

 キャリエルは悲しそうに微笑んだ。

 

「でも、レイン様はアンナ様のことを何も知らないでしょう」

 

「何だと」

 

「彼女の好きな食べ物は? 趣味は? 将来の夢は?」

 

 キャリエルは静かに問いかけた。

 

 レインは答えられない。

 

「それでも愛だと言えるのですか」

 

「黙れ!」

 

 レインは顔を真っ赤にして叫んだ。

 

「君に私の気持ちが分かるものか!」

 

 キャリエルは黙って立っていた。

 

「もううんざりだ」

 

 レインは怒りに震えながら言った。

 

「君の説教も、君の存在も」

 

 その言葉に、周囲がざわめいた。

 

「出て行け!」

 

 レインが怒鳴った。

 

「もう二度と私の前に現れるな!」

 

 キャリエルは一瞬、息を呑んだ。

 

 しかし、すぐに優雅に一礼した。

 

「承知いたしました」

 

 彼女の声は静かだった。

 

 静かすぎて、かえって悲しみが伝わってきた。

 

 キャリエルは踵を返し、サロンを出て行った。

 

 残されたレインは、荒い息をついていた。

 

 周囲の視線を感じ、苛立ったように席に戻る。

 

 ◆

 

 学院の廊下を歩きながら、キャリエルの心は虚無感に包まれていた。

 

 結局、自分はレインにとってその程度の存在でしかなかったのだ。

 

 政略結婚の相手。

 

 感情など関係ない、ただの契約。

 

 涙が頬を伝い始めた。

 

 ふと数日前のエルンストとセシリアとの会話が蘇る。

 

 ──「ありのままのご自分を見せることも大切かと存じます」

 

 セシリアの優しい声が、記憶の中で響く。

 

 キャリエルは立ち止まった。

 

 これまで自分は、完璧な婚約者を演じようとしてきた。

 

 レインの理想に合わせ、王太子妃に相応しい振る舞いを心がけてきた。

 

 でも、本当の自分を見せたことがあっただろうか。

 

「どうせなら」

 

 キャリエルは呟いた。

 

「最後に本当の気持ちを伝えよう」

 

 そうして踵を返し、サロンへと戻り始めた。

 

 ◆

 

 サロンに戻ると、レインはまだ同じ席に座っていた。

 

 書類を睨みつけているが、明らかに集中できていない様子だった。

 

「レイン様」

 

 キャリエルの声に、レインは顔を上げた。

 

「まだいたのか」

 

 苛立った声。

 

「出て行けと言っただろう」

 

「その前に、一つだけ」

 

 キャリエルは真っ直ぐにレインを見つめた。

 

「私の本心を、お伝えしたいのです」

 

 レインは顔をしかめた。

 

「今更何を」

 

「私は」

 

 キャリエルは深呼吸をした。

 

「レイン様のことが好きでした」

 

 レインの表情が変わった。

 

「何?」

 

「政略結婚だということは分かっています」

 

 キャリエルは続けた。

 

「でも、婚約してからの日々の中で、私は本当にレイン様を好きになりました」

 

 彼女の声は震えていたが、はっきりとしていた。

 

「優しくて、真面目で、国のことを真剣に考えている」

 

 キャリエルは微笑んだ。

 

「“国とは人の集まりだ。私は人を大切にする王となりたい”──そうおっしゃっていましたね。私はそんなレイン様が大好きでした」

 

 レインは言葉を失っていた。

 

「レイン様を支えたいとおもいました。そして可能な限り完璧に、と」

 

 キャリエルは自嘲的に笑った。

 

「結果、レイン様を息苦しくさせてしまったのでしょうね」

 

「キャリエル、それは」

 

「でも」

 

 キャリエルはレインの言葉を遮った。

 

「一つだけ聞かせてください」

 

 青い瞳が、真っ直ぐにレインを見つめた。

 

「レイン様は、私のことをどう思っていらっしゃったのですか」

 

「それは」

 

 レインは明らかにうろたえていた。

 

「今更そんなことを言っても」

 

 彼の脳裏に、これまでのキャリエルの姿が蘇ってきた。

 

 いつも完璧で、優雅で、隙のない公爵令嬢。

 

 でも、今目の前にいるキャリエルは違った。

 

 涙を堪え、震えながらも、真っ直ぐに自分を見つめている。

 

 初めて見る、素のキャリエル。

 

 息苦しいと感じていた姿が、実は自分の為に努力していた姿だったと知った時──レインは混乱した。

 

「私は」

 

 レインは言葉を探した。

 

 しかし何を言えばいいのか分からない。

 

 キャリエルは、そんなレインを静かに見つめながら言う。

 

「レイン様は仰っておりました。"私を支えようなどとは考えないで欲しい。君は共に国を導く伴侶だ。だから僕は、君と対等な関係を築きたい"と」

 

 レインの顔が青ざめた。

 

「それは……」

 

「覚えていらっしゃいますか」

 

 キャリエルは微笑んだ。

 

「婚約が決まった夜、庭園で二人きりになった時のことを」

 

 レインの記憶が呼び覚まされる。

 

 月明かりの下、緊張した面持ちで向かい合った二人。

 

 政略結婚への不安を隠せない若い二人が、それでも前を向こうとしていた夜。

 

「私は嬉しかったんです」

 

 キャリエルは続けた。

 

「ただの飾り物ではなく、対等な存在として見てくださると」

 

 キャリエルの声が震えた。

 

「だから私はその期待に応えようと必死でした」

 

 レインは何も言えなかった。

 

 胸の奥で何かが軋んでいる。

 

「でも、今のレイン様は」

 

 キャリエルは首を振った。

 

「アンナ様を対等な存在として見ていらっしゃるでしょうか」

 

 その問いかけに、レインは反射的に答えようとした。

 

 しかし言葉が出ない。

 

「……よく考えていただきたいのです」

 

 そう言ってキャリエルは去っていった。

 

 ◆

 

 ヴァイスベルク侯爵邸の執務室。

 

 午後の陽光が大きな窓から差し込み、室内を黄金色に染めている。

 

 そんな穏やかな時間に似つかわしくない不機嫌な表情で、ゲオルク・フォン・ヴァイスベルクは書類を睨みつけていた。

 

 銀髪の侯爵が発する重苦しい雰囲気に、執務室の空気まで重くなっているようだった。

 

「あら、どうしたの?」

 

 扉から顔を覗かせたマルガレーテが、夫の様子を見て首を傾げた。

 

 蜂蜜色の髪を緩やかに結い上げた侯爵夫人は、いつも通りののんびりとした雰囲気を纏っている。

 

「そんな怖い顔をして、書類が悪さでもしたのかしら」

 

 ゲオルクは溜息をついて、手にしていた羽ペンを置いた。

 

「また例の連中が接触してきたんだ」

 

「例の連中?」

 

 マルガレーテは執務室に入り、夫の向かいの椅子に腰を下ろした。

 

 優雅な動作だが、どこかのんびりとしている。

 

「第二王子派だよ」

 

 ゲオルクは不愉快そうに言った。

 

「今度は子爵を使いに寄越してきた。丁重な言葉で包んではいたが、要は我が家も第二王子殿下を支持しろということだ」

 

 マルガレーテは苦笑を浮かべた。

 

「まあ、彼らも懲りないわね」

 

 彼女は紅茶のポットを手に取り、二人分のカップに注ぎ始めた。

 

「前にも断ったでしょうに」

 

「そうなんだが、向こうも必死なんだろう」

 

 ゲオルクは疲れたように額に手を当てた。

 

「ヴァイスベルク侯爵家の支持は、それなり以上に重みがあるからね」

 

 マルガレーテは夫に紅茶を差し出した。

 

「でも、あなたの答えは変わらないんでしょう?」

 

「当然だ」

 

 ゲオルクは紅茶を一口飲んで、少し表情を和らげた。

 

「私は王太子レイン殿下を支持する。その立場を変えるつもりはない」

 

 マルガレーテは夫の横顔を見つめた。

 

「理由を聞いてもいい?」

 

 彼女の声は穏やかだが、真剣な響きを含んでいた。

 

「もちろん、私もあなたの判断を支持しているけれど」

 

 ゲオルクは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。

 

「レイン殿下には、アルカディアの血が特に濃く流れている」

 

「アルカディアの血?」

 

「そう。王家の血統は、ただの尊き血筋じゃない」

 

 ゲオルクは身を起こし、妻を見つめた。

 

「彼らは、ある意味で魔術の極点を体現している存在なんだ」

 

 マルガレーテは興味深そうに耳を傾けた。

 

「どういうこと?」

 

「これは門外不出だぞ。決して外には漏らしてはならない。多くの貴族は知らない事だからな」

 

「ええ」

 

「アルカディア王家の者たちは、特殊な魔術の使い手なんだよ」

 

 ゲオルクは説明を始めた。

 

「自身の願いを叶えるというシンプルかつ強力な魔術だ」

 

 マルガレーテの目が少し見開かれた。

 

「願いを叶える魔術?」

 

「ああ。ただし、普通の魔術とは違う」

 

 ゲオルクは紅茶を飲みながら続けた。

 

「通常の魔術は、術式を組み、魔力を練り、現象を引き起こす。でも、王家の魔術は違う」

 

 彼は一呼吸置いた。

 

「彼らはまるで物語の主人公のように、望む未来を引き寄せる力がある」

 

 マルガレーテは考え込むような表情を浮かべた。

 

「それは……すごい力ね」

 

「そうだ。そして、レイン殿下は王家の中でも特にその力が強い」

 

 ゲオルクの声に確信が宿った。

 

「私が実際に謁見した時、それを肌で感じた。あの方の周りでは、世界が彼の意志に従って動いているような感覚があった」

 

 マルガレーテは夫の言葉を静かに聞いていた。

 

 普段はのんびりとした彼女だが、重要な話の時は真剣に耳を傾ける。

 

「第二王子殿下はどうなの?」

 

「ああ、第二王子殿下にも確かにその力は備わっている」

 

 ゲオルクは頷いた。

 

「だが、極々僅かなものだ。レイン殿下には及ぶべくもない」

 

 ゲオルクは窓の外を見つめた。

 

 庭園では秋薔薇が最後の輝きを放っている。

 

「我々貴族が王家に忠実なのは、単に伝統や権威のためじゃない」

 

 ゲオルクの声が深くなった。

 

「彼らが持つその力こそが、王国を導く原動力となってきたからだ」

 

 マルガレーテは静かに頷いた。

 

「なるほど。だから第二王子派の誘いには乗れないのね」

 

「そういうことだ」

 

 ゲオルクは苦笑した。

 

「それに、レイン殿下はよほどのことをやらかしても、その力の強さゆえにまず廃嫡されることはない」

 

 マルガレーテが首を傾げた。

 

「よほどのこと?」

 

「例えば、国を滅ぼすような大罪を犯すとか」

 

 ゲオルクは肩をすくめた。

 

「でも、そんなことは起こらないだろう。レイン殿下は基本的に善良な方だからね」

 

 二人はしばらく紅茶を飲みながら、静かな時間を過ごした。

 

 執務室に流れる穏やかな空気は、先ほどまでの重苦しさとは対照的だった。

 

「でも」

 

 マルガレーテが口を開いた。

 

「その力も、際限なく何でも叶えられるわけではないんでしょう?」

 

「その通りだ」

 

 ゲオルクは頷いた。

 

「願いを叶える力といっても、限界はある。世界の理を完全に無視することはできない」

 

 彼は例を挙げた。

 

「死者を蘇らせたり、時を巻き戻したり、そういった根源的な法則に反することは不可能だ」

 

「それでも、十分にすごい力よね」

 

 マルガレーテは感心したように言った。

 

「ええ。だからこそ、今後の王国にはレイン殿下が必要なんだ」

 

 ゲオルクの表情が真剣になった。

 

「周辺国との緊張も高まっている。内政も複雑化している。そんな時代に、強い意志で国を導ける指導者が必要だ」

 

 マルガレーテは夫の手を優しく握った。

 

「あなたの判断を信じるわ」

 

 温かな手の感触に、ゲオルクの表情が和らいだ。

 

「ありがとう」

 

 しばらくの沈黙の後、マルガレーテが悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「ところで、最近のエルンストの様子はどう思う?」

 

 ゲオルクも苦笑を浮かべた。

 

「ああ、セシリア嬢との『実験』のことか」

 

「そう、それよ」

 

 マルガレーテはくすくすと笑った。

 

「愛を実証的に研究するなんて、あの子らしいわね」

 

 ゲオルクも笑みを深めた。

 

「まったくだ。データを取って、分析して、法則を見つけようなんて」

 

 彼は首を振った。

 

「普通の若者なら、もっと感情的になるものなのに」

 

「でも、見ていて微笑ましいわ」

 

 マルガレーテは優しい表情で言った。

 

「二人とも自分たちなりに真剣に向き合っているもの」

 

 ゲオルクは考え込むような顔をした。

 

「確かにあの二人は相性がいい。魔術の話になると時間を忘れて議論している」

 

「それに」

 

 マルガレーテが付け加えた。

 

「最近は手を繋いで歩いているのを見かけたわ」

 

 ゲオルクの眉が上がった。

 

「ほう、それは進展があったということか」

 

「きっと『実験の一環』なんでしょうけどね」

 

 マルガレーテは楽しそうに言った。

 

「でも、二人の表情は幸せそうだった」

 

 ゲオルクは窓の外を見つめながら呟いた。

 

「我々の時代とはずいぶん違うな」

 

「そうね」

 

 マルガレーテも懐かしそうに微笑んだ。

 

「私たちの時はもっと形式的だったわ」

 

 彼女は夫を見つめた。

 

「でも、結果的には上手くいったでしょう?」

 

 ゲオルクは妻の手を握り返した。

 

「ああ、最高の結果だった」

 

 二人は顔を見合わせて、優しく微笑み合った。

 

 ◆

 

 キャリエルの言葉が、頭から離れない。

 

 ──「今のレイン様は、アンナ様を対等な存在として見ていらっしゃるでしょうか」

 

 僕は椅子の背にもたれ、目を閉じた。

 

 記憶が過去へと遡っていく。

 

 

 

 あれは三年前、僕がまだ十五歳の時だった。

 

 父上に連れられて、戦災孤児の施設を訪問した日のこと。

 

 子供たちの瞳には、希望と絶望が混在していた。

 

「殿下、私たちはこれからどうなるのでしょうか」

 

 小さな少女が震える声で尋ねてきた。

 

 その時の僕は何も答えられなかった。

 

 ただ頭を撫でることしかできない自分が、ひどく無力に思えた。

 

 帰りの馬車の中で、父上は静かに言った。

 

「レイン、王とは何だと思う」

 

「国を統治する者です」

 

 僕の答えに、父上は首を振った。

 

「違う。王とは民の希望となる者だ」

 

 その言葉が、僕の胸に深く刻まれた。

 

 その夜、僕は決意した。

 

 人を大切にする王になろう、と。

 

 一人一人の声に耳を傾け、誰もが希望を持てる国を作ろう、と。

 

 ◆

 

 そして二年前、キャリエルとの婚約が決まった。

 

 最初は戸惑った。

 

 政略結婚という言葉の重さに、息が詰まりそうだった。

 

 でも、庭園で初めて二人きりで話した時、彼女の瞳に不安が宿っているのを見た。

 

 月明かりの下、銀髪が淡く輝いていた。

 

「私、レイン様のお役に立てるでしょうか」

 

 その問いに僕は答えた。

 

「僕は君に支えられたいんじゃない。共に国を導く伴侶が欲しいんだ」

 

 これはある意味で弱音だ。

 

 僕一人で国を導くというのは重荷に感じる。

 

 僕は隣を歩んでくれる同士が欲しかった。

 

 だがそんな僕の弱音を聞いたキャリエルの顔が、ぱっと明るくなった。

 

「対等な関係を築きたい」

 

 僕の言葉に、彼女は深く頷いた。

 

 その時の彼女の笑顔を、なぜ忘れていたのだろう。

 

 ◆

 

 一年前の、ある会議でのこと。

 

 貴族たちが増税案について激論を交わしていた。

 

「民衆からもっと搾り取るべきだ」

 

「いや、これ以上は反乱を招く」

 

 議論は平行線を辿っていた。

 

 僕は立ち上がり、発言した。

 

「民は搾り取る対象ではない。共に国を支える仲間だ」

 

 会議室が静まり返った。

 

「増税の前に、我々貴族が範を示すべきではないか」

 

 その提案は最終的に受け入れられた。

 

 会議の後、キャリエルが駆け寄ってきた。

 

「素晴らしい発言でした、レイン様。私も、レイン様のような考えを持つ人の隣に立てることを誇りに思います」

 

 あの頃の僕たちは、確かに同じ方向を見ていた。

 

 ◆

 

 そして現在。

 

 僕は何をしている。

 

 アンナという一人の女性に執着し、婚約者を傷つけ、友人関係にまで干渉している。

 

「出て行け! もう二度と私の前に現れるな!」

 

 自分が発した言葉が、胸に突き刺さる。

 

 あれは、人を大切にする王の言葉か。

 

 違う。

 

 あれは、ただの暴君の言葉だ。

 

 窓ガラスに映る自分の顔を見つめる。

 

 そこには、醜い執着に囚われた男の顔があった。

 

 これが、僕が目指した王の姿なのか。

 

 ◆

 

 アンナのことを考える。

 

 確かに美しい。

 

 確かに心惹かれる。

 

 でも、僕は彼女の何を知っているだろうか。

 

 好きな食べ物も、趣味も、将来の夢も、何一つ知らない。

 

 ただ「美しい」「優しい」という表面的な印象だけ。

 

 それで愛だと言い切った自分が、急に滑稽に思えてきた。

 

 対して、キャリエルのことはどうだ。

 

 十月十五日生まれ。

 

 好物は薔薇のジャムを使った紅茶。

 

 趣味は刺繍と読書。

 

 将来の夢は、子供たちのための図書館を作ること。

 

 知っているじゃないか、たくさんのことを。

 

 なのに、なぜ。

 

 ◆

 

 ふと、戦災孤児の少女の顔が浮かんだ。

 

 もし今、あの子が同じ質問をしてきたら。

 

「殿下、私たちはこれからどうなるのでしょうか」

 

 今の僕なら、何と答えるだろう。

 

 きっと、何も答えられない。

 

 自分の感情すら制御できない男に、国の未来など語れるはずがない。

 

 胸が締め付けられるように痛んだ。

 

 僕は、なんて醜い男になってしまったのだろう。

 

 理想を掲げながら、その真逆を行く。

 

 人を大切にすると言いながら、最も近い人を傷つける。

 

 これが王太子の姿か。

 

 これが、未来の王の姿か。

 

 ◆

 

 では、僕が本当になりたい王とは。

 

 目を閉じて、思い描く。

 

 まず、感情に流されない冷静さ。

 

 人の痛みが分かる共感力。

 

 そして自分の過ちを認める勇気。

 

 国のために尽くすのはもちろん、一人一人の幸せを考えられる視野の広さ。

 

 私欲を抑え、公正であること。

 

 約束を守り、信頼される存在であること。

 

 そんな王の姿が、朧げながら見えてきた。

 

 そして気づく。

 

 今の僕は、その理想像から最も遠い場所にいる、と。

 

 ◆

 

 でも、まだ遅くはないはずだ。

 

 僕はまだ十八歳。

 

 過ちを認め、正すことができる。

 

 いや、正さなければならない。

 

 このまま堕ちていけば、僕は本当に暴君になってしまう。

 

 民を苦しめ、国を滅ぼす、最悪の王に。

 

 それだけは、絶対に避けなければならない。

 

 父上の言葉が蘇る。

 

「王とは、民の希望となる者だ」

 

 希望。

 

 今の僕は、誰かの希望になれているだろうか。

 

 いや、むしろ絶望を振りまいているのではないか。

 

 ◆

 

 立ち上がり、執務机に向かう。

 

 そこには明日の予定表が置かれていた。

 

 その中に、キャリエルとのお茶会の予定があった。

 

 いつもなら憂鬱になる予定だが、今は違う。

 

 謝罪しなければならない。

 

 そして、もう一度やり直せるなら、やり直したい。

 

 彼女が僕を許してくれるかは分からない。

 

 でも少なくとも誠意を示すことはできる。

 

 それが、王としての、いや人としての最低限の務めだ。

 

 ◆

 

 ペンを取り、紙に向かう。

 

「キャリエルへ」

 

 そう書いて、手が止まった。

 

 何から書けばいいのか。

 

 謝罪の言葉? それとも、自分の愚かさの告白? 

 

 いや、まずは感謝から始めるべきだ。

 

 彼女が僕のために努力してくれたことへの、感謝から。

 

 そうして、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。

 

 まだ理想の王にはほど遠い。

 

 でもそこに近づこうとする意志だけは失いたくない。

 

 窓の外では、相変わらず王都の灯りが輝いている。

 

 その一つ一つに、人々の生活がある。

 

 守るべき、大切なものがある。

 

「僕は、必ず良き王になる」

 

 今はまだ、醜い執着に囚われた愚かな男だ。

 

 でも変わることはできる。

 

 いや、変わらなければならない。

 

 理想の王に少しでも近づくために。

 

 そんな王に、僕は"なりたい"と心から思った。

 

 ◆

 

 ハイエスト公爵家の中庭は、秋の陽光を受けて金色に輝いていた。

 

 白い鉄製のテーブルには、既に優雅なティーセットが並べられている。

 

 キャリエルは緊張した面持ちで、時間を確認した。

 

 約束の時間まであと五分。

 

 ──きっと来ないでしょうね

 

 彼女はそう思っていた。

 

 昨日あれだけの言葉を投げつけられたのだ。

 

 王太子が態度を改めるとは思えない。

 

「どうせ時間の無駄ですわ」

 

 小さくため息をつき、立ち上がろうとした時──

 

「キャリエル」

 

 声がして、彼女は顔を上げる。

 

 そこに立っていたのはレインだった。

 

 約束の時間に遅れる事なく来たのだ。

 

「レイン様……」

 

 キャリエルは目を見開いた。

 

「本当にいらしてくださったのですね」

 

 レインは申し訳なさそうに頷いた。

 

「約束だからな」

 

 その声には、昨日のような冷たさがない。

 

 むしろ、どこか不安そうな響きさえ含まれていた。

 

「お座りください」

 

 キャリエルは優雅に手を示した。

 

 レインは静かに席に着き、向かい合った。

 

 給仕が紅茶を注ぐ間、二人の間に沈黙が流れた。

 

「キャリエル」

 

 レインが口を開く。

 

「まず、謝罪をさせてくれ」

 

 キャリエルは紅茶のカップを置いた。

 

 何か違う。

 

 目の前にいるレインから受ける印象が、ここ最近のものとはまるで違っていた。

 

「私は君に対して許されないことを言った」

 

 レインは真っ直ぐにキャリエルを見つめた。

 

「『出て行け』だなんて、あんな暴言を」

 

 その瞳に宿っているのは、真摯な後悔の色だった。

 

「それに、君の気持ちを踏みにじるような態度を取り続けてきた」

 

 キャリエルは黙って聞いていた。

 

 かつてのレイン。

 

 理想を語り、人を大切にすると言っていた頃のレインの姿がそこにあった。

 

「これを渡したい」

 

 レインは懐から封筒を取り出した。

 

「昨夜、考えたことを書き留めた。口では中々上手く伝えられないと思ったから……」

 

 キャリエルは震える手で封筒を受け取った。

 

 丁寧に封を切り、中の手紙を取り出す。

 

 そこにはレインの几帳面な文字が並んでいた。

 

『親愛なるキャリエルへ

 

 まず、君がこれまで私のために払ってくれた努力に心から感謝する。

 

 君は完璧な婚約者であろうと努めてくれた。

 

 私を支えようと懸命に頑張ってくれた。

 

 なのに私はその優しさに気づこうともしなかった。

 

 昨日、君が言ってくれた言葉で私は目が覚めた。

 

 対等な関係を築きたいと言ったのは私自身だったのに、いつの間にかそれを忘れていた。

 

 君を息苦しくさせていたのは、むしろ私の方だったのかもしれない。

 

 期待に応えようと無理をさせてしまった。

 

 本当にすまなかった』

 

 キャリエルの瞳から、涙がこぼれ始めた。

 

『私は理想の王になりたいと思っていた。

 

 人を大切にし、誰もが希望を持てる国を作りたいと。

 

 でも最近の私は、その理想から最も遠い場所にいた。

 

 感情に振り回され、大切な人を傷つけ、醜い執着に囚われていた。

 

 君の言葉がなければ、私は本当に道を踏み外していたかもしれない。

 

 私を止めてくれてありがとう。

 

 もし君が許してくれるなら、もう一度やり直したい。

 

 今度こそ本当の意味で対等な関係を。

 

 君の本当の姿を知りたい。

 

 完璧な公爵令嬢ではなく、素のキャリエルと向き合いたい。

 

 そして私も、飾らない自分を見せたいと思う。

 

 弱さも、迷いも、全て含めて。

 

 それでも私の隣にいてくれるだろうか。

 

 レイン』

 

 手紙を読み終えたキャリエルは、涙で頬を濡らしていた。

 

「キャリエル、すまない」

 

 レインが慌てて立ち上がった。

 

「泣かせるつもりはなかった」

 

「違います」

 

 キャリエルは首を振った。

 

「嬉しいんです」

 

 彼女は涙を拭いながら、微笑んだ。

 

「やっと、レイン様が戻ってきてくださった」

 

 レインは安堵の表情を浮かべ、再び席に着いた。

 

「許してくれるのか」

 

「もちろんです」

 

 キャリエルは頷いた。

 

「私も反省すべき点があります」

 

 彼女は手紙を大切そうに畳みながら続けた。

 

「完璧であろうとするあまり、本当の自分を見せることを恐れていました」

 

「私はもっと君の事が知りたいと思っている。教えてくれるか?」

 

 レインが優しく尋ねた。

 

 キャリエルは少し照れたように微笑んだ。

 

「実は私、そんなに完璧じゃないんです」

 

「例えば?」

 

「朝寝坊が大好きで」

 

 キャリエルは恥ずかしそうに言った。

 

「侍女に起こされなければ、昼まで寝ていたいくらい」

 

 レインは意外そうに、そして嬉しそうに笑った。

 

「私もだ。政務がなければ、一日中寝ていたいくらいだ」

 

「本当ですか?」

 

「ああ。それに、実は甘いものが大好きでな」

 

 レインも打ち明けた。

 

「でも王太子らしくないから、隠していた」

 

 二人は顔を見合わせて、くすりと笑った。

 

「他には?」

 

 キャリエルが尋ねる。

 

「そうだな……実は剣術が苦手なんだ」

 

 レインは苦笑した。

 

「王太子たるもの武芸に秀でるべきと言われるが、どうも向いていない。そもそも臣下を信じるのが王の仕事だろう? 私を守ってくれる臣下を信じて、剣術の稽古などサボってしまいたい」

 

「私は数学が苦手です」

 

 キャリエルも告白した。

 

「家庭教師の先生には申し訳ないけれど、数式を見ると眠くなってしまって」

 

 話しているうちに、二人の間の空気が和らいでいく。

 

 飾らない素の会話が、心地よく続いていく。

 

「なあ、キャリエル」

 

 レインが真剣な表情で言った。

 

「アンナ嬢のことなんだが」

 

 キャリエルの表情が少し曇った。

 

「私はもう彼女への執着から完全に解放された」

 

 レインは静かに言った。

 

「昨夜、じっくり考えて分かったんだ。あれは本物の感情じゃなかった」

 

「本当にそう思われるのですか?」

 

「ああ」

 

 レインは断言した。

 

「まるで悪い夢から覚めたような気分だ。なぜあんなに執着していたのか、今では理解できない」

 

 彼は続けた。

 

「彼女が何をしたというわけでもないのだが──なぜ私はあれほどまでに……。彼女の事など何一つ知らないのにな」

 

 レインは深く息を吸った。

 

「それに比べて、君のことはたくさん知っている」

 

「例えば?」

 

「薔薇のジャムを使った紅茶が好きなこと」

 

 レインは指を折りながら数えた。

 

「刺繍が得意で、特に花の模様が上手なこと」

 

 キャリエルの頬が赤く染まっていく。

 

「子供たちのための図書館を作りたいという夢」

 

「覚えていてくださったんですね」

 

「当然だ」

 

 レインは優しく微笑んだ。

 

「大切な人のことだからな」

 

 二人の間に、温かな沈黙が流れた。

 

 庭園の薔薇が風に揺れ、甘い香りを運んでくる。

 

 ◆

 

 その頃、王立魔術学院の空き教室では別の重要な会話が行われていた。

 

 エルンストとセシリアは、アンナと向かい合って座っていた。

 

 アンナは不安そうに二人を見つめている。

 

「お呼び立てして申し訳ありません」

 

 セシリアが穏やかに切り出した。

 

「でも、どうしてもお話ししたいことがありまして」

 

「私に、ですか」

 

 アンナの声は緊張していた。

 

「君の『体質』についてだ」

 

 エルンストが単刀直入に言った。

 

 アンナの顔が青ざめた。

 

「やはり、お気づきだったのですね」

 

「我々だけではない」

 

 エルンストは続けた。

 

「多くの者が異常に気づいている」

 

 セシリアが優しく付け加えた。

 

「でもアンナ様を責めているわけではありません」

 

「むしろ君も被害者なのではないかと考えている」

 

 エルンストの言葉に、アンナの瞳に涙が浮かんだ。

 

「私も……苦しいんです」

 

 震える声で、アンナは語り始めた。

 

「誰も私を普通に見てくれない。男性は異常に執着し、女性は私を憎む」

 

 セシリアが同情的な表情を浮かべた。

 

「父が、これは神の祝福だと──」

 

 エルンストとセシリアは顔を見合わせた。

 

「祝福か。そういった事例は確かにある。しかしそれも些細な効果でしかないのだが……」

 

 エルンストが興味深そうに言う。

 

 セシリアが身を乗り出した。

 

「アンナ様、そのペンダントを見せていただけますか?」

 

 アンナは少し躊躇する。

 

「あの、父は外してはいけないと──」

 

「ほんの少しだけです。調べたいことがあるのです。アンナ様の体質をどうにかできるかもしれません」

 

 セシリアの言葉に負けて、アンナはペンダントを外して差し出した。

 

「父が東方から取り寄せた解呪のお守りだと」

 

 セシリアは慎重にペンダントを手に取った。

 

 銀の鎖に通された水晶は、一見何の変哲もないように見える。

 

「エルンスト様」

 

 セシリアがペンダントを彼に渡した。

 

 エルンストは真剣な表情で観察を始めた。

 

 特に異常なものは感じられない。

 

「普通の水晶のようだが」

 

 しかし、セシリアが何かに気づいた。

 

「待ってください」

 

 彼女はペンダントを光にかざした。

 

「この意匠……」

 

 水晶の中に、微細な彫刻が施されている。

 

 それは星座を模したもののようだった。

 

「ルミナリス……」

 

 セシリアが呟く。

 

「ルミナリス?」

 

 アンナが首を傾げる。

 

「東方の天文学で『炎の矢』と呼ばれる星座の先端に位置する黄金色の星ですね」

 

 セシリアは説明を始めた。

 

「『神に愛される』という意味の星言葉があります」

 

 エルンストが驚いたような顔をした。

 

「まさか」

 

「呪術の領域では」

 

 セシリアは慎重に言葉を選んだ。

 

「この星を模して造られた呪具は、祝福や呪いを増幅させる事に使われたりします」

 

 アンナの顔が蒼白になった。

 

「増幅……?」

 

「つまり」

 

 エルンストが結論を述べた。

 

「このペンダントは解呪のお守りではなく、君の『祝福』を強化しているということだ」

 

 アンナは震える手で口を覆った。

 

「そんな……父が、なぜ」

 

 涙がこぼれ始める。

 

「信じていたのに」

 

 セシリアがそっとアンナの手を握った。

 

「お辛いでしょうね。……アンナ様、今から少し試したい事があります。少々ペンダントをお借りいたしますね」」

 

「え?」

 

「エルンスト様」

 

 セシリアが振り向いた。

 

「ナイフをお持ちですか?」

 

 エルンストは少し驚いたが、懐から折り畳み式のナイフを取り出した。

 

「これでいいか?」

 

「ええ、十分です」

 

 セシリアはナイフを受け取ると、エルンストに向き直った。

 

「エルンスト様、お願いがあります」

 

「何だ?」

 

「他の女性を褒め称えるようなことを言ってください」

 

 エルンストは怪訝な表情を浮かべた。

 

「他の女性を? なぜそんなことを」

 

「呪術の準備です。お願いします」

 

 セシリアの真剣な表情に、エルンストは渋々頷いた。

 

「分かった。えー……キャリエル様は実に美しい銀髪をお持ちだ。まるで月光を紡いだような輝きで、風になびく様子など芸術品のようだ」

 

 その瞬間、セシリアの雰囲気が硬くなった。

 

 空気が冷たくなったような錯覚を覚える。

 

「君が言えと言ったのに」

 

 エルンストが慌てた。

 

「続けてください」

 

 セシリアの声は静かだが、どこか恐ろしい響きがあった。

 

 エルンストは困惑しながらも続けた。

 

「そうだな、マリアンヌ嬢も実に優雅で素晴らしい令嬢だ。栗色の髪は秋の実りを思わせるし、その所作の一つ一つが洗練されている。読書を愛する知的な横顔も魅力的だし……」

 

 セシリアの表情がますます硬くなる。

 

 なにやら理不尽なものを感じながらも、エルンストは続けた。

 

「それにアンナ嬢も蜂蜜色の髪が陽光のようで美しいし、翡翠の瞳は森の宝石を思わせる。その儚げな雰囲気は保護欲をかき立てるというか……」

 

 セシリアは表情を変えないまま、ナイフで自分の指先を傷つけた。

 

 赤い血が滲み出る。

 

「セシリア!」

 

 エルンストが驚いて立ち上がった。

 

 しかしセシリアは平然とした様子で、血をペンダントに垂らした。

 

 その瞬間、エルンストの目に恐ろしい光景が映った。

 

 幻視だ。

 

 セシリアの周囲に無数の蛇が現れ、うねり、絡み合っている。

 

 瘴気にも似たドロドロとした黒い魔力が、ペンダントを包み込んでいく。

 

 蛇たちの赤い目が、ペンダントに向けられている。

 

 それは一瞬の幻視だったが、エルンストの背筋を凍らせるのに十分だった。

 

「祝福を穢しました」

 

 セシリアは涼しい顔で言う。

 

「呪術の基本です。聖なるものは不浄によって力を失う」

 

 アンナは震えながら二人を見つめていた。

 

「でも、それは……」

 

「神を呪ったのです」

 

 セシリアはあっけらかんと言った。

 

「正確には、神の祝福に人の怨念をぶつけることで中和したのですが」

 

「怨念、って……」

 

 アンナは完全に引いてしまった様だった。

 

 優しそうな令嬢が平然と自分の血を使って呪術を行う姿は、確かに恐ろしい。

 

 セシリアは手巾でペンダントを丁寧に拭き取り、アンナに差し出した。

 

「はい、どうぞ。もうただのペンダントになりましたよ」

 

「本当に……ですか?」

 

「ええ。もう祝福を増幅する力はありません」

 

 セシリアは傷ついた指に手巾を巻きながら説明した。

 

「ただし、元々のアンナ様の体質は残っているはずです」

 

 エルンストが付け加えた。

 

「だが、それは君が生まれ持ったものだ。ペンダントによる異常な増幅がなければ、日常生活に支障はないはずだ」

 

 アンナは震える手でペンダントを受け取った。

 

「ありがとうございます」

 

 アンナは深く頭を下げた。

 

「セシリア嬢、指は……」

 

 心配そうなエルンストにセシリアは笑顔を浮かべて答える。

 

「この程度、すぐに治ります。それより、これで少しは楽になるはずです」

 

 エルンストが咳払いをした。

 

「セシリア嬢、次からは事前に説明してくれ」

 

「すみません」

 

 セシリアは悪戯っぽく微笑んだ。

 

「でも、嫉妬の感情が必要だったので」

 

「嫉妬?」

 

「ええ。呪術には感情が重要なんです」

 

 セシリアは当たり前のように言った。

 

「特に愛情に関する祝福を打ち消すには、その対極にある感情が効果的です」

 

 アンナは改めて二人を見つめた。

 

「本当に、ありがとうございました」

 

「礼には及びません」

 

 セシリアが言った。

 

「ただし、君の父親の件は別だ」

 

 エルンストは真剣な表情でアンナを見つめながら言う。

 

「アンナ嬢、一つ忠告がある」

 

「はい」

 

「父親と二人きりで対峙するのは避けた方がいい。なぜ君にこんなことをしたのか、その理由を問い詰めたい気持ちは分かる。だが危険だ」」

 

「でも、真実を知りたいのです」

 

 アンナの声は震えていた。

 

「もちろん、それは当然の気持ちです」

 

 セシリアが優しく言った。

 

「ですが、まずは安全を確保してから。私たちも協力します」

 

「君一人で背負う必要はない」

 

 エルンストが付け加えた。

 

「我々は既に関わってしまった。最後まで付き合うつもりだ」

 

 アンナの瞳に涙が浮かんだ。

 

「本当にありがとうございます」

 

「では、しばらくは普通に振る舞ってくれ」

 

 エルンストが指示した。

 

「父親に悟られないように。そして何か異変があれば、すぐに我々に連絡を」

 

「はい、分かりました」

 

 アンナは頷いた。

 

 三人は立ち上がった。

 

 窓の外では、午後の日が傾き始めている。

 

「何かあれば、いつでも相談してください」

 

 セシリアが優しく言った。

 

「はい、本当にありがとうございました」

 

 アンナは何度も頭を下げながら、教室を後にした。

 

 ◆

 

 教室に二人きりになると、エルンストは気づいた。

 

 セシリアの雰囲気がまだ若干硬い。

 

 いつもの柔らかな空気が、どこか張り詰めている。

 

「セシリア嬢、どうした?」

 

 エルンストが恐る恐る尋ねた。

 

 セシリアは少しそっぽを向いた。

 

「別に、何でもありません」

 

 しかし、その声には明らかに不満が含まれている。

 

「いや、明らかに何かある」

 

 エルンストは困惑した。

 

「私が何か失礼なことでも……」

 

「あんなに詳しく話さなくてもよかったのに」

 

 セシリアが小さく呟いた。

 

「え?」

 

「他の令嬢の美しさについて」

 

 セシリアは頬を膨らませた。

 

「月光を紡いだような髪だとか、森の宝石のような瞳だとか」

 

 その様子を見て、エルンストはようやく理解した。

 

「ああ、それは」

 

 彼は慌てて手を振った。

 

「君が言えと言ったから、その、仕方なく」

 

「仕方なく、ですか」

 

 セシリアの声が少し冷たくなった。

 

「いや、違う! 本心じゃない」

 

 エルンストは必死に弁解した。

 

「ただ呪術に必要だと言われたから、適当に思いついたことを」

 

「適当にしては、ずいぶん詩的でしたね」

 

 セシリアはまだふくれている。

 

 エルンストは頭を掻いた。

 

 こういう時、どう対処すればいいのか分からない。

 

 魔術理論なら完璧に説明できるのに、感情の機微となると途端に不器用になる。

 

「その、つまり」

 

 エルンストは言葉を探した。

 

「客観的な美の評価と、主観的な感情は別物だ」

 

「はい?」

 

「他の令嬢が美しいのは客観的事実かもしれない。だが」

 

 エルンストは真剣な表情でセシリアを見つめた。

 

「私にとって最も美しく、魅力的なのは君だ」

 

 セシリアの頬が少し赤くなった。

 

「本当ですか?」

 

「当然だ。データが証明している」

 

 エルンストは自信を持って言った。

 

「君といる時の私の心拍数上昇率は、他の誰といる時よりも高い」

 

 セシリアは呆れたような、でも嬉しそうな表情を浮かべた。

 

「相変わらずですね」

 

「そうだ」

 

 エルンストは急に思いついたように言った。

 

「街に蜂蜜菓子を食べに行かないか?」

 

「蜂蜜菓子?」

 

「君の好物だろう」

 

 エルンストは少し照れたように続けた。

 

「それに、私も甘いものが食べたい気分だ」

 

 セシリアの表情が明るくなった。

 

「いいですね」

 

「では、行こう」

 

 エルンストが立ち上がり、手を差し出した。

 

 セシリアはその手を取って立ち上がる。

 

「でも、エルンスト様」

 

 セシリアが悪戯っぽく言った。

 

「次に他の女性を褒める時は、もう少し控えめにお願いします」

 

「了解した」

 

 エルンストは苦笑する。

 

 君がそもそも言い出した事なのに、などと言わないだけの賢明さがエルンストにはあった。

 

 ◆

 

 朝の光が窓から差し込んで、私は目を覚ました。

 

 いつもと同じ時間。

 

 いつもと同じ部屋。

 

 でも、何かが違う。

 

 胸の奥にあった重い石のようなものが、消えていた。

 

 ペンダントに手を伸ばす。

 

 冷たい金属の感触は変わらない。

 

 でも、もうこれはただの装飾品だ。

 

 私を縛っていた見えない鎖ではない。

 

 身支度を整えながら、あの日のことを思い返す。

 

 といってもまだ一か月もたっていないのだけれど。

 

 セシリア様がペンダントを浄化してくださってから大体二週間といった所だ。

 

 エルンスト様とセシリア様の優しさ。

 

 真実を知った時の衝撃。

 

 父が私に何をしていたのか──考えると胸が痛む。

 

 でも今はそれよりも大切なことがある。

 

 普通の一日を、普通に過ごすこと。

 

 ◆

 

 学園への道は、秋の朝の冷たい空気に包まれていた。

 

 石畳の上を歩く私の足音が、いつもより軽い。

 

 向こうから男子生徒の一団が歩いてくる。

 

 私は無意識に身構えた。

 

 いつものように、彼らが私に群がってくるのを覚悟して。

 

 でも──

 

「おはようございます、リーベンシュタイン男爵令嬢」

 

 普通の挨拶。

 

 普通の笑顔。

 

 それ以上でも以下でもない、ただの朝の挨拶だった。

 

 私は慌てて返事をした。

 

 正直二週間たってもまだ慣れない。

 

 逃げ腰になってしまう。

 

「お、おはようございます」

 

 彼らはそのまま通り過ぎていく。

 

 振り返ることもなく、執着することもなく。

 

 まるで私が、ただの学生の一人であるかのように。

 

 これが普通。

 

 これが私が望んでいたものだ。

 

 ◆

 

 教室の扉を開けると、一瞬私に視線が集まるがそれだけだ。

 

 私に執着していた男子生徒はみな帰るべき所へと戻っていった。

 

 それにともない、女子生徒からの視線も日々軟化している。

 

 一時の熱病のようなもの──そう受け止められているらしい。

 

 祝福の力はまだ残っているそうだが、それでも意識して誰かと親しくなろうとしない限りは効果を発揮しないらしいし、効果を発揮したとしても元々の好感度を多少底上げする程度──だとセシリア様は言っていた。

 

 それでもその気になれば、クラスの中心人物くらいにはすぐなれるのかもしれないけれど。

 

 でも私はその気になんてならない。

 

 ◆

 

 放課後の図書館は、いつも通り静謐な空気に包まれていた。

 

 ラファエル様と向かい合って座り、それぞれの課題に取り組む。

 

 ペンを走らせる音と、ページをめくる音だけが響いている。

 

「アンナ嬢、この問題の解法はどう思われますか?」

 

 ラファエル様がいつも通りの穏やかな声で尋ねてきた。

 

 私は彼の手元を覗き込む。

 

 数学の問題だ。

 

 ただ、答えを出すまでの計算回数が多すぎる。

 

 そんな気がする。

 

 そんな気がする、というのは数字を見ると計算しなくてもなんとなく答えがどんな感じになるのかが分かるからだ。

 

 前世の事はもう余り思い出す事はないけれど、()()から私は数字には滅法強いのだ。

 

「ここの術式は、もう少し簡略化できるかもしれません」

 

 私はペンを借りて、別解を書き始めた。

 

 ラファエル様は興味深そうに見守っている。

 

 彼の態度は、昨日も今日も全く変わらない。

 

 穏やかで、誠実で、適度な距離を保った友人としての振る舞い。

 

 私はふと顔を上げて、彼を見つめた。

 

「どうかされましたか?」

 

 ラファエル様が不思議そうに尋ねる。

 

「いえ、何でもありません」

 

 私は微笑んだ。

 

 ◆

 

 図書館を出る。

 

 橙色の光が学園の建物を染め上げている。

 

 ここ最近はずっとこの色を見ている。

 

 ラファエル様との勉強会はもう何日も続いていた。

 

「今日も有意義な時間でした」

 

 ラファエル様が微笑みながら言った。

 

「また明日もよろしいですか?」

 

「はい、もちろん」

 

 私は頷いた。

 

 彼は優雅に一礼して、去っていく。

 

 その後ろ姿を見送りながら、私は思った。

 

 これが本当の関係なのだと。

 

 魔力で歪められたものではない、ごく自然な人と人との繋がり。

 

 それはとても穏やかで、静かで、でも確かな温かさがあった。

 

 家路につきながら、私は考える。

 

 父のことを、どうするべきか。

 

 エルンスト様の忠告通り、今はまだ動くべきではない。

 

 でもいつかは向き合わなければならない。

 

 なぜ父は、私にあんなことをしたのか。

 

 その答えを知る時が、必ず来る。

 

 でもそれまでは、こうして“普通”を過ごしていきたい。

 

 空を見上げると、一番星が輝き始めていた。

 

 私は小さく微笑んで、家への道を急いだ。

 

 明日もきっと、普通の一日が待っている。

 

 ◆

 

 数週間が過ぎた。

 

 季節は晩秋から初冬へと移ろい、王都の街並みも少しずつ冬支度を始めている。

 

 学園への道のりで見かける街路樹も、すっかり葉を落として寂しげな枝を空に伸ばしていた。

 

 でも私の心は不思議と温かかった。

 

 ラファエル様との勉強会は、今や私の日常に欠かせないものになっていた。

 

 最初は図書館で課題を教え合うだけだったけれど、最近では学園の外でも会うようになった。

 

 カフェで紅茶を飲みながら文学談義をしたり、王都の美術館で東方の美術品を鑑賞したり。

 

 そうして過ごす時間は、とても心地よかった。

 

 ◆

 

 その日の放課後、いつものように図書館で勉強していると、ラファエル様が嬉しそうな表情で声をかけてきた。

 

「アンナ嬢、今日はお時間ありますか?」

 

 私は顔を上げた。

 

 彼の栗色の瞳が、いつもより輝いている。

 

「はい、大丈夫ですけど」

 

「実は、王都の古書店で面白いものを見つけたんです」

 

 ラファエル様は身を乗り出した。

 

「東方の文化に関する稀覯本があるらしくて。一緒に見に行きませんか?」

 

 私は少し驚いた。

 

 学園の外で会うことは増えたけれど、二人きりで古書店というのは初めてだった。

 

「もちろん、喜んで」

 

 私は微笑んだ。

 

 彼の誘いを断る理由なんて、どこにもなかった。

 

 ◆

 

 王都の旧市街にあるその古書店は、まるで時間が止まったような場所だった。

 

 『月光書房』という看板が、夕日を受けて金色に輝いている。

 

 扉を開けると、古い紙とインクの匂いが私たちを包み込んだ。

 

「いらっしゃいませ」

 

 白髪の店主が、読んでいた本から顔を上げて微笑んだ。

 

「ラファエル様、お待ちしておりました」

 

「こちらが話していたアンナ嬢です」

 

 ラファエル様が私を紹介する。

 

 店主は優しく頷いた。

 

「東方の書物は奥の棚にございます。ごゆっくりどうぞ」

 

 私たちは礼を言って、店の奥へと進んだ。

 

 天井まで届く書架の間を歩いていると、まるで知識の迷宮に迷い込んだような気分になる。

 

「すごい品揃えですね」

 

 私は感嘆の声を上げた。

 

「ここなら何時間でもいられそう」

 

「アンナ嬢もそう思われますか」

 

 ラファエル様が嬉しそうに言った。

 

「私も初めて来た時、閉店時間まで居座ってしまって」

 

 彼は照れたように頭を掻いた。

 

 そんな彼の姿が、なんだか可愛らしく思えた。

 

 ◆

 

 東方の書物が並ぶ一角は、異国情緒に満ちていた。

 

 見慣れない文字で書かれた背表紙が、整然と並んでいる。

 

「これです」

 

 ラファエル様が一冊の本を手に取った。

 

「『東方見聞録』の初版本。挿絵も美しいんですよ」

 

 彼がページをめくると、精緻な銅版画が現れた。

 

 異国の風景、珍しい動物、不思議な建築物。

 

 どれも見たことのない世界の断片だった。

 

「素敵……」

 

 私は思わず呟いた。

 

「いつか、本当にこんな場所を見てみたいです」

 

「私も同じことを思いました」

 

 ラファエル様が優しく微笑んだ。

 

「世界は広いんだなって」

 

 私たちは並んで本を眺めながら、ゆっくりと書架の間を歩いた。

 

 時々立ち止まっては、気になる本を手に取る。

 

 哲学書、歴史書、地理書……どれも興味深いものばかりだった。

 

「あ、これ見てください」

 

 私は一冊の本を見つけた。

 

「東方の恋愛詩集みたいです」

 

 革装丁の表紙には、金箔で美しい文様が描かれていた。

 

 そっとページを開くと、流麗な文字が並んでいる。

 

 幸い、隣に翻訳が付いていた。

 

「月を見上げる恋人たちの詩、ですか」

 

 ラファエル様が隣から覗き込んだ。

 

 彼の肩が、私の肩に軽く触れる。

 

 ドキッとしたけれど、離れることはできなかった。

 

「『月は知っている、恋人たちの秘密を。銀の光で照らしながら、永遠の誓いを見守る』」

 

 私は詩を読み上げた。

 

 なんだか頬が熱くなってくる。

 

「ロマンチックですね」

 

 ラファエル様の声が、いつもより近い。

 

 彼の吐息が、私の髪を微かに揺らした。

 

「東方の詩人は、月を恋愛の象徴として詠むことが多いんです」

 

 彼は詩の解説を始めたけれど、私の耳にはあまり入ってこなかった。

 

 ただ、彼の声の響きだけが心地よく響いている。

 

 ふと顔を上げると、ラファエル様も私を見つめていた。

 

 ◆

 

 その瞬間、二人の視線が合った。

 

 栗色の瞳が、まっすぐに私を見つめている。

 

 今まで何度も見てきたはずなのに、どうしてこんなに違って見えるのだろう。

 

 友人として過ごしてきた時間が、急に違う色彩を帯び始めた。

 

 心臓が早鐘を打つ。

 

 でも、それは恐怖からではなかった。

 

 何か温かくて、優しくて、でも少し切ないような感情が胸の奥で渦巻いている。

 

「アンナ嬢……」

 

 ラファエル様が私の名前を呼んだ。

 

 その声には、今まで聞いたことのない響きが含まれていた。

 

 私は詩集を胸に抱きしめた。

 

 何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。

 

 ただ、この瞬間がずっと続けばいいのにと願っていた。

 

「私……」

 

 ラファエル様が何か言いかけた時、店の奥から店主の声がした。

 

「申し訳ございません、そろそろ閉店のお時間です」

 

 魔法が解けたように、私たちははっと我に返った。

 

 慌てて一歩離れる。

 

 さっきまでの親密な空気が、急に恥ずかしくなった。

 

「も、もうこんな時間でしたか」

 

 ラファエル様も動揺しているようだった。

 

「詩集、お買い上げになりますか?」

 

 私は手の中の本を見つめた。

 

 月と恋人たちの詩。

 

 今の私たちには、あまりにも意味深すぎる。

 

「いえ、今日は……」

 

 そう言いかけた時、ラファエル様が口を開いた。

 

「私が買います」

 

 彼は詩集を受け取ると、レジへと向かった。

 

 私は呆然と彼の後ろ姿を見つめていた。

 

 ◆

 

 店を出ると、すっかり日が暮れていた。

 

 街灯が灯り始め、王都の夜が始まろうとしている。

 

「送っていきます」

 

 ラファエル様が静かに言った。

 

「もう遅いですから」

 

 私は頷いた。

 

 二人で並んで歩き始める。

 

 さっきまでの気まずさは、いつの間にか消えていた。

 

 代わりに、何か新しい感情が芽生え始めている。

 

「あの詩集、どうして買われたんですか?」

 

 私は思い切って尋ねた。

 

 ラファエル様は少し照れたように微笑んだ。

 

「いつか、一緒に読めたらいいなと思って」

 

 その言葉に、私の心臓がまた跳ねた。

 

 一緒に、という言葉の意味を考える。

 

 友人として?

 

 それとも……。

 

「私も、そう思います」

 

 小さく呟いた言葉が、夜の空気に溶けていく。

 

 ラファエル様は優しく微笑んで、何も言わなかった。

 

 ただ、二人の歩調が自然と合っていく。

 

 月が昇り始めていた。

 

 詩集に詠まれていた、恋人たちを見守る月。

 

 私たちは何も言わずに、ゆっくりと歩き続けた。

 

 この道がもう少し長ければいいのに。

 

 そんなことを思いながら。

 

 ◆

 

 家の前に着いた時、ラファエル様は立ち止まった。

 

「今日は楽しかったです」

 

 彼の声は、いつもの穏やかさを取り戻していた。

 

 でも、瞳の奥にはまだ、あの書店で見せた熱さが残っている。

 

「私も、とても楽しかったです」

 

 別れたくない。

 

 でも、まだその言葉を口にする勇気はなかった。

 

「また明日、図書館で」

 

 ラファエル様が言った。

 

「はい、また明日」

 

 私は微笑んだ。

 

 彼は一礼すると、ゆっくりと歩き去っていく。

 

 その後ろ姿を見送りながら、私は胸に手を当てた。

 

 まだ心臓が、いつもより速く鼓動している。

 

 これは一体、どういう感情なのだろう。

 

 友情とは違う、もっと特別な何か。

 

 部屋に戻ってから、私は窓辺に立って月を見上げた。

 

 銀色の光が、静かに世界を照らしている。

 

 月は知っているのだろうか。

 

 私の心に芽生え始めた、この感情の正体を。

 

 明日、ラファエル様に会ったら、どんな顔をすればいいのだろう。

 

 いつも通りに振る舞えるだろうか。

 

 それとも……。

 

 考えれば考えるほど、胸が熱くなっていく。

 

 でも、不思議と不安はなかった。

 

 むしろ、明日が来るのが楽しみで仕方ない。

 

 これが恋の始まりなのだとしたら。

 

 私は初めて、心から誰かを好きになれるのかもしれない。

 

 魔力や祝福とは関係のない、本当の気持ちで。

 

 月明かりの中で、私は小さく微笑んだ。

 

 明日もきっと、素敵な一日になる。

 

 そんな予感がしていた。

 

 ◆

 

 初冬の朝、ラファエル様からの申し出に、私は手にしていたティーカップを置いた。

 

 学園近くのカフェで、いつものように過ごしていた時のことだった。

 

「両親に会ってほしいんです」

 

 彼の栗色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。

 

 穏やかだけれど、真剣な光が宿っていた。

 

 心臓が早鐘を打ち始める。

 

 家族への紹介。

 

 それはつまり。

 

 でもそれは嬉しさと同じくらい、不安も含んでいた。

 

「私で、よろしいのですか?」

 

 声が震えないよう、必死に平静を装った。

 

「もちろんです」

 

 ラファエル様は優しく微笑んだ。

 

「両親もアンナ嬢に会いたがっています」

 

 私は俯いた。

 

 テーブルの上の紅茶が小さく波紋を描いている。

 

 彼のご両親は息子が男爵令嬢と親しくしていることをどう思っているのだろう。

 

 ましてその令嬢が一時は奇妙な騒動の中心にいたことを知ったら。

 

「アンナ嬢?」

 

 ラファエル様の心配そうな声に、私は顔を上げた。

 

「申し訳ありません。考え事をしていました」

 

「もしかして嫌でしたか?」

 

 彼の表情が曇る。

 

「いえ、そんなことは」

 

 私は慌てて首を振った。

 

「ただ、少し不安で」

 

 正直に告白すると、ラファエル様は安堵の表情を浮かべた。

 

「大丈夫です。両親は偏見のない人たちですから」

 

 彼は私の手をそっと取った。

 

 温かい手のひらが、震えを静めてくれる。

 

「それに、私がアンナ嬢をどれほど大切に思っているか、きっと分かってくれます」

 

 その言葉に、胸が熱くなった。

 

 こんなにも真っ直ぐに想いを伝えてくれる人がいる。

 

 それだけで、勇気が湧いてくる。

 

「分かりました」

 

 私は深呼吸をして、微笑んだ。

 

「お会いさせていただきます」

 

 ◆

 

 約束の日は、あっという間にやってきた。

 

 モンターニュ子爵邸の前に立つと、急に自分の恰好が気になってくる。

 

 何度も自分の服装を確認してしまう。

 

 紺色のドレスは、派手すぎず地味すぎず。

 

 髪も丁寧に結い上げている。

 

 それでも不安は消えなかった。

 

「緊張していますか?」

 

 隣でラファエル様が優しく尋ねる。

 

「正直なところ、とても」

 

 私は苦笑した。

 

「手が震えています」

 

「私も緊張しています。正直その、両親は少し貴族らしからぬ部分があるので」

 

 彼の冗談に、少し肩の力が抜けた。

 

 門が開き、執事が恭しく頭を下げる。

 

「お待ちしておりました。どうぞお入りください」

 

 広い廊下を歩きながら、私は必死に平常心を保とうとした。

 

 応接間の扉の前で、執事が振り返った。

 

「奥様とご主人様がお待ちです」

 

 扉が開かれると、暖炉の火が揺れる優雅な部屋が現れた。

 

 そして、ソファに座る二人の姿。

 

 ◆

 

「はじめまして」

 

 立ち上がった夫人の声は、予想外に温かかった。

 

 ラファエル様と同じ栗色の髪を優雅に結い上げた女性は、柔らかな笑みを浮かべている。

 

「初めまして」

 

 私は深く礼をした。

 

「リーベンシュタイン男爵家のアンナと申します」

 

「堅苦しい挨拶は結構ですよ。まあうちは貴族といってもさほど歴史もありませんし。元々は商人の家でしてね」

 

 子爵が朗らかに言った。

 

 銀髪に品格ある顔立ちの紳士だが、その表情は親しみやすい。

 

「どうぞ、おかけください」

 

 ソファに腰を下ろすと、すぐに紅茶が運ばれてきた。

 

 繊細な絵付けのカップから、良い香りが立ち上る。

 

「ラファエルから話は聞いています」

 

 夫人が微笑みながら言った。

 

「東方文化にお詳しいとか」

 

 私は少し驚いた。

 

 てっきり身分のことを問われると思っていたのに。

 

「そうですね、心惹かれるものがありまして」

 

 東方美術への理解は、前世の知識に拠る所が大きい。

 

 この世界の東方は、かつて私が知っていた何かと重なる部分があるのだ。

 

 青磁の釉薬の色合い、水墨画の筆致、詩に込められた情感──それらを見ると、懐かしさにも似た感覚が胸をよぎる。

 

「謙遜なさらないで」

 

 ラファエル様が隣から口を挟んだ。

 

「アンナ嬢の東方美術の知識は、学院の教授も驚くほどです」

 

 頬が熱くなる。

 

 そんなに褒められるほどではないのに。

 

「それは素晴らしい」

 

 子爵が身を乗り出した。

 

「実は我が家にも、東方から来た美術品がいくつかありましてね」

 

 ◆

 

 会話が進むにつれ、私の緊張は少しずつ解けていった。

 

 子爵夫妻は身分の違いなど気にする素振りも見せず、一人の人間として私に接してくれた。

 

 話題は東方文化から始まり、学問、芸術、そして日常の些細な出来事まで広がっていく。

 

「あ、兄上」

 

 ラファエル様が扉の方を見た。

 

 そこには、ラファエル様より少し年上と思われる青年が立っていた。

 

「噂のアンナ嬢ですね」

 

 彼は人懐っこい笑顔で近づいてきた。

 

「弟がいつも話していますよ。『アンナ嬢は本当に素晴らしい方なんだ』って」

 

「兄上!」

 

 ラファエル様が慌てたように止めようとする。

 

 私は思わず吹き出してしまった。

 

 この温かい雰囲気に、すっかり心が和んでいる。

 

「私も時々、手紙に東方の詩を書き写したりするんです」

 

 私は思い切って話し始めた。

 

「月や星を詠んだものが特に好きで」

 

 不思議なことに、この世界の東方の詩は、前世で触れた漢詩の韻律とどこか似ている。

 

 五言絶句や七言律詩のようなリズムが、翻訳されてもなお感じられるのだ。

 

「まあ、素敵」

 

 夫人が目を輝かせた。

 

「私も詩は大好きなんですよ。今度ぜひ見せていただけませんか?」

 

 会話は弾み、気がつけば一時間以上が過ぎていた。

 

 最初の緊張が嘘のように、私は子爵家の家族と打ち解けていた。

 

 ◆

 

「素敵なお嬢さんね」

 

 お茶会が一段落した時、夫人がラファエル様に微笑みかけた。

 

「大切になさい」

 

 その言葉に、ラファエル様の頬が少し赤くなる。

 

「はい、母上」

 

 彼の返事は、真摯そのものだった。

 

 私も顔が熱くなるのを感じた。

 

 まるで、家族として認められたような。

 

 そんな温かい気持ちが胸に広がっていく。

 

「また遊びにいらしてください」

 

 子爵が優しく言った。

 

「我が家の東方コレクションも、ぜひご覧いただきたい」

 

「ありがとうございます」

 

 私は心から礼を言った。

 

 ◆

 

 帰り道、ラファエル様と二人で月光の降り注ぐ通りを歩いていた。

 

 モンターニュ邸を出てから、彼はずっと黙っている。

 

 何か考え込んでいるような横顔に、私は少し不安になった。

 

「ラファエル様?」

 

 声をかけると、彼は立ち止まった。

 

 街灯の光が、彼の栗色の髪を照らしている。

 

「アンナ嬢」

 

 振り返った彼の表情は、今まで見たことがないほど真剣だった。

 

「どうしました?」

 

 私も立ち止まる。

 

 彼は深呼吸をすると、真っ直ぐに私を見つめた。

 

「実は、今日両親に会ってもらったのには、理由があるんです」

 

 心臓が跳ね上がった。

 

 何か予感のようなものが、胸の奥で渦巻いている。

 

「私は、アンナ嬢のことが好きです」

 

 静かな、でも確かな告白だった。

 

 夜の空気が、一瞬止まったような気がした。

 

「最初は友人として接していました。でも、一緒に過ごすうちに、気持ちが変わっていって」

 

 ラファエル様は言葉を続ける。

 

「古書店で東方の詩集を見つけた日、アンナ嬢と並んで詩を読んでいた時、確信したんです」

 

 私は息をするのも忘れて、彼の言葉に耳を傾けていた。

 

「この人と、ずっと一緒にいたいと」

 

 彼は一歩近づいた。

 

「アンナ嬢、私の気持ちを受け取ってもらえませんか?」

 

 涙が頬を伝い始めた。

 

 嬉しくて、信じられなくて、でも確かに幸せで。

 

「私も……」

 

 震える声で答える。

 

「私も、ラファエル様のことが好きです」

 

 月明かりの下で、ラファエル様の顔に安堵と喜びが広がった。

 

 彼はそっと私の手を取り、優しく握りしめる。

 

「本当ですか?」

 

「はい」

 

 私は涙を拭いながら頷いた。

 

「古書店での、あの時から」

 

 二人で顔を見合わせて、小さく笑い合った。

 

 これが本当の恋なのだと──心の底から、そう思えた瞬間だった。

 

 そして、この幸せだけは前世であれこの世界であれ、どんな世界でも変わらない普遍的なものだと感じた。

 

 ◆

 

 ラファエル様からの告白を受けた夜、家に帰ると空気が違っていた。

 

 玄関で迎えた使用人たちの表情が、どこか強張っている。

 

 視線を合わせようとしない。

 

 胸騒ぎがする。

 

「お嬢様、旦那様が書斎でお待ちです」

 

 執事の声も、心なしか震えているように聞こえた。

 

 ラファエル様との幸せな時間の余韻は、一瞬で冷たい不安に変わった。

 

 書斎への廊下を歩きながら、私は必死に平静を保とうとした。

 

 でも予感は的中していた。

 

 重い扉を開けると、そこには見たこともない表情の父がいた。

 

 ◆

 

 書斎の空気はまるで氷のように冷たかった。

 

 父は大きな机の向こうに座り、何枚かの書類を睨みつけている。

 

 その横顔には、抑えきれない怒りが滲んでいた。

 

「お父様、お呼びでしょうか」

 

 できるだけ平静を装って声をかけた。

 

 父はゆっくりと顔を上げる。

 

 その瞳に宿る光を見て、私は息を呑んだ。

 

 冷たい、計算高い光。

 

 今まで優しい父親の仮面の下に隠されていた、本当の顔がそこにあった。

 

「座れ」

 

 短い命令に、私は従うしかなかった。

 

 革張りの椅子に腰を下ろすと、父は書類を私の前に投げ出した。

 

 それは、今日の私とラファエル様の行動を記した報告書だった。

 

 モンターニュ子爵邸を訪問したこと。

 

 そして、帰り道での出来事まで。

 

 血の気が引いていく。

 

 私たちは、監視されていたのだ。

 

「お前は何を考えている」

 

 父の声は、恐ろしいほど静かだった。

 

 嵐の前の静けさのような、不気味な平静さ。

 

「モンターニュ家の男などと付き合うとは。お前にはもっと素晴らしい運命があるのだ」

 

 運命。

 

 その言葉に、私は震えた。

 

 父が私に何を望んでいたのか、今更ながらに理解する。

 

「でも、お父様。私は──」

 

「黙れ!」

 

 突然の怒号に、私は身をすくませた。

 

 父の顔は怒りで真っ赤に染まっている。

 

「王太子殿下が、お前に心を寄せていたのだぞ!」

 

 父は立ち上がり、机を叩いた。

 

「なぜそれを無駄にした! なぜモンターニュ如きを選んだ!」

 

 その言葉に、すべてが繋がった。

 

 ペンダントのこと。

 

 父の真の狙い。

 

 私は、ただの駒だったのだ。

 

「お父様は、最初から」

 

 震える声で問いかける。

 

「私を王太子妃にするつもりだったのですね」

 

 父は一瞬黙り、そして冷たく笑った。

 

「当然だ。そのために、どれほどの投資をしたと思っている」

 

 投資。

 

 私の存在は、父にとって投資対象でしかなかった。

 

 涙が頬を伝い始める。

 

「私の幸せは、どうでもよかったのですか」

 

「幸せ?」

 

 父は鼻で笑った。

 

「王太子妃になることが、最高の幸せではないのか」

 

 違う。

 

 それは父の野望であって、私の幸せではない。

 

 でも、そんな言葉を口にする勇気はなかった。

 

 ◆

 

「もう遅い」

 

 父は椅子に座り直し、冷たい目で私を見つめた。

 

「お前がモンターニュ家と関係を深めたことで、すべての計画が台無しになった」

 

 彼は書類をまとめ始める。

 

「これだけの準備をしたのに。協力者も雇い、公爵令嬢の失脚も画策した」

 

 私は愕然とした。

 

 父は、そこまでしていたのか。

 

「なぜ、そんなことを」

 

「成り上がり者が生き残るには、力が必要だ」

 

 父の声には、商人時代の執念が滲んでいた。

 

「男爵位など、所詮は最下級の爵位。だが、王家と繋がれば話は別だ」

 

 そして、父は立ち上がった。

 

「お前は暫く自室で頭を冷やせ」

 

 有無を言わせない口調だった。

 

「外出は一切禁じる。モンターニュ家との交流も、今日限りだ」

 

「そんな!」

 

 私は立ち上がった。

 

「お父様、お願いです。ラファエル様は——」

 

「その名を口にするな!」

 

 父の怒号が書斎に響く。

 

「お前には分からんのか。我が家の未来がかかっているのだ」

 

 私は必死に訴えた。

 

 ラファエル様との出会い。

 

 共に過ごした時間。

 

 そして、今日交わした想い。

 

 でも父の表情は変わらなかった。

 

 むしろ、ますます硬くなっていく。

 

「甘い夢は終わりだ」

 

 父は使用人を呼んだ。

 

「アンナを部屋へ。そして、窓には鉄格子を。誰も近づけるな」

 

 ◆

 

 自室へと連行される間、私の頭は真っ白だった。

 

 つい数時間前まで、あんなに幸せだったのに。

 

 ラファエル様の優しい笑顔。

 

 温かい手の感触。

 

 月明かりの下で交わした言葉。

 

 すべてが、遠い夢のように思えた。

 

 部屋に入ると、すぐに鍵の音が響いた。

 

 振り返ると、使用人たちが申し訳なさそうな顔で立っている。

 

「お嬢様、申し訳ございません」

 

 年配の侍女が涙を浮かべていた。

 

「でも、旦那様のご命令ですので」

 

 私は力なく頷いた。

 

 彼女たちを責めても仕方がない。

 

 窓に近づくと、既に職人が鉄格子を取り付けている最中だった。

 

 かつて自由に開け放っていた窓が、牢獄の窓に変わっていく。

 

 外の世界との繋がりが、一つずつ断たれていく。

 

 ◆

 

 ベッドに座り込み、震える手でペンダントを握りしめた。

 

 もう祝福の力はない、ただの装飾品。

 

 でも、これだけが今の私の拠り所だった。

 

 セシリア様が浄化してくださった時のことを思い出す。

 

 エルンスト様の冷静な分析。

 

 二人の優しさ。

 

 きっと、助けを求めれば力になってくれるはず。

 

 でも、どうやって? 

 

 この部屋から、どうやって連絡を取れというのか。

 

 涙が止まらなかった。

 

 せっかく掴んだ幸せが、父の野望によって引き裂かれていく。

 

 ラファエル様は、私がいなくなったことをどう思うだろう。

 

 心配してくれるだろうか。

 

 それとも、私が彼を裏切ったと思うだろうか。

 

 考えれば考えるほど、胸が締め付けられる。

 

 ◆

 

 翌朝、朝食は部屋に運ばれてきた。

 

 銀の盆に載せられた豪華な食事。

 

 でも、何も喉を通らない。

 

「お嬢様、少しでもお召し上がりください」

 

 侍女が心配そうに声をかける。

 

 私は首を振った。

 

「手紙を、出すことはできませんか」

 

 小さな声で尋ねる。

 

 侍女の顔が曇った。

 

「申し訳ございません。旦那様が、一切の通信を禁じておられます」

 

 最後の希望も断たれた。

 

 私は窓辺に立ち、鉄格子越しに外を眺めた。

 

 いつもと変わらない王都の朝。

 

 人々が行き交い、鳥が飛び、太陽が昇っていく。

 

 でも私だけが、この檻の中に閉じ込められている。

 

 ふと、庭を見下ろすと、見慣れない男たちが立っていた。

 

 明らかに、監視の為に雇われた者たち。

 

 逃げ道は、完全に塞がれていた。

 

 ◆

 

 数日が過ぎた。

 

 毎日が同じことの繰り返し。

 

 朝食、昼食、夕食。

 

 そして、ただ待つだけの時間。

 

 本を読もうとしても、文字が頭に入ってこない。

 

 刺繍をしようとしても、手が震えて針が持てない。

 

 ただ、ラファエル様のことを考えて過ごす日々。

 

 彼は今、何をしているだろう。

 

 きっと心配しているに違いない。

 

 でも、どうすることもできない。

 

 ある日の午後、廊下から足音が聞こえてきた。

 

 いつもの使用人とは違う、重い足音。

 

 扉が開き、父が入ってきた。

 

「気は変わったか」

 

 冷たい声で問いかける。

 

 私は黙って首を振った。

 

「強情な娘だ」

 

 父は溜息をついた。

 

「お前の母も、同じように強情だった」

 

 母の話が出るのは、久しぶりだった。

 

 私が幼い頃に亡くなった母。

 

 優しくて、いつも私の味方でいてくれた人。

 

「母なら、きっと私の気持ちを分かってくれたはずです」

 

 その言葉に、父の顔が歪んだ。

 

「だから早死にしたのだ」

 

 冷酷な言葉に、私は息を呑んだ。

 

「現実を見ろ、アンナ。この世界は力がすべてだ」

 

 父は窓の外を見つめた。

 

「商人時代、どれほど蔑まれたか。金があっても、地位がなければ虫けらも同然だった」

 

 そして、振り返る。

 

「だが、お前が王太子妃になれば、すべてが変わる」

 

 その瞳には、狂気じみた執念が宿っていた。

 

 私は恐ろしくなった。

 

 これが、本当の父の姿なのか。

 

 ◆

 

 父が去った後、私は決意を固めた。

 

 このままでは、本当に一生檻の中で過ごすことになる。

 

 何か、方法があるはずだ。

 

 窓の鉄格子を調べてみる。

 

 頑丈で、とても外せそうにない。

 

 扉も同様に、内側からは開けられない。

 

 でも、諦めるわけにはいかない。

 

 ラファエル様との約束がある。

 

 また図書館で会う約束。

 

 東方の詩集を一緒に読む約束。

 

 そして、これからもずっと一緒にいるという約束。

 

 夜になって、私はある計画を思いついた。

 

 危険だけれど、試してみる価値はある。

 

 明日の朝食の時、侍女が部屋に入ってくる瞬間。

 

 その一瞬の隙を狙って──

 

 でも、本当にできるだろうか。

 

 使用人たちに迷惑をかけることになる。

 

 父の怒りは、彼女たちにも向かうだろう。

 

 そう思うとできなかった。

 

 葛藤に苛まれながら、私は眠れない夜を過ごした。

 

 月が窓から差し込んでいる。

 

 あの夜と同じ月。

 

 でも今は、鉄格子に遮られて、その光も檻のように見えた。

 

 私は小さく呟いた。

 

「ラファエル様、助けて」

 

 ◆

 

 図書館。

 

 ラファエルの視線は何度も空席に向けられた。

 

 アンナがいつも座っている席だ。

 

 ──体調でも崩したのだろうか

 

 それにしても、連絡の一つもないのは不自然だった。

 

 講義が終わると、ラファエルは学務課へ向かった。

 

「リーベンシュタイン男爵令嬢は欠席でしょうか」

 

 職員は記録を確認した。

 

「はい、欠席届が出ております」

 

「理由は?」

 

「体調不良とのことです」

 

 その場はそれで納得するラファエル。

 

 だが。

 

 ◆

 

 翌日も、その次の日もアンナは姿を見せなかった。

 

 不安は日を追うごとに大きくなっていく。

 

 同じ講義を受けている学生に尋ねてみたが、誰も彼女を見ていないという。

 

 ついにラファエルは決心した。

 

 ──直接、リーベンシュタイン男爵邸を訪ねよう

 

 午後の授業を終えると、彼は男爵邸へと向かった。

 

 門の前に立つと、見慣れない男たちが立っている。

 

 雰囲気が擦れすぎている。

 

 明らかに普通の使用人ではなかった。

 

「リーベンシュタイン男爵令嬢にお目にかかりたいのですが」

 

 ラファエルが丁寧に申し出ると、男たちは冷たい視線を向けた。

 

「お嬢様は面会謝絶だ」

 

「せめて、お元気かどうかだけでも」

 

「帰れ」

 

 有無を言わせない拒絶だった。

 

 ラファエルは諦めきれずに、もう一度頼み込んだ。

 

「私はモンターニュ子爵家のラファエルです。アンナ嬢とは親しくさせていただいていて」

 

「だから何だ」

 

 男は鼻で笑った。

 

「旦那様の命令だ。誰も通さん」

 

 ◆

 

 途方に暮れたラファエルはその日は帰宅するが、ろくに食事も喉に通らない。

 

 翌日もアンナは欠席していた。

 

 何か手がかりはないか。

 

 誰か事情を知っている者はいないか。

 

 だが何も手立てがない。

 

 学園の中庭のベンチで頭を抱えるラファエル。

 

 いっそ親にでも相談してみるかと思っていた所──

 

 見た事のある姿を見つけた。

 

 エルンスト・フォン・ヴァイスベルクとセシリア・ド・モンフォール。

 

 アンナと親しくしている二人で、ラファエルも面識はある。

 

「ヴァイスベルク侯爵令息、モンフォール伯爵令嬢」

 

 ラファエルは急いで二人に近づいた。

 

 エルンストが振り返る。

 

「モンターニュ子爵令息か。どうした、顔色が優れないが」

 

「実は、ご相談があるのです」

 

 ラファエルの真剣な表情に、セシリアが心配そうに尋ねた。

 

「何かあったのですか?」

 

「アンナ嬢が、学園に来なくなって三日になります」

 

 その言葉に、エルンストとセシリアは顔を見合わせた。

 

「詳しく聞かせてもらえるか」

 

 エルンストの声が真剣になった。

 

 ラファエルは事の次第を説明した。

 

 アンナとの関係。

 

 両親への紹介。

 

 そして、その夜の告白。

 

「翌日から姿を見せなくなりました。男爵邸を訪ねても門前払いで」

 

 エルンストの表情が険しくなった。

 

「なるほど、状況は理解した」

 

 彼は顎に手を当てて考え込む。

 

「セシリア嬢、どう思う?」

 

「不自然です」

 

 セシリアも眉をひそめた。

 

「アンナ様の性格から考えて、無断で約束を破るとは思えません」

 

「同感だ」

 

 エルンストは決断を下した。

 

「父上に相談する必要がある」

 

 ◆

 

 ヴァイスベルク侯爵邸の執務室。

 

 ゲオルク・フォン・ヴァイスベルクは、息子の報告を黙って聞いていた。

 

 銀髪の侯爵の表情は、いつもの穏やかさとは違い、鋭い思考の色を帯びている。

 

「つまり」

 

 ゲオルクが口を開いた。

 

「リーベンシュタイン男爵が、娘を監禁している可能性があると」

 

「その通りです、父上」

 

 エルンストが頷く。

 

「状況証拠から判断して、その可能性が高いと考えます」

 

 ゲオルクは立ち上がり、窓辺へと歩いた。

 

 夕暮れの光が、書斎を橙色に染めている。

 

「リーベンシュタイン男爵か」

 

 侯爵は呟いた。

 

「成り上がりの商人出身。野心家として知られている」

 

 そして振り返る。

 

「エルンスト、なぜこの件に関わる?」

 

「それは」

 

 エルンストは一瞬言葉に詰まったが、すぐに答えた。

 

「第一に、不当な監禁は法に反します。第二に、アンナ嬢は我々の知人です。そして第三に」

 

 父の目を真っ直ぐに見つめるエルンスト。

 

「これは王国の秩序に関わる問題かもしれません」

 

 ゲオルクの眉が上がった。

 

「ほう、説明してもらいたいな」

 

「アンナ嬢の件を調査する過程で、男爵が王太子殿下に接近しようとしていた形跡があります」

 

 エルンストは慎重に言葉を選んだ。

 

 ゲオルクは単なる情では動かない事がエルンストにはよくわかっている。

 

「もし男爵が、娘を利用して王家に取り入ろうとしているなら」

 

「なるほど」

 

 ゲオルクは理解した。

 

 そして、素早く決断を下す。

 

「分かった。私が動こう」

 

 ◆

 

 ゲオルクの行動は迅速だった。

 

 まず信頼できる情報網を使って、リーベンシュタイン男爵の動向を調査。

 

 その結果、驚くべき事実が判明した。

 

 男爵は複数の没落貴族に金を渡し、王太子の婚約者であるキャリエル公爵令嬢を陥れようとしていた。

 

 証拠を掴んだゲオルクは、即座に王宮へと向かった。

 

 彼はレイン派の重鎮として、王太子への謁見を申し入れる。

 

「ヴァイスベルク侯爵、急な謁見とは」

 

 レインは執務室で侯爵を迎えた。

 

 最近のレインは、以前の落ち着きを取り戻している。

 

「殿下、重大な報告があります」

 

 ゲオルクは証拠書類を差し出した。

 

「リーベンシュタイン男爵が、不穏な動きを見せております」

 

 レインは書類に目を通し、顔色を変えた。

 

「これは……まさか、私を利用しようと」

 

「恐らくは」

 

 ゲオルクは頷いた。

 

「さらに問題なのは、男爵が現在、娘であるアンナ嬢を監禁している疑いがあることです」

 

 レインの表情が厳しくなった。

 

「監禁?」

 

「はい。おそらく、娘が別の男性と親しくなったことを知り、計画が狂ったのでしょう」

 

 王太子は立ち上がった。

 

「これは看過できない。すぐに調査を」

 

「既に法務省にも働きかけております」

 

 ゲオルクは落ち着いて報告した。

 

「証拠も十分です。明日にも、憲兵隊が動くでしょう」

 

 ◆

 

 リーベンシュタイン男爵邸。

 

 朝の静寂を破って、重い足音が響いた。

 

 門前に整列する憲兵隊。

 

 その隊長が厳かに宣言する。

 

「リーベンシュタイン男爵、貴殿を監禁罪の容疑で拘束する」

 

 書斎にいたダンカンは、蒼白になった。

 

「な、何かの間違いでは」

 

「間違いではない」

 

 隊長は逮捕状を示した。

 

「貴殿の娘、アンナ嬢を不当に監禁した容疑だ。また、王国に対する重大な背任行為の疑いもある」

 

 ダンカンは必死に弁明しようとした。

 

「娘は体調を崩しているだけだ。監禁などしていない」

 

「では、本人に確認させてもらおう」

 

 憲兵隊は屋敷に踏み込んだ。

 

 使用人たちは怯えながらも、素直に協力した。

 

 彼らも主人の行為に疑問を感じていたのだ。

 

 ◆

 

 鉄格子のはまった部屋の扉が開かれた時、アンナは信じられない思いだった。

 

「リーベンシュタイン男爵令嬢ですね」

 

 憲兵隊の隊長が優しく声をかけた。

 

「もう大丈夫です。お迎えが来ています」

 

 アンナは震えながら部屋を出た。

 

 廊下の先に見慣れた姿があった。

 

「ラファエル様!」

 

 アンナは駆け出した。

 

 もう走ることさえ許されないかと思っていた。

 

 でも今は自由だ。

 

「アンナ嬢!」

 

 ラファエルも駆け寄ってきた。

 

 二人は廊下の真ん中で、しっかりと抱き合った。

 

「心配しました。本当に心配しました」

 

 ラファエルの声が震えている。

 

「ごめんなさい。私も、会いたかった」

 

 アンナは彼の胸で泣き崩れた。

 

 一週間の悪夢がようやく終わったのだ。

 

 ◆

 

 エルンストとセシリアも、屋敷の玄関で待っていた。

 

「無事で何よりだ」

 

 エルンストが安堵の表情を見せた。

 

「ありがとうございます」

 

 アンナは涙を拭きながら、深く頭を下げた。

 

「エルンスト様、セシリア様のおかげです」

 

「礼なら父上に」

 

 エルンストは肩をすくめた。

 

「我々は報告しただけだ。実際に動いたのは父上と王太子殿下だ」

 

 セシリアが優しく微笑んだ。

 

「でも、もう大丈夫です。これからは自由に生きられます」

 

 その言葉に、アンナは改めて涙をこぼした。

 

 ◆

 

 ダンカンは憲兵に連行されていった。

 

 最後まで娘を見ようともしなかった。

 

 彼にとってアンナは、最後まで野望の道具でしかなかったのだ。

 

 アンナはその後ろ姿を、複雑な思いで見送った。

 

 憎しみはない。

 

 ただ、深い悲しみがあるだけだった。

 

「行きましょう」

 

 ラファエルが優しく促した。

 

「ここにはもう、用はありません」

 

 アンナは頷いた。

 

 そして、屋敷を後にする。

 

 振り返ることなく。

 

 ◆

 

 王都の通りを歩きながら、アンナは深く息を吸った。

 

 外の空気がこんなにも新鮮に感じられる。

 

 風が髪を撫で、太陽が顔を照らす。

 

 すべてが眩しく、美しく見えた。

 

「これから、どうされますか?」

 

 ラファエルが心配そうに尋ねた。

 

「まず、学園に戻ります」

 

 アンナは微笑んだ。

 

「それから普通の生活を取り戻したいです」

 

「私の家族が力になってくれるとおもいます」

 

 ラファエルが提案した。

 

「もしよければ、しばらく我が家に」

 

 アンナは少し迷ったが、頷いた。

 

「お言葉に甘えさせていただきます」

 

 エルンストが咳払いをした。

 

「では我々はこれで。また学園で会おう」

 

「はい、本当にありがとうございました」

 

 アンナは改めて礼を言った。

 

 四人は別れ、それぞれの道を歩き始めた。

 

 ◆

 

 夕暮れ時、モンターニュ子爵邸の応接間。

 

 アンナは子爵夫妻の前で、事の次第を説明した。

 

「まあ、そんなことが」

 

 夫人が胸に手を当てた。

 

「おつらかったでしょうね」

 

「でも、もう終わりました」

 

 アンナは努めて明るく言った。

 

「これからは、新しい人生を歩みたいと思います」

 

 子爵が優しく頷いた。

 

「我が家を、第二の家だと思ってください」

 

「ありがとうございます」

 

 アンナは深く頭を下げた。

 

 温かい家族の輪の中で、彼女の心は少しずつ癒されていく。

 

 ラファエルはそっとアンナの手を握った。

 

「もう離しません」

 

 彼の言葉に、アンナは涙ぐみながら微笑んだ。

 

「はい、もう離れません」

 

 窓の外では一番星が輝き始めていた。

 

 ◆

 

 王都の法廷は重苦しい沈黙に包まれていた。

 

 傍聴席に座るアンナは、震える手を膝の上で組み合わせていた。

 

「被告人ダンカン・フォン・リーベンシュタイン」

 

 裁判長の声が響く。

 

「貴殿に対する容疑は以下の通りである」

 

 羊皮紙を広げる音が、静寂の中で異様に大きく聞こえた。

 

「第一、複数の貴族に対する贈賄」

 

「第二、実の娘に対する監禁および虐待」

 

「第三、神の祝福を悪用し、王家の秩序を乱そうとした企て」

 

 一つ一つの罪状が読み上げられるたびに、ダンカンの顔は蒼白になっていく。

 

 特に最後の罪状で、傍聴席がざわめいた。

 

 王太子への接近を図り、公爵家を陥れようとした──それは反逆にも等しい重罪だった。

 

「これらの罪により、被告人を極刑に処す」

 

 裁判長の宣告が下された瞬間、アンナは立ち上がった。

 

「お待ちください!」

 

 法廷中の視線が彼女に集まる。

 

「私からお願いがあります」

 

 アンナは震えながらも、はっきりと言った。

 

「父の罪は重いことは理解しています。でも、どうか命だけは」

 

 裁判長は厳かに首を振った。

 

「リーベンシュタイン男爵令嬢、お気持ちは察するが、王家への反逆は決して許されることではない」

 

 アンナはなおも訴えようとしたが、隣に座るラファエルがそっと手を握った。

 

 無言の制止。

 

 アンナは力なく座り込んだ。

 

 法廷を出る時、ダンカンと目が合った。

 

 しかしダンカンはすぐにアンナから視線を逸らした。

 

 最後まで娘を道具としか見ていなかった男の末路である。

 

 ◆

 

 翌日、王宮の一室。

 

 アンナは呼び出されて、緊張の面持ちで待っていた。

 

 扉が開き、宰相が入ってきた。

 

 白髪の老人は鋭い眼光でアンナを見つめる。

 

「リーベンシュタイン男爵令嬢」

 

「はい」

 

 アンナは深く頭を下げた。

 

「王家より勅命がある」

 

 宰相は巻物を広げた。

 

「リーベンシュタイン男爵家は取り潰しとはしない」

 

 アンナは驚いて顔を上げた。

 

 てっきり家も断絶すると思っていたのだ。

 

「ただし」

 

 宰相の声が続く。

 

「当主不在により、アンナ・ド・リーベンシュタインが後を継ぐものとする」

 

 血の気が引いた。

 

 自分が、男爵家の当主に? 

 

「私には、そのような器量は」

 

「これは命令だ」

 

 宰相の声には有無を言わせない響きがあった。

 

 ◆

 

 モンターニュ子爵邸の応接間。

 

 アンナは呆然と座っていた。

 

 向かいにはラファエルと、その両親。

 

「私に、家を治めることなどできません」

 

 アンナの声は震えていた。

 

「使用人の管理も何も分からないのです」

 

 モンターニュ子爵が優しく言った。

 

「一人で背負う必要はありませんよ」

 

 その時、ラファエルが立ち上がった。

 

「アンナ嬢──もし、アンナ嬢がよろしければ、私が婿として支えさせていただきたい」

 

 アンナは息を呑んだ。

 

 婿、という言葉の重み。

 

 それは単なる結婚以上の意味を持つ。

 

「でも、ラファエル様は子爵家のご子息です」

 

「家格の違いなど関係ありません。そもそも子爵家は兄が継ぎます。これは両親にも許可を得ての事です」

 

 ラファエルは微笑んだ。

 

「私は、アンナ嬢と共に歩みたいのです」

 

 モンターニュ夫人も頷いた。

 

「息子は貴族らしくない部分もありますが、人を見る目は確かなので──」

 

 アンナの目に涙が浮かんだ。

 

 こんなにも自分を想ってくれる人がいる。

 

「本当によろしいのですか」

 

「もちろん」

 

 ◆

 

 その頃、王宮の密室では別の会話が交わされていた。

 

 ゲオルク・フォン・ヴァイスベルクと、ハイエスト公爵、そして宰相が顔を合わせている。

 

「計画通りですな」

 

 宰相が満足そうに頷いた。

 

「リーベンシュタイン男爵家の『祝福』は、正しく使えば外交上の武器になる」

 

 ハイエスト公爵も同意した。

 

「モンターニュ家も良い。長年王家に忠実だ。この忠実さと組み合わされば、王国の利益となろう」

 

 ゲオルクは窓の外を見つめながら言った。

 

「表向きは若い二人の恋を祝福する。だが実際は、王国の新たな外交カードを手に入れるということか」

 

「綺麗事だけでは国は守れません」

 

 宰相の声は冷徹だった。

 

「あの娘の能力は、適切に管理されるべきだ」

 

 三人の間に暗黙の了解が生まれた。

 

 若い恋人たちの幸せを見守りながら、同時に国益も確保する。

 

 それが老獪な政治家たちの計算だった。

 

 ◆

 

 継承の儀が行われた日。

 

 アンナは男爵家の正装に身を包み、玉座の前に立っていた。

 

 重い冠が頭に載せられる。

 

「ここに、アンナ・フォン・リーベンシュタインを正式にリーベンシュタイン男爵と認める」

 

 宣言と共に、新しい人生が始まった。

 

 式の後、ラファエルが近づいてきた。

 

「お疲れ様でした、男爵」

 

 からかうような口調に、アンナは苦笑した。

 

「まだ慣れません」

 

「大丈夫です。私がついています」

 

 その言葉に、アンナは安堵の息をついた。

 

 一人ではない。

 

 それだけで、どんな困難も乗り越えられそうな気がした。

 

 ◆

 

 エルンストとセシリアも式に参列していた。

 

「興味深い結末だな」

 

 エルンストが呟く。

 

「しかし一歩間違えれば皆が不幸になる所だった」

 

 セシリアも頷いた。

 

 二人は新しい男爵を見つめる。

 

 不安そうだが、それでも前を向いて立っている少女。

 

 その隣には優しく支える青年。

 

「ひとつの愛が結実した、と言えるのかな」

 

 エルンストが結論付けた。

 

「しかし愛とは難しい。目の前でこのような光景を見てもなお理解できない」

 

 セシリアは微笑んだ。

 

「私も同じです。ですから実験は続けましょう。私たちは既に十分以上に親密な気はしますが、せっかくならば突き詰めてみたいではありませんか」

 

 エルンストは頷き、そっとセシリアの手を取った──心拍数を測るために。

 

 ◆

 

 季節は巡り、王立魔術学院の卒業式が行われる春の日がやってきた。

 

 桜の花びらが舞う中、黒いローブに身を包んだ卒業生たちが整列している。

 

 その中にエルンストとセシリアの姿もあった。

 

「色々あった学園生活だった」

 

 エルンストが感慨深げに呟いた。

 

「そうですね」

 

 セシリアは微笑みながら、手にした卒業証書を見つめた。

 

「でも、私たちの『実験』はまだ続きますから」

 

 二人の周りでは涙を流しながら別れを惜しむ学生たちの姿があった。

 

 しかしエルンストとセシリアは、いつも通り冷静だった。

 

 むしろ、これからの研究計画について議論を始めていた。

 

 ◆

 

 それから三ヶ月後、初夏の日差しが眩しい午後。

 

 ヴァイスベルク侯爵家とモンフォール伯爵家の結婚式が執り行われた。

 

 王都の大聖堂は、両家の親族と友人たちで埋め尽くされていた。

 

「永遠の愛を誓いますか」

 

 司祭の問いかけに、エルンストは真剣な表情で答えた。

 

「統計的に『永遠』という概念は証明不可能だが、現時点での最大限の愛情を誓うことは可能だ」

 

 会場がざわめいた。

 

 司祭も困惑している。

 

 セシリアが助け舟を出した。

 

「つまり、誓います、ということです」

 

 彼女は優雅に微笑んだ。

 

「私も同じく誓います」

 

 指輪の交換の際も、二人らしさが発揮された。

 

「この指輪の金属組成は」

 

 エルンストが説明を始めようとしたところで、セシリアが軽く咳払いをした。

 

「後でゆっくり聞かせてください」

 

 彼女は小声で言った。

 

「今は儀式を進めましょう」

 

 エルンストは納得したように頷き、セシリアの指に指輪をはめた。

 

 その瞬間、二人の視線が合った。

 

 言葉はなくとも、互いの思いが通じ合っている。

 

 ◆

 

 披露宴では、アンナとラファエルの姿もあった。

 

「素敵な式でしたね」

 

 アンナが感動した様子で言った。

 

 彼女はリーベンシュタイン男爵として、すっかり貫禄が出てきていた。

 

「ええ、実に二人らしい」

 

 ラファエルも微笑んだ。

 

 彼は婿として、アンナを支え続けていた。

 

 レインとキャリエルも列席していた。

 

 あの一件以来、二人の関係は以前より深まっていた。

 

「セシリア様はともかく、エルンスト様はいつも通りでしたね」

 

 キャリエルが苦笑した。

 

 ◆

 

 新婚初夜、ヴァイスベルク侯爵邸の書斎。

 

 普通の夫婦なら寝室にいるはずの時間だが、二人は机を挟んで向かい合っていた。

 

「さて、結婚後の親密度測定基準を再検討する必要がある」

 

 エルンストが真剣な表情で切り出した。

 

「確かに、既存の基準では不十分ですね」

 

 そういってセシリアも手帳を開いた。

 

 そうして二人は深夜まで、新しい測定方法について議論を続ける。

 

 外から見れば奇妙な光景だが、これが二人の愛の形だった。

 

 ◆

 

 結婚から一年が過ぎた。

 

 毎朝の日課は変わらなかった。

 

「おはよう、セシリア」

 

「おはようございます、エルンスト」

 

「今日の親密度は?」

 

「測定不能なほど高いです」

 

 同じやり取りを、二人は飽きることなく続けていた。

 

 ◆

 

 更に歳月が流れた。

 

 エルンストは王宮の魔術顧問として、日々多忙を極めていた。

 

 国防に関わる重要な術式開発は、深夜まで及ぶことも珍しくはない。

 

 ある晩秋の夜、エルンストは疲れた頭を休めるため窓から外を眺めていた。

 

 雲一つない夜空に、ぷかりと浮かぶ大きな満月。

 

 月光が王宮の尖塔を銀色に染めている。

 

「美しいな」

 

 エルンストは呟いた。

 

 ふと、セシリアのことが頭に浮かんだ。

 

 ──今頃、彼女も古代文献の解読に没頭しているだろう

 

 ◆

 

 同じ頃、ヴァイスベルク侯爵邸の中庭。

 

 セシリアは羊皮紙から顔を上げ、疲れた目を休めていた。

 

 古代文字の解読は、想像以上に神経を使う作業だった。

 

「少し外の空気を吸いましょう」

 

 セシリアは立ち上がり、中庭へと出た。

 

 冷たい夜風が頬を撫でる。

 

 ふと見上げると、満月が静かに輝いていた。

 

「今夜は月が綺麗ですね」

 

 セシリアは微笑んだ。

 

 そして、ふとエルンストのことを思った。

 

 きっと彼も、今頃は王宮で術式と格闘しているはずだ。

 

 その瞬間──二人は同時に感得した。

 

 今この瞬間、セシリアが、エルンストが同じ月を見上げている事を。

 

 根拠は何もない。

 

 しかしそう感じたのだ。

 

「これが愛なのかもしれない」──エルンストは王宮の窓辺で呟いた。

 

「これが愛なのかもしれません」──セシリアは中庭で呟く。

 

 ()()が何か、エルンストもセシリアも分からない。

 

 積み重ねてきた実験結果とは全く異なる所から、それこそポンと出てきた結論だ。

 

 検証もしようがない。

 

 でも、それでいいのだと二人は思った。

 

 ・

 ・

 ・

 

 ──満月は静かに、王都の夜を照らし続けている。

 

(了)

 

 


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