戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ   作:ルシエド

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大学生時代に自由課題のレポートで「ザビエルはTHE BL、つまりホモの宣教師だったんだよ!イエスだね!」ってタイトルで出して満点もらった覚えがあります。ですがこの作品にホモは居ないですよ(念押し)

あ、今回ラスト付近グロ注意です


第四話:Lord Blazer

 ゼファー・ウィンチェスターは基本的に無知だ。

 知識も無ければ割と常識も無い。

 対して、ジェイナス・ヴァスケスは意外にも人一倍知識や常識に長けている。

 ただ、それの活用法が全体的に問題なわけで。

 

 

「ジェイナス、『聖遺物』ってのはなんだ?」

 

「世界各地には現実にあったこととは思えない神話や伝承がある。

 投げれば絶対に当たる槍、願いを叶える杯、王を選ぶ聖剣、不滅の鎧を纏う男……

 だが、最近それらが実在していたんじゃないか、という説が定説になりつつある」

 

「へぇー」

 

「その『神話が現実にあったという証拠』が『聖遺物』だ。

 今の人類を遥かに超えた異端技術(ブラックアート)の塊で、歴史的価値も飛び抜けてやがる。

 ルーツは定かじゃないが、紀元前8000年から3200年の間に滅びた先史文明ってのが定説だ」

 

「きげんぜん?」

 

「……一万年くらい前に作られたすげーアイテムだってことだ」

 

「なるほど」

 

 

 ジェイナスはゼファーにも分かりやすいよう、噛み砕いて話している。

 ゼファーの知識の無さに苛つきつつ、噛み砕く行程の面倒臭さに眉根を寄せては居るが、無知な子供に知識自慢をして優越感に浸る姿は実に楽しそうだ。

 

 聖遺物は先進国で技術的価値、及び歴史的価値の両方を認められている。

 例えば王権神授のエピソードに登場するアイテムが発見などされれば、それが政治的に大きな意味を持つことは誰にだって想像できるだろう。

 無論、聖遺物でない王権の象徴、聖遺物と認定されていないが歴史的価値のあるものもある。

 検証や調査が今でも認められておらずどっちつかずな、日本の三種の神器などがその筆頭だ。

 有史以来に作られた物と調べられない物は、どう足掻いても聖遺物にはなれないのである。

 

 ……が、しかし。

 聖遺物は通常小さな破片程度のサイズで発見され、完全に形を留めて発見されることは珍しい。

 完全に形を留めて発見された聖遺物は『完全聖遺物』と呼ばれ、世間一般で聖遺物として認識されているのはこちらの方だ。

 まあ、当然とも言える。

 例えば日本で「天沼矛の切っ先が見つかったぞ!」というニュースが流れたとして、騒ぐ人間はそう多くはないだろう。切っ先ごときで何を喜べというのか?

 天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)の切っ先を欠けさせたと言われる三種の神器の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)ですら、小さな破片では皇族の象徴とはなれないだろう。

 世間一般の多くの人間には、聖遺物の破片は何の価値も無い物としか思えないに違いない。

 

 しかし、多くの研究者達にとってはそうではない。

 現在の人類を遥かに超える技術水準で生み出された聖遺物は、構造・材質一つとっても人類を大きく進歩させるブレイクスルーの要素となりうるのだ。

 それは未来の技術を現在に持って来ることと、メリットの面でほぼ同義である。

 未知の新物質は兵器や医療だけではなく、人類全体の科学力を底上げし、そこから地球由来でない物質であることが証明されれば宇宙開発へも繋がって行く。

 抽出された技術で医療が発達すれば不治の病は姿を消し、観測機器が発達すれば地球の内部や深海、宇宙の果てに潜む謎を解明するのにも役立つだろう。

 また聖遺物はそこに存在するだけで特殊なエネルギーと波形を放ち、新世代のエネルギー源として研究している者も居る。

 

 神話という切り口から見ても面白い。

 例えば不死殺しの鎌ハルペー、あるいはそのモデルとなった鎌に類する聖遺物が発見されれば。

 仮定に仮定を重ねる形になるが、『魂を切断する鎌の聖遺物』という形での不死殺しであったとすれば、その聖遺物を解析することで『魂の証明』が可能となる。

 例えば、一度投げれば最短で真っ直ぐに一直線に飛び、必ず的に当たって投擲者の手元に帰ってくるという主神ヴォータンの神槍ガングニール。

 解析すれば、現在の火薬武器の概念を根本からひっくり返す技術が得られるかもしれない。

 

 聖遺物は、今の時代において最高にホットでロマンに溢れる研究題材なのである。

 

 そして、何よりも重要な点が一つ。

 「現行人類を遥かに超える、それだけの技術を持っていたはずの文明が何故滅びたのか?」

 という、聖遺物だけが世界に残されていた違和感から当然辿り着く疑問のことだ。

 

 聖遺物は、世界各地で発見された遺跡から発掘される。

 逆に言えば、それらの遺跡にしか先史時代の文明の名残は残っていないのだ。

 先史時代の文明がどういうものであったのか、何故滅びたのか、それを知る者は居ない。

 研究者達は聖遺物や遺跡を徹底して調べ上げ、何が彼らを滅ぼしたのか懸命に調べている。

 その滅びは、時と場合によれば自分達の文明にもいつかやってくるかもしれないからだ。

 

 何故滅びたのか。何が滅ぼしたのか。何故防げなかったのか。

 その滅びは、災厄は、自分達にもいつかふりかかるものなのではないか。

 歴史を研究する者、先史文明の滅亡に危機感を抱いた者にとっても、この聖遺物という研究対象は注目を集める物だったということだ。

 

 今回ジェイナスが持って来た仕事の話も、この遺跡と聖遺物に関するものなのだという。

 

 

「今回ゼファーに手伝って貰いてえのは、この聖遺物に関するヤマだ」

 

 

 地元の民族にのみひっそりと知られていた、バル・ベルデ国境付近にある未踏遺跡。

 もっと詳しく言えばS国との国境近く、フィフス・ヴァンガードの端っこに位置する遺跡。

 ジェイナス曰く、この遺跡を最大限に保全に気を遣った上で探索して欲しいと依頼されたのだという。依頼人は秘密主義で『F.I.S.』の略称を聞くだけでも精一杯だったようだ。

 内部に刻まれた壁画や文字列をカメラで撮影し、内部構造を報告する。

 子供のお使いのようなこれだけの仕事で大金を貰えるという、破格の報酬だ。

 更にジェイナスの交渉の結果、内部で聖遺物の破片を見つけて手渡した場合。

 四人までなら、米国への亡命の手引きをするという条件まで取り付けられていた。

 

 

「亡命……!?」

 

 

 ゼファーの後ろでずっと無言のまま胡散臭そうにジェイナスを見ていたクリスも、ここまでのスケールの話となれば驚愕の声が漏れる。

 クリスにとってはアメリカは馴染み深い、第二の故郷と言っていい国だ。

 降って湧いたような、日本にも帰れるかもしれないという希望。

 クリスの戸惑いを背中に感じながら、ゼファーは一つ一つ確認していく。

 

 

「ジェイナスのことだから、騙されてるとかはないんだよな?」

 

「裏付けは取ってある。それに、ここ数年最近気になる動きがある」

 

「気になる動き?」

 

「米国と日本が裏でこそこそ、聖遺物をかき集めてるって話だ」

 

「これもその一環だってことか?」

 

「ああ。金をチラつかせてリスクを他人におっかぶせるやり方、

 コリアやベトナムの頃から全く変わってねえしな……と、お前は分からないか」

 

 

 ジェイナスが集めた情報によれば、日本はともかく、米国は秘密裏とはいえかつての強盗美……大英美術館を思わせるほどの活動をしているという。

 聖遺物ではないハズレもあるだろうから、おそらくそこまで数は集まっていないのだろうが。

 

 ジェイナス曰く、未開の先史文明の遺跡に聖遺物が無かった例はないという。

 ならばほぼ確実に、安全に、手早くこの仕事がこなせるであろうことは確実だ。

 聖遺物をそこまでして集めている理由までは分からないが、米国も確定で聖遺物が手に入る現状を逃す気はないということだろう。

 

 加えて、アリアス大統領が亡命した後のバル・ベルデへの軍事介入の理由が出来る好機を待っている国はいくつかあり、国連がいずれ動くかもしれないという現状もある。

 米国はジェイナス達の亡命を受け入れれば彼らを利用して世論を調整し、武力介入の理由をいつでも作れるというカードを手に入れることにもなるのだ。

 加えて国連がバル・ベルデに介入してしまうと、人知れず聖遺物を回収して自分達の懐に入れるのが難しくなってしまうという世知辛い事情もある。

 

 更に、クリスの存在も大きい。

 日本でもいまだに報道され、当時は世界中で報道された世界的音楽家雪音夫妻が行方不明となった事件、そこで生き残り生還した雪音夫妻の一人娘。

 彼女の帰還、それを手助けした米国という構図は政治的にとてつもない重みを持つだろう。

 政権への支持率の上昇、日本からの反響、国家単位での人道的アピール。

 日米関係を中心に、その効果は計り知れない。

 ジェイナスはクリス本人に無断でその名前を使ったのだが、ここまでの好条件を取り付けたと来ればクリスも文句を言える筋合いがない。

 

 米国の視点から見ればよく分かる。

 ここまでメリットしか無い取引はそうそうないのだ。デメリットがあるとしてもバル・ベルデとの関係悪化程度だが、そも国交が断絶している時点で関係などあってないようなものである。

 そしてジェイナスが亡命以外に金銭で要求をすればするほど、それに応えられればられるほど、この取引相手は米国という可能性が高まっていく。

 先払いも含めた金銭の額、国と国の距離、全てが嘘であってジェイナス達を殺すのが目的だったとしてそのリスクの大きさ、米国に見せかけるための偽装を為していたとしてそれを可能とするためにどれだけのものが必要なのかという仮定、その他様々な要素が真実を浮かび上がらせる。

 地元民を使って安全に聖遺物回収、亡命してくる政治カード、払うのは国から見れば端金。

 

 ジェイナスの語る理と利から推測できる裏付けに、クリスはそれなりに納得したようだった。

 ゼファーは聞き流してこそいないが、全く理解できていなかった。

 子供でしかないクリスも全部理解したわけではないが、根本的な常識が足らないゼファーにとっては問題外レベルの理解できない言葉の羅列である。

 

 

「だが、安全で確実とはいえ100%とは言いがたい。そこでゼファー、お前だ」

 

「俺?」

 

「遺跡に万一トラップや崩落の危険があった場合、お前の勘で回避できるだろ」

 

「ああ、なるほど」

 

「お前とゼファーだけで行くのか? あたしも……」

 

「戦闘の予定も無いのにお前連れてって何になるんだ?

 こっそり行って手早く済ませてさっさと帰る、少人数の仕事だ。

 第一、俺のバイクに三人乗れるか? 乗れるか? その足りない頭でよく考えてみ?」

 

「こっ、こいつッ……!!」

 

「どうどう、落ち着けユキネ。ジェイナスは無意識の内に息をするように毒を吐いてるだけだ」

 

「だからぶん殴ってやりてえんだよッ!」

 

 

 確かに、ゼファーの勘は遺跡で起こる『もしもの事故』にも対応しきってみせるだろう。

 目、経験、感性からなる凡人の限界値まで鍛え上げられた直感。

 まあ普通に考えれば、銃弾をかわせなんて無茶振りよりよっぽど楽に決まってる。

 とはいえ、少年の直感は厳密には少年自身にしかフルに働かない。根本的に、この直感はゼファー・ウィンチェスターが自らの死だけを回避するために磨き上げたものだからだ。

 よって罠や崩落の危険回避とはすなわち、ゼファーを先行させて安全を確認した道をジェイナスが進んでいくという最悪の戦術を行うことになる。

 奴隷を買って地雷原を歩かせる地雷撤去にも匹敵するド外道戦術だ。

 

 仕事自体は知的労働のジェイナスと露払いのゼファーの二人だけで成り立つとはいえ、クリスの手がわきわきと動いて腰元に下げられたビリーの銃に度々手が行きそうになっているのは、このあんまりにもあんまりな作戦と無関係ではないだろう。

 まあ、「死ぬ前に避ければ死なない」「俺の代わりにジェイナスが死んだら寝覚め悪い」と考えている、良く言えば友人思い・悪く言えばノータリンなゼファー。

 仮にも現状唯一友情を感じている友人で、この最低の居場所から逃げ出せる算段をつけてやるというガラにもない善行をしてやった少年に対し、その命を粗末に扱うジェイナス。

 まんま、悪い大人と利用される子供の構図だ。

 これで仲間意識や友情が芽生えているというがクリスには理解できなかった。

 

 

「さっき、亡命出来るのは四人だって言ってたよな。

 俺と、ユキネと、ジェイナスと、バーさんでいいのか?」

 

「ああ」

 

「ありがとな、ジェイナス。人数交渉してくれたんだろ?

 やっぱお前良いところあるし、嫌われがちだけど良い奴だと思うよ」

 

「……やっぱお前、頭おかしーわ」

 

「えっ」

 

「メスガキ、お前もそう思うだろ?」

 

「ぶっ殺すぞ産業廃棄物系豚野郎……いやまあ、あたしはノーコメントだわ」

 

「えっ、いやちょっと待ってくれよ二人共、俺言われなきゃ今のどこが変だったのか分からねえ」

 

 

 ただ、その友情に理由があるとしたら、きっとゼファーの方にあるのだと、クリスは思う。

 クリスもここではゼファー以外に友達が居ない。

 口調が乱暴で、喧嘩っ早くて粗雑な彼女は子供らしくないということで大人の受けも悪く、数が少ない上に怖がりだったり虚無的だったりする子供にはもっと受けが悪かった。

 本当は照れ隠しだったり、乱暴な言葉を使ってしまったことを後悔するほどにナイーブで、他人の痛みや傷に敏感で優しい少女なのだが。

 生憎、それを分かってやれる、分かった上で接してやれる人間がゼファーとバーソロミューしか――ジェイナスは分かった上でコケにする――居ない。

 加えてクリスは、この地域に最も多い人種、笑って楽しんで人を殺せる狂気混じりの人種とどう足掻いても仲良くなれる気がしない。

 その人種に対して、怒りしか湧いてこないのだ。

 

 クリスもジェイナスも、ゼファーと友人になれたのは、ゼファーの側に要因がある。

 少なくとも、クリスはそう思っている。

 彼には何か、何かがある。

 けれどその何かは、彼女には言葉にするのがとても難しいように思えた。

 彼女はまだ子供で、それを形にする語彙や表現が頭の中に揃っていないのだ。

 ただ、それはあったかいのだと、雪音クリスは知っている。

 

 人の熱に敏感で、あったかい居場所が恋しいのに、暖かすぎると座りの悪さも感じてしまう。

 本当に、雪のような少女だ。

 

 

「ほんじゃま、この話は受けてくれたって事でいいんだよな?」

 

「ん。で、いつになるんだ?」

 

「三日後朝、ここに迎えに来る。戦闘にはならないだろうし装備は任せた」

 

「りょーかい」

 

 

 クリスはゼファーを信じている。ゼファーはそれ以上にクリスを信じている。

 そしてクリスには及ばずとも、少年はそれなりにジェイナスも信じている。

 しかしクリスは、ゼファーが信じているジェイナスが信じられない。

 ジェイナス・ヴァスケスは雪音クリスが忌み嫌う『悪い大人』そのものだ。

 そしてゼファーが悪い大人に利用されている子供にしか見えないことで倍率ドンだ。

 クリスの大人嫌いを助長しているのは、明らかにジェイナスの悪意ある行動とからかいである。

 

 去っていくジェイナスの背中に銃弾をぶち込んでやろうかとクリスが迷うくらいには、ジェイナスはクリスの前で悪事と悪口と悪行を重ねていたし、ゼファーをいいように利用していたのだ。

 クリスの嫌悪など、彼の嫌われっぷりからすればまだ生ぬるい方だろう。

 理と利を示して動かすことがあっても、信でジェイナスが人を動かせることはまず無い。

 ジェイナスに対して損得抜きに動いてくれるのは、本当にゼファーただ一人だけだ。

 

 

「なあ」

 

「ん?」

 

「ゼファーはなんであんな……なんつーか、悪い奴と仲良くしてられるんだよ」

 

 

 クリスはいい機会だからと問うてみる。

 彼女から見てゼファーは文句無しに良い奴で、ジェイナスは文句しかない悪い奴だ。

 仲良く出来ている理由が本当に分からない。

 が、クリスの「分からない」という疑問に対し、

 

 

「分からないから」

 

「は?」

 

「俺にはなんというか、そこまでアイツが嫌われる理由が分からない。

 どこを嫌えばいいのか分からないから、嫌いになれない」

 

 

 ゼファーは「分からないから」と返す。

 人の好き嫌いは本人の食べ物の好き嫌いに比例する、なんてジョークがある。

 少年の語調は、まさしくそのままそれだった。

 「あの食べ物みんな嫌いって言うけど俺は割と好きだよ」みたいなニュアンスで、ジェイナス・ヴァスケスという男を語っている。

 

 

「……あいつ、ゼファーがドンパチやってる時にピンチになっても滅多に出てこないよな」

 

「そうだな。サボってる時の方が多い」

 

「平気でお前の悪口言うよな、お前の前でも」

 

「そうだな。まあ別に気にする程でもない」

 

「今回のとか、見ようによっては盾みたいなもんじゃないか?」

 

「そうだな。というか普通に肉盾だとは思うけど」

 

「……」

 

「どうしたユキネ?」

 

 

 顔に手を当て、クリスは天を仰ぐ。

 どうしたもんかと心の中で空に叫ぶも、夕焼け空は応えてくれない。

 ゼファーはクリスに「そこが変だ」と言われないと、彼女の知る『普通』が分からない。

 そしてクリスからすれば、このゼファーの性格は変であっても悪いわけではない。

 よって、非常に対応に困る。

 

 

「まあほら、一応あんなんでも俺を友達と思ってくれてるらしいしさ。

 友達が悪いことしたらすぐ嫌いになるってなんか変じゃないか?

 そこは悪いって言い続けて直してもらって、

 どうしようもなさそうな時は一緒に謝るくらいが友達としてちょうど良いと思うんだ」

 

 

 クリスの沈黙をどう受け取ったのか、ゼファーは伝わりきらなかった本音の補足を続ける。

 それを聞き、一度クリスは全ての偏見を捨てて考えてみる。

 クリスの知る限りの期間、つまりここ一年で確かにジェイナスの悪口雑言はマシになったかもしれない。元からゼファーには控え目だし、ゼファーの注意が効いていると思えなくもない。

 が、クリスの前で平気で両親を侮辱するし、ジェイナスを闇討ちしようとして『行方不明』になるやつは今でも絶えないが。

 ゼファーに対して死人をネタにして話すことも無いし、分別ができているようにも見える。

 が、クリスと顔を合わせれば雌豚だのメスガキだのと呼んで名前も呼ばず、ゼファーに関わりのない死人は意味もなく平気で罵るが。

 

 

(いややっぱあたしにゃ無理だ、アイツ不動のクソ野郎)

 

 

 脳内でどんなに無茶苦茶に擁護する理由を立ててみようと考えても頓挫する。

 結局、どう見ようがジェイナス・ヴァスケスはそびえ立つクソ野郎なのだ。

 この場合、ジェイナス評が正しいのは間違いなくゼファーではなくクリスである。

 

 もしやホモなんじゃないのか、とクリスの心中に湧き上がる疑惑。

 ジェイナスのゼファーに対するほんのちょっとだけマシな対応が意味深に見えてきた。

 次に会った時、クリスがジェイナスを撃つか撃たないか迷う理由が一つ増える。

 

 

「『どこを嫌えばいいのか分からない』ってのがお前らっしい、ズレた感じのアレだな」

 

 

 ズレてる、と言われて「またか」と言わんばかりに頭をかくゼファー。

 そんなゼファーを見ている内に、クリスの中に「こいつあたしが居ないとヤバいんじゃないか」という危機感が頭をもたげる。

 実際そうなのかは置いといて、確かに誰が見てもゼファーは一人だと危なっかしい。

 クリスも人のことを言えないというかほぼ同類なのだが、その欠点を知った上で「クリスは俺が居なくても別に大丈夫だろう」と思っている辺り、ゼファーとクリスの違いが見える。

 ジェイナスの依存はしてないがクリスが死んだらヤバいというゼファー評と、依存はしているがゼファーが死んでもなんだかんだで大丈夫というクリス評の正しさは、こういう所からも伺える。

 

 

「まあいいや、帰ろーぜ。ハッキリ言って嫌いな両親だけど、命日にケチ付けられた気分だ」

 

「……あ、命日か」

 

「ん? どうした?」

 

「いや、めっちゃ美味い話だったからさ。

 案外ユキネの両親のあの世からの贈り物だったりするのかな、なんて思った」

 

「……アホくさ」

 

「絶対に絶対、結果出して帰ってくるからさ。安心して待っててくれ」

 

 

 両親からの贈り物なんじゃないか、と言うゼファーの言葉に、クリスは複雑な表情を浮かべて空を見上げる。本当にそうだったとしても、素直にクリスは喜べない。

 クリスが喜べるのは「帰ってくる」と約束してくれる、ゼファーの言葉のその部分だけ。

 クリスは口でも態度でも、こんな苦境に自分を放り込んだ両親を嫌っている。

 この地で彼女が重ねてきた困難と、不自由と、理不尽な暴力の全ての元凶と言っていいからだ。

 

 けれどゼファーはクリスが本当に両親を嫌っているのかどうか、いまだに確信を持てずに居た。

 ゼファーはクリスの口から出た言葉が本心であると信じたい。

 しかしそれと同じくらい、彼女が家族に向けていた愛が消えていないことを信じたかった。

 直感に聞いても答えは出てくれない。そこまで万能ではないのだ。

 女の子の内心を正確に読み取るのはゼファーにはまだ高いハードルである。

 ましてそれが、基本ツンデレで二面性があり、度重なる不幸で鬱屈したものもたいそう溜め込んでいる雪音クリスという少女であるからなおさらに。

 

 こういう時、大抵ゼファーは足りない頭を回すのを止める。

 そして、命日の弔いを終えて、少し寂しそうなクリスの手をぎゅっと握った。

 

 クリスも、その手を無言でぎゅっと握り返す。

 両親の命日、未来に見えた大きな展望、その前に見える小さな不安、それらが揺らした彼女の心が、隣に立ってくれている一人の友に支えられて持ち直す。

 どんな形であれ、何かが変わる予感がしていた。

 人の命が弾丸よりも軽い、殺し続けなければ明日も迎えられない、それでも少しは幸せを噛み締められるこの日常が、終わりを告げようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第四話:Lord Blazer

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜、ゼファーは少々の興奮からか寝付きが悪かった。

 

 

「ここから出られる、か」

 

 

 それは、少年にとって願ってもいないことだった。

 フィフス・ヴァンガードから出る方法は皆無、というわけではない。

 しかしリスクがべらぼうに高いのだ。敵国のS国の方向に逃げるにしても、反対側に向かってバル・ベルデを突っ切るにしても、数え切れないほどの銃口を越えていかなければならない。

 死刑囚すら参加していて、国が厳重に監視している対ノイズ・対S国の使い捨て部隊が国境という最悪の立地から逃げ出すのなら、そのくらいのリスクはむしろ必須と言える。

 簡単に逃げられるのなら、そもそも死刑囚が放り込まれるわけがない。

 だから今日まで、ここから逃げ出せる日のことなど、ゼファーは考えたこともなかった。

 

 

(ユキネを、故郷に帰してやれる)

 

 

 ゆえに彼の中にあるこの興奮は、自分の未来への展望ではなく、相棒にして親友である一人の少女のために自分ができることがあった、その一点に尽きる。

 友に報いる喜び、それがゼファーの胸中を満たす。

 

 ……ほんのりと、不安があった。嫌な予感という程でもない、未来へ向かうくすんだ感覚。

 育て上げられた直感が、不穏な気配を感じ取っていた。

 しかし、それを乗り越えなければゼファーはクリスを故郷に帰してやれない。

 直感が感じさせる僅かな恐怖を、友を思うことで得られたほんの少しの気合で打ち破る。

 

 

(アメリカと日本とかよく知らないが仲いいって話だし、多分地理的に近いんだろう)

 

 

 無知はご愛嬌。

 毎日の勉強で多少の知識が付いていても、常識は勉強では身に付けられないのであった。

 寝付けないこの少年は、少年らしさの欠片もなく勉強で眠気を誘おうとしている模様。

 ノートにペンを走らせ、怪我をしようが事件があろうが毎日コツコツとお勉強。

 それでここ数年に習得できたのが、日本で言えば高校生レベルの英語とその他諸々知識である。

 具体的にはクリスとサクサク話せる程度の英語力と、計算火薬治療等知識etc。

 

 ゼファーの勉強は基本的にバーソロミューの課題を解くこと、及びその復習だ。

 覚えるスピードは早いとは言えないが、何度も復習を繰り返して覚えたことは決して忘れない。

 日本語がメインで英語がサブのクリスがスペイン語メインのゼファーと話せたのは、ゼファーに世界で一番使われているからと、英語を教えこんだバーソロミューの功績なのかもしれない。

 この国がスペイン語、英語の順で普及しているとはいえ、英語を皆話せるわけではないのだ。

 

 そして勉強の成果が一番分かりやすく語学に現れている、そんなゼファーが今勉強しているのもまた語学。しかし、それはスペイン語でも英語でもない。

 

 

(ここまで凄まじい言語の国によく住めてたな、ユキネのやつ……)

 

 

 そう、『日本語』である。

 

 

「……うん、眠くなってくるな」

 

 

 ゼファー曰く、「なんで三種もあるんだこれ」とのこと。

 ひらがな、カタカナ、漢字、ついでとばかりにアルファベットも組み合わせて形成される言語。

 微妙なニュアンスの違いは多種多様、漢字は絵にしか見えず、同音異義語の解消というわけでもなく存在意義の分からないカタカナ、丁寧に話すと全く別の言語になる仕様。

 ベースのひらがな五十音だけでアルファベットの倍に迫り、カタカナ五十音でさらに倍率ドン、星の数ほどの漢字で天元突破。心折れる難易度である。

 母音と子音の組み合わせでしかないので発音自体は簡単だが、西暦の年数を超える常用漢字の数から生まれる同音異義語のせいでガンジーが助走をつけて殴りつけてくるレベルに。

 比較的習得が楽と言われるスペイン語がベースにあるゼファーには鬼門と言う他ない。

 まだアルファベットで共通項のあった英語の方が楽だっただろう。

 無論、ノートに書き連ねているのはバーソロミューに教わったことではなく、クリスに教わった日本語の基礎となる文と単語だ。

 

 

「はぁ……だけど、ユキネに負けるのも悔しいんだよなぁ」

 

 

 始まりは、二人で話している時に互いに得意な言語で話していないという事に気付いた時だ。

 例えば日本人が英語で話したって、言いたいことを過不足無く伝えられるわけがない。

 そこで遊び半分、不満の解消半分でクリスが提案したことが「互いに自分の得意な言語を教え合う」という暇潰しの提案だ。

 ゼファーがクリスにスペイン語を、クリスがゼファーに日本語を教える形。

 殺し合いをしていない時は大体二人で銃の訓練をするか、二人で話すかしかしていない少年少女だ。勉強と会話の中間地点のような暇潰しの提案は、すぐにゼファーに受け入れられた。

 

 が、当然のように覚えの早さに差が出始めた。

 二人共英語を使えるという前提でのスペイン語と日本語では、習得の難易度に差がありすぎる。

 まして、クリスは平均よりは勉強ができるタイプだが、ゼファーは頭の良い方ではない。

 こうして夜中にクリスが寝てからゼファーが寝るまで、あるいはゼファーが起きてからクリスが起きるまでの間の復習の時間があって、ようやく二人の習得率は拮抗している。

 寝る子は(胸も)育つの格言の通りクリスはよく寝る子供で、ゼファーは昔から短い睡眠で十分疲れが取れるタイプであった事も幸いした。

 なんとなく不公平な気がしないでもないが、こればっかりはクリスの才能の問題ではなくゼファーの不器用さの問題である。相も変わらず、良い意味でも悪い意味でも頭が悪い。

 勉強する必要に迫られてもないのに、対抗心から人知れずこっそり張り合っている辺りが特に。

 

 

「……『は』? 『わ』? あれ、これ読み同じだっけか……?」

 

 

 似た者同士のゼファーとクリスであるが、こういう所にも違いが出る。

 ゼファーはこうしてコツコツ何かを積み上げていくタイプだが、クリスは自分が好きでもないことに長い時間をかけてコツコツ積み上げるのが好きではない。

 銃の才能を見ても分かるように、クリスは頑張るのは嫌いじゃなくても努力はあまり好きじゃない、そんな自分を才能と行動力で埋めるタイプなのだ。

 手を抜けない、怠けられない、そういう発想が持てないゼファーと組み合わせれば実に破れ鍋に綴じ鍋だと言えるだろう。

 雪音クリスは、つまるところ一貫して努力とは無縁の少女である。

 

 ただし、厳密に言えばクリスだけではなくゼファーも本当の意味では努力家とは言えない。

 広義で言えば努力家のカテゴリには入る。

 しかし、努力とは本来『なりたい自分になるためにするもの』なのだ。

 

 高校球児が今よりも上達した自分を夢見、甲子園に立つ自分になるために。

 受験生が自分の未来の姿を夢見、望んだ大学に進学した自分になるために。

 剣士が技を極めた自分を夢見、一角の人物と名を残した自分になるために。

 なりたい自分、成したい未来を見据えた上で自分を磨き上げることこそ、努力。

 「努力は他人のためにするものじゃない」の格言の通りに、核には自分を据えるべきなのだ。

 

 なりたい自分を夢見て、遠い遠いゴールを見続け、困難や辛い気持ちをぐっとこらえて、人生という限られた時間を無駄遣いせず注ぎ込み、克己しながら自分を磨く。

 どんな形であれ、未来を見据えない努力などありはしないのだ。

 クリスは自分の胸の中に息づく『本当の夢』に気付いていない。

 今の彼女はなりたい未来の自分からも目を逸らした、夢を持たない女の子だ。

 ゼファーに至っては、なりたい自分なんて考えたこともない。

 生きたい、けれどいつかは野垂れ死ぬだろう。そんな風にぼんやりと考えていただけの少年だ。

 ゆえに、ゼファーもクリスも今のままでは努力なんてできるわけがない。

 この国を何としてでも脱出しなければ、未来の自分なんて見据えられやしないのだ。

 

 

「数字の使い方は同じ……って当たり前か」

 

 

 バーソロミューがゼファーに勉強をさせているのは、ゼファーの未来のためだ。

 ジェイナスが提示した話に悩みながらも彼が同意を示したのも、ゼファーの未来のためだ。

 しかし、ゼファーにはなりたい自分も成したい未来も考えられない。

 そんな状況で重ねる勉学に、何の意味があるというのか?

 

 小難しい本を読むと眠くなる原理で、次第に微睡んでいくゼファーの思考。

 頑張ることは出来ても、努力することが出来ない少年の一日は、こうして終わりを迎えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 

 

(……やっぱ、不安が拭えないんだよな)

 

 

 自宅の大掃除を始めたゼファーに家を叩き出されたクリスは、ブラウディア宅へと向かっていった。近日中にこの国を出ることになるかもしれないというのに、掃除や勉強の習慣は欠かさないというのがなんともゼファーらしいと彼女は思う。

 要件は当然、今回ジェイナスが持ってきた件だ。

 バーソロミューはクリスの周囲で一番まともかつ最年長……と言うより、クリスが友好的に会話が出来る希少な二人の内一人だ。

 何かしらの意見が欲しい、というのが一つ。

 

 

(それに、もう一つ)

 

 

 ゼファーやバーソロミューと一緒に国を出る、という部分を考えた途端、クリスの思考の端っこに引っかかる事があった。

 ゼファーとバーソロミューの会話をクリスは何度も見ているし、ある程度は覚えている。

 ただ、それらを「国を出られたら」というフィルターを通して見てみた時、浮かび上がる違和感があった。

 

 バーソロミューはこの辺りではそれなりに偉く、ぶっちぎりで賢い。

 もしもジェイナスの持ってきた話と関係なくこの地を出る策を練った場合、バーソロミューが主導する作戦が一番成功率が高くなるだろう。クリスでなくともそう思うはずだ。

 そしてクリスが見る限り、ゼファーを溺愛するバーソロミューが、ゼファーをこの国から逃がさずに今も戦いの最中に置いていることに違和感はあった。

 危険ではあるが、彼ならゼファーを逃がすことはほぼ確実に可能であるとクリスは思う。

 それほど、この地で対ノイズや紛争においてバーソロミューが振るってきた采配は優秀で、かつ周囲とは格が違う事を知らしめていた。

 

 ゼファーに正規軍の話を振ったり、この国を出た時の話を振ったりはしていた。

 けれど、クリスが今思うにそれは予定調和でしかなかったようにしか見えない。

 バーソロミューがここに居る限り、バーソロミューを見捨てていけないゼファーはこの地から出ていけない。答えはノー以外ありえないのだ。

 それでいて、バーソロミューはこの地から頑として出ていこうとしない。

 結果、ゼファーもバーソロミューもいつ死ぬかも分からない戦場に出続ける。

 ゼファーという飼い犬を縛り付ける鎖、それを打ち込む家族という杭が見えるようだ。

 

 結果的に見れば、バーソロミューの言動や行動は最終的にゼファーをこの地に留めている。

 簡単に出られる場所ではないとはいえ、たとえ簡単に出られる場所であったとしてもゼファーは出ていけなかっただろう。バーソロミューという家族(くさび)があるから。

 ここが死地と知った上で、ここでゼファーを手放さずに居座り続ける。

 バーソロミューはゼファーの幸せを望んでいる。しかしバーソロミューの行動がゼファーの幸せを阻んでいる。それにバーソロミューが気付いていないわけがない。

 

 家族というフィルターを外し、自分なりのフィルターに付け替えた結果。

 少し前までクリスの瞳に「多少マシな大人」として映っていた男は、ひどく歪んで禍々しいものであるように見えた。

 地獄の底に、道連れとして生者を引っ張り込む鬼のような、そんな姿。

 

 無論、気のせいでしかないのかもしれない。彼女の妄想でしかないのかもしれない。

 しかし生まれた疑問をごちゃごちゃ考えず、直接ぶつけに行くのが彼女の性格だ。

 勘違いならよし。勘違いでなかったら、ぶっ飛ばしてゼファーを連れて行く。

 二面性があっても、雪音クリスの思考回路は非常にシンプルで分かりやすい。

 

 

「――――♪」

 

 

 まあなんとかなるだろ、と思いながら、クリスはおもむろに口笛を吹き始めた。

 世界的に知られた音楽家二人の娘であり、自身も歌を好むクリスの奏でる旋律は、たかが口笛と笑えないほどに整った美しい旋律を奏でている。

 単純な旋律であるほどに、それを奏でる人物の才覚が問われるのだ。

 今ではそばで耳にする機会の多いゼファーが、時々真似をしているくらいに人を惹きつける音楽が、雪音クリスという少女の中から生まれている。

 口笛もまた、一種の歌。

 荒野に少年少女が吹く口笛は、耳にする者を不思議な気分にさせるのだ。

 ジェイナスですら、この口笛に文句を付けたことはない。

 

 クリスもまた、この口笛や歌が好きだ。

 彼女の口笛を耳にしている時のゼファーはとても穏やかな顔をしていて、口で言われなくとも喜んでいるのが露骨に分かる。

 雪音クリスは音楽家夫妻のサラブレッドだ。自身の奏でる音楽を聞いて喜んでもらえることに、彼女の中に流れる血が達成感を生み出しているのだろう。

 音楽機材がない上、クリスにはまだアカペラで一曲演じられるだけの技量がないため、彼女が音を奏でられるのは今の所口笛のみだが、それですら十分過ぎる。

 喜んでくれる観客が居るのなら、それだけでその人は、自分の歌を好きになれる。

 当たり前の道理だ。

 

 ただ、歌と音楽はクリスにとって両親の象徴でもある。

 それが無ければ無邪気にただ好きで居られたのだろうが、無かった事になんて出来やしない。

 だから、時々気が向いた時にしか口笛は吹かない。

 この一年で両親を含めた自分の中の色んなことに整理を付けて、それでようやく、だ。

 曲に詩を乗せて歌を紡ぐこと、それはクリスにとって自分の中の傷をまた一つ乗り越えることになるのかもしれない。

 「あれとあれは別だ」と割り切ること、それを続けて行けばいつの日にか過去と今を割り切ることも、嫌いになりたくないけど嫌いで仕方ないものを嫌いでなくせる、そんな日も来るだろう。

 

 

「――――♪」

 

 

 今、クリスが奏でている口笛の元となった曲。

 それは彼女がクリスマスに貰った、両親がクリスだけに捧げる曲として生み出したもの。

 彼女だけの旋律だ。

 

 今は両親への愛憎でくすんでいるその歌の輝きも、その思い出に感じたはずの感情も。

 「私達二人で作った、クリスだけの曲と旋律」と口にした母。

 「クリスが好きな調と歌詞を付けていい」と口にした父。

 「そうすれば、これが初めて家族三人で作った歌になる」と口にした両親。

 二人にクリスが抱いている本当の本音も、きっと形に出来るはずだ。

 

 彼女が数え切れないほどにその身に受けてきた理不尽と不幸、その原因となった両親の今は短慮にしか見えない行動、それを許したいのであれば。

 自分を納得させられるだけの両親の真意をクリスが知るか、両親を許せるだけの『愛』をクリス自身が示すしか無いのだから。

 大抵の事は許せるから、愛と言うのだ。

 

 

「お、ついたついた」

 

 

 そしてクリスは、バーソロミューがゼファーに向ける家族愛を確かめるため、ここに居る。

 

 

「ちぃーっす、爺さん居るかー?」

 

 

 ようやく付いた、とは言ってもそこまでは離れていないブラウディア宅。

 ノックし、返事が返って来たことを確認し、ドアを開けてずんずん奥へと進んでいく。

 が、しかし。

 

 

「げっ」

 

「げっ、とはご挨拶だなクソガキ」

 

 

 なんとジェイナス。

 思わず腰の銃に手が伸びそうになるクリスであったが、自制心で何とか思い留まる。

 テーブルを挟んでジェイナスの向かいにバーソロミューが座っていなければ、銃口を向けて脅すぐらいはしたかもしれない。

 

 

「おお、クリスか。何か用かのう?」

 

「ああ、あたしの話は後でいいよ。そっちの話が一区切りしてからでいい」

 

 

 そう言って、クリスは部屋にズラッと並んだ本棚へと向かう。

 その気になれば一週間は本だけ読んで暮らせるかもしれないほどの量だ。

 そこに暇潰しに読む本を探しに行くフリをして、クリスは二人の会話に耳をそばだてる。

 ゼファーほどではないが一角の天才であるクリスの勘が、この会話を聞き逃すべきではないと、そう彼女に囁いていた。

 

 

「考えは変えんか」

 

「メリット、デメリットを提示してみろよジジイ。

 俺の案より有用な代案示すか、明確な否定材料持ってきたら考えてやる」

 

 

 どうやら、バーソロミューは例の件でジェイナスを思い留まらせようとしている様子。

 ジェイナスは揚げ足取りに、バーソロミューは理路整然と話すのに長ける。

 しかしクリスは耳を傾けて聞く限りでは、ジェイナスがかなり優勢のようだ。

 と言うより、バーソロミューの主張にいまいちキレがない。

 主張に時々無茶な部分が入るというか、この国を出ない方がいい、ゼファーを巻き込まない方がいい、そういう結論ありきで話しているようにも聞こえる。

 年の功でそういった本心を隠すのが上手いバーソロミューに、会話術のイロハなんて全くないクリスがそう感じているのだから、声色に現れない焦りが見て取れる。

 クリスの心中の疑念が、一層濃さを増した。

 

 

「ゼファーは賛成してるぜ? 遺跡が危険かもしれない、なんざアンタは言うがな。

 普段平気でノイズと戦わせたり、最前線に送り込んでたてめえがそれを今更言うか」

 

「ワシが平気なわけが――」

 

「矛盾してんだよ。せめて主張にスジ通して来い。

 ゼファーの幸を軸に主張するなら、てめえはここで反論なんか出来やしねえんだ」

 

「む、う」

 

「あの『家族ごっこ』が嘘じゃないんなら、な」

 

 

 ジェイナスは相手の突かれたくない部分を突き、揚げ足を取り、嘲笑い、時に詭弁と正論を織り交ぜて相手の発言を封じ込む。

 相手を丸め込むのではなく、徹底して相手に反論をさせない形で黙らせる。

 だから恨まれるのだが、相当に不利でもなければまず口喧嘩では負けやしない。

 人間というものをよく分かっている、そういう悪意ある話し方だ。

 聖人が敵対する他人すらも丸め込んで自分の信奉者にする人間であるのなら、ジェイナス・ヴァスケスはその180°対極にいる人間と考えて間違いはない。

 

 そんなジェイナスを、スジの通らない主張で負かしたいのなら切り札が要る。

 バーソロミューは目を閉じ、深呼吸して溜息。一つ、何かを心中で決めた様子で、口を開いた。

 

 

「兄への復讐か」

 

 

 いつでも誰にでも向けている、ジェイナスの小馬鹿にしたようなニヤついた笑み。

 その笑みが消え、無表情になるのを、雪音クリスは初めて見た。

 感情からではなく、波一つ立たない静かな理性から生まれる冷たい殺意を。

 「どう殺すか」という思考を一片の感情も混じえず走らせている人間の、人間らしい暖かさを捨て切った恐ろしい殺意の流れを、初めてその肌で感じ取っていた。

 

 

「この国における独裁政権の頂点に立っていた、アリアス元大統領のたった一人の弟。

 権謀術数に長け、兄のあらゆる政敵を蹴落し、敵対する者を全て罠に嵌め、

 兄の独裁政権を一代で盤石なものとし、誰かも信用されなかった悪魔のような男。

 最後には兄からも信じられずに恐れられ、放り込まれた牢の中で死刑を宣告された男」

 

 

 それはまるで、死刑囚の罪状を読み上げるような宣告だった。

 全てを知っているぞと、そんなバーソロミューの無言の言葉が言外に伝わっていく。

 

 クリスがこの国の成り立ちについて知っていることはそう多くはない。

 そも九歳の彼女は、自分の生まれた国の成り立ちすら詳しくは知らないのだ。

 バル・ベルデ共和国の歴史はかなり浅く、建国から50年も経っていない。

 中南米の共産圏となり得る危険な国として冷戦中は西側にマークされていたが、冷戦終結後しばらく後に政権を握った党が共産主義であったこともあり、共産系党独裁政権が樹立。

 その後23年間一党独裁が続き、約一年前に最後の大統領アリアス・ヴァスケスの在任中に反共産市民団体が蜂起し、アリアス元大統領が国外に亡命して現在に至る。

 隣国のグアテマラ内戦への介入は、公然の秘密として世界に知られているほどだ。

 

 独裁政権の利点は全てが淀みなく、一つの意思によって動かせること。

 欠点は、その国で生まれる全ての不満が、国のトップに向かう日が来るということだ。

 兄アリアスと弟ジェイナスが国を自由に動かせるだけの権力を手に入れたその時、既にこの国は死に体と言っていいほどの有り様だった。

 国に売りに出来る資源はなく、半ば汚職とコネで構成された国政はガタガタ、国の血管であるインフラも死に体、関税を初めとする収入ももはや風前の灯火、更にノイズまで居る。

 下がる支持率、爆発寸前の市民感情、国外からの介入も時間の問題。

 ある種のトカゲの尻尾、それがアリアスに期待されていた役割だった。

 ジェイナスはその運命に抗い、兄を守るために奔走した。

 

 時に騙し、時に毒を盛り、時に裏切り、時にマスコミを使って蹴落とし、時に闇討ちし。

 誰からも信じられないままに恐れられ、それでも兄だけは裏切らなかった。

 ただの先延ばしにすぎないと知りつつも国を延命し、自分達が悪いと知りつつも弾劾してくる正しい人々を吊り殺し、弱者を踏みつけ強者を煽り立ち回る。

 悪でなければならなかった。そうでなければ、彼も兄も生き残れなかった。

 生き残らなければ、その一心で誰も信じぬままに他人の背中を刺し続ける。

 誰もが彼を信じないままに、彼を恐れ、侮蔑した。

 最後には彼の兄アリアスですら、弟の彼を信じず、恐れ、侮蔑した。

 

 ジェイナスが殺した中にはヴァスケス兄弟の父も居た。兄の恋人も居た。

 アリアスがジェイナスを信じられる理由などどこにもなく、兄は弟がいつ自分を不要な存在として絞首台に送るのか、それだけしか考えられなくなっていた。

 

 

―――何故だ、兄貴

―――俺には、弟であっても、お前を信じられる理由がない

 

―――兄貴まで、俺を裏切るのか

―――お前を信じられる人間が居るなんて、俺には思えない

 

 

 全てが終わり、最後に唯一信じていた兄に裏切られた彼の胸中は、いかほどのものだったのか。

 その兄が、ジェイナスが心骨を削って作り上げた権力の全てを投げ捨てて、他国へ亡命したと聞いた時、弟は何を思ったのか。

 彼らにとって家族とは、最後に自分を裏切り、全てを否定するものでしかなかったに違いない。

 

 ジェイナスがその最後の大統領の弟であると、バーソロミューは言う。

 この地には、死刑囚も流れ着く。ジェイナス・ヴァスケスは自分の兄に裏切られ、死刑を宣告され、人の命を弾丸よりも安く使い潰す立場から、使い潰される立場に転げ落とされたのだ。

 おそらく彼に恨みを抱いていた者達の中の誰かが「最高にみじめな死に方」として、このフィフス・ヴァンガードに送り込むことを提案したのだろう。

 国の上層ほぼ全員が顔を知る怨敵だ。

 顔写真を要所に回しておけば、どんな形であれジェイナスがこの地から脱走すれば即座に特定され射殺されるだろう。

 米国の力を借りるなんていう、ウルトラCでも無い限り。

 

 

「兄へのあてつけに国外で幸せになるのか、亡命した兄を始末しに行くのか。

 どちらかは知らんがそんな私情にゼファーとクリスを巻き込むなど、看過できん」

 

 

 嘲笑ういつもの表情をやめ、氷の視線を向けてくるジェイナスを意にも介さず、バーソロミューは言葉を続ける。

 ジェイナスの過去を知るバーソロミューだからこそ、ゼファーへのジェイナスの善意のようなものが信じられない、それもあるのだ。

 彼はその裏に、ジェイナスが無縁では居られない兄の影があるのでは、と疑っている。

 そうでなくとも、兄の話を持ち出されてはジェイナスは冷静では居られない。

 そういう打算のもと、バーソロミューはジェイナスの兄のことを会話に出した。

 バーソロミューの現状を打開する一手、しかし。

 

 

「ああ、あのクソ兄貴なら亡命先で今頃『行方不明』になってるだろうさ」

 

「……な、に?」

 

「準備だけはしてたが、あいつが亡命したせいで予定より半年ほど実行が遅れたちまったよ」

 

 

 予想外の反論に、バーソロミューの思考が止まる。

 意味は理解できる、匂わせている事実は分かる。

 ただ、その『行方不明』が示した凄惨な出来事が、バーソロミューの意表を突く。

 話を盗み聞いていたクリスが思わず振り向いてしまうほどに、その事実はおぞましい。

 

 

「曹孟徳曰く、

 『寧ろ我れ人に負くも、人をして我れに負くこと毋からしめん』

 昔の人は実に分かりやすい真理を吐くよなぁ、そう思うだろ?」

 

 

 クリスには意味が分からなかったが、バーソロミューには伝わったのだろう。

 眉間のシワが増している。

 

 

「あとな、ジジイ。俺が知らないとでも思ってたのか?

 俺はお前らみたいな情報を集めなくても死なねえような立場の凡俗とは違うんだぞ?」

 

 

 そして、返し刃の口撃が迫る。

 バーソロミューは切り札を切って反撃したのではない。

 単に、ジェイナスが越えていなかった一線を、越えさせただけだった。

 今度はジェイナスが、バーソロミューの致命の傷を口にする。

 

 

「『アルテイシア・ウィンチェスター』」

 

 

 ジェイナスの嘲るような顔が戻ると共に、今度はバーソロミューの表情が変わる。

 ついて行けずに傍観していたクリスだが、その顔を見て思わず一歩後ずさってしまう。

 普段は快活で、歳相応には見えない筋骨隆々とした初老の男。

 バーソロミューが、まるで水分を失った植物のように、美術館のミイラのように、萎れている。

 無論、変わったのは表情と雰囲気だけだ。

 なのに、ただそれだけで、その風貌はまるで別人のようだ。

 

 目は見開かれ、口は半開きのまま言葉を紡げないままに僅かに動き、冷や汗が流れ、体全体が小刻みに震えているようにも見える。

 その姿が、何故か、クリスの脳裏に一つの想像を走らせる。

 『死から逃避させたまま歳を重ねてしまえば、ゼファーもこうなる』。

 妄想だ。何の根拠もない妄想だ。

 だがその想像は、何故か途方も無いリアリティを伴って、クリスの身体を震わせた。

 

 

「英雄『バーソロミュー・ブラウディア』。

 うちの兄貴が台頭する前に姿を消した、バル・ベルデがS国から独立する際の立役者。

 気が付けば誰もかも掌の上で踊らされてた手腕は『魔法使いのようだ』ど恐れられた男。

 それがあんただ。知られてこそいなかったが、あんた娘も居たらしいな?

 妊娠してたあんたの娘とその夫は、十数年前のデモの大規模粛清に巻き込まれて死んだ」

 

 

 バル・ベルデの歴史を考えれば、おそらく十代から彼は活躍していたのだろう。

 独立に最も尽力した彼の娘夫婦が、その国に殺されたのは皮肉としか言いようがない。

 誰もが手の平で躍らされるようだと称された知者が、事故のような思い通りにならない出来事で全てを失うというのも、まさしく皮肉だ。

 

 

「あんたの娘の名は、旧姓アルテイシア・ブラウディア!

 当時のカルテにメモされていた、

 生まれてくる孫に付けようと予定していた名は『ゼファー・ウィンチェスター』!」

 

 

 クリスがバッと顔を向け、嘘だと否定して欲しいという願いを込め、老人を見る。

 しかしバーソロミューは、何も否定せず、力無く椅子に寄りかかるだけ。

 その哀れな姿が、全てが真実なのだと肯定していた。

 

 

「てめえは死に場所を探して、こんな所に身を投げた。あんたはここに自殺しに来たんだ!

 そのくせ、そこで拾った赤ん坊に生まれることすらなく死んだ孫の名前を付け始めて!

 孫の代用品にして、家族ごっこして、話さなきゃ誰にもバレねえとでも思ってたのか!

 国も、娘も、孫も、何もかもから向き合うのを投げ出してッ!

 一番死んだ人間から目ぇ逸らしてるのはどこのどいつだッ!」

 

 

 クリスは、ようやくジェイナスに向けられるゼファーの気持ちをほんの少しだけ理解した。

 全てを知っていて、それでも悪口雑言に混ぜてこの事をバーソロミューに言わなかったこと。

 自分の家族のことを突っつかれて初めて口に出したこと。

 ジェイナスは、何があってもバーソロミューの娘と孫のことを誰にも語らなかった。

 無数の悪意に混ざる、砂粒のような善意だった。

 今のジェイナスは、理由こそハッキリとは言えないが、明らかに怒りを込めて罵倒している。

 

 

「ゼファーに、このことは」

 

「言う訳ねえだろ……言ったら、最近マシになってきたとはいえ限界越えちまう。

 あいつはいい奴ではあっても、強い奴じゃない」

 

 

 ようやく絞り出したように言葉を口にしたと思えば、バーソロミューが口にしたのは、孫のように思うゼファーとの関係の破綻を恐れるそれ。

 苛ついたように、ジェイナスは返答を吐き捨てる。

 ジェイナスは、何があっても彼の娘と孫のことを誰にも語らなかった。

 無論、ゼファーに対しても。それはゼファーの家族という支えの崩壊を意味していたからだ。

 それもまた、無数の悪意に混ざる砂粒のような善意だった。

 

 

「死にたかったんだろ、ここで。

 ゼファーに死んで欲しかったんだろ、ここで。

 生きて欲しい気持ち、幸せになって欲しい気持ちだけじゃなくて、

 ここで家族と一緒に死んで欲しいって気持ちもあったんだろ?

 そんなクソ親の心中願望に付き合わされる子の気分とか、想像もしたくねえな」

 

 

 ジェイナスの悪意ある解釈が、クリスの中にストンと落ちていく。

 クリスは今まで、バーソロミューの良い面しか見ていなかった。

 ジェイナスは悪い面しか見ていない。

 ゆえにようやく、今まで抱いてきたバーソロミューへの疑問が氷解し、本当の意味でバーソロミュー・ブラウディアという人間を理解できている気がしていた。

 

 

「ゼファーは頭が悪い、全部は気付いてねえ。

 だがゼファーは飛び抜けて勘がいい、何も気付いてないわけがねえ。

 うっすらとした不安を感じてるはずだ。

 だからあいつは、どんなに頼まれようがお前を『爺ちゃん』って呼ばねえんだよッ!」

 

 

 だが、それとこれとは話が別だ。

 事実であっても、ジェイナスの吐く毒はバーソロミューを殺しかねないほどに強い。

 クリスはジェイナスの腕を掴み、仲裁に入る。

 

 

「おいジェイナス、いくらなんでももう言い過ぎ――」

 

「黙ってろクソガキ!

 てめえも自分を守ってくれるパパとママの代わりだったら誰でも良かったんだろうが!」

 

 

 掴まれた腕を振り払い、ジェイナスはその言葉を大声で遮る。

 バーソロミューの良い所も知るクリスは、黙って見てはいられない。

 そんなクリスに対しても、普段ジェイナスが口にしていない思う所はある。

 

 

「代用品だの相棒だのと喧嘩してあいつと分かり合ったみたいなツラしてるがてめえなんか──」

 

 

 しかし、罵倒を口にする最中に殴り飛ばされた。

 

 

「てめえがなんでそこまで人に嫌われてるか、あたしは今ようやく分かった気がするよ」

 

 

 口喧嘩? いいえ、全力パンチで終了です。

 

 

「そうやってそれっぽく聞こえる言葉で、相手の言い返しにくい言い回しで、

 相手が言い返しにくいこと引き合いに出して、他人を貶してれば嫌われて当然だ!」

 

 

 そんなクリスの黄金の右にふっ飛ばされ、床に転がったまま左頬をさするジェイナス。

 クリスは、ジェイナスが途中から罵倒を楽しんでいたことに気が付いていた。

 ゆえに人を傷付ける悪い奴を殴り飛ばした。それだけだ。

 クリスは常に虐げられる側の味方であり、虐げる者の敵として在る。

 

 

「あたしはあいつに対して何も恥じることなんてないッ!

 パパとママの代わりなんかじゃないし、あたしの大切な友達で相棒だッ!

 お前の中途半端な悪口なんて、胸を張って否定してやるッ!」

 

 

 ゼファーとの友情を否定されても、堂々とそれを否定し返す。

 ゼファーは誰かの代わりなんかじゃないし、自分は誰かの代わりなんかじゃないと。

 胸を張り、自分を知り、友を誇るクリスには、彼女の言う通り中途半端な悪口なんて通用するはずがない。

 凡夫ではない、優しさが根底にある怒りと暴力、それを伴った強い意志。

 

 

「ハッ、言ってろ」

 

 

 堂々と自分の悪口を跳ね返す少女を見て、ジェイナスは口角を上げる。

 嫉妬、羨望、絶対にああはなれないという憧れと不満が胸中を満たし嘲りの笑顔を浮かばせる。

 こうして悪口を真っ向から否定され、殴られたのはビリー以来だろうか。

 そんな懐かしさが、バーソロミューへの罵倒に熱くなっていたジェイナスの頭を冷やす。

 ほどなく、ジェイナスはらしくもなく熱くなってしまった自分を恥じた。

 

 

「俺が嫌われてる理由がようやく分かった?

 嫌われてる理由なんざ百も承知だ。だが生まれつきの生き方を変える気なんてさらさらねえ」

 

 

 生まれつきの嫌われ者。

 息をするように毒を吐き、罵倒してしまう性格。

 変えようと思ったことなんてない。

 

 

「だからこそだ、だからこそなんだよ」

 

 

 ジェイナスが熱くなってしまった理由など、単純明快で。

 

 

「だからこそ、そんな俺を嫌わずに居てくれる、

 こんな俺をダチだと思ってくれてる、

 どんな俺でも忘れないで居てくれる奴だけは、大切なんだよ」

 

「……!」

 

 

 ジェイナスは、クリスの嫌う悪い大人だ。

 けれど、完全無欠に悪い部分だけで構成された人間なんて居るわけがない。

 誰だって良い所があって、悪い所がある。

 世の中には良い人悪い人のどちらかしか居ないと思っていたクリスにとって、今始めて見る本音の友情を見せたジェイナスの姿は、青天の霹靂だった。

 友を大切と語るジェイナスの言葉に、クリスは彼に嫌悪を持ちながらも共感してしまったのだ。

 そして、良い人でありながらも悪い人と仲良くできるゼファーの姿勢が、以前よりも理解できないものと感じられなくなっていた。

 

 

「こんな場所に居たらいつか必ず死ぬ。俺も、ゼファーもな。

 てめえらはただのついでだ。俺は必ず生き残るし、生かしてみせる」

 

 

 生きようとする意志。生かそうとする意志。

 そのためならなんだって平気で踏み付けにするという黒い悪意。

 勇者のような勇気でもなく、魔王のような不動の悪性でもなく、どこまでも薄汚い小悪党が固めたような、そんなどこにでもある生き汚い覚悟。

 悪人が恩人に仇ではない形で恩を返す、そんな構図だった。

 

 

「第一だ。嬢ちゃんは言い返せたが、そこのジジイはどうなんだ」

 

 

 ジェイナスが、無言のまま話に加わってこないバーソロミューを視線で示す。

 そこには変わらず、力の抜けた姿勢のまま項垂れる男の姿。

 クリスは向ける言葉もなく、視線を逸らす。

 ジェイナスはゼファーを貶しつつも友と思い、馬鹿にしつつもクリスをその隣に相応しいと認めつつ、しかしバーソロミューには嫌悪しか示さない。

 誰に対しても悪意をぶつける悪人とて、人の好き嫌いはある。

 『家族』というものに思う所のあるジェイナスならば、なおさらだ。

 そしてクリスも、『家族』には思う所がある。

 せめて何か一つでも反論できていたら、クリスの立ち位置もまた違ったのだろうが。

 

 

「注意しとくぜ、『雪音クリス』。

 そこのジジイがクソ野郎だと思う俺の言葉と気持ちに嘘はねぇ。

 今の内に縁を切らなきゃ、最悪の結末しかねえぞ」

 

 

 ジェイナスはタバコに火を付け、部屋を出ていこうとする。

 初めて名前を呼ばれたことにクリスは目を白黒させるも、しっかりと返答する。

 それは一つの、決別だった。

 

 

「だとしても。

 あたしは、笑って誰かを傷付ける言葉を吐くお前みたいな奴を絶対に肯定しない」

 

 

 絶対に、お前みたいな奴とは分かり合わないと。

 許さないと、存在を認めないと、否定してやると。

 獰猛に歯を見せて、戦意を込めて宣誓する。

 

 

「お前みたいな誰かを傷つける意志と力を持ってる奴らを、

 あたしがいつか一人残らず全員ぶっ潰して、戦争なんてものを無くしてやる……!」

 

 

 余りにも青臭い、実現不可能な意志をジェイナスは嘲笑う。

 その理想ではいつか折れること、いつか不可能であると膝をつくこと。

 一つの騒乱の種を潰す度、彼女が騒乱の種になって行くであろうこと。

 そんな彼女の暴挙を、ゼファー・ウィンチェスターが許さないであろうことを分かった上で。

 

 

「お前に戦火を無くせるわけがねえ。だってお前は、弱者の味方しかできねえんだから」

 

 

 未来予想に近い呪いを一つ吐き、ブラウディア宅を出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジェイナスはバイクを走らせる。

 頬が痛む。クリスは本当に本気で一片の加減もなくストレートを放っていた。

 

 

「おー痛ぇ。クソ、やっぱ従順じゃない女とか価値ねえわ」

 

 

 独り言ですらクズなジェイナスは、ふと通りがかった建物の前で単車を止める

 

 

「おいゼファー」

 

「ん? ああ、ジェイナスか。明後日の件で何か用か?」

 

「嫁にするのはああいう女はよしとけ、後々苦労するぞ」

 

「何言ってんだお前」

 

「女は適度に頭悪くて献身的な美人が一番だ。あと太らなそうなの」

 

「いや本当に何言ってんの?」

 

 

 干していた寝具を片付け始めるゼファーを尻目に、ジェイナスはタバコをふかしながら、憎たらしい青空を見上げていた。

 自分が他人を裏切っても、自分を裏切る人間は許さない。それがジェイナスの信条だ。

 最後の最後、ジェイナスは自分を裏切らないと思っていた兄に裏切られた。

 自分が裏切ってきた過去があったから、自分が裏切られたのだと納得もした。

 

 自分は、ゼファーを裏切れるのか。

 ゼファーは、自分を裏切るのか。

 そんな思考が、ジェイナスの脳裏を駆け巡る。

 

 

「疲れてんだよ、ジェイナス。とりあえずうちで休んでったらどうだ?」

 

 

 けれど、ゼファーの言葉を聞いたらどうでも良くなって、いつの間にか嘲るように笑っていた。

 そしてまたジェイナスはゼファーの悪口を吐きながら、一休みさせてもらうべく、ゼファーの家へと入って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 記憶。

 誰の中にも、忘れたい記憶はある。

 それを忘れられる幸運な者も居るが、忘れられない者の方がずっと多い。

 その傷が深ければ深いほどに、忘れられやしない記憶になる。

 

 硝煙と血の香りがむせ返るほど満ちる世界。

 そこで、バーソロミューは自分が全てを失ったことを知った。

 血だまりに沈む娘婿。

 その男がどれだけの苦労と努力を重ね、夢を叶え、娘を射止めたか知っていた。

 娘を任せてもいいと、家族になれるのが誇らしいと、そう思わせてくれたほどの男。

 血だまりに沈む娘。

 その娘に随分と苦労をかけていたことを、バーソロミューは自覚していた。

 妻が早逝し、寂しい思いをさせていた、バーソロミューにとってのたった一人の家族。

 そして、妻の腹の中に居た子供。

 机の上に晒された人間未満の胎児の姿。

 

 幸せになれるのだと思っていた。

 国の独立、建国に携わったことは、彼にとっては誇りであり罪でもあった。

 偉業を成した自覚はある。英雄と褒め称えられ人々にも賞賛された。

 罪科を成した自覚もある。遺族にただの人殺しじゃないと罵られた。

 けれど、彼は幸せになれるのだと思っていた。

 娘は、娘婿は、幸せになれるのだと信じていたかった。

 

 彼自身への復讐ならまだ救いがあったかもしれない。

 彼自身への復讐ならばそれでよし、彼は受け入れていただろう。

 それが原因で彼の家族に害が及んだならばその次にいい。

 彼はその罪悪感に潰され自殺していたはずだ。

 しかし、偶然だった。

 彼の家族が死んだのは、ほとんど偶然と言っていい巡り合わせの結果でしかなかった。

 偶然デモがあり、偶然そこに娘達が居て、偶然その時彼は居なくて、偶然軍が蜂の巣にした。

 独裁者が目障りなデモを皆殺しにして、それに巻き込まれただけの偶然。

 ただそれだけの、間が悪いだけの巡り合わせの結果でしかなかった。

 

 娘と笑いあった昨日が、娘婿と酒を飲み交わした昨日が、孫の姿を想像した昨日が。

 全て嘘になった現実を、彼は一人ぼっちに噛み締めさせられていた。

 

 

 

 バーソロミュー・ブラウディアは、良い父親ではなかった。

 彼は幼少期より革命に打ち込み、その半生を革命に注いでいた。

 言い方を変えれば、仕事こそが人生で、時にそれを家族より優先してしまうタイプ。

 娘の誕生日を忘れるなんてザラ。記念日なんて覚えやしない。なのに仕事にはソツがない。

 教職者の真似事、軍人の真似事、政治家の真似事もしたが、彼は全てを綺麗にこなしてきた。

 そんな自分を彼に自覚させたのは、妻が病死した死に目にも会えなかったその後悔だった。

 妻が危篤という知らせを聞いても、緊急の仕事を優先した。

 その一時間が、妻の最後すらも看取れなかった夫を、生涯後悔させる傷となった。

 妻の亡骸に縋る娘、それでも父を責めない娘。

 誰も自分を責めないことが、かえって彼を傷付けた。

 

 その日から、自分を永遠に許せない彼の人生が始まった。

 

 バーソロミューは典型的な『父親になれないまま家庭を持ってしまった男』であった。

 父親になるという自覚、家族を持ったという自覚、家の大黒柱になるという自覚。

 自覚が、男を父親にする。

 しかし、彼はそれをどうしても持てなかった。

 子を持つ父親ならば、いつかは自分に足りない部分を自覚する。

 父親をあまり好んでいない思春期の子には、父親の足りない部分がよく見える。

 自覚を持ち、立派に子を育てている親ですら足りないものだらけ、問題だらけなのだ。

 出来ちゃった婚を始めとして、自覚を持たない親の先には破滅という落とし穴が待っている。

 

 無論、子を持ってから得られる自覚もある。

 子と過ごした時間こそが父親を最もよく育てる教科書であると言えるだろう。

 子を思っての試行錯誤は、それだけで男を父親へと変える。

 しかし、バーソロミューはその機会にも恵まれなかった。

 

 理由は一つ。

 バーソロミューの娘アルテイシアが、余りにも『いい子』であったことだ。

 彼女は生まれつき、愛の深い少女であった。

 他人の在り方に寛容であり、誰かを嫌うということ自体無いのではと思うほどに。

 彼女は物心ついた時には仕事だけやって家事をしない父親を家事の面で支えていた。

 最初に料理、洗濯、掃除、家計と、バーソロミューがしないことを進んでやっていった。

 やり方は母から習い、あらゆる家事をスポンジのように吸収していった。

 その母が死んだ時も、父が仕事を優先した時も、彼女は父を責めなかった。

 

 彼女は子供の頃から物をほとんど欲しがらず、不満を言うことも無かった。

 父が自分の誕生日を忘れても泣かない。自分との約束を破っても文句は言わない。

 一緒に遊びに行く約束をすっぽかされても、笑って許す。

 それでいて、父が何かをしてくれたら心からの笑顔を見せるのだ。

 バーソロミューを反面教師とし、それでいて家族としてバーソロミューに対し無償の愛を捧げ、娘として父親を精一杯支える。

 そんじょそこらの英雄よりよっぽど希少価値のある、聖女のような少女だった。

 

 しかし、出来た娘はバーソロミューの成長を止める。

 娘のワガママ、不満、手のかかる部分を自分一人でどうにかして初めて親は成長する。

 アルテイシアは手がかからなかった、手がかからなすぎた。

 親としての責任をバーソロミューが果たさなくても、立派な大人になってしまった。

 もしもアルテイシアが人並み程度に手のかかる少女であったなら、バーソロミューはここまでひどい子持ちの男にはならなかっただろう。

 バーソロミューは苦労と引き換えに、ここで『父親』になれていたはずだ。

 

 なにせ、バーソロミューがこの娘の出来過ぎなくらいの出来の良さに気付いたのは、妻が死んだその日になってからだったのだから。

 娘が自分の前で何があっても泣かないようにしていたこと、自分に余計な心配をかけないようにしていたこと、不満を見せずに押し殺していたこと。

 そんな娘が泣いてしまっているほどに、母を……家族を愛していたこと。

 そんなことにも、妻が死ぬまで気付いていなかった。

 家族を全く顧みてもいなかったことに、この愚かな男はその時ようやく気付いたのだ。

 

 愛はある。

 家族に対する愛は確かにある。

 けれどそれが、行動に全く反映されていない。

 その辺りがまさしく、父親になれていない男であることの証明そのものであった。

 往々にして、父親は相応の行動を取っていないにも関わらず、自分の愛が家族に通じていると根拠もなく信じていることがある。

 娘の誕生日を忘れた回数を指で折って数えられることに、バーソロミューは愕然とした。

 娘がどれだけ我慢をしていたのかと、自分を許せない気持ちになった。

 だから、だろうか。

 彼の中で初めて、自分の青春を注ぎ込んだこの国よりも、自分の全てである仕事よりも、いや自分の命よりも、ずっと大切な目標が出来たのは。

 

 娘を、幸せにする。

 バーソロミュー・ブラウディアは、その時ようやくその遅すぎる気持ちを固められたのだ。

 

 そこからの軌跡は、お世辞にも鮮やかとは言えなかった。

 空回りに続く空回り。

 仕事一筋の数十年は、彼に器用な立ち回りなど許さなかった。

 料理をすれば焦げる、洗濯をすれば洗剤でぬるぬる、掃除をすると床に穴が開く。

 バーソロミューが空回りして、アルテイシアが笑う。

 いつしか、アルテイシアを笑わせてくれる、別の誰かが現れて……

 アルテイシアを幸せにしてくれる、その男に感謝して……

 娘を幸せにする役目をその男に任せられて、ようやくバーソロミューは肩の力を抜いた。

 

 一つ、区切りがついた気がしていた。

 バーソロミューの夢のようなもの、それはアルテイシアを幸せにすること。

 その役目を譲り渡した時、彼の身体の中に不思議な達成感が巡っていた。

 

 世の中の父親は、一人娘を嫁にやる時皆こんな気持ちなのだろうか。

 この不思議な達成感と、託せた喜びと、幸せになってくれる確信と、ほんの少しの寂しさ。

 だったら、きっと。

 

 "この瞬間のために、父親というものは生きているんだろうな"

 

 そんな風に、とめどなく回る思考に浸るバーソロミュー。

 娘を悲しませた責任は、妻を蔑ろにした罪は、娘を幸せにしなければ雪げないのだと、彼は思っていた。ほんの少しでもその罪を消せたかな、と。自然と涙を流していた。

 その一瞬だけは、足りなくとも、情けなくとも、彼は一人の父親だった。

 

 娘の妊娠の知らせを聞き、彼は飛び上がるほどに歓喜した。

 孫が生まれる。家族が増える。

 『父親』の自覚がほんの少しであっても生まれていた彼にとって、その誕生に感じた喜びは、アルテイシアが生まれた時のそれを上回っていた。

 そこに僅かな罪悪感を抱きつつも、それを超える大きな喜びを彼は感じていた。

 

 自分のような間違いを、彼女らは犯さないだろう。

 もしも犯しそうになってしまったら、自分が止めよう。

 子育てに向いていない自分は一歩引いて、時々様子を見るだけに留めよう。

 そんな風に、未来に思いを馳せる。

 そんなバーソロミューに、娘夫婦はぐいっと踏み込んだ。

 孫を育てるのに力を貸してほしいと。孫に名を付けてあげてほしいと。

 

 無論、二人はバーソロミューが父親として褒められた人間でないことは知っている。

 しかし、それと同じくらい、同じ人間として尊敬できる人物であることも知っていた。

 単に不器用なだけの男だということを分かってあげていた。

 娘夫婦もこれが初めての子育てだ。二人三脚の試行錯誤となるだろう。

 それを三人四脚にしようと、そう言っているのだ。

 家族だから、力を合わせてやっていこうと、そう手を差し伸べたのだ。

 

 娘に泣かされるのはこれで何度目か、そんな風に昔を思い返しながら。

 年甲斐もなく、みっともなく、情けなく、バーソロミュー・ブラウディアは感謝の言葉を吐き出しながら泣いた。

 

 孫の名は、三人の相談の結果バーソロミューの先祖の故郷の伝説から取られた。

 『ゼファー』。

 「希望の西風」の意味を持つ神様の名前。

 奇跡を呼び、明日という未来を信じる人の心の希望の守護者。

 ある時は翼の生えた人、ある時はその背中を押す西風という形で表現される。

 誰よりも温和な神であり、豊穣を伝える優しく柔らかな春風を司る。

 一説には多妻の神でもある、星空と暁の間に生まれた神性であるらしい。

 バーソロミューの祖の故郷には、漆黒と黄金で彩られた翼持つ巨竜であったと伝えられている。

 

 力づくではなく、優しく誰かの背を押す西風であって欲しいと。

 どんな時でも希望を持ち続ける、折れない人になって欲しいと。

 誰かにとっての希望の西風になれる、そんな風に育って欲しいと。

 バーソロミューの挙げた候補の中から、アルテイシアが願いを込めて選んだ名だ。

 

 幸せになれるのだと思っていた。

 娘は、娘婿は、幸せになれるのだと信じていたかった。

 自分はもう幸せだと、噛み締めていた。

 

 しかし、その結末は残酷だった。

 

 バーソロミュー・ブラウディアは、全てを失った。

 それが家族を顧みなかった過去のツケなのだとするのなら、余りにも重すぎる罪だった。

 否。

 罪に対する罰だったのなら、まだ救いがあったのかもしれない。

 

 その死は間が悪いだけの偶然、巡り合わせの結果でしかなかった。

 

 血だまりに沈む二人を見て、バーソロミューはそこが現実か夢かの区別がつかなくなった。

 その現実はあまりに酷すぎて、辛すぎて、現実と悪夢の区別がつかなくなっていた。

 あまりに救いがなさすぎて、受け止められない現実だった。

 

 吐き気がして、けれど神経を走る信号が多すぎて身体に反映されない。

 心臓は高速での脈動と止まりそうな遅速を繰り返し、何度か止まってすらいる。

 呼吸は何度もその存在を忘れられ、時折何度もむせ返ることで無理やり酸素を供給している。

 歩き方すら頭の中から引っ張り出せないのか、時に両足を同時に出してしまって転んでいる。

 右目が右を、左目が左を向いたままぎょろぎょろ動き、焦点がどこかに行ってしまったようだ。

 唇は蒼白、それどころか顔色含め全身の色まで悪くなっている。

 痛みで正気を保とうとしているのか、全身に爪を立てている。既にいたる所が真っ赤っ赤だ。

 ガリガリと爪で頭を掻き、舞い散る血飛沫と髪があまりにも痛々しい。

 

 

「私が」

 

 

 死体の破片を集め、二人が蘇らないかと足掻く。

 ぐちゃりぐちゃりと、手にする度に崩れていく死体の破片。

 それをパズルのように組み合わせているのが本人の視点。

 赤黒い生ゴミと成り果てた死体を粘土のようにこねくり回しているのが、本当の現実だ。

 

 

「私が、悪かったのか」

 

 

 肉が飛び散った死体の顔、空っぽの眼窩に目玉をはめ込む。

 瞳の色が違うと、はめてから気づく。

 娘に間違えてはめた目玉をえぐり出し、娘婿の眼窩にはめ込む。

 押し込んだ時に目玉の内側に巻き込まれてしまった瞼を引っ張り、目玉の上に被せた。

 

 

「そうだ、私が悪いに違いない。そうでなければならない。それ以外にない。

 でなければ、私がここまで辛い現実に逢うわけがない。

 私が悪かったから、私はこんなに苦しんでいるんだ」

 

 

 腕を拾い、繋げようとする。

 はまってくれる目玉と違い、押し込むだけで繋がらないことに彼は違和感を持つ。

 何故繋がらないのか、その理由に思い当たることすら出来ないほどに、正気は失われている。

 無理やり押し込む。ぶじゅりと音が鳴り、押し付けられた肉が潰れて液が流れる。

 そして、ポトリと落ちた。

 バーソロミューはその辺りから針金を拾い、肉に無理やり刺して二箇所を結ぶ。

 娘の肘から千切れた左腕が、左肩に針金で出来た一つの輪でくっつけられる。

 左肩から二本の腕が生えているかのような異形の形。

 そこに違和感を抱けないことが、彼が既に壊れた人間であるという示唆だった。

 

 

「この子達が悪いわけがない。あんなにいい人達だったんだ。

 私なんかより、ずっと生きる価値のある者達だった。

 だったら、彼女らが死んだのは、私が悪いに違いない」

 

 

 発言だけは本心だ。

 死体を集めて繋げて蘇らせるという行動も本心からのものだ。

 ただ、そこに絶望的に正気がない。

 

 致命的なまでに、大切な人の死と向き合うだけの強さが欠けている。

 

 

「償わなければ」

 

 

 その狂った男の瞳に、机の上に置かれた小さな肉塊が映る。

 その肉塊は、刃物で裂かれたであろう娘の腹の穴と、血痕で一直線に繋がっている。

 それは、赤子だったものだった。

 不運な誤解と悪意でバラバラにされた夫婦の片割れの腹から、引きずり出されたものだった。

 生まれる前に、祝福される前に、幸せになる前に、その命を奪われた悲しい赤子だった。

 バーソロミューにとっての、たった一人のゼファーだった。

 祖父と孫のシンパシーか、バーソロミューにまだ理性の欠片が残っていたからか。

 『不幸なことに』、

 『それが生まれる前の自分の孫であると』、

 『何故か彼にはちゃんと分かってしまった』。

 

 

「私のこの命と一つになれば、これから先の未来、君もまた生きたことになるのだろうか」

 

 

 正気を失った手が、その胎児に向かう。

 赤黒い塊がこびりついた、肌色と白の中間の色合いで、血管が少し浮いて見える。

 人には見えない、人になれるはずだったもの。

 よく見れば頭もあり、手足もあり、とても柔らかいが骨もあった。

 バーソロミューは口を大きく開き、『それ』を開いた口の中に放り込み、

 

 食った。

 

 一口には大きかったらしく、半分に食いちぎる。

 コリコリとした部分を強く噛んで食いちぎり、何度も咀嚼する。

 弾力はある。噛みごたえもある。味は殆どなくて強いて言えば鉄に近いほんのりとした血の味。 舌に滑らかな感触はおそらく未分化の脳部分。

 骨にもなっていない軟骨を噛み砕き、奥歯ですり潰し、喉の奥へと送る。

 肉の潰れる感触が、まるで小さな悲鳴のようだった。

 

 その食感を、彼は何十年もたった今でも思い出せる。

 吐き出さなければならなかったこの時は吐き出さなかったくせに、何十年も経った後でもこの事を思い出し、何もかもを吐き出してしまうトラウマとして持ち続けているのだ。

 そう。

 吐き出さなかった。

 残り半分も含め、彼が咀嚼した胎児は全て彼の腹の中に。

 孫を、ゼファーと名づけて可愛がるはずだった家族を、食ったのだ。

 

 そして食べ終わった後、何事も無かったかのように娘夫婦の死体の組み立てを再開する。

 適当に繋げて、パーツを使い切ったら「蘇らないから違う」と再解体、組み立て直す。

 脳が負荷に耐えられずにシャットダウンするまで、それをひたすら続けた。

 

 彼が正気に戻るまで病院で一年。

 戻ってしまった正気、現実と向き合って自殺を繰り返すのを止めるようになるまで施設で一年。

 社会に復帰して、死に場所を探し初めてから十年以上。

 

 今でも彼を苦しめる、大切な人の死と向きあえずに狂気に逃げた、哀れな男の苦悩の記憶。

 

 救いようのない愚か者への罰のような、そんなわるいゆめ。

 




ゼファーくんはバーソロミューさんの背中を見て育ちました

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