戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ   作:ルシエド

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『そういう打算は、醜いとは思いませんか?』

 

 響は耳に響く声を無視した。

 シンフォギアのヘッドギアには通信機能が実装されている。

 ギアごとの端末情報を持っているならば、それぞれのギアに個別の通信を送ることが可能だ。

 フィーネ傘下の研究所であったF.I.S.には当然、全てのギアの端末情報が記録されていた。

 だからこそ、フィーネの部下であったウェルもその端末情報を手にしている。

 響の耳にだけ届くその声は、ウェルから届けられたものだった。

 

 ゼファーが参戦してからの戦いは、余分な会話一つする余裕さえもないものだった。

 当然、響がウェル博士からの通信を仲間に伝える時間的余裕もなく、また伝える必要もない。

 無視していればいいだけだと、響は自分に言い聞かせ、ゼファーと共に調を追い詰める。

 

『流れ込む感情、記憶、そこに付随する想い。

 貴女は自分の父の末路に関して、かなり早くから気付いていたはずだ』

 

 無視する。

 

『そして、"その気持ち"を抱いていたはずだ』

 

 無視する。

 

『"その気持ち"を自分の中で何度も否定したのでしょう。

 ですが、その気持ちは本当に否定できるものだったのですか?』

 

 無視する。

 

『あなたが望めば、ゼファー君は一生あなたの傍にいるでしょうね。

 何の見返りも求めず。何の関係も求めず。

 何故なら彼の中には、友情だけでなく、信頼だけでなく、貴女への罪悪感があるのだから』

 

 けれど、ウェルは"人の心"というものをよーく分かっている。

 人の心が分からない人間に、心を抉る嫌がらせはできない。

 立花響の心を揺さぶるにはどうしたらいいのか、彼はきっちり理解している。

 

『"この人は、私を一人にしない"。

 "この人には私を一人にしない理由がある"。

 "だからずっと隣に居てくれるって信じられる"。

 彼に対しそんな打算が無かったと、本当に胸を張って言えますか?』

 

 人は自分の中で同じ思考が繰り返される、あるいは他人に同じことを連呼されることで、事実とは異なる思い込みをしてしまうことがある。

 ウェルの言葉は、まさしくそれを目的としたものだった。

 

 誰かの正義の味方で在ろうとする者には、何が正しいのか、何が善なのか、常に考え続けるタイプの人間が多い。

 善を求める人間には「お前のしていることは偽善だ」と言われてしまうと、自分の生き方に疑問を持ってしまう者も居る。立花響はその典型だった。

 それで揺らがないのは、本当に鋼鉄の精神を手に入れた者ぐらいものである。

 

 ウェルの問いかけを、響は心中で否定する。

 だが否定しきれない。

 「隣に居てくれて嬉しい」と思った気持ちは、確かにあったのだから。

 響は"自分はそんな気持ちを抱いたことなんてない"と断じて、ウェルの煽りを切り捨てることができなかった。

 

『もう一度聞きますが、そういう打算は醜いとは思いませんか?』

 

 響がゼファーに抱いていた想いに、打算が混じっていなかったという確証はない。

 打算があったという確証もない。

 それゆえに、ウェルの煽りは、響の心に僅かな波紋を浮かべるに留まった。

 

『善意に打算を返すあなたが、彼の友であると胸を張って言えますか?』

 

 ウェルは最後の一言だけ、自分の位置が分かるように声を飛ばす。

 そのため、響は自分の中に生まれた戸惑い、隣で戦うゼファーへの想い、ウェルに対して抱いた苛立ちのせいで、ウェルが居た方を向いてしまう。

 無視していればいいと思っていたのに、いつの間にか響はその意識を誘導されてしまっていた。

 

『髪を天羽奏に近くしてまで、彼が自分を見ていてくれればと思っていたくせに。

 一人が寂しいと、嫌だと、そう思って打算で彼を操っていたくせに。

 今更カマトトぶって清純派気取りとは、あまりにも性悪すぎませんかね?』

 

「―――!」

 

 そして、その一言が突き刺さる。

 ウェルが言ったその言葉が事実であるか、そうでないかは大した問題ではない。

 重要なのは、その言葉が響の胸に突き刺さり、響の足を止めてしまったこと。

 

 そして響が足を止めた瞬間を狙って、ネフィリムが彼女の腹を食いちぎったことだ。

 

 心を傷付け足を止め、足を止めた隙に致命傷を叩き込む。

 この流れは寸分の狂いもなく、ウェルが事前に想定していた通りの流れだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三十四話:天下布武 5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 選ばなければならない。

 人生とは難問の連続だ。

 回答に時間制限があり、完全な正解はなく、選択肢は無限。

 信頼と同じく、正解で少しづつ積み上げられるのに、一度の失敗で全てが失われてしまうことまである。

 無回答は、全てを失う結果に繋がる。

 選ばなければならない。

 

 その思い付きに、彼は『出来る』という確信があった。

 けれど、彼は分かっていた。

 それと引き換えに捨ててしまうものを。

 少しだけ迷い、目を閉じ、開いて、深呼吸。

 そして、彼は『それ』を、迷いと共に捨てた。

 

 

 

 

 

 クリスが、翼が、警戒しつつも目の前の敵に背を向けて、響の方へと走る。

 その背中を撃とうと思えるほど、ブランクイーゼルの装者達は非情ではない。

 切歌に至っては、響の惨状を見て激昂してウェルに掴みかかっていた。

 

「誰が……誰がそこまでやれっつったぁッ!」

 

 立花響は生きたままネフィリムに食われ、自分の上半身と生き別れになった下半身を見ながら、自分の体を咀嚼する怪物を見せつけられた。

 致命傷を食らってから死ぬまでの僅かな時間に、最大限に地獄を見る殺され方だ。

 ごく普通の女の子であれば、一瞬で発狂するであろう凄惨な仕打ち。

 ゆえに、切歌はウェルに激昂していた。

 

「はっはっは、彼女は敵ですよ?

 僕らの目的を邪魔しようとしている敵です。

 第一、犠牲が出ることなんて今更じゃあないですか。

 これから先僕らはこういう死体を量産する予定なんですよ?

 それとも必要な犠牲以外は極力出すなとか、そういうことをのたまうおつもりなので?」

 

「っ、だけど……!」

 

「むしろ褒めて下さいよ。君達のピンチに一石を投じてあげたんですから。

 ほらほら、ありがとうは? 僕に対するありがとうがまだですよ?」

 

「あ?」

 

 ウェルは切歌がマジギレする一歩手前をきっちり見切り、そのギリギリの塩梅まで彼女を煽りに煽って、切歌がマジギレする前に別の話題を振る。

 

「そんなことよりほら、彼女らの方を見たらどうです?」

 

「……?」

 

 ウェルが指差したのは、響達が居る場所。

 ゼファーが真っ先に響の下に駆けつけていて、翼とクリスはまだ遠い。

 だが既に、何かが起こり始めていた。

 ナイトブレイザーの体から、燐光が漏れている。

 

「面白いものが見れるかもしれませんよ」

 

 光が溢れて、光がゼファーと響を呑み込む。ウェルは口元を歪めずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 消去、消去、消去。

 "要らないデータ"を片っ端から消していき、リソースを確保する。

 人間一人分の体のデータを処理する容量を確保するため、人間一人分の体のデータを削除する。

 そして処理を再開した。

 

 立花響の脳内から、死の瞬間の心的外傷の記憶を削除。

 アガートラームの質量をもって、胴体と左腕を擬似形成。

 細胞の読み取り完了、複製開始。

 魂の原型、ローディング開始。

 アクセラレイター起動、生命維持機能をクロックアップ。

 

 リソース確保のため、ゼファー・ウィンチェスターの肉体データ、全消去を完了。

 

 アガートラームは引き続き、命を繋ぐ処理を執り行う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めた時、響は自分がベッドに寝ていないことに疑問をもった。

 

(あれ?)

 

 そしてすぐに記憶を辿り、自分が部屋で寝て起きたのではなく、戦いの中で気絶したのだと気が付く。体にも心にも違和感や疲労はなく、すっきりとした目覚めだった。

 だからこそ響は目覚めた時に、自分の部屋で起きたのだと錯覚してしまったのだろう。

 なのだが、響が自分の体を自分の目で見れば、彼女の体に起こった異変は明白だった。

 

「……銀の、左腕?」

 

 腕が銀色だった。

 よく見てみれば、腹も銀色だった。

 だというのに、腕にも腹にも何ら違和感がない。

 いつもの腕の感覚と胴体の感覚、そのままだ。

 上半身も下半身も人間の体。なのに、体の一部分だけがどうしよもなく無機物だった。

 駆けつけたクリスと翼は、そんな響を見て目を丸くする。

 

「お、お前、なんともないのか?」

 

「あれ? 何かあったような……あれ?」

 

「待て、ゼファーはどこに行った? 先程まで私達の目の前に……」

 

 二課装者にも、ブランクイーゼル装者にも戸惑いが広がる。

 姿が消えたゼファーを探し、翼や切歌などは周囲をキョロキョロと探し始めた。

 だが、そこで。

 何故か"響の口から"ゼファーの声が出て来る。

 

「クリス、逃げるぞ! 撃て! 早く!」

 

「「 ! 」」

 

 翼が驚く。切歌が驚く。調が驚く。マリアが驚く。

 だがクリスは、驚くよりも先にその声に反射的に応えることを選んだ。

 ウェル以外の誰もが何が何だか分からない内に、クリスの大型ミサイルが発射される。

 そして響の体が、響の意志に反して動き始めた。

 響の体はクリスと翼の体を引っ掴み、ミサイルの上に飛び乗って、自分ごとミサイルの時間の流れる速度を数倍に加速させる。

 

「アクセラレイターッ!」

 

 ブランクイーゼルの装者達が我に返る前に、二課の装者達は水平線の向こうへと消える。

 クリスのミサイルは時速4000kmを超える。

 水平線までの距離はおおまかに4.5km。

 そのままでも水平線の向こうまで5秒はかからないだろうが、元より空気抵抗を無視するすべがある上に、その速度をアクセラレイターが5倍以上に加速させていた。

 マリア達が反応できないくらいに手早く、無駄なく、二課装者達は逃走を完了させる。

 

 例えばグラムザンバーのマリアなら、0.1秒で反応し、ノータイムで撃墜することも出来ただろう。響達が逃げられたのは、動きが速かったからではなく、マリア達の意識の隙を見逃さず早く動いたからである。

 そんな中、戸惑うことも動揺することもしていなかったウェルが、肩を竦めて口を開いた。

 

「ね? 面白いことが起こったでしょう?」

 

「い……言ってる場合デスか!? 逃げられちゃったじゃないデスか!」

 

「あっはっはっは」

 

「あっはっはっは、じゃねーデス!」

 

 まるで、彼の予想外のことなど、何一つ起こってないとでも言いたげに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 響の命を繋ぐため、自分の体を人体パーツに変換し、響の体の欠損を補った。

 ゼファーがやったこと、及び二課に戻ってから二課の皆に説明したことを掻い摘んで言うと、つまりはそういうことだった。

 響の左腕、及び響の腹の銀色は、つまり変換されたゼファーの肉体だった、ということだ。

 

「すごい、もう人間離れってレベルじゃないね」

 

「俺は出自が出自ですしねぇ」

「ゼっくん、私の口でゼっくんの声で喋られると、なんかくすぐったいよ」

「あ、スマン。気をつける」

 

 二課職員の『人間離れ』という言葉に、響の口から、苦笑したようなゼファーの声色が返って来る。その後に続いて響本人も喋るものだから、まるで一人芝居のようだ。

 声色が違うために識別は容易だが、どうにも不思議な光景だ。

 ゼファーと響は、今や文字通りの一心同体と言ってもいい状態になっている。

 

「しかし、どうする?」

 

「何がです、ゲンさん?」

 

「胴体が丸ごと無くなったんだ。

 補うにしてもどうすればいいのか……

 それとも一生一緒に居るか? そういうわけにもいかんだろう」

 

「結婚式で言う『死が二人を分かつまで』が冗談にならなくなってしまうね」

 

「なんですと!?」

「からかわないでください、土場さん。

 ヒビキはそういうの時々真に受けるんですから。

 大丈夫ですよゲンさん。ヒビキの欠損部分は、俺の再生能力の応用で治してみます」

 

「できるのか?」

 

 茶々を入れて空気を和ませてきた土場を一旦脇に追い出して、響の口(ゼファー)は自信ありげな口調で「できる」と言い切った。

 彼の再生能力は、そこまで万能ではなかったはずだが……

 

「今の俺なら、なんとかできます。

 アガートラームの処理容量制限も機能制限も、ほぼありませんから」

 

 人間としてのゼファーを記録する容量を維持するための処理容量制限、人間としてのゼファーを崩壊させかねないため機能を弱体化させる機能制限。

 その両方がもう無いからどうにかなるはずだと、ゼファーは言った。

 

「人間は魂の生き物です。

 フィーネさんが魂を未来に運んで自己の連続性を保っていたのは、そういうことです。

 魂と、魂に付随する精神、魂の入れ物である肉体。

 この三つとそれを繋ぐ総体である命、そのどれかが欠けてしまえば死ぬのが人間です」

 

 響の口からゼファーの声が聞こえる違和感に目を瞑りつつ、二課の皆は彼の話を黙って聞く。

 

「ファントムペインという、事故で無くなった、無いはずの四肢が痛む病理があります。

 他にも肉体を鍛えれば精神も鍛えられるという考え方があります。

 戦いの中で精神の咆哮が、肉体の限界を超越させるという現象もあります。

 魂・精神・肉体は、不可分なんです。その三つが一つの生命の中で息づいている限りは」

 

「まさか、精神や魂から逆算して肉体を再生すると? そんなことが……」

 

「……サクヤさん、先に言わないでくださいな」

 

「あ、ごめん」

 

 察しのいい藤尭に話を遮られつつ、ゼファーは響の口を借りて語りを続ける。

 つまりは、そういうことだ。

 肉体と密接な関係にあった精神や魂から、肉体との接触面……つまり"肉体の型"を読み込むことができれば、肉体を再生することが可能かもしれない、ということ。

 

「そんなことが可能なのか?」

 

「ゲンさん、フィーネ・ルン・ヴァレリアのことを思い出してください。

 あの人は普段は日本人に見える容姿をしていました。

 でも、櫻井了子としての姿からフィーネの姿に変わると、日本人には見えなかったでしょう?」

 

「……確かにそうだったな」

 

「先史文明期の人間……ここではルル・アメルと呼称します。

 ルル・アメルでは魂の観測と形状固定化、それを利用しての肉体変化は実用段階だったんです。

 ざっくり言うと、魂の形に沿って肉体を変化させる技術があったんです」

 

「そうか! だからフィーネは幾度転生しても、最初の生の姿を保てていたということか!」

 

「はい。それと同じ仕組みで、響の魂から響の肉体を再構築してみます」

 

 『欠けていない人間の魂』があれば。

 魂に基づいた人間の体があれば、治せる。

 逆に言えば人の魂ではない魂、人でないものが混ざった混ざり物の魂、あるいは魂に基いていない物から作られた肉体では、この方法で治すことは出来ない。

 聖剣の魂から、人間の体を復元することは出来ないということだ。

 

「無論、今の俺でも模倣どころか猿真似にしかならないでしょうが……

 体の各細胞の構造も参考にして、魂の構造を元に急ピッチで修復してます。

 暴論ですけど、左腕にいたっては残ってる右腕を左右反転させて作ってもいいわけですしね。

 ……正直、女の子の体の構造に詳しいわけじゃないので、男の方が楽だったなぁとか思ったり」

 

「ちょ、ゼっくん!? 私の中の変なとこ見たら絶交するよ!」

 

「無茶言わないでくれるかなヒビキくん!」

 

 響を――正確には響と同化しているゼファーを――見る周囲の女性の目がちょっと軽蔑に寄り、周囲の男性の目がエロ本を拾っている中学生男子を見るものに変わる。

 ゼファー本人にそういう意図は全く無い。

 そんなことは皆分かっているが、しょうがない。ことがことだ。

 これをエロに結びつけるのは流石にアブノーマル性癖すぎないかと、二課の大半がこっそり心中で思ってはいたが、なんとなくで誰も言わなかった。

 

 響の体でわたわたうろたえるゼファーが、ちょっと面白かったからである。

 

「響君の体が心配ないということは分かった。

 だがゼファー、お前はどうだ? その姿から元の姿に戻れるのか?」

 

 弦十郎がゼファーの心配もすると、近くに居たクリスと翼が首をブンブンと振る。

 響も心配されていたが、ゼファーも心配されていたようだ。

 

「大丈夫ですよ。ただ、俺の方も肉体の再構築に少し時間が必要ですね。

 ヒビキと俺の肉体の再構築が終わるのが今日の夕方、ってとこでしょうか。

 ゲンさん、俺が前に預けたUSBメモリ、今ここに持って来ていますか?」

 

「……ああ、前にお前の体の件で話した時に預かったやつか」

 

 響の手(ゼファー)は弦十郎からUSBを受け取って、手の中でくるりと回す。

 

「このUSBの中に、俺の肉体データが入ってます。

 それを俺の中に移して、ぱぱっと修復。終わりです」

 

「おお、準備万端って奴か!」

 

「備えあれば憂いなし、ってことさ。クリス」

 

 ゼファーの言葉に、二課の面々や二人の装者がほっと息を吐く。

 これで響の問題もゼファーの問題も解決したと、そう思ったからだ。

 だが、そうでなかった者も居た。

 ゼファーの説明に納得しなかった者が居た。

 今ここに居る面々の中でただ一人、藤尭朔也だけが、怪訝そうな顔をしていた。

 誤魔化せなかったのが一人だけとは運がいい、とゼファーは心中でホッと息をつく。

 

「ゼファー君、これは……」

 

「あ、サクヤさん、その件は後で司令にでも。分かりますよね?」

 

「……ああ」

 

 藤尭朔也は察しがいい人だ。

 それもまた、ゼファーがホッとした要素の一つだった。

 朔也がサラッと流したことで、今のやり取りに何か怪しい臭いを感じた者は皆無だった。

 

「ではちょっと、ヒビキの体を作る素材(ごはん)を食べてきますので、失礼します」

 

 立花響(ゼファー)はそう言って、皆が集まっていた部屋を出て行く。

 

「いやはや、どうなることかと思ったわ」

「なんだかんだどうにかなったのかしら?」

「いやいや、振り出しに戻っただけだから。ゴーレム対策考えないと……」

「アーネンエルベから資料が来とるぞ。取り寄せたの誰じゃ」

 

「……はぁー、クソデカイ溜め息もつきたくなるわ」

「雪音は心配症だな」

「は? 先輩に言われたくないんですけど?」

「かも、な。私も少しは不動心を身に付けねば……」

 

 人が思い思いに散っていき、持ち場についていく。

 今回の一件で対策を練らないといけなくなった者、何かしら反省しないといけなくなった者、強くならないといけなくなった者、その他諸々。皆がそれぞれの課題を見つけたようだ。

 そんな中、朔也は弦十郎に話しかけていた。

 

「司令」

 

「俺の部屋で話そう」

 

 朔也が話す内容が何であるか、弦十郎が察していたわけではない。

 ただ弦十郎は、先のゼファーの一言を覚えていた上に、勘が良かった。

 そのため、誰にも話を盗み聞きされないであろう自室へと朔也を招く。

 

「で、なんだ?」

 

 朔也は少し迷いながらも、"USBに自分の肉体データを保存していた"と言ったゼファーに対し抱いた疑問を、弦十郎に打ち明ける。

 

「人間の肉体のデータは、アガートラームだからこそ保存できていたものです。

 全細胞、全遺伝子、ミクロン単位での肉体構造の再現……

 『肉体の成長』までもをトレースできていたのは、あれが凄い聖遺物であったからなんです」

 

「?」

 

 アガートラームは、記録媒体としても異常に優れている。

 単純な記録であるならば、一万年分の記録を保存しても5%と容量を使わない。

 60兆個の細胞、その細胞で人体を作り上げるための人体構造データ、体液などの組成・割合・数量のデータを綿密に記録することすら可能だということは、今のゼファーを見れば分かる。

 人間の精神の完全コピーにどれほどの容量が必要なのか、現代の技術力では想像することすらできないだろう。肉体ならば少しは想像できるが、それでも途方も無い容量が必要なことは分かる。

 

 ゼファーの肉体は、年月の経過で成長した。

 それはアガートラームの記録能力が非常に優れていたことを証明している。

 だが同時に、それは、つまり。

 

「……USB一つに、入るデータ量じゃありません」

 

「―――なん、だと?」

 

「ガワだけです。直せるのは、おそらく上っ面の見た目だけ」

 

 ゼファーが皆に言ったことが、真っ赤な嘘であるということをも証明していた。

 USBメモリ一つでは、人体全てのデータを保存なんてできやしない。

 外見を再現するのが精一杯だ。

 

 ならば何故、ゼファーは嘘をついたのか?

 自分一人で体をどうにかする手段があったのか?

 あの気休め程度のUSBデータだけで本当に十分だったのか?

 ……それとも、もしかしたら。もしかしたら。

 

 頭がいいからこそ、藤尭朔也は様々な可能性に思い至ってしまう。

 

「司令! 何か隠してませんか!?

 ゼファー君について、俺に隠していることは、何か……!」

 

「……」

 

 隠すのは無理だろうな、と、弦十郎は観念し、朔也にもゼファーの秘密を明かす。

 

「誰にも話すなよ。こいつは、研究者連中しか知らない最重要機密だ」

 

 ゼファーの命は、もう長くはない。

 その事実は機密として誰にも知られないよう守られている。

 けれども、事実は事実。隠し通せるものではない。

 

 ゼファーの死期が近づくにつれ、この秘密を知る者は、きっと多くなっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕方。

 リディアンの屋上で、響の体を借りたゼファーはお好み焼きを食べていた。

 近所のお好み焼き屋『ふらわー』のお好み焼きである。

 炭水化物よりタンパク質等を中心に食べなければ響の肉が作れないのだが、流石に彼女の体を動かすためのエネルギーが足りなくなってきた様子だ。

 

「私達、一心同体だねぇ」

「俺達、一心同体だな」

 

「同じ釜の飯を食べた仲間、って言うじゃない?」

「仲が良い証明だな。今の俺達は同じ口で飯を食ってる仲間だけど」

 

「なんだか不思議。たぶん感じてる味はおんなじだよね」

「だな」

 

「見てる夕焼けの色もおんなじ」

「俺の眼は片眼だけだけど、響の眼より視力が高かったらしい。色が少し、普段と違って見える」

 

「……」

「……」

 

 二人が文字通りの一心同体となってから、もうそろそろ十時間が経とうとしている。

 ゼファーと響は体が繋がっていなくても、心が繋がっている関係だった。

 響はゼファーの感情を宥めて暴走を止め、ゼファーは響の力を宥めて暴走を止める相互関係。

 で、あれば。

 体まで繋がってしまえば、伝わる心の情報量は数倍に跳ね上がる。

 

 ゼファーの秘密も。

 響の秘密も。

 ゼファーの心も。

 響の心も。

 ゼファーが最近抱えた、命の残量という苦悩も。

 響がウェルに押し付けられた、自分には打算があったのではないのかという悩みも。

 全て、伝わる。

 

「俺とヒビキは、友達だ」

「うん」

 

「ヒビキのお父さんのことが起こる前から。

 その後の色々が起こる前から。俺達は友達だ」

「うん」

 

「罪悪感なんて無くたって、何も変わらない。俺達は友達だ」

「……うん」

 

「あの時、自分が偽物なんじゃないかって、悩んでた俺に……

 ヒビキが救いをくれた。ヒビキが助けてくれた。だからヒビキは、俺にとって大切な友達だ」

「……うん」

 

「ヒビキを大切に思う友達は、俺以外にもたくさん居るだろう。

 だけど俺も含めて、その理由に『罪悪感』はない。

 人がその友達の隣にずっと居ようと思うのは、その人が『大好き』だからだ」

「―――うん」

 

「ヒビキが一人じゃないのは、周りの人がヒビキを大好きだからだ。それ以上に理由はないよ」

 

 一つの口が、二つの声を紡ぎ、二つの耳に届いていく。

 

「今、俺とヒビキは強く繋がってる」

「うん」

 

「俺がどんなにお前を好きか、俺がどんなにお前に感謝してるか、伝わってるよな?」

「うん」

 

「俺はお前を恨んでるか?」

「ううん」

 

「俺はお前に打算がどーだこーだで、幻滅してるか?」

「ううん」

 

「ゼファー・ウィンチェスターは、立花響のことが大好きか?」

「……うん」

 

「なら、この話はここで終わりだ。それでいいだろ?」

 

 ゼファーはこれを機に、自分の中の想いを一つ残らず響に伝える。

 そして響の悩みも断ち切っていた。

 だがそれが、逆に響の不安を煽る。

 

「……ねえ、ゼっくん」

 

 ゼファーの言葉は、まるで遺言のようだった。

 死に際に、家族へと愛を告げる人間のように……後腐れの無さが、逆に怖かった。

 

「本当に、死んじゃうの?」

 

「俺が死ぬか」

 

「精神論の問題じゃなくて。今、隠し事できないのは、お互い様じゃない」

 

「……」

 

「私の……私のせい? 私のせいで……ゼっくんの、ゼっくんの体が……!」

 

「違う、ヒビキのせいじゃない。これは俺の選択だ」

 

 "この命はあと一ヶ月保つかどうか分からない"。

 "体がもうハリボテだから"。

 そうゼファーが思考してしまえば、それは余すことなく響に伝わってしまう。

 響はその事実に絶望しかけているが、ゼファーはその絶望が響を蝕むことを許さない。

 

「俺の命をどう使うのか、決める権利があるのは俺だけだ。

 その結果も俺だけのものだ。

 誰のせいにもしないし、誰のせいにもできないし、誰のせいにもさせない」

 

「だけどッ!」

 

「俺をもう死亡確定みたいに言ってくれるなよ。

 諦めるな。俺の命を俺が諦めていないんだ。だからヒビキも、諦めないでくれ」

 

「―――っ」

 

 ゼファーはそう言って、響の体から離れた。

 銀の保護を受けていた響の体が、響の体とゼファーの体の二つに別れる。

 一見、ゼファーの体はなんでもない健全な体であるように見えた。

 肉体のデータのほぼ全てを失っているようには見えなかった。

 

 けれど響が震える手を伸ばした瞬間、その幻想は砕け散る。

 

 響はゼファーの手袋を外し、その手を取る。

 冷たかった。体温なんてものはどこにもなかった。

 手首を取った。そこに脈はなく、彼の体にはもう血潮は流れていなかった。

 怯えながら彼の顔に手を寄せれば、僅かな吐息も感じられなかった。

 まばたきもしていない。

 汗ももうかかないだろう。

 涙を流す機能が物理的に残っているかどうかさえ、怪しかった。

 

「……こんな」

 

 "人の形をした聖遺物"。その呼び名が、今の彼には残酷なまでに相応しい。

 

「……こんなことってッ……!」

 

「こんなの人間じゃないとか、そういうことは言わないでくれよ」

 

 うつむく響と、うつむかないゼファー。

 

「俺も少しは、傷付くからさ」

 

「―――ッ」

 

 そんな言葉を苦笑しながら言える時点で、彼の精神があまりにも強すぎることは明白だった。

 この境遇で弱音一つ吐かないでいられる人間が居るということが、そんな人間を育てる人生があったということが、ただそれだけで既に悲劇と言っていいものだった。

 

「大丈夫だ、大丈夫だから、ヒビキ」

 

「大丈夫なわけないッ!」

 

「いーや、大丈夫だ。第一、俺がまだ死ぬって決まったわけじゃない。

 俺はまだ生きてるだろ? ならまだ可能性はある。諦めなければな」

 

 ゼファーの精神性は希望の体現である。

 彼は絶望を、諦めを理由として、未来を見据え続けることをやめはしない。

 ゼファーの境遇に響が絶望することがあっても、ゼファーの境遇にゼファーが絶望することは、もはやありえない。

 

「悲壮な顔すんなって。

 大丈夫、こっから巻き返せばいいさ。

 『あんなこともあったなあ』って、今日のこともいつか笑い話に出来る日が来る」

 

 まだ彼は、明日の希望を信じている。

 

「俺が、笑い話にしてみせる」

 

 たとえ、明日に死を約束されていたとしても、そう生きていくだろう。

 

「そんな、そんな顔してッ!」

 

 だからこそ、響は吠えた。

 

「弱音吐かないだけで!

 意志で感情を抑えつけられてるだけで!

 本当は―――死ぬのが怖いくせに! 震えるのを必死にこらえてるくせにッ!」

 

「……!」

 

「いいんだよ、弱くて!? 弱さを見せず強く生きろだなんて、誰が言ったの!?」

 

 ああ、そうだ。

 体が繋がっていなくても、まだ心が繋がっている。

 体が繋がっていた時に読み取った感情を、響はちゃんと覚えている。

 鈍感と言われることが多い響だが、特殊な事情によりゼファーに対してだけは、彼女は鋭く心境を察してみせる。

 

 ゼファーはただ単に、心が強いから死の恐怖をねじ伏せられているに過ぎない。

 死の恐怖を知らない蛮勇の勇者ではない。

 恐怖を踏み越える勇気を抱くがゆえの勇者である。

 

 鋼鉄の心が死の恐怖を感じないなどと、誰が言ったのだろうか。

 鋼鉄は、恐怖という鉄槌に叩かれてなお折れぬからこそ、鋼鉄なのだ。

 傷付いてなお折れぬからこそ、鋼鉄なのだ。

 

「……まいったな」

 

 ゼファーは困った顔で後頭部を掻く。

 後ろめたく隠していた大切なものが見つかってしまったかのような、バツの悪い顔だ。

 彼の仮面は既に完成の域に近い。

 なのに、立花響と小日向未来の二人には、その仮面の効きが悪い。

 

 それはマズいと、ゼファーは思う。

 

「仕方ないか」

 

 だからこそ、ゼファーはさっと"響との心の繋がり"を断ち切った。

 

「……え?」

 

「今、俺から響に流れる感情のラインを断ち切った。

 もう俺が感情で暴走する可能性も無いだろうしな。

 響の体内のエネルギー調整は引き続きやるから、戦闘力は下がらない。安心しろ」

 

「なん、で……?」

 

「必要がなくなったから、じゃダメか?

 それに今回の微調整で、俺がいつ死んでも響の体内から聖遺物を分離しやすいように……」

 

「そうじゃないッ!」

 

 響が吼える。

 

「意味が無いことなんてないよ!

 意味はあった! あの繋がりに意味はあったんだ!」

 

 ゼファーと響の心の繋がり。

 ……それは、ゼファーの暴走を止めるためだけのものだったのだろうか?

 

「あの繋がりは……あの繋がりは!

 偶然そうなったものなんかじゃなくて!

 弱音を吐きたいのに、思いっきり叫びたいのに、お行儀よくこらえてたゼっくんの心!

 誰でもいいからこの気持ちを聞いて欲しいって!

 誰でもいいからこの気持ちを受け止めて欲しいって! そう願った、君の祈りなんだ!」

 

 響の言う通りなのかもしれない。

 響の勘違いかもしれない。

 だが響が口にしたその言葉は、ゼファーの胸の奥に、すっと入っていった。

 

「……ああ、言われてみれば、そうなのかもしれない。

 そういえば……カナデさんが死んじゃってからの、辛い時期だったっけ。

 この繋がりがヒビキの心に、俺の心から溢れちゃったものを流し込み始めたのは」

 

「今……今、それを捨てちゃったら! ゼっくんの心はどうなるの!?

 折れないかもしれない。曲がらないかもしれない。砕けないかもしれない。

 でも傷付くし、痛いはずだよ!?」

 

「痛いだけなら、我慢すればいいだろう?」

 

「死ぬまで我慢する必要なんてない!

 感情を吐き出す先まで捨てちゃったら、本当に……!」

 

「なあ、ヒビキ」

 

 ゼファーは駄々っ子を諭す大人のように、静かに彼女に話しかける。

 

「この件、皆には黙っててくれるよな?

 俺の心を覗いたなら、皆が苦しむ以外の結果は生み出さないって分かってるはずだ。

 ただでさえ今は皆の集中が乱れるだけで全滅しかねないような、そんな状況なんだから」

 

「何を……」

 

「ヒビキは、本当に優しいな。

 その優しさが俺を救ってくれた。

 その優しさが俺に生きている意味をくれた。

 ヒビキが大声を上げてるのは、俺を想ってくれてるからなんだろう。

 俺の感情を読み取って、受け止めて、ヒビキなりにぶつかって来てくれてるからなんだろう」

 

「……ゼっくん?」

 

「ヒビキは俺との心の繋がりがあったから、ここまで理解してくれた。ここまで心配してくれた」

 

 彼の命の状態に気付いていなければ、響は何も言わなかっただろう。

 彼の命の状態に気付いてしまえば、多くの者が響のように何かを言うはずだ。

 何の解決にもならない。何も生まない。現実へ苛立ちをぶつける言葉しか生まれない。

 知った者の心が不安定になるだけで、ゼファーの死の運命は毛の先ほども揺らがない。

 

 ゼファーの死の運命を知るということは、そういうことだった。

 

「ヒビキがその感情に耐えられないのなら、それは俺一人で抱え込むべきものなんだ」

 

「―――」

 

 だからゼファーは、自分の心と響の心の繋がりを断ち切った。

 繋がりを断ち切るきっかけが、響がゼファーを想う心であるのなら。

 繋がりを断ち切ろうと彼に決めさせたのは、ゼファーが響を想う心だった。

 もう響は、ゼファーの心の奥底から溢れる感情を感じて思い悩むことはあるまい。

 

 良くも、悪くも。

 

「待って……私……そんな、つもりじゃ……!」

 

 ゼファーは話をしていたリディアンの屋上からジャンプする。

 ふわりと彼の体が浮いた。

 "人間には不可能な"重さを感じない挙動で、ゼファーは校門の辺りまで跳躍を終える。

 

「待ってッ!」

 

 響が手を伸ばそうとも、声を上げようとも、その背には何も届かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アガートラームの人体再現の原理は単純だ。

 一番最初にゼファーの身体データを精密にコピーし、『成長』という乱数さえも完璧に再現し、老化という経年劣化まで再現する。

 それでいて負傷などの変化は受け入れず、再生能力にて一定の恒常性(ホメオタシス)を保つ。

 そうして聖剣は、一人の人間を再現していた。

 

 しかし、だ。

 永遠に生きる生物が居ないのと同じで、データ媒体もまた永遠を約束されたものではない。

 今回、アガートラームは"ゼファー・ウィンチェスターの肉体"というフォーマットを、"立花響の肉体"というフォーマットで塗り潰した。

 ゼファーという人間を構成するデータは複数のパーティーションに分割されていたため、ゼファーという人間の構成要素全てがフォーマットされることは避けられた。

 響の救命処置が終わり、立花響というフォーマットはゼファー用のフォーマットに戻る。

 しかし、フォーマットの際に失われたデータは戻って来ない。

 

「うーん、今日も飯が美味い」

 

 ヤントラ・サルヴァスパの効果でリディアンに付けられたカメラをハッキングし、ゼファーと響のやり取りを見ながら、ウェルはデスクに足を乗っけて板チョコをかじっている。

 

「行儀が悪いわよ、ドクター」

 

「いいじゃないですかこのくらい」

 

 そんなウェルを、マリアがたしなめる。

 

「一つ聞かせて頂戴。

 ドクター、あなたこの結末が読めていたの?

 立花響をあそこまで追い詰めても、ゼファーならば治せると……」

 

「いやあ、過大評価ですよ。

 僕はただ、立花響を生かすにはそれしかないと知っていただけです。

 そしてそれが不可能であると、計算で導き出していただけです。

 何せそんなことをすれば、肉体データの全損に至るのは目に見えていましたからね」

 

 ん? とマリアは首を傾げる。

 その言い方だと、ウェルの予想をゼファーが完全に覆したということになる。

 なのにウェルは、まるで驚いた様子を見せていない。

 

「そのままならゼファー君は確実にお陀仏です。

 んでもって、立花響は治療途中にゼファー君が消えて、そのまま後を追い……

 とめでたく共倒れとなるわけでして。

 治しきったのも、そこから人の形を取り戻したのも、とんでもない奇跡ですよ。

 彼はサラッとやってますが、心臓や肺が止まれば人は普通死にますからね」

 

「瞬時に人としての生命維持を切り、聖遺物として形を保つことにシフトした、と?」

 

「でしょうね。いやはや、僕の計算だとそんなことは絶対に不可能だったはずなんですが」

 

「……そう言う割には、あまり驚いていないように見えるけど」

 

「ま、ゼファー君ならやるでしょう。そのくらいやってもらわないと困ります」

 

 ここでマリアはようやく気付き、そして仰天した。

 

 他の誰もが、ゼファーが治せるだなんて思っていなかったあの状況で。

 立花響はもう助からないと、皆が心のどこかで確信していたあの状況で。

 "Dr.ウェルの頭脳"という、ウェルが何よりも信じているであろうものが、計算の結果不可能だと断じていたというのに。

 

 ウェルは、それでも、ゼファーを信じていたのだ。

 計算の結果絶対に不可能だと結論付けた上で、ゼファーはそれを跳ね返すと信じていたのだ。

 英雄を信じる、子供のように。

 

 自覚はあるのだろうか?

 それは、Dr.ウェルという偏屈者が、自分の頭脳よりも他人を信じるという異常事態であるというのに。

 それはあまりにも歪んで屈折した、一つの形の『友情』だった。

 

「まあこれで、第一段階は終了です」

 

 面倒くさい、なんてものではない。

 

「立花響との友情が、彼の肉体を殺した」

 

 ウェルはゼファーを信じるがゆえに、ゼファーを殺す策を組み上げるのだ。

 

「さてさて、あと何回詰みの状況を作ってあげようかな? 次は―――」

 

 何故ならば。

 

 "自分が生み出すこの程度の絶望"に、ゼファーは負けないと、彼はそう信じているのだから。

 

 

 




 



「僕が憧れたヒーローは絶望にも逆境にも負けやしない!」
「は? 僕を差し置いて英雄になったくせに、この程度で負けるとか許さないよ」
「さあ、僕はこの状況をひっくり返せないと確信しているけど、君はどうする?」
「本物の英雄は、どんな予想外の奇跡を起こして、この状況をひっくり返す!?」
「そういう英雄に僕はなりたい! なりたかった! なれないんだ! なるんだ!」
「ああ、なんて羨ましい! なんて妬ましい! なんて素晴らしい!」

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