1936年1月2日。
東京。
アメリカ合衆国から発せられた電文は、大西洋を越え、太平洋を越え、世界各国へ届いていた。
その内容はあまりにも荒唐無稽だった。
――アメリカ本土は、未知の勢力による大規模攻撃を受けている。
――ワシントンを含む複数の主要都市が壊滅。
――攻撃者は既知の国家に属さず、人類ではない可能性が極めて高い。
――合衆国政府は本土から政府機能および国民の退避を開始。
――各国に軍事的援助を要請する。
そして、その援助要請先には。
大日本帝国も含まれていた。
当然。
東京では緊急閣議が招集された。
岡田啓介首相を中心に、外務、陸軍、海軍の重臣たちが集められている。
海軍側には海軍大臣のほか、米内光政の姿もあった。
机の中央には、アメリカから届いた電文が置かれている。
誰もすぐには口を開かなかった。
やがて陸軍側の一人が紙を持ち上げた。
「……これは本物なのか?」
外務省側から返答がある。
「少なくとも、米国政府から発せられたものと考えるだけの根拠はあります」
「根拠がある、ではなく、本物かと聞いている」
「断定はできません」
「ならば話にならん」
別の軍人が鼻を鳴らした。
「地球外生命体だと?」
紙を指で弾く。
「俄には信じられん」
「まったくだ」
「アメリカ国内で反乱でも起きたのではないか?」
「共産主義者だろう」
その一言で、陸軍側の何人かが頷いた。
「その方がまだ説明がつく」
「労働争議や共産主義者の蜂起を隠すため、政府がこのような発表をしたのではないか」
「あるいは軍内部の反乱かもしれん」
広田弘毅は黙って聞いていた。
岡田が尋ねる。
「ワシントンの者からは?」
外務省の人間が資料を確認する。
「連絡がありません」
「大使館もか」
「現在のところ、正常な連絡はありません」
部屋の空気が僅かに重くなる。
「アメリカ政府による無線封鎖ではないのか?」
「その可能性も考えました」
「では、やはり――」
「ただし」
外務官僚が言葉を続ける。
「封鎖にしては妙なのです」
「何がだ」
「アメリカ方面から、暗号化されていない通信が大量に飛び交っています」
「平文?」
「はい」
「軍がそんな馬鹿なことをするか」
「軍だけではありません」
資料が机に置かれる。
「州政府、警察、消防、民間施設と思われる通信まで混在しております」
「内容は?」
「救援要請。避難指示。行方不明者の照会。部隊同士の呼び掛け」
少し言葉を選ぶ。
「中には、どこでもいいから応答してくれ、と繰り返している局もあります」
沈黙。
国家が何かを隠している通信ではない。
国家が壊れ始めた時の通信。
そう聞こえなくもなかった。
だが。
陸軍側の男がすぐに首を振った。
「芝居だ」
広田が顔を上げる。
「芝居?」
「日本を信じ込ませるためだ」
「随分と大掛かりな芝居ですな」
広田の声は淡々としていた。
男は無視するように続ける。
「ハワイはどうなんだ」
「まだ通信できます」
「やはりな!」
男が机を叩いた。
「本土だけ連絡を絶って、ハワイとは通信できる。明らかではないか!」
別の者が怪訝そうに尋ねる。
「何が明らかなのだ」
「罠だ!」
声が一段高くなる。
「アメリカ本土の状況を我々に確認させず、ハワイだけ窓口として残す!そして日本艦隊を誘い込む!」
「しかし――」
「地球外生命体などあり得ん!」
机を強く叩く。
「常識で考えろ!」
「常識で考えた結果、米国が自国の主要都市を壊滅したように見せかけて日本艦隊を誘い込む、という結論になるのですか」
米内光政だった。
男が振り向く。
「米内、何が言いたい」
「そのままですが」
米内はアメリカからの電文を眺める。
「もし罠だというのであれば――」
少し間を置いた。
「艦隊を向かわせてみればよろしい」
部屋が騒然となった。
「何だと!」
「米内!」
「貴様、何を言っている!」
米内はまるで天気の話でもするような顔をしていた。
「幸い、アメリカ側からハワイへの入港許可は出ています」
「それが罠だと言っているんだ!」
陸軍側の男が立ち上がった。
「もし真珠湾へ入ったところを攻撃されたらどうする!」
「反撃すればよいのでは?」
「艦隊が壊滅したらどうする!」
そこで。
広田が静かに口を開いた。
「米国なら、そんな罠を使わなくても日本には勝てますよ」
しん、とした。
何人かが広田を見た。
そして。
「……何だ、その言い方は」
低い声。
「まるで帝国がアメリカに負けると言っているようではないか!」
「その可能性について申し上げています」
「帝国陸海軍を侮辱する気か!」
「いいえ」
広田は表情を変えない。
「勝てると仰るのでしたら、問題ないではありませんか」
「何?」
「罠だった場合、アメリカと戦えば勝てるのでしょう?」
「当然だ!」
「なら何を恐れているのです」
言葉に詰まる。
広田はさらに続けた。
「私は外交官ですから、勝てるとも負けるとも断言しません」
そして僅かに目を細める。
「ただ、米国の国力を考えれば、わざわざ地球外生命体などという話を世界中へ流してまで日本艦隊を誘い出す必要があるとは思えません」
「貴様……!」
「やめんか」
岡田が低く言った。
だが陸軍側の興奮は収まらない。
「そもそも簡単に艦隊を出せと言うが、金はどうする!」
別の男が声を上げる。
「海軍は新戦艦計画にも莫大な予算を要求しているではないか!」
「そうだ!こんな得体の知れん話のためにさらに艦隊を動かすなど――」
米内が軽く頷いた。
「なるほど」
「何だ」
「ならば偵察隊ですな」
「偵察?」
「ええ」
米内が太平洋の地図へ目を向ける。
「主力艦隊を動かす必要はありません。小規模な艦隊をハワイ方面へ向かわせる」
指で海上をなぞる。
「アメリカ側の説明が事実なら、現地を見れば分かる」
「罠なら?」
「それも現地を見れば分かるでしょう」
海軍大臣も頷いた。
「それならば主力への危険も限定できる」
「待て」
陸軍側の軍人が口を挟んだ。
「海軍だけで行くというのか」
米内が見る。
「海ですからな」
「我々陸軍も乗る」
「……陸軍も?」
「当然だ」
男は腕を組んだ。
「もしアメリカの罠だった場合、その場でハワイを制圧する必要がある」
米内が一瞬黙る。
「偵察へ行くのでは?」
「だからだ」
「?」
「罠だと判明すれば、その時点で敵対行為とみなせる」
男はさも当然のように言った。
「ならば真珠湾を占領してしまえばいい」
海軍側の何人かが顔を見合わせる。
米内が尋ねた。
「その兵員を、我々の艦艇へ載せろと?」
「そうだ」
「兵器も?」
「当然だ」
「輸送船も必要になりますな」
「用意すればよかろう」
米内は少し考えた。
「そうすると、避難民を乗せる船が減りますが」
「避難民?」
「アメリカからの電文が事実だった場合です」
「そんなものは現地へ行ってから考えればいい!」
男が鼻を鳴らす。
「それよりアメリカの罠だった場合に備える方が重要だ」
「なるほど」
米内はそれ以上何も言わなかった。
ただ。
心の中で小さく息を吐いた。
――やれやれ。
本当に地球外生命体とやらが存在するなら。
その時、必要になるのは一人でも多くの避難民を救うための船だ。
そこへ占領用の陸軍兵力を満載していけば。
助けられる人間まで助けられなくなる。
だが口に出せば、また会議が一時間延びる。
「我々は後続で構わん」
陸軍側の男が言った。
「海軍が先に出ればよい」
米内が顔を上げる。
「後から来られるので?」
「問題あるまい」
「承知しました」
米内は小さく頷いた。
妙に素直だった。
岡田がそれを横目で見た。
何となく。
嫌な予感がした。
だが。
これ以上議論を続けても結論は変わらない。
岡田が机を軽く叩いた。
「よし」
全員が黙る。
「米国方面への事実確認は必要と認める」
陸軍側から何か言おうとする者がいたが、岡田が先に続けた。
「海軍による小規模艦隊を編成。ハワイ方面へ派遣する」
「総理」
「参戦ではない」
岡田が念を押す。
「偵察だ」
そして陸軍側を見る。
「陸軍については後続部隊への参加を検討する」
「承知した」
「外務省はアメリカ政府へ返電」
広田が頷く。
「はい」
「帝国政府は事態確認のため艦艇を派遣する。航路ならびにハワイ入港の安全を改めて保証させろ」
「承知しました」
岡田は全員を見回した。
「以上だ」
立ち上がる。
「閣議を終わる」
椅子が引かれる。
書類が集められる。
陸軍側の軍人たちはまだ何か話しながら部屋を出ていった。
「アメリカも随分手の込んだことをする」
「だがもし罠なら好都合だ」
「真珠湾を一度見ておくのも悪くない」
そんな声が廊下へ消えていく。
やがて。
会議室には岡田と米内、それに僅かな者だけが残った。
岡田は閉じられた扉をしばらく眺めていた。
「……米内」
「はい」
「一つ聞き忘れた」
米内が振り返る。
「何でしょう、岡田さん」
「艦隊はいつ出す」
「ああ」
米内は何でもないことのように答えた。
「明後日です」
岡田が眉を上げる。
「明後日?」
「はい」
「陸軍は?」
「一週間後と伝えておきましょう」
沈黙。
岡田が米内を見る。
米内も岡田を見る。
「……それでは」
岡田が言った。
「陸軍が出港する頃には、海軍は随分先に行っているな」
「彼らは後ろから来ると仰っていましたから」
米内は真顔だった。
「ご希望通りです」
岡田は数秒耐えた。
そして鼻から息を吐いた。
「お前という男は……」
「何か問題でも?」
「いや」
岡田は椅子へ座り直した。
「陸軍には全部終わった後の日程でも伝えておけ」
米内の口元が僅かに緩んだ。
「それは少々お気の毒では?」
「今さら言うな」
岡田は煙草へ手を伸ばした。
米内が少しだけ声を落とす。
「岡田さん」
「何だ」
「やはり陸さんも連れていきますか?」
岡田の手が止まる。
「どうしてだ」
「陸軍を置いていけば、また何を言い出すか分かりません」
「連れていっても何を言い出すか分からん」
「それもそうですな」
しばらく二人とも黙った。
外では東京の正月が続いている。
新聞売りの声。
自動車。
市電。
人々の話し声。
アメリカで何百万人が逃げ惑っているかもしれないなど、この街の大半はまだ知らない。
岡田が煙を吐いた。
「どうせ近いうちに内閣は倒れていたさ」
米内が横を見る。
「随分と投げやりですね」
「陸軍に不穏な動きがあるのは、お前だって知っているだろう」
「ええ」
「大臣を出さないと言われれば、それだけでも面倒だ」
岡田は苦笑した。
「それが今度は宇宙人だ」
米内も僅かに笑う。
「忙しい年になりそうですな」
「まだ二日目だぞ」
「それは失礼」
二人の間に、ほんの僅かな笑いが生まれた。
だが。
岡田はすぐに真顔へ戻った。
机の上。
アメリカからの電文を見る。
「米内」
「はい」
「お前はどう思う」
「何をでしょう」
「地球外生命体だ」
米内はしばらく考えた。
「信じてはいません」
岡田が少し意外そうに見る。
「そうなのか」
「見てもいませんから」
「なら、何故あれほど艦隊を出したがる」
「信じていないことと」
米内は電文を指先で軽く叩いた。
「あり得ないと決めつけることは別です」
岡田は黙って聞く。
「もしアメリカの罠なら、少数艦艇で確認して帰ればいい」
「うむ」
「もし内乱なら、それも確認できる」
「うむ」
「もし本当に――」
米内の視線が電文へ落ちる。
「人間ではない何かが、アメリカを滅ぼしかけているのであれば」
少し間が空いた。
「一日でも早く見ておいた方がいい」
岡田の表情から笑みが消えた。
「何故だ」
米内は窓の外を見る。
東京。
無傷の首都。
「アメリカの次が」
静かに言った。
「日本でない保証はありませんから」
岡田は何も返さなかった。
その頃。
会議室を出た陸軍軍人たちは。
まだ、ハワイをどう占領するかを話していた。
誰一人。
そのハワイのさらに東で、世界最大級の工業国家が本土そのものを捨てようとしている意味を。
本当の意味では理解していなかった。
帝国は勝ってきた。
日清戦争。
日露戦争。
第一次世界大戦。
満洲。
少なくとも。
彼らの記憶の中の近代日本は。
負ける側ではなかった。
だからこそ。
「勝てない敵」というものを想像することができなかった。
まして。
国家同士の駆け引きすら意味を持たない敵など。
なおさらだった。
二日後。
大日本帝国海軍の小さな艦隊は。
陸軍が準備を始めたことすら横目に。
ひっそりと日本を離れることになる。
目的地。
ハワイ。
任務。
アメリカが嘘をついているのか。
それとも。
世界の常識そのものが嘘になったのか。
自分たちの目で確かめるために。