戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ 作:ルシエド
もう二度と分不相応にカードで頭脳戦なんて書いたりしないよ・・・(アヘ顔ツインフェンリル)
切歌を守るためにウェル博士に身を売った……と言えば意味深というか悲惨な響きになるが、特にまあそういうこともなく。頭に計測機を付けて色々こなした後のこと。
「ウェル博士にとって、『英雄』ってなんですか?」
「僕にとっての『英雄』? それはですね―――成す者、です」
「成す者?」
「無敵の力はもちろん前提ですが、英雄は絶対的に結果を出さなければならない。
結果を出さなければ、周りの人間に認められませんから」
断られることを予想していたわけではないが、ゼファーはあっさり答えてくれるとまでは思っていなかったため、目を丸くする。
一筋縄ではいかない、会話に少し面倒臭さと不快感が付随するのがウェル博士の特徴だ。
大抵の人間は話すのも嫌だと吐き捨てる、そういう類の男。
彼の口調ではなく雰囲気から、ゼファーはなんとなく「語りたかったんだな」と推測する。
少年は知る余地もないが、その時のウェル博士の心境は『マイナーな作品のファンだが友達が居ないため好きだと語りたくてもできなかったオタク』の心境に近かった。
つまりは、語りたがりである。
「英雄は、周りに認められなければ英雄ではないんですか?」
「英雄と認められなければその人間はただの怪物です。
周囲がそう認めなければ、英雄譚はただの怪物同士の共食いにしかなりませんよ」
英雄は、恐れられるだけではいけない。
恐れられてもいい。忌避されてもいい。それでも、それ以上に慕われなければいけない。
相対する者にどんなに恐れられようと、背中を見る味方には畏敬を向けられなければならない。
英雄譚を憧憬と共に語り継ぐ者が居なければ、英雄は英雄足り得ない。
怪物と怪物の殺し合いに終着してしまっては、その戦いはただの災厄だ。
「成し、認められ、讃えられ……それでようやく、英雄です」
「成す、というのは怪物退治とか、そういうものだと考えていいんでしょうか」
「英雄の身の丈に合った怪物退治、というのも上々ですがね。
彼らが成すのは『在り方』といったものになるでしょう」
「……在り方……」
ジョン・ウェイン・ウェルキンゲトリクスは英雄を語る。
その英雄像は、まるで古今東西の英雄を探求し尽くしたとでも言うように、理想的だ。
彼の根底に何があろうと、彼の根源に何があろうと、彼にどんな歪んだ欲求があろうと。
一側面としてみれば、彼の語る英雄観は間違ってはいない。
「そう、そして『在り方』は個人に留まりません」
邪悪が振りかざす悪の理を、「それは間違っている」と否定する。
怪物に虐げられる人々を、「犠牲になるいわれがない」と救い出す。
魔王の望む戦乱を否定し、「平和を取り戻す」と奮起する。
英雄は数え切れないほどの戦場を越え、そうして世界に在るべき姿を指し示す。
なんでもかんでも「皆には皆の正義がある」と日和る者に、それは絶対に成せやしない。
「これはいつの時代だって正しいことのはずだ」と叫び、「どんな理由があろうとそれは間違っている」と吼え、「優しくなければ生きている資格が無い」と諭す。
誰にだって手を差し伸べ、悪に更生する余地を残し、弱者を守る。
独善ではなく、皆が望む、誰もが望む誰もが幸福である未来を目指す姿勢。
個人の正義を突き詰めた先に集団の正義を求めるという、あまりに矛盾した未来を成す者達。
人々は英雄が正す世界の理を見る内に、こう思うだろう。
―――私は犠牲にならなくていいんだ
―――手を差し伸べることを、躊躇わなくていいんだ
―――悪い人に無理矢理従わされなくたっていいんだ
―――他人と分かり合うことを、諦めなくていいんだ
―――偽善と言われ笑われたけど、これは正しいことだったんだ
世界が善も悪も混ざり合って、どこにも行けなくなってしまったその時にこそ。
何が正しいことか分からない時代に、正しいことを正しいと言える誰かが必要なのだ。
「英雄の所業を目にし、人々はこう思うのです。
『そうか、これが世界の正しい在り方だったんだ』と」
邪悪を倒す英雄が、それを知らしめる。
怪物を倒す英雄が、それを知らしめる。
魔王を倒す英雄が、それを知らしめる。
「世界に在るべき姿を指し示す。
人々に在るべき姿を指し示す。
英雄とは在るべき形を、誰よりも前で指し示す者。
英雄が望んだ世界こそが人々の望む世界となり、世界の在るべき姿となるのです」
そんな世界の真理に辿り着きながらも、その断片をゼファーに示しながらも、ウェル博士の在り方は『英雄』とは程遠い。
どんな人生を送って来たのならそうなってしまうのか。英雄やヒーローの在り方から「英雄とは何か」という答えを出しながらも、それでもなお醜悪と言っていい有り様だ。
輝かしい在り方を知りながらも、そう在れない。
英雄に憧れ、その在り方を知り尽くしている者がそうであるからこそ、その歪みはいっそう大きく見える。
その歪みは、彼が取り繕った仮面の下から染み出すものを周囲が感じ取るだけで、周囲から敬遠されている現状が生まれてしまっている、それほどのものだ。
ゼファーですら、ウェルという沼の底は見えそうにない。
「僕はね、誰だって諦めなければ英雄になれると信じているんです。
諦めたら全てはそこで終わってしまう。
けれど、逆説的に言えば諦めない限りは何も終わりはしない。
だから、諦めなければ人は何だってできる。何にだってなれると、そう信じているんです」
勝つべき者が己より強き敵にすら勝つ姿を見て、人々はこう思うのだ。
「ああ、これが正しい世界の在り方なんだ」、と。
理不尽は否定される。
不条理は打倒される。
悪い夢は晴らされる。
努力した者が報われ、頑張った者が幸せになる。
正しい者が勝利して、罪なき者の笑顔が守られる。
決意した者が結果を出し、優しい者が愛される。
そんな当たり前。誰かが尊重しなければ、この世界に当然のように無い当たり前。
それらを世界の天則として為し、不変にして普遍の理として世界に成す。
誰もが「そうであって欲しい」と世界に望めば、それをこの世界に成すのが英雄である。
彼らが成すその正しき結末にこそ、絢爛に輝く人の光が存在する。
その英雄の行動原理が、人々に相応のものであれば問題はない。
正しく英雄であるならば、その者は自己顕示欲といった俗物的な感情と程遠い者であるはずだ。
世界に成される理想の形は、きっと誰もが好むものとなるだろう。
けれど、もし。
英雄の在り方を知り、英雄のように世界の在り方を変えることを望み、英雄のように人々を先導することを願い、その根本が英雄とは絶対的に相反する、歪みを内包する者が居たのならば。
それはどこまでも英雄と対極であり、英雄とは相容れぬ者となるだろう。
英雄が世界を支える力であるのなら、それは世界を滅ぼす力。
英雄の反存在。
「そうそう、これを。端金ですが」
「これは?」
「通帳……お金を引き出せるものです。無償の奉仕強要はあの人に怒られかねませんしね……
俗物的な人間相手ならば、これを渡せば一つくらいは要求を聞いてくれるかもしれませんよ?」
一通りの実験を終え、A4用紙にプリントする作業と並行し、何かを投げ渡すウェル博士。
かっこ良く投げ渡したにも関わらず、明後日の方向へと飛んでいったそれをゼファーが慌てて拾いに行くと、それはゼファーの見知らぬものだった。
ウェル博士の話を聞く限り金を引き出せるものなんだな、後でセレナに詳しく聞いてみよう、なんてゼファーらしい思考が脳内を駆け巡る。
一部の研究員相手には有効な交渉材料にもなるようだが、ウェル博士自身は金なんてものを求める俗物的な人間に辟易しているようだ。
彼は金には興味が無いらしい。むしろ、目先の欲に揺らされる人間を見下しているようだ。
それが自分を棚に上げているのか、それとも無自覚の同族嫌悪なのかは分からない。
「いやはや、しかしこれはまた……」
「?」
「いえ、なんでもありませんよ」
ウェル博士は通帳の中身を確認してびっくりしているゼファーを尻目に、結果用紙をめくる。
そこには無機質な文面で、ゼファーの直感を計測した結果が並べられている。
(臨死体験か、『宿敵』との相対か。何がきっかけにせよ、自己申告と比べてこの結果は……)
ウェル博士ですら驚嘆せざるを得なかった、その結果。
守るべきものを再び得た今のゼファーの本当の強さが、そこに記されていた。
第六話:Moon/Prince/Princess 6
この戦いの勝敗は、いつ決まったのか?
強いて言うならば、『彼』の敗北は戦いが始まったその瞬間に確定していた。
「ああ、すみません。俺、そのゲームはルール知らないです」
「チッ、だったら何が分かるんだ?」
「そうですね……あ、インディアンポーカーとかなら、何度か」
「ガキの好みそうなお遊びじゃねえか。まあ、初戦はそれでいいさ」
10万ドルをコインで代用、互いに50枚のチップが配られる。
一枚20万円相当といった所だろうか? 総額で言えば、2000万の金が動く計算だ。
遠巻きに見ていた子供の一人が呼び寄せられ、カードを配るだけの機械と化している。
当人はかわいそうなくらいビクビクしているが、ゼファーの方を時々チラ見し、勇気を振り絞ってその場に立っているようだ。
トランプをするのに中立のディーラーは必須なのだから仕方がない。
カルティケヤはトランプを用いるゲームを提案するが、複雑なものは片端から拒否される。
ゼファーに学はない。トランプなど触ったことは数えられる程度だろう。
演技ではなく、事実ゼファーはインディアンポーカー以外のトランプゲームを知らなかった。
ゼファーの知識量の少なさはカルティケヤも資料から知る所。
事前の情報量や知識量で言えば、カルティケヤは圧倒的有利な立場に立っていた。
インディアンポーカーとは、簡略化ポーカーの極みとも言えるゲームである。
互いに一枚のカードを山から引き、自分でそれを見ないように額に乗せる。
相手のカードは見えるものの、自分のカードは見えない状態で勝負開始。
後は
通常のポーカーと同じく掛け金を操作し、最終的に数字の大きかった方の勝ちだ。
ルールが子供にも分かりやすい、一対一向きの亜種ポーカーとでも言うべきか。
「五回ごとにゲームの種別を変えることも可能、とルールに付け加えておけ」
「……ええ、構いませんよ」
ゼファーの提案したインディアンポーカー。
カルティケヤは、開始五連敗を前提として勝負に挑んでいた。
ゼファーは、負けないことを前提の前提に置いていた。
ゆえに、勝負であるにも関わらず、勝者と敗者が確定している化かし合いの緒戦が始まる。
「
「いいぞ、
絶対にイカサマを仕込んでくる、そうカルティケヤは読んでいた。
威風堂々たる立ち振る舞い。勝てる自信がなければ、ああは振る舞えない。
インディアンポーカーしか知らないのなら、そこにしか既知の罠は仕込めない。
そこにイカサマを仕込み、勝ちに来る。それがカルティケヤの予想だった。
何故ならば、ゼファー・ウィンチェスターには、それ以外に勝ちを狙える手がないからだ。
卓越した技術もない。頭脳もない。ならば勝つには、それ以外の手で差を埋めるしか無い。
つたない手つきから覗ける隠し切れない未熟さを、カルティケヤは見逃さない。
五回ごとのゲーム変更に一瞬躊躇ったように見えたのも、カルティケヤは見逃さない。
インディアンポーカー五回と他ゲーム五回を繰り返すのであれば、子供のゼファーであってもカルティケヤ相手に勝機が見えてくる。
カルティケヤは、ゼファーが考えている勝利の可能性を、そう推測していた。
「俺がJ、あなたが9……俺の勝ちですね」
「これでお前は二勝無敗か。大した偶然じゃないか……なあ?」
「そうですね、大した偶然です」
最初の五回、インディアンポーカーの回はほぼゼファーの完勝。
周囲の子供達がほっとしたようで、一斉に安堵の息を吐く。
部屋の中は異様な雰囲気と、息が詰まりそうなほど重い空気に満たされていた。
それらを発しているのは、今まさにテーブルを挟んで戦う二人の男達。
表情には少々の余裕と、周囲の空気を侵し周りの人間を呑むほどの思案の佇。
ゼファーは勝ち誇っておらず、カルティケヤの余裕も目減りしていない。
調は二人の様子から、これがまだ小手調べでしかないことを看破した。
調の見抜いた事実は両隣の双子に伝わり、やがて部屋全体の子供達へと伝わっていく。
子供達のやや浮足立った空気が沈み、部屋に満ちていた緊張感が戻って来た。
この施設の子供達にとって、大人は絶対者であり敵対者だ。
例外はナスターシャくらいのものだろう。大人が加害者であり、子供が被害者であるという構図はこの施設では不変であり、それは貴族と奴隷のそれに近い。
死を言い渡し、痛みを強制する。
子供達は総じて、大人達を逆らう気も起きない恐ろしい化け物を見る目で見ている。
逆らえる切歌がすごいのであって、子供達は調のように俯いてしまう方が多いのだ。
だからこそ、この施設において、子供にとっての大人は『絶望』の象徴である。
大人によって何人もの家族を殺され、何度も力で組み伏せられ、望みを抱くその度に奪われ、痛みを押し付けられ、心を折られ、助けを求める手を振り払われる。
大人が同じ人間として見ない子供を使い潰し、その結果子供は大人が同じ人間に見えなくなる。
だから、子供達は、いつしか大人に抗うことを諦めた。
乗り越えようとしているマリアも、怒りを見せる切歌も、耐える調も、本質的な意味では皆同じだ。大人に立ち向かいここから出る、といった希望を誰もが抱いていない。
希望がない。未来がない。明日がない。
この施設の子供達は、みな等しく同じ絶望を押し付けられている。
「自分はどんな大人になるんだろう」なんて、誰もが子供の頃に一度は考えるはずの未来への展望を、誰もが一度も考えたことがない。
それはある意味、どんな災害よりも恐ろしいことであるのかもしれない。
大人に勝てるわけがない、と、誰もが望みを絶やしていたのだ。
しかし……それが今、過去形になりつつある。
カルティケヤを見て、「大人には逆らえない」と子供達は絶望を抱く。
けれども今、か弱い子供と
ゼファーの背中を見て、「もしかしたら」と子供達は希望を抱く。
子供達の中で、希望と絶望の天秤は完全に釣り合っていた。
幾千の絶望と比べてなお勝利を思わせるほどに、そこには子らが求めた希望があった。
今この瞬間、その内実がどんなものであったとしても、ゼファーは子供達の『希望』だった。
もしも、ここでゼファーが勝つことが出来たなら、希望を見せることが出来たなら。
子供達の未来を、心を、運命を。彼は変えることが出来るかもしれない。
「……」
「……」
インディアンポーカーが終わり、カルティケヤが指定した次の戦いは通常のポーカー。
正々堂々、イカサマ、どちらの分野においてもカルティケヤが最も得意とするものだ。
ディーラーをする子供から互いに五枚のカードを受け取り、手札を確認する。
つたないゼファーの手つきと比べ、カルティケヤのそれは非常に滑らかだった。
カードを配られた時点で、互いの力量は明確に伺える。
にも関わらず、互いの眼光の鋭さだけは互角だった。
「―――」
「―――」
神の視点から、この時点での化かし合いの結果を見てみよう。
でなければややこしくてしかたがない。
ゼファーはまず、敵が油断をしてくれなければ知能戦で勝ち目はないと確信していた。
頭がそこまでよろしくないのがゼファーの弱点だ。
必死に考えることはできても、彼は革新的な一手を生み出す頭脳がない。
定石を修めた経験もない。カードゲームやボードゲームで正攻法が選べないのだ。
よって、ここに集められるような優秀な研究者には知能戦では決して勝てない。
相手は子供を見下すような人間だと聞いていたため、油断を誘える……と、思いきや。
まるで油断をしていない。それどころか多額の
この時点で、ゼファーは考えていた策のほとんどを切り捨てる。
この時、ゼファーはカルティケヤが子供を見下しているからその命を軽く扱っていたのではなかったのだと、彼の本質の片鱗を掴み取っていた。
彼が子供の命を軽んじているのは、彼の生来の人間性に起因するものではない。
……憎悪。憎悪だ。ゼファーの感覚が、憎悪という悪意を感じ取る。
この男は子供という存在そのものを憎んでいる。
何故憎んでいるのかは分からないが、その事実がうっすらとゼファーの心に伝わってきた。
見下しているのではなく憎んでいるのなら、それ単体で勝利を狙えるほどに致命的な油断は期待できず、かつ微塵も油断がなければ負けかねない。
戦いの中、相手を理解する。
これもまた、『今のゼファー』に備わっている武器だった。
インディアンポーカーの最初の五回は捨てていい、そうカルティケヤは考えていた。
今日カルティケヤがここに来てゼファーと対峙したのはほぼ偶然の産物なのだから、ゼファー側に準備をする時間はなかったはずだ。
ならば、仕掛けがあるとしても見抜くまで時間はかからない、そう考えていた。
カルティケヤの抱く懸念事項はゼファーの仕掛けたイカサマ、そして『直感』の二つ。
そして後者の直感は少年の自己申告によって、『限定的な状況に限って最大で1/2まで的中させられる』ということまで判明していた。
それが過少申告であったとしても、人間には越えられない壁というものがあるはず。
このゲームでも運が良ければ1/2を当てられる、その程度だとカルティケヤは判断する。
この手のカードはこなした回数が手つきに露骨に出る。
囲碁で格好良く人差し指と中指で静かに石を置く人と、親指と人差し指で石を置く初心者の違いを見たことはないだろうか? あの差異と同じだ。
見る人が見れば、熟達者が演じている初心者というものはすぐに分かるものだ。
取り繕えば、取り繕った分だけ違和感が出る。だからそういう演技は良手にはなりえない。
だからこそ、ゼファー・ウィンチェスターがカード初心者であるということは、手つきを見るだけでカルティケヤには筒抜けだった。
競技の交互変更を提案した瞬間、一瞬躊躇ったゼファーの表情をカルティケヤは見逃さない。
カルティケヤの提案の意味を理解せず応じたのでもなく、その提案を想像もしていなかったと思案する様子もなく、ほんの僅かな隠し切れない反応。
予想はしていたがして欲しくなかった提案だったのだと、カルティケヤは想像する。
意表をつく必要はない。
イカサマを始めとした逆転される要素を潰し、地力で押し潰す。
カルティケヤはそれだけで勝てるのだ。開始時点で有利な立場に立っているようなもの。
残酷な行動と噛ませ犬のような言動から想像もできないほどに、カルティケヤの戦術は堅実で、かつまっとうな理に沿ったものだった。
対するゼファーは、たびたびルールをメモした紙を見たり、役の強さをこまめに確認したりしている。なまじそれをバレないようにする工夫が見えるからこそ、なおさら滑稽だった。
ポーカーが初めてというのはまず間違いないと、カルティケヤは確信していた。
初めてやるゲームに事前にイカサマを仕込むなどまず不可能。確実に勝ちを拾いに行けると、カルティケヤは心中でほくそ笑む。
けれど、彼は緩まない。
彼がわずかでも緩まなければゼファーに勝機はないにも関わらず、カルティケヤは緩まない。
このゲームが始まる前の、ゼファーに感じた無自覚の感覚が彼の意識を引き締めていた。
時に人を焼き、時に闇の中で人を導く焔。
時に人を魅せ、時に人を切り裂く銀の剣。
そういうものを感じ恐れる本能。彼の意識は少年を舐め、彼の本能は少年を恐れる。
今の所は、意識と本能の声の大きさは拮抗し、彼は油断をしてくれない。
ゼファーが思考し、カルティケヤが思考する。
カルティケヤが手を詰めていき、ゼファーが策を敷いていく。
真綿で首を絞めるように、肌をヤスリで削るように、じわりじわりと時間が進む。
目を見れば分かる。
双方の頭の中では、凄まじいほどの思考思索が組み立てられているのだろう。
目を見れば分かる。
ゼファーも、カルティケヤも、相手の一挙手一投足を見逃していない。
ゼファーがここで敵の隙を見出さなければ、あるいは今の五連戦で勝つために使ったタネを隠しきれなければ、ゼファーは確実に負ける。
地力で勝るカルティケヤに、ゼファーはそうでもしなければ勝利を勝ち取れない。
激しさも、劇的な展開もなく、ただ静かに互いのリソースを削り合う。
見ている子供達の方が参ってしまいそうな、極限の集中力の世界の戦いであった。
(負けないで……!)
邪魔をしないようにと、声に出さずに応援する調。
彼女の想いは、この場の子供達の総意の代弁と言っていいほどに、皆と一致していた。
別所、この部屋に設置された監視モニターを介し、戦いを観戦する一人の男が居た。
「お、やってますね」
その戦いを子供と研究者のトラブルと解釈してもいいのに、ナスターシャや警備員を始めとする誰かに連絡する様子も見せず、そのまま傍観している。
その部屋の映像が別所のモニターでは見れないようにデータをリアルタイムで改竄しつつ、自身は機器を用いてデータを収集していく。
画面の中ではいかなる機械によるものか、ゼファーの心拍や視線の動きまでモニタリングされているようだ。一挙手一投足たりとも見逃さないと言わんばかりに、RECの文字が光る。
興味深そうにモニターを覗くその男、彼の名はウェル博士。
当然ながら、データの改竄もこの戦いの観戦も、完全に私情によるものだった。
「さて、彼の勝率はざっと三割程度でしょうが」
画面の中の少年を見て、ウェルは眼鏡を光らせる。
「『担い手』であるのなら、この程度の逆境は跳ね返して貰わないと困る」
それは勝利を信じるというより、試すような意思が見える声色だった。
「ノーペア」
「ツーペア……ポーカーの初戦は、俺の勝ちだな」
「まだまだ。勝負はこれからですよ」
ポーカーにて二戦目。
初見のゲームのルールを必死で覚えながらも、ゼファーは彼なりの全力で頭を回す。
対するカルティケヤの視線は、いつしかひどく冷め切っていた。
カルティケヤは勝利に対し喜びを見せることもなく、二人の捨て札と手札を拾って集めて纏め、ディーラーに手渡しシャッフルさせる。
(……アホくせえ)
両者の手札をごく自然な動きで回収し、ディーラーの子に手渡すフリをして、その時カルティケヤはゼファーの手札と捨て札を確認していたのだった。
ゼファーの捨て札はスペードの2とクローバーの7。
山から引いて手札に加えたカードの位置から見るに、ゼファーの手札は残したものがハートの2にダイヤの4と5。山から引いていたのがハートのQとスペードの10であった。
ほっとするのを通り越して、これは流石にカルティケヤも呆れてしまう。
万が一、万が一にもという可能性で、初心者を演じている熟練者という可能性もあった。
しかし、その可能性もここで潰れる。
ペアを崩して245残しのストレート狙いなど、カード交換一回で狙う前提では正気の沙汰ではない。普通はペアの方を残しておくものだ。
役の高さで配当が変わるルール、交換が複数回許されるルールならまだしも、今回はそのどちらも加えられていない。相手より役が高ければそれでいいタイマン仕様なのだ。
明らかに「初手で役ありは強い」「高い役が成立する可能性と確率」といった基本の計算ができていない。457残しのストレートすら考慮できてない時点で問題外だ。
ストレートをA-5の純正の形でしか考えられないのは初心者にはたまに見られることである。
こういった確率計算ができていない人間は、どんなに運が良かろうと最終的に計算のできる人間に負ける。トランプゲームとはそういうものだ。
まして、ゼファーはかなり運が悪い。
生まれた場所やその後の人生、出会った人間がポンポン死んでいく運命もさながらに、直感があっても戦場でちょくちょく死に瀕するほどに運が悪い。
まるで『どこかの誰かが幸福になる運命を焼き尽くしている』のではと思ってしまうほどに、笑えないレベルで運が悪い。
ゼファーがもし運任せに生きようとしたなのなら、あっという間に死んでいるだろう。
1000択の問題を一発で当てることもあるのが幸運持ちなら、初めて見る問題を二択で千回連続で当てられ、もう一度同じ問題をやらせても全部同じ答えを出すのが直感持ちだ。
直感は運の代わりにはならないが、それでも低い幸運をなんとか埋めることはできる。
しかしどんなカードを引くかというのは、完全に運の領域と言っていい。
こればっかりは直感で埋めることはできない、個人の格差の問題なのである。
ポーカーはシンプルなゲームだ。
だからこそデフォルトのルールでは、まず最初に簡単な確率計算。
次に運が求められ、場末の遊びであれば最後にイカサマの腕が求められる。
確率計算ができない、運が無い、そんなゼファーは片手片足をもがれているにも等しい。
まして敵対するカルティケヤは、ポーカー特有のイカサマにも精通している男であった。
「ワンペア」
「ツーペア。お、早くも勝ち数が並んじまったなあ、キキャッ」
「さて。まだまだ序盤ですから、そういうこともあるでしょう」
トランプのカードは新品のものを開けた。
その時点でカルティケヤとゼファーによりカードはチェックされたが、ジョーカーを抜いて52枚ちょうどあることを二人で確認している。
にも、関わらず。
もしも今、ゼファーがトランプの山の枚数を確認してみれば、『47枚しかない』ということが判明するだろう。
足りない五枚は、カルティケヤの長袖の中にある。
マジシャンは長袖を好む、という文言を知っているだろうか?
袖、というのはものを仕込んだり隠したりするために、これ以上ないくらい役に立つシロモノなのだ。マジシャンは長袖を自然に見せるため、わざとややフォーマルな服装にしたり、あるいはフォーマルを茶化したようなややフォーマルな服装を好む事も多い。
ゼファーは半袖という時点で、そこそこにイカサマの範囲を狭められていたと言っていい。
カルティケヤはゲーム中に拾ったカードを袖の中に入れ、適宜手札と入れ替えてすらいたのだ。
この時点で山から引いた札+五枚の札という交換選択肢が増えるというメリットのみならず、ゼファーに対する妨害としても機能する。
例えばゼファーがハートのKを残して四枚を捨て、Kのワンペアを狙ったとしよう。
その時点で山に残っているはずのK三枚を、カルティケヤが袖の中に隠し持っていたとしたら、どうなるだろうか?
考えるまでもない。どう足掻いてもペアは成立しないどころか、カルティケヤは手札と袖の中の交換でKのスリーペア以上の手札が確定するのである。
知らず知らずの内に、こうしてゼファーは少しづつ勝機を削られて行っているのだ。
それも、目には見えない形で。
(……マジで素人だな。警戒の目線が向くべき場所に向いてない上、手の変え方も三流だ)
(イカサマされてる、されてるのは分かるが……何をしてるんだ……!?)
結局、ポーカーはカルティケヤが三勝。残る二回はゼファーが降りた形となった。
それも二回降りた内の一回は、カルティケヤが様子見でやってみたハッタリ降ろしにゼファーが見事に引っかかった形。
ツーペアのゼファーがブタ相手に降りた姿を見て、カルティケヤは心中でさぞ笑っただろう。
ハッタリ、駆け引き。少年にそういった技術がないことも既に露呈していた。
実はインディアンポーカーの最初の五回も、ゼファーが二回勝ち、二回降り、カルティケヤが一回降りるという結果に終わっていたのだ。
総合的に見れば、この十回のゲームの中で勝ち越したのはカルティケヤ。
地力の差が露骨に出た形となった。
更に言えば、次の五回にて行われるゼファーが有利と思われていたインディアンポーカーも、
「
「……
「あーあぁ、勝負受けねえのかよ」
「受けてたら負けてますね」
ゼファーの『五回連続降り』という恐ろしい光景が、この二人の勝負が尋常でないことを示す。
五回連続で相手より強いカードを手にしているカルティケヤ。
五回連続でそれを読んで降りたゼファー。
互いにイカサマをしているのだと確信していても、それが指摘できない。
よって顔に少しの余裕を浮かべ、勝負を続行する。
先に見抜いた方が勝つ。
双方の目を見れば、そんな意志が伝わってくるはずだ。
一見、互角の勝負にも見える。
片方が圧倒的に押しているわけではないからだ。
しかし持ち金の額で言えば、今現在は圧倒的にゼファーが押されている。
カルティケヤは自身の手札を良くしていくイカサマをしていくが、現状ゼファーがしている仕込みは自分の手札を決定的に良くするものではないのだろう。
でなければ、もっと勝率は上がるはずだ。
ゼファーは今の所自分が確実に勝てる場面で押し、確実に負ける場面で降りているだけ。
カルティケヤ視点では、相手の手札が見えるイカサマ、それもポーカーでは不完全にしか機能しないもの、と判断されている。
でなければ、ポーカーでカルティケヤの方が強い手であるのに
一発逆転の可能性を潰す、高額
一発芸のような奇襲ですら、今のゼファーには許されていないのだ。
何もかもが、ゼファーの絶体絶命の状況を裏付ける。
カルティケヤの雰囲気に生まれてきた余裕、ゼファーの減り続ける持ち金。場の流れの傾きが生む空気の変化は、周囲の子供達にも伝播する不安へと変わっていく。
小難しいカードのルールを分かっていない小さな子供達にも、ゼファーが今ピンチであること、追い込まれているということが伝わって行ってしまう。
ゼファーの背中に希望を見た子供達も、目に見えて動揺してしまっている。
彼が負ければ、カルティケヤに新たな犠牲者が連れて行かれ、また悲劇が繰り返される。
子供達は、ゼファーを挟んだ向こう側に、歩み寄ってくる見慣れた絶望の姿を見ていた。
「おねえちゃん、ゼファーおにいさん、まけちゃうのかな……」
「ばかなこといわないの、マリエル!」
ゼファーが負ければ、自分達の死がやってくる可能性もある。
そんな怯えを最も感じているであろう双子の片割れ、マリエルが弱音を吐き、姉のベアトリーチェがたしなめるも、そのたしなめる声も少し震えている。
二人とも、まだ小さな女の子だ。
片割れを守ろうとする勇気があろうと、間近に迫る死が怖くないわけがない。
親しいゼファーを信じようとしても、怖くて怖くて仕方がないのだ。
互いに握った手は震え、姉妹の間で恐怖の感情を共有し合ってしまっている。
しかし、そんな二人の手を包み込むように重ねられた小さな手。
二人よりも少し大きい、けれど他人と比べれば小さなその手の持ち主は、月読調。
双子の姉妹がその手に少し驚き、調の顔を見上げると、そこには常の調のそれとは少し違う顔があった。冷たい印象を受ける無表情が、見たこともないような熱を孕んでいた。
暖かみのある微笑みではなく、真剣な無表情の中に熱を湛える、そんな表情だった。
「大丈夫。負けないよ」
「しらねえちゃん……?」
「私は信じる。だから貴女達も、信じてあげて」
二人の手を握りながら、調は真っ直ぐにゼファーの背中を見る。
信じることしか出来ないのなら、信じることに全力を。
勝利を祈ることしか出来ないのなら、その祈りにこそ全霊を。
人形などが持てるはずのない、言葉と表情に乗るその人らしき熱は、すぐ側に居るマリエルとベアトリーチェの心を奮わせ、ゼファーの勝利を信じさせる。
「ゼファーの『勇気』が、私の友達が、最後の最後に勝ってくれるんだって……私は信じる」
呟くような、傍の二人にしか届かないような調の声。信じる言葉。託す言葉。
彼が負けてしまうのなら、あの狂人に殺される運命だって受け容れると、命すら信じ託す言葉。
けれどその言葉は確かに、ゼファーの耳へと届いていた。
(ああ、くそ、まだまだ勝ち目なんてロクに見えてないってのに……)
立ち向かう彼の身体に、心に、魂に、熱い何かが廻り始める。
(そんなこと言われたら、気合入れるしか、ないじゃないかッ……!)
絶体絶命なのかもしれない。
一発逆転の方法なんてないのかもしれない。
勝ち目なんて最初から無くて、それがハッキリしただけなのかもしれない。
だが、それでも。
ゼファーの後ろには、守るべき子供達が居る。
男の背中を見る、男の勝利を信じる少女が居る。
なればこそ、負けるものか。
女が、友が、子供が勝利を信じてくれるその場所で、理屈や道理すらひっくり返せない者が。
戦いの地で、『男』を名乗れるわけがない。
「ほう、ギアが入ってきましたか」
そんな少年少女達と大人の戦いを、何のリスクも負っていないウェルが呑気に眺める。
ゼファーや調の縁者がここに居れば、二人が生死を左右する戦いに挑んでいるにも関わらず、それをトルコアイス食べつつ寝っ転がって観戦しているウェル博士に殺意を覚えるだろう。
他人の必死さに全く共感を覚えず、娯楽としてしか見ていないこの男に、「ぶっ殺す」と襲いかかっていてもおかしくはない。
「そうです、そうそう、その調子……
長生きすることを考えなければ、限界なんてガンガン超えていいんですよ」
画面の中では、ウェルの望む通りに意志一つで自身の限界を超えるゼファーの姿。
人間が限界を超えるということの意味をウェルは科学的に知りつつも、愉悦する。
手元にある紙を何度も眺めながら、気色の悪い笑みを浮かべるのみだ。
ゼファーの命も、調の命も、カルティケヤの処遇もどうでもいいと思っているがゆえの所作。
ウェルが手にしている紙には、先日のゼファーの直感測定実験の結果が記されていた。
この戦いの中で、ゼファーが唯一掴める可能性のある勝機の鍵が、記されていた。
「『これ』を僕の脳で再現できれば……ふへへへぇ……」
コイントス的中率100%。
サイコロの偶数奇数当て的中率100%。
四本の中に当たり一つのくじ的中率100%。
以下、直感による異様に高確率の的中率が並んで行く。
臨死、激戦、宿敵。
あらゆる要素が成長を促した今の彼の持つ唯一の『力』。
絶対的な絶望の喉元に喰らい付くことを可能とさせる、ゼファーの唯一無二の牙。
最初に異変に気付いたのは、当然ながら相対しているカルティケヤであった。
(……?)
彼も毎度イカサマを使っているわけではない。
そうしなくても勝てる程度の力量差があるし、流石に多用しすぎればバレる危険性がある。
イカサマは必勝、しかしイカサマだけで打つギャンブラーなどどこにもいない。
イカサマといえど、連勝は流れというものを持って来る、そんな効果もあるのだ。
にも、関わらず。
じわり、じわりと。カルティケヤは、差が詰められていることを、数字の変化で察していた。
(運か?)
一時はカルティケヤ90枚(+8000万)、ゼファー10枚(-8000万)という決定的な大差が付いていた。それもカルティケヤが少額勝負を基本として進めた上で、だ。
ゼファーがどれほど負けたかなど、考えたくもない。
なのに今は、カルティケヤ80枚、ゼファー20枚ほどまで持ち金の差が詰まっている。
「ツいてきたじゃないか、え?」
「……」
「……キキャッ」
口数がどんどん減っていくゼファーに、余裕が無いなとカルティケヤは嘲笑う。
敵の余裕の無さは、僅かな油断を彼の心中に生む。
だが、その推測もあながち間違ってはいない。余裕が無いのは本当のことなのだ。
ただそれは、追い詰められたからではなく、全神経を今この瞬間に、全力で使っているからだ。
(見ろ、感じろ、考えろ)
直感を。それを構成する眼、経験、感性を研ぎ澄ます。
今のままの自分では勝てない。ならば、そんなものは超えて行かなければならない。
超えて行くのは、昨日の自分だ。
(使えるのはこの身一つ。意地を貫くのはいつもこの身一つ。
限界を超えて、勝つために、勝てるだけの何かを探せ―――!)
目を閉じる。
カチリカチリと、頭の中で何かの歯車が噛み合う音がする。
身体中のあちこちで、何かが沸騰している音がする。
心臓の奥で、胸の撃鉄が起きる音がする。
目を開ける、撃鉄が落ちる、何かが変わる。それらが同時に、彼の欲した変化を成す。
何をすればいいのかは、心が知っていた。
「―――」
息を吸い、吐き。ゼファー・ウィンチェスターは、見える世界が変わったことを知る。
(……そうか、『こう』見ればいいんだな)
スポーツ選手は、一点に注視しないと言われている。
彼らは見るべき範囲を絞り、必要な情報を得るための範囲をぼんやりと見つめる。
そうすることで、その範囲全体の動きを見逃さないようにするのだそうだ。
格闘で例えてみると分かりやすいだろう。
相手の右拳だけを注視するよりも、相手の体全体の動きを見て、踏み出す足の初動の動きに反応した方が、結果的に対応は早くなる。
逆に一点を注視してしまうと、それ以外の部分の動きへの反応がおろそかになってしまう。
人間の視力とは、そうして静体視力・動体視力・深視力とはまた別に、『どの範囲を見るか』ということを判断するという面でも、個人差による優劣が存在するのだ。
そして、大抵の人間は自分の意識が反映される『どの範囲を見ているか』という点に対し、無頓着だ。目は口ほどにものを言う、と古人が言葉を残しているにも関わらず。
胸ばっか見てるエロオヤジの視線の位置は、本人より女性の方が敏感なのと同じ理屈である。
ゼファーは今、目の前の男の内心を、口ほどにペラペラと話すその目をじっと見つめていた。
ここまでの鎬の削り合いで集めた情報を元に、じっくりと相手の思考を吸い出していた。
手札が五枚配られた時。
まずカルティケヤは、彼から見て左端の二枚を見た。
二枚セットで、である。焦点を一点に合わせず、二つを纏めて見るように二つの中間点を見た。
カードを一枚見る時の焦点の位置と、二枚纏めて見る時の焦点の位置は違う。
厳密に言えば一枚と三枚ですら違うのだ。
今のゼファーは、一~五枚程度の範囲であれば、焦点の差異を察することができる。
二枚セットで見た。つまりカルティケヤの手には、ワンペアがある。
残りの三枚は一枚づつ見た、つまりバラバラのカード。
バラバラのカードの内二枚を捨てた。つまり、残した一枚でのペアでツーペア狙い、そこにスリーカードやフルハウス狙いも含めた手広い待ち方。
ゼファーはそう思考し、安心して手札のスペード458Qを残し、ハートのAを捨て、直感で来ると分かっていたスペードスートのカードを引いた。
スート指定で見るのなら、どのスートを引くかの確率は『1/4』の問題でしかない。
「フラッシュ」
「スリーカード……チッ」
「俺の勝ちですね。では、掛け金貰っていきます」
カルティケヤは次に引いた五枚のカードを、ごく普通に手の内で並べ替える。
彼の性根が生真面目な人間であることを、ゼファーは既に見抜いていた。
荒々しい素振りはほぼ演技。このカードの勝負の裏で、ゼファーはその仮面を剥がしつつある。
カルティケヤが手を見せる時、特にストレート系を完成させた時、その手札が綺麗に数字順に並んでいるのをゼファーは何度も見ていた。
カルティケヤは配られた五枚のカードを見た後、彼から見て一番右のカードを上下逆に入れ替えつつ左端に移動させ、左から二番目と三番目になったカードを入れ替え、右端になったカードを最終的に捨て、新たに引いたカードを上下逆にした。
その一連の動きを、ゼファーは自分の手替えと平行して全て見逃していなかった。
上下逆にする動きが生まれるのは、スペード・クラブ・ハートのみ。ダイヤはマークの形状が上下対象であるためそうする必要がない。
また、この動きはカードをペアにして整理する動きでもない。
カルティケヤはペアが出来た時、その二枚を手札から引き抜いてセットにしてから手札左端に移動させる癖があるのだと、ゼファーはとうに見抜いている。
そして、上下のあるトランプのカードは全て奇数。
左端と右端を上下逆にしたということはその時点でこの二つが奇数である、という可能性が生まれる。五枚分のカードの順番を並べ替えていた、ということからも、ストレート濃厚。
ゼファーの手札にはその時、クラブとハートのAのペアがあった。
スペードのAはマークの仕様上、上下を意識させやすい。
スペードのA-5のストレート、次いで3-7、5-9のストレートのどれか。
これまでのカルティケヤのパターンであればそれらのどれかであると、ゼファーは判断する。
「
「……ついてねえな」
ならば、勝負はしない。
「五回終了です。次は、インディアンポーカーを」
これらの煩雑な処理と思考を続ける内に、ゼファーの頭には疲労と痛みが蓄積していく。
構うものかと、意志一つでそれらをねじ伏せる。
直感で決定的な敗北を避け続け、泥臭くみっともなく鬱陶しいくらいに粘り続け、生きることを投げ出さず、生かすことを決して諦めず、考え続けることで勝機を見出す。
それが戦場であろうと、カードだろうと、ゼファーの戦い方は変わらない。
直感を走らせ、しぶとくしぶとく足掻き続ける。
頼りにしている直感がもう、かつて彼が備えていた直感の一つ上のステージへと到達しつつあることにも気付かずに。凡人の壁を超えつつあることにも気付かずに。
越えた死線が、越えた絶望が、勇気をもって越えた世界の境界線が、彼に成長を促した。
死と隣合わせの世界がゼファーに与えた直感という恩恵は今、彼の決意に追従し応えようとする形で、一つの完成形へと向かい変化しつつある。
ただの鉄塊が、精錬されていつの日か聖剣となるように。
直感だけではない。
ナスターシャが気付いたように、ゼファーの中で急速に実を結びつつあるもの達がある。
英雄、悪党、罪人、そして親友。
彼らに与えられたもの、彼らから学んだものが、ゼファーの中で再構築されている。
一度壊れ、再構築し立ち上がった過程がプラス方向に作用していた。
ゼファーの中に欠片として存在していた成長の足跡が、少年自身の求めと望みに呼応し、無知で無能で無力だった少年に色を付けていく。
拙いながらも英雄のように可能性を切り開き、真っ直ぐ過ぎた行動様式は無意識の内に悪党のごとくフェイントを絡め、足りないながらも罪人のように徹底して戦術を頭の中で練り、親友のように戦いの中でも信念と覚悟を忘れない。
(なんだ、このガキ、何を考えている……?
何を仕込んでどう使っている……? 不味い、押され始めてるのにまだ見抜けねえ……!)
カルティケヤはついぞ気付けていなかった。
インディアンポーカーが、ただのマーキングと時間稼ぎでしかなかったことに。
ハイ-ロウゲームならば直感で絶対に勝つ保証はあったし、勝つに越したことはなかった。
イカサマを使われれば流石に降りなければならないが、それを毎度使わせられるのであれば、それが相手のイカサマを見抜くための情報を集積する機会にもなる。
ゼファーからすれば、勝とうが負けようがどっちでも良かったのだ。
ゼファーはインディアンポーカーを繰り返す度直感で勝利する。逆に言えば、ゼファーはこの競技だけを繰り返す限り必勝、この競技と同数の競技を繰り返す限り、大負けはないのだ。
どんなに力量差があろうと勝負が膠着する、と言い換えてもいい。
その間、カードの裏面に、それとは分からないよう爪で引っかき傷をつけていく。
ポーカーの王道イカサマとも言われるカードのガンつけ、それが『人の目で判別できる範囲のもの』であれば、熟練のカルティケヤが気付かないはずがない。
なればこそ、その傷はほぼ目に見えないほどの非常に小さなものに留まった。
カルティケヤの手札入れ替えイカサマにより時折ゼファーの思惑が大きく外され、序盤は主導権を握られっぱなしだったが、ほぼ全カードにマーキングを終えた今は決定的な武器となる。
直感の一部として成長を遂げた『眼』は、しっかりとカードの細かな傷を見据えていた。
カルティケヤは気付いてしまったし、気付けていなかった。
要所要所でゼファーが見せた素振りが、かつて詐欺師の仕込んだ『本心の偽装技術』が半ば暴発した形で表出した、いわば何の意味もない本心の偽装であったということに。
この瞬間、ゼファーは『正直者の詐欺師』という矛盾を両立する。
嘘をつく才能が微塵もない人間に、嘘つきの悪人が仕込んだ嘘をつく技能。
ゼファーがいまだ使いこなせておらず、だからこそ暴発に近い形で発動したフェイントへと変わったそれが、要所要所でカルティケヤを惑わせる。
少年が絵に描いたような正直者という性格だったことが、その効果を倍加する。
ゼファーですらどこで本心を偽装したのか分からないのだから、カルティケヤに分かるわけがない。ゼファーとは逆に、カルティケヤはゼファーの手や内心を全く読めていなかった。
完全な偶然が生んだ、この勝負一度きりの完璧な偽装だった。
時間の経過、観察に使えた時間がゼファーに有利に働いた、というのもある。
長期戦となったことが、ゼファーにカルティケヤを観察するだけの時間を与えた。少年に彼を理解するだけの時間を与えてくれた。
人聞きの範囲では、凶暴、残忍、短気、外道。
しかしてその実態は、堅実に考えられる思慮があり、ゲームと真剣に向き合うスタンスを貫き、子供を快楽ではなく憎悪から痛めつけている破綻者であるということが伺えた。
目の動き、手札の扱い、指の癖、思考のパターン。
それらをことごとくゼファーは覚え、直感に反映していく。
情報が揃えば揃うほど、直感の精度は上がっていく。
足りない頭での思考思索にも、勝機を見出すための材料が増える。
「
「ま、待て待て、ちょっと休憩入れないか」
「
ゼファーの手つき、カードへの無知、雑な戦略と思考、凡庸なイカサマをいつまで経っても見抜けない不慣れさ、余裕の無さ。
カルティケヤはそれらが重なり、初めて『油断』をした。
その緩みに、ゼファーは一縷の勝機を見出し、そこに全てを投じて賭けた。
自身の成長、仕込み、足掻き、全てを込めて連勝を重ねる。
カルティケヤが自身の緩みを正そうとするも、もう遅い。
畳み掛けるような連戦連勝は、それまでのカルティケヤのリードを完全に食い潰し、流れをゼファーへと完全に持って行った。
気付くべきだったのだ、カルティケヤは。
二人に差があるとすれば、技術だとか、知能だとか、能力だとか、そういうものではなく。
この勝負にどれだけ「負けられない」という気持ちを抱いていたか。
ただ、その一点であったということに。
必死に、必死に勝機を探し続け、頭を回して手を打ち続け、それでも劣勢からじわじわと追い上げるしかできない、そんな少年の意地と意志。
力が足りないのなら、戦いの中で成長すればいいという、無謀なまでの前のめりな意志。
その意志をねじ伏せるだけの強い意志など、カルティケヤに備わってはいない。
気付けば、カルティケヤの持ち金は既にゼファーのそれを下回っていた。
(どうする、くそ、こんなガキどもに……!
なんでお前らは、なんでお前らが、お前らなんかがのうのうと生きてやがる……!)
最早子供に舐められているという憤怒はどこにもない。
残るのは純然たる憎悪、湧き上がる焦燥、子供全てに向かう敵意。
押されているなら、押し返すしかない。
先程まで抑えていた袖の中に仕込むカードを始め、温存していたイカサマを総動員し、全ての勝負にてイカサマを仕掛け、拮抗させんとカルティケヤは挑む。
イカサマを多用するリスク、油断から生まれた気の緩みを突かれた動揺を抑え切れていない今の自分、それらが『見えていない』ことがどんな結果を生むのかも、想像できないままに。
(見てやがれ、こっからお前には一勝もさせ――)
カルティケヤが配り伏せられたカードを拾うフリをして、手の平に隠したカードを重ねる。
今カルティケヤが手にしているカードは七枚。これを手元で広げるフリをして二枚袖口に流し落とし、後々また別の場面で入れ替えて使う。
こうして彼は、フラッシュやフルハウスを多用することが出来るのだ。
これまでの試合でそうしてきたように、カルティケヤはテーブルに伏せられた七枚のカードを拾おうとして……その指を、眼前の少年の拳に叩き潰された。
「――っ゛ぁッ!?」
「おっと失礼」
叩き潰された、というのはもちろん比喩だ。
荒くれ共の世界で生きてきたゼファーからすれば、骨を折らず、カードができる程度の内出血に留まる、けれど最大限に痛くして指を痛めつけるなど造作もない。
痛む指を押さえて悶絶するカルティケヤをよそに、ゼファーはわざとらしく、七枚になっていた五枚のカードを数え始める。
「あ、イカサマですね、これは。掛け金はいいですから、もうしないと約束してくださいね?」
丁寧な言葉であるがために、なおさら怖い。
その言葉の裏から滲み出る、月読調を傷付けられたことへの怒りが、ようやくカルティケヤにも理解できてきた。
目の前の怪物は、徹底的に自分を潰すつもりなのだ、と。
油断した瞬間に畳み掛けられ動揺し、逆転された現状に焦り、やってはならないイカサマの短時間多用でゼファーに多くの情報を与えてしまい……ようやく。それでようやくだった。
ゼファーは、それでようやくイカサマの種を見抜けていた。
それほどまでに、カルティケヤの偽装は完璧だった。
カルティケヤは表情に僅かながらに恐れを浮かべ始め、ゼファーは余裕綽々のままではあるが、心中の追い詰められ具合ではゼファーの方が厳しかったと言っていい。
ここまで追い詰めなければ見抜けかったほどに、互いの間には力量差があった。
もしも見抜けなければ、ゼファーの成長を込みで考えても、厳しい戦いとなっていただろう。
カルティケヤは動揺する自分の頭を冷やすこともできないままに、煮えた頭で『ストレートにも勝てる手』を狙い
「いや、その手札なら無難にツーペア狙った方がいいと思いますけど」
「……!?」
その一言で、一気に肝を冷やされた。
「大丈夫ですよ。そんなに警戒しなくても、俺の手札はストレート狙いじゃないですし」
思考を完全に読んだ言葉で、追い打ちを掛けるように心胆を寒からしめる。
手札を読まれるなら分かる。手札を操作するなら分かる。
それはイカサマでも可能な範疇だ。
……しかし、『心を読む』というのはそれとは全く別の次元にある。
僅かな言葉のニュアンスは、先程のイカサマの件も合わせ、カルティケヤに「頭の中を覗かれている」と確信させ、植え付けられた僅かな恐怖を倍増させるには十分過ぎた。
本能が生んだ深層意識の恐怖が、押しても押しても押し切れない粘り強さ、心中を読まれているような不気味さ、未熟とはいえ英雄特有の威圧感に後押しされ、逆転され始めたことにより明確にカルティケヤの心を恐怖で塗り潰す。
それは倒しても倒しても蘇り立ち上がってくるゾンビが、徐々に徐々に自分へと着実に歩みを進め、とうとう自分の足首を掴まれてしまった……そんな恐怖に近い。
今彼の心中に蘇る恐怖は、最初の最初に理性が押し込んだ本能の恐怖。
生きとし生ける全ての命が遺伝子に刻み込んでいる、始原の恐怖だ。
カルティケヤは理を知る者だ。ゼファーが勝つために講じている手段が理に沿ったものであるならば、彼は必ずその正体を見抜いてみせる。
しかしどうやっても見抜けない。だからこそ、その手段が理外のものであると確信してしまう。
その手段が理解できない、分からないことが、一層恐怖を煽る。
自分の心の中、それよりももっと深い所まで見透かしていそうな少年の両の瞳が、今の彼にはとても恐ろしいものに見えた。
目の前の少年が、ただの子供ではなく、得体のしれない怪物のように、彼の目には映っていた。
(な……なんなんだ……こいつ一体何なんだ……!?)
「勝てない」と、この時初めて、カルティケヤの心中に確信に似た弱音が生まれる。
(最初から……最初からなのか!?
まさか最初から、俺はこいつの口中で咀嚼される前に踊らされてただけで……
いや、それならまだいい。そうじゃなかったとしたら、尚更……!?)
まず最初に、カルティケヤはゼファーの予想に反し、油断をしなかった。
彼が油断をしなければ、決定的な付け入る隙は発生しなかった。
当然ながら地力はカルティケヤが上。じわりじわりとゼファーは追い詰められていく。
そこで初めて生まれた油断をゼファーが突き、流れを呼び込み、油断から付け込まれた結果の動揺に畳み掛けられ全ての牙をもがれ、決定的に敗北する。
まるで絵物語のような逆転劇。
それが打算からくる演出なのか、怪物が口内で獲物を転がし遊んでいただけなのか、人智を超えた英雄の所業なのか、それすらカルティケヤには分からない。
ただ、「勝てるわけがない」という確信だけが、カルティケヤの心中に広がっていく。
(勝てない……とかなんとか、そろそろ思ってくれてれば助かるんだが)
しかしそれとは対照的に、ゼファーも服の下に相当冷や汗をかいていた。
相手の心を読んだ? そんなこと、ゼファーが出来るわけがない。
ゼファーは前の五回で自分が偶然二回ストレートを出して勝っていたこと、カルティケヤが自分の手札を左端から右端まで順番に流れるように視線を走らせたこと、カルティケヤがわざわざフラッシュという強手を狙ったことから、カルティケヤの頭の中を想像したに過ぎない。
カルティケヤの手札は既に小さな傷でスケスケだ。更に目は口ほどにものを言っている。
材料があるなら、後は必死に考えるだけだ。そして至った答えに懸ける、それだけ。
要するに、思わせぶりなセリフを絡めたハッタリ。
余分な言葉を口にしないゼファーだからこそ、僅かな発言が効果を発揮する。
ナスターシャから切歌を庇う時もそうだった。
ゼファーの言葉はたった一言であるからこそ、人に変化を促しうるのだ。
そんな心中では必死にもがいているゼファーが被る、常に勝利を疑っていない強者の仮面を、カルティケヤも子供達も信じ、だからこそ真実へと届かない。
いつもと変わらない。
ゼファーはどこまでも泥臭く、できることしかできない彼のまま、か細い勝機へ手を伸ばす。
ただ今回は勝つために、少しだけそれっぽく気取り、隠せる部分を隠しただけだ。
戦いの中で足掻き、足掻き、足掻き続け、みっともなく活路を探し続ける。
どんなに絶望的な状況でも諦めず、生き汚く食らいつき続ける。
そうやって繋いだ先に一筋の光明を見出し、勝利する。
生きること、生かすことを絶対に諦めないゼファーの戦い方は、どこでだって変わらない。
「何を、何をしてやがる……!? お、お前は一体何なんだ……!?」
追い詰められ、あと一歩で負けるという所になって、震える声でカルティケヤは叫ぶ。
その問いには既に答えた。だからこそ、ゼファーにはもう答える義務はない。
子供達には憧憬を、大人には恐怖を、友には信頼を、自身に向けられるそれら全てを受け止め、分不相応な身でゼファーはそこに立っている。
「きっと、そこに立っているのがあなたじゃなくて……
シラベだったとしたら、もっと苦戦してたと思いますよ」
ふと、ゼファーは一つ大切なことを思い出した。
ここに来た理由。調を探しに来たらこんな騒動に巻き込まれてしまったが、そもそもゼファーは調に会って、とりあえずでも何か話そうとここに来ていたのだ。
彼には調の友として、意味がなくても、彼女に言ってあげたいことが沢山あった。
「見えていない。
「な、何がだッ!」
「シラベには見えている、『大切なもの』が」
カルティケヤはその発言が、この連戦連勝の種だと思った。
しかし、違う。
ゼファーは目線をカルティケヤに向けるも、カルティケヤなんて見てはいなかった。
カルティケヤが周りを見る余裕があったなら、気付けたはずだ。
その場の子供達が、その言葉を聞き、皆一様に調に目をやっていたのだから。
子供達は、その言葉が誰に向けられたものかちゃんと分かっていた。
敵にヒントを与えるだけの発言なんかじゃないと、その発言の向きを分かっていた。
その言葉が、ゼファーが誰に贈った言葉なのか、それをちゃんと分かっていた。
『大切なものは目に見えない』。
カルティケヤには何も見えていない。だから虚像の怪物に、英雄に、膝を折っている。
調にはそれが見えている。その上で継ぎ接ぎの仮面の英雄に、自分の命すら預けてみせた。
この戦いの真の勝者はむしろ、月読調であるとすらゼファーは思う。
彼女がゼファーを信じ祈りを届けていなければ、この逆転はなかったかもしれない。
月読調は、目には見えないゼファーの強さを、信じていた。
ゼファーは調のそんな強さを、ちゃんと見ていてくれた。
(……ああ、そっか……)
少年の手には銃もなく、刃もなく、聖遺物もなく。
目には見えない戦場であっても、目には見えない銃を持ち、ゼファーは立ち向かう。
敵は科学者か? 大人か? 現実か? 運命か? 理不尽か?
なんだっていい。全てを打倒しなければ守れないものがあるのなら、同じことだ。
友の笑顔を守るため、それら全てを倒さなければならないのなら。
ゼファー・ウィンチェスターは、それら全てを倒すと決意するのだろう。
(私が夢見てたことって……こういうことだったんだ……)
悪い人が討たれ、悪いことをしていない子供が守られ、自分のピンチにはヒーローが駆け付けてくれて、自分のことを認めてくれる。
絵物語の中にはあって、遠い昔に調が夢見て、現実のどこにもなかった光景。
かつて指からするりと落ちていった夢が、希望と一緒に彼女の目の前にある。
歴戦の兵士ならば、戦場で一度は目にしたことのある光景、感じたことのある感覚。
敵対するものに恐怖を、味方するものに希望を与える、裏表の存在感。
英雄とその敵味方が時に戦場で見せる、一つの側面だ。
「
「ぐ、ぅ、くっ……!」
カルティケヤの手元にあった、最後のコインが吐き出される。
とても静かに、呆気無く、劇的な一発逆転などもなく。
劣勢の中みっともないくらいに食らいつき続け、足りない力量を戦いの中での成長で補い、じわりじわりと押し詰められる劣勢をじわりじわりと逆転する優勢へとひっくり返し。
その過程で、決定的にカルティケヤの心を折りながら。
真綿で首を締めるような戦いは、そうして決着した。
歓声が上がる。
スタジアムの叫び声の大合唱のようなものではなく、子供達がキャーキャーギャーギャー騒いでいるだけの不協和音。
音量が低いのに、耳を塞ぎたくなるような雑音の嵐だ。
そんな中、現実が信じられないように尻もちをつくカルティケヤの前に、ゼファーが立つ。
「一つ、勘違いを正しておきます」
カルティケヤが一歩、後ずさる。
彼の目には今、この少年がどう映っているのだろうか?
少なくとも、まっとうな人間には見えていないことだろう。
恐ろしいものに見えていることだけは、間違いない。
「俺はここに立った時点で、貴方に確実に勝てる保証を、何一つ持ってなかった。
前提も、能力も、作戦も、経験も、技術も、利運も、異能も、武器も、何もなかった」
「……は?」
「イカサマの仕込みも何一つありませんでしたよ」
直感の成長?
カルティケヤの癖?
時間経過によって増える判断材料によるアドバンテージ?
どれもこれも、偶発性とゲームの中で見つけ出した勝機ばかりだ。
人によっては「こんな大事な勝負に行き当たりばったりで」と冷や汗を流すほどのものだろう。
相手の心を折る勝利が大前提にあるというのに、むしろ負ける可能性の方が高かった。
ゼファーの直感が脳機能として分析可能なのだと知られている上、そのデータをカルティケヤが知っている可能性も十分にあった。
カードを持ち込んだのはカルティケヤで、勝負の前にカードに仕込みをされる可能性もあった。
カルティケヤが終始油断しなければ、冷静さを保っていたら、負ける確率は高かった。
インディアンポーカーを避けられていても勝ち目は大いに削られていた。
序盤から
ムラのある直感の調子が悪くなることも十分ありえた。
戦いの中で成長できなければ負けていた。
仲間の応援で限界を超えていなければ負けていた。
ハリボテの英雄の中身がバレれば、怪物の皮が剥がされれば、勝機は途切れていた。
負ける可能性は探せばいくらでも出て来て、勝ち筋は簡単に潰されかねないか細いものばかり。
「俺にあったのは、たった一つ」
しかし、彼は百度こういった状況に放り込まれれば、百度勝つだろう。
「ここで負けられない理由だけだ」
負けられない。だから勝つ。何度でも勝つ。ゆえに絶対に負けない。
理屈の根本がぶっ飛んでいる。
勝つべきだから勝つ、なんて理屈を口にして、それを現実にする尋常ならざる者。
跪く自分を見下ろす、目の前に立った既にただの子供ではない何かを目にして、カルティケヤは自分の心の芯にあった『何か』が、ぽっきりと折れる音を耳にした。
生命の天敵と英雄譚を同時に思わせる敵を前にして、「絶対に勝てない」と思い込まされた。
次があれば殺される、とすら思った。
負けられない理由があれば絶対に勝つ人間と戦って、どう勝てばいいというのか。
ゼファーの言葉を、子供の戯れ言と一蹴できず、それも当然かと思ってしまった時点で、彼の心は決定的に、絶対的に、敗北を認めてしまっていた。
「は、は、は」
ゼファーはカルティケヤに背を向け、子供達の居る方向へと歩いて行く。
その背中に、カルティケヤですら何かを見た。
遠い昔、子供の頃に見て、いつの日か忘れてしまっていた……そんな、何かを。
(勝てるわけがなかった)
虚ろな目で視線を向けてくるカルティケヤをよそに、ゼファーにベアトリーチェが、そして次々に子供達が抱きついていく。
ゼファーは戸惑いながらも怪我をさせないように子供達を降ろし、興奮気味の子供達をなだめすかしていく。子供達は、初めて見たのだろう。
この施設の中で、子供が大人を完膚なきまでに叩き伏せる光景を。
(次は、たぶん、ねえんだろうな……それに)
カルティケヤの視界の中で、
(俺に、『これ』が、潰せるのか? 潰して……もう何も思わないで、居られるのか)
カルティケヤはクズで、外道で、悪人で、子供の命を何の価値のあるものとも見ないで、鉛筆よりも軽い気持ちで子供達の命を手折り、使い潰してきた罪人だ。
救われる理由もない、救われるべきではない人間に区分される咎人だ。
重ねてきた罪への罰として、いつかみじめったらしく死すべき狂人だ。
それでも、どんな悪人であろうとも、人間である以上、共通する原風景がある。
(もう、モルモットに見えない、こいつらを……潰して……俺は……)
人間が人間を容赦無く傷付けられるのは、無知であるから。共感がないからだ。
相手が同じ人間に見えないから、あるいは相手の痛みが想像できないからだ。
別の人種、別の宗教の信徒、別の派閥、別の勢力の人間が同じ人間に見えないように。
素手より剣、剣より銃、銃よりミサイルの方が、相手の痛みが想像できない分、軽い気持ちで大きな痛みを与えられるように。
相手に共感をしなければしないほどに、人は他人に対して残酷になれる。
『それ』に憧れる気持ちは、きっと誰でも共感できるものだったから。
子供の頃に、多くの人間が一度は、憧れの気持ちを持つものだったから。
だから、カルティケヤはこの時初めて、自分が殺してきた子供達の『気持ちが分かってしまった』。子供達に、共感を抱いてしまった。
使い潰すためにある、何を考えているのかさっぱり分からない、相互理解のできないモルモットではなく、そこに生きている一つの命であると、ちゃんと理解できてしまっていた。
(ああ、そうか)
そうなってしまうと、もう止まらない。
殺してきた子供達の顔が、次々とカルティケヤの脳裏に蘇る。
苦しみながら死んだ子供、涙を流しながら断末魔の叫びを上げた子供、血を吐きながらむせ返る子供、眠るように息絶えた子供、吐瀉物に塗れながら窒息していった子供。
命乞いをして縋り付いてきた子供を、蹴り飛ばしたことすらある。
申し訳ないだとか、なんてことをしてしまったんだとか、そんな風に悔いる殊勝さも。漫画のような劇的な改心も、苛む自責の念もない。
ただ、胸の奥に泥のように積み重なっていく重い気持ちが、彼の中に生まれていた。
それは、罪悪感にも似た何かだったのかもしれない。
(これが、貴女の感じていた気持ちか……ナスターシャ主任……)
偽善者と嗤っていた上司の憂いた表情を、ふとカルティケヤは思い出す。
子供に対し優しさも徹底できず、厳しさも徹底できず、残酷さも徹底できず、何もかもが中途半端だと笑われていた、そんな彼女のことを。
彼女は自分が接した子供達を、笑顔や泣き顔を知っていた子供達を、時に同僚や部下が、時には自分の手が傷付け、殺していく日々を過ごし、どんな気持ちで居たのだろうか。
世界を救うための犠牲、そう割り切れればいい。
科学の発展のための犠牲、そう割り切れればいい。
こんなモルモットの死に心を痛める必要はない、そう割り切れればいい。
だが割り切らずに正気のまま、罪なき子供達の命をすり潰して行く日々を過ごすなど、それはただの苦行だ。拷問と言い換えてもいいだろう。
だからこそ、この施設はいつしか狂人『もどき』だらけになっていた。
ある者は辞め、あるものは自殺し、ある者は狂い。
誰もが正気のままではいられず、狂いきることもできず。
狂った人間でもなければ、同じ人間を、命乞いをする子供を殺すなどできようものか。
世界を救うためだと、世界を滅ぼす魔神を倒すためだと、科学の発展のためだと、そのために必要な人間を現世に留めておくためだと、そんな理由でか弱き命を踏み躙れるものか。
そんな狂気の中で、まともであり続けるナスターシャの強さを、彼はようやく理解した。
(そうだな、罪悪感があろうがなかろうが……死んだ奴からすれば何も変わらねえよな)
死した人間への罪悪。この施設の大人の誰もが背負っている罪科。
これまでの日々が重ねてきた、これからの日々も重ねていくであろう罪業。
どんなにまともな人間であろうが、どんなに懸命に贖罪を重ねようが、どんなに過去を悔やもうが、過去は変わらない。死んでいった人間は蘇らない。
ナスターシャは、カルティケヤは、自分達が裁かれるべき人間だと思っている。
この施設の大人達は、誰もがそうだろう。
自身の罪を自覚し、いつか来るであろう罰を覚悟し、それでも罪を重ね続ける。
『悪いこと』をしているのだと自覚し、それでも『やらなければならないこと』を見据え、『子供が真似をしてはならない大人』で居続ける。
人殺しが罪悪であると知りながら、国を守り戦場で人を殺し続ける兵士のように。
彼らは汚れている自覚がある。
かつて忌避していた何かを平気でしてしまっている自覚もある。
子供の頃の自分が今の自分を見れば、軽蔑するであろう自覚がある。
それでもそんな自分に妥協しつつ、子供の頃になりたかった大人になれていない自分を見据えながら、しなければならないことを自覚し、したいもないことを繰り返す。
したいことではなく、しなければならないことをこなす。
たとえそれが、どんな理由があろうと許されるはずもない、子供殺しの罪であったとしても。
完全に善である人間も、完全に悪である人間も居ない。
どんな人間であっても、どこか共感を抱ける部分というものは必ずあるはずだ。
多かれ少なかれ、量と見つけにくさに差はあれど。サイコパスにすら程度はある。
じゃれつく子供達の頭をゼファーが撫でる光景を見て、カルティケヤはどこか懐かしい気持ちを抱く。戻れない過去の日々を思い返す。
かつて遠い日に抱いていた想いが胸の奥に蘇り、夢の残滓が胸を痛ませる。
子供の頃は、ああしてただ憧れていたのだと、そう思う。
『ああいうもの』に純粋な憧憬を向けていたのだと、そう思う。
そして、もうああはなれないと、突き付けられた現実を噛み締める。
月読調は、かつて見た夢を続きを見る権利を取り戻した。
カルティケヤは、かつて見た夢の終わりを自覚した。
どうしようもなく違う、二人の違いが、二人に違う結末をもたらした。
その輝かしい光景に、素敵な人の輪の中に、救われる者達のコミュニティの中に、混ざれないことを突き付けられる事こそが。
あるいは、彼に対する最も残酷な罰だったのかもしれない。
子供達を残酷に殺したからこそ、子供達のような救いが与えられないということを知らしめる光景。もしかしたらそれは、死した子供達がカルティケヤに与えた罰だったのかもしれない。
一瞬、子供達の輪の中から、月読調がカルティケヤに視線をやる。
先程までゼファー達に向けていた暖かみのある視線はどこへやら、その視線はぞっとするくらい冷たく、無関心と嫌悪が半々の、人形が人に向けるそれとはかけ離れた視線。
「俺を醜悪とそしるかい、嬢ちゃんよ……」
ゼファーがこの戦いに勝てた要因の一つに、周囲の誤認がある。
カルティケヤは、完全に場の雰囲気に飲まれていた。
ゼファーと、ゼファーの背中に魅せられた子供達の雰囲気に呑まれ、判断能力を鈍らせていた。
ありもしない怪物を、居もしない英雄を見て、彼は負けた。
不安に揺らぎ怯える子供達を見て、すぐにでも安心させたやりたい弱った調を見て、そしてカルティケヤ相手に僅かでも勝機を見出すために、ゼファーは意図して『英雄』を演じた。
自分がそんな器でないと分かっていても、そう在ることでこの場の結末すら変えてみせた。
ならばそれは、本当の英雄の所業と何が違うのか。
子供達の視点。
颯爽と現れ、調を救い、大人を大人の土俵でこてんぱんにやっつけてくれたヒーロー。
カルティケヤの視点。
得体のしれない底知れなさを持つ、もう二度と逆らう気の起きない相手。
ゼファー視点。
ハッタリと行き当たりばったりと味方してくれた運による、綱渡りのような勝利。
調の視点。
似合わないことして頑張ってくれた友達、不格好な王子様。
本人からすれば一回こっきりの成功、偶然に重なった偶然、そう思っているだろう。
勝てた事自体、周りを騙しきれた事自体、奇跡だと思っているに違いない。
それが幸運によるものなのかは別として、彼は成し遂げた。
カルティケヤはゼファーの内心を知るよしもない。
改心には程遠く、以前の残酷さを残しながら、心の芯にあった『何か』が折れただけの状態。
戦いの前の彼の心中を考えれば、逆上して襲いかかることすらあったかもしれない。
それでも不思議と、悪い気持ちではなかった。
善が報われ、悪には報いがあり。
そんな当たり前がそこにあってくれたことが……何故か、彼は嬉しかった。
それが悪人の気の迷いだったのか、彼に残されていた人らしさだったのかは、分からない。
「大丈夫か?」
「うん、もう平気」
群がる子供達を怪我させないよう優しく振り切り、ようやくゼファーは調の元まで辿り着いた。
意識も朦朧としていた先程までと比べて幾分回復したようで、顔色もいい。
実は勝負の間も心配で、時々集中が切れてそっちに意識が向いていたゼファー。
友達が傷付けばそちらが気になってしまう、彼はそういう少年である。
カルティケヤに気付かれていたら、結構危なかったかもしれない。
「さっすがゼファー! オトコノコねっ!」
「お、おつかれさまです……」
「二人もありがとうな」
幼いながらに任された責任を彼女らなりに果たしてくれた、双子の姉妹。
感謝の意を込めて、ゼファーは二人の頭の上にポンポンと手を置いた。
くすぐったそうにする二人が彼に向ける親愛は、まるで兄に向けるそれのようだ。
二人に感謝を述べた後、ゼファーはどこか気もそぞろに調の頭の周りを診てみる。
少し青くなっている部分、血が出てしまっている部分もあるが、それ以外に別状はない。
傷に触れて痛ませないようにと優しくする手つきや、特に大きな怪我もないことを確認した時のホッとした様子が、思われているということを否応なく意識させて、どこか調は気恥ずかしかったりしたのだが、顔には出さない。浮かぶのはいつもの無表情だ。
「うん、後で軽く手当てしておこうか。ちょっと血も出てるし」
「心配しすぎ。意地を張って頭を下げなかった、私の自業自得でもあるし」
調も、少し意地になっていた自覚はあったようだ。
今まで何年もかけて溜まりに溜まっていた鬱憤があったのかもしれない。
普段の調なら、相手を怒らせてしまうことで、自分も双子姉妹もまとめてひどいことをされる可能性に思い至っていただろう。
調は勇気を振り絞ったことを後悔はしていないが、少なくともこの怪我は自分の行動から出た錆だと、そう認識していた。
顔に感情はあまり出さないくせに、一度感情を爆発させると凄まじいキレ方をするという調の新たな一面を見て、ゼファーは苦笑しながら、彼女の傷を綺麗な布で軽く拭く。
「下げたくない頭は下げなくていいんだ。
お前の頭を無理やり押し下げようとしてくる奴が居たら、その時は呼べ。
その時に行けたら行くからさ」
「……いつでもどこでも駆けつけるとか、そういう風には言ってくれないの?」
「む」
その台詞は彼なりの気遣いで、非常に現実的ではあったのだが……ちょっと配慮が足らない。
こういう時に男が女に言うべき台詞は、現実に地に足ついた台詞より、少し夢を見せるくらいがちょうどいいのだ。……それを現実に実行できるかどうかは別として。
気を張って大言を吐きそれを現実にするゼファーの偽装ヒーロータイムも、どうやら時間切れのご様子。どこか不安定というか打たれ弱そうな雰囲気が戻って来ていた。
ゼファーは失言をどうにか取り繕おうと、上手いこと何か言えないかと頭をウンウン回し、最終的に諦めた。南無三。
「……すまん」
「考えた末の返答がそれ?」
結局の所、ゼファーは上っ面だけの台詞が苦手なままだった。
戦いが終われば元通り。先程までの頼りになる背中はどこへやら。
まるで別人のように頼りなくなったゼファーを見て、しょうがないなぁと調は息を吐く。
そして呆れたような様子を見せてから、とても綺麗に笑った。
「あっ」
「? どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
その笑顔を見ただけで、ゼファーは全ての苦労が報われた気分になれた。
頭の痛みも、全身の疲れも、倦怠感も何処かへ吹っ飛んでいってしまう。
ゼファーはこの日初めて、月読調の笑顔を見た。
「少しは仲良くなれたんだろうか」と思い、不思議な達成感に満たされる。
こうして友の知らない顔を知っていく過程が、きっと仲良くなるということなのだ。
(この笑顔が報酬なら、貰い過ぎなくらいだ)
誰かの笑顔を守るためだけに戦える。
誰かの笑顔だけを報酬に頑張れる。
その人を守るだけでなく、その笑顔も守れる。
それもまた、英雄に求められる資質の一つなのだろう。
この日の感動が、いつの日か、彼の背を押すこともあるはずだ。
「こういう時は……そうそう、『どっとはらい』。だね?」
そんな感無量に浸っていたゼファーの後ろから、ひょこっとセレナが現れる。
「あ……セレナ? もしかして途中から見てたの?」
「ううん、最初からだよ。
ゼファーくんに頼まれて、大変なことになりそうだったらマムを呼んできてって、
そう頼まれてずっと隠れてたの。この部屋の前まではゼファーくんと一緒に来てたよ?」
「え?」
「ゼファーくんは負けても、調ちゃん達を守るための手を打ってたってことだよ」
「できることは全部やっとくのが俺の戦い方なんだよ。思いつかなかったことは出来ないけどさ」
この戦いの勝敗は、いつ決まったのか?
強いて言うならば、『彼』の敗北は戦いが始まったその瞬間に確定していた。
無論、ゼファーは本気で戦った。
後顧の憂いを絶つため、最高の結末に至るため、そのためには完膚なきまでにカルティケヤを叩き伏せ、勝利する必要があった。
もしもカードで負けていたら、ゼファーの大切なものが何か失われていたかもしれない。
無論、カルティケヤも本気で戦った。
ただ、戦いの前にカルティケヤの勝ちの可能性は全て摘み取られていただけで。
「格好いいヒーローならこんなことする必要ないんだろうけどさ、生憎これが今の俺の精一杯だ」
「ううん、十分格好良かったよ。ゼファーは、私の信頼に応えてくれた」
ゼファーはそんな自分を情けなく思っているようで、少し恥ずかしそうに髪をかく。
そんな功績の過小評価を、調は真面目な顔で真っ直ぐに戒める。
胸を張れと、彼女は言っている。
もうちょっと待ってくれと、自分に成長を誓った彼は無言でヘタれる。
まだまだ卵でしかない彼は、これでもまだ自分に自信を持てていないのだろう。
「ところでDr.カルティケヤどっか行っちゃったけどいいの?」
「えっ」
「えっ」
声を揃えるゼファーと調。忽然と消えたカルティケヤ。
なんてことはない。子供達がゼファーに群がっていた間に、ゼファーと調が話していた間に、スタコラサッサと彼は逃げ出していたのだった。
「あんにゃろう、頭下げろって約束だったのに……!」
「お、落ち着いて。私は別に気にしてないから」
「悪い事したら頭下げて『ごめんなさい』だろう?
大人だろうと子供だろうとそうだ。少なくとも、俺はそう教えられてきたんだ」
「うーん、ゼファーくんは平常運転だね……でも、今の時間分かってる?
ゼファーくんとドクター、何時間もカードしてたけど、多分時計一度も見てなかったでしょ?」
「え? ……うわ、もうこんな時間!? 夕飯の時間に入ってる!?」
「もう今日はご飯食べてお風呂入って、それでおしまい。そうでしょ?」
「……まあ、そうだな。なんか俺釈然としないが」
「どんまい」
セレナがゼファーを説き伏せ、子供達を纏めて食堂に誘導し始める。
ゼファーとしてはカルティケヤに頭を下げさせ、調に対する暴力の意趣返しとしてやりたかったのだが、どうにも最後にケチが付いた気分となってしまった。
調からすればこの上ないくらいにスッキリした気分なのだが、ゼファーの気持ちも分からなくはないので「どんまい」と一言。
セレナは穏やかな気性から子供にも好かれるのか、彼女の号令で部屋の子供達は二列に並んで部屋から出て行く。目指すは本日、カレー配膳予定の食堂である。
子供達の足が早まるのも当然と言えた。
そんな子供達の列からはぐれる子が出ないように、最後尾にゼファーと調が付く。
二人の視線は、笑顔のセレナに手を引かれ、ついていく子供達へ。
調の勇気が、ゼファーの健闘が、今日ここで二人が守った、そんな子供達へ。
ゼファーも調も、積極的に話を振っていくタイプではない。
だからこそ、無言で伝わるものもある。
「なあ、シラベ」
二人揃って何かに感じ入る中で、ゼファーが呟くように、言葉を口にする。
「これまでも、これからも、お前が望む限りずっと、俺はお前の味方だ。
お前が何かに立ち向かって、負けそうになった時は呼んでくれ。
頼りないかもしれないけど、いつでもどこでも駆けつけるから」
改めて、少しだけ格好をつけた本音で、彼はそういった。
それが最後のひと押しだったのかもしれない。
月読調が求めた人。
自分を肯定してくれる、味方で居てくれる、大切なものをちゃんと見てくれる、そんな王子様。
思っていたよりずっとダメで、きっと手を貸さないといつかどこかで倒れてしまう。
それでもいいと、むしろいいと、彼女にはそう思えた。
友達で居れることが誇らしい、そんな彼女の友達がまた増えた。
勇気をくれるだけでなく、必要な勇気の半分を背負ってくれる友達と、彼女は出会えた。
ゼファーに後ろから抱きついて、調はその背中に顔を押し付ける。
何年も沈殿し続けた想い。殺されるかも、と思った今日の恐怖。
胸を晴れる誇らしさ。途方も無い嬉しさ。
彼女の中にある感情のゲージが振り切れて、そこから溢れ出たものが瞳から頬を伝う。
「シラベ……?」
「大丈夫、ちゃんと笑ってるよ。
なんでか、嬉しい気持ちに反比例して涙が溢れちゃってるだけで」
ゼファーの心配そうな声を聞きつつ、調はぐしぐしと顔を彼の背中に押し付ける。
泣いている顔を見られたくないのか、ゼファーの背中をハンカチ代わりに使っているのか。
あるいは両方かもしれない。というか両方なのだろう。
「こういう時、どうすればいいのか分からないから。
『ありがとう』ってどういう顔で言えばいいのか、分からないから。
このまま聞いてくれると……嬉しい」
涙を流している顔も、流した涙をちゃんと拭いていない顔も、乙女としては見せられないのだ。
「ありがとう」
それに、感謝の言葉は泣きながら言うものではないと、調はちゃんと知っている。
「どういたしまして」
だからゼファーも、なんで背中に抱きついているのか問うなどと、無粋な真似はしない。
彼にデリカシーがあるからではない。
直感がなんとなくそうしておけと言っているからだ。
「不器用で、ごめんなさい」
「いいってことよ」
不器用、というフレーズを聞いた時、ゼファーの頭の中で何かが噛み合う音がした。
(ああ、そうか)
不器用だとか、熱のない顔だとか、人間味がないだとか。
それは全部、昔のゼファーが言われていたことだった。
クリスと出会い、いつからか言われなくなったことだった。
ゼファーが調を大切に想い、救おうという気持ちを強く持てたのも当然といった所だろう。
月読調は、かつてのゼファー・ウィンチェスターでもあったのだ。
彼が心の蓋の奥に封じた記憶の中で、救われる前の彼自身であったのだ。
親友に英語訛りの日本語を話すハーフの少女、というものに思う所があるだけに、尚更に。
思い出さないように、思い出さないようにと生きていたとしても、心に刻んだ思い出の数々が、ゼファーの中に彼女への共感を産んでいたのだろう。
時に人の死や喪失があったとしても、人生はそこで終わりではない。
辛い過去を持った人間、過去に傷を付けられた人間として、人はその先を生きていく。
命は死して終わりにはならないのだ。
ゼファーがかつて親しかった者達の存在を、自分なりに消化し始めているように。
「いつか……いつか、私も、ゼファーが困ってる時に、助けに行くから」
「期待してる、アミーゴ」
人が人と関わり合うという事とはどういうことか?
人によってその答えは違うだろう。
ゼファーに問うても、その答えはまだぼんやりとしてまだ定まっていないだろう。
負に負をかけたら正となる。数学の基本だ。
ゼファーは基本中の基本となる四則演算しかできない。
それでも、彼はそれを頭ではなく心で知っていた。
その人生が、負でしかなくとも。
負の人生と負の人生を掛け合わせれば、きっと正の方向に進んでいける。
人と人が関わり合うということは、そういうことなのだと、彼は知っていた。
負と負をかけて、正になる。正と正をかけて正になる。いつしかみんな正になる。
負に戻ってしまうのだとしても、それでも負の人と関わろうとすることをやめない。
自分が正でその人が負なら、一緒に負になって、その後一緒に正になればいい。
一緒に落ちる覚悟さえあれば、一緒に落ちても構わないと思える友情があれば。
きっとみんなで、一緒に幸せになれる。
みんなで正を、生を掴める。
少年が少しだけ、夢見た世界。
星の王子様は、いつだってか弱い一輪の花の味方だった。
ただ一輪の花のために