戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ   作:ルシエド

109 / 188
2

「意味が……意味が分からない!」

 

 二課司令部にて、ゼファーは弦十郎の襟を掴み、鬼のような形相で彼を問い詰めていた。

 あおいと朔也が止めようとするが、それを了子が無言で手で制する。

 弦十郎はゼファーの言葉に真剣な表情で向かい合いつつ、昔はあんなに小さくて素直だった子供が大きくなって、自分とそこまで変わらない身長で自分に掴みかかって来ていることに、少しだけ不思議な気持ちになっていた。

 

「なんで守れなかった俺が賞賛されて!

 何の力も無かった人達が罵倒されてるんですか!

 生き残るのに必死で、自分の命を守る以外何も出来なかった人達が!」

 

 人を殺しながら逃げたからだ、と言えばいい。

 だが弦十郎は何も言わず、語調を荒らげるゼファーの目をただまっすぐに見つめるだけ。

 

「俺を! 納得させて下さい!」

 

 口を開いた弦十郎の声は重く、腹に響くような低音だった。

 

「無理だ」

 

「何故ですか!」

 

「どんな説明をしようが、お前がこの現実に納得することはありえないからだ」

 

「―――!」

 

 ゼファーは掴んでいた弦十郎の服を力なく離し、うなだれた。

 弦十郎はゼファーのことをよく分かっている。

 この少年が、何を言おうが納得なんてしないことをよく理解している。

 

 ゼファーがかの災厄の中で"生き残ってくれた"と思っている人達。

 今の世論はそんな者達を人非人として罵倒し、人を殺してまで生き残った奴らだと責め立てる色に染め上げられかけている。

 生還者の家族がそれに反論しようとすると、犠牲者の遺族が生還者とその家族を纏めて罵倒し、無責任で無関係な人間がそれに乗る。

 世論が拮抗せず、一方的に生存者を人非人とする風潮が押しているのは、それほどまでにネット上に流れた"災害の中で人が人を殺している映像"が衝撃的だったからだろう。

 

「皆生きていたかっただけで……なんで、こんな……!」

 

 うつむき唸るゼファーには、認めたくない現実であるはずだ。

 災厄の中で人々が『生きることを諦めなかった』結果が、これなのだから。

 

「……俺が、どうしてたら、こうならなかったんですか……?」

 

「ゼファー。自分が何かをしなかったからこうなったとか、自分を責めるな。

 お前のせいじゃない。全員が最善を尽くした結果、守れたものもある。それを忘れるな」

 

 弦十郎は、ゼファーの頭を荒っぽく撫でる。

 

 ゼファーに、二課に、世間の全ての人々に、カルネアデスから投げかけられた問い。

 船が沈み、板切れが海面を漂い、投げ出された男が二人居ると仮定する。

 男二人は、同じ板切れに掴まろうとする。

 されど板切れは小さく、二人で一緒に掴まれば沈んでしまうことは明白だった。

 片方の男はもう片方の男を突き飛ばし、板切れに掴まる。

 板切れに掴まった方の男は生き残り、掴まれなかった方は溺れ死んでしまった。

 これを見た者に、問いが投げかけられる。

 生き残った男は、罪深き殺人者か否か?

 

 したくてしたわけではない殺人。

 人を殺したことには変わりないという現実。

 全ての『生きたいという気持ち』の味方であるゼファーに、選択が迫られていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二十四話:たった一つの冴えた贖罪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゼファーは自室にて目を覚ました。

 今の彼はバイクにも乗れない。よって、かなり早めに起きて電車を乗り継いで移動しなければならない。日課の鍛錬や走り込みも、今のゼファーには行えないものだった。

 服を着替えて、彼はふと、視界に入った写真立てを見る。

 そこにはゼファー、翼、奏の三人が映っていた。

 ちょうど去年の今日に三人で撮った写真が、先月買ったばかりの写真立てに収められていた。

 

「何笑ってんだよ、お前ら」

 

 彼が写真立てを手に取ると、写真の中で屈託もなく笑い合っている三人の顔がよく見える。

 幸せそうだ。

 本当に、幸せだったのだ。

 けれどもう、この三人で写真を撮ることはない。そう思うと、ゼファーの表情は歪む。

 

「次の年の同じ日には、こうなってるんだぜ」

 

 頭を振って、ゼファーは表情を取り繕う。

 そして写真立てを布に包んで、丁寧に引き出しの中にしまった。

 靴を履き、松葉杖を手にして、ゼファーはアパートの自室を出て行く。

 

「いってきます」

 

 そして、いつもよりずっと長い時間をかけて、二課に辿り着いた。

 まともに物を握れない今のゼファーに、お茶くみはできない。

 自然、薄手のタオルで手をぎゅっと箒に固定し、持ち手に腕を通してちりとりを運び、ひたすら掃除を行うこととなる。

 

「おはようございます」

 

「おはよう、ウィンチェスター君」

 

「おはようございます」

 

「おはよう、ゼファー君」

 

 掃除をしながら、ゼファーはすれ違う大人達に笑顔で頭を下げていく。

 どこにもおかしなところはない、にこやかな笑顔だ。

 それを見て、少し離れたところで大人達はホッとし、話を始める。

 

「よかった、立ち直れたんだな……」

「あんなことがあった直後ですからね。泣いていたら、どうしようかと」

「だが、良かったよ。見たところ元気そうだ」

 

 事件の前の、平穏で幸福と希望が漂っていた頃の二課を思い返させる、ゼファーの笑顔。

 それは二課の多くの人間には頼りがいのある、不幸を乗り越えた強い人間の笑顔に見える。

 そして一部の人間には、とても不安なものに見えてしまう。

 彼の笑顔には何一つとして変なところはない。

 だから「乗り越えたんだろう」か「いきなりこんな平気な顔ができるのはおかしい」と、見る者の反応がきっちり二つに分かれるのだ。

 掃除を続けるゼファーを遠目に見る大人の目が、そこで新たにまた二つ。

 

「……友里さん」

 

「藤尭君。念のため言っておくけど……

 あの子の前で、あの子のように笑顔を作れないなら、出て行かなくていいわよ」

 

「……いえ、行きます。行きましょう」

 

 その大人達が踏み出して、笑顔を作って、少年の前に現れる。

 

「や、おはよう」

「おはよう、ゼファー君」

 

「おはようございます。サクヤさん、アオイさん」

 

「もう退院してよかったのかい? そもそも入院してない俺が言うのもなんだけどさ」

 

「いつまでも寝てられませんよ。皆さんと同じく給料貰ってる身なんですから」

 

 一見、微笑ましいくらいに暖かく。その実互いのことを心底気遣い合っている、この上なく白々しい会話。相手を笑顔で居させるためにまず自分が笑顔を作る、そんな者達の会話だった。

 

 

 

 

 

 何でもいい。

 何かしていたい。

 仕事をしていた方が気が紛れていい。

 休むために足を止めてしまったら、もう二度と歩き出せなくなってしまう気がして、だからゼファーは日々の中で何かをし続ける。

 

「これで、一区切りか」

 

 ゼファーはリディアンの昇降口と校門の間を掃き終える。

 今は授業の一限が終わったか終わってないかというくらいの時間であり、この周辺に学生はほとんど見当たらない。

 リディアンの女生徒らがこの辺りに出てくるようになるのは、早くても昼休みからだ。

 ゼファーは箒に縛り付けていた片手を外し、松葉杖の横に置いていたちりとりを取って、手が不自由なりに掃除をてきぱきと進めていく。

 

「……」

 

 ふと、彼は振り返る。

 そこには誰も居ない。

 ゼファーがここで掃除をしている時、いつも彼女は後ろから声をかけてきた。

 今でも掃除をしていると、彼は彼女の記憶を思い出してしまう。

 彼女がひょっこり現れて、声をかけてくれるんじゃないかと思ってしまう。

 

 ふと、彼は校舎を見上げる。

 あの廊下を一緒に歩いた。あの窓枠から笑顔で手を振ってくれた。

 あの屋上で一緒に昼食をとった。あの教室に彼女の忘れ物を届けに行った。

 あの場所で、あの場所で、あの場所で、彼女の笑顔を見た記憶がある。

 

 ふと、彼は校門の方を見る。

 ふと、彼は中庭の方を見る。

 ふと、彼は校庭の方を見る。

 どこもかしこも、ゼファーが彼女と過ごした想い出だらけ。

 

 この学校には、彼女との思い出がたくさんある。

 この学校には、どこにだって彼女との思い出がある。

 この学校には、彼女との想い出があまりにも多すぎる。

 思い出す度に、彼の胸は懐かしさと悲しみで張り裂けそうなくらいに痛んでいた。

 

 周りに誰も居ないはずだと、そんな劣化しきった直感と余裕の無さからくる周囲への警戒の薄まりが、彼に涙を流させる。人知れず彼は泣き、人知れずその涙が乾くまで拭い続けた。

 

「やっぱウィンさん、天羽さんのこと好きだったんだよね」

「あんなの風鳴さんみたいなクソ鈍感以外は皆気付いてたわよ」

「それで、あれだもんね……天羽さん……」

 

 廊下の窓から、こっそり覗いている少女達が居るとも気付かずに。

 

「ねえ、最近ずっと欠席になってる席があるのって……」

「……音楽学校で、しかもここの三年生と一年生のユニットだったじゃん?

 三年生と一年生は、結構あのライブ行ってたらしいんだよね……」

「用務員さんのあの手と松葉杖って、やっぱりそうなのかな」

 

 今のリディアンの生徒達と、ゼファーは基本的に知り合いか友達である。

 彼が用務員としてここに就任した時の一年生が、今の三年生だからだ。

 頼まれれば断らず、できるかできないかにかかわらず難しいことでも一生懸命頑張ってくれるゼファーは、用務員としてというより、友達orいい人として生徒達に慕われていた。

 実年齢が近い、というのもそれに拍車をかける。

 奏への好意がバレバレだったゼファー。その奏が死んだことで泣いているゼファー。包帯で体の一部を隠し、見るからに酷い怪我の後遺症を隠して仕事をしているゼファー。

 生徒らがゼファーを災害の中での加害者ではなく、被害者と見るのは当然で。

 

「そういえばさ、A組の南居るじゃん」

「ああ、あの大人しめの文系の?」

「生き残りらしいよ。噂だけど」

「そうなの!?」

 

 十代の若者が善意から暴走を始めてしまうのもまた、必然。

 

「……やっちゃったのかな?」

「問い詰めてみよう。本当にやってたんなら……

 ニュースだと緊急避難で犯罪にはならないって言ってたから……ウィンさんに、謝らせよう」

「謝らせても死んだ人は帰って来ないけど、腹の虫が収まらないもんね」

 

 問い詰めると言いつつ、ニュースやインターネットの風評に思考を偏らされている彼女らは、既に南という少女が人を殺して生き残った人間だと決めつけていた。

 何もかもが少しづつ悪かったせいで、こうなる。

 

 災害時に人を殺して生き残った人間達も少し悪い。

 世論という曖昧なものに流され、テレビの中やネットの海で無自覚に人を傷付ける流れを生み出している、そんな大衆も少し悪い。

 世間に満ちる言葉に流され、冷静な判断力を失っている少女らも少し悪い。

 そして何より、あらゆることの間が悪かった。

 それらが纏まると、特定個人へと向かう無形の悪意が誕生してしまう。

 

「行こう。誰もやらないなら、私達がやらないと」

 

 正義感という名の、最大にして最強の悪意が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『正しい』という漢字は、"一ど止まる"と書く。

 本当の正しさとは、立ち止まり、思い悩み、迷い続ける者にしか宿りはしない。

 一度も止まろうとしない人間に、正しさは宿らない。

 自分が正しいと信じてやまない人間は、止まらない。

 ゼファーはその日の放課後、それを心底痛感することになった。

 

「ゼファーさん!」

 

「ん? あ、ユウリィさん。いつもお父さんにお世話になってます」

 

「あ、ご丁寧にどうも。こちらこそいつもお世話に……ってそうじゃなくて!」

 

 掃除中の彼に話しかけてきたのは、林田悠里。

 母が二課の末端の構成員兼リディアンの教師をやっていて、父が一課として先日の災厄の中でも多くの人を救っていた、そんな両親を持つ少女。

 そして、ゼファーにとっては天羽奏を共通の友人とする少女の一人だ。

 彼女はやや天然が入った様子でゼファーに丁寧な挨拶を返すが、すぐに慌てた様子に戻る。

 そのただならならぬ様子に、ゼファーは気を引き締めた。

 

「どうしたんだ?」

 

「えーっとどこから話したらいいんでしょうか……

 その、A組の南さんが、先日の大事件での生き残りなんだって、そう騒がれて……

 他のクラスからの呼び出しがあって。それでその人達が南さんを問い詰め始めて……

 そうしたらその女子の人達が大声を出して、次第に人が集まってきて、大変なことに!」

 

「!」

 

「大勢の生徒が南さんを囲んで人殺し、人殺しって叫び始めてるんです!

 私、自分一人じゃ何も出来なくて、どうしたらいいのか分からなくて、ここに……!」

 

 ゼファーは箒とちりとりを放り出し、松葉杖を片手に動き出す。

 歩ける人間が松葉杖を使うのは本来いいことではないのだが、再生能力で肉体の歪みと偏りが常時保持され続けてしまう今のゼファーには必須だ。

 これがあるのとないので移動にかかる時間と労力がまるで違う。

 一刻も早く行かなければと、ゼファーは以前ほど言うことを聞かなくなった身体に鞭を打つ。

 

「教えてくれてありがとう。その場所まで案内してくれ!」

 

「こっちです!」

 

 向かう先は、体育館。

 

 

 

 

 

 最初は三人の名も無き少女達から始まった。

 少女達が体育館に南という少女を呼び出し、問い詰め、次第に声を荒らげた三人の少女の声につられ、人が集まり始める。

 人が集まると噂になり、行ってみようと思い集まる野次馬も増える。

 放課後の体育館はそんな女生徒達で埋め尽くされ、100をゆうに超える人間が流されるままに殺気立ち、その全員が南という少女を囲んで罵倒していた。

 

「謝りなさいよ!」

「そうよ、人を殺して生き残ったんでしょ!」

「死んだ人達や、人を殺さなかったせいで大怪我を負った人達に申し訳ないと思わないの!?」

 

 彼女らには、根拠もなく言うには過激すぎる言葉を吐いている自覚がない。

 無傷な南が人を殺したという確信、傷だらけのゼファーは誰も殺していないという断定、そこに何の理屈も証明も無いことに気付けない。

 南という少女の友達の一部は流れに逆らうだけの勇気を出せず、一部は大多数に流されて"なんとなく友人として失望した気"になってしまい、彼女のことなど何も知らない赤の他人がわらわらと集まって来て、南を罵倒する。

 体育祭や文化祭、夏祭りなどの時と同じだ。高揚する気分、多くの人達と気持ちが一つになっているという一体感が、子供達の背を無責任に押していく。

 

「『生き残ってごめんなさい』って謝りなさいよ!」

 

 まるで、ツヴァイウィングがライブをしたあの時の、一体感に満ちた人々のように。

 

「……」

 

 視界を埋め尽くす、体験と実感を持たない、正義と怨嗟を口にする女生徒達。

 それを見て、南は空っぽな笑みを浮かべて、何の感情もこもっていない言葉を口にした。

 

「……どうせ、みんな、いなくなるのよ」

 

「何?」

「何言ってんだ、こいつ……」

 

 この場に、あの災厄の地に居た者は南ただ一人。

 死んでいった人の話も又聞きで、傷付いた人の話も又聞きで、生きて帰って来た人達の話も又聞きな"赤の他人"の彼女らには、その笑いの意味が理解できない。

 

「あはは……ねえ、分かる?

 炎がバーって燃えてさ、人が燃やされるの。

 目とか、喉とか、痛そうな場所を最初に優先して燃やすの。それで、殺すの」

 

 災厄を生き残った者にとっても、あの世界は地獄だった。

 あの時の記憶は、思い出す度に背筋を震わせるおぞましき想い出だった。

 

「逃げるとね、追って来るの。私の走る速度に合わせて。

 もっと速く動けるのに、私をいたぶるためにゆっくり迫って来るの。

 私の隣で同じように走ってたおじさんがね、耐えられず狂っちゃうの。

 狂っちゃったおじさんは振り返って、炎に飛び込んで、そのおかげで私は助かるの」

 

 災害の中で心が壊れかけてしまう人間は、少なからず居るものだ。

 

「一瞬で燃え尽きる人の横で、悲鳴を上げながらジューって焼かれてる人が居て……」

 

 『生き残った』ということは、『救われた』ということを意味しない。

 

「誰も正気じゃ居られないのよ。

 自分を殺そうとする、人じゃない"恐ろしい何か"を目にすると」

 

 半笑いで周りの人間を見渡し、その誰とも目を合わせない南は言う。

 この状況に何の恐怖も、怒りも、理不尽さも感じていないような顔で言う。

 

「知ってる? この世界って、生きてるだけで怖いんだよ?」

 

 『ネガティブフレアを間近で見た子供がどうなるのか』ということを、その少女は身を持って証明していた。

 

「みんな、みんな、いつか死んじゃうのよ……」

 

 女生徒達は彼女の異様さに一瞬怯み、互いに顔を見合わせる。

 集団の流れが、熱が、狂気が、ほんの僅かに薄れた。

 

「な……何気持ち悪いこと言ってんのよ!」

「話逸らさないで!」

「今はあなたの話をしてるんでしょ!?」

 

 だが、止まらない。

 被災者の痛々しい言葉に多少面食らったようだが、集団は止まらない。

 少女達の胸に一瞬、自分達が盲目に浸っていた"正しいこと"への迷いが生まれるが、すぐに集団心理によってかき消されてしまった。

 

 これは一見、極稀にしか見れないような集団心理の暴走にも見える。

 だが違う。

 今、この日本において、いくつもの学校で見られ始めている光景だ。

 "テレビやネットで皆がそう言っているから"。

 "友達やお父さんやお母さんがそう言っているから"。

 そんな理由で暴走した子供達による、被災者でもなんでもない無関係な人間達による、被災者への罵倒と加害。

 

「―――!」

「―――!」

「―――!」

 

 それらが『自分達の方が多数派』という心理、『自分達の方が正しい』という心理に後押しされて、『人殺しを糾弾する』という目的意識のもとに一つにまとまっていく。

 流されるだけの心が、相乗効果で殺意にまで至りそうになり――

 

「やめろッ!」

 

 ――少女の集団と、一人の少女の間に割って入った一人の少年に止められた。

 

「おい、あれ……」

「ゼっさんだ。退院してたんだ……」

「あの松葉杖と包帯……」

「ウィンさんがなんでここに」

 

 集団の勢いが止まる。熱が引く。狂気が思考に追いやられていく。

 ざわめきが広がり、それぞれが思い思いに隣の人間に話しかけ始める。

 流れが変わった。

 

「これは何の騒ぎだ。俺に説明してくれ」

 

 ゼファーを知らない生徒は少ない。

 彼の痛々しい姿も相まって集団の中に戸惑いが広がり、迷いが生まれ始める。

 そんな中、発端となった少女の一人が、彼の前に進み出た。

 

「だって、ウィンチェスターさん、とっても苦しそうだったから」

 

「……え?」

 

 その少女の顔に浮かんでいるのは、義憤と正義感。

 前提と思い込みが全て間違っているという点に目を瞑れば、その感情は間違ったものではない。

 

「苦しんでる人が、被害にあった人が!

 大切な人が死んじゃった人達が、何も言わず泣き寝入りするくらいなら!

 怒らないあなたとか、他の人のために、私達が怒ってあげたいって、そう思ったんです!」

 

 だが、感情にしか正しさの存在しない行動に、愛はない。優しさはない。許しはない。

 そういった行動は、人を傷付ける結果しか生み出さない。

 

「正しく、優しく生きてる人が苦しんでて、そうじゃない奴だけが無傷だなんて!

 誰がどう考えたって、おかしいじゃないですか! 理不尽ですよ!」

 

「……!」

 

 現に、今この瞬間。

 彼女らが"ゼファーのため"と始めた行動は、強烈にゼファーを傷付けていた。

 

(そうか)

 

 ゼファーは災厄の生き残りを責めるこの空間が。

 100をゆうに超える集団が一人を寄ってたかって囲むこの状況が。

 自分のせいで生まれたことを、知ってしまったのだから。

 

(この惨状は、俺のせいか)

 

 ゼファーは、口を開いた。

 

「お願いだから」

 

 声が震える。

 目頭が熱くなる。

 肩が揺れて、ロクに動かない片手でかきむしるように胸を掴む。

 周りの女生徒達が自分を見て目を見開いているのを、不思議に思う。

 意識が自分の中だけで完結しそうになるのを必死で押し留めながら、彼は絞り出すような声を吐き出した。

 

「あの事件のせいで傷付いた人を増やすのは、もうやめてくれ……!」

 

「―――」

 

 この場に居た者達の内、どれほどの人間が心底驚愕したことだろう。

 あのゼファー・ウィンチェスターが、涙を流している。

 この場に居た全員が、初めて見たゼファーの涙に、心打たれていた。

 

 各々がその涙に、彼との記憶を重ねていた。

 

 とある一年生は、彼と天羽奏に教室まで案内してもらったことを思い出していた。

 心細かったあの日に、助けてもらったことがとても嬉しかったことを、覚えている。

 とある二年生は、彼に部活の場所を整えてもらったことを思い出していた。

 部活をしたいというその二年生の願いを聞き、色んな先生に掛け合ってくれた上に、重いピアノを一階から三階まで息を切らして必死に運んでくれた時の彼の姿を、覚えている。

 とある三年生は、ぼっちだった三年間を思い出していた。

 自分が特別な扱いをされているのではなく、皆と同じような扱いをされているのだと分かってはいても……それでも、三年間彼が自分を友人として扱ってくれたことを、覚えている。

 

 ゼファーの涙が、涙が引き出す想い出の想起が、彼女らの足を止める。

 彼の口にした「もうやめてくれ」に込められた切実な思いが、彼女らの手を止める。

 それはある意味、頭に血が上った殺人者が、"人を殺してしまった"と一瞬で我に返る時の過程にとてもよく似ていた。

 

「誰も傷付くことのない、皆で笑える時が来ないと、俺は、笑えない……!」

 

 そしてその一言で、熱に浮かされていた全員の頭が一斉に冷えて我に返る。

 奇しくも、ゼファーがリディアンで重ねてきた、何の変哲もない特筆すべきこともないような日々が、彼の言葉を彼女らに届けるという形になった。

 誰もが思ったのだ。

 「彼を泣かせてまで、自分達は何をしたいのだろうか」、と。

 

 そこに、タイミングを見計らって動いた少女が一人。

 

「ごめんなさい、南さん! 私、みんなと一緒にあなたに酷いこと言っちゃった!」

 

 頭を深々と下げ、謝る少女に視線が集まる。

 それを見て、涙を流すゼファーは言葉なく驚いた。

 頭を下げているのは、林田悠里だ。南という少女に何も言っていない少女だったのだ。

 天然でお子様で困ったちゃんな面しかゼファーに見せたことがなかった彼女だが、彼女の両親はとても優秀だ。彼女がその血を引いていないわけがない。

 今、この瞬間。彼女が根も葉もない汚名を被って"謝った"ことで、この場は彼女がコントロールできる状況になった。

 

「私が悪かったの……ごめんなさい……」

 

 悠里が謝ると、一部の「自分は今とんでもないことをしてたんじゃないだろうか」とうっすら思っていた人間が、悠里に続いて謝り始める。

 右ならえな人間もそれに続く。

 ゼファーが皆の頭を冷やした瞬間に、悠里が作り上げたこの空気。

 この中でさっきまでと同じように、南という少女を罵倒することはできまい。

 しようとしても、誰かが止めに入って先ほどまでのような流れにはならないだろう。

 

 これは悠里の功績だが、彼女もこの功績を誇ろうとはしないだろう。

 ゼファーがやめてくれてと、そう皆の前で言った瞬間に。

 彼の涙を皆が見たその瞬間に。

 この正義と悪意の茶番は、皆の良心によって粉砕されていたのだから。

 

「……」

 

 南と呼ばれた少女は、何の躊躇いもなく人の壁に向かって足を進める。

 人の壁が割れ、道ができる。女生徒達の「人殺しに近付くのが怖い」という意識が、そこで初めて目に見える形で見て取れた。

 殺されることを恐れる心が作った道を少女は進み、ゼファーがその後を追う。

 ズタボロになった少年の脚力では、体育館の外で少女に追いつくのがやっとであった。

 

「ちょ、待ってくれ」

 

「今ので、私が喜んだと思う?」

 

「え?」

 

「あの災厄の時と同じ」

 

 ゼファーの呼び止める声に、南は振り向いて言葉を返す。

 その声には"ありがとう"といった感謝の色も、"よけいなことをしてくれた"といった悪意の色もなく、無味乾燥で人らしさの薄い感情の色があった。

 

「助けに来てくれた誰かが居て、私は助けられて。

 それでも、私は救われた気になんて、まったくなれない……」

 

「―――」

 

 緒川に救われた者も居る。

 ナイトブレイザーに救われた者も居る。

 甲斐名や天戸、一課や二課の者達に命がけで助けられた者も居る。

 それでも、救われたのは命だけ、という者も居る。

 この少女はこの先何年も悪夢の記憶に苦しみ続け、何年も治療のために苦痛と戦い続け、その結果まともな日常生活を取り戻せないという結果を突き付けられてしまうかもしれない。

 彼女は、まだあの災厄から救われていないのだ。

 家族や友人が、長い年月をかけて癒してやるしかないだろう。

 

「でも」

 

 少しだけ壊れた少女は、ほんの僅かに申し訳無さを顔に浮かべて、ゼファーに対する申し訳無さを言葉に秘めて、自分が生き残ったことを嘲った。

 

「私じゃなくて、天羽さんが死んじゃって、本当に残念だったね。それは、可哀想だと思う」

 

 その言葉を、他の誰でもなく、天羽奏に恋していたゼファーが叫んで否定する。

 

「人が生きていてくれたことに、残念なわけがあるかッ!」

 

 少女は何も応えない。

 少年の言葉も行動も、その少女を救わない。

 少女が去って、その場には少年だけが残された。

 

 今、この国に何千人、あるいは何万人も居るであろう災厄の被害者。

 "心を救われなかった人達"。

 ゼファーにはそれが、己の眼前に突き付けられているように感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕暮れ時にカラスが鳴いている。

 ゼファーはベンチに座り、それを見上げた。

 タラスクと万のノイズをナイトブレイザーの力で倒し、平和を掴み取った日にも、ゼファーはこのベンチに座っていた。

 あの時は隣に風鳴弦十郎が居た。

 今は隣に藤尭朔也が居る。

 男二人が並んでベンチに座り、あの時とはまるで違う心境で、公園を見つめている。

 

「この世界に、どのくらい他人の罪を責めている人が居るんでしょうね」

 

 ゼファーは今日、学校であったことを朔也に話していた。

 あれだけ大きな騒ぎになったのだ。大人にも事情を話さなければならないのは当然のこと。

 

「自分が相手よりも清廉潔白な人間だって疑いもせず。

 だけど、それはその人達が思い止まれるだけの強さを持っているってわけじゃなく……

 ただ幸運なだけで、『そういう状況』に置かれたことのない人達なんだってだけで」

 

 ゼファーは罪のある人を責める罪のない人に対し、敵意を持っているわけではない。

 ただ、災厄に大切な人を奪われた人が、災厄に同じように襲われた人に対し憎悪を抱いているこの状況が、それに流されるだけの無関係な人達が、ただ悲しいのだ。

 胸を掻き毟りたくなるくらいに、悲しいのだ。

 

「食べ物にも困ったことのない先進国の人間が……

 発展途上国で親の肉を食って生き延びた子供を、人の心が無い獣扱いする、みたいな……」

 

 ゼファーは、以前読んだ本のことを思い出していた。

 "食べ物が無いからといって親の肉を食べるとは何事か"と罵倒する著者の主張に共感できず、途上国の端で育ったゼファーは、むしろその親の肉を食った子供に共感してしまった記憶がある。

 罪のない綺麗な身の上の人よりも。

 罪のある穢れた者達に、ゼファーは共感してしまう。

 

「傷が無い人が、傷のある人を醜いと罵倒している」

 

 もしもこの国にあの調が居たら、何て言っただろうかと、ゼファーは思う。

 彼女は大人が嫌いで、傷の無い人が嫌いで、条件無しに幸せな人が嫌いだった。

 そして何より、偽善者が大嫌いだった。

 正しさを掲げる加害者が大嫌いだった。

 ……凄い言葉を吐きそうだと、ゼファーは思う。

 数年越しに、ゼファーは月読調の在り方に共感するのだった。

 

 そんなゼファーに、朔也は手にした缶コーヒーをゼファーに渡し、自分の分の茶の缶を開ける。

 

「誰もが君みたいな人間にはなれないさ。

 傷付けられ、酷い目に合わされ、それでも手を止められる人でもないと。

 それに……何だって許せる、誰だって許せることが、単純な美点であるわけでもないしね」

 

「そうなんですか?」

 

「『皆の味方』より『あの子の味方』の方が単純で楽だ。

 二つの勢力があったら、間に入って仲裁するよりどっちかに属する方が楽だ。

 それに、楽だけじゃなくて健全だしね。無理するってことはどこかに歪みが出るってことだし」

 

 今のゼファーがまさにそうだ。

 リディアンの生徒達がゼファーに好意的だったからこそ、今日の論争はひとまず丸く収まったものの……このままゼファーが手を広げていけば、大変なことになるのは目に見えていく。

 朔也には見える。

 かの災厄の結果で生まれた、加害者と被害者。

 そのどちらもを傷付けないよう、両者の間に入ろうとしてしまえば、待つのは笑えない結末だ。

 

「皆好き、よりあいつは好きであいつは嫌い、の方が健全だ。

 皆許せる、よりあいつは許すがおまえは許さない、の方が健全だ。

 大切なのは妥協すること。折り合いをつけて、『しょうがなかった』って考えることだよ」

 

 今日リディアンであったという事件の内容を聞き、朔也は確信を深める。

 ここで止めなければ、ゼファーは更に傷付いて行く。

 どこまで耐えられる?

 どのくらいの傷までなら大丈夫?

 それが分からない朔也は、彼が行き過ぎないよう、言葉をかけ続けるしかない。

 

「自分に関しても妥協しなよ。しょうがなかった、ってさ」

 

 あの人達が死んでしまったのは、しょうがないことだった。

 人と人が分かり合えず傷付け合うのもしょうがないことだ。

 被災者の生き残りが迫害にあうこともしょうがないことだ。

 

 そう考えて生きることは楽だ。

 今よりずっと楽な生き方ができれば、彼も無理をせず生きていけるはず。

 というより、こうして"しょうがない"と妥協しなければ、どんな人間も生きてはいけない。

 程度を知り、妥協を覚えることを『大人になる』と言う人も居る。

 

「……妥協、ですか」

 

 その生き方を、ゼファーが受け入れられるかは、別として。

 

(でも、それは……)

 

 でも、それは。楽であっても、楽しくはない生き方だろう。

 少なくとも、彼にとっては。

 

(頑張ろう。頑張らないと。頑張らなきゃ、最後に苦しくなるのは俺……で……)

 

 空になった缶をゴミ箱に投げ捨てようとして、振り上げられたゼファーの腕が止まる。

 公園の端に向いた、ゼファーの視線が止まる。

 それを見たゼファーの、思考が止まる。

 

「え?」

 

 認定特異災害『ノイズ』が、そこに居た。

 

「なっ、ノイズ!? ゼファー君の勘は……ああ、そうだ、今は!」

 

 ゼファーのARMへと進化した直感は、アウフヴァッヘン波を周囲に投射する肉体があって初めて機能する。今のバグだらけの肉体でそれができるだろうか?

 否。絶対に不可能だ。

 今日まで、ノイズが出現する前にその出現を予知していたゼファーが居たからこそ、日本におけるノイズの人的被害は年間通して0という、驚異的な数字が並んでいた。

 だが、それも今日までのこと。

 ゼファーがその力を失った以上、ノイズによって人が無慈悲に殺される世界が、この地に蘇る。

 かの災厄をきっかけとして、ノイズの脅威までもが、その息を吹き返してしまった。

 

 ノイズ警報が鳴り響く。

 人々の悲鳴が続いて響く。

 虫のような機械のような小さな音が、ノイズの内部より漏れていた。

 

「サクヤさん! 本部に避難を! ここは俺が!」

 

「分かった! ちょちょいのちょいでやっつけてやってくれ!」

 

 朔也が走り出したのを見て、ゼファーもノイズに向かって走り出す。

 

(マズいな……ARMが使えないと離れたノイズの位置も正確には把握できない……!

 出遅れたのもある。取りこぼしが出れば、それだけでノイズの犠牲者が……!)

 

 そしてノイズの眼前で、右手を拳に、左手を掌底に。

 胸の前で打ち付けて、全身に聖遺物の力を流す。

 そうして、彼は――

 

「―――あ?」

 

 ――変身もできず、全身に走る激痛に一瞬意識が飛び、無様にその場に転がった。

 

「……え……あ……が……?」

 

 倒れるゼファーに、ノイズが迫る。

 

「い、ぎ、づ……!」

 

 踏ん張り立ち上がろうとするも、全身に力が入らない。

 目の前に迫った美味しい獲物に、ノイズが群がって、そして……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 包丁を砥石で研ぐような音。

 音は一度。されど斬撃は複数。

 ゼファーを殺さんとしていたノイズは、その場で一匹残らず両断されていた。

 

「ツバ、サ……」

 

 ゼファーの視線の先には、青い髪と青いシンフォギア。

 凛としていて、今日までロクに言葉も交わしていなかった少女が居た。

 なのに彼女は、以前とはまるで別人だった。

 立ち振る舞いが凛としているのはいつものことだが、今日はその口から出る言葉までもが、凛としているように聞こえる。

 

「そこで寝ていなさい」

 

 久方ぶりに翼から欠けられた言葉は、あまりにも凛とし過ぎていて、冷たさを感じてしまうくらいの口調だった。

 

「この戦場(いくさば)に、あなたのような怪我人が居るのはそれだけで邪魔よ」

 

 翼はノイズと、それに襲われている人々を見る。

 そしてシンフォギアの機密を守るため、誰の目にもつかないように移動した。

 

「ツバサ……」

 

 ゼファーは痛みに呻きながら、去っていく翼の背に向かって手を伸ばす。

 だが、届くわけもなく。

 やがてゼファーは立ち上がる力を絞り出すこともできぬまま、ポケットの携帯端末を取り出し、ボタンを押すのにも苦労しつつ二課本部へと電話をかける。

 

「こちらゼファーです。了子さんに繋いで下さい」

 

『はいはーい、繋がりましたー。

 ……このタイミングってことは、予想できちゃうのが嫌ね。要件は何?』

 

「実は―――」

 

 身体に走る激痛。

 変身ができないこと。

 ゼファーは自分の身に起こったことを了子に話し、何が起こったのかを知るために、彼女の助言を求めた。

 

『……いい? ゼファー君? ヤケにならないで、よく聞いてね』

 

 ゼファーは何もかもを失った。

 

『それはおそらく、あなたの精神と肉体の不一致が原因よ』

 

「精神と肉体の、不一致……?」

 

『今のあなたは肉体そのものが聖遺物。

 肉体の状態も、精神の状態も、極めて絶妙なバランスで均衡を保っていたのよ。

 だから肉体が壊れている状態で、精神がその破損を認めていなければ……

 肉体を内的宇宙と外的宇宙で裏返すナイトブレイザーへの変身のような技は、使えないのよ』

 

 それは、"ナイトブレイザー"ですら例外ではなく。

 

『だって、精神がエネルギーを流そうとしても、肉体はその構造をとってないんだもの。

 普通の人間でいうところの幻肢痛(ファントムペイン)と同じね、これは。

 足を手術で切除した。でも患者は足が無くなったことを受け入れられない。

 だからいつまでたっても、"無いはずの足"が痛むっていう、あの厄介な症状よ』

 

「受け入れてないって、俺は、別に……」

 

『嘘ね』

 

 聖遺物の肉体が発生させたファントムペイン。それが、今の彼を蝕んでいるもの。

 

『腕と一緒に無くしたもの。

 奏ちゃんが死んでしまったこと。

 受け入れてないでしょう? 受け入れられるわけがないでしょう?

 こんな、短期間に。あなたが変身できないのは、それが理由よ』

 

「―――ッ」

 

『あなたは、"欠損"を受け入れていない』

 

 大切な人の喪失、大切なものの喪失。それが、今の彼を蝕んでいるもの。

 

『奏ちゃんの死と、腕から失われたもの。

 その喪失と欠損を心が受け入れられない限り、あなたはもう変身できないわ』

 

 ゼファー・ウィンチェスターに、天羽奏の死を受け入れろと、櫻井了子は言う。

 それがどれだけ無慈悲で残酷なことを言っているのか、彼女は分かっているのだろうか?

 

『……だから、しばらく変身するのは諦めなさい。

 ゆっくり心を癒やすのよ。他の誰が許さなくても、私が許すわ。

 あなたがちょっとの間抜けた穴くらい、埋められない大人達じゃないんだからねっ』

 

 分かっているに決まっている。

 だからこんな言葉が出てくるし、そのために頑張ろうともしてくれるのだ。

 ゼファーは言葉なく、通話を切った。

 

(……奏さんの、死を……)

 

 受け入れられれば、今すぐにでも戦える。

 今すぐにでも、たった一つ残った自分の価値を証明できる。

 そう思いながらも……ゼファーの心は、奏の死を受け入れることなんて出来やしなかった。

 

「……畜生! そんなこと、できるわけないだろッ!」

 

 過去は過去。そんなことは分かっている。

 今すぐにでも出ていかなければ、死んでしまう人が出る。そんなことは分かっている。

 ただ受け入れるだけ、誰かが死ぬわけじゃない。そんなことは分かっている。

 なのにゼファーは、その死を受け入れられない。

 合理的に自分を納得させられない自分が情けなくて、憎らしくて、大嫌いで。

 ゼファーは拳を地面に叩きつけ、嘆く。

 

「なんで俺はこんなに弱いんだ……心が弱いんだ……!

 カナデさん……! なんで俺の方が生きてて、あなたの方が、死んじゃったんだよ……」

 

 ゼファーが泣きそうな顔で空を見上げる。

 そこでは、誰の目にもつかないように、さほど多い数ではなかったノイズを殲滅する翼の姿があった。

 

「『千ノ落涙』」

 

 翼の背後に無数の剣が生成され、ノイズの群れに向かって落下していく。

 小型ノイズはその一撃で、一匹残らず掃討された。

 

「『天ノ逆鱗』」

 

 残った一体の大型ノイズも、翼が巨大化させた剣をキックで押し込むと、一撃にて破壊。

 淡々と、淡々と翼はノイズを片付け、三分とかからずノイズを殲滅させていた。

 局所的な出現、かつ数が少なかったとはいえ、以前の翼には到底不可能だったスピードだ。

 

 ゼファーが見た二つの技。千ノ落涙と、天ノ逆鱗。

 彼にはその技を翼が習得した意味を、痛いくらいによく理解できた。

 広範囲への殲滅技と、一撃必殺の大技。

 それは今までの翼が習得の必要がないと判断していた技であり、天羽奏が得意としていた技の系統であり、ゼファーが得意としていた技の系統だった。

 仲間達で助け合い、補い合う限り、翼には必要のないものだった。

 それを翼はこの短期間で習得し、実戦レベルにまで昇華させてきたのだ。

 

 今の翼は、奏やゼファーの援護がなくとも一人で戦っていける。

 今の彼女は、いつまでもたった一人で戦っていくことができる。

 今の彼女には、ナイトブレイザーの助けは必要ない。

 

 翼が習得し、ゼファーに見せつけたその技が、何よりも明確な彼へのメッセージとなる。

 

「……ああ」

 

 木に背中を預けて立つゼファーは、呆けた声を出して、変身を解いた翼が迫って来るのを目にする。冷たさすら感じるくらいに厳格な雰囲気をにじませた翼は、彼の前で口を開いた。

 

「帰りなさい。この戦場で、あなたができることはもう無いわ。この先も、ずっと」

 

 人の気配が増えてくる。

 一課の生き残り、二課の生き残りが、事後処理のために集まって来たのだろう。

 避難誘導を始めとする人助けですら、今のゼファーには荷が重い。

 今の彼に、戦いの場でできることは何一つとして存在しない。

 

「二課の後方の仕事をするようにしなさい。

 もう戦場には出てこないで。今のあなたが出てきても足手まといなだけ、迷惑なだけよ」

 

 翼は冷たく言い放つ。

 

「私はもう一人で戦える。私にはもう、あなたは必要ないわ」

 

 お前はもう必要ないと、言い放つ。

 

「……ツバ、サ」

 

「さようなら。私は先に帰るから」

 

 去っていく翼の背中を見送って、ゼファーは木に背を預けたまま、ズリズリと落ちて行き、尻もちをつく。必要ないと、そう言われた。

 それを妥当だと理解する理性と、張り裂けそうな痛みを生む感情が、心の中を駆け巡る。

 今、ゼファーは自分の中に存在価値を見い出せているのだろうか。

 否。断じて否だ。

 自分の心を支えるものが次々と折れて行き、彼の心は揺らぎに揺らぐ。

 

 それでも、心は折れない。

 

「……俺、なんなんだろうな……」

 

 自分の手の平を見て、弱音は吐く。

 

「今は、なんのために、生きてるんだろうな……」

 

 それでもゼファーは絶望に堕ちきることはせず、心折れることはない。

 その痛みは、苦しみは、悲しみは、本物だ。

 が、彼はやせ我慢で立ち上がる。

 

「帰ろう。まだ、俺にできることもきっとある」

 

 自分にできることをする。

 その言葉を胸に、彼は前を向いた。

 

 

 

 

 

 そんなゼファーは、数分後には片手に松葉杖、片手に白い子犬という状態で息を切らして走っていた。片手の子犬は、血に濡れている。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……!」

 

 日は沈み、辺りはすっかり夜になってしまっている。

 だけどこの時間にやっている動物病院がまだあることを、彼は知っている。

 ノイズが壊した街の瓦礫が潰した子犬のか細い悲鳴を、彼が聞き取れたのは偶然。

 彼が瓦礫をどけた先、そこに居た子犬が"ハンペン"を思わせる白い子犬だったのも偶然。

 その子犬を助けてやれる立場に居たのが、ゼファー一人だけだったのも偶然。

 

 その偶然を、ゼファーは運命だと思った。

 

(助けたい……生きて欲しい……こんな今の俺でも、きっと……!)

 

 息を切らせて、動物病院へ。

 再生能力のバグのせいでまっすぐに立てもしない肉体を走らせ、動物病院へ。

 今の自分にできる全速力で、彼は走った。

 

「すみません! 急患いいですか!」

 

「ん? ! 事故にあった子犬か、見せてくれ!」

 

 運良く、彼は動物病院の前で打ち水用の桶と柄杓を片付けていた医師を見つけた。

 ゼファーは思う。

 運がいい。きっと、助かる。

 ハンペンとの時は助けられなかったけど、今度はきっと……

 あの時は助けられなかったけど、今度はきっと……

 あの人は助けられなかったけど、今度はきっと……

 今の自分だって、きっと、命を……

 

「……残念ながら、もう死んでいるな」

 

「……え?」

 

「この分だと、事故のすぐ後には死んでしまっていたようだ」

 

 そんな幻想は一瞬で打ち砕かれて、ゼファーは現実を突き付けられた。

 気付いていなかったのは、彼だけだ。

 見つけた時点で、その子犬が手遅れだったこと。

 彼がずっと、子犬の死体を持ったまま必死に走っていたこと。

 助からない命のことを思い、意味もなく必死に足掻いていたこと。

 気付いていなかったのは、彼だけだ。

 

 死の痛みは、繰り返す。

 

「……死体はこちらで処理しておくよ。いいね?」

 

 やけに優しい医師の声に、ゼファーは無言で頷く。

 また死んだ。また助けられなかった。

 胸の痛みに歯を食いしばって耐えながら、ゼファーは顔を上げて前を向く。

 

 前を向いて、そこでゼファーは自分の両手に気がついた。

 ずっと死体を抱えていて、最後に両手で医師に子犬を渡したせいか、その手は血に濡れていた。 死体を抱えた者の手は、こうなる。

 人を殺した者の手は、こうなる。

 ゼファーはそれをよく知っている。

 フィフス・ヴァンガードでは、そうだったから。

 あの地では、自分の手はずっとこうだったから。

 

―――お前のその手は、何も繋げはしない

 

 魔神の言葉が脳裏に蘇って、やけに現実感のある言葉として心に染みて行く。

 

「人に触れちゃいけない燃える手の次は、血に汚れた汚い手か……

 案外、俺にお似合いの醜い手だったりしてな……あっはっはっは……」

 

 冗談めかして笑い飛ばそうとして、笑い声に力が入らなくて、余計に気持ちが滅入ってしまう。

 頑張ろう、頑張らないとと、ゼファーは自身を鼓舞して行く。

 それでも流石に、限界だった。

 今の件は、彼にあまりにも多くの死を想起させてしまった、

 

 もう後一押しで大変なことになってしまいそうなくらいに、彼の心は追い詰められていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だから、ここが転換点。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゼファーの血に濡れた手を、前から歩いてきた女性が手に取る。

 

「え?」

 

「この手が汚い? 醜い? 違う。

 この手が綺麗でないのは、どこにだって、誰にだって、手を差し伸べ続けたからだ」

 

 ゼファーが前を見れば、そこに立っていた女性は言葉にしようがないくらいの美人だった。

 絹糸のような髪。金色の目。

 どこか浮世離れした、神秘的な雰囲気すらある。

 

「自身を貶めるのはやめろ。そこに価値があったなら、お前はそれを自ら捨てているのだ」

 

 そして、何故だろうか。

 ゼファーは、その女性に対し他人の気がまるでしなかった。

 

「あの、あなたは……? それに、その、手が汚れますよ」

 

「汚れたなら、洗えばいい」

 

 女性はゼファーの手をとったまま、その手を引いていく。

 そして公園に入ると、そこの水道で彼の手を丁寧に洗い始めた。

 まるで小さな子が母親や姉にそうしてもらうような格好に、ゼファーは照れくさくなる。

 けれど、何故か悪い気はしなかった。

 

「汚れたなら洗えばいい。手を汚して、足を洗うなんて言葉もある。

 償う気持ちがあるのなら、洗い流そうという気持ちがあるのなら。

 過去にどんなに大きな罪を犯していたとて、許される機会はあるべきだ。

 そうだろう? ゼファー・ウィンチェスター」

 

「! やっぱり、なんでかは分かりませんが、俺のことを知ってて……」

 

 ポケットから取り出したハンカチで彼の手を優しく拭い、女性は彼に語りかける。

 

「私は大抵のことは知っている。お前の、心の中の声とてな」

 

「……んな、バカな」

 

「そうだな。他の人が言い当てていないような、一番面倒そうなのを一つ」

 

 人差し指を唇の前に当てる仕草ですら、妖艶。

 

「貴様、死んでいった人達が皆、あるいはほとんど、自分を許していないと思っているだろう」

 

「―――」

 

「そして死人に口がない以上、自分がその人達に永遠に許されないとも思っている」

 

 自分を永遠に許せないのが彼の人生だ。

 

「お前は人生の中で、自分を永遠に許せない。違うか?」

 

 そして彼女は、彼のことを心の一部であれば、彼以上に理解している。

 

「……」

 

 ゼファーの沈黙は肯定であり、困惑だ。

 彼女が言うことが正しかったから、そして自分自身でも自覚していなかった部分までもを自覚させるほどに正しかったから、困惑している。

 今はもう見なくなったものの、ゼファーは昔はよく、死んで行った者達が自分を闇の泥の中に引きずり込む夢を見ていた。

 死んで行った者達に罵倒される夢をよく見ていた。

 死者に許されていると考えている者が、そんな夢を見るはずがない。

 

「そうそう。まだ名乗っていなかったな。私の名は『フィーネ』」

 

 だが、彼のそんな苦悩の様子はお構いなしで、女性は話を前に進めていく。

 

「願いを叶える、蛇の魔女だ」

 

「……え?」

 

「お前の悲痛な願いに応え、お前の願いを一つだけ、曲解して叶えてやろう」

 

 彼の困惑なんてお構いなしで、彼女は話を前に進めて行く。

 

「ゼファー・ウィンチェスター。お前を『死人』に会わせてやる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 客観的に見なくても、怪しすぎる誘い。

 ゼファーはフィーネと名乗った、先史文明の人間の名を取って名付けられたのかもしれないと思っている名前の女性の誘いに、悩んだ末に乗ってしまっていた。

 理由があるとすれば、なんとなくだ。

 フィーネという女性の態度や言葉から、複雑そうな優しさ、思いやり、気遣い、そういうものが感じられたから。ゼファーにとっては、それだけで十分。

 

(ボロボロな直感でも、それは確かに感じ取れた)

 

 一日休みを申請すると、よっぽど周囲に心配されていたのか、ものすごく快く了承されてそれに戸惑いつつ、ゼファーはその一日をこの案件に費やすと決める。

 早朝、フィーネとの待ち合わせ場所に行けば、目隠しをされて速攻運搬。

 おそらくはヘリだとゼファーは思ったが、どこに連れて行かれるのだろうという小さな不安の方が大きく、乗っているものの正体は正直どうでもよくなっていた。

 

「着いたぞ。ゼファー・ウィンチェスター」

 

「え? もうですか?」

 

「国内だからな」

 

 ゼファーが目隠しを外されたのは、どこかのヘリポートだった。

 見れば周囲が海海海。

 おそらくはどこかの島、どこかの観光地だ。

 島という条件と、やけに発達した町並みを見て、ゼファーはそう思う。

 

「えと、フィーネさん、死人に会わせてやる、というのは……」

 

「私は帰る。船は用意してあるから、帰りはそれで帰れ」

 

「え?」

 

 そう言って、彼女は本当に帰ってしまった。

 

「な、なんなんだ、あの人……」

 

「ああいう人よ。私の知る限り、あの人はずっとああだもの」

 

 突如背後から飛んで来たその声を耳にして。

 

 ゼファーの心臓は、信じられないくらいに強く跳ねた。

 

(……え?)

 

 耳が聞き慣れた声。

 耳がずっと聞いていなかった懐かしい声。

 どんな奇跡が起こっても、もう二度と聞けるはずのなかった声。

 それが自分の耳に届いて、ゼファーは恐る恐る振り返る。

 

「やっ、お久しぶりデース!」

 

「また会えて、よかった」

 

 マリア・カデンツァヴナ・イヴが、そこに居た。

 暁切歌が、そこに居た。

 月読調が、そこに居た。

 

 守ると言って守れなかったと、そう思っていた友達が居た。

 だから自分を絶対に許してくれないはずだと、そう思っていた友達が居た。

 もう二度と会えないんだと絶望した、かつて希望をくれた友達が居た。

 

「―――ッ!」

 

 ゼファーは走り出して、壊れかけの身体とは思えないほどのスピードで彼女らに接近し、ガバっと切歌と調を抱きしめる。

 

「わ、ちょ、ちょ、ちょ、デスデスデース!?」

 

「こ、子供じゃないんだからこんな……

 あ、いや、ゼファーが子供の頃でもこんなことされたことはないけどそれは言葉の綾で……」

 

 異性ゆえの気恥ずかしさか。

 二人は頬を少し赤らめて、照れて、まとまりのない言葉を紡ぎ始める。

 だが抱きしめている方のゼファーに下心は一切なく、彼女らのような羞恥と照れも一切なく、そんな余分な感情が湧き出てくる余裕は一切無かった。

 

「キリカ、シラベ、マリアさん――」

 

 ゼファーは体内の水分の全てを出し切るのではないかと、見る者にそう思わせるくらい大量に、信じられないくらいに、泣いていた。

 二人を抱きしめながら、泣いていた。

 

「――生きていてくれて、ありがとうっ……!」

 

 ゼファーが泣いたところを見たことがなかった、切歌と調は目を見開いて驚く。

 だがマリアは、そこに何かを察したようだった。

 傷付いて、失って、それでも昔よりずっと"人間らしく"なった少年を見て、マリアは口を開く。

 

「バカね」

 

 そして、ゼファーの頭を撫でる。

 

「頼まれなくたって、感謝されなくたって、生きてやるわよ。私達は」

 

 彼女がそう言ってくれたことが、どれほどゼファーの救いになってくれたことか。

 それをこの場で理解していたのは、ゼファーとマリアの二人だけだった。

 かくして、再会は果たされる。

 

 生きてまた会おうという、遠い日の戦いの中で彼と彼女らが交わした約束。

 

 あの日の約束は、果たされたのだ。

 

 

 




眠るガングニールの少女、撫でるガングニールの少女

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。