戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ   作:ルシエド

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三章終盤にちょこっとだけ出していた子達


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「この世界の人々の心を一つにする? そりゃ世界征服するようなもんじゃないかしら」

 

 昔、ゼファーは雑談の流れで了子からそんなリアリスト論を聞かされていた。

 

「土地の貧富は? 個人個人の格差は?

 民族の確執は? 交易流通の衝突は?

 世の中から争いが無くならないのには、それ相応の理由があるのよねぇ」

 

 了子はゼファーよりもずっとものを知っている。

 少年はそれを忘れることはないし、今でも時々彼女に教えを請うている。

 彼女は知識を教えてくれることも、こうして社会というものを教えてくれることもあった。

 

「そう、とても難しいのよ。とても難しい……それが逆に、救いになってくれるんだけどね」

 

 救い? と、ゼファーは首を傾げた。

 困難であることが救いだなんて、彼は聞いたこともなかったから。

 

「だって、『難しい』だけで『不可能』じゃないんだもの」

 

 あ、と声を漏らすゼファーに、了子は微笑む。

 

「途方もなく険しく、辛い道。

 その途中で苦しくて苦しくて『最初から無理なことだった』って思った時。

 『不可能じゃない、難しいだけだ』って思えたなら、もう少しだけ頑張れそうじゃない?」

 

 人と人は分かり合えるのだろうか。

 全ての人が分かり合うことは不可能だと、大人の大半は諦めているだろう。

 されど諦めない大人も、ほんの一握りだが存在するのもまた事実。

 

 例えば『痛みだけが人の心を繋いで絆と結ぶ』と言っている人が居たとする。

 一見物騒でどうしようもない過激派の思想にも聞こえるかもしれない。

 だが、この言葉の裏側を見れば、その印象はまるで違って見えるはずだ。

 逆説的に言えば、この言葉は"人は必ず繋がれる"と信じているのと、同義なのだから。

 

「ゼファー君はどうなのかしら?

 全ての人が分かり合い、心を一つにする……

 これを"不可能"としておく? "難しい"としておく? どっちを選ぶも、あなたの自由だけど」

 

 難しいにしておきましょう、と少年は即答で返す。

 それに、櫻井了子は心底愉快そうに笑った。

 

「だと思ったわ。うふふ」

 

 前から思ってたんですけど、口でうふふっていうのどうなんですか。と彼は言う。

 いいじゃないのこのくらい、好きにさせなさい。と彼女は言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二十五話:響の味方/たった二人の共同戦線/正義の味方 2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どこかで見たようなお話。

 今この国の色んな場所にありふれている、そんなお話。

 

 流知雄、計斗、英美。

 剣道部の補欠にしてお調子者な流知雄。

 サッカー部のキャプテンにしてエース、将来を嘱望される推薦組、計斗。

 クラスのマドンナ(死語)の英美。

 この三人は幼馴染であり、子供の頃から中学までずっと一緒だった。

 

 ぼやっとした関係、されど強靭な絆にて繋がれた三人。

 流知雄が英美に惚れて、告白することもなく、何年か経つ内にあやふやにぐだぐだなままなんかどうでもよくなってしまったり。

 英美が計斗といい感じになって、特に何かイベントが有るわけでもなく距離が近付いて、どことなく甘酸っぱい感じの両想いになって、けれど"まだ"恋人にはなっていない感じになったり。

 そんな関係を、構築していたのだ。

 

 爽やかなイケメンで持てる計斗。

 学校の半分を魅了する英美。

 そんな二人を応援する流知雄。

 いつまでもこの三人で一緒に居られると、彼らは疑うこともしていなかった。

 

「ねね、二人とも、一緒にツヴァイウィングのコンサートに行かない?」

 

 誘ったのは英美だった。計斗と流知雄は、誘われた側だった。

 

「気を遣って二人きりにしてやるか。やっべ俺めっちゃ気遣い出来てるわこれ。これはモテる」

 

 流知雄は当日、二人を気遣って会場に行かなかった。

 

「けほっ、けほっ……うう、楽しみにしてたのに……でも男同士の方が気兼ねないか……」

 

 英美は当日、風邪を引いて行けなかった。

 

「えええー、ダブルドタキャンで僕一人ぼっちってどうなのよそれ」

 

 そのため、当日計斗は一人で会場に佇むハメになっていた。

 誘った側は行かず、誘われた側だけが会場に居て。

 どこかで見たような構図であったが、その結末はどこかで見たようなものにはならなかった。

 

 計斗少年は死に、燃え尽き、死体も残らなかった。

 

 それが結末。幸運の女神は、彼の方には微笑まなかったのだ。

 

「お悔やみ申し上げます」

 

 子供の頃からずっと一緒で、大親友で、恋まで混じえていた関係。

 葬式の場で黒い服を身に付けて、亡骸もない空っぽの棺桶を前にして、流知雄と英美は何を思ったのだろうか。

 この皮肉な運命の巡り合わせに、何を思ったのだろうか。

 自分の選択に、何を思ったのだろうか。

 だが絶対に、いいものではなかったはずだ。

 

 泣いて、泣いて、泣いて。

 それでもこらえた英美の目に映ったのは、あの災厄から生還したクラスメイトだった。

 英美が委員長を勤めているクラスの一人、立花響という少女。

 計斗とは違い、生還した少女。

 踏ん張って、頑張って、涙をこらえていた英美の心は。

 

 生還し、クラスの中で笑っていた響の姿を見た瞬間に、決壊してしまった。

 

「笑った? 立花さん、今、あなた笑ってた?」

 

「え? い、委員長?」

 

 憔悴した様子の委員長に掴みかかられ、響やその周囲の生徒らは戸惑う。

 

「私の幼馴染は死んだのに、あなたはなんで笑ってるの?」

 

 だが、彼女のその一言で、その場の全員が息を呑み。

 

「私の幼馴染が死んでしまったのに、私やあなたはなんで生きてるの……?」

 

「―――!」

 

 続く一言が、その場の誰もを凍りつかせる。

 英美が響から手を離し、彼女に背を向けて教室を出ていこうとした時、響は話をしなければと彼女の手を取って引きとめようとする。

 

「触らないで!」

 

「痛っ!」

 

 だが響が伸ばした手は、英美の手によって強烈に弾かれた。

 手は繋がれない。そして英美は他人を叩き、痛みを与えてしまったことに一瞬罪悪感を顔に浮かべるも、それはすぐに悲しみの色に塗り潰されてしまう。

 英美は泣きながら駆け出し、教室を出て行った。

 

「……っ!」

 

「委員長!」

 

 英美に向かって手を伸ばす響だが、今度は手が届く範囲ですらなかったため、その手は空を切ってしまう。響は痛々しい表情でうつむくも、ふと、クラスの空気の変化に気付いた。

 周りの誰もが、自分に異様な視線を向けている。

 周りの誰もが、自分を見ている。

 響は思わず、固唾を飲み込んだ。

 

 英美の悲痛な言動が、行為が、クラスそのものの空気を変えた。

 変えてしまった。

 数日中に学校全体の空気を一変させてしまいかねないほどに、強烈に。

 

 そしてこのクラスの出席番号一番である一人の少女が、この空気の中立ち上がる。

 

「そうよ!

 なんであんたみたいな何の取り柄もないやつが生き残って!

 計斗くんが死ななきゃならなかったのよ!」

 

 その少女は響とはクラスメイトなだけで、友達でもなんでもない関係だった。

 そしてその少女は英美の親友であり、計斗や流知雄とも面識があり……

 ひそかに、誰にも明かさずに、計斗に惚れていた一人の少女だった。

 異性にモテる計斗を慕っていた少女達の内の一人だった。

 親友の英美に気を遣って、英美と計斗が両想いなのを知っていて、その上で身を引いていた……そんな立ち位置に居た、少女だった。

 

「あんた、クラスのすみっこでボケボケしてただけじゃない!

 成績がいいわけでもなくて! 文化祭や体育祭で活躍したわけでもなくて!

 計斗君みたいに皆に好かれて、皆に期待されて、凄い人になるかもしれない人でもなくて!」

 

 サッカー部のキャプテンにして、雑誌で紹介されるくらいに有望だった計斗少年。

 そんな彼に惚れていた少女だからこそ。

 そんな彼と英美がくっつくことを、幸せになることを望んでいた少女だったからこそ。

 そんな彼が死んでしまったことに心から傷付き、悲しみ、嘆いている少女だからこそ。

 その言葉には、響に一言も喋らせないだけの気迫と激情が込められている。

 

「……なんでよ……」

 

 響が一歩下がると、その背中が教室の一番後ろの壁に当たる。

 涙をこらえて響に突っかかっていく出席番号一番の少女、その後ろに続き視線で響を責めるクラスメイトが、響を壁へ壁へと追い詰めたのだ。

 ライブの日の前は響と一緒に笑い合っていたクラスメイト。

 そんなクラスメイト達が、委員長の悲痛な叫びに、出席番号一番の子の涙をこらえての剣幕に、そして"世間の流れ"という曖昧なものに流され、響に敵意を向けていく。

 

「なんで、あんたなんかが生きてるのよ……なんで、あんたなんかが生きて帰って来たのよ……」

 

 英美の親友として、一人の恋していた乙女として、彼女は響を責めに責める。

 それはどこまでも、英美や流知雄のような計斗を大切に想っていた人や、自分と同じように淡い恋心を計斗に向けていた他の少女達への理解と、気遣いに溢れていて。

 どこまでも響のことを知らず、理解せず、気遣わないがゆえの言葉だった。

 『辛い現実』に"「こいつが悪い」と断定できる都合のいい悪役"を見つけようとする、親しい人間ではない他人の中に悪を見つけようとする、そんな行動原理であった。

 

 多くの人が使う、ありきたりなフレーズ。

 景気が悪い原因は全て政治にある。

 仕事が辛いのはあの上司が全面的に悪いせいだ。

 応援していたチームが負けたのは全部あいつがミスプレーをしたからだ。

 病気のこの子が死んだのはあの医者が無能だったから、それ以外にあり得ない。

 その他諸々、これらは世の中の大半の人が使うフレーズであり、人間の根本に搭載された本能の一つでもある。

 

 強くない人間は、『こいつが悪い』という思い込み抜きに、辛い現実に耐えられないのだ。

 

「こんな終わり方、あんまりじゃない……! なんであんたは生きてんのよ、立花ぁ!」

 

 現実に耐えられなくなりそうなほどの、大きな悲しみと憤りを口から漏らしながら、とうとうその少女は泣き出してしまう。

 響は、どこかの誰かの悲しみが、痛みが、苦しみが、嘆きが。回り回って悲しみですらなくなってしまった挙句、自分の首筋を締め上げに来ているかのような感覚を覚えていた。

 響を囲む周囲のクラスメイトの目が、彼女にそんな圧迫感を押し付けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 特異災害補償。

 それは、ノイズを災害として定義するならば、社会保障制度としてそれに対応すべきなのではないか……と、何年か前に制定された制度とそれにより支払われる補償金のことだ。

 これは既存の保険のほとんどの適用外であるノイズ被害への対応策であり、建物や資産への被害にも補償が適用される他、怪我や扶養者の死などの人的被害にも適用されるものである。

 

 これにより、例えばビルをノイズに壊された大企業がそのまま倒産してしまい、大人数が路頭に迷い社会にダメージを与える、ということがなくなった。

 一家の稼ぎ頭の父親が死に、家庭が崩壊するということがなくなった。

 当時は人道的な法案であると言われ、専門家もノイズ対策に何らかの姿勢を示さなければならないという世論の中、取った手段としては最適手であったと賞賛したものだ。

 

 が、これにも欠点というか、叩き所はあった。

 税金として国庫に集めた金を、次々と吐き出してしまう、ということだ。

 ノイズの出現率は年々増している。当然歳出における特異災害補償の占める割合は徐々に、徐々にと増していき、一部知識人の分析により衆目の目にそれが晒されることとなる。

 偶然ノイズ被害を複数回受けた不真面目社会人の年収が、同僚の真面目で出世もしている真面目社会人よりも上を行く、なんてことすらある始末。

 流石にそれは稀有な例であったが……人間、国のシステムにより苦労せずお金を貰っている人間には自然と厳しくなってしまうもので、不満は少しづつ蓄積されていってしまう。

 

 そして、今回の件で一気に爆発したのだ。

 大規模な特異災害補償の発生と、かつてないほどに被災者への非難が高まったことで、「被災者に同情しろ、不謹慎だ」という同調圧力が希薄化したことを原因として。

 

 死傷者と行方不明者の合計数、6万8574人。

 ツヴァイウィングのライブコンサートにより、被災地域には全国各地から人が集まっていた。

 よってこれだけの人間が被害に遭い、その数倍の数の血縁者が嘆き悲しみ、6万以上の世帯が補償金を貰うことができるという異常事態となったのだ。

 建築物に被害を受けた者達も補償金を受け取ったことを考えれば、最終的にどれだけの人数に補償金が支払われたのかは、見当もつかない。

 

「……これは、さすがに、ちょっと……」

 

 なればこそ、人々がそう言い始めるのも変な話ではない。

 「特異災害補償が原因だ」と誰もが気付ける露骨なタイミングで、政府が増税を発表したものだから、なおさら人々は過激に被災者を責めるようになった。

 基本的に国民は税金を増やして欲しくないのだ。そこは切実な願いであると言っていい。

 小学生だって、消費税を増やされればおやつを買う度にそれを実感するだろう。

 それでいて、皆国から補助金やら補償金やらが貰えるなら貰えるだけ欲しい。

 ちょっとだけ浅ましいが、金がなければ生きていけないのだからしょうがない。

 

 ちょっと前まで人道的だと支持されていたこの法は、今では自己責任の原則を軽んじさせる非人道的な法であったと言う者が居るほどに、叱責の対象となっていたのである。

 嫌な言い方になるが、『国民の血税』という言葉がよく行き交うようになってしまったのだ。

 

 以上が、現在日本を包み込んでいる善意にして悪意であるものの一側面。

 

「――ってわけ。ま、あくまで俺の視点の分析だけどね。

 俺一人の解釈が絶対的に正しいなんてことはないから、そこは気を付けて。翼ちゃん」

 

「いえ、勉強になります。藤尭さん」

 

 翼はそういった世論に関する様々なことを、藤尭朔也より学んでいた。

 彼女はこういった事柄は苦手分野だ。風鳴翼は昔からもっとハッキリさっぱりしたものが得意分野であり、敵を倒せばそれで終わり、という分野こそを得意とする。

 だが、苦手だからなんて理由で無理解で居てはいけないと、そう思い立ったのだ。

 

 今現在のリディアンは、小康状態を保っている。

 リディアンは在籍中の一年生と三年生によるライブだったこともあり、高等科の生徒の多くが被災地に行っていて、被災した上で生還した者も多いという地雷だらけの学校だ。

 だが先日、ゼファーが生徒達を止めた行動が、リディアンの生徒達に「生還したことを責めるのは本当に正しいのか」と考えさせるきっかけとなった。

 そして世間に知られる生還者の代表格である翼が居たこと、翼やゼファーを差し置いて他の生還者を責めることに矛盾を感じてしまうこと。

 そして何より、性格面で変わり果てた翼の姿と、肉体面でとてつもなくボロボロになってしまっていたゼファーの姿が、リディアンの生徒らに『生還者もまた被害者』という意識を植えつけた。

 

 "翼を純粋に好き、純粋に生還を喜んでいる"。

 "翼が人を殺してまで生き残ったなど思わない"。

 "むしろそう言う人間が居た場合積極的に責めていく"。

 それがツヴァイウィングのファンのスタンスだ。リディアンにも、多く居る者達だ。

 「どっかの誰かは殺してたかもしれない。でも風鳴翼は殺してない」という考え方が多かったがために、翼を殺人者として扱う風潮は、全国的にほぼ存在しなかったと言っていい。

 

 先日の南という生徒を囲んでいた時の騒動の際、ゼファーが被害者扱いされていたのと同じだ。

 人はよく知らない人間を、確たる証拠がなくとも殺人鬼扱いすることはできる。

 だが同時に、人はよく知っている親しい人間、好んでいる有名人を、確たる証拠がないままに殺人鬼扱いすることを許さないのだ。

 

 翼はこの国の一億の人間の内、数百万の人間に強く好かれている。

 だから彼女を殺人者扱いすれば、無視できない反発が来てその風潮は定着しない。

 響はこの国の一億の人間の内、数人に強く好かれている。

 だから彼女を殺人者扱いしても、生まれる反発は風潮を跳ね返すことが出来ない。

 この二人へ向けられる世間の圧力の差は、単純に整理すればそういうことだ。

 

 翼はこうした『自分の幸運』を、ちゃんと分かっていた。

 そして自分のように幸運に恵まれなかった者のため、ゼファーが苦戦苦闘していることも知っている。現状、世論をどうにかできる目が無いことも知っている。

 ゆえにこうして、朔也から色々なことを学ぼうとしていた。

 難しいことをバカに短時間で理解させてこそ本当の天才と言うが、藤尭朔也は紛れも無く天才であったために、頭が硬いだけの翼にするすると知識を流し込んでいく。

 

「俺は最近だと、この辺がマズい風潮を生み出してると思う」

 

 朔也は二課に保管されている新聞の内、二つを翼の前に広げてみせた。

 片方はシリアルキラーの記事。

 先日の災厄の中で心を壊してしまい、"人を燃やす快感"とやらに目覚めてしまった生還者が、人間を生きたまま焼き殺すという蛮行に出たという大事件。

 責任能力がない、とされた裁決に対し上告がなされたという記事だ。

 

 もう片方は「あの災厄の中で自分は誰も殺していません」と断言していた芸能人の記事だ。

 その芸能人が他人を炎の中に突き飛ばしていた動画が発見され、匿名掲示板や動画サイトなどで一気に拡散し、大騒ぎになったことに端を発する騒動があった。

 騒動はその芸能人の元恋人が、ベッドの上でその芸能人が告白していた罪の内容を、雑誌のインタビュー欄にて暴露してしまうことで更に加速。

 その芸能人の知名度が高かっただけに、最悪の方向に転がってしまっていた。

 

 藤尭朔也がピックアップしたのはこの二つ。

 生還者の殺人鬼と、「誰も殺していない」と嘘をついた生還者。

 それが世間の風潮に与える影響など、想像もしたくない。

 

「翼ちゃんのリディアンは例外中の例外ってことさ。

 噂に流されやすい子供が居る学校なんかは、特に、ね……」

 

 大人になるとピンと来なくなるが、この手の話で一番忘れてはならないことがある。

 子供は日々の大半を、『学校』というコミュニティの中で過ごしているのだ。

 子供の世界の中心は、自宅と学校なのだ。

 学校が自分の居場所でなくなることは、大人が思っている以上に、子供の心の傷になる。

 そして大人よりも数段流されやすい"子供"というものが90%以上を占める学校というコミュニティは、時に最悪中の最悪とでも言うべき環境を作り上げてしまうのだ。

 

 この前まで大学生であり、翼やゼファーを除けば二課で最も若く、それでいて知識のある大人でもあった朔也は、『学校というコミュニティの喪失』が子供に与える影響をよく理解していた。

 

「私達にできることはないんでしょうか。

 ……奏が命がけで守った人々が憎み合うのを見るのは、辛いです」

 

「俺もそう思うよ。

 ネットの書き込みに勝手に反応してレスして話を誘導してくれるAI作ってみたんだけどさ……

 なんかダメだね。微妙にダメだった。二課の人員が増えた後、人海戦術するのが一番かなぁ」

 

 生還者に向けられるものは、あくまで風潮。

 風潮への反発が強く、多くなれば、いずれ消え去るものでしかないことは既に予見されている。

 されどいまだ終わりは見えず、むしろ騒動は加速していく。

 それどころか、まだまだピークは先だろう。

 

 オーバーナイトブレイザーがもたらした災厄は、まだ終わってはいないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 未来が気付いた時には、時既に遅く。

 というより、異常に速い学生間の噂話拡散スピードのせいで、一日か二日でもう何をしようが止められない段階にまで噂話は広がってしまっていた。

 三日か四日で、教師を除いた学校のほとんどが、響の敵に回っていた。

 教師の一部までもが響の敵に近い立ち位置に回っている始末。

 『社会的なムーブメント』に近い"生還者への加害"は、学校というコミュニティの中でも例外なく行われることとなる。

 

 それは一種、文化祭や体育祭の盛り上がりに近いものであり。

 それは一種、魔女狩りや被差別民族への迫害に近いものであり。

 "している方"だけに目をやれば時に非常に楽しそうにすら見える、そういうものだった。

 

 きっかけになった者は英美とその友達、つまり悲しみに涙を流す者達だった。

 だがもうこの段階にまでなってしまうと、面白半分で加害に参加する者、テレビやネットに流されて『自分の意見のない正義感』を振りかざす者も参加を始めてしまう。

 ツヴァイウィングのファンまでもが「なんで天羽奏が死んでしまったのにあんたなんかが」と、風鳴翼と天羽奏に向けていた好意を反転させた憎悪を、立花響にぶつけ始める。

 あの災厄で怪我をした親友がまだ目を覚ましていない一人の少年が、医者が「心臓を貫かれたにしては奇跡的だ」と言うくらいに急激な回復を見せた響に、八つ当たりをし始める。

 

 響が笑っていたことを、英美が否定した。

 響が生きていたことを、周囲の多くが非難した。

 響が立ち上がればその強さを、辛くも何ともなかったのだろうと怒りの言葉をぶつけた。

 響が涙を流して俯けば、同情を誘うための演技だ浅ましいと罵倒した。

 

 響の親しかった友達の一人が、響を庇った。

 一週間も経たない内に、心も体も傷付けられたその友達は、響を迫害する側に回った。

 響の親しかった友達の一人が、響を傷付けず、けれど庇いもせず、遠巻きに歯噛みしていた。

 だが「お前も俺達と一緒に来いよ」「やらないのか?」「なんだ、こいつの味方なのか」と言われてしまえば、傍観者で居続けることもできなかった。

 学校に蔓延する『空気』は、立花響の味方で居ることも、傍観者や中立で居ることも許さなかった。人は時に"自分の反対の意見の者"ではなく、"自分と違う意見の者"の存在すら許さない。

 立花響という『悪』だけではなく、その『悪』を責めようとしない者まで『悪の味方』と定義し始めてしまう。

 集団の熱に酔ったまま、後になってから後悔するような蛮行を行ってしまう。

 世の中の行き過ぎたいじめというものは、大抵がこういう仕組みで行われてしまうのだ。

 

「ッ!?」

 

 例えば、今。

 偶然階段の前に通りがかった小日向未来が受け止めなければ、どうなっていたか分からない、階段で背中を押されて倒れた立花響、とか。

 

「響ッ!」

 

「み、く……」

 

 階段で人の背を押すのは簡単だ。

 そして人に向けた時、怪我や死を意識させる刃物や手頃な大きさの石のように、"こう死ぬ"というイメージを明確にはイメージさせない。

 だから本当に気楽に、「痛い目を見せてやろう」「こいつならいいだろう」くらいの気持ちで、階段の上に立っている中学生達は響の背を押した。

 人の首にナイフを押し付けた後、押し込むのと。人の首に爆弾を付けた後、遠く離れてから爆弾の起爆スイッチを押すのと。後者の方が、ずっと気楽にできるのと同じだ。

 殺人未遂の自覚なんて持っていない。だから子供達は階段で響の背を強く押すなんてことを迷わず出来て、倒れて行った響を受け止めた未来を見て、舌打ちすらしている。

 

「うわ、偽善者の小日向だ」

「レズだって噂だぜ」

「わー気持ち悪。二人して人殺し趣味でもあんのかな」

 

 もしもこれで響が死んでしまったりすれば、一番後悔するのが自分達であることにも気付けないままに、子供達は未来にまで批判の視線を向ける。

 響を殺してしまえば、自分のためにやったわけでもない、自分の得になるわけでもない、自分の中の感情に何か整理を付けるわけでもない、そんな無価値な殺人の罪を背負うことになっていたのだということにも、何一つ気付けないままに、去り際に二人にひどい言葉を吐いて行った。

 

「ほら、響。帰ろ?」

 

「……」

 

 無言で首を縦に振る響の手を引いて、未来は昇降口に向かった。

 昇降口の前で待ち伏せている奴らに見つからないよう昇降口を通り過ぎ、酷いことになっている未来と響の下駄箱を尻目に、一階の端の理科室に向かう。

 そこに隠していた自分達の靴を取り出し、未来と響は学校を囲むフェンスの一つを乗り越えて、誰にも気付かれないようにして帰路についた。

 こうでもしなければ、囲まれて酷いことをされるのは目に見えていたから。

 

 彼女らの中学校に、もう未来以外の響の味方は居ない。

 そして響の味方を公言してはばからない未来の味方も、誰一人として居なかった。

 一緒に遊んだ友達が居た。信頼していた教師が居た。親しく思っていたクラスメイトが居た。

 そんな誰も彼もが、もう味方ではない。

 まだ中学二年生、まだ13歳な彼女らには過酷すぎる環境だろう。

 

(私がどうにかしないと……学校に響の味方は、私しか居ないんだから……

 私がしっかりして、何か考えて、行動を起こして、響を守らないと……私が、私が、私が……)

 

 響の手を引く未来は、交差点の前で見覚えのある背中を目にした。

 

(あれは…… ! そうだ!)

 

 そして、僅かな可能性にかけて、話しかける。

 

「英美さん!」

 

「……? ! 立花さんに、小日向さん……」

 

「……委員長」

 

 そこに居たのは、響が学校中から忌み嫌われるこの現状を作るきっかけになった、流知雄・計斗・英美の幼馴染組の一角。

 響のクラスの委員長、その人だった。

 未来は覚悟を決めた顔。

 英美は泣きそうな、嫌そうな、怒っているような顔。

 響は怯えているような、気が引けているような、目に光が見えない顔。

 少女らの表情は三人三色だが、"何を話すか"という一点において、思考は完全に重なっていた。

 

「英美さん、お願いがあるんだけど、いい?」

 

「……嫌よ。どうせその子が悪く無いとか、私に言えっていうんでしょう?

 発端の私がそう言ったなら、止まるかもしれないから。可能性は低いと思うけどね」

 

「響はあなたの幼馴染を殺してなんかない! 響はそんな子じゃないの!」

 

 未来は響のためなら何だってする覚悟で居た。

 可能性が低くたって、何にだってすがりつく気概で居た。

 ほんの僅かな可能性でも、それが不可能に近くても、響の幸せを諦めたくはなかった。

 そんな必死な未来を見て、冷たい目をした英美は溜め息を吐き、平坦な口調で言い放つ。

 

「知ってるわよ。私の幼馴染の計斗が、その子に殺されたんじゃないってことくらい」

 

「!」

 

 "分かってるわよ"ではなく、"知ってるわよ"と英美が言ったその意味を察するには、今の未来にはあまりに余裕が無かった。

 

「お願い、英美さん! 響を助けて!」

 

 自分の言葉が英美の見えない地雷を踏んだことにも、頭を下げる未来は気付けなかった。

 

「私の幼馴染は助けてって言われて、助けて、裏切られて……

 きっとその後助けてって言ったはずなのに、誰にも助けて貰えなくて……

 そんな私に、計斗とは違って生き残った奴を助けて、か……あはは……」

 

「え?」

 

 英美が響の前で泣いた日なら、あるいはその翌日なら、この頼み方でも英美は未来の頼みを聞いていたかもしれない。一筋縄では行かなかっただろうが、それでも0.1%くらいは、英美が未来の頼みで響の味方になる可能性はあった。

 

「私の幼馴染は……あの日、助けた相手に殺されたのよ! そこの立花さんとは違って!」

 

「……!?」

 

 だが、少しだけ、手遅れだった。

 

「友達が動画サイトで見せてくれたのよ。

 見ず知らずの人を助け起こす私の幼馴染を。

 助けた人に囮にされて、火の中に突き出される私の幼馴染を!」

 

 英美は計斗が他人に手を差し伸べるのを見た。

 そして、『助けるために伸ばした手が裏切られる』瞬間を見た。

 幼馴染が殺される過程、焼け死ぬ過程を見てしまった。

 英美にその動画を見せた友人の一人は、義憤に駆られていたのだろう。善意で見せたのだろう。

 だが、あまりにも考えと気遣いが足りていなかった。中学生相応に。

 響が手を差し伸べられて生き残ったなら、彼女の幼馴染は手を差し伸べて死んだという皮肉。

 

「あんな映像、見たくなんかなかったのに……!

 私のせいで死んじゃった計斗の死ぬ瞬間なんて、見たくなかったのに!」

 

 英美の冷たかった目に熱い感情と涙が浮かんでいるのを見て、響は一歩下がり、未来は一歩踏み込んで口を開いた。

 

「響は自分のために人を傷付けたりしない! 信じて!」

 

「私の幼馴染は一見虫も殺さないような人を助けて、信じて!

 それで裏切られて殺されたのよ!

 どう信じろっていうのよ! 何を信じろっていうのよ! 信じられるわけないでしょ!」

 

 英美は肩にかけていたバッグを投げ捨て、涙ながらに響を震える指で指差し叫ぶ。

 

「生きて帰って来たってだけで、今の私には、信じられないのよ……!」

 

 英美の中では、"あの災厄の中で善人は皆死んだんだ"と強烈に定義されてしまっている。

 それほどまでに、英美が見た計斗は死んでしまった人達を神格化させてしまっていたし、英美が見た計斗を殺した人間は、生還者に悪者のイメージを受け付けてしまっていた。

 

「恩を仇で返して、私の幼馴染を殺した人が居て!

 殺人犯を探しもしない、殺した奴が報いを受けてない!

 そんな奴らと世の中が間違ってないのなら、いったい何が間違ってるっていうのよ!」

 

 生還者の九割が殺人者だろうが、生還者の一割が殺人者であろうが変わりはない。

 自分の周りに100人の人間が居たとして、その100人の中に99人殺人者が居ようが、100人の中に1人殺人者が居ようが変わりはないのと同じ。

 ミステリーの展開で、「殺人鬼が居るかもしれないこんな場所に居られるか」というお決まりのフレーズがあるが、あれも人の考え方としては至極当然なのだ。

 "あの人は殺人者かもしれない"という思考は、人をほんの僅かに狂わせる。

 

 それゆえに、英美の目に映る立花響は変わらず殺人者であり、幼馴染が死んだ場所で生き残った一人なのだ。許せるはずがない。味方なんてできるわけがない。

 

「アンタだって、どうせ誰かを犠牲にして生き残っただけなんでしょ!」

 

 泣きながら鼻水を垂らし、いつもの美人顔が見る影もない様子で英美はへたり込む。

 立っていることすら出来なくて、誰かが悪いと言い続けていないと、誰かを憎んでそれを自分の支えとしないと、体どころか心まで保たなくなってしまいそうで。

 だから英美は、他の誰かに流されるのではなく、己の意志で響を責めるのだ。

 

「この……人殺しッ! 返してよ! 私の大好きな人を、返してよっ……」

 

 涙も鼻水も垂れに垂れ、何度もこすった目元は赤く腫れ、目は充血し、声も涙声で、立っていることすら出来ない様子で、溢れ出る涙を拭きながらその場にへたり込んでいる少女。

 呆然としてその向かい側に立っている二人の少女。

 前者が後者を責めているだなんてとても思えないような、そんな光景だった。

 責めて傷付けている方の心が、笑えないくらいに傷だらけな光景だった。

 

 どうしようもなく生産性がない。

 後ろ向き過ぎて救いがない。

 災厄で大切な人を失った心の怪我人が、災厄で傷付いた被災者の心を抉って行く。

 誰も得しないまま、英美も響も言葉を交わす度に互いに傷付いていく。

 傷付ける言葉をぶつけたことに傷付き、傷付ける言葉をぶつけられたことに傷付いていく。

 

 まるで、ハリネズミが互いの針で互いを刺し合い、互いに血まみれになっているかのようだ。

 英美も響も傷だらけ。

 委員長が一言吐く度に、二人の心は同時に傷付いて行く。

 悲しみに涙する英美に、眼の焦点が揺らいでいる響を見て、未来は自分の失態を悟った。

 

(……私の、バカ! 考えなし、考えなし、考えなし……!)

 

 未来にも余裕が無かったのだ。

 彼女も響と同様、鋼鉄の心など持ち合わせていない普通の少女だ。

 ちょっとしたことでも友達を心配するし、友の重い怪我を「いつものことだ」と流すことなどできないし、他人に罵倒されれば普通に傷付く。

 学校そのものが味方でなくなったこの現状は、未来の精神もかなり追い詰めてしまっていた。

 だから僅かな可能性にすがり、彼女らしくもないこんな失敗をしてしまう。

 

(……でも……どうしたら……どうすれば……どうにかなるの……?)

 

 未来は茫然自失とした様子の響の手を引いて、その場を逃げるように駆け出した。

 泣き崩れる英美を置いて。彼女の言葉に、彼女の涙に、背を向けて。

 責めていたのは英美で、責められていたのは響だったのに、一番逃げたい気持ちになっていたのは、未来だったから。

 逃げに逃げ、逃げた先で響がポツリと呟くまで、未来は響を手を引き足を止めなかった。

 

「私……死んでた方が良かったのかな」

 

 その言葉があまりにも重くて、悲しげで、諦めの色が濃い、聞き逃せない文面だったから。

 未来は足を止め、響の方を振り返る。

 響の目からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。

 

「皆、私が死んでた方が嬉しかったのかな」

 

「そんなことないっ! 私は、響が生きてくれて本当に嬉しかった!」

 

 響はもう生きていることが辛くて、苦しくて、生きようとする気力が残っていない。

 未来はそれでも、響に生きて欲しいと、幸せになって欲しいと思っている。

 だから未来は響に向かって強く叫ぶが、彼女一人の声では、響の胸に届かない。

 

「だって、皆、私が死ぬことを望んでたよ……?」

 

「―――っ」

 

「死ねって、死ねって、みんな、みんな、私に……」

 

 響の心はどうしようもなく疲弊し、傷だらけだった。

 衝動的に首を吊る、突発的に身を投げる、それを『ありえない』と断言できないほどに。

 それでも響が死を選ばないのは、彼女の心の奥底に、突き刺さる一つの言葉があったからだ。

 

―――生きることを、諦めるなッ!

 

 響が瀕死に陥ったあの戦場で、響の命を繋いでくれたあの言葉。

 それが響に、死を選ばせない。

 最後の最後で、一線を越えさせない。

 立花響の胸の奥には、天羽奏が残したものが確かに息づいていた。

 

 奏の言葉が最後の一線の前で響を踏み止まらせる。

 未来の存在が、平日の半分を過ごす学校という場所で、響の心を守ってくれる。

 その上で、響の心はいまだ崖っぷちだ。

 "生きることを諦めた方が楽だったかもしれない"と、その目は訴えている。

 彼女が生きてくれたことで、救われた者も居たというのに。

 

「生きていてくれてありがとう、響」

 

 だからだろうか。

 声を聞き届ける彼は、本当に間のいいタイミングで、息を切らしながら彼女の前に現れた。

 ゼファーは涙を流す響の前に立ち、言うべき言葉を、言うべき時に響に届ける。

 

「何度だってそう言い続ける。それが、俺の心からの本音だから」

 

 生半可な言葉では届かない。

 未来だけの言葉では届かない。

 ならばゼファーは、本音の言葉を、本気の言葉を、魂から吐き出す言葉をぶつけるしかない。

 「生きていてくれてありがとう」と、彼は何度だって言い続ける。

 今こうして、膝を折って目線を合わせ、響に言っているように。

 

「少なくとも、俺の知る限り二人。

 何があってもお前が生きて帰って来てくれたことを嬉しく思う奴が居る」

 

 ゼファーは響の目を真っ直ぐに捉えていた視線を外し、隣の未来へと視線を向ける。

 

「俺と、ミクだ」

 

「……!」

 

 そしてここに居る、響の絶対的な味方である二人の存在をしっかりと告げ、意識させる。

 

「ヒビキの家族だってそう思ってくれるはずだ。だって、家族なんだから」

 

 ゼファーは辛い時を乗り越える方法を、自分の人生経験からしか話せない。

 それゆえに彼は、『自分は一人じゃない』と認識することこそが、心傷付き追い詰められた時に必要なことであると思っていた。

 「辛い思いをした時に傍に居てくれたのが嬉しかった」と、彼は覚えている。

 「辛い思いをした人の傍に居てあげよう」と、だから彼は思うことができる。

 膝を折って目線の高さを合わせた状態で、ゼファーは響の手を優しく取った。

 繋いだ手から、ゼファーの体温が響へと流れ込んで行く。

 

「辛くても、死んで逃げようとするのは駄目だ」

 

 ゼファーは響の心の中の、死を選ぼうとする弱さを見据える。

 響は彼の目に、自分の中の弱さまでもを見抜かれているような気がして、顔を少し下に向けた。

 

「死んで逃げるのは楽かもしれない。だけど、楽であっても楽しくはない」

 

 ゼファーは膝をもう少し深く折って、目の高さを更に下げ、響がゼファーを見下ろす形に、ゼファーが響を見上げる形になる。

 

「楽な方、楽な方にと流れて行ったら、最後には最悪と後悔しか残らないぞ」

 

 ゼファーには、"死の感覚に覚える後悔"の記憶がある。

 彼自身にも何が起こったのか分かってはいないが、彼は確かな死を何度も経験している。

 死ぬ時に覚える最悪の感覚、死が生む後悔。その両方を実感を伴わせて語れる人間など、彼以外にはそう多くは居まい。それこそ、死んでも転生した人間でもなければ。

 そんな彼に真っ向から死を否定された響は、声を震わせ、それでも生に希望を持てていない。

 

「……でも、つらい。本当に、私、つらいんだよ……」

 

 短いが、目を逸らしたくなるくらいに切実な思いが詰まった、少女の吐き出す絶望の言葉。

 

「もう少しだけ、頑張ってみないか?」

 

 そんな少女に、少年は希望を持たせる言葉を吐く。

 その言葉を吐いてしまえば、もう後戻りはできない。

 彼は響に希望を見せた責任を取らなければならない。

 自分を追い詰める形で、ゼファーは響にほんの少しの希望を見せる。

 

「必ず、風向きは変わる。西風は吹く。

 変わらなければ、俺が絶対に絶対、変えてみせる。

 俺を信じていられる間だけでも、この言葉を信じて頑張ってみてくれ」

 

 今はまだ、全ての人の心を一つにすることも、全ての人を救うこともできないけれど。

 

「響が泣きそうになったら、必ず傍に居るから」

 

 それでも響の心を救う、響に希望を見せる、響の背を押す希望の西風になりたいと、彼は思う。

 

「……うっ……えぐっ……えうっ……う、うえええん……!」

 

 泣き出す響に、微笑みを見せるゼファー。

 彼の左手は響の右手を取っていたが、そこで彼は右手を隣に居た未来の方に向けた。

 未来は無言でゼファーの意を汲み、彼の手の上に己の手を重ねる。

 ゼファーはそうして取った未来の手を、響の右手の上に重ね、最後に己の右手を重ねる。

 彼の左手の上に響の手、その上には未来の手、最後に上に重ねられたのは彼の右手。

 二人分の優しい熱が、手を通して響の中に流れ込んで行く。

 

 響が泣きじゃくりながら顔を上げると、そこには未来が微笑んでいた。

 何も言わずとも、未来は響の気持ちを察してくれているようで、ゆっくりと頷く。

 立花響の目からこぼれる涙の量が、更に増した。

 

「な?」

 

 傍に居てくれる二人への想いで、涙が止まらなかった。

 

「ゼっ……く……! みぐ……! ありがと、あ゛り゛が……!」

 

「泣くなよ。俺は響の笑顔は好きだけど、泣き顔は特に好きじゃないぞ」

 

「……ばが……!」

 

 辛くても、幸せなのかもしれないと。響はほんの少しだけ、そう思った。

 

 

 

 

 

 響を助けるために、ゼファーは徹夜して情報を集めていた。

 そして一睡もしないまま恒例のリハビリを翼と行い、少しづつ体を治していく。

 地上に出てリディアンの仕事をこなした後、先の災厄が原因で起こった人間関係のトラブルの刃傷沙汰に首を突っ込み、包丁一閃でかすり傷を負いつつ和解に持って行き、後は警察にお任せ。

 そして響の声を聞き届け、そのまま全速力で駆けて来た。

 彼の今日の一日は、だいたいそんな感じ。

 ゼファーにとってはもう治りかけている腕の切り傷よりも、響の嘆きを聞き届けるために復活してくれたARMの力の一つの方が、はるかに気になる事柄だった。

 

(このタイミングで、聞き届ける力の方が戻ってくれるなんてな)

 

 彼の直感、及びARMは脳機能だ。

 想いは脳から生まれる。想いが脳の方向性を決める。

 直感は、ARMは、彼の願いに応えてその能力を変化させる。

 響の悲しみの声に応じてこの力が蘇ったのは、あるいは"何か特別な繋がり"が、彼と彼女の間にあるからなのだろうか。

 

「また明日」

 

 未来とゼファーが響を立花家まで送り、響が立花家のドアの向こうに消える直前、未来はそう言った。一人にはしないと、言外の意を込めて。

 

「うん、また明日」

 

 それに響は笑顔で返す。

 こういう一言一言にゼファーは「ミクには敵わないな」とたまらなく思い、未来の作った流れに喜んで乗ってしまうのだ。

 

「また明日、笑顔で」

 

 未来とゼファーの笑顔と、別れの際の言葉に背を押され、響は涙の乾いた笑顔のままに、家に入っていくのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あらゆる生き物は、強くなりたいという本能を持つ。

 そして見下し、蹂躙し、支配する側で居たいと望む本能を持つ。

 それが"自分の命を守る"という生命体の基本原則から生まれるものだからだ。

 

 そのために生物は、群れを作る。

 弱い生き物でも集団を作れば、仮想的に強くなれる。

 集団が出来れば、次は自分を守るために集団に属しその流れに乗ろうとする。

 集団に属せば、その集団を崩壊させかねない存在や考え方を排除しようとする。

 集団を敵に回さないために、自分のどんな主義主張でも捨てられるようになる。

 

 別に、それは命として間違ってはいないのだ。

 

 ただ、人間として間違っていると言われても仕方ないだけで。

 

「なあ、ミク」

 

「なあに?」

 

「響が人殺しだ、だってよ」

 

 『群れ』に流されることをよしとしない二人は、ゼファーが未来を小日向家へと送る道すがら、言葉を交わす。

 

「ミクには前に話したっけか。俺が少年兵だったこと」

 

「……うん」

 

「本当に人を殺してるのは、俺の方なんだよ。

 自分が生きるために殺して、殺して、殺し続けたような人間なんだ」

 

 ゼファーが、あの災厄の中で人を殺してまで生き残った人達を責められるだろうか。

 人を殺してまで生き残ったのは間違いだ、と断言する人達を責められるだろうか。

 責められるわけがない。

 そんな人達を、ゼファーが悪者扱いだなんてできるわけがないのだ。

 

「『人殺し』って言われて嫌われるべきなのは、本当は俺なのにな……」

 

 生粋の悪人でもない限り、人を殺した過去は永遠にその人間に付き纏う。

 他の誰かに罪を糾弾されるからではない。

 その人自身の良心が、その過去を後悔し続けるからだ。

 

「私は、響が人殺しって言われるのはすごく嫌だし、傷付くけど」

 

 なればこそ、そんな過去を知った上で受け入れてくれる"普通の世界に生きる人"こそが、後悔し続ける彼の心に救いを与えてくれる。

 

「同じくらい、ゼっくんが人殺しって言われたら傷付くよ。

 大切に思ってる友達がそんな風に言われてたら、凄く嫌な気持ちになるもの」

 

「……そか。ありがとな」

 

 感謝するゼファーの目に映るのは、いっぱいいっぱいな精神状態の未来の姿。

 平然としているように見えるかもしれない。

 今の響には余裕が無さすぎて気付けていないかもしれない。

 だがゼファーの目から見れば、張り詰めた風船のようですらあった。

 

「ヒビキのピンチの時だけじゃなく、ミクのピンチにもちゃんと呼べよ?

 どっちの方が大事とか無い。俺はヒビキの味方だけど、ミクの味方でも居たいんだ」

 

 なればこそ、響をちゃんと見ている未来を、ちゃんと見てくれている誰かこそが、未来にとっての救いになってくれる。

 

「もう」

 

 たった一言、ただ一言、それだけ。

 されど万感の思いが込められた「もう」だった。

 未来の肩に詰まっていた力が抜けて行き、少しづつ彼女の心が安らいでいく。

 

「戦うぞ、ミク」

 

「うん」

 

 二人は今、目に見えない敵を見据えて、終わりの見えない戦いの中に居る。

 何をすれば勝ちなのか。何をどうすれば勝ちに近付くのか。

 それすら分からない戦いだ。

 選択肢は無限大、時間はタイムリミットの表示もないくせに確かな時間制限があり、無回答が正解だったり不正解だったりもする。

 出される問題は揃って難解、問題を片付ければ新たな問題が出され、何を勉強すれば良いのかさえ明かされず、答え合わせや模範解答も存在しない。

 それでいて、一度でも間違えればゲームオーバー。

 満点報酬は立花響の幸せ。

 赤点の罰は立花響の幸せの喪失。挑まなければ0点と同義。

 彼らがその十数年の人生の中で、一度も挑んだことのないような戦いであった。

 

「俺は俺の戦いを」「私は私の戦いを」

 

 それでも、逃げようなどとは思わなかった。

 

「「大切な友達を守るために」」

 

 二人は夕日を見つつ、拳の背を軽く打ち合わせる。

 

「勝って、また三人で」「うんっ」

 

 負けてたまるかと、二人は心の中で吠える。

 

 ゼファー・ウィンチェスター&小日向未来。

 

 人知れずこの日に、"たった二人の共同戦線"が、『世間』というものに宣戦布告した。

 

 

 


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