戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ   作:ルシエド

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では第二章開幕です

ところでランキング入ってたんですがお気に入り+1とかで喜んでた自分にそんなことがあるわけないので寝て起きたら醒めてる夢だと思って寝ます


第二章 F.I.S.編
第五話:Nightingale


 リノリウムの廊下を、少女がずんずん突き進んでいく。

 セレナの髪色を少し脱色して、赤毛寄りにしたような桜色の髪の少女だ。

 顔のパーツが所々セレナと酷似しており、二人並べば血縁であることが一目で分かる。

 ただ、セレナが絵に描いたような美少女ならば、彼女は未成熟の絶世の美女であるという表現が似合う少女であると言えよう。

 しかしそんな彼女の整った外見も、怒りで吊り上がった目でかなり台無しになっている。

 それもそれで可愛いと思う人間も居るのかもしれないが、まあそれは置いておいて。

 

 

「セレナッ!」

 

「わ、わっ、マリア姉さん!?」

 

 

 

 少女が派手な音を立て医務室と書かれた扉を開けると、そこには彼女を姉と呼ぶセレナが居た。

 少女の名は『マリア・カデンツァヴナ・イヴ』。

 名前を聞けば分かるように、セレナのたった一人の家族たる姉である。

 

 

「聞いたわよ、怪我したって!」

 

「え、あ、ちょっとぶつけたから怪我してないけど念のためここに来ただけで……」

 

「今背中に隠した右手、見せなさい」

 

「……」

 

「セレナ」

 

「……うぅ」

 

 

 基本的に内気なセレナは、マリアに強気で詰められると押し切られてしまう。

 ただでさえたった一人の家族な上に、ずっとセレナの保護者代わりで居てくれた姉なのだ。

 二人は幼少期に両親と死に別れ、幼い頃に祖母に育てられ、それからずっと二人きりで生き延びてきた姉妹であり、互いにたった一人しか居ない家族として大切に想い合ってきた。

 だからセレナはマリアに対し頭が上がらないし、出来る限り尊重したいという家族愛がある。

 おずおずと差し出したセレナの右手の甲にはうっすらと擦り傷が付いていて、血が滲んでいた。

 

 

「動かないで。今から手当てするから」

 

「うん。ありがとう、マリア姉さん」

 

 

 消毒液を吹き付けて、ガーゼを当ててホワイトテープで固定する。

 その所作の一つ一つが丁寧で、優しくされているということが肌を通じて伝わってくる。

 少し消毒液が染みたことにセレナが顔をしかめたが、声を上げず我慢できたことにマリアが少しだけ嬉しそうに微笑んで、セレナの頭を撫でる。

 それにセレナもはにかんで応え、少しだけ優しい時間が流れた。

 

 

「セレナ、もうあの少年に会いに行くのはやめなさい」

 

 

 妹に背を向けて救急箱を整理しながら、マリアはそう忠告する。

 セレナが手を怪我した理由に、マリアは一つ心当たりがあったというか、既に確信していた。

 最近、彼女の妹は『ここ』の新入りの入れられている牢に毎日のように通っている。

 惚れた腫れたならまだ可愛い理由であるし、妹の初恋ということでマリアも喜んで応援するのだが、初めて顔を合わせた日から毎日通っているともなれば気が気でない。

 しかも一ヶ月。

 一ヶ月間、毎日だ。

 

 セレナ・カデンツァヴナ・イヴは生まれつき内向的な性格だ。

 社交的で友人も多いマリアとは対照的に、これまで作れた友達も「親しい」と条件を付けると片手で数えられるほどに少なくなる。

 初対面の見知らぬ人が相手だと、マリアの後ろに隠れていることも多く、最近はそこまでではなくなったものの、マリアにはそんな妹の姿が記憶に新しい。

 そのセレナが、びっくりするぐらい積極的に人に関わっていこうとしている。

 更にマリアの少ない人生経験でも、セレナの態度から恋だとかそういう感情が原動力ではないのだということくらいは分かる、そういう微妙に違和感の感じるあれこれ。

 妹を理解している姉だからこそ、どこかセレナが変なのだと感じていた。

 

 

「や」

 

 

 そして原因であろう少年から引き離そうと言葉を尽くしても、これである。

 セレナが一度こうと決めたら曲げない頑固な部分があることは知っていたが、大抵の場合最終的にはマリアが懸命に言葉を尽くせばセレナの方が折れてくれていた。

 たとえマリアの方が間違っていたとしても、セレナが譲る。

 今までこの姉妹は、ずっとそうやってきた。

 そんな姉妹の片割れが、今度ばかりは頑として譲らない。

 

 

「や、って……お願い、セレナ。怪我をしたあなたを心配する私の気持ちも分かって頂戴」

 

「心配してくれるのは嬉しいよ。でも、そのお願いは聞けないかな」

 

「なんでそこまで……先月会ったばかりで、ろくに話もできてないって聞いたわよ?」

 

「たぶんだけど、私が今日会いに行くのやめたら明日死んでそうなんだよね、あの人」

 

「は?」

 

 

 聞き間違いかと、思わずマリアは素っ頓狂な声を上げてしまう。

 それにセレナは少し苦い笑いを浮かべて、髪先をくるくると指でいじる。

 他人に何かを説明しないといけない時にどうしようと困った時にセレナが良くする動作だと、家族として付き合いの長いマリアは気付く。

 

 

「私に何を言ってもダメだからあの人の所に文句言いに行こう、とか考えないでよね姉さん?

 そんなことしたらしばらく姉さんと口きいてあげないんだから」

 

「……えっ? えっ!? せ、セレナ!?」

 

 

 普段と主導権が逆転し、ぷいっと横を向いたセレナの前でおろおろと右往左往しだすマリア。

 そんな姉の姿に、根本的な部分でお姉ちゃん大好きなセレナも流石に罪悪感が湧いてくる。

 けれど、これだけは譲れない。

 死んでしまいそうというセレナの評は冗談でも何でもなく、彼女が確信している事柄なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第五話:Nightingale

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゼファー・ウィンチェスターがこの場所……F.I.S.研究区画Tブロックの一室に、外から連れて来られてから一ヶ月の時間が過ぎた。

 あいも変わらず彼は鎖に繋がれ、真っ白で正方形な牢獄の中に閉じ込められている。

 ここがどこかも知らぬまま、隔離されての一ヶ月。

 そこだけ見れば普通の人間なら出せと騒ぐか、発狂していてもおかしくはない待遇だ。

 が、ゼファーはそのどちらでもなく。

 意味もなく、意志もなく、ただ天井をぼーっと見上げるだけの日々を送っていた。

 

 

「あ、今日は結構元気そうだね」

 

「……セレナのお陰でな」

 

 

 そんなゼファーにかかる声。

 牢の扉をパスワードで開けて、微笑みながら歩み寄ってくるセレナがゼファーの視界に入る。

 セレナの笑みは見た者を安心させるというか、少しだけ幸せな気持ちにさせる不思議な魅力がある。対してゼファーの笑みは、ひどく乾いていて痛々しかった。

 その力のない笑みで何かを誤魔化せると思っているのだろうか?

 本人は誤魔化せていると思っているのだろうが、本心が水だとすればまるで罅の入った花瓶だ。

 けれどセレナは、あえて気付いていないフリをする。

 

 

「……手の傷、大丈夫か?」

 

「うん、平気平気。血も出てなかったくらいだもん」

 

「ごめん、俺のせいで」

 

「はい、ごめん禁止。私が好きでやったことなんだからゼファーくんに謝る筋合はないよ?」

 

「いや、だけど、それの傷は俺が……」

 

「こんな傷気にしてたら友達同士でドッチボールも出来ないよ?

 私のことを思ってくれるなら、この傷のことすぐにでも忘れてくれると嬉しいな」

 

「……う」

 

 

 昨晩のことだ。

 就寝中に悪夢にうなされ、起きても正気を失ったままだったゼファーは大いに暴れ、手足の鎖と繋がっている部分が擦り切れ血が出るほどにもがき苦しんだ。

 朝一番に来ていたセレナがそれを身近な大人に伝えてからゼファーを止めようとするも、鎖で拘束されているはずのゼファーのもがきに突き飛ばされ、軽傷を負う。

 そこに、かつての他人思いなゼファーの姿はどこにも見当たらなかった。

 面影があるとすれば、突き飛ばしたセレナが痛がった姿を見て一瞬で正気に戻り、大人しくなったその過程にかろうじて見える程度だ。

 

 これで、一ヶ月前にここに来た頃より随分と大人しくなっているというのだから恐ろしい。

 セレナとの最初の会話の後、彼は知りたい情報を全て人伝に教えてもらったあと、かろうじて繋がっていた糸がぷつんと切れたかのように会話すらできない状態になっていた。

 フィフス・ヴァンガードに関する情報は、ゼファーが望んだことで彼に既に伝えられている。

 それが最後の一押しとなりこの惨状。

 頬はこけ、目の下には大きな隈が出来、目線は焦点がどこか合っておらず、瞳の色は死に体、声に力はなく、肌にも雰囲気にもまるで生命力というものが感じられない。

 大切な人が全員死んでしまったという現実は、帰る場所を失ったという絶望は、小学生相当の年齢の少年の心に大いに負担をかけ、壊しかけていた。

 「もう何も考えたくない」と、今この瞬間に全てを放棄していても何ら不思議ではない。

 死が、遺言が、絶望が、小さな少年を追い詰めていた。

 

 

「手と足痛いでしょ? お薬取ってきたから、塗るね」

 

「……ありがとう」

 

 

 それでもゼファーがかろうじて踏み留まっていられているのは、彼女のおかげだと断言できる。

 初めて顔を合わせたその日から、セレナは毎日のようにゼファーの下に足を運んでいた。

 食事を運んだり、本を読んであげたり、他愛もない話をしたり。

 会う度に最近あったことを面白おかしく工夫して話し、飽きもせずに足繁く通う。

 最初はゼファーの反応も薄く、まるで壁に話しているかのようだった。

 それでも懸命に、ただ何があったのかなんて無粋なことは聞かずに、聞いていて楽しくなるような、気持ちの軽くなる話題を選んで話しかけ続けた。

 一週間経つ頃には、ゼファーが相槌を打つようになった。

 二週間経つ頃には、うっすらとだが表情を変えてくれるようになった。

 三週間経つ頃には、調子のいい時には会話が成り立つようになった。

 一ヶ月経った今では、もう人としてかなり回復したようにも見える。

 

 本当にかろうじて、あと一歩でもう廃人の世界から戻ってこれなくなるという地点であり、崖から落ちたその瞬間にセレナがその手を掴んでぶら下がっているような状態。

 そこから諦めずに声をかけ続け、手を差し伸べ続けたセレナの功績だ。

 拘束する錠の形に傷付いた彼の手足に彼女が薬を塗るのも、これが初めてではない。

 自虐的になる彼を彼女が優しく諭した数は数え切れない。

 初めて会った時からずっと、セレナはゼファーに優しかった。

 だから、ゼファーは疑問に思う。

 

 

「なんで……君はこんなに俺に優しくしてくれるんだ?」

 

 

 初めて会ったその時から、セレナは優しかった。

 だから、面識もなかったはずの彼女に優しくされる理由がゼファーには分からない。

 不気味さは感じないが、ただただ不思議だった。彼はその理由を知りたかった。

 セレナはその言葉にきょとんとして、柔らかく微笑む。

 

 

「ゼファーくんって、確か日本語も少し出来るんだよね」

 

「? あ、うん」

 

 

 セレナはポケットの中から折りたたまれた画用紙を取り出し広げ、一緒に取り出した鉛筆でその隅っこに小さな字を書いた。

 『辛』と書いて「つらい」読む字。

 ゼファーにも、セレナにも、その字の持つ意味は分かる。

 

 

「ここに、一本線を足して」

 

 

 『辛』という字が『幸』と書いて「しあわせ」と読む字に変わる。

 ゼファーにも、セレナにも、その字の持つ意味は分かる。

 大人であれば鼻で笑うような子供だまし。

 けれど、ゼファーの受けた衝撃は相当なものだった。

 彼は子供だ。子供だから、騙されることができるという救いがある。

 

 

「今が辛くても、いつかきっと幸せになれる。日本の言葉って素敵だよね」

 

 

 その言葉に、ゼファーは何か大切な約束を思い出す。

 思い出すと同時に頭痛が走り、けれど痛みは記憶をすぐに押し込めず、徐々に時間をかけて忘れるように奥へ奥へと押し込まれていく。

 言葉への共感と納得だけが、心に残る。

 

 

「ゼファーくんは私のことを優しい、みたいに言うけど……

 私はきっと、姉さんみたいに優しくはなれないと思う。私は好きな人も嫌いな人も居るもの」

 

 

 セレナは胸の前で手の平を重ねる。

 

 

「でも、好きな人も嫌いな人も皆幸せで居てくれたらな、って思うじゃない」

 

 

 その仕草が目の前の人間の幸せを祈る時の彼女の癖なのだと、ゼファーは知った。

 

 

「生きてるんだから、誰にだって幸せになる権利はあると思う。

 生きてるんだから、誰にだって人を幸せにする権利はあると思うんだ。

 私はゼファーくんにも幸せになって欲しいなって、そう思うの」

 

 

 セレナはゼファーの権利を主張し、己の権利を主張し、自分の願いを口にする。

 ゼファーの幸せを願っていることを、臆面もなく口にする。

 皆が幸せならそれが一番だという綺麗事を、祈るように口にする。

 (まぶ)しかった。

 彼女の祈りは、直視するにはあまりにも眩し過ぎた。

 ゼファーは思わず目を逸らし、顔を逸らし、下を向く。

 

 

「そうやって、下向いてちゃダメだよ」

 

 

 けれどセレナはそれを許さず、ゼファーの顔を両手で挟んでぐいっと前を向かせる。

 互いの吐息がかかる距離。

 鎖は穴の向こうに引っ張られておらず、彼の手足は自由に動くはずだ。

 けれど、それでも、ゼファーはセレナから逃げられなかった。

 今は目を逸らしてはいけないのだと、そう思った。

 

 

「進んでいく先も、友達も、きっと楽しい今日より後の日も。

 私達にとって素敵なものは、地面に転がってなんかいないんだよ?

 ずっと下を向いてたら、誰かが捨てたものしか目に入らなくなっちゃうよ?」

 

 

 上を向かなければ空だって見えない。

 前を向かなければまっすぐには進めない。

 下を向いている限りは、他人と向き合うことも出来やしない。

 セレナと向き合おうとした時点で、彼は下を向き続けるのをやめたのだ。

 

 

「うん、よし」

 

 

 先ほどまでの柔らかい笑みから、ニッコリと歳相応の明るい笑顔に変わるセレナ。

 胸の前で重ねていた手の平をほどいて、ゼファーの手を握る。

 繋いだ手を離さないままに、彼女は問いかける。

 

 

「姉さんがね、教えてくれたんだ。

 向き合って、相手の目を見て、名前を呼べば友達になれるって」

 

 

 自分に向き合ってくれた目の前の少年に、

 

 

「ね、ゼファーくん」

 

 

 友達になろう、とは恥ずかしくて口に出せない内気なセレナは、最後に少しだけヘタレる。

 言わせんな恥ずかしいというやつだ。

 少し不安がっているその表情からこういうセリフを言い慣れていないということがよく分かり、ゼファーの前での積極的に話しかける姿とは別の、彼女本来の内気な性格が見て取れる。

 

 

「……セレナ」

 

 

 その意を汲むくらいなら、弱々しくも笑みで返すくらいなら、今のゼファーにもできる。

 いや、違う。ゼファーがそうできるくらいまで回復させたのがセレナなのだ。

 挫けていたゼファーが、他者と向き合えるくらいに自分を奮い立たせられたのは、ひとえにセレナに対して感じた恩と感謝、これに尽きる。

 

 

「! うん、うんっ」

 

 

 不安がっていた様子が消え、嬉しそうな笑みが浮かび上がる。

 ゼファーが全く喋ろうとしないために相対的に話しかける頻度が上がっているものの、彼女は本来他人に積極的に関わっていこうとしない内気な性格だ。

 外向的な姉と対照的で、優しくはあっても内向的で、友人もそう多くない。

 もしここに姉のマリアが居れば、吃驚仰天したことは間違いないだろう。

 セレナが自分から友達になろうした誰かなんて、マリアの知る限り初めての人物であった。

 

 

「あ……もうこんな時間。また明日、来るね」

 

 

 備え付けのスピーカーから一定の時刻になると流れる音楽が響き、セレナの腰を浮かせる。

 ゼファーが見送りに軽く手を振ると、セレナは嬉しそうに優しく微笑み返した。

 そして彼女が去った後、部屋には彼一人。

 彼の呼吸以外に何の音もなく、彼の視界に何の変化もなく、静かで寂しい時間が続く。

 何も無い、誰も居ない、孤独な時間がただ無為に流れていく。

 虚空を見つめる彼の瞳は死んだ魚のようだったが、それでもしぶとくこびりつく意志の光も見て取れる。

 

 

「幸せになる権利、か」

 

 

 ポツリと、少年は呟く。

 声に力はなく、表情は死人のそれで、生きている人間特有の活力や熱というものが見当たらず。

 それでも、もう下を向いてはいなかった。

 

 

「……無いよなぁ……」

 

 

 けれどそんな簡単に、言葉一つで立ち直れないのが人間というもので。

 下を向かずとも、自虐と自己嫌悪に塗れた声色は聞いているだけで気が滅入るほどに暗い。

 そんなんだから「目を離せない」と思われているのだということに、彼に全く自覚はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 米国連邦聖遺物研究機関(Federal Institutes of Sacrist)、通称F.I.S.。

 この施設を管理運営している組織の名だ。ゼファーは牢のようなこの部屋から出られないが、セレナからいくらかこの場所のことは聞いている。

 セレナも多くのことは知らない上、彼女がゼファーに己の知ることを全て話しているわけではないため、必然的に彼も全容を知ることはできていない。

 彼女が語った、謎の多いこの組織の情報は四つ。

 この施設がアメリカの何処かの地下にあること。

 何十人も居る研究者達が聖遺物に関する実験を繰り返していること。

 世界各地から孤児や身寄りのない子供を途方も無く集め、ここで実験に使っていること。

 そして自分がその子供の一人であり、ゼファーもその一人になったということだ。

 

 気付けば拉致されて別の国の研究施設にて実験動物、というゼファーのあんまりにもあんまりな境遇にセレナは少し落ち込んだり取り乱したりしちゃうかな、と恐る恐る彼の表情を伺うが、

 

 

「……セレナは、大丈夫なのか?」

 

 

 この場所がどういう所なのかと今の状況を説明されてからの彼の第一声は、自分の現状を嘆いたり困惑したりというものではなく、セレナの「実験に使われている」という一言に対する、セレナへの純粋な心配だった。

 少女は一瞬虚をつかれたような顔をして、言葉の意味を理解すると笑顔を見せる。

 

 

「大丈夫! でも私よりゼファーくんの方が大丈夫じゃないと思うよ?」

 

「まあ……それもそうか」

 

 

 牢の中で鎖に繋がれ死にそうな顔をしている幼い少年が他人の心配をしている姿は、どことなく哀れさと滑稽さを混ぜこぜにした感情を、セレナの心中に呼び起こさせる。

 彼女はその時、こんなになっても少年の中に残っている、捨て切れないものが見えた気がした。

 そんなセレナの視線を不思議に思ったのか、ゼファーはどうしたんだという視線を向け返す。

 

 

「自分が苦しい時でも人の心配が出来る人は優しい人なんだって、私は思うな」

 

 

 問いかけるようなゼファーの疑問の視線に対し、セレナは思うままの言葉を返した。

 

 

「……それは、ない」

 

 

 優しいという肯定に、死にそうな顔をしてゼファーは目を逸らす。

 セレナは困ったように苦笑して、頬を掻く。

 褒めるだけでも時たま落ち込む今の面倒な精神状態のゼファーに、根気強く語りかけ続けているセレナの面倒見の良さが垣間見える一幕だ。

 

 

「元々明日食べるご飯にも困るような子供達ばっかりが集められてる場所だから。

 実験が辛くても、何も食べられない時の辛さよりはマシだって思ってる子は多いんだよ」

 

「……そっか」

 

 

 言葉にも表情にも力はないまま。

 けれどセレナが過ごしているどこが大丈夫なのか分からないここでの日常を耳にして、ゼファーは見ていて痛そうなくらいに強く拳を握りしめた。

 その拳に、どんな想いを握り締めたのか。

 それも、セレナは見なかったフリをする。

 

 

「それは脇に置いておこっか。今日はね、私のお友達を連れてきたの」

 

「友達?」

 

 

 友達。

 ゼファーにとっては懐かしく、どこか胸が痛くなる響きだ。

 耳にするだけで胸の内が暖かくなり、頭が割れるように痛む。

 人は一つの気持ちだけで生きてはいけない。

 ゼファー・ウィンチェスターにとって友とは彼の大切なものの象徴であり、守るべきものの象徴であり、彼の心を暖かくするものであり、彼の心を傷付けるものだ。

 

 

「切歌ちゃん、入って来て大丈夫だよ」

 

 

 ゼファーの様子に気付いているのかいないのか、構わずセレナは部屋の外に呼びかける。

 その声に応え、ひょこっと鉄格子の向こう側から顔を出す少女。

 同い年くらいのゼファーとセレナより少し歳下に見える、そんな少さな女の子が鉄格子とセットの扉を開き、とてててっと二人に駆け寄ってきた。

 

 

「やっ、ご紹介に預りましたデスっ! 『暁切歌』、セレナのお友達デス!」

 

 

 短く切り揃えられている、さらりとしたブロンドの髪。

 ハーフだろうか? 綺麗な金髪と可愛らしい小柄な東洋人の容姿を併せ持っている。

 時折見る素の反応を見る限りセレナは静の印象だが、彼女は一見するだけでも動の印象が強い。

 はつらつとした笑顔、明るい声、全身で太陽を思わせる陽気を発している少女だ。

 元気が体から溢れ出て周りの人間も元気にする、そんなムードメーカーなのだと一目見ればすぐ分かる、そのくらいに底抜けに明るい少女。

 

 今さっきまでこの部屋の中はひたすら暗いゼファーと、その彼に積極的に話しかけるという慣れない事をする内気で静かなセレナの二人で構成されていた。

 だからか、会話が止まるともう再開しなさそうな雰囲気すらあった。

 そんな空気が切歌の登場で一変する。

 クラスに一人は居る、そこに居るだけで空気を明るいものに変えられるタイプの人間。

 仕草、声色、話し方、表情、身振り手振り、そういったものが全て人を元気にさせる方向性に向いている、ある種の天才と言っていいだろう。

 

 

「……ゼファー。ゼファー・ウィンチェスター、だ」

 

 

 しかして、そんな天性のムードメーカーも顔を合わせただけで他人を元気にする魔法なんてものは持ち合わせていない。

 誰にでも使えて何でもできる魔法なんてものは現実にはないのだ。

 か細いというか、暗いというか、自虐的な響きがあるゼファーの声は相変わらずどん底まで突き落とされて絶望した人間のそれ。

 ムードメーカーよりも、カウンセラーや詐欺師の領分であるようにも思える。

 

 

「元気ないデスねー、いつもこうなんデスか?」

 

「そうだね、ずっとこうかな」

 

 

 しかし、二人は微塵も動じていない。

 ごく普通の世界に生まれ、ごく普通の家庭に育ち、ごく普通に幸せになっていた子供であれば、このゼファーの醜態はドン引きして関わりたくないと思うレベルだ。

 けれど、そんな『普通の幸福』を得られた子供は、F.I.S.には一人も居ない。

 二人にとって絶望は見慣れたもので、不幸は当然のように人生の傍にあるもので、心が折れた子供はかつての自分であり何度も見た光景。

 痛くて辛くて苦しくて悲しかった過去を送って来た子供だからこそ、ゼファーが今感じている胸の痛みの一端を理解することができ、彼の醜態を見下さず受け入れることができる。

 どこか、初めての親友を……クリスを思わせる、他人の痛みが分かる少女達。

 彼女らに不思議な懐かしさを感じ、何故懐かしさを感じるのか戸惑っていたゼファーの頭に、不意打ち気味に何かが乗る感触がする。

 

 

「えいッ、元気注入デス!」

 

 

 いつの間に近付いたのか、切歌がゼファーの頭を撫でていた。

 ……暖かい。

 髪を挟んでいるから直接体温が伝わっているわけでもないのに、何故か不思議と伝わる暖かさが心地いいと、されるがままにゼファーは思う。

 

 

「……なんで、俺の頭を撫でてるんだ?」

 

「元気ってあったかくて、それでいてとっても不思議なものなんだって知ってますか?」

 

 

 丁寧な話し方は距離を感じさせやすい。

 けれど彼女は所々発音が妙なせいか、敬意や距離といったものが感じられない。

 むしろグイグイと、心の距離を近付けられている気すらする。

 

 

「なにしろ誰かにあげても減らないのに、貰うとちゃんと増えるんデス!

 自分の元気を誰かにおすそ分けするのは、誰にでも使える素敵な魔法なんデスよっ」

 

 

 あげても減らない、貰うとちゃんと増える。

 そんな『元気』の考え方をゼファーは聞いたことも、考えたこともなかった。

 そして、少し納得した。

 他人を自然に元気にさせる人間と、自分という人間の違いを自覚した。

 こうはなれないな……という、純粋な尊敬と羨望と好意。

 彼女と相対する内に、自然と彼の口元は綻んでいた。

 

 

「お、ちょっと笑いましたネ?」

 

「……お陰様でな」

 

「切歌ちゃんもゼファーくんも、すぐ仲良くなっちゃったね」

 

 

 満足気な切歌と対照的に、セレナはちょっと複雑そうだ。

 彼女が一ヶ月かけてようやく引き出せたゼファーの笑みを、二分足らずで引き出してみせた切歌に思う所があるのだろう。内気な人間は総じて、明るく社交的な人間に対し複雑な尊敬と憧れを持つことが多い。

 まあ、それは適材適所というものだ。切歌には返答の返って来ない相手に根気強く話しかけ続けられる粘り強さは全く無いため、逆の立場ならどうしようもなかっただろうから。

 とはいえ、切歌を連れて来たセレナの判断は英断だったと言っていいだろう。

 ゼファーは劇的とまでは言えずとも、目に見えて元気になっている。

 まるで元気だった頃の何かの気持ちを思い出しているかのように。

 

 

「君は、日本人?」

 

「お、ゼファーよく分かりましたね。こんな髪デスが、あたしは立派な日本出身デスよ」

 

「その、日本語の癖が付いてる英語ってのに聞き覚えがあってさ……

 話すだけなら俺も日本語は話せるから、好きな方で話してくれていい」

 

「マジデスか!? やー、見るからに外人って感じなのにゼファーはイケるクチですねー」

 

(切歌ちゃんは英語も日本語も完璧って感じじゃないんだけどなあ……)

 

 

 日本語の癖が付いた英語に、どこか懐かしい気持ちを思い出している。

 聞いているだけで安心するような、不思議なデジャブ。

 ゼファーはポルトガル訛りのスペイン語、教科書通りの英語、会話だけの日本語を使える。

 彼が公用語でもない日本語を使えるのは、少し前まで日本語の癖の付いた英語を話す親友に、日本語を会話最優先で習っていたからに他ならない。

 その少し前が、彼にとっては本当に遠い昔のようだ。

 少年は切歌と話していると浮かんでくるその不思議な気持ちが何であるか、記憶を探ろうと思考を回転させることもなく、頭の隅に押しやっていく。

 懐かしいと思っただけで、あまり深く考えることでもないのだから当然だ。

 

 

「よろしくっ、ゼファー!」

 

 

 けれど、その気持ちを抜きにしても、暁切歌という少女が話しているだけでこっちまで明るい気持ちになってしまうような、太陽を思わせる少女であることは変わらない。

 その性格にゼファーが好感を持ったことも変わらない。

 

 

「よろしく、キリカ」

 

 

 差し出された手を、力強くではなくとも、しっかりと握った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間はマリアがセレナを問い詰めた日の昨日の晩、夜から朝になろうとしていた時間に遡る。

 『ナスターシャ・セルゲイヴナ・トルスタヤ』は、監視カメラから送られてくる映像をじっと見つめ、ため息を吐いた。

 彼女はこの施設の統括責任者、有り体に言えば現場責任者だ。

 数十人の癖のある研究者達をまとめ上げ、研究というものが分かっていないくせに結果だけは求める偉い人達と交渉し、自分自身も研究結果を出さねばならない立場。

 つまり能力とコミュ力と人格が求められる厳しい中間管理職だ。

 もう数年この職責を何の問題もなく勤め上げている彼女の能力と人格は疑いようもなく、40半ばという若さでありながらこの規模の施設を任されているということがその証明であると言える。

 何しろF.I.S.の研究所はこの一つしか無いが、この研究所の中だけでも数十人の各方面から選抜された研究者と数十人の信頼のおける職員、そして数百人の子供を抱え込むという大施設だ。

 聖遺物という異端技術の極秘研究、子供の事実上の誘拐と実験動物扱いをしてる現状、何一つとして公に出せるものではない。

 加えて言えば、この組織の上位組織は『白い家』しか存在しない上に、運営資金自体は『五角形』の予算から捻出されているという始末。

 組織の規模、重要性、そして違法性。生半可な人物に任せられる組織ではないのだ。

 

 

「……ここまで気が進まない仕事も、珍しい」

 

 

 この施設には身寄りのない子供達が世界各地から集められている。

 いや、厳密には世界各地から集められた『可能性のある』数千人の孤児達の中から、更に選抜された数百人の『有望株』がこの施設には集められているのだ。

 その数百人を除いた数千人は国内及び諸外国に作られた比較的クリーンな養育施設に一纏めにされ、有事に()()ができるようになっている。

 ただ一人を除いて、ここに集められた子供達はある目的のために集められた子供達なのだ。

 そのただ一人こそが、ゼファー・ウィンチェスターである。

 

 

(殺されるために連れて来られたようなものでしょうに)

 

 

 ナスターシャが目を移した別のモニターには、ゼファーの取扱に関する注意事項……まるで、彼を物か機械のように見ているのではないかと錯覚するほどに冷たいメールの文面。

 しかし、ナスターシャに意義を申し立てる権利はない。

 これを書いたのは今の人類の誰よりも聖遺物というものについて詳しく、ロードブレイザーという脅威を知り、『担い手』について熟知している女性だ。

 ナスターシャが感情論で反発したとしても、結果的に世界の崩壊に繋がることすらありうる。

 

 

(……私は、何を今更)

 

 

 この施設は子供を用いた人体実験も平気で行っている。

 それらの実験を統括し、主導するのがナスターシャの仕事であり為すべき責務でもある。

 ただ。ただ、それでも。

 ナスターシャ・セルゲイヴナ・トルスタヤは、子供の苦痛と引き換えに得られるものがどんなに尊く素晴らしいものであっても、そこに価値を見出すことが出来なかった。

 子供を犠牲にして得られる未来に、どうしても納得することができなかった。

 迷いが彼女を曇らせる。

 

 

(罪悪感など……それはただの自己満足で、人の未来と子供達への裏切りでしかないというのに)

 

 

 やらねばならない。

 誰かがやらなければならないのなら、自分がその十字架を背負っていこう。

 そう思って、覚悟を決めたはずだった。

 しかし、子供達を犠牲にする日々が積み重なる度に、その覚悟は揺らいでいく。

 聖遺物の研究を一日も早く進めなければならない。時間がない。ロードブレイザーの復活、人類の滅亡、それらが秒読みに入っているのだと、ここの研究者の誰もが知っている。

 何を犠牲にしてでも結果を出さなければ人類が滅びると知り、抗うと決めた者達が集った反逆の牙がこの研究所なのだ。

 

 それなのに子供達を愛おしく思い、切り捨てたくないと迷う自分のなんと情けないことか。

 ナスターシャは、そう自嘲する。

 それは母性愛であり、情であり、優しさだ。

 人として大切なものであり、科学者として、人類を守る者として、捨てなければならないもの。

 人の未来を守るために、未来のある子供達を犠牲にしなければならない、そんな矛盾。

 けれど人は時に矛盾したことをせねばならず、時に世界の矛盾を受け入れねばならず、自分の中の矛盾を解消しないまま進んでいかなければならない。

 迷ったまま、矛盾したまま、彼女は成すべきことを為す。

 やりたくないこととやるべきことが一致したまま、歯を食いしばって手を尽くす。

 それも、一つの大人の形だった。

 

 

(私は、フィーネの心変わりを祈るしかない)

 

 

 ゼファーをここに送って来た女性のメール、そこに書かれた指示。

 ここである程度のデータを取り次第、その女性がそのデータを元に判断し、処置を決める。

 処置は『焼却処理』か『凍結処理』。

 すなわち、少年への死刑宣告だった。

 ゼファー・ウィンチェスターを生かそうという選択肢はメールのどこにも見当たらない。

 

 

「……」

 

 

 書類を整理している内に時間が過ぎていたのか、部屋の備え付けのデジタル時計が示す時間はもう夜ではなく早朝と言っていい時間帯だった。

 哀れみと無力感が滲み出るナスターシャの瞳が、監視カメラの映像へと移る。

 そこに少し、動きが見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢を見ていた。

 監視カメラの先の寝床の上、ゼファーの意識は泥のような悪夢の中にあった。

 そも、あのヴァーミリオン・ディザスターに全てを奪われた日から、ジェイナスの最後の言葉が心を抉った日から、ゼファーは悪夢しか見ていない。

 悪夢を見て、飛び起きて、セレナに少し元気にしてもらい、また寝る度に悪夢を見て。

 元から肉付きもよくないゼファーの肉体は日を重ねる度に痩せこけていき、少しづつ、少しづつ弱っていった。

 

 

『情けない』

 

 

 身体が弱れば心も弱る。

 弱った彼の心を支えているのは、毎日セレナが届けてくれる僅かな活力だ。

 切歌風に言うのなら、あげても減らないのに貰えば増える確かな元気。

 そんな残り少ない活力を、悪夢の中で誰かが削る。

 

 夢の中で面を上げたゼファーが見たのは、自分と瓜二つの顔をした誰かの姿。

 ゼファーであってゼファーでない、無意識下に潜むゼファーの一側面(ペルソナ)

 二重人格だとか、彼の中に封じられている意識体だとか、そういった格好のいいものではない。

 だからこそどこまでもゼファーの本音の一側面であり、自問自答に帰結する何かだ。

 

 

『舌でも噛めば今すぐにでも死ねるぞ?

 楽しく後腐れなく生きたいのなら本当に何もかも忘れたらどうだ?

 お前が苦しいのは、中途半端だからだ』

 

「……黙っててくれ」

 

『生きたいのか死にたいのかハッキリしろよー、道化(オーギュスト)のギャグじゃねえんだからさ』

 

「分からない……分からないんだ……」

 

 

 立ち上がれもしないゼファーと、それを見下すもう一人のゼファー。

 目を凝らせば泥のような悪夢の中に、数え切れないほどの彼が漂っている。

 心に浮かぶ一つ一つの気持ちを目に見える形とすれば、人の心はこうまで複雑怪奇なものとなってしまうのだ。

 全て本音で、全て素直な気持ちで、全てが絡み合い、だからこそ真っ向から否定が出来ない。

 

 

「生きたい、生きたいんだ。この気持ちは本当なんだ……

 だけど、望んでた通りになってるはずなのに、生きているだけで辛いんだ」

 

 

 血を吐くような、魂も一緒に吐き出してしまいそうな切実な言葉。

 

 

『そりゃあそうだ、人間は一つの気持ちで生きてるわけじゃない。

 お前の思いの数だけ"俺達"は居る。

 心優しい面と暴力に訴える攻撃的な面の二面性、雪音クリスですらそうだった』

 

 

 彼の一側面だから、意識よりも深いところにある無意識だから、当然彼も知っている。

 

 

『だからこそ、お前の語る本音も真実。俺の語る気持ちも真実だ』

 

 

 いっそ、何も考えず一つの気持ちだけで生きていられれば楽だったろうに。

 

 

『希望は絶望を乗り越える人の姿、その強さにしか宿らない』

 

『だから(おまえ)は、希望にはなれない』

 

『最初に出会ったのは、親に売られたリルカだったな』

 

 

 ゼファーが慕った人物は、皆それぞれの絶望と戦っていた。

 絶望に抗い現実と戦うその姿にこそ、ゼファーは希望の欠片を見た。

 

 

『リルカも、ビリーも、ジェイナスも、バーソロミューも、クリスも。

 誰もが大切な人との別れを乗り越え、絶望を希望で踏破した。

 その姿には紛れもない"希望"が見えた。

 乗り越えた人と出会ったこともあれば、乗り越える過程を目にしたこともあった。

 お前と違い、誰もが死の別れの絶望を乗り越える強さを持ち……希望を宿していた』

 

「そうだ、俺に無かったから、俺より生きる価値があったから、だから……!」

 

『だから、その希望の背を押す西風になろうとした』

 

 

 ゼファーに背中を押され、誰もが絶望を希望で断ち切った。

 

 

『そして、守れなかった』

 

 

 そして皆、ゼファーが原因となりその命を失った。

 

 

『守れなかったお前は、大切な人達にとっての希望にはなれなかった』

 

 

 希望を見て、その後押しをしただけ。

 ゼファー・ウィンチェスターはその名に反し誰にとっての希望にもなれなかった。

 それが彼の認識、心奥に根付く絶望の一つ。

 希望の西風と望まれた少年にとっての、一つの真実だった。

 

 

『どんな理由があろうと、どんな言葉をかけられようと、俺が(おまえ)を許さない』

 

 

 自分を永遠に許せないのが彼の人生だ。

 

 

「……ぁ」

 

 

 いつの間にかもうひとりの自分は消え、ゼファーの身体は更に深く汚泥へと沈んでいく。

 泥の中は息苦しい。それはそのまま、生き苦しいという彼の人生の反映でもある。

 そして泥の中から数え切れないほどの死体が少年に群がり始める。

 誰もが恨み言を口にし、誰もがゼファーを爪で掻きむしり、そして誰もが彼の知った顔だった。

 泣き出しそうで、けれど泣けなくて、ゼファーは自分の喉に噛み付いて来た、クリスだった腐乱死体を抱きしめる。

 

 

「さよならなんて言えるかよ、一人で進めるわけないだろ」

 

 

 大切な思い出。けれど死別で終わったことまで思い出してしまうから、思い出したくない記憶。

 さよならと口にして、大切な人の死を乗り越えた少女との思い出が蘇る。

 丘の上に両親の墓を立て、大切な人にお別れを言って前に進んだ少女の強さを思い出す。

 彼女の強さを思い出し、そうはなれない自分の弱さを声にする。

 

 

「こんなにも、俺は弱いのに……!」

 

 

 一人で何かを乗り越えられたことなんて無い。

 一人で成長できたことなんて無い。

 一人で前に進めたことなんて無い。

 ゼファーは、万人が認めるそんな弱者だ。

 

 

「頼むから、頼むから、頼むから、置いて行かないでくれッ! どこにも行かないでくれッ!」

 

 

 けれど、離さないようにと強く死体を抱きしめても、死体はグズグズと崩れていく。

 ここは夢の中。大切な人の死は過ぎたこと。

 死ぬべき時に死ねなかった者は、置いて行かれた生者は、死者には決して追いつけない。

 ここでどう足掻いた所で現実は変わらない、そんなことは彼にだって分かっている。

 それでも、崩れていく死体の欠片を必死に集めていくその表情こそが、壊れそうなその心から吐き出されるその言葉こそが、ありとあらゆる本音に勝る彼の咆哮だった。

 

 

「俺を、俺を―――ひとりにしないでくれ!」

 

 

 どんな時でも彼を一人にしようとする魔神が、それを嘲笑う声がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 監視カメラで『いつもの異変』を確認したナスターシャは駆け出した。

 携帯端末で警備の人間を呼び出し、Tブロックの独房に直通のエレベーターへと向かう。

 この研究所はジオフロントほどの広さもなければ、ミサイル対策に地下深くにある軍事施設ほどの深さもないが、地下26階という規格外の大きさを持った建造物だ。

 各階にはA~Zブロックという呼称が付けられており、Tブロックは地下20階にあたる。

 地下26階から地下21階までは子供達も自由に行き来できる居住スペース、地下20階から地下11階までは聖遺物も保管されている実験区画、それより上は研究者の居住区も含めたその他全てだ。

 気圧等の諸問題は問題にすらならないが、ナスターシャの歳にもなると移動が少し堪える。

 更に言えば、離れた場所に移動するまで多少時間がかかるというのも問題だった。

 彼女が辿り着くまでに早くとも数分、その間に事態は悪化する。

 

 

(自傷……!)

 

 

 ゼファーがここに来た頃に比べれば随分回数は減ったが、最初の頃は誰かが毎晩見張っていなければならないほどに彼は暴れていた。

 暴れていたと言っても、それは鎖を振りほどこうとしているようには見えなかったが。

 夢と現実の境界が曖昧になっているような、自分に群がる何かを振り払おうとするかのような、遠く離れて行く何かに手を伸ばそうとするかのような、そんなもがき。

 身体の痛みも無視してそれを続けた結果、手錠足錠が触れ合う部分の肌は裂け、肉は傷付き、血は吹き出す。

 すぐに錠は手足を傷付けにくいものに換装されたが、それでも限界はある。

 ナスターシャには、その行動が歪んだ自傷にしか見えなかった。

 許せない自分を傷付ける過程にしか見えなかった。

 

 焦れる心を抑えて急ぎ駆けつければ、なんとそこには先客の姿。

 諸事情……いや、ゼファーをここに連れて来た女性の意向でここに来る許可を出していた少女。

 セレナ・カデンツァヴナ・イヴが、少年に突き飛ばされていた。

 

 

「セレナ!」

 

 

 切れる息も構わずに、ナスターシャは飛び出して少女を身体で受け止める。

 セレナの軽い体格では突き飛ばされて頭を打って大変なことになりかねない。

 けれど、その行動に最も大きな衝撃を受けたのはナスターシャでも、突き飛ばされたセレナ自身でもなかった。

 自分が信じられないように、ゼファーはセレナを突き飛ばした己の右手を見つめる。

 酒の酔いが覚めたような、悪夢から覚めたような、正気に戻った人間の所作。

 それからセレナのぶつけて怪我をした右手を見て、ゼファーは両手で口元を抑える。

 セレナが右手を隠そうとするももう遅い。

 

 

「お、ぇ」

 

 

 内蔵すらも吐き出すのではないかという勢いで、少年は盛大に吐いた。

 恩を感じている少女を突き飛ばして怪我をさせたという事実が、肉体の機能を暴走させる。

 追い詰められた精神状態だからこそ、僅かな罪悪感ですら致命傷となりうるのだ。

 そこにようやく、機材を携えた警備の男達が辿り着く。

 

 

「マズい、吐瀉物が気管支に詰まってる……! 気道確保急いで!」

 

 

 ナスターシャの指示で男達が慌ててゼファーの救命作業に入った。

 こうなるのだ。

 人の死に対しメンタルが豆腐を通り越して砂の城並みに脆いゼファーを追い詰めるとこうなる。

 無意識が記憶を忘却させようとしたのは、大切な人の死を思い出そうとするだけで今こうして物理的に死にそうになっている、この少年の心理的防御機能なのだ。

 心が強く育ちきっていない少年は、数え切れないトラウマの山に真っ当に成長する機会を阻害され、心の痛み(かこ)と向き合うだけの強さを持たない。

 そして向き合わされるとこうなる。

 精神のダメージが肉体を誤作動させ、最悪にまで至れば死ぬ。

 

 カウンセラーが無理に自身の心の傷と向き合わせないのもこの辺りに理由がある。

 心の傷は向き合った所で消えないし、こういう神経症の発祥や廃人化等の大きなリスクを生む。

 他の誰の助けがあったとしても、それだけでは根本的に解決しない。

 他の誰かの助けがなければそもそも立ち直れない。

 誰かに助けてもらった上で、彼自身が強くならなければ、この壁は超えられない。

 

 それでいて他者の助けがなければ、人は自分の心の病を自分で治すことは出来ない。

 現代に至っては誰もが知っている当たり前の常識だ。

 彼はそんな当たり前の条理を、誰が見ても分かる姿で、望まずとも周囲に知らしめている。

 

 

「ちょっと失礼します」

 

「セレナ!?」

 

 

 嘔吐からの窒息は避けられたのか、むせ返るゼファーに向かってセレナが歩み寄っていく。

 先程突き飛ばされたからか止めようとするナスターシャを手で制し、前へ。

 そして吐瀉物に塗れたゼファーを拒むこと無く、嫌な顔一つもせずに、抱きしめた。

 

 

「大丈夫、大丈夫。誰も貴方が悪いなんて言わないから」

 

 

 ゼファーが喉に残っていたものを吐く。

 セレナにかかる。

 それでもセレナは眉一つ動かさずに、抱きしめ続ける。

 

 

「私はここに居るし、あなたはここに居ていいの。だから、大丈夫」

 

 

 抱きしめながら、ゼファーが欲した言葉を掛け続ける。

 小さな小さな、人が生まれつき大抵持っている権利を、ゼファーに渡す。

 貴方は悪くないと肯定し、ここに居ていいのだと肯定する。

 答える言葉はなかったが、代わりに返って来た彼の呻くような声と、抱きしめ返す両腕が、まるで泣いているようだった。

 落ちる所まで落ちた少年が、少女に手を差し伸べられ、立ち上がっていく過程だった。

 

 

(……これも貴女の計算の内ですか、フィーネ……)

 

 

 ゼファーが自分を傷付けることを、自分を嫌うことを、セレナは許さなかった。

 ナスターシャは一つの大きな不安から、人知れずため息を吐いた。

 ゼファーの折れた心が弱音を吐いていた。今の彼は、きっと銃も握れない。

 

 折れた心が、折れた膝が、折れた決意が、戦えなくなった今の少年を構成するものだった。




ナイチンゲール=小夜啼鳥
セレナーデ=小夜曲
これを最初に日本語に訳した人はシューベルト好きですよね、たぶん
ナイチンゲールはどこであっても傷付いた人にとっては天使

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