出航の日。
横須賀。
まだ日も高く昇りきらぬ軍港で、一人の若い水兵が、目の前に広がる光景を呆然と眺めていた。
「……おい」
隣の水兵の袖を引く。
「なんだ」
「これ、本当に偵察なんだよな?」
「そう聞いてる」
「俺もそう聞いた」
二人は揃って海を見る。
駆逐艦。
巡洋艦。
さらにその向こうには、巨大な主力艦の姿。
そして航空母艦までいる。
普段なら、それぞれ違う任務、違う艦隊に属している艦艇まで、今回のために急遽かき集められていた。
アメリカから届いた、あまりにも信じ難い救援要請。
その真偽を確かめる。
表向きの任務は、それだけだった。
「駆逐に巡洋、戦艦に空母……」
若い水兵は目を丸くした。
「俺、こんだけ揃ってるの初めて見たぞ」
隣の男も頷く。
「これで小規模らしい」
「誰が言ったんだ」
「上の連中」
「上の連中は算数ができんのか?」
「馬鹿、聞かれたら海へ落とされるぞ」
小さな笑いが起こった。
だが二人とも。
艦隊から目を離せなかった。
これは戦争ではない。
少なくとも、まだ日本は戦争を始めていない。
それなのに。
そこに並んでいるのは明らかに、ただ外国へ事情を聞きに行くための船ではなかった。
第一艦隊を中核とし、そこへ巡洋艦、駆逐艦、航空戦力を加えた臨時編成。
もちろん、連合艦隊の全力などではない。
それでも一個の「偵察隊」と呼ぶには、あまりにも物々しかった。
その光景を岸壁から眺めていた米内光政は、平然としていた。
隣にいた源田実が呆れたように艦列を見る。
「……随分と大きな偵察隊になりましたな」
「うん」
米内は頷いた。
「小規模だね」
源田が横を見る。
「これが?」
「これが」
「戦艦までいるんですが」
「いるね」
「空母も」
「いる」
「巡洋艦も」
「見れば分かる」
「駆逐艦も相当数います」
そこで米内が源田を見る。
「だから小規模だと言っている」
源田はしばらく黙った。
そして悟った。
「……米国に比べれば?」
「そういうことだ」
源田は額に手を当てた。
「どう転んでも莫大な費用がかかりますぞ」
燃料。
食料。
弾薬。
航空燃料。
整備部品。
乗員の給与。
そして太平洋を横断するだけでも消費する膨大な重油。
演習とは訳が違う。
場合によっては、そのまま長期派遣となる。
一体いくら飛ぶのか。
考えたくもなかった。
だが米内は気楽そうに答えた。
「罠じゃなければ、アメリカ持ちらしいからな」
源田が二度見した。
「……本当ですか?」
「救援に必要な燃料、食糧その他の物資については可能な限り合衆国政府が負担する、と電文にある」
「可能な限り、でしょう」
「そこは読まなかったことにしよう」
「海軍省の会計が怒りますぞ」
「帰ってから怒られればいい」
「帰れたら、ですが」
その言葉だけは。
冗談ではなかった。
二人とも黙った。
目の前には、帝国海軍の軍艦がある。
日本人にとって。
これほど頼もしく見えるものもなかった。
日露戦争ではロシア帝国のバルチック艦隊を破った。
第一次世界大戦では戦勝国となった。
世界第三位とも称される海軍力。
海軍軍人の多くは、自分たちを弱いとは微塵も思っていない。
だが。
今回向かう先で待っているというものは。
アメリカ海軍ではない。
ましてロシアでも。
イギリスでもない。
米内が呟いた。
「地球外生命体か」
源田が苦笑する。
「まだ信じておられるのですか?」
「いや」
「では?」
「信じていない」
米内は海を見る。
「だから確かめに行く」
源田も海へ目を戻した。
「……もし本当だったら?」
「その時は」
米内は少し考える。
「アメリカ人がどれだけ大袈裟に書いていたかを見る」
「大袈裟でなかったら?」
米内は答えなかった。
代わりに。
軍港へ響く号令が二人の会話を遮った。
「出港準備!」
各艦で水兵たちが動き始める。
係留索が外される。
煙突から煙が昇る。
曳船が動く。
帝国海軍の艦艇が一隻、また一隻と岸壁を離れ始めた。
第一艦隊司令長官、高橋三吉大将の指揮下。
本来ならば日本近海で敵艦隊との決戦を担うべき戦力が、太平洋の東へ向かおうとしている。
ただし。
今回の編成は通常の第一艦隊そのものではない。
アメリカ救援要請を受け、必要と判断された艦艇を急遽加えた臨時艦隊だった。
そのため。
艦上では今なお混乱が続いていた。
「航空隊の整備器材、全部積んだか!」
「まだです!」
「急げ!」
「予備魚雷は!」
「積載中!」
「急げ!」
「食糧は!」
「予定量を積み終えています!」
「医薬品!」
「追加分が来ております!」
「追加?」
「海軍省からです!」
「何のためだ!」
「アメリカ人を治療する可能性があるからと!」
士官が一瞬黙る。
「……本気で救援に行くことになってるじゃないか」
誰かがぼそりと言った。
「偵察だろ?」
「俺もそう聞いた」
「偵察で医薬品をこんなに積むか?」
「知らん」
「米を随分積んでるぞ」
「アメリカ人も米を食うのか?」
「食うだろ、人間なんだから」
「相手が人間じゃないって話じゃなかったか?」
「そっちは食わせるな」
「当たり前だ」
笑いが起きる。
まだ。
笑えていた。
地球外生命体。
誰も本気ではない。
新聞小説の話。
活動写真の怪物。
そんなものだと思っている。
だから彼らの関心はむしろ。
ハワイだった。
真珠湾だった。
アメリカ海軍だった。
「しかし本当に入れてくれるのかね」
甲板で双眼鏡を持った兵曹が言った。
「何がです?」
「真珠湾だよ」
「許可が出たんでしょう?」
「日本の軍艦だぞ」
兵曹は鼻を鳴らした。
「それもこんなに連れて」
後ろには戦艦。
巡洋艦。
駆逐艦。
航空母艦。
「俺がアメリカ人だったら、港に入れたくないね」
「罠かもしれませんぜ」
「陸さんと同じこと言うな」
「あの人たち、来ないんですか?」
「来るらしいぞ」
「見当たりませんが」
「一週間後だ」
若い水兵が眉をひそめた。
「……我々は?」
「今日」
「一週間後?」
「ああ」
「どうやって追いつくんです?」
兵曹は海を見ながら答えた。
「頑張るんじゃないか?」
「何を?」
「陸軍だからな」
「理由になってませんよ」
「俺に聞くな」
その会話から離れたところ。
艦橋では、もっと現実的な話が続いていた。
「現在確認できている米国側からの情報です」
士官が海図を開く。
「ハワイは健在」
指が太平洋の中央へ置かれる。
「真珠湾との無線交信も可能。ただし通信量は異常なほど増大しております」
「避難船か?」
「相当数が本土から西へ出ているとのことです」
「どれほどだ」
「不明です」
「不明?」
「米国側自身が把握できていないようです」
艦橋にいた者たちが顔を見合わせる。
「自分たちの船だろう」
「海軍艦艇だけではありません」
報告する士官が続けた。
「客船、貨物船、漁船、個人所有船舶まで西へ向かっているとの通信を傍受しています」
「何だそれは」
「分かりません」
「避難……なのか?」
「そのようです」
誰かが呟いた。
「アメリカ人が?」
返事はない。
まだ実感が湧かない。
アメリカ。
巨大な国。
広大な国土。
豊富な資源。
膨大な工業力。
太平洋の向こうにある大国。
その国の人間が。
国ごと逃げている?
馬鹿な。
そう思う方が自然だった。
「米国太平洋艦隊は?」
「真珠湾周辺で避難船団の収容と護衛にあたっているとのことです」
「それで日本艦隊まで入れろと?」
「はい」
沈黙。
やはりおかしい。
あまりにもおかしい。
罠。
謀略。
内乱。
共産主義者。
いくらでも人間同士の理屈を考えられる。
だが。
アメリカ自身が日本艦隊に、
――真珠湾へ来てくれ。
と言っている。
それだけは現実だった。
*
やがて。
最後の艦が港を離れる。
陸地に残った者たちが帽子を振った。
見送る家族。
海軍関係者。
軍港で働く者たち。
出征ではない。
戦争でもない。
だから万歳三唱もなければ、派手な式典もない。
ただ。
異様な数の軍艦が。
静かに沖へ出ていく。
米内はその光景を見ながら、傍らの源田へ言った。
「源田」
「はい」
「飛行機はどれだけ使える」
「索敵ですか?」
「それ以外に何がある」
「相手が本当に地球外生命体なら、戦闘もあり得るでしょう」
米内は源田を見る。
「勝てると思うか?」
源田は少し考えた。
「相手を見てもいないのに答えられません」
「良い答えだ」
「ただ」
「うん?」
源田は空を見る。
「アメリカの陸軍航空隊を壊滅させたという報告が本当なら……」
そこで止まる。
米内が続きを促した。
「なら?」
「相当厄介でしょうな」
「相当?」
「かなり」
「かなり?」
源田は嫌そうな顔をした。
「……非常に」
米内が笑った。
「最初からそう言えばいい」
「海軍軍人には意地というものがあります」
「陸軍と同じことを言うな」
「それは聞き捨てなりませんな」
二人の後ろで。
日本列島が少しずつ遠ざかっていく。
その日の夕方。
艦隊は太平洋へ出た。
進路東。
目標ハワイ。
その先にはアメリカ本土。
東京で彼らを送り出した者の多くは。
この航海をまだ「偵察」と呼んでいた。
だが、艦隊の規模を見れば。
誰の目にも明らかだった。
帝国海軍自身も。
アメリカから届いた電文を、完全には笑い飛ばせなくなっていた。
そして日本艦隊の乗員たちは、まだ知らない。
数日後。
彼らが太平洋の水平線に最初に見つけるものは。
アメリカの戦艦でも。
謎の宇宙船でもない。
水平線を埋め尽くすほどの――
アメリカ人の避難船団であることを。