書き落とされた叙事詩 作:定期的な曇らせ摂取
時間が……時間がかかる……。
「昏光の庭は此処ですか?」
第一印象は真面目そうな人でした。眠そうな顔で書物を抱えて、誰かを探す様子は少し可愛いと思ってしまう幼さがありました。
「ヒアシンシア医師、アナクサゴラス教授から届け物です」
「はい、ありがとうございます。ところで、あなたは?」
「オクヘイマから留学で来ました、イーリムウルドと申します。イルードと呼んでください」
イルードと名乗ったその人は耳飾りを揺らして笑った。特徴的な司祭の装飾に《歳月》を想起させる円盤。アグライア様が仕立てたであろう衣服が本人そのものの気質をよく表している。
「そういえば留学生が来ると聞いてましたね」
「アグライア様に暫くこちらで勉学に集中しろと言われたので」
何処か不服そうに息吐く。敬虔で真面目な司祭かと思っていましたが、意外と俗世らしい所もあって、彼に少し興味が湧きました。
「神悟の樹庭には慣れましたか?」
「……いえ」
居心地が悪そうに小さく呟くものですから、彼が萎縮した小動物に見えて仕方ありませんでした。私は彼の手を取って半ば強引に昏光の庭を飛び出しました。
「じゃあ私が案内してあげますよ、イルたん」
「イ、イルたん? 待ってください、ヒアシンシア医師!」
「イルたん、この後時間ありますか?」
「ヒアンシーか。少し待ってくれ」
微光が射す庭園に並んで座る。花の香りが優しく包む、誰も知らない秘密の場所。2人で食事をする時はいつも此処に抜け出していました。
──キュゥ。
「……すまない」
真っ赤にさせた顔を手で隠すイルたんが可愛くてつい笑ってしまう。真っ赤な彼もつられて笑う。普段は物静かな彼のふと見せる笑顔に胸が熱くなる。
「ふふ、そんなに楽しみでしたか?」
「ヒアンシーの手料理は私が今まで食べてきた物で1番美味しいから……」
「ありがとうございます。それじゃあ、いただきましょう」
それから少し、また少しと距離を縮めていきました。数刻議論を交したり、手料理を振舞ったり、とても良い関係を持っていました。
「イルたん。ありがとうございます」
「何のことだ?」
「こうして一緒にゆっくりしてくれることです。こういった時間は私にとって貴重で、とても大事なものですから」
「……皆がヒアンシーの世話になってる。私は感謝を少しずつ伝えているに過ぎない。でも、喜んでくれているのなら何よりだ」
彼の膝に頭を乗せて、暖かな光に身を委ねる。私の反対側ではイカルンが撫でられていて。2人と1匹だけの時間が過ぎていく。
「本当に……ありがとうございます……ふわぁ」
「眠っても構わないよ。少しの間だけだけど、休んでくれ」
「では……お言葉に甘えますね」
「ああ、おやすみなさい、ヒアンシー」
日々を重ねる度に私の中で彼の存在が大きくなっていく。緩やかに過ぎ去っていく時間を惜しいと思いながら、ずっとこうしていたいと願ってしまう。彼の留学が一瞬に感じるくらいには、一緒に居るのが楽しかった。
彼がオクヘイマに帰ってから刻が経ち、寂しさを覚えて始めていた頃、事件は起きました。
「すまない、通してくれ!」
「イルード、しっかりしてください!」
昏光の庭では珍しくもない急患の患者。しかし、騒ぎがいつもより大きい。数人の医師が苦虫を噛み潰したような顔で私を呼ぶ。
「ヒアンシーさん! あなたにしか治せません!」
「患者の状態はどうなってますか?」
「それが……」
「ヒアンシー! どうか彼を助けてくれ!」
ファイノンが必死の形相で運んできたのは、夥しい
「……っ! 手術室へ! 急いで!」
これまでにないくらいの大手術の末、一命は取り留めました。しかし、いつまで経っても彼は一向に起きる気配が無かった。
「……」
病室は変わらず静寂に包まれていて。手の中にある彼の体温も夢のように感じてしまって嫌になる。私に出来るのは、ただ祈るばかりだった。
「イルたん……。私は……あなたのこと」
彼のことは良く想っていたけど、これが親愛に留まっているのかどうかは分からなかった。でも、瀕死の彼を見て、喪うのが堪らなく怖いと思った。胸の中の熱が消えてしまうかと思った。私はきっと……彼を好いている。
「早く起きてくださいイルたん。やっとこの気持ちに気付いたんです。どうか早く、この想いを伝えさせてください。お願いです」
「……ぅ」
「っ! イルたん!」
祈りが届いたと喜んだのも束の間。起きた彼が放った一言は、私を深い絶望へと落としました。
「君は……誰だ?」
「……え?」
検査の結果、彼は記憶喪失でした。失ったのは直近数年の一部の記憶。真偽や範囲を確かめる為にも多くの友人が彼に前を訪れる中、私だけが彼から逃げ続けました。
開口一番に告げられた『誰?』という言葉は私の胸を、《紛争》の鋒が穿いたかのように痛々しい傷を付けました。
「ヒアンシーさん、大丈夫ですか?」
「キャスたん?」
「イルードが記憶を取り戻しました」
それが本当なら諸手を挙げて喜ぶ朗報なはず。しかしキャスたんの顔には濃い影が張り付いており、堪えるように手を握り締めている。
「……それは本当ですか?」
「はい。ヒアンシーさんのことも思い出した様子です」
「じゃあなんで、キャスたんはそんな顔をしているんですか?」
顔を上げたキャスたんの頬を伝う涙が悲しげに光る。その光景に言葉を失っていると、トリビー様が私の前に現れた。
「ヒアンシーちゃん、貴女にも説明しないといけないの。イルちゃんが受けた
そんなこと彼から聞いたことない。あれだけ一緒に居たのに、私には明かされなかった彼の秘密。恐らく私は、彼のことを何も知らないのではないのだろうか。
トリビー様の顔色からも、これから始まるお話が決して良いものではないと確信して身構える。
「呪い?」
「うん。イルちゃんは《歳月》の祝福を受けて並外れた神跡の力と、不朽の肉体を手に入れた。でも、その代償は……彼自身の記憶なの。ある日を境に、イルちゃんは無理をすると記憶を失うようになった」
「記憶……。でも、さっき記憶が戻ったと」
「詳しく言うと代償は
「
「……イルードは先程、『味覚が尽きた』と言っていました。他の感覚も……恐らく……」
「そんな……」
そんな様子今まで無かった。約束を忘れられたことはなかった。一緒にご飯を食べたら美味しいと言ってくれた。
「ヒアンシーちゃん、イルちゃんがご飯を作ってるの見たことある?」
いつの日か、さりげなく彼に手料理をおねだりしたことがある。料理は決してしないと言った彼をその時は笑って流していた。それがまさか、味覚がなかったからなんて誰が想像できるだろうか。
「ヒアンシーさん、イルードに会いに行かなくてよいのですか?」
「キャスたんは……辛くないんですか?」
顔を曇らせていた彼女が辛くないわけが無いのに、意地悪を言ってしまう。こんな時こそ、笑顔で居なきゃいけないのは私なのに。今はどうしても笑顔になれない。
「私はもう、慣れてしまいましたから」
そう言うキャスたんは重症患者のようにやさぐれてました。諦念とも言い難い感情を抱えたまま溺死してしまいそうな危うい雰囲気を纏って。胸の前で手を重ねる。
「事前に伝えておかないと、彼は彼のやり方で無理をしてしまいます。《
ああ、キャスたんはたぶん彼に伝えたんだ。『私のことは忘れても大丈夫』と。
それは……それはなんて残酷なことなのだろう。これからどれほど彼と親密になっても、代償を払う度に忘れられてしまう。共に過した日々を、指を絡めて得た体温を。
「私と同じ選択をする必要はありません。ただ私は、彼に生きて欲しい。火を追う旅路の中で別れの時が来ても、それが限りなく穏やかなものであって欲しい」
『イルたん、この後時間ありますか?』
『ヒアンシーか。少し待ってくれ』
あの日と同じ庭園に並んで座る。花の香りが優しく包む、誰も知らない秘密の場所。
「はい、どうぞイルたん」
「ありがとうヒアンシー」
あの日と同じ食事をとる。同じ景色のはずなのに、色褪せて見えるのは気の所為だろうか。
「美味しいよ、ヒアンシー」
彼は笑顔で言った。
「ありがとうございます」
私も笑顔で返した。
さあ言うんだヒアシンシア。『私の記憶を庇わなくていい。私のことも忘れて大丈夫』って。伝えようと思っていた想いを必死に呑み込んで、彼の為に言うんだ。
「イルたん」
「……ヒアンシー?」
「イルたんが私のことを何度忘れても、私は貴方に何度でも会いに行きます。だから……」
「生きてください」
自分を大切に、なんて贅沢は許されていないと思っていた。祝福が私に授けた神跡の力と不朽の肉体。トリスビアス様のように凄まじい力でもなく、モーディスの不死の肉体のように強力なものじゃない。皆が無茶というその状態で、私は何とか仲間と肩を並べている。
喪失の旅だと理解しているからこそ、出し渋って皆を危険に晒す訳にはいかない。
「生きてください」
桃色の医師は明らかに無理矢理な笑顔で切に願った。私がいずれ人として死に往く者だと知って尚、私に生きてと願った。
《過去》を薪にして生き長らえている私はまともに生きられない。親も生まれた家も憶えていない私は、この会話も消えてしまう。
目覚めた時の彼女の様子はまだ覚えている。記憶が消えたことに酷く絶望していた。そんな彼女が、私に忘れられるのを受け入れようとしている。
私は彼女にそんなことしてほしくない。
「誰かがやらないといけないことがある。私は君たちに……」
「幸せになってほしいんだ」
泣き崩れる彼女の横を通って庭園から出る。人としてまた何か失ったと実感して胸が苦しくなった。
「私は……あなたを…………」
彼女の最後の呟きは……風が遮ってくれた。