戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ   作:ルシエド

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作者の英雄観はデモンベインやガンパレその他諸々に多大な影響を受けております。ご了承ください


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 先史の時代、英雄の資格はただ三つだけであった。

 

 他者を重んじ大切にする気持ち。すなわち『愛』。

 世界と向き合い踏み出す心持ち。すなわち『勇気』。

 そして未来を常に諦めない姿勢。すなわち『希望』。

 

 そこに名誉や女といった『欲望』を抱えた者が、最もテンプレートな英雄であったそうだ。

 かつて滅びた先史の文明においても英雄は存在し、皆の羨望の的であったという。

 三つの資格と一つの欲望、それが英雄の力の源なのだと認識されていた。

 

 

 

 ある英雄は、こう語った。

 

 英雄は与えてくれるものでも、頼るものでも、形のあるものでもない。

 何かをなそうとする全ての人々の心の中に『英雄』は存在する。

 それは絶対の危機を、いつでも助けてくれる便利で万能な存在などではない。

 英雄は『象徴』。

 全ての人々に、「この力は君達の中にもある」のだと知らしめる道しるべ。

 誰の心の中にもある強さを証明する、引き出す、そんな存在。

 

 その力を、人は『勇気』と呼ぶ。

 

 英雄は、勇気を引き出す意志の体現。

 誰もを勇気ある者……勇者へと至らせる、英たる雄。

 他者の迷いを振り払い、踏み出し進むべき道を指し示す先導者。

 何者にも負けない心の力を、蒼生万民に示す者。

 

 英雄を騙る英雄は、英雄という概念をそう語ったという。

 

 

 

 月読調は、勇気を持てていない。

 彼女にとっての勇気とは、誰かの為に拳を握って立ち向かえる強さ。

 誰かを守る為に必要な真の強さをくれるのが、彼女にとっての勇気だった。

 

「私は知ってる。誰かを守る為には、力のあるなしじゃなくて……勇気が要るんだって。

 今の私じゃ、大きな力があっても、きっと大人に逆らおうって勇気すら出せない。

 もし友達が間違っているんだって思っても、その友達を止めるだけの勇気も出せない。

 俯かないで、立ち向かって、嫌なことを嫌だって口にする勇気が、私には無いんだ」

 

 暁切歌は、たった一人の親友がくれた勇気を持っている。

 彼女にとっての勇気とは、誰かと繋がることを恐れず、「友達になろう」と口にする強さ。

 信じ合って繋がる為に必要な真の強さをくれるのが、彼女にとっての勇気だった。

 

「あたしは知ってる。

 人の繋がりって案外脆くって、無くなる時は一瞬で無くなってしまうんだって。

 そして、繋がりのない人が誰かと信じ合って繋がる為には……勇気が必要。

 拒絶されるかもしれない、いつか理不尽に離れていってしまうかもしれない……

 それを知った上で、怖いけど勇気を出して、他人に踏み込んで、話しかけないといけない」

 

 守るために、繋がるために。

 彼女らが勇気を欲し、それでも勇気を絞り出せない、そんな時。

 調と切歌の勇気を誰かが力で踏み躙ろうとする、そんな時。

 

 二人のための英雄が、きっと彼女らの前に現れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第六話:Moon/Prince/Princess 5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 月読調は、一人で本を読んでいた。

 とはいっても、周囲に誰も人が居ないわけではない。

 

 小中学校の運動場の光景を覚えているだろうか?

 サッカー場に活発な男子が集まり、男女が混ざるグループが線を引いてドッチボールを始め、数人の仲良しグループが雲梯・ジャングルジム・鉄棒その他諸々の場所に、思い思いに集う。

 体を動かすのが苦手な子達は教室で折り紙を折ったり、図書室でデルトラクエスト・アタゴオルは猫の森・はだしのゲン・火の鳥・ウォーリー・かいぞくポケットを借りて読み始めたり、飼育小屋の動物を見て和んだり、意味もなく紙を丸めたボールと箒のバットで野球を始める。

 子供は非常にまとまりがなく、自由時間に思い思いの遊びをしようとしたり、自分の所属するコミュニティの決めた遊びに参加しようとする。

 言い換えれば、休み時間にする遊びの趣味が似ている、そんな仲良し同士で集まって遊ぶ。

 運動好きは運動好きで集まり、文化系は文化系で集まるものなのだ。

 

 今、調が居る場所もそれと同じ。

 ここは運動をするには狭く、遊ぶ遊具も用意されておらず、しかしそのために活発な子供達が寄り付かず、結果的に静かになっているという場所だった。

 物が少ないラウンジ、と言えば分かりやすいだろうか。

 研究者達が子供達を自由にさせておくために用意した広場の一つであり、基本的に静かであるため、ここに寄り付く子供達は物静かな子供が多い。

 ボードゲーム、本、積み木。いつもフットボールをやっているような子供達のそばでは出来ないような遊びを、仲良し同士で寄り合って楽しげに遊んでいる。

 調は、この場所で本を読むことが多かった。

 

 切歌は珍しく彼女のそばに居ない。

 とは言っても24時間一緒に居るわけでもない二人だ。

 一緒に居る時が目立つだけで、遊びの嗜好がそこまで噛み合わない二人は、自分達の好きなことをする時間もちゃんと確保している。

 相手に合わせてしたいことをせず、したくないことを繰り返すような関係は、健全な友情とは言えないだろう。二人は相手に合わせることも、あえて合わせないこともする。

 好きで一緒に居るのだから、互いに好きなことをする邪魔はしない。

 暁切歌と月読調は、そんな親友だった。

 

 

"君が心を込めて飲ませてくれた水は、まるで音楽みたいだった"

 

 

 本の中の一文を、頭の中で声に出して繰り返す。

 調が読んでいる本のタイトルは『星の王子さま』。日本語訳バージョンだった。

 ゼファー達が図書室もどきで本を探していた時、フランス語の原典しか見付からなかったのは、単純に調が持っていたから、ということなのだろう。

 そも、調はフランス語なんて読めやしないのだ。

 

 ゼファー達は調の言動から、手がかりを掴んだ。

 それは彼女自身も気付かぬ内に漏らしてしまった言葉達だった。

 調は蔵書の中から自分の内心を読まれるかもしれない手がかりを持ち去った。

 それは彼女の意志による、心を隠す隠蔽だった。

 月読調は自分の内心を知って欲しいのか、知って欲しくないのか、どちらなのだろうか?

 きっと、どちらも紛れも無く彼女の本心なのだろう。

 人は一つの気持ちで生きてはいけないのだ。

 

 自分の内心を理解して欲しい、知って欲しくない。

 人は心が成長するにつれ、その矛盾が肥大化していく。

 自分の心の中を知られたくないという気持ちと、自分のことをきちんと理解して欲しいという気持ちが、誰の中にも両立しうるのだ。

 月読調もまた然り。

 彼女の中にも、自分を理解して欲しいという気持ちと、知られたくないという気持ちがある。

 彼女が周囲と比較して精神的に早熟というのもあるが、彼女も女の子だ。

 こういった気難しい問題を始めとして、幼少期における精神的な発達は男の子より女の子の方が早いことが多い。「女はめんどくせえな」と男が言い、「男は馬鹿ね」と女が言う構図がいつの時代も無くならないのはそういう側面もあるのだろう。

 

 理解して欲しいのか、知られたくないのか。

 まあ、彼女は無意識の内にヒントをばら撒き、意識しての行動でヒントを摘んでいた。

 そのどちらの方が強い本音かなど、語るまでもないだろう。

 一人で本を読んでいる時間が好きなのだとしても、感情や気持ちをあまり表情に出さないのだとしても、人形のように見えるのだとしても。

 その人がずっと一人でも大丈夫なわけがない。

 自分の感情や気持ちを他人に理解されなくても大丈夫だと思っているはずがない。

 多くの気持ちと傷を抱えた一人の人間が、人形であるはずがないのだ。

 

 

「よっす、げんきなさげだね。しらねえちゃん」

 

「お、おねえちゃん……そっとしてあげてたほうが……」

 

「ん? ゼファーがはげましたほうがいいっておもってるんだから、それでいいんじゃないの?」

 

 

 自分に向けられた声に、本を閉じて面を上げる。

 そこには明るい髪のマリエルと、濃い髪の色のベアトリーチェ。最年少双子姉妹だ。

 この施設の中でもかなり年少の枠に入る調ではあるが、流石に彼女達と比べれば年上だ。

 遊んで欲しい、と言われたなら、どんなに本に夢中になってたとしても遊びに付き合ってあげるだろう。この施設の子供達は皆家族であると、彼女もそう思っているがために。

 しかし、どうにもそうではないようだ。

 彼女らはゼファーがそうしていたように、マリアがそうしているように、調を励ましに来たらしい。家族思いな妹達が、姉にそうするように。

 

 

「私、そんなに元気ない?」

 

「そりゃね。それにしらねえちゃん、わかりやすいときはほんとにわかりやすいもん。

 おこるときはわたくしもびっくりすくらいばばーんっておこるし!

 はかせいがいのひとあいてには、いつもわらってるきりねえちゃんとははんたいだよー」

 

「あの、その、ごめいわくでしたら……」

 

「ううん、ありがとうね。でももう大丈夫だから」

 

「ほんとー? わたくしに嘘は通じないんだよ」

 

「うん、本当」

 

(この子達にも心配させちゃうなんて……本当に、情けない)

 

 

 調は少し心中で気合を入れて、立ち上がる。

 年下を前にしているからか、調の口調は普段より少しだけ暖かく、表情も少し柔らかかった。

 他人と比べれば少しだけ分かりづらいが、これが彼女なりの微笑みだった。

 いまだ彼女の笑顔を見たことのないゼファーは、当然この顔も見たことがない。

 

 

「ありがとう。その気持ちだけで、私は嬉しいから」

 

 

 この施設の子供達は、皆互いを家族だと思っている。

 だから子供達だけの時間は、こんなにも暖かい。

 

 

「わたくしがしらねえちゃんをげんきにしたってことね!」

 

「さすがおねえちゃんっ」

 

 

 こんな時間を重ねていけば、彼女もいつかは夢と現実に折り合いを付けられるのだろう。

 理想と現実の間で揺れ動いてしまうのが彼女の難儀な所だが、その過程で何かに矛盾したとしても一つ一つ納得だけはして、前に進んでいくことが出来るはずだ。

 夢は終わりまで見続けるか、途中で終わって目覚めるかのどちらかしかないのだから。

 しかし、それもこんな時間()()が続いてくれればの話。

 

 

「キキャッ」

 

 

 平和な時間だけが続く場所であるならば、暁切歌が死神などと呼ばれるわけがない。

 暁切歌と月読調という正反対の二人が出会うきっかけとなった、子供達の死があるわけがない。

 

 

(! この、カエルの鳴き声みたいな喉をひきつらせた声……!)

 

 

 耳に届いた男の奇声。

 咄嗟に調は幼女二人を手で庇うようにして、背後の方向のドアに向かって振り向く。

 

 

「ちょいちょいツラ貸せや、ガキンチョども」

 

 

 調はこの研究所でキチガイ度において頂点に立つウェルと、慕っているナスターシャ以外の大人の顔をほとんど覚えていない。

 個性がないからではない。同じ人間に見えないからだ。

 そして総じて人間としての会話をしようとせず、全員一様に調達に苦痛を与え、同じ人間として扱ってこない。それで同じ人間であると思えという方が無理がある。

 人間が狗の顔を覚えないように、彼女もまた、大人達の顔を覚えない。

 それでも『ほとんど』だ。どこにだって例外は居る。この男はその例外の一人であった。

 

 

(『Dr.カルティケヤ』……!)

 

 

 ウェル博士は実験体たる子供達を使い潰さず長持ちさせる。

 天才は使い潰す必要がないし、そんなことをせずとも結果を出すことができるからだ。

 ナスターシャはそもそも子供達に苦痛を強いない。

 彼女が得意とするのは統計学であり、投薬や解剖といった蛮行を絶対に行おうとはしない。

 しかし、今舌なめずりしながら部屋に入ってきた男はその二人とは明らかに別枠だ。

 子供達から生理的嫌悪感により嫌われているウェル博士だが、この男は嫌われてすら居ない。

 恐れられているのだ。

 彼が子供達から向けられているのは、天敵に対する恐れ、生存本能から来る生物的恐怖である。

 

 彼に連れて行かれた子供は、高確率で戻って来ない。

 Dr.カルティケヤの実験に連れて行かれるということは、死刑台に登るも同義なのだ。

 それでいて、子供達に抗う権利は許されていない。

 子供の体格で成人男性に抗えるわけがないし、たとえ抗うことに成功したとしても最終的には警備員による殴打と、散々殴られた後の連行が待っている。

 目を付けられた時点で死ぬ。

 そういった、子供達にとっての恐怖の権化であった。

 小さな虫を前にした捕食者。逆らう気すら失せる、子供達の死神だった。

 

 彼と並ぶ死亡率を誇る研究者はDr.サーフという男しか居ない。

 つまりはこの研究所でも死亡率ぶっちぎりツートップという危険な男だということだ。

 かつて切歌が死神と呼ばれるようになった事件も、この男が原因だった。

 

 当時、自分の研究テーマ……『人体と聖遺物の融合』が全く上手く行かなかった彼は、焦りのあまりある日『子供達を結果が出るまで使い潰す』という蛮行を実行。

 短期間に十数人のレセプターチルドレンを使い潰し、その被害が偶然切歌周辺に集中した。

 気付いたナスターシャがすぐさま謹慎を言い渡していなければ、死んでいたレセプターチルドレンの数はとんでもない数になっていたかもしれない。正気でなせる所業ではないだろう。

 結局、人体と聖遺物の融合成功体『融合症例』は一人も現れることはなかった。

 独断での暴走に近かったため、ナスターシャに監督責任を求められる謂れもなく、ここまで一人でやらかして何のペナルティもないわけがなく。

 数の限られている実験体をいくつも使い潰し、その上で結果も出せなかったカルティケヤの解雇は当然。研究者達はそう考えていた。

 が。

 

 この施設の事実上のトップたるフィーネが、彼の研究に興味を持った。持ってしまった。

 彼女は全ての研究データを常時自分に提出すること、個人権限を縮小し何をするにもナスターシャに申請しなければならないこと、期限付きで結果を出せば不問に処すことを通達した。

 さて、この処罰にいい顔をしなかったのは誰か? ほぼ全員だ。

 研究者達はこんな危険人物はさっさとクビにして欲しかったし、カルティケヤは期限内に結果を出さなければクビ、最悪口封じに殺される所まで見えている。

 ナスターシャや子供達から見れば純粋に居なくなって欲しい脅威。もうどうしようもない。

 それほどまでに『融合症例』の仮定がフィーネの目を引いたのだろうが、今の段階では取らぬ狸の皮算用にもほどがある。まして、カルティケヤは残酷ではあっても天才ではなかった。

 当然、時間をかけても結果は出ない。

 焦る気持ち。迫る期限。崖っぷちに立っているという自覚が彼を追い詰める。

 

 もし、もう一度『やらかして』しまえば、今度こそナスターシャはキレるだろう。

 彼女は基本的に厳しく、けれど子供に厳しくし切れない女性だ。

 が、逆に言えば大人に対しては終始厳しいままであるということ。

 大人と大人の関係、社会の枠組みの中だけで見れば、彼女は自分にも他人にも厳しいだけの女性である。カルティケヤの暴走を二度も許すことはないだろう。

 フィーネがたとえこの男を庇ったとしても、この研究所から彼を絶対に叩き出すはずだ。

 そんなことは、カルティケヤ自身が一番良く分かっている。

 多くのレセプターチルドレンを死に至らしめ、暁切歌のいじめ騒動を始めとした子供達の軋轢を生み出したかつての日に、カルティケヤは本気でキレたナスターシャを見た。

 彼の中では今の所、それを超える恐怖を感じたことはない。

 

 それでも。

 それでもなお、彼はやらかそうとしていた。

 大人しそうな子供達が集まる場所に赴き、こっそりと実験に使い、発覚前に結果を出す。

 「結果さえ出せば後はどうにでもなる」という、あまりにも希望的観測が過ぎる思考。

 結果を出せる保証も目算なく、発覚した場合のリスクをまるで考えていない。

 ナスターシャの怒りに感じていた恐怖すら、今は忘れようとしているほどだ。

 だが、どうにもならない彼の現状を打破するにはこうするしかないのも事実。

 

 現実から目を逸らし、彼がか細い希望に縋る理由はただひとつ。

 彼は『死にたくない』のだ。『生きたい』のだ。

 口封じに殺される末路をみすみす受け容れる気はない。

 そのためならばどれだけの数の他人の命を踏み台にしようが構わないという、歪みきった悪と言っていい精神性の一面すら兼ね備えている。

 生きたい、その気持ちは正しいのだろう。

 

 「生きたい」「死にたくない」と口にし、どこにもない希望に縋り、祈り、そして殺された。

 そんな切歌の友達が、子供達が居なければ、の話だが。

 ならば彼に迫る死の運命はきっと、因果応報というやつなのだろう。

 彼はその運命に抗い、その死を他の子供達に押し付けんとしているのだ。

 

 

(どうしよう、私じゃ、何も……)

 

 

 月読調は考える。

 どうすればいいのか、どうしたらいいのか、どうにかなるのか。

 ここにナスターシャが居てくれれば一発だった。どうにかなっただろう。

 マリアでも、切歌でも、現状を打開する行動を為すことができたはずだ。

 けれども、調はその三人の誰でもなかった。

 何かをしようとうする勇気を、持てない者だった。

 

 大人を前にするだけで足が竦む。

 普段から頭が良いと言われているのに、何も思いつかない。

 身体も心も冷えていって、なのに頭の中はぐちゃぐちゃで。

 今ここにいる子供達の中で自分が一番年上なんだからしっかりしないと、そう思うのに。

 かつて殴られた痛みが、付けられた傷が、押し付けられた苦しみが、喉までせり上がってくる。

 

 

(……私、こんな時にまで、怖がって……)

 

 

 端正な無表情を調らしくもなく歪め、歯噛みする。

 そうこうしている内に、カルティケヤは実験材料を見定めてしまったようだ。

 

 

「ああ、じゃあそこのどっちかでいいや」

 

 

 無情にも、その指先は調を僅かに外れ、その後ろの双子に向けられていた。

 片手で年齢を数えられるくらいの少女達の身体が、小さく震える。

 彼女らはほぼ同時に片割れを見やり、そしてぎゅっと拳を握って、震える声を張り上げた。

 

 

「わたくしがいくから、マリエルはここでまってなさい」

「だ、だめ! おねえちゃんがここでまってて! わたしがいくから!」

 

「あ? べつにどっちでもいいんだがなぁ……両方連れてっても構わねえしよ」

 

「それはだめ! わたくしだけで!」

「おねえちゃんにてをださないでください、おねがいします……」

 

 

 互いが互いを想い合い、死を覚悟しながらも片割れを庇うという姉妹愛。

 妹を何が何でも守ろうとするベアトリーチェも、いつもの内気な様子からは想像もできないほどに自己主張し姉を守ろうとするマリエルも、共に尊い意志を見せている。

 良識があるならば、躊躇う光景だ。

 子供が、少女が、こうして自己犠牲を選ぶ姿は倫理に訴えかけるものがある。

 古今東西、英雄が守るものは姫かか弱い少女だと相場が決まっているのもそのためだろう。

 

 しかし、彼は良識も優しさも持ちあわせては居ない。

 

 

「鬱陶しいんだよガキども」

 

 

 彼の返答は少女達の決意への敬意でもなく、同情でもなく、意志を汲むのでもなく。

 振り上げた手を力強く振り払う、静かにさせるための体罰だった。

 片手で数えられるほどの年頃の少女に「鬱陶しい」の一言で迷いなく手を挙げる、まさに外道。

 だが、しかし。

 

 

「あ? なんのつもりだ、ツクヨミ」

 

 

 小さな二人の女の子を黙らせるために振るわれた平手打ちは、頬を打った。

 しかし、それはベアトリーチェのものではなく、マリエルのものでもない。

 カルティケヤの平手は、間に割り込んだ調の頬を打っていた。

 

 

「……一人連れて行くなら、私でいいでしょ。もどきとはいえ『適合者』なんだから」

 

 

 なんで踏み出したんだろう。そう、調は思う。

 何もしなければ、自分に害は飛んでこなかったのに。

 苦しむ人も傷付く人も、黙って俯いているのが一番少なくて済むと、そう思っていたはずだったのに。そう知っていたはずだったのに。

 子供に逆らわれた大人は逆上することもあると、身に沁みていたはずだったのに。

 大人に立ち向かう勇気なんて、自分の中にはなかったはずなのに。

 なのになんで、こうして痛い思いをしてまで、この二人を庇ったんだろう。

 そんな風に、調は思う。

 

 何故踏み出したのか。何故庇ったのか。何故逆らえたのか。

 それはあまりにも咄嗟のことで、彼女自身にも分かっていない。

 ただ、一つだけ、胸の中に確かに分かる気持ちがあった。

 調の中にあった幾つもの気持ちの背中を押して、踏み出させた気持ちがあった。

 

 

(ゼファーは二人とも仲が良かった。ゼファーがこの場に居たら、きっと、こうして―――)

 

 

 大人に立ち向かう勇気を持てていなかった調。

 ずっと、ずっと、ずっと、それが彼女のコンプレックスだった。

 マリアに、切歌に、セレナに庇われる度、何度も劣等感を抱いていた。

 人形のようにお辞儀をして、嫌いな大人に頭を下げる自分が嫌いだった。

 

 時に友達とぶつかり合うとしても、友達を守れる自分になりたかった。

 友達を偽善者(おとな)から守れる、そんな自分になりたかった。

 そのために必要な『勇気』をくれる王子様を、ずっと夢見ていた。

 そんな想いとままならない現実の板挟みが、彼女を苦しめた。

 けれど、それはもう過去形へとなりつつある。

 

 ここに居ないゼファーが、怯える彼女の胸のドアを叩いてくれていた。

 月読調は、『勇気』を振り絞って立ち向かう。

 

 

「ほうほう、麗しい友情というやつか。それとも年上の責任感か」

 

「どうだっていいことじゃないの、それは」

 

「そうだな、どうでもいいことだ。

 俺としてもお前が自分から志願してくれた、と言い訳があればあの女に口出しされずに済む」

 

 

 そんな調の目を見て、カルティケヤは驚いたように一瞬目を見開いた。

 もう昨日までの調ではないのだと、目を見ただけで伝わったのかもしれない。

 けれども、

 

 

「キキャッ、だが、気に食わん」

 

 

 世の中には子供の成長を喜ぶ、そんな大人になれなかったものも居る。

 

 

「い゛ッ……!」

 

「いーっつも人形みたいに自己主張しないお前がどういう風の吹き回しだ?」

 

 

 カルティケヤの大きな手が、小さな調の頭を掴む。

 ミシリ、と軋む音。込められた力は相当なようで、調の顔が激痛に歪んでいる。

 握力で締め上げるだけでなく、時折爪まで立てている。相当な痛みのはずだ。

 逃げようともがく調をもう片方の手で抑え、頭を片手で握り潰さんと力を込める。

 調は悲鳴を上げるものかとこらえているが、それも時間の問題だ。

 それが声だけで分かるほどに、調の口から漏れる痛みの声は、痛々しかった。

 

 

「何やっても無反応なのはそれはそれでイラッとするが、

 従順な奴が俺の時だけ逆らうってのもそれはそれでイラッとするんだよなァ……」

 

 

 それだけの理由。

 ただ、それだけの理由で、Dr.カルティケヤは月読調にこれだけの苦痛を与えている。

 頭を万力で締め上げられるような、普通の子供なら泣いて叫んでいてもおかしくはない苦痛。

 調は痛くても、苦しくても、カルティケヤは痛くも痒くもない。

 傷が、痛みが、伝わらない。

 だからこんなおぞましいことを、笑ってやれるのだ。

 イラッとしたというだけの理由で、子供を痛めつけられるのだ。

 加害者と被害者の関係とは、いつとてそんな無理解に起因する。

 

 

「ほら、頭下げろ。いつもみたいに、人形みたいによ。

 『私なんかが生意気にも大人に逆らってしまってごめんなさい』ってな」

 

「いっ、つッ……!」

 

「しらねえちゃん!」

 

 

 頭を締め上げられ、痛みで調の意識が朦朧としていく。

 無理矢理力づくで頭が押し下げられ、頭を下げさせられていく。

 調の決意が、痛みと暴力に押し潰されていく。

 

 痛くて、苦しくて、泣きそうで。

 「なんでこんなに意地を張ってるんだろう」と、弱音が頭の中をかすめ始める。

 一言謝ってしまえばいい。また人形みたいに頭を下げてしまえばいい。

 後ろに居る二人を差し出してしまえばいい。

 現実を見れるだけの頭があり、計算と打算ができる頭のよさがある調は、とうにこの痛みから逃れる方法を考えついている。

 ならば、何故。

 

 

「嫌……私は、人形じゃ、ないッ……!」

 

「……ほー、いい度胸じゃねえの、キキャッ」

 

(私は、私は……!)

 

 

 ならば何故、彼女は痛みの涙に濡れた瞳でキッと見据え、立ち向かう事を選び続けているのか。

 

 

(ゼファーが、言ってた……言ってくれた……

 私に相応しい友達になるから、ちょっとだけ待っててくれ、って……!

 こんな私に、言ってくれた……だったら、私も……!

 そう言ってくれた、そんな友達に、相応しい、私になりたいッ!)

 

 

 『誰かを守る為に、真の強さを』。

 ただひとつ。その祈りだけは、絶対に曲げたくないと思うのが彼女だから。

 どんなに痛くたって、苦しくたって、もう月読調という少女は俯いたりはしない。

 

 後ろに居るのだ。調とゼファーが同じように、守りたいと思っている子供達が。

 目の前に居るのだ。ずっとずっと嫌いだった大人が、守りたいものを傷付ける敵が。

 傍に居なくても、どこかに居るのだ。心の支えの親友が、勇気をくれる一人の友が。

 

 

「やめてッ! しらねえちゃんのいたそうなこえがきこえないのッ!?」

 

「はっはっはァ、痛くしてるんだから当たり前だろ?

 壊れても代わりがあるし、動かなくなったら捨てればいいからこその、人形だ」

 

 

 ベアトリーチェの悲痛な声が聞こえる。

 カルティケヤの残酷な声が聞こえる。

 顔を抑えられているせいで、調に周りは見えていない。

 彼女が感じられるものは、頭部の激痛と周囲の声だけだ。

 

 朦朧とする意識の中で、最後に残ったのは、かつて夢見た『王子様』への想い。

 別に、彼女は素敵な男性と恋に落ちたいだなんて思ったわけではない。

 彼女は惚れた腫れたにはまだまだ微妙な年齢だ。

 王子様を願ったのは何年も前のことだから、なおのことそうだろう。

 欲しかったのは恋する相手ではない。

 ただ、この現実を変えてくれるかもしれないと、そう期待できる誰かに現れて欲しかった。

 

 継母やその子らにいじめられているその子を、ガラスの靴一つを手がかりに見つけ出し、輝かしい世界に連れて行ってくれる、そんな誰かを。

 家族にリンゴに毒を盛られ、家族に傷付けられたお姫様の味方をしてくれる、そんな誰かを。

 魔女に呪いをかけられたお姫様を助けるため、幾千万の茨を越えて来てくれる、そんな誰かを。 魔王や魔物を倒して救い出して欲しい、なんて言わない。

 自分を救ってくれる、味方で居てくれる、守ってくれる、そんな誰かを。

 この現実の中で、勇気をくれる人が欲しかった。

 自分の中の大切なことを見逃さないでいてくれる、そんな誰かと出会いたかった。

 傷付けられて、痛くて、立てなくなった時。手を差し伸べてくれる誰かが欲しかった。

 

 リアリティが無い、現実にそんなの居るわけがない、そう言う人もいるかもしれない。

 けれど本当に辛くてしかたがない人は、求める救いにリアリティなんて求めないのだ。

 本当にどうしようもなく辛い目にあった経験のある人間は、救いにリアリティがあって欲しいなんて思わないのだ。

 救いがありふれている、救いに対して贅沢になれる、そんな幸せな人間でもなければ、自分が得られる救いのリアリティなど求めない。

 それこそ機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)ですら、嬉々として受け容れるはずだ。

 求める救いは夢のよう。

 そんな王子様が居るわけがないと、月読調が一番良く分かっている。

 

 それでも祈った。「早く来て」と、月読調は祈り続けた。星空に求め続けた日々があった。

 

 

「代わりなんていくらでもあるんだよ、こんな人形」

 

 

 その祈りを、初めて聞き届けた者が居た。

 

 

「そりゃ結構」

 

 

 力なき者へ向けられる理不尽を、許さない者が居た。

 

 

「じゃあ代わりなんて居ないシラベは、人間なんだってことで」

 

 

 絶望の天敵たりうる、月読調の友が居た。

 

 

「あ、づ、あだだだだだだだだッ! てめえなに力込めてやがるッ!」

 

「おっと失礼」

 

「離しやがれ! ……と、てめえは、例の……」

 

「例のというのが何かは知りませんが、名乗らなくていいみたいですね」

 

 

 調はどさりと己の身体が倒れたことと、誰かに受け止められたことを感じ取る。

 意識は朦朧としていて、身体に力が入らない。

 顔を向ける方向すら自由にすることができないほどだ。

 調に見えるのは、ベアトリーチェとマリエルとカルティケヤの姿のみ。

 自分を支えてくれている誰かの顔は見えておらず、その誰かは腕しか見えていない。

 先程まで調の頭を締め上げていた腕が、調を支えている誰かの手に手首を捕まれ、色が変わるほど強く握り潰されかけているのが見える。

 

 カルティケヤはうって変わって、先程の調並みに痛そうな顔をしている。

 因果応報、逆転した立場に「ざまあみろ」と、調はぼんやりとした思考で思う。

 ベアトリーチェとマリエルはどこか驚いたように、どこか当然のことを見たのだとでも言うように、どこかテレビの中のヒーローを見た時のように、目を輝かせている。

 なんでそんな目をしてるんだろう、と。調のぼんやりとした思考が疑問を浮かべる。

 

 

「なんだ? 王子様気取りか?」

 

「シラベが許してくれるなら、こっ恥ずかしいですが期間限定で気取りますよ」

 

「は?」

 

 

 ぼんやりとした思考がはっきりとしてくる。

 抱きとめてくれていた誰かが、ゆっくりと床に降ろしてくれる。

 その時ようやく、調は自分を助けてくれたのが誰かということを知る。

 

 

「ぜ、ふぁー……?」

 

「無理に喋るな。少し休んでおけ」

 

 

 なんで、なんで、なんで。疑問が頭の中を駆け巡る。

 何故ここに、という疑問を口にするよりも前に。

 この男は危険だから逃げて、という忠告を口にするよりも前に。

 胸の奥から湧き上がってきた熱い気持ちに、全部塗り潰されてしまった。

 涙が出そうで、こらえるのが大変だった。

 

 ゼファー・ウィンチェスターが、月読調の新たな友が、そこに居た。

 

 

「よく頑張ったな、シラベ」

 

 

 そして、彼は調の行動を肯定する。

 調の勇気を、幼い家族を守ろうとした決意を、間違っていないと肯定する。

 大人が肯定してくれない、そんな大切なことを、ようやく調は肯定された。

 痛みではない理由で、涙が溢れそうになる。

 気持ちのゲージを超えて、何かが溢れ出しそうになる。

 

 

「大丈夫、大丈夫だ」

 

 

 そんな泣きそうになっている調の手を、ゼファーが取る。

 恐怖と痛みからか血の気が引き、冷たくなった調の手を握り、「大丈夫」と繰り返す。

 

 

「もう大丈夫だ。だから、あとは任せてくれ」

 

 

 調はそこでようやく面を上げ、ゼファーと視線を合わせた。

 真っ直ぐな目。そこには憂いも、迷いも、揺らぎも、弱さも見えない。

 ただまっすぐに、月読調という少女を見つめ、その身を案じている。

 

 その目には、何が見えてるんだろう。調はふと、そんなことを思ってしまった。

 

 

「ベアトリーチェ、マリエル。シラベを任せた」

 

「まかされたわ!」

 

「ま、まかされました」

 

 

 ゼファーが二人の少女に頼むと、飛んで来たベアトリーチェが調を支える役を変わる。

 マリエルも寄り添い、床にへたり込んだ調を両側から二人が支える構図となった。

 そんな三人にゼファーは背を向け、打倒すべき敵と対峙する。

 

 

「かっ、どうしてこうガキは馴れ合いが好きなのかね」

 

「美女は命を削る鉋、ってことですよ」

 

「はぁ?」

 

「男が居て、女が居て、女をいじめてる奴が居る。よくある構図じゃないですか」

 

 

 向き合うカルティケヤとゼファー。

 恋愛を匂わせる軽口とは裏腹に、その雰囲気は色っぽさとは無縁。まだ子供らしい。

 しかしその目から放たれる強い戦意は、戦場を駆ける戦士のそれ。

 口から吐かれる言葉に込められた熱は、耳ごと焼きかねない熱さ。

 ただそれだけで、カルティケヤを一歩下がらせるほどに威圧する。

 

 友を守るためならば命を削ることも厭わぬ男。他者の命を削ることを躊躇わぬ男。

 なるほど、確かにこの構図は分かりやすい。

 

 

「ならどうする? ここで俺を殴って止めでもするか? 懲罰房行き覚悟でよ」

 

「そうやって騒ぎになって、困るのは俺だけですか?」

 

(……!)「そりゃあそうだ、当たり前だろう」

 

「あ、それ嘘ですね。勘ですが」

 

 

 ゼファーは嘘を直感で見抜……いてはいない。

 直感はそこまで万能ではないし、そんなに汎用性があればゼファーはこんなに苦労していない。

 つまり、これは単なるハッタリだ。

 『例の』という発言から自分のことをある程度知っている相手だと判断したゼファーは、自分の直感のことも知られていると当たりをつけてカマをかける。

 案の定、「嘘は通じない」と思い込んでしまったカルティケヤは、苦虫を噛み潰したような顔をして、忌々しいものを見るような視線をゼファーに向ける。

 

 

「別にナスターシャ先生を呼んでもいいですけど、どうします?」

 

「……何が言いたい?」

 

 

 これもそうだ。

 カルティケヤの表情の微妙な動きを見る目、嘘や躊躇を見抜くジェイナスが刻んだ経験、それらを組み立て判断材料とする感性。

 話せば話すだけ、ゼファーの武器となる目に見えない弾丸は増える。

 ここのトップである、という意味でナスターシャの名前を出したゼファーに対し、自分の上司であるという事以上の反応を見せてしまった時点で、カルティケヤは半ば詰んでいた。

 子供達を一方的に使い潰せる加害者の立場から、対等の勝負の場に引きずり降ろされる。

 まるで、顕微鏡の中のウィルスが、目的のためにウィルスを殺菌し実験し使い潰す日常を送っていた研究者の体内に喰らいつき、その牙を届かせているかのように。

 まるで、狼を狩ろうとしていた狩人を、仲間を連れた狼が食い殺さんとするように。

 

 

「いえ、黙ってますよ。ただし、条件があります」

 

 

 ゼファーは人差し指を立て、よく通る声で火蓋を切った。

 

 

「賭けをしませんか?」

 

 

 つい最近までの弱々しい姿がどこにもないゼファー。

 そのゼファーを少し後ろで見守る双子と、双子に支えられる調。

 このラウンジに集まっていた子供達も、部屋の隅で黙ったまま遠巻きに彼らを見つめている。

 背中にじんわりと汗をかきながら、カルティケヤはそんな子供達を見渡してから返答する。

 報告書に書かれていた情報と、目の前のゼファーとの差異に戸惑いながら。

 

 

「賭け、だと?」

 

「ここに10万ドル引き出せる通帳があります」

 

「!?」

 

 

 ナスターシャを呼ばれたくない、ということを確信した時点で、ゼファーは敗北の可能性を潰す道筋を詰め切った。しかし、それでは足りない。

 ナスターシャが大人の中で微妙な位置にいることに、ゼファーは気付いていた。

 彼女は子供達の味方というスタンスを貫いている。

 絶対的な味方というわけではないが、それは例えるなら実験用のモルモットを「かわいそう」と言って保護し、実験に使わせないようなものだ。

 それが人道から見れば当然のものだとしても、研究者達からすれば面白くない。

 「お前も加害者だろうに、何を今更善人ぶってるんだ」ということだ。

 なまじ彼女が高い地位に居ることと、有能であることが立場の微妙さに拍車をかけている。

 

 調に偽善者と呼ばれる大人達が、ナスターシャを偽善者と呼ぶ。

 なんという皮肉であろうか。しかし、この問題は皮肉には留まらない。

 その他多くの研究者達も望んでいたこととはいえ、ナスターシャが主導して他の研究者の一人を解雇したとなれば、彼女への風当たりは間違いなく悪くなる。

 というより、彼女を邪魔に思っている周囲の大人達が悪くする。

 彼女の権限は相当に削られ、研究所内の立場も相当に悪くなるだろう。

 彼女の手練手管にやり込められている彼女より偉い人も、実験にもっと子供を使って行きたいと考えている彼女の下の大人達も、この時ばかりは息を合わせるだろう。

 その先には、今よりももっとひどい子供達の待遇が待っている。

 

 だからこそ、ゼファーが戦う理由がひとつ増える。

 他人を傷付けるなんて簡単なことをずっと繰り返してきた、こんな男のために。

 他人に信頼されるという難しいことを成し遂げたナスターシャを、犠牲になんてしたくない。

 調に語ったゼファーの信頼論が、彼の決意を更に固めていた。

 

 ナスターシャを呼べないのならば、ここで全ての決着を付けなければならない。

 この男がこの先ずっと何もできないほどに、徹底的に痛め付けなければならない。

 ゼファーが毎回駆け付けられるとは限らない。

 彼の見ていない所で、カルティケヤが犠牲を生まないよう、決定的に圧倒的に絶対的に。

 

 未来の絶望の芽を摘むために、ここでこの男の心をへし折る。

 「自分達に迂闊に手を出そうとしたらどうなるか」を刻み込む。

 戦いの中に生きてきたゼファーの感性が、それを決断させた。

 守るために打倒する、戦士の決断であった。

 

 守らねばならない。

 ここに居る子供達の未来を、ここに居ないナスターシャを、そして傷付けられた調を。

 ありとあらゆるものから、守り続けねばならない。

 他の誰でもない自分に、『今度こそ』と、そう誓ったのだ。

 それに、何より。

 

 痛め付けられる友を、苦悶の声を上げる調を、涙に濡れた彼女の瞳を見た瞬間。

 

 全身の血が沸騰してしまいそうなほどに、自分の中を駆け巡る熱を、彼は感じていた。

 

 

「10万ドルを小分けして……そうですね、コイン一枚を2000ドルにしましょうか。

 俺はあまりカードを知りませんが、掛け金がある時はこうするんでしょう?」

 

 

 熱くなる心の臓と血潮に反比例し、思考はどんどんクールにかつ冴えていく。

 その感覚に、ゼファーは覚えがあった。

 どこだったかな、と考える思考を切り捨て、全ての思考をこの勝負へと向ける。

 かつての日に、足手まといの少女を一人抱えたまま、ノイズの群れの中を突っ切って脱出した日の強さが。失われたはずの強さが、ゼファーの中に蘇っていた。

 

 そう、この性質は変わらない。変わりやしない。

 ゼファー・ウィンチェスターは、誰かを守る時にこそ、最も強いのだ。

 

 

「あ、そちらが負けても負け分はお金で払わなくて結構ですよ。

 その前提で、どちらかが10万ドル分吐き出すまで勝負しましょう」

 

「なに?」

 

 

 そんなゼファーの高まりなど露知らず、カルティケヤは顔をしかめる。

 てっきり借金まで背負わせて、それで自分を脅迫でもしてくるのかと考えていたからだ。

 その上で子供の浅知恵を踏み躙ろうとしてたのだから、わけが分からない。

 負け金を支払わなくていい、とはなんなのか。

 

 

「何考えてやがるんだ? そっちに得がねえじゃねえか」

 

「いえ、10万ドル分そちらが負けたらして欲しいことがありまして」

 

「なんだ? 言ってみろ」

 

 

 そういうことか、と、金以外のものに価値を見出している子供を心中であざけ笑う。

 何を言う、何を要求してくる? 無茶なら却下するし、安っぽいなら受け入れてやる。

 そんな子供をとことんコケにした思考は、顔にも気色の悪いニヤけ面として現れる。

 

 対するゼファーは、少し柔らかい印象を受ける笑みを浮かべていて、

 

 

「難しいことじゃないですよ」

 

 

 その一瞬。その一言を吐く瞬間だけ、壮絶な表情を浮かべた。

 カルティケヤですら一瞬震えてしまうほどの、筆舌に尽くし難い表情を。

 そして静かに、重く、鋭く、かつ煮え滾るような熱さを込めて、短く言葉を吐く。

 

 

「シラベに、謝れ」

 

 

 たった一言告げられた、その瞬間。

 カルティケヤは喉元に突き付けられた、巨大で重厚な銀の剣の刃を幻視した。

 

 

「!? ……は、あ、ぁッ……?」

 

 

 カルティケヤは驚いて一歩飛び退くも、当然それは幻覚であるため剣などそこにはない。

 首筋にゆっくりと手で触れる。触れた手を見てみても、血など付いてはいなかった。

 ただ感触として首筋に残った、死の実感だけがそこにある。

 鈍り切った本能が、退化した脳機能が、遺伝子に刻まれた生命の記憶が叫んでいた。

 

「『これ』は生きとし生ける全ての生命の天敵」

「抗うな、敵対するな、逆らうな」

「『わたしたち』はこれに一度滅ぼされかけた」

 

 それはあまりにも小さな警告の声。

 彼が理性よりも本能を重んじる人間であれば逃げに徹していただろう。

 しかし、彼は科学者だ。残虐であれど理性をもって結果を出す職業の者だ。

 大人になる過程で本能を理性で抑え込むことに慣れすぎた彼は、その警告を無視できた。

 無視できてしまった。警告は、心中に漂ううっすらとした恐怖に変化する。

 

 

「は、は」

 

 

 カルティケヤの口から、乾いた笑いが漏れる。

 死が目前にある。死が眼前に居る。死がすぐ傍に在る。

 人間が長い時間をかけて退化させてしまった感覚が、平和な世界で何十年と過ごしてきたせいで鈍りきった第六感が、戦わない時間が衰えさせた脳器官が、それを感じ取る。

 彼でなければ。戦いの場に身を置く者や、感性の鋭い子供であれば、あるいはゼファーと相対した瞬間に逃げ出していたかもしれない。

 それほどまでに、今この瞬間に少年が発する存在感は恐ろしい。

 最早、ゼファー・ウィンチェスターという個人であるかどうかも疑わしいほどに。

 

 だが、カルティケヤは逃げない。

 彼を支配するのはガキに舐められたということへの怒りと屈辱だ。

 手間取らせた双子の少女達も、珍しく逆らった調も、そして目の前に立つ少年も。

 彼は全てが気に入らない。研究と関係なく、苦痛を与えてやりたいと思うほどに。

 ならば、彼が逃げられるわけがない。

 本能の警告を、理性の憤怒が塗り潰す。

 無自覚に命の本能に逆らうとしても、それもまた人のあり方なのだろう。が、しかし。

 冷静さを失っている時点でゼファーの思惑の内であることには、ついぞ気付いていないようだ。

 

 

(たかだか、こんな小さなガキにぃッ……!)

 

 

 ゼファー・ウィンチェスター。

 年齢は不詳、推定十歳前後。

 栄養不足からか身長はそれほど高くもなく、両手で数えられそうな年齢にも見える。

 閲覧した資料では知能も含め特筆する部分がない、とされていた。

 特記事項の直感や戦闘経験については目を見張るものがあったが、それだけ。

 特別枠扱いされる一つの理由を除いて、何の取り柄もない子供だったはずだった。

 

 だと、いうのに。

 今こうして、カルティケヤはその少年に対等の勝負の場に引きずり降ろされている。

 子供に頭を下げるなどという屈辱を、強制されそうになっている。

 一方的に踏み潰すことは、もうできないのだ。

 そして、それ以上に気に喰わないのが、ゼファーの周囲の子供達。

 

 ゼファーの斜め後ろに座り込んでいる月読調。

 その両脇で彼女を支えるベアトリーチェとマリエル。

 壁際や部屋の隅、物陰から遠目に見守る大人しめの子供達。

 いつだって大人を前にすれば大なり小なり絶望していた彼らが、諦めを瞳に浮かべていた彼女らが、従順に運命を受け入れていた子供達が。

 

 勝利を信じているかのように、輝く瞳を、少年の背中に向けている。

 

 

(お前ら、昨日までは俯いて使い潰されるだけのモルモットだっただろうが……!)

 

 

 カルティケヤは歯噛みした。

 悪評の自覚はある。悪行と分かって為している。悪意だって向けている。

 だが、これはなんだ。

 こんなものは知らない。こんなものは見たことがない。

 仕事のサイクルの繰り返ししかなかった場所に、異物が混じっている。

 その異物一つで、世界がまるで違って見える。

 カルティケヤは悪役の自分に向き合う、一人の少年を見た。背中を押される彼を見た。

 

 まるで、英雄譚の一幕のようだと。

 他人ごとのように、夢を見るように、その一瞬に思ってしまった。

 

 彼が、彼に希望を見ている子供達が、違って見え始める。

 モルモットがまるで人間のようだと、そう思えた時点で、カルティケヤの歯の表面が欠けた。

 ガキに舐められた。そんな怒りに、他の怒りが混じり始める。

 怒りが純度を失い、加速度的に大きさを増していく。

 

 

(だから俺達はお前らを人間として見なかったし、

 お前らも俺達を人間として見なかったんだろうがッ!)

 

 

 その心中は他人には慮れまい。

 もはやDr.カルティケヤの瞳に映るのは、愚かにも乱入してきたガキではない。

 全身全霊をかけてでも、打倒すべき『敵』だった。

 気付けば口が、目の前の敵に問うていた。

 

 

「お前は、一体なんなんだ……!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(ゼファー……!)

 

 

 怒涛の展開に、頭の回転が速い調といえど、痛みの残る頭では完全にはついて行けていない。

 立てれば、言葉を発せれば、月読調はきっと駆け出していただろう。

 友に駆け寄り、胸の響きを伝えるために。

 

 

「ぜ、ふぁ……」

 

「! しらねえちゃん、しっかり!」

 

「お、おねえちゃん……今は休ませてあげないと」

 

 

 なんでそんなお金を持ってるの、だとか。

 いつも一緒にいるセレナはどうしたの、だとか。

 危ないから逃げて、だとか。

 混乱する調の頭の中に、無数の言葉が浮かんでは消える。

 意味のあるもの、意味のないもの、場違いなもの、それこそ千差万別に溢れていく。

 

 なのに。

 なのに、何故だろう。

 それらの気持ちが全て纏めて、湧き上がる一つの憧憬に塗り潰されているのは、何故だろう。

 声も出せずに、彼の背中からずっと目が離せなくなっているのは何故だろう。

 

 何故、こんなにも、ゼファーの背中が頼もしく思えるのだろう。

 

 

(……心臓の音が、うるさい……)

 

 

 意識が薄れている分、やけに自分の心臓の音がうるさく聞こえる。

 トクントクンと、邪魔に思えるくらいに、アラートのように、何かが胸を打つ。

 調がかつて夢見た光景が目の前に、調の知らない気持ちが胸の内に、突如として現れたのだ。

 それを引き寄せたのは、もしかしたら調の『勇気』だったのかもしれない。

 

 敵を恐れさせる勇姿。熱の篭った味方の視線を受け止める背中。

 かつてこの世界にて幾度と無く繰り返されていた、英雄の立つ戦場が成す光景。

 それが今この瞬間に、この場にて形成されていく。

 お伽話に語られる、愛と勇気と希望の守護者。

 

 ビリー・エヴァンスがかつて語った『勇気の種』が、『英雄の卵』に変わろうとしていた。

 

 

「お前は、一体なんなんだ……!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 叫ぶように問うカルティケヤ。

 

 

「お前は、一体なんなんだ……!?」

 

 

 その問いかけに返す答えは、決まり切っていた。

 

 

「ゼファー・ウィンチェスター」

 

 

 セリフなんか考える必要はない。

 余分な言葉の修飾も要らない。

 つらつらとした形容も要らない。

 後方の子供達を、調を守るように腕を横に振り、宣誓する。

 

 敵が神だろうと、魔王だろうと、社会だろうと、現実だろうと、彼は決して膝を折らない。

 大切な人の幸せを侵し、未来を略奪する者に、何度だろうと立ち向かう。

 守ると、誓ったのだから。

 

 

「この子達の明日は、俺が守る」

 

 

 かつて子供を守るため命を捨てた一人の英雄の影が、少年に重なった。

 

 英雄譚の第二幕。これは、英雄が孵る前の物語。




大変申し訳ありませんが書き溜めが尽きました
待て次回!

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