戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ   作:ルシエド

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 "隠れた高潔な行いは、最も尊敬されるべき行為である"。

 "偉人の偉人たる所以は、頭が抜き出ていることだ。しかし、足が地に付いてないのなら、何も偉くはない"。

 "われわれは理性によってのみではなく、心によって真実を知る"。

 "欠陥に満ちていることは、ひとつの悪であるが、欠陥に満ちていながら、それを認めようとしないのは、より大きな悪である"。

 "時は苦しみや争いを癒す。というのは、人が変わるからである。人はもはや同一人ではないのである"。

 

 昔、ブレーズ・パスカルという偉人はそう言った。

 

 "全ての人間は幸福を求めている。これには例外がない"。

 "いかなる身分でも、気晴らしができる限り幸福である"。

 

 そういうことも言っている。つまり、ある意味で他人を罵倒している人間は、それだけで幸せであるのだということ。

 

 "人間には二種類しかない。一つは自己を罪人だと思っている善人であり、他の一つは、自己を義人だと思っている罪人である"。

 

 哲学を追い求める人間は、時に人生経験と思索に基づいた強烈なことを言う。

 

 "人間の尊厳のすべては、考えることのなかにある"。

 

 パスカルの考え方の基本はこれだ。考え続ける人間こそ尊いと、彼は考えた。

 

 "世には沢山のいい格言がある。人がそれらを適用することに欠けているだけだ"。

 

 しかもパスカル本人が引用者のためにこんなオチまで用意してくれている。いい人だ。

 彼が残した考え方はいくつもあるが、その中で最も有名なものはこれだろう。

 

 "人間は考える(あし)である"。

 

 葦は弱く、強い植物だ。

 風が吹けばすぐに流され、曲がってしまう。

 そして風に流される時は皆一緒に、一様に、同じ方向に流されてしまう。

 だが流されようと、曲がろうと、折れることも枯れることもなく生き残る。

 弱さと強さを併せ持つ、硬い一本筋の通っていないタフな強さ。

 そこに『考える』という要素を加えたものが人間であると、そう言ったのだ。

 

 流される弱さと、しれっと何事も無かったかのように図々しく復帰するタフさ。

 もしかしたらそれが、人間という種が中々滅びない理由であるのかもしれない。

 

 だが、人間は葦ではない。考える葦だ。

 その心一つで、流され自分を曲げる周りよりも圧倒的に強く在り、一本筋を通して生きることができることもある。

 一緒に押し流されようと圧力をかけて来る他の葦の圧力を跳ね除け、自分らしさを曲げずに立ち続けようとする者が、時折見い出されることもある。

 

 

 

 

 

 未来が部活を辞めたと聞いて、ゼファーは居てもたっても居られなくなり、未来にそれが本当のことなのかどうか問い質した。

 一緒に戦おう、と誘ったのはゼファーだ。

 だから、未来がそのことを後悔しているのであれば謝らなければならないと、落ち込んでいるかもしれない未来の元へ駆け足で向かったのだ。

 なのに、未来を思うがゆえに生まれた彼のその気遣いは、未来に盛大に怒られるのだった。

 

「ふざけないで」

 

 いや、怒るという表現は正確ではないか。

 未来はゼファーを叱っているのだ。

 二人ぼっちで作り上げる響の最終防衛ライン、二人で力を合わせて戦うという誓い。

 そこにこんな『遠慮』があっては、"たった二人の共同戦線"が成り立たない。

 

 この戦場では、ナイトブレイザーやシンフォギアなど何の力にもなりはしない。

 だからこそ、ゼファーと未来はどこまでも対等なのだ。

 共に戦う戦友なのだ。

 

「私達、響のために一緒に戦うって決めたでしょ?」

 

 未来はゼファーの襟元を掴んで、身長差のあるゼファーの顔をキスでもしそうなくらいの距離まで引き寄せる。

 部活を辞めた未来に対し負い目を感じている、ゼファーの弱った心に活を入れるために。

 

「だったら、戦いが終わるまで仲間に何かある度に気にしてる暇があるの?」

 

「……!」

 

 戦場で仲間が傷付く度に動揺していては、勝てるものも勝てなくなってしまう。

 心優しい者ならば、時折仲間を心配して戦いの中で隙を作ってしまうこともあるだろう。

 だが、ゼファーが幼少期より戦場で学んできた鉄則の一つには、戦場で仲間が死んでも動揺せず戦い続けなければならない、というものがあった。

 それはきっと、この戦場でも適用される。

 

「これまでも、この先も、私達は互いに傷付いてることなんて分かってる。

 だって戦ってるんだから。私達は抗わず流され傷付かない、そんな道を選ばなかったんだから」

 

 たとえ仲間が傷付こうとも、その仲間は大丈夫であるはずだと信じ、仲間と背中を預け合うことが時には必要なのだ。

 

「だから、気にしないで」

 

 立花響を守るというこの戦場、この共同戦線において。

 小日向未来は、ゼファー・ウィンチェスターが背中を預けるに足る戦友だった。

 

「最後の最後に『辛かったけどやり遂げたんだ』って、一緒に笑って言うために」

 

 凄惨な過去を越えて来たこれまでがゼファーの心に強さをくれるように、幸せな未来(みらい)を響にあげようとする未来(みく)の優しさが、彼女の心に強さをくれる。

 

「私はゼっくんのために頑張ってるわけじゃない。

 ゼっくんも私のために頑張ってるわけじゃないでしょう?」

 

 ゼファーは響のためにも、未来のためにも戦うだろう。

 だがこの戦場は、響の未来と幸福を守るための戦い。

 さらばゼファーは、響のために戦うという初志を揺らがせてはならないと、未来は言う。

 

「ああ、そうだな」

 

 ゼファーはそれに「もっともだ」と思い、力強く頷く。

 

「ゼっくんが心配症なのは知ってる。

 でも、どう思われようと関係ない。

 あなた一人だけに、背負わせたくないから」

 

 未来が響のために部活を辞めたとして、それを知って罪悪感を抱く権利は響だけにある。

 そこを履き違えてはいけない。未来はゼファーのために部活を辞めたわけではないのだ。

 そして二人の共同戦線は、重荷だけを共に分け合う。

 ゼファーは未来だけに背負わせない。

 未来はゼファーだけに背負わせない。

 

「そうだな。俺はヒビキに約束したんだ。

 風向きを変えるって、ヒビキの悲しみを止めるって。

 ミクと一緒に戦うって。だから、一人よりも少しだけ、頑張れる」

 

「一人じゃない、二人なら、三人なら、私達はもっとずっと頑張れる」

 

 ノイズと戦う力の有無だとか、男だとか女だとか、そんな事は関係無い。

 一緒に戦っているのだから、そんなものは関係無い。

 こうして互いを奮い立たせ合う限り、二人は最弱の勢力であっても無敵の勢力だ。

 

 時はいささか、遡る。

 

 この日から少し前の日々。彼らが越えて来た戦いの日々にまで遡る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二十五話:響の味方/たった二人の共同戦線/正義の味方 3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バシャッ、と水が跳ねて弾ける音がする。

 中学校の女子トイレの床に水が流れて、排水口へと流れ込んで行く。

 空になったバケツが床に転がり、5~6人の少女達が嘲笑う。

 嘲笑を向けられ、全身トイレの水浸しになった未来は、その少女らを強く睨む。

 

「英美さんとかさー、他の悲しんでる人の気持ちとか分からないの?」

「正義ぶって立花の味方とかして、自己満足に浸ってるだけじゃん」

「やだやだ。ネットで政府動かそうとしてる署名活動の人とかさ。

 あんたみたいに物事をちゃんと見ないで反対してる奴が居るから上手く行かないんだろうね」

 

 多対一。少年漫画などでよく好まれ、多用される光景だ。

 人は誰しも、『皆で力を合わせて敵に立ち向かう』というシチュエーションが好きなのだ。

 力を合わせて悪を攻撃するということが、好きなのだ。

 立花響は悪。小日向未来は悪の味方。

 まだ15歳になってもいないこの中学生の少女達は、その善悪定義を疑いもしない。

 

「あんたキモいよ、小日向」

 

 数の暴力。

 怪我をさせない暴力。

 それを前にしても、未来は折れず揺らがず曲がらない。

 未来は眼光一つで少女達を黙らせて、ただ一言。

 

「どいて。邪魔」

 

 そう言って、少女達を押しのけてトイレを出て行った。

 

「な、なんなのアイツ……」

 

 少女達の嫌がらせに無反応を貫き、少女達の存在を無い物としているかのように去って行った未来に、まだ子供な彼女らは戸惑いの声を上げ、次第に陰口を叩き始める。

 本当に『自分は正しいことを言ってるんだ』と迷いなく信じられているのなら、未来の後を追って、面と向かって言えただろうに。

 未来に見えないところでの陰口に移った時点で、何かしらの形で揺らいでしまったのだということを、自白しているようなものだ。

 

「おい、あれ……」

「やだ……」

「例の……」

 

 未来は水浸しのまま、廊下を突き進んで行く。

 すると、周囲からヒソヒソと声が湧き上がり始める。

 未来がこうして大変な目にあってから廊下を歩き、悪目立ちするのは初めてではない。

 だが一度たりとも、未来が俯く姿を周囲に見せたことはなかった。

 

 ひとりじゃないから、負けてなんかやらない。

 俯かないから、どんな時でも、諦めない。

 世界に胸を張り、前を向き、誰にも媚びず靡かずに突き進む。

 隣に誰も居なくたって、自分が一人ではないと知っているから。

 

 友の痛みも、哀しみも、後悔も。

 どんな辛い現在(いま)だって、過去だって、抱きしめて包める自分で居たいと彼女は思う。

 共に戦う時に、二人の前では泣かないと決めた。

 彼と額を突き合わせて、謝ることももうしないと決めた。

 そして強くなって、響のピンチを何度も助けたあの背中に追いつくんだと……そう、未来は気合を入れ直す。

 

 でなければ、あの二人の涙を乾かす陽だまりになんてなれやしないと、そう己を奮起させる。

 小日向未来は、普通の少女だ。

 だがその右膝が折れそうになった時、響への思いがその膝を支える。

 左膝が折れそうになった時、ゼファーへの思いがその膝を支える。

 膝が折れそうなくらい辛い時でも、友を思えば強くなれた。

 

 未来の後ろには、守りたいと思える大切な幼馴染が居る。

 未来の隣には、一緒に戦ってくれる大切な大親友が居る。

 

 ならば、小日向未来の心が負けるはずがない。

 

(……部活も、しばらく休むことになるだろうし。ちゃんと直接連絡しておこうかな)

 

 未来は後顧の憂いを無くすために、部室へと向かう。

 彼女は昔から走ることが好きだった。

 ゼファーと一緒に走り、足を鍛えていたこともある。

 そんな彼女が中学校で陸上部に入り、二年生ながらも部のエースとして注目されるようになったのは、当然の流れであった。

 未来が部室の扉に手をかける。

 

「小日向も不運だよねぇ」

 

 その日、部室の前で、彼女がその声を聞いてしまったことが。

 

「生きてる人と死んでる人が居るってことは、生きてる奴の大体が殺してるってことだし」

 

 ある意味で、未来の将来を決定的に変化させた。

 

「立花なんかの幼馴染に生まれちゃったのが、小日向の不幸だよねえ。

 小日向優しいし芯が強いいい子なんだけど……あーあ、立花だけどっか行ってくれないかな」

 

 未来の見えていないところで、未来といつも笑い合っていた部員の仲間が、こんなことを言っていたということを。未来に気遣って、未来の前では口にしていなかったのだということを。

 

「―――っ!」

 

 知ってしまえば、ドアを開ける小日向未来は平静では居られない。

 

「撤回して下さい!」

 

「! 小日向!? まさか聞いて……」

 

「私の親友を侮辱したこと、撤回してください!

 私の親友は、人を殺したりなんかしない! ぜったいに!」

 

 怒れる未来は対照的に、部員は戸惑い口をまごつかせる。

 

「……だって」

「なあ……」

「……うん」

 

 未来に気遣って彼女の前で言わなかっただけで、女子陸上部の面々が語っていた言葉は撤回のしようもない、紛れも無い本音の言葉だ。

 彼女らは未来を好ましく思ってはいても、響に対してはそうでないのである。

 今は学校に蔓延する風潮があるために、女子陸上部も未来に対し腫れ物に触るような扱いしか出来ず、大っぴらに未来の味方もできない。

 ならば、響の味方なんてできようはずもなく。

 響への中傷を撤回することも、響を何の根拠もなく信じることもできない。

 未来が所属するこの部活の面々は、そんな中立に近い加害者だった。

 

「……私」

 

 それゆえに、未来が選ぶ選択肢はただひとつ。

 

「もう、ここには、居られません」

 

 未来は部室に背を向けて、去って行く。

 二年近くこの部に所属していた未来の性格を、部員達が分かっていないはずがない。

 今の発言は、未来の事実上の退部宣言だ。

 

「ま、待て! お前次の大会のレギュラーにも選ばれてんだぞ!」

 

 響には何の友情も感じていなくても、未来に対しては確かな友情を感じている三年の先輩が、未来の才能を認めている先輩が、未来を引き留めようとする。

 

「才能だってうちの学校の誰よりもある! 将来だってあるんだぞ!」

 

「私には、そんなものよりも大切な友達がいます。

 私には、そんなものよりも大切な約束があります」

 

 それでも、未来が足を止めることはなかった。

 

「今日まで、ありがとうございました」

 

 陸上部の部室のドアが閉まると、部員達の間に深刻な空気が漂い始める。

 こうと決めたら揺らがないのが小日向未来だ。数日中に退部届は提出されてしまうだろう。

 その原因が自分達なのだから、彼女らも罪悪感を感じないわけがない。

 

「ちょっと言い過ぎだったんじゃないかな」

「……でもなあ、うーん」

「立花と小日向、友達だったもんね。気持ちは、分からなくもないけど……」

 

 どうすればよかったんだろう、何かしたらどうにかなるかな、と部員達が真剣な顔で、少しの焦りと多大な困惑を抱えて話し始めたその時。部の中で一番バカな少女が、核心を突いた。

 

「アタシそもそも話飲み込めてないんだけど、立花って奴が悪いのか?

 例の一件で大暴れしてたあのゴールド騎士野郎が全部悪いんじゃないの?」

 

「……」

「……」

「……」

 

「え、ちょ、黙んなよ。アタシ今何が起こってんのかさっぱり分かってねえんだから」

 

「……アンタぐらいバカで、バカだから無関係のまま居られるのって、幸せなんだろうね……」

 

 "殺した奴だけが悪くて他の皆は悪くない"という主張が、この現実では通じないということを、大人は知っている。子供は知らない。

 子供なら「それはおかしい」と言うだろう。大人なら「その理屈は通りにくい」と言うだろう。

 大人に近付きつつある子供な中学生達は、その狭間に居た。

 考える者。思い悩む者。後悔する者。憂う者。

 未来の退部は思いがけず、彼女らに考える機会を与え、小さな波紋を打ち立たせる。

 

 

 

 

 

 未来は別に、部員達が嫌いになったわけではない。

 部員の仲間に感じていた友情も、仲間意識もあった。

 今までずっと積み上げてきた努力も、仲間と流してきた汗も、大会に挑んで結果を残してみたいというささやかな願いもあった。

 それでも、あの場所にはもう居られなかった。

 何を言っても、立花響に対するあの部の皆のスタンスは変わらないだろうと、未来は理解してしまったから。

 

 喪失感はある。

 未練がないと言えば嘘になる。

 それでも彼女は、自分の中で『大切なものの順番』を絶対に間違えない少女だから。

 この選択は正しかったのだと、胸を張って言うことができる。

 

 水道を使って顔を洗って、未来は瞼の下から流れて来る雫が止むまで洗い流し続ける。

 涙を水で流して隠す。

 二人の前では、泣かないと決めたのだ。

 本当にダメになりそうな時は寄りかかろうと、そう思いながらも、彼女はまだその時ではないと踏ん張り頑張る。

 顔を拭き、髪もしっかり拭いて、未来は帰路につく。

 

 今日の響の帰り道はゼファーに任せたから、大丈夫なはずだと。

 明日からの自分も、頑張っていけるはずだと。

 

「へいき、へっちゃら……だよね、響」

 

 やせ我慢でも、彼女は膝を折らずに立ち続ける。

 一人じゃないから、立ち続けられる。

 小日向未来は俯かない。

 俯かないから、諦めない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 未来が部活を辞めた日とは、また別の日。

 立花響は、自宅前でたむろしている者達から身を隠していた。

 

「まだなん?」

「そろそろ学校から帰って来る時間でしょ」

「退屈だわぁ」

「察知して逃げたのかもよ?」

 

 近所の中学生とは違う。

 暇な大学生の集団、というのが一番近いだろうか?

 そんな集団が、見るからに響を待ち伏せして危害を加える気満々で、立花家の前に居る。

 響は怖さで足が竦んで、動けなかった。

 曲がり角からこっそり手鏡を使って――未来に教えて貰った気付かれないように道先を見る方法――大学生らが去るのを待つも、一向に去る気配はない。

 

(……どうしよう)

 

 今、響の横にはゼファーも未来も居ない。

 ゼファーが今日用事があると言っていなければ、響は迷わずゼファーを呼んだだろう。

 響の中で、彼はこういう時に誰よりも頼りになる男だ。

 彼女の父親はあまり荒事には向いていないため、まあ自然とそうなるわけで。

 荒事向きの彼を呼べない、というだけで、響の選択肢は急激に狭まってしまう。

 今この世界で立花響が呼べる味方は、本当に数が少なかった。

 

(このままじゃ、帰れないよ)

 

 が、考えて見て欲しい。

 今のゼファーが、響が困っていることを直感で感じ取れないものだろうか?

 考えに考えるタイプのゼファーが、"自分が忙しいせいで響を直接助けられない"なんていう状況を、想定していないなんてことがありえるのだろうか?

 ゼファーは、自分が傍に居なければ響を助けられないのだろうか?

 否。そんなわけがない。

 

 直感で感知して、"警察に通報"という情け容赦無い対応を彼はする。一瞬の躊躇なくする。

 

「どうかしたでありますか?」

 

「え?」

 

 結果、響の後ろには二人の警官が居た。

 先日の災厄で警官がかなり死んでしまったせいで配置換えを何度も繰り返している、そんな派出所の警察官達の内、通報に対応した結果偶然ここに来た、そんな二人の警官だった。

 

「本官とこの人は、通報を受けてきたであります」

「ワシらのお仕事は……ああ、あれか。あの家、嬢ちゃんの家か?」

 

「は、はい! そうです!」

 

 ありますあります煩い青年警官と、一人称ワシの歳を食った警官が立花家の方へと向かう。

 ナイトブレイザーが守った法の味方が、勇気ある大人が歩いて行く。

 大学生らは話しかけてきた警察官に最初はお気楽に対応していたが、やがて自分達が警察にしょっぴかれそうになっている現状を理解すると、露骨に狼狽え始める。

 

「な、なんで!? 別に何か悪い事してるわけじゃ……」

 

「知らんであります。本官らは、正義の味方じゃなくて法の味方でありますので」

 

 青年が派出所で話を聞こうと、大学生らを説得しようとする。

 そこで歳を重ねた警察官は、何もかも分かっているという顔で、ニヤリと笑ってこう言った。

 

「法にはこう書いてある。ルールを守ってる奴は守れ、破った奴はぶちのめせ、とな」

 

 その言葉が最後の一押しとなったのか、大学生らは一目散に逃げ出した。

 

「逃げろ!」

 

「あ、待つであります!」

 

「ほっとけほっとけ。

 あんなのはいつの時代、どんな場所にも居るもんだ。

 お前もあと30年くらい警官やってれば何度でも見ることになろう」

 

 経験豊富そうな警察官は、さっぱり割り切った様子を見せている。

 人間の大半なんてあんなもんだ、と嫌悪も侮蔑もない目で逃げる大学生達の背中を見ている。

 青年の方の警察官は納得できていない様子だ。

 だが先輩の言葉に何かしら感じ取るものがあったのか、特に何も反論せず、黙り込む。

 シワが深く刻まれた顔で微笑みながら響に歩み寄った警察官は、彼女の家を指で指し示す。

 

「さて、これで嬢ちゃんは帰れるようになったわけだ」

 

「あ、あの……ありがとうございます!」

 

 何十年も迷子の子供の面倒を見てきた。

 何十年も泣く子供をあやして笑顔にしてきた。

 そんな警察官だからこそ、その言葉には響の心を落ち着かせる作用がある。

 

「困った時は110番するといい。そうすれば、いつとてワシより立派な警官が助けに行くはずだ」

 

 響は頭を下げ、礼を言いながら家に向かって駆けて行く。

 なんとなく、もうこの警察官達と会うことはないだろうと思いながら。

 

 この警察官二人は、ナイトブレイザーが再起しなければ死んでいたはずの者達だ。

 響にも、警察官達にも、ゼファー本人にも気付かせないままに、ゼファーは証明し続ける。

 人を助けることは、無駄ではないのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 言葉を重ねる。

 言葉を重ねる。

 言葉を重ねる。

 それでも、ゼファーの想いは届かない。

 多くの人々に責められながら、ゼファーはそれでも想いを込めて語り続けていた。

 

 その始まりは、この状況が作り上げられる一時間ほど前。

 ゼファーが二課の食堂担当・絵倉に頼み、彼の望みを叶えるために必要な人間と引き合わされてもらったところから始まる。

 

「あれ? お好み焼き屋『ふらわー』のおばちゃん?」

 

「あら、リディアンとこのウィンチェスター君じゃないかい」

 

「知り合いかい? そんなら話は早いね」

 

 ここでゼファーが知る、吃驚仰天の事実。

 

「あの、俺としてはお二人が知り合いってことが驚きなんですが」

 

「だって姉だから」

「だって妹だから」

 

「ええええ!?」

 

 意外や意外。

 二課のめし処である食堂のおばちゃんと、リディアンのめし処と言われるふらわーのおばちゃんは姉妹であったのだ。

 確かに年頃は近いのかもしれないが、気付けという方が無理がある。世間は狭い。

 

「じゃ、この子を頼むよ。無茶しいな子だからね」

 

「了解。姉さん」

 

 絵倉からゼファーを託されたふらわーのおばちゃんは、彼を連れて目的地に向かう。

 道中、おばちゃんは結局聞いていなかった"何をしたいのか"ということを少年に聞いた。

 

「そういえば、あんたは何がしたいんだい?」

 

「説得です」

 

「……説得?」

 

「現地に着いたら、俺とは他人のフリをして下さい。

 頼まれて連れて来ただけで関係ないんだ、って。

 あんまり気分のいいものじゃないと思いますから」

 

 その言葉の意味を、彼女はすぐに理解することとなる。

 彼女が少年を連れて行ったのは、町内の集まりとでも言うべき、街でそれなりに顔が知られている者達が集まる集会だった。

 小学校のPTA会長。青年団の団長。町内会の会長。中学校の若い校長先生。長老扱いの老人。

 そういった人物が20人ほど額を突き合わせて話し合う、そういう集まりだ。

 

 彼女の視点からでは、ゼファーの変な所が見えたことはあまりない。

 せいぜいが『好青年』くらいの印象で、リディアンの生徒達に「美味しいお好み焼き屋」と宣伝してくれているらしいお得意様で、時々食べに来るお客、くらいの印象だ。

 だから、少年がとんでもないことをしでかし始めた時、彼女は大いに驚いた。

 ゼファーが他人の予想も予測も推測もしょっちゅうぶっちぎる男であることなど、彼女は知る由もなかったから。

 

「聞いて下さい! まだ終わっていない、あの災厄の爪痕について!」

 

 その集会で話し合う予定であったことがあらかた話し終えられたのを確認してから、ゼファーは彼らの前で声を張り上げる。

 怪訝そうにする大人達の前で、ゼファーは一つ一つ静かに語っていく。

 個人名は挙げずに、立花響が学校や自宅で遭っている酷い目の話を。

 大人達は年相応に良識があるようで、響の不幸に軽い同情と憤りを覚えてくれているようだ。

 だが、同時に生還者であるということで、響に対してもいい感情を抱いていない人が何人か居るのが目に見える。

 

 ゼファーの声は英雄のそれ。声に無自覚の力を込める、心揺らす魂の声だ。

 そこに響の環境への同情が加わり、"世間の風潮に無理矢理従うことを強制されている"という誰もがうっすら感じていた不快感が乗って、ゼファーの声に皆が耳を傾け始める。

 ゼファーは普段は静かに話しつつ、感情を込めるべき場所、この場の皆に強調して伝えたい箇所は、特に力を込めて話した。

 

「俺は、友達を助けたいんです!」

 

 ゼファーが懐から取り出して提示したのは、藤尭朔也による分析データ。

 つまりは、「生還者の大半が殺人者であったならこんなにも沢山の人は生きていない」という証明に辿り着くまでの計算の過程だった。

 難しいことをバカに短時間で理解させてこそ本当の天才だ。

 朔也が理論立てたこの計算は、一般人に見せても簡単に理解させられるものであった。

 

 状況と、人の数と、当時の被害の規模と位置、それら全てを大雑把にでも数値化出来たなら。

 後は計算の領域だ。

 つまりは軌道計算と同じ。常人にはどれだけの数字が必要なのか、どこの数字が必要なのか、どう計算すればいいのかなんて分かりはしないが、それを鼻歌交じりにやる人間は居る。

 

 緒川の功績計算の時に用いられたシミュレーションデータがあったのも幸運だった。

 朔也のこれはあくまで数値からの推測、『そう考えることもできる』程度のものであり、専門家の一部から「好意的解釈が過ぎる」とケチを付けられてもおかしくないものだ。

 だが、それでも今の世間の風潮に真っ向から逆らえる武器であることに変わりはない。

 この場の皆の心を揺らがすには十分であるし、今まで感情面から訴えかけていたゼファーが理屈を用いて説得をし始めたことで、更に多くの人間を話に引き込むことに成功していた。

 

 ゼファーが持ち出したこの分析データは、実は国の裏で動く二課が戦略の柱として使おうとしていたものの一つを、許可を得て使用しているのだが……それは一旦脇に置いておこう。

 響の環境への同情という感情面への打撃。

 朔也の証明式を提示して理性面への打撃。

 そうして人々の心を揺らがし、ゼファーは味方に付けようとする。

 

「あの災厄を終わらせるために、皆さんの力を借りたいんです!」

 

 言葉を重ねる。

 言葉を重ねる。

 言葉を重ねる。

 それでも、ゼファーの想いは届かない。

 

 『みんなが言っている』と、『初対面の少年が一人で言っている』では、後者が勝つことは本当の本当に難しいのだ。

 

 初対面の人達を簡単に説き伏せられる話術があるのなら、彼は今日まで苦労などしていない。

 言葉だけで人を簡単に説得できるなら、論理だけで人を味方に付けられるなら、ゼファーはさっさと響の周囲に対しそうしている。

 "人間は悪である"と論文で完全に証明したとして、全ての人間をその論文だけで"人間は悪である"という思想に染め上げることができるか? 不可能だろう。それと同じだ。

 ゼファーの言葉に戸惑いながらも、大人達はゼファーの言葉に簡単になびくということもせず、大人同士でひそひそと何かを話している。

 

「お願いします!」

 

 ゼファーは何度でも言葉を尽くし、いくつもの言葉を尽くし、諦めず言葉を尽くした。

 それでも、ゼファーの想いは届かない。

 相互理解をはばむ不和(バラル)の呪詛が、容易な理解を許さない。

 バラルの呪詛が、苦しむ響への共感と理解を皆に浸透させない。

 不和の呪詛が、ゼファーの主張の中にある正しさを皆に実感させない。

 大昔にバベルの塔が壊されたと同時にばらまかれたという呪いが、ゼファーの前に不可視のまま不気味に立ち塞がり、立花響への救済に至る相互理解を許さない。

 

「私は(きのと)と言う。私の女房はあそこで死んだ」

 

 一人の男が口を開く。

 

「高校の時の気があった悪友で、大学も同じで、卒業したらすぐ籍入れて、それから20年……

 ずっと連れ添った奴だった。愛してた。

 爺と婆になっても、孫を見守ってるものだと思っていたよ。

 それでも、あっさり死んだ。呆気なさすぎて泣く以外何もできやしなかった」

 

 あの災厄の中で妻を亡くした、一人の男の寂しげな独白だった。

 

「娘は今でも時々夜に泣いてる。

 不器用な男の片親じゃ寂しい思いもさせてしまってるかもしれない。

 家にも、私の胸にも、ポッカリ穴が開いてしまったようだ……なあ、少年。

 私は積極的に責める側に加わる気はない。けれども。悪い、納得できなかった」

 

 生還者を迫害することはない。

 だが許す気もない、殺人者と見ることを辞める気もない、そんな一人の大人の男。

 

「私の女房は殺されたのかも、と思うと……

 生還者の中にそいつが居るかも、と思うと……

 どうしても、どうしても、許せないんだ……! 理屈の上じゃ分かっているのに……!」

 

 その言葉は、生還者を責める多くの人の言葉を代弁してるようだった。

 

「そうだ!

 俺の妹が何をしたんだ……死ななきゃいけないようなことなんて何もしてなかった!

 なのに、なんで! 妹は死んで他の奴は生きてるんだ!?

 他の奴が悪かったから、って理由が無いんだとしたら、俺の妹が悪かったっていうのか!?」

 

 男に続いて、次々と声を上げる人々。

 理屈ではない、感情で動く人間の言葉が苛烈にゼファーに向かう。

 

「……息子が、あそこに居てね。昔のように歩けるかどうかは、リハビリ次第だそうだ」

 

 何が違ったのか、何が悪かったのかと死者と生還者を比較して言ってしまえば、『運が悪かった』としか言いようがないが、そんなことを言った時点でリンチされて殺されても文句は言えまい。

 

「なんというか、私も君の意見には賛同できないかな。

 身内の方が亡くなられた人の気持ちの方が、まだ分かるから」

 

 ゼファーは口々に言われる言葉を片っ端から誠実な返答で返し、なだめつつも説得し味方に付けようとするが、止まらない。

 数の差だ。1対20では、口の数も耳の数も足りないのは当然だろう。

 次第に実際に災厄の被害にあった人間だけでなく、災厄の実害を何も受けていない者も便乗し、流れに流される者達が悪い流れを作り始める。

 

「だけど!」

 

 このままではいけない、と、ゼファーはよく通る声を大きく響かせて会話の流れを断ち切る。

 

「ニュースを見て、皆自分の大切な人が無事で居て欲しいって思ったんじゃないんですか!?」

 

 胸が痛む。

 罵倒の言葉をぶつけられ、響のために頑張っても空回り、人の悪意が次から次へと降りかかる。

 沢山考えながら話さなければならず、飾らない本音の言葉でなければ心揺れない人も居て、頭も心も疲弊していく。

 それでもゼファーは、やせ我慢で踏ん張って、話し続ける。

 

「無事で居てくれたら嬉しいって、そう祈っていたんじゃないんですか!?」

 

 分かり合えると、分かってくれると信じて、言葉をぶつけ続ける。

 

「みんな同じです! みんな!

 生還者、亡くなった人、彼らを大切に思い帰りを待った人……

 生きて帰りたいと思った人と、生きて帰って来て欲しいと思った人しか居ないんです!」

 

 皆被害者なのだから、被害者同士で傷付けるのはやめてくれ、と。

 

「悪いのはあの災厄で、だから悪意で動いた加害者なんてどこにも居るはずがないんです!」

 

 悪いのはオーバーナイトブレイザーと、守れなかった俺だけなんだと、そう心の奥で叫ぶ。

 

「『生きていてくれてありがとう』って、そう思うことの何が間違ってるんですか!?」

 

 響に笑顔で居て欲しい。

 響を傷付ける人にも、他人を傷付けるのはやめて、誰も傷付けずとも笑顔で居て欲しい。

 誰にだって幸せになって欲しい。

 皆に『生きて』欲しい。

 

「もし、亡くなられてしまった人が、今生きていたら!

 あなた達の大切な人が、今この世界でどういう扱いを受けるのか!

 そう考えて……ほんの少しだけ寛容になることは……できないんですか……?」

 

 言葉を重ねる。

 言葉を重ねる。

 言葉を重ねる。

 それでも、ゼファーの想いは届かない。

 

「……」

「……」

「……」

 

 無言で首を横に振る大人が、不快そうにしている大人が、同情だけを顔に浮かべる大人が、ゼファーの想いが届かなかったことを如実に証明していた。

 

「どうして……!」

 

 強く歯を噛み締めるゼファーに向かい、80も超えた年頃の老人が口を開く。

 この集会でも長老のような扱いをされていた人物だ。

 

「君のように心の強い少年には、分からないのだろうね」

 

 心の強い少年、と言われて、ゼファーは一瞬自分がそう呼ばれているのだと理解できなかった。

 

「皆、誰かのせいにしたいのだ。誰かのせいであって欲しいのだよ」

 

「っ!」

 

 交通事故にあった人間と面と向かって、「お前の家族が死んだのは単に運が悪かっただけだ」と言ったなら、そいつは顔面を殴られても仕方がない。

 たとえそれが、真実だったとしてもだ。

 そんな真実を受け入れることは、本当に難しい。

 まだ悪人の飲酒運転の結果そうなったと聞き、その人間を憎悪し恨みながら生きていく方が、普通の人間の心に与える影響はマシだろう。

 

「強くなれない人とは、そういうものなのだ」

 

 誰かのせいにしないと、壊れてしまう心もある。

 悲しみの中、誰のせいにもしないということは、本当に難しいのだ。

 他人のせいにしなかった人間が、最終的に大切な人が死んだことを自分のせいにしてしまい、自殺してしまうということも本当に多い。

 そう――

 

「大切な人の死から目を逸らさないと生きていけない、彼らの気持ちも汲んでやってくれ」

 

「―――!」

 

 ――かつての、ゼファー・ウィンチェスターのように。

 

 大切な人の死から目を逸らしながら生き続ける。

 それはそっくりそのまま、かつてのゼファーの生き方そのものだ。

 『あの人の死はなんでもないことだ』と思い込もうとし、自分に言い聞かせ続け、生きてきた。

 それと『あいつが悪い』と思い込もうとし、自分に言い聞かせ続け、大切な人の死から目を逸らそうとしているこの大人達は、どう違う?

 

 誰のせいかと言えば、災厄のせいとしか言えない死。

 そんな死を、ゼファーは『自分のせい』にし続けた。

 ゼファーもまた、大切な人の死が誰かのせいでないことに耐えられない人間の一人だった。

 奏の死を、"ただ運が悪かったから"なんてフレーズで、流すことなんてできやしなかった。

 

 ゼファーは大人達を見回す。

 彼らの目は、いつかどこかで鏡の向こうに見た覚えのある目だった。

 成長する前のゼファーの弱さが、そこにあった。

 成長した今も残っていた弱さも、そこにあった。

 少年は息を呑む。

 

 今ここに集う、生還者を責めなければ真っ当では居られない弱さを持つ大人達は、ゼファーの過去そのものだった。

 死から逃げ続けていたゼファーそのものだった。

 彼が強烈に共感してしまう、否定できるわけもない、過去の想いそのものだった。

 

 自分の過去が、自分の主張を否定しに来たかのような、そんな錯覚すらあった。

 

(ダメだ、泣くな)

 

 何か言わなければ。

 そう思うも、口も頭も動いてくれない。

 テーブルの上に置いた拳をギュッと握りしれば、その上に涙が零れ落ちてしまう。

 それでも、泣き顔を見せてしまったら、本当の本当に終わってしまう。

 だから、彼は顔を上げない。

 

 泣き落としではダメなのだ。

 同情ではなく、明確に理を示して説得し、味方に付けなければならない。

 涙を見せてしまえば、その時点で終わってしまうと、少年は堪える。

 こっそりと涙を拭くも、拭い切れない涙に焦り、回そうとする思考にノイズが入る。

 考えないと、考えないとと説得する方法に思考を回転させるも、上手く言葉が繋がらない。

 その内、ポツリと誰かが言った言葉が。

 

「生き残ったからお前はそんなこと言えるんだろ。

 お前も誰かを犠牲にして生き残ったんじゃないのか?」

 

 奏の犠牲の上に生き残ったことを強烈にゼファーに意識させ、その心にヒビを入れる。

 

 

 

 

 

 そこで、割って入る者が居た。

 

 

 

 

 

「私の弟は、交通事故で死んだ」

 

 割って入ったのは、お好み焼き屋『ふらわー』のおばちゃん。

 彼女はゼファーを背中に隠すように動き、大人達とゼファーの間に割って入った。

 そして、この場の全員に向けて口を開く。

 

「不幸に不幸が重なった形でね……

 車の不具合で起こった事故だった。

 弟を轢いた運転手ですら、被害者だったよ」

 

 彼女の弟は、ちゃんと点検された車の不具合という、どうしようもない不運で死んだ。

 彼女の両親も、彼女の姉も、彼女自身も泣いた。

 だがそれ以上に、『殺してしまった罪悪感』に、弟を轢いた車の運転手の方が泣いていた。

 

「誰も恨める筋合いがなかったし、誰も恨めなかった」

 

 昔々、お好み焼き屋を開くずっと前に、この女性が体験した"誰のせいにも出来ない死"。

 

「だから私は知っている」

 

 それを語って、彼女はダン、とテーブルを強く叩いた。

 

「甘えるなッ! 大切な人が死んで、それを誰かのせいにして楽になろうだなんてッ!」

 

 彼女の後ろで涙を拭うゼファーは、彼女の背中だけを見ながら、彼女が本気で怒ったところを初めて見たと、そう思った。

 

「人の死なんて、誰のせいにもできないものがほとんどなんだ!

 病気で死んでも、事故で死んでも、災害で死んでも、誰かのせいになんて出来ないッ!

 私達はそのやるせなさと、人生の中で何度も何度も付き合ってかなくちゃいけないんだよ!」

 

 甘えるなと、彼女は叫ぶ。

 

 人は大切な人の死に、誰かのせいにしたがる。

 だけど、それは甘えでもあるのだ。

 他人のせいにせず、自分のせいにせず、その死を誰もが消化していかなくてはならない。

 ゼファーにとっての奏の死も然り。彼はいまだ「天羽奏は死んだ」という事実を受け入れることはできていても、乗り越えることも消化することもできていないのだから。

 

「この子だって、あの事件で大切な人を亡くしてる!

 それでもこうやって、ここでこうしてあんた達に言葉を紡いでる!

 『それは間違っている』って、生還者への八つ当たりを否定してくれている!

 異国の地で頑張って、大人に喧嘩すんなって仲裁してる子供を見て!

 もうとっくに大人になってるアンタ達は、仲裁されて情けないと思わないのかいッ!?」

 

 ゼファーの言葉は、彼らの心にほんの少しだけ届かなかった。

 その言葉を、彼女の言葉がほんの少しだけ押し込んでいく。

 先程まで彼が必死にぶつけていた言葉が、想いが、届く。

 

「今のアンタ達の背中は、子供達に見習わせたい背中になってるのかい?」

 

 ゼファーはこの場の全員にとって他人だ。だが彼女はここに呼ばれる程度には、他人ではない。

 

「理不尽にイジメをやってる子供達に!

 間違っていることを間違っていると教えない大人でいいのかい!?」

 

 他人の言葉では届かなくとも、そうでなければ届く言葉というものもある。

 

「もう逢えないことを嘆いて人を傷付けるより!

 生きてくれた事を喜ぶことが正しいのだと教えなくていいのかい!?」

 

 彼女は大人だ。彼らも大人だ。

 

「この子は『子供』で、アンタ達は『大人』で!

 なのにアンタ達の方が子供の優しさに甘えてるってどういうことだい!」

 

 言葉で顔を引っ叩かれれば、悲しみと喪失の沼にズブズブと沈んでいた心が、目を覚ますことだってある。

 

「生き残った子達を当事者でもない人間がサンドバックにしてる今の酷い現実を!

 無駄に歳食ってるだけのアンタ達が今ここで再現してるんだよ!」

 

 人間が子供の前で情けない姿を見せるのは別に悪いことではない。

 だが、大人は子供の前では格好付けなければならない。

 

「いい大人が、恥を知りなさいッ!」

 

 彼女は、風に流されない葦だった。

 

 

 

 

 

 彼は、風に流される葦であることを辞める。

 

「一つ、聞かせてくれないか、少年」

 

 先程、乙と名乗った、妻を亡くした男がゼファーに話しかける。

 

「君が亡くしたのは、誰だ?」

 

「……大好きだった、初恋の、人です」

 

 ざわりと、大人達の間に波紋が広がる。

 

「辛くはないのか。そう時間は経ってないと思うが」

 

「辛いです。……今でも、後を追えばもう一度会えるのかな、って時々思うくらいに」

 

 ゼファーの後を追いたい、という言葉に何人かが無言の共感を示した。

 少年は大人達の弱い気持ちに共感した。

 だが裏を返せばそれは、ゼファーの痛みの言葉が彼らの心を揺らしうるということでもある。

 

「でも、その人が、『生きることを諦めるな』って、最後に言ったのを聞いたから。

 ……俺は、強く生きないといけないんです。生き続けて、生かし続けないといけないんです」

 

 奏は言った。生きることを諦めるなと。

 響は、生きることを諦めない。

 未来は、俯かないから諦めない。

 

「あの人が『生きることを諦めないで欲しい』

 と願った全ての人達が、生きて幸せになれるように、何かをしたいんです」

 

 ゼファーは、生かすことを諦めない。

 

「死んで行ったあの人が、この胸の中で生き続けてると証明するために」

 

 胸に手を当てて、ゼファーは迷いの欠片もない目で真っ直ぐに、乙の目を見据える。

 少年の覚悟が、言葉の熱が、その目が、男と男の間でのみ伝わるものを伝える。

 本気の想いは、伝わるものだ。

 

「こちらの町内会のメンバー、そこの父母の繋がりから働きかけてやろう」

 

「乙さんッ!?」

 

 乙という男の横に居た青年が、驚愕の声を漏らす。

 男はその瞬間から、明確にゼファーという少年の主張の味方に付いていた。

 

「そうか、そうだったな。

 私の胸の中に生きる妻が願う事……それを、危うく蔑ろにしてしまう所だった」

 

 妻は優しかった。なら、自分がこうすることを望むだろうと、彼は思う。

 

「そうしてしまえば、本当の意味で妻は死んでしまっていたのだろう。感謝する、君は……」

 

「ゼファーです。ゼファー・ウィンチェスター。……ありがとうございます、乙さん」

 

「感謝するのはこちらの方だよ。

 危うく私は、妻が己の死の後に望むだろうことすらも見失う所だった。

 思い返すだけで辛くなる妻との思い出をしまいこんで……

 ……楽なだけの、自己満足に浸るだけの毎日を送る所だった。

 今だからこそ、私は妻を愛していると胸を張って言える。……生きることを、諦めるな、か」

 

 男は陰鬱そうな顔を、今日初めて曲者っぽく歪め、ニヤリと笑う。

 

「いい言葉だ」

 

 乙の次にテーブルをバンと叩いて立ったのは、この中で一番若そうなガタイのいい青年だった。

 

「いいね、カッコ良かったぜ外人の坊主。

 なんか最近同調圧力がうざってえなあと思ってたところだ」

 

 その青年は元番長(死語)であった青年団の団長。

 ブームだ、流行だ、同調圧力だのといったものが大嫌いで、尾崎大好きな問題児だった。

 だがノリが良く、義理に厚く。"男がするこういうこと"に、それを成したゼファーの行動に、たいそう好感を抱いてしまうタイプの人間だった。

 

「青年団の方は任せとけ。ツテのある高校なら後輩使ってどうにかしといてやるよ」

 

 青年の次に立ったのは、中学校の若き校長先生。

 

「……間違っているとは、思っていました。

 だけど周りに流されて、それもまた正しいのだと無理に思い込んで……」

 

 自分の学校で先の災厄を原因としたいじめが起きていて、止めることができないことに思い悩んでいた、そんな校長先生であった。

 

「だけど、もう間違えません! 私は教職者として恥ずべき人間でした!」

 

 だが、明日からはそうではないはずだ。

 

「そうです、子供が生きていてくれたことを喜んで何が悪いのか!」

 

 ゼファーに大人達の弱さを教え、結果的にゼファーを泣かせあわや話を終わらせかけてしまったものの、最終的に"こうなる"ことを望んでいた老人が呟く。

 

「これだから、若さというものは計り知れん」

 

 この中で最も長く生き、最初から誰とも敵対するつもりはなかった老人。

 その長い生涯で何度も大切な人を亡くし、いくつもの災害を超え、今回のように沢山人が死んだ時の狂乱も見てきたのだろう。年の功というやつだ。

 老人はただ若人を見守る。

 若い者達を見守り、導かず、されど間違えないように言葉を差し込む。

 他のどの大人よりも大人であるという責任を、そうして彼は果たしていた。

 

 気付けば、話の流れは始まりと比べれば正反対と言っていい方向へと変わっていた。

 賛同していない人間も数人居るが、ゼファーに対する悪意は見られない。

 ゼファーが生き残った人間を責める人間を悪く思わないように、その数人もゼファーに対し、同じような気持ちを抱いているのだろう。

 ゼファーは生還者の味方ではあったが、災厄により大切な人を失った人達に対しても、一貫した理解者で居続けたのだから。

 

 ゼファーは響を苛む風潮に敵対した。

 だが、人を敵と定めて否定し傷付けようとはしなかった。

 その結果、"自分達の場所で自分達なりに戦おう"という人間が何人も生まれていた。

 ゼファーと未来の共同戦線とは別の場所で、彼らは明日から戦っていくのだろう。

 

 ふらわーのおばちゃんとゼファーは、集会が行われていた場所から離れ、二人で自動販売機の前に居た。

 

「大丈夫、ですかね」

 

「すぐには変わらないだろうさ。

 ここで決意した人達も、大勢の責める人達に多勢に無勢を強いられるだろうね」

 

「……」

 

「だけど」

 

 彼女は自動販売機に手を突っ込んで、取り出した二つのお茶の片方をゼファーに渡す。

 

「アンタ、明日も明後日も、何かが変わるまでコレを続けるつもりだろう?」

 

 ゼファーはそれを受け取り、礼に頭を下げ、「はい」と答えた。

 

「時間をかければ、すぐに多勢に無勢じゃなくなるさ」

 

「……そうでしょうか?

 なんというか、まだまだ、砂漠の中に落ちた針を探してる気分ですよ」

 

 ゼファーの言葉に頷かず、彼女は少し離れた所を歩いている、先の集会に参加していた大人の二人を指差した。その二人は「やるぞ」と、気合に溢れた声で話し合っている。

 

「あれ、アンタがやったんだよ」

 

「俺が……? いや、そんな、おばちゃんが居なかったら俺なんて」

 

「人が当たり前におかしいと思うことをおかしいと言った。

 人の死を悼むことだけは最後までおかしいとは言わなかった。

 生きていてくれたことが嬉しいと、死んだ人を大切に想ってると言った」

 

 ゼファーは人として当たり前のことを、躊躇わず、迷わず、皆の前で言い切り続けた。

 

「当たり前のことを言っただけじゃないですか」

 

「そう。でも、きっとその当たり前を堂々と言って欲しかった人は多かったんだ。

 テレビのコメンテーターとかじゃなくて、言葉に実感を乗せられる誰かに」

 

 人が迷い、惑い、何が正しいのか分からなくなってしまったそんな時。

 『これは間違っている』と、正しいことを正しいと言える誰かが必要なのだ。

 それも『自分は正しい』と主張するのではなく、人として当たり前のことを迷わず言い続け、その背中に人が『正しさ』を見るような、そんな誰かが必要なのだ。

 困っている人が居たら手を差し伸べるような、そんな普通の正しさでいい。

 それはきっと、一ども止まらない正しさを、優しさのない正しさを否定してくれるはずだから。

 

「……俺には、よく分からないです」

 

「背中を押して欲しいってことさ。背中を押されないと、大きな選択ができない人は一杯居る」

 

「俺だって背中押されなくちゃ何も出来ないですよ。

 ……ここに居るのも、昔背中を押してくれた友達を助けたかっただけです」

 

「それよ」

 

「それ?」

 

 彼女は直感的に思う。

 友達のために動く時のこの少年は、もしかしたら何にも負けないのではないのか、と。

 現実にも、人々にも、世相にも。

 その思考はなんとなく思っただけで、何の根拠も理屈もなかったが。

 先程の集会で、たった一人で大人達をあと一歩の所まで追い詰めたゼファーの声を思い出すと、あながち間違っていないような気がしてくるから不思議なものだ。

 

「アンタが友達を想って口にする言葉は、いい風みたいに心地が良かったんだ。

 友達が好きだって気持ちだけは、皆一度は持ったことのある気持ちだからかな」

 

 彼女はゼファーの手にふらわーの食事券を何枚か握らせ、彼に背を向け去って行く。

 

「頑張んな。綺麗事を現実に出来たら、そいつはナイスガイの証明になるからね」

 

 次は女の子連れで来るかもね、なんて思いながら。

 

 

 

 

 

「綺麗事を、現実に、か」

 

 ゼファーはそんな彼女に対し、同じように背を向け正反対の方向へと歩いて行く。

 

「やりますよ」

 

 食事券をポケットにしまい、目の周りに触れて腫れていないことを確認し、先程までの集会と同じような、社会に影響力のある人達を説得するため、新たな目的地へと足を向ける。

 また傷付くかもしれない。

 また泣いてしまうかもしれない。

 だがそんなことは、足を止める理由にはならなかった。

 

「難しくても、不可能じゃないと、信じてるから」

 

 たった二人の共同戦線は、今日も正反対の戦場で、同じものを守るため、戦い続ける。

 

 

 






最近気まぐれでやってすごく申し訳なく思ったこと

http://irotsuku.com/a/4-py8iol/r/%E5%A5%8F/%E3%82%BC%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC

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