戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ   作:ルシエド

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○ジョニー・アップルシード
WA5の重要な単語で、そこではその時代で人々を導く開拓者や特定の集団のリーダーのことを指します。
元ネタは西武開拓期に荒野で名を馳せた偉人の一人であり、フロンティア精神の体現とも言われた一人の男性のことです。
帽子代わりにへこんだ鍋をかぶり、右手にりんごの種を入れた麻袋を、左手に聖書を持ち、口笛吹きながら裸足で荒野を踏み越えた漢だと言い伝えられています。
自分のひ弱さを自嘲しながらも荒野に夢見る自分を抑えきれず、新たな世界に踏み出し、そこで多くの人にりんごとりんごの種を配っていたのだとか。
飢えた人にりんごの実を与え、膝を抱えた人にリンゴの苗を育てるという未来への目標を示し、緑なき荒野にりんごの種を蒔く、人によっては彼こそが本当の意味での英雄であるとまで言うそうです。
シンフォギアGはフロンティアを目指す物語だったな、なんて今更ながらに思ったり


3

 悪い夢、黒い泥の中でゼファーは足掻く。

 息苦しい。生き苦しい。もがいてもあがいても光は見えず、ズブズブと沈んでいく。

 死者が足を引く。亡者が彼を引きずり込む。なのに手を伸ばせば、死体は砕ける。

 ひとりぼっちで、闇の底に沈んでいく。

 

 ゼファーは這い上がろうともがくも、死者たちに縋り付かれる度に、死者から怨嗟の言葉を投げかけられる度に、体から力が抜けていく。

 ここは夢の中。心の力が削がれれば、体の力も削がれてしまう。

 上を向くな、前を向くな、下を向けと強制されているかのようだ。

 少年の中に芽生えた昏い感情が『何かの意思』で増幅され、少年自身へと向かう。

 彼の中で生まれ、他者によってとことん増幅された自己嫌悪は彼自身を殺す毒となる。

 もう諦めて、何もかも投げ捨てて、考えるのをやめようとした、その時。

 

 

 歌が、聞こえた。

 

 

 それはリンゴの歌だった。

 ギリシャ神話における不和(バラル)のリンゴ、聖書における人の原罪を歌う唄だった。

 時代を切り開く先駆者にして開拓者、リンゴの種を蒔く人(ジョニー・アップルシード)を称える歌だった。

 とてもシンプルで、優しい旋律。

 だからこそ、そこに込められている想いが混じり気もなく聞き手に伝わり、その心に届く。

 思わず足掻くことも諦めることも忘れ、ゼファーはその歌に聞き入ってしまう。

 

 歌が胸に染みていく。

 耳にするだけで優しい気持ちになれる。

 自然と目を閉じて、心で聞きたい気持ちになっていく。

 気付けば彼の周囲からは泥も、闇も、群がる亡者も消えていた。

 歌に聞き入っている間に、いや歌が彼の心に沁みたからこそ、彼の悪夢は消し去られていた。

 悪夢とそれを煽っていた何者かの意志に殺されかけていた少年の心は、歌に救われたのだ。

 

 気付けばゼファーは、悪夢のせいで夢にも見なくなっていた光景の中に居た。

 果てしない青空と、果てのない荒野と、果てより来たる西風が広がる世界。

 目の前には華やかさと神聖さを両立した、途方もなく荘厳で神秘的な『銀の剣』。

 手にするだけで英雄へと至れる聖剣の突き刺さった、純白にして絢爛たる祭壇がそこにあった。

 

 

「……」

 

 

 聞こえていた歌はこの銀の剣が届けてくれていたのだと、少年は理屈でなくそう思った。

 かつては求めなかった剣に、ゼファーは手を伸ばす。

 

 手にすれば、力が手に入る予感がした。

 手にすれば、運命が変わる予感がした。

 手にすれば、全てを守れる予感がした。

 

 かつて「英雄なんて要らない」と言い切った彼が、仲間と力を合わせればそんなものは必要ないと剣に告げた彼が、安易にその剣を求める。

 それは無力感だった。それは後悔だった。それは絶望だった。

 けれど、そんな気持ちを理由に求めた所でこの剣が応えるはずもなく。

 

 

「ッ」

 

 

 バチリ、と電気のような衝撃が伸ばした少年の手に走る。

 剣に伸ばした右手が痺れる。剣に拒絶されたのだ。

 そこにはゼファーをたしなめるような、かつての彼の決意を尊重するような、そんな明確な意志と厳しさがあった。

 

 

『アガートラームは一人の力で抜くものにあらず』

 

 

 守るものを全て失い、守りたいものを今は何一つ持たず、絶望と孤独の中にある少年。

 剣は少年に今はまだ己を手にする資格はないと語りかける。

 その拒絶からは、この剣が意思なき物、ただの剣であるようにはとても見えない。

 

 

「そうだよな、ひとりぼっちじゃ抜く資格はないよな……」

 

 

 剣の意志を彼がハッキリと読み取れるようになったのは、剣との繋がりが強まったから。

 剣は少年を拒みつつ、少年の精神的な成長を待ち、成長した少年を強く求めている。

 世界にもう時間があまり残されていないことを剣は知っている、それ故に。

 

 対するゼファーは剣に喪失の事実を突き付けられ、服の胸元を握りしめながら俯く。

 守るものがない。守りたかったものはもうこの世に居ない。

 皆、ゼファーを置いて先に行ってしまった。

 一人でないこと、守るものを持つことがこの剣を抜く資格であるのなら、ゼファー・ウィンチェスターはその資格を望まぬままにとうに自らの手で捨てている。

 かの焔の声が事実であるならば、その喪失の原因の一端は彼にあるのだから。

 

 けれどぽっかりと空いてしまったような胸の穴、その虚に歌が流れ込む。

 銀の剣は人の心が分からないままゼファーを突き放し、しかしそれと同時にどこからか運ばれてくる歌声を彼に届け続ける。

 悪夢を吹き飛ばした優しい歌は今度は少年の胸の穴の中に流れ込み、その隙間を埋める。

 胸の奥の命に火が灯るような錯覚を生む暖かさ。

 

 

「この……声……歌……」

 

 

 剣が与えた痛みをきっかけに、夢の中でまどろんでいた意識がハッキリとしていく。

 それが夢から覚める前兆なのだと、少年は感覚で知っていた。

 それと同時に、この歌を聞いたのも初めてではないのだと思い出す。

 悪夢に呑まれそうになった時、この歌に何度も救われた。引き上げられた。

 歌に流れる血のような人肌の暖かさが、旋律を通して冷たくなった身体に流れ込んで来る。

 この暖かさに、込められた気持ちに、ゼファーは救われたのだ。

 

 夢から覚め、瞼を開けると、そこにはペンダントを握りしめて歌うセレナの姿。

 彼女が口ずさむリンゴの歌が、この現実が夢の終わりなのだと教えてくれる。

 耳に慣れた旋律が、彼が悪夢を見る度に彼女が歌ってくれていたのだと教えてくれる。

 彼女の歌が彼を救ってくれたのだと、教えてくれる。

 『歌』。

 その旋律が、込められた想いが、かつて誓った歌を聞くという約束が、彼の心を震わせる。

 彼自身、何故そこまでその歌に感動しているのかも気付けぬままに。

 

 

「あ、おはよう。ゼファーくん」

 

 

 悪夢が終わった朝、終わりを迎えさせた歌、微笑んでくれるセレナ。

 寝起きではっきりしない頭をぼんやりと動かして、ゼファーは挨拶を返す。

 悪夢に活力を削がれた彼の中に流れ込んだ歌が熱となり、彼の命を奮い立たせていた。

 歌は命なのだと、命に溶け込んだ歌の欠片、胸に宿る僅かな熱が彼に語りかけてくる。

 安易に力を求める絶望から生まれた気持ちは、気付けばどこかに霧散していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第五話:Nightingale 3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゼファーがF.I.Sに来て一ヶ月半、切歌達と顔を合わせて二週間弱の時間が過ぎた。

 ナスターシャの補習が始まってから数日、とも言う。

 

 

「――のように、真実は時として口にしないことが良い時もあります」

 

 

 鎖で繋がれているゼファーに合わせ、補習はこの部屋の中で行われる。

 時間こそ短いが、元より勉学を苦としないクソ真面目なゼファーだ。

 新しい知識を身に付けることはそれだけで一種の喜びを感じられるし、今も教鞭を執っているナスターシャの教え方は非常に分かりやすい。

 今は古典――シェイクスピアその他諸々――の現代訳を通じて英語の言い回しや常用単語、時折文法や常用外単語を定着させる授業の真っ最中。

 ナスターシャに向き合うように、横並びにゼファー・セレナ・調・切歌の順に座っている。

 こうして四人で肩を並べて勉強をしていると、ゼファーは今まで知らなかった彼女らの一面を知れたというか、まだまだ彼女らとの付き合いが表面的なものでしかなかったことを知る。

 

 切歌は勉強嫌いで勉強が苦手だった。明るくて四人で居る時はいつだって中心人物な彼女を結構尊敬していたゼファーからすれば、これは結構意外なことだった。

 切歌の言葉が日本語であれ英語であれニュアンスが微妙に聞き取りづらかったのは自分のせいじゃなかったんだな、と、ここ数日でゼファーはホッとしていたり。

 調は非常に勤勉だった。黙って手を動かし、名指しで回答を求められればしっかりと答える。

 おそらくは四人の中で最も勉強ができるタイプだった。頭の回転が早く、努力の方法を間違えることもなく、堅実に積み上げていけるタイプ。

 セレナはノートは板書のみで自分なりの注釈は入れないが、ノートを取る時以外はナスターシャに視線を向けて話を聞くことに集中するタイプ。

 勉強ができるタイプというより、教師が教えていて楽しい生徒だった。

 ならばゼファーはどうかというと、覚えは切歌よりもなお悪いという底辺。

 しかし前日にやったことを復習と想起でちまちまと定着させることを習慣付け、なんとか切歌より幾分マシでセレナに次ぐ程度には授業について行けている。勉強は継続力ということだろう。

 

 ゼファーが横目で三人を見ると、うへえといった顔の切歌を見ないフリすれば三人共手慣れた様子。補習というからには通常の授業も当然あるのだろう。

 F.I.S.には情操教育の一環としての授業があるらしい。実験と並行しある程度の教育を子供達に行うセクションがあり、ナスターシャはそこの責任者でもあるようだ。

 はっきりしないのはゼファーがこの施設のことをセレナ達からの又聞きからしか知らず、また彼女らが知っていることを全て話しているわけではないからである。

 教育があるとなれば、切歌が忘れた宿題というのも、彼の内心に実感が湧いてくる。

 それに教師に手ずから教わるということ自体、ゼファーには初めての経験だった。

 

 

「マムー、質問があるデスが」

 

「質問の時は手を上げなさい切歌。どこか分からない所でも?」

 

 

 切歌は勉強は好きでなくても、時々寝てしまったりなどの失態を除けば、授業にはそこそこに参加する意思を見せる。

 ゆえに彼女は嫌われる生徒タイプではなく、手が掛かるが放っておけない生徒タイプのようだ。

 先生方がなんとか卒業させてやろうと四苦八苦して、補習漬けになるタイプである。

 それと、もう一つ。

 最近になってゼファーが気付いたことの一つに、ナスターシャの『マム』という呼称がある。

 切歌だけかと思っていたが、調やセレナもそう呼んでいるようだ。

 マムとは軍隊などで多用される、目上の女性への呼びかけに使われる代名詞だ。

 ただ、なんとなく、ゼファーはそこに微妙なニュアンスの違いを感じた。

 目上の女性に向ける以上の何かを、彼女らの呼びかけから感じ取れる。

 直感由来の情報なので、本当になんとなくでその中身に全く見当はつかないのだが。

 

 

「なんで本当のことなのに言っちゃいけないんデスか?」

 

「切歌、貴女が食事を取り過ぎて体重が20kg増えたと仮定します」

 

「デブじゃないデスか! なんでそんな仮定にしたんデスかッ!」

 

「彼が言います。『お前デブだな』」

 

「ゼファーッ!」

 

「いや俺言ってない言ってない」

 

「ですが彼は真実を言っただけです。おかしくはないでしょう?」

 

「うぅ……でもいい気はしないデス……はっ!」

 

「そうです、真実だとしても口にすることは必ずしも正しいことではありません。

 太った女の子にデブだなどと口にした男はひっぱたかれても文句は言えません。

 たとえ『俺はデブが好みだよ』と最後に付け足したとしても、相手を不快にさせるのです」

 

「あの、なんで俺デブ専にされてるんでしょうか」

 

「ゼファーくんも大変だね……」

 

 

 ナスターシャと切歌のコントのようなやりとりに巻き込まれるゼファー、本気で同情しているのはセレナ一人だ。これで中々分かりやすいというのがやるせない。

 授業と言っても、彼らはさして難しいことをしているわけではない。

 大人びていたり達観していたりで年齢不相応な部分もあるが、ゼファー・セレナ・切歌・調の四人は全員日本で言えば小学生相当の年齢だ。

 知識を付けるというより常識、良識を付けて行く授業のウェイトが大きい。

 授業風景から見るに、ナスターシャは特にそういう点にこだわっているように見える。

 

 

「『真実でさえ、時と方法を選ばずに用いられてよいということはない』。

 そういう言葉もあります」

 

「……モンテーニュ?」

 

「流石、調は勤勉ですね」

 

「偶然。最近、読んだから」

 

 

 そういう意味では社交的だが知識のない切歌と、知識はあるが社交的でない調は本当に対極だ。

 今もナスターシャの発言から歳相応に見えない返答をした調に、ほへーと口にしながら切歌が尊敬の視線を向けている。

 ナスターシャの授業から調は精神的なものを十分に学べておらず、切歌は知識面で十分に学べていない。足して二で割ればどちらも優等生となれるだろうに、残念極まりない。

 そういう意味では、この場で最もナスターシャの理想通りに育ってくれている子供が誰かと言われれば、それはセレナと答えるべきだろう。

 

 

「モンテーニュからの引用を続けますが、

 『わずか一言でも下手に受け取られると、十年の功績も忘れられてしまう』。

 真実に限らず、私達は常に自分の言葉の重みを考え続けなければなりません。

 知らず知らず人を傷付け敵を作ることが、この世で最も恐ろしいことだと知りなさい」

 

「はい、マム」

 

 

 素直で真面目でそこそこ優秀な生徒が一番扱い易いに違いない。

 そういう意味では普段毒にも薬にもならないくせに、精神的地雷原の中で常時ムーンウォークを続けているようなゼファーは、一番面倒臭いのかもしれない。

 生徒全員を見て全員が付いて来れるように調整しつつ、間違ったことを教えないように良識を植え付けていく作業は実に困難だが、ナスターシャは息をするようにそれをこなす。

 教育……教えて育てることが、簡単なことであるはずがないのだ。

 それでいて教育の需要は、人類史発足から現代に至るまで一瞬たりとも途絶えていないというのだから、困ったものである。

 

 

「少し休憩にしましょう。10分後に再開します」

 

 

 一時間足らずの授業を終え、ナスターシャは部屋を出て行った。

 

 

「ぷっはー、休憩休憩!」

 

「また終わった途端にひっくり返って……はしたないよ、きりちゃん」

 

「セレナ、目を塞がれると前が見えないんだが」

 

「ごめんね、今切歌ちゃんスカートめくれてパンツ見えてるから」

 

「デスぅ!?」

 

 

 仰向けにひっくり返る切歌、それとほぼ同時にゼファーの両目を後ろから優しく塞ぐセレナ、無表情だがどこか呆れた様子の調、いや別に見ねえよとでも言いたげなゼファー、そして顔を真っ赤にしてスカートを抑える切歌。

 青春未満のスカートめくりとかやってそうな年頃の少年少女日常模様。

 なんだかんだで、彼ら彼女らは楽しくやっていた。

 

 

「み、見られてないデスよね? 調」

 

「セレナが対応早かったから」

 

「いや何もされなくても見ないっての、俺」

 

「見るつもりがなくたって、見られちゃったら嫌なの。女の子はね」

 

「……俺にはやっぱ女心ってものがピンとこねえや。複雑怪奇すぎる」

 

 

 ゼファーは幼少期から長く付き合ったことのある同年代の友人が異性ばかりだ。

 同年代の同性の友も居たことはあるが、皆一ヶ月ともたずに死んで行った。

 で、あるからして、彼は本来同性より異性の方が付き合いが長いくらいなのだが、そんな彼でも揺れる乙女心うんぬんかんぬんは理解の埒外にあるらしい。

 こうしてただの友人として会話を楽しむ程度なら何の問題もないが、思春期を越えて恋をするような年頃になれば、彼はこういった所でまた苦労するだろう。

 

 

「こうやって目を塞いでるとゼファーくんの黒髪がちょっとチクチクする……

 同じ色なのに調ちゃんとは全然髪の太さ違うんだよね」

 

「え?」

 

「え?」

 

 

 会話の途中、聞き流せない単語をゼファーは耳にする。

 

 

「ちょっとセレナ、離れてくれ」

 

「え、うん」

 

 

 ゼファーはかつては自分の髪を自分でナイフで切り揃えていたが、クリスが来てからは彼女が進んで彼の髪を切ってくれていた。

 おかげで適当に切られていた髪は綺麗に切り揃えられていたが、ゼファーが短めにして欲しいと頼むために目に前髪がかかったことは一度もない。

 最後に短く切り揃えたのはちょうど二ヶ月前、だから気が付かなかったのかもしれない。

 彼はここ一ヶ月半の間、髪や体を洗う機会はあっても、鏡を見る機会はなかった。

 何の偶然か、自分の髪の色を確認する機会に一度もあっていなかった。

 髪を一本、ぷちんと引き抜く。

 手の平に乗せられた一本の彼の髪の毛の色は、真っ黒に染まっていた。

 

 

「……どういう……ことだ……?」

 

 

 彼の髪は燃え尽きた灰のような白だった。

 だからこそクリスと兄妹だの姉弟だのと、ガラの悪いバル・ベルデの大人達に散々からかわれてきたし、そこに親近感を覚えたりしたのだ。

 しかし今は、焦げ付いて煤が染み付いたような黒一色。

 染めた覚えはない。この施設で染められた記憶もない。

 

 

(待て、いつどこで、俺は――)

 

 

 心当たりはありそうでない。

 結論に至るピースが足りていない。

 ゼファーが自分の髪の色を確認したのは遺跡に入る前までで、今はこうして変化済み。

 その情報から答えを導き出すための情報の断片が足りていない。

 何か、何か決定的なことが自分に起きたのだという実感が少年の身体を駆け巡る。

 危機感を煽るだけで他に何も働かない直感が、今はただ苛立たしかった。

 

 

「……どうしたの? 大丈夫?」

 

 

 はっと顔を上げると、そこにはゼファーの顔を心配そうに覗くセレナと切歌の姿。

 調は特に気にした様子を見せないが、彼が気付いていないだけで横目で一瞬チラッと視線を向けたあたり、どうでもいいとは思ってなさそうだ。

 突然自分の中の世界にこもって考え事をしていた自分の奇行を少し恥じ、なんでもないと軽く手を振るも、セレナの怪訝そうな表情は消えてはくれないようだ。

 そうこうしている内にナスターシャが戻り、授業が再会する。

 

 

(そういえば、昔、どっかで俺の髪の色は元々白じゃなかったとか聞いたような……)

 

 

 燃え尽きた灰のような白から、焦げた炭のような黒へ。

 変わった髪色に思いを馳せながら、どこかで自分の髪の色の事を語られたような気がすると、記憶の海から遠い遠い過去の欠片が息を吹き返す。

 けれど授業と平行して思い出せるほど少年は器用でもなんでもなく。

 結局授業に集中する思考に追いやられ、蘇りそうになっていた記憶は霧散した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大都会の高層ビル、その最上階の一室。

 

 全裸、全裸オブ全裸の美女がいる。

 女神のように美しい顔、メリハリの付いた肉感的な身体、それでいて余分な肉の付いていないスラっとしたプロポーション、きめ細かい肌、絹糸のように綺麗で長い腰まで届く金髪、世界中の女性の理想のような整った容姿をあられもなくさらけ出している。

 布一枚すら身につけておらず、局部を偶然髪の毛が隠しているという現状だ。

 しかし女性には全くと言っていいほど羞恥心は見られない。

 彼女は今カメラとモニター越しに異性と話しているにも関わらず、だ。

 その超越者特有の存在感と堂々たる立ち振る舞いは、下手な国家元首ですら自然と頭を垂れさせるような、そんな何かがある。

 人が人である以上必ず持っていて然るべき何らかのパーツを捨て、人が人である以上辿りつけない位階にて得られる何かをはめ込んだような、そんな異様な雰囲気を彼女は内包している。

 

 

『では、定時報告を』

 

 

 しかし、画面の向こうの男は動じない。

 それどころかその視線には男が女に向ける劣情が全く見られない。

 この女性の全裸を前にすれば正常な男であるならば、その瞳に僅かなりとも性欲を浮かべるはずだ。そうでなければその性機能に異常があると見られてもなんらおかしくはない。

 にも関わらず、その男からは微塵も性欲や敬意といったものが感じられない。

 男からは自然と見下すような、小馬鹿にするような思考が感じられるが、それは僅かに女性に生理的嫌悪感を感じさせるに留まる。

 この男は彼女が持つ知識にしか興味がなく、圧倒的な知識欲が性欲を塗り潰して余りあるのだ。

 

 彼の名は『ジョン・ウェイン・ウェルキンゲトリクス』。

 この女性が知る限り最も飛び抜けた天才であり、その才能に相応に欠陥を抱えた天才研究者であり、周囲からはウェル博士と呼ばれている気持ちの悪い男だ。

 天才は髪や服装に無頓着なことが多いが、彼はごく普通の成人男性程度には身だしなみに気を使っているように見える。

 薄青の髪にピシっとした白衣を着た彼がそれなりに礼を尽くして語りかければ、大抵の人間は好感を抱くだろう。ひょろっとした体格や整った顔も警戒心を薄めるのに一役買ってくれるはずだ。

 しかしそれが擬態でしかないことを、彼女は知っている。

 ウェル博士の本性は、好漢とは対極に位置するそれだ。

 

 

『――です。以上となります、ミス・フィーネ』

 

 

 フィーネと呼ばれた女性が知るこの男の本性は、その全容も根源も知覚できないほどに巨大な欲の塊だ。何を求めているのかの見当すらつかないほどに貪欲かつ強欲ですらある。

 実際、この男を制御できた人間はいまだかつて居ない。

 この男は求めるものが手に入る場所にしか身を置かない。

 優男な外見と違い、食らうだけ食らって満足したらフラッと別の場所に行く問題児だ。

 それでいて、天才や分野の第一人者を集めたF.I.S.研究所の中でも、頭ひとつ飛び抜けた天才の中の天才でもあるというのが始末に終えない。

 適合系数制御薬『LiNKER』の原型発明、その改良案を自分のメインの研究の片手間にこなしてしまうその才能を、フィーネは手放せない。

 F.I.S.という組織は、今は事実上このフィーネという女性の下で動く組織であり、フィーネの意向を受けたナスターシャがウェル博士を始めとする癖の強い研究者軍団を取り纏める形である。

 頭であるフィーネが欠けても、体幹であるナスターシャが欠けても、手足として動くウェル博士達が欠けてもこの組織は機能しないのだ。

 ゆえに、フィーネはこの天才を手放せない。

 この一人の天才の有無で、研究の進行速度は年単位で変わってくるはずだ。

 

 

「ご苦労様、ウェル博士」

 

『いえいえ』

 

 

 しかし、そうなると疑問が一つ。

 このフィーネという女性は、何を代価としてウェル博士に提供しているのか?

 

 ウェル博士に限らず、飛び抜けた天才というものはどこかが欠落していることが多い。

 その欠落を埋めたがるように、何かを求めることもしばしばだ。

 ウェル博士のような突き抜けた天才を組織に繋ぎ止めていたいのならば、金や物ではない何かしらの価値のある物を提供しなければならない。

 でなければこれまで彼がそうしてきたように、この組織に見切りを付けて出て行ってしまうだろう。それを何年も提供し続けているのが、このフィーネという女。

 そう、彼女が『フィーネ』という名であるのは偶然の一致ではない。

 

 

 彼女こそ数千年前から現代まで生き続ける魔女、光の巫女フィーネその人である。

 

 

 過去に剣の英雄ロディの姉として生きた者。

 ロードブレイザーが封じられていた遺跡の警告文に名前を使われた者。

 バル・ベルデにて生き埋めになっていたゼファーを助け研究所に送った者。

 アメリカ政府に掛け合い対ロードブレイザーを最終目的とする聖遺物研究機関を立ち上げた者。

 そして今、ウェル博士と相対している者。

 それら全て、同一人物なのだ。

 

 ならば彼女が不老不死であるのかといえばそうではない。

 彼女は『転生者』だ。

 それもオカルト抜きの科学技術による転生、彼女が数千年前に残した子孫にのみ転生が可能という恐ろしく限定的な転生である。

 転生という概念の原典は仏教の輪廻転生のそれであると勘違いされがちだが、世界的に見れば死した人間が生者の世界に新しく生まれ直すエピソードの代名詞である。

 先史文明時代に作られた『リインカーネイション・システム』を用い、自らの魂の情報を保存し、死す度に先史時代にフィーネが試験管を使い残した子孫の中から『刻印』を持つ者の身体を選び、自らの魂と精神を対象者に上書きし、その身体の所有権を奪う。

 非人道的極まりない、けれど効率的な不死の実現法であると言えるだろう。

 

 

『刻印……変異(アルター)コード:F(フィーネ)の識別ができれば、

 あの子供達を無駄に抱え込まずに済んで仕事も随分減るんですけどねえ』

 

「不可能よ。『受け容れる子供達』(レセプターチルドレン)候補の推測は何度も試している」

 

 

 刻印とは、フィーネの子孫の遺伝子の中に偶発的に現れるフィーネの魂――数千年の記憶も含む途方もなく大きなデータ――を受け入れられる才覚のことだ。

 先史文明時代、彼女は己の身体の一部を使って創り出した遺伝子調整体達を世に放ち、自分が転生するための親和性の高い個体を生み出す遺伝子をばら撒いた。

 凡庸なものに彼女の魂は受け入れられない。

 彼女の子孫でない者に彼女の魂は受け入れられない。

 そして刻印は、聖遺物が発する特殊な波形を受けなければ覚醒しない。

 

 さて、これで困るのがフィーネだ。

 彼女は限りなく不死に近い存在であり、無限に転生できる存在である以上、死ですら終わりではなく、乗っ取った子孫の身体のスペックを利用して能力の底上げまでできる。

 しかし聖遺物の発する特殊な波形を受ける状況に至らなければ、受けたとしてもそれが子孫でなかったら、子孫であっても器が足りなければ意味が無い。

 条件が揃わなければ千年以上転生できないこととて十分有り得る話だ。

 そして転生したとして、彼女の目的を果たすための社会的な影響力を手に入れるまでにどれだけの障害と時間を越えていかなければならないのか、想像もしたくない。

 

 そこでフィーネは一計を案じる。

 先史文明時代の知識と技術という取引材料を手に、自分の転生先候補となりうる子供達を米国政府に集めさせ、聖遺物の研究の過程で発せられる波形を浴びせかけるという提案をした。

 幸か不幸かフィーネの子孫である子供達は大なり小なり聖遺物との親和性があり、米国政府としても研究に役立つ実験動物を集められる上、フィーネという金のなる木とのパイプを一国で独占し続けていられるというメリットが存在していた。

 フィーネが死んでしまっても、アメリカ政府の保護下にある子供達のどれかに転生し、時間のロス無く社会的な影響力を保ち続けることが出来る保険。

 リインカーネイションの対象層は広げられないが狭めることはできるので、転生に子供の命を一つ使い潰すことを前提に、次の転生先を子供に限定し設定する。

 

 フィーネ・ルン・ヴァレリアの受容体(レセプター)候補。

 転生か、実験か。大人の都合で使い潰される運命を受け容れなければならない子供達。

 

 ゆえに子供達は、『受け容れる子供達』(レセプターチルドレン)と呼ばれている。

 

 

『僕としては実験材料は使い潰したくないんですが、そうでない人もいるんですよぉ』

 

「レセプターチルドレンとて無限ではないのだから、無駄遣いは関心しないわね」

 

 

 子供の命を価値のあるものとして見ない二人の会話は、どこまでも非人道的だ。

 ウェル博士はマッドサイエンティストに相応しい気持ちの悪い笑顔を浮かべているし、フィーネの笑顔は蛇のそれ。

 

 古来より不死の象徴であり、古代の王ギルガメッシュより『不死の手段』を奪い取りもした蛇。

 不和(バラル)のリンゴのエピソードにも影響を与えた、無垢なる原初の人間をそそのかし原罪を与え、不和のきっかけを与えた始まりの不和(バラル)の象徴。

 旧約聖書において焔に焼かれる人々を救った青銅の蛇(ネフシュタン)

 自らの肉の一部、自ら生み出したものを食い潰しながら生きるウロボロス。

 蛇や竜は神聖さの象徴であり、邪悪の象徴でもある。

 そして睨まれれば動けない。

 フィーネの笑みは、そういう類の……爬虫類のような笑みだった。

 

 

『でしたら新たなシンフォギアの作成をお願いします。あれは貴女にしか作れない上、

 ここの研究員は餌があればそっちに食いつくバカばっかですからねぇー……』

 

「リクエストはあるかしら?」

 

神獣鏡(シェンショウジン)を。夢魔の実用化が見えてきましたので』

 

「……成程、流石ね。悪魔的という言葉は貴方にこそ相応しいわ」

 

『いえいえ、まだまだ貴女からご指導頂くべきことはたっぷりとありますよ』

 

 

 フィーネが褒めたにも関わらず、ウェルは表面的にしか嬉しそうな様子を見せない。

 もう隠そうともしないやらしいまでの知識欲が溢れる視線は、フィーネの持つ技術を骨までしゃぶり尽くそうとする、獣のごとき意思をそのまま表している。

 抑えきれない知識衝動は彼の本質ではないが、彼の本質から生まれたジョン・ウェイン・ウェルキンゲトリクスを高みへと押し上げるための欲求の一つだ。

 つまるところ、これがウェルという天才を繋ぎ止めるため支払われている対価。

 先史文明時代の、今の人類の技術水準を大きく上回る知識と技術の提供である。

 天才は転生者の知識を、転生者は天才の知能を求めるというギブアンドテイク。

 

 

『これにて業務的な話は終わりと相成りますが……実は一つ、質問がありまして』

 

「応えられる範囲ならば」

 

『ありがとうございます。低い可能性であっても、英雄ロディの子孫が居たという可能性は?』

 

「……また、妙な質問を」

 

 

 フィーネはかつて人類を救った英雄ロディの姉だ。

 先史文明の情報が遺跡に記された僅かなものしか残されていない以上、当時の時代を生きていたフィーネ以上にその可能性を考察できる存在は居ないだろう。

 彼女がロディを想わなかった日などない。

 それと連鎖して人類に抱く憎悪に近い感情もある。

 しかしそれを脇に置いて思考できる程度には、彼女は歳を重ねてしまっていた。

 

 

「ないわけではないわ。あの子には恋人が居た」

 

 

 フィーネはかつて、自分にも懐いてくれていた一人の少女の顔を思い出す。

 ……その子の笑顔を思い出せないことに、胸に僅かな痛みを覚えながらも、記憶を探る。

 人類統一王朝ウルクの王ギルガメッシュの娘にして、英雄ロディを支え続けた少女。

 アガートラームを振るうロディ、グラムザンバーを振るうギルガメッシュ、そしてロディに惹かれた仲間達と共に、先史文明時代のロードブレイザーと戦い続けた少女だ。

 その傍には常に、神々の砦と呼ばれた鋼の巨人が控えていたという。

 名を『セシリア』。聖女セシリアと言った。

 恋愛敗者の運命でも背負ってるのかと同情するレベルのザババの片思いをよそに、大正義すぎるヒロイン力でロディとくっつき、ザババを無自覚かつ恋愛的にいじめていた光景がフィーネの記憶には色あせることなく残っている。

 

 

「焔の災厄を封じた後、セシリアは姿を消した」

 

 

 ロードブレイザーを倒した後、人類の分布図は極端に狭まっていた。

 今で言うアメリカ大陸から西の方向に向け、赤道に沿って人類をぷちぷちと一人残さず殺しながら侵攻するという、最悪の事をやらかしたロードブレイザーという魔神が居たからだ。

 日本が中心の平面世界地図を広げ、右端から左端に向かって侵攻していたと想像すれば分かりやすいだろう。油に浸して右端に火を付ければ視覚的にもっと分かりやすいかもしれない。

 世界中に散っていたはずの人類は防衛ラインであるシュメール、及びその西側に集中した。

 人類のあらゆる資源と技術、人材は最終的にシュメールに集められ、文明の利器を何一つ持たないままロードブレイザーに焼かれていない土地を求めて移動した人々は、やがてアフリカやヨーロッパに定着、そしてそこから戦後に各地に広がって行った。

 ロードブレイザーに焼かれた土地だとしても故郷に帰りたいと、災厄との戦いの中で生まれた子供に自分の故郷を見せてやりたいと、そう願った人達はアジアを中心としてユーラシア全体、やがてオーストラリアや陸地を焼き千切られ諸島となったインドネシアの周辺へと帰っていった。

 アメリカを始めとした故郷へ帰っていった者も少なくない。

 そして残り少ない技術を総動員し、シュメールは文明を築き、ロディの仲間達は世界中に遺跡を残し、愚かな者達は戦争のために余力を食い潰しあった。

 

 これが戦いの後の真実。

 聖遺物が現代まで少しだけ残っていた理由であり、世界中に遺跡が残っている理由であり、世界各所にて伝承や神話の一部に史実が残っている理由である。

 

 後世の人間への遺産と警告はロディの仲間達が彼らだけで行っていたため、フィーネも詳しくは知らない。ロードブレイザーが封印されていた遺跡の場所の場所を知らなかったのもそのためだ。

 しかしそれはフィーネが信用されていなかったからではなく、フィーネが自ら望んだから。

 ロードブレイザーの封印場所がポロッと漏れてしまうことを防ぐため、というのもあったが。

 何よりも強い理由として、当時争い続ける人類への憎悪と怒りがピークであり、彼女自身後世の人間に何か残すための作戦に関わりたくなかったという私情がある。

 

 そして世界各地に散って行ったロディの仲間達の一部――セシリア含む――は戻ってこなかったため、フィーネにはどこに行ったかの見当も付かない。

 ヤることヤってたなんて下世話な思考をすれば、ロディの子が居たという想像は可能だ。

 何しろ、ロディとセシリアは姉の彼女が壁を殴るレベルでバカップルであったのだし。

 しかし、どこに居るのかまでは分からない。

 血が絶えているという可能性もある。

 考えるだけ無駄のはずだ、そう自分の考えを全て伝え、フィーネはため息を――

 

 

『ゼファー・ウィンチェスターは"担い手"でしたね?

 しかし彼からはチルドレン特有の遺伝構造やAW反応が見られなかったんですよねぇ』

 

「――な、に?」

 

 

 ――吐こうとして、その息を飲み込んだ。超越者が、一人の人間に戻る。

 

 

『ミス・フィーネは以前おっしゃってましたよねぇ?

 貴女の子孫がアガートラームに適合できるのは、かつて適合できていた弟のおまけだと。

 血が、遺伝子情報が反応するために、貴女の子孫のみが適合できるのだと。

 レセプターチルドレンのみが、担い手となれるのだと』

 

 

 常に平静で余裕を保っていたフィーネが、目に見えて動揺する。

 

 

『ですが彼は間違いなく貴女の子孫ではない。

 で、あるならば……誰の子孫だから選ばれたんでしょうかねえ?』

 

 

 それを愉快そうに整えた顔で眺めるウェル。

 こういった部分で、時に本当に分かりやすく露呈してしまうことがある。

 本当に悪い人と、長い年月をかけて上っ面に悪い人の仮面を被ることできるようになった人、そんな二人が駆け引きをすればどうなるかという現実も、また然り。

 

 

『とっても素敵なうーんめーいじゃないですかぁ。喜びましょう?』

 

「……喜べなど」

 

『数千年ぶりに愛し合う姉弟の子孫が再会する、とてもロマンチックじゃないですか!

 貴女の弟の子孫である彼も、貴女の子孫の子らを随分と慕っているようですしねぇ!』

 

 

 ウェルの声は実にわざとらしく、フィーネの癇に障る。

 『聖剣アガートラーム』。

 フィーネがかつて弟ロディに与えた想いを力に変えるだけの欠陥兵器。

 人類が得たありとあらゆる技術と資材を詰め込んで完成させた『魔剣ルシエド』と対になる、人類の純正技術のみで作られた銀の剣。

 最強の剣に対する最弱の剣、お飾りの剣と最初は言われていたお守りのような武器だった。

 技術の粋を集められた魔剣に対し、精神感応兵器という想いを出力に変換する武器であった聖剣は、人の想いの力を軽んじた当時の科学者達から失敗作の烙印を押される。

 しかし紆余曲折あって魔剣は魔神に敗北し、聖剣は魔神を討つ。

 世界から受けた評価は、全くの真逆であった。

 ロディは想い一つで、最弱の剣を最弱無敵の聖剣へと至らせたのだ。

 

 古今東西の伝承の通りに、聖剣は主を選ぶ。

 アガートラームは数千年もの間世界を行き来し、選んだ主の手の中で何かを守り続けた。

 神話や伝承の中にある『使い手を選ぶ剣』の半分以上の正体はアガートラームだ。

 そして、歴代の担い手達を全てフィーネは確認している。

 それら全てがレセプターチルドレンであったことも確認している。

 だからこそ、かつて愛した弟の子孫に出会ったことも初めての経験であり、揺れる。

 

 ましてや彼女は、かつて弟を死なせたのは自分のようなものだと思っている。

 ましてや彼女は、その弟の子孫を自らの思惑のため殺そうとしているのだ。

 そんなことに躊躇いを覚える彼女が、完全な悪人になりきれるはずがない。

 悪人になりきれなければ、人を罪悪感なく殺せるはずがない。

 

 

永遠の刹那に在る女(アイオーン)らしくもない顔ですねぇ……』

 

 

 アイオーンは永劫、時代、人生という意味を持つ言葉だ。

 また、今の世界があるよりも前に存在した蛇を纏う超越者を指す固有名詞でもある。

 ミトラ教においては杖を持ち神の門を守る者であった時もあったという。

 フィーネは数え切れないほどの時代を渡り歩き、普通の人間からすれば永遠に近い時間を生き続け、しかしその生は人生という刹那の瞬間に区切られ続けている。

 彼女は幾度となく刹那を生き、その結果として永遠を生きるのだ。

 ゆえに彼女は永遠の刹那を生きる女として、この世界のどこかに在り続ける。

 そんな彼女をある者は尊敬の意を込めて、ある者は侮蔑を込めて、ウェル博士は痛烈な皮肉を込めて『アイオーン』と呼んだ。

 ウェルは暗に口にしているのだ。

 「お前より先に死なない、お前を置いていかない人間などどこにも居ないのに、何をそんなに躊躇っているんだ?」と、単純明快な真理を匂わせている。

 

 ギリッ、とフィーネの歯が彼女の気持ちそのままに、不快な音をかき鳴らす。

 

 

「何が言いたい、ウェル博士」

 

『いえ、彼の処遇を少し待ってもらえないかと』

 

 

 そしてこの提案だ。

 少年の延命……それができない理由など、互いには分かっているはずなのに。

 分かっているはずなのに、ウェルが持って来た情報が、フィーネを躊躇わせる。

 二律背反。魔神を殺したいのか、弟を守りたいのか、どちらなのか分からなくなった昔と同じ。

 考えれば考えるだけ頭は煮えて、決断を下せなくなる。

 それも当然だ。

 何千年生きようが、覚悟を決めようが、人は永遠に一つの気持ちだけで生きてはいけない。

 すっきりしない思考は苛つきを彼女の中に蓄積させ、怒りという熱へと変える。

 

 

「……どのくらいか言ってみなさい」

 

『とりあえずは5月まで。彼も随分と安定していますし、暴発はないと思いますよ』

 

「好きになさい」

 

 

 怒りで真っ当に判断ができていない自覚も持てないまま、八つ当たりのように、逃げるように、完全にキレた姿という弱みも見せないように、フィーネは一方的にモニターのスイッチを切る。

 カメラも、モニターも、部屋の音響も、全てが電気を絶たれて沈黙する。

 活動を許されているのはソファーに寄り添う小さな電灯ただひとつ。

 フィーネはソファーに全裸の身体を沈め、人をダメにするような柔らかさに身を委ねつつ、ため息一つ。そして、拳を壁に叩き付けた。

 

 

「―――ッ」

 

 

 無言の怒り。

 壁に背を付けていたソファー、近くにあった電灯が揺れる。

 こんなものはただの怒りの発散だ。何一つとして生産的な要素はない。

 そんなことは彼女にも分かっていて、それでも、怒りを形にしなければ気が済まなかった。

 こんなものを身体の中に溜め込んでいたらおかしくなってしまうと、そう言わんばかりだった。

 

 

「……運命を呪ったのは……久しぶりね……」

 

 

 気晴らしにと彼女は立ち、部屋の隅の戸棚に向かっていく。

 一見戸棚に見えるそれは内部の湿度と温度を細かに調整できる一品物であり、歴史あるワイン蔵の内部の環境を再現できるという優れ物だ。

 当然中身は、名だたる銘酒の数々である。

 彼女はその中から一番高い酒を無造作に選び、指で引っ掛けたワイングラスに注ぎ込み、作法があるのかないのか分からないような飲み方でぐびっとあおる。

 ワイングラス一杯で300万はする途方も無い贅沢だ。

 

 

「……はぁ」

 

 

 だというのに、彼女の口から漏れたのは失望の溜め息だった。

 

 

(酒職人なんて、結局一人か二人しか生き残ってくれなかったのよね……

 ああ、あの時代にもう少し贅沢して飲んでおけばよかった……)

 

 

 彼女は数千年前の酒の味を知っている。

 今よりも遙かに高い技術、長い研鑽、伝説となるような男達が馬鹿みたいに人生を賭けた日々、それらが成した先史文明時代の酒の味を知っている。

 ぶっちゃけ、めちゃくちゃ美味かった。

 ロードブレイザーは酒文化も滅ぼしていったのである。

 残ったのはメソポタミアにビール文化がかろうじて残ったくらいで、女性らしくリキュール系が好きだった彼女からすれば満足できるものでもなく。

 ロードブレイザーが絶滅させた動植物や職人は数多く、食文化も相当に消滅した。

 先史文明時代当時の食事は当然ながら、現代の数段上だったと彼女は語る。

 無論現代の酒や食事に耐えられないとまで彼女は言わないし、ここ数千年で盛り返してきたとも思うが、ふとこうしてストレスを酒で紛らわしていると思ってしまうのだ。

 あの頃は良かったなあ……と。

 酒は美味く、食事も美味く、なにより一人で飲むなんて寂しいことはほぼなかった。

 こうして酒が入って弱気になると、彼女は昔のことをよく思い出す。

 

 酒が美味かった、食事が美味かった、それは彼女の思い出補正による面が大きい。

 無論現代にない果物から作る酒も、現代に存在しない巨大魚の肉も絶品だったのだろう。

 聖遺物相当の調理器具から作られるそれらは、現代の水準を大きく超えていたかもしれない。

 けれど、そこまで絶対的な差は存在しないと断言していい。

 何より数千年前の食事や酒の味など、明確に覚えていられるはずがないのだ。

 だから彼女が酒や食事を不味く感じている理由はたった一つ。

 

 孤独でないことが、酒と食事の最大の調味料であるという、たったひとつの理由。

 心の底から気を許せた仲間達と一緒に酒を飲んで、肩を組んで、飯を食べて、馬鹿話をして、明日また一緒に頑張るための気力を養おうと駄弁り合う、そういう過程がないという現実。

 彼女の友は、仲間は、同志は、弟は、もうこの世に居ない。

 皆彼女を置いて先に逝ってしまった。

 分かっていたことだ。分かった上で、彼女は孤独な永遠の刹那に生きることを選んだ。

 自分がもうどんな時でも一人だと分かっているからこそ、この酒はこんなにも不味いのだ。

 その酒がどんなに高くとも、金で孤独は埋められない。

 

 

「……チッ」

 

 

 何かから目を逸らすように、フィーネは飲み干したグラスをテーブルに叩きつけるように置く。

 フィーネは苛立っていた。

 普段ならウェル博士のあの程度のからかいには乗らないのだが、ここ最近あまりにもストレスが溜まりすぎている。

 苛つきは個人にではなく、組織に対してのものだった。

 

 F.I.S.はレセプターチルドレンの収集という役割も果たしているが、メインの目的はフィーネと全人類の悲願、ロードブレイザーの打倒とその手段の模索である。

 そのF.I.S.の上位組織は米政府であり、フィーネは自分の切ったカードが効果を発揮している間は強気に出られるが、それでも限度がある。

 ロードブレイザーは仮にではあるが復活した。

 その報告を政府にしたというのに、それでも腰が重すぎる。

 ロードブレイザーの復活はそれだけで地球の生態系に影響を与え、ノイズの活動を活発にさせたりと想像を超える悪影響を発生させている。

 ノイズが人類の戦力を無駄に削ってしまう前に、自身の知るノイズの行動パターンを発表するべきだと、彼女は先日米政府に訴えた。

 フィーネはノイズの行動パターンをほぼ暗唱可能なほどに理解しているが、国によっては位相差障壁の仕組みすら理解できていないのが現状だ。

 ノイズの知識が増えるだけでも、被害や死傷者の数はグッと抑えられることは間違いない。

 

 しかし、答えはノー。

 米政府はノイズに対する情報アドバンテージによって自国の被害だけをこっそりと防ぎ、相対的に戦力的優位を生み出そうとしているのだ。

 そしていずれ来たるロードブレイザーとの決戦において、戦力的に頂点に立つ米国が世界各国を主導して取りまとめ、一丸となってこの脅威に立ち向かう……というシナリオ。

 

 妥当だ。

 至極妥当で、現実的で、堅実な方策。

 だからこそ反吐が出るような策だった。

 その過程で生まれる犠牲にも、自分達だけが傷付かないことに罪悪感を感じない罪深さにも、戦いの後に英雄として讃えられる未来に酔っている自分の醜さにも、全く目を向けていない、そんな政府上層部の一部の姿がなければ、妥当で的確な方策だった。

 汚い人間ばかりではないが、汚い人間が多かった。

 人類が一つになって戦うという意味を、全く理解していない大人が多かった。

 フィーネが嫌う、かつて先史文明に止めを刺した人間達の同類だった。

 そう、こういう人間だった。

 英雄ロディが救った場所を最後の最後に壊したのは、こんな愚かな人間達だった。

 

 米政府による拒絶から二日。

 何も出来ずに、フィーネ・ルン・ヴァレリアはこうして自棄酒を飲んでいる。

 人が人の足を引っ張り合う現実は、かつての人が繋がる輝きとそれを束ねた英雄が魔神を打ち倒した夢の様な光景からはとても、とても遠い。

 ()()を目指しているフィーネからすれば、この現実はまさしく絶望そのものだ。

 

 

「時間が、時間がない……!」

 

 

 仮にとはいえ、ロードブレイザーの封印は解かれてしまった。

 世界の終わりはもう秒読みの段階に入ろうとしている。

 何もかもを捨てて先史文明の巫女であると明かし、世界中に警告を飛ばせたならばどんなにいいか。けれどそれは不可能なのだ。

 ロードブレイザーに対する手を打つには立場と権力が要る。

 そして、今仮にフィーネが立場を捨てて聖遺物研究の主導をやめてしまったら、ロードブレイザーの完全復活までに研究が間に合う可能性が1%から0%になってしまう。

 我慢しなければならない。

 やりたくもないことだったとしても、それでも自分がやらなければ大切な人達が守ってくれた世界と人が滅びてしまうから、だから永遠を選んだのが彼女だ。

 今更数年の我慢など物の数ではない、と、彼女は自分に言い聞かせる。

 

 立場と権力に固執する理由はそれだけではなく、あと二つある。

 一つは万が一のための転生保険、つまりレセプターチルドレンだ。

 これは権力を投げ捨てた時点で転生の機会が格段に減少し、転生したとしてももう一度世界に影響を与えられるまで、どれほどの時間がかかるか分からないというデメリット。

 そしてもう一つ、これが重要だ。

 

 

 彼女はあえて言ってしまえば、才能のない凡人でしかないのである。

 

 

 加えて言えば彼女は技術屋でもなく、戦士でもなく、研究者でもなかった。

 彼女は神の巫女(ミーディアム)と呼ばれる、先史文明で信仰対象であった万物の創造主『カストディアン』の声を聞くことができる特異能力者だった。

 しかし言ってしまえばそれだけで、それ以外の才を何一つとして持たない凡人でしかなかった。

 カストディアンがロードブレイザーに殺された今となっては、正真正銘の凡人だ。

 才能もなく、専門職の技能もなく、学者並みの知識もなく。

 数千年の間の転生の中で凡人なりに勉学と鍛錬を続けてきたが、学力も戦闘能力も結局は凡人の域を超えることはなかった。

 

 そも先史文明の技術者や学者並みの技術や知識量があるのなら、彼女は自らの手で完全聖遺物をガンガン量産しているはずだ。

 それが出来ないのは、彼女にその技術がないからだ。

 先史文明の時代に本を読み、人から聞き、その目で覚えた技術しか彼女は転用できない。

 その程度でもこの時代の技術水準ならば眼から鱗のような反応をされる。

 例えるならば、彼女は中世の貴族の前でレモン電池と電球を作って光らせることでたいそう持ち上げられている現代人、そういう類の者なのである。

 

 時代をズラして現代人の感覚で例えよう。

 彼女は中世の世界に居る。彼女はテレビという完成図を知っている。

 彼女はテレビを知っているから電気回路という発想を知っていて、電気を流してものを光らせるという発想を知っていて、電気をどうやって生み出すかという知識を知っている。

 それらを部分的に小出しにして売りつけ、天才達がテレビという完成品を作り上げるまで、テレビをどう作るのかも知らないままに導き続ける。

 天才の発想によっては彼女の知る既存のテレビより優れたものもできるだろう。

 これが彼女が数千年続けてきた、技術のブレイクスルー誘導である。

 これを続けていけば、恐ろしいまでの速度で一度滅びた人類の技術水準はかつての先史文明のそれに追いついていくだろう。

 やがては追い越し、先史文明も集団としては勝つことが出来なかったロードブレイザーに対し、文明として勝利を掴むことができるかもしれない。

 恐ろしく気の長い、しかし堅実な打倒ロードブレイザーのための計画だ。

 

 しかし、それにも限界はある。

 彼女の優位性とは、言わば何かを食い潰す形でしか得られないのだ。

 先史文明の薄い知識を徐々に食い潰す形でしかアドバンテージを得られない。

 聖遺物を新たに作れないから、聖遺物を使い、組み合わせ、いじくりまわし、その過程で聖遺物を消費して……そう続けてきて数千年、もはや数えるほどしか残っていない聖遺物。

 知識を食い潰してしまえば彼女は誰にとっても用なしの凡人。

 聖遺物を食い潰してしまえば今の技術レベルでは焔の災厄に対抗できない。

 ロードブレイザーが復活していなかった所で、彼女はかなり崖っぷちだった。

 それでも、崖っぷちでも、未来がなくとも、もう少し復活は待って欲しかったと彼女は思う。

 

 

「……はぁ……」

 

 

 溜息をつくしかない。

 政府も、愚物も、性格の悪い天才も、彼女の周りは誰も彼もが敵だらけだ。

 一部の人間は友好的だが、それも彼女が騙している結果にすぎない。

 彼女が心を開ける相手は一人も居らず、彼女は常に孤独だった。

 けれど、孤独だったとしても、諦めるわけにはいかなかった。

 負けるわけにはいかなかった。

 世界のために犠牲になっていった者達の命を、意味のないものにする自分を彼女は許さない。

 笑い合った人達の血が染み込んだこの世界が滅びるなど、そんな未来を彼女は許さない。

 愛する弟を、恋した神を、何もかもを奪って行ったかの怨敵を彼女は許さない。

 

 

「……ロード、ブレイザァァァッ……!」

 

 

 罪あるものは何もかもを許せないのが、彼女の人生だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふむ、少しからかいすぎましたかね」

 

 

 切られたモニターの前で、つまらなそうにウェルは椅子の背もたれに寄りかかる。

 

 

「ですがあちらも熱くなった自覚はあるでしょうし……まあ不問でしょうか」

 

 

 立場としてはフィーネの方が数段上のはずが、とてもそうは見えない。

 主導権が本当はどちらにあるのか、素人目には判断は付けられないだろう。

 それほどまでにウェル博士には余裕があったし、フィーネに余裕はなかった。

 

 それも当然だろう。

 フィーネは現実を見ていて、ウェルは夢を見ている。

 フィーネは嫌々ながらも世界のことを考えていて、ウェルは自分のことしか考えていない。

 フィーネは自分の本音を押し殺し、ウェルは自分の欲求に率直だ。

 そして現状はフィーネが望んだものではなく、ウェルが望んだ方向へと向かっている。

 

 世界を滅ぼす魔神が居る。

 世界が滅びる危機がある。

 ならばその果てに、必ず『英雄』は求められる。

 今の世界は、そんな未来が見えるほどに危うい位置にある。

 

 

「凍らせるのも燃やしてしまうのももったいないですし、色々弄りたいんですよねぇ」

 

 

 そんな世界の危機を危ぶむでもなく、憂うでもなく、嘆くでもなく、悲観するでもなく、諦観するでもなく、彼は奇声を上げそうなほどに狂喜乱舞していた。

 世界の滅びを、終わりを、それをもたらす魔神の復活を喜んだ。

 英雄が求められる地盤の誕生に歓喜した。

 

 その振る舞いはとても正気とは思えないものであったが、彼の中の正気と倫理と照らし合わせれば、彼は間違いなく正気であった。

 ウェル博士は別のモニターに映る一人の少年、ゼファーへと視線を移す。

 何も言わず、ただ舌なめずりするその男の姿は、異常に気持ち悪かった。

 女性に見せればゴキよりも確実に悲鳴を上げさせられる、そんな生理的嫌悪感に満ちていた。




先史文明時代の王様の名前をギルガメッシュにしたのは最古の王っぽいからと、『蛇に不死の権利を取られた』ってのが「これいいな採用」とビビっときたからです。描写はしないと思いますがリインカーネイションシステムはフィーネさんが王族からかっぱらったという設定で
ちょくちょく『蛇』って単語は意味深に出てくると思います
ネフシュタンを始めとするヘビやリンゴの設定は自己解釈で掘り下げて行く予定ですが本家と食い違ったらどうしましょ

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