戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ   作:ルシエド

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  ελωι ελωι λιμα σαβαχθανει
「神よ、神よ、どうして私を見捨てたのですか」


2

 きっかけは些細な事だった。

 けれどきっかけがどうであろうが、行き過ぎてしまえば同じこと。

 切歌は少し気が立っていたとある研究者とトラブルを起こし、口論になってしまっていた。

 いつもはほどほどな部分で妥協していた切歌も、どこかでカチンと来たのかヒートアップしてしまい、口論は加速度的に激しくなっていく。

 

 この件に関して、実はゼファーも完全に無関係であるとは言いがたい。

 彼はやむを得ずそうしたことも多かったが、大人に対して勝つ姿を見せすぎた。

 それがその場しのぎのものでしかないことは彼が一番良く知っていたが、外野から見ている子供達からはそう見えない。子供達は相当大人を甘く見、言い変えれば舐め始めていた。

 研究者達が絶対的な加害者であるという認識が揺らぎ、逆らうという行為に対する危機感、逆らったらどうなるかという恐怖が悪い意味で薄れ始める。

 それは英雄的な個人や、大規模な政変・革命で貴族と平民の間に絶対的な力の差が存在しなくなり、平民が貴族に対し略奪や暴力に走る現象にも似ていた。

 権力、人数、装備、体格、腕力、能力。何一つとして大人には遠く及ばないにも関わらず、力関係がほんのわずか揺らいだだけで、弱者が強者を舐めるという愚行。

 

 ゼファー自身もまだ、『子供達に何を見せているか』の自覚がなかったこの頃。

 切歌もまた、ゼファーの見せたものに影響されていたことは間違いない。

 彼女が色々なことを楽観的に、甘く見ていたことに言い訳の余地はないだろう。

 ゼファーが見せた希望は、彼の未熟さゆえに個人個人の中で方向性を定められず、形にならない楽観として一部の子供に定着し始めてしまっていた。

 

 

「―――!」

 

「―――!」

 

 

 だから、必然だったのかもしれない。

 口論からの紆余曲折を経て、その研究者が切歌に向かって手を振り上げる。

 来るであろう痛みに備え、口を真一文字に結んで目を瞑る。

 しかし彼女の予想に反し、痛みはいつまでもやって来なかった。

 

 

「やめてください、アートレイデさん」

 

「……ウィンチェスターか。そこをどけ」

 

 

 声が聞こえ、眼を開く。

 そこには研究員の姿と、切歌もすっかり見慣れた背中があった。

 いつの間にか間に入っていた、友達が居てくれた。

 思わず、息を呑む。

 

 熱くなってしまっている研究員が、拳を振りかぶる。

 切歌があっと声を上げる間もなく、それはゼファーの頬へと叩き込まれていた。

 その衝撃にゼファーはよろめくも、倒れないようにと踏ん張って持ちこたえる。

 全力ではないだろう。アートレイデと呼ばれた研究員も、そこそこに手は抜いたはずだ。

 しかし痛みに敏感な子供であれば、泣いて心折れてもおかしくはない痛み。

 転んで、すりむいて、それで泣いてしまうのがこの年頃の子供の『普通』。

 

 

「そこをどけ」

 

「どきません」

 

 

 しかし、ゼファーは背筋をピンと伸ばして立ち、真っ直ぐに研究員を見る。

 敵意もない。怒りもない。憎しみもない。

 歳相応とはとても言えない強い瞳で、研究員を視線で刺す。

 いつの間にか、研究員は切歌ではなく、ゼファーだけを見ていた。

 赤く腫れ始めた頬に手もやらず、少年は口を開いて問いかける。

 

 

「アートレイデさん。俺はあなたが意味もなく暴力を振るう人じゃないって思ってます。

 少ししか話したことないですけど、そう思ってます。

 ナスターシャ先生も有望な方だと言っていました。

 世界を救うため、ここに志願してくれている、本来脚光を浴びているはずの方だと」

 

 

 ロクに話したこともないくせに知った風な口を、と研究者が眉に皺を寄せる。

 けれどなぜか、その言葉は彼の中にすっと入っていった。

 それは本当に、その研究員がやや短気で生真面目なだけで、理由もなく暴力を振るう人間ではなかったからからだろう。付き合いが短かろうと、ゼファーが口にしているのは彼の本質の一端。

 ゼファーは相手の中の、目には見えない大切なものを見る。

 子供と大人の間に立ち、子供を庇い、大人を擁護する。

 彼が誰の味方なのか、知らない人間が見ても一目では分からないかもしれない。

 

 

「この子が何か失礼をしたのなら、俺が謝ります」

 

 

 ゼファーは深く、ナスターシャに習った正しい形式で、研究員に向かって頭を下げる。

 

 

「あなたがF.I.S.(ここ)でしたかったことは、子供を殴ることなんですか?

 そうならいいです。この子の代わりに、俺を何度でも殴って下さい。

 でも、そうでないのなら」

 

 

 世界のために、研究のために、科学のために、いつの日か多くの人を救うために。

 そのためにこの若き研究員はここに来た。

 一見20代であるその若さでここに居ることからも、その情熱と能力は伺える。

 子供に手を上げるのは否定されるべきことだろう。

 しかしその初志は、否定されるべきことではなく。

 そんな本人ですら忘れかけている大切なものを、ゼファーは見逃さない。

 

 

「あなたの中のその大切な初志を、あなたが踏み付けないであげて下さい」

 

 

 子供を平気で踏み躙る人間も居るだろう。

 人の命を犠牲にすることに妥協し納得してしまった人間も居るだろう。

 だが、しかし。

 現実に打ちのめされるその過程で倫理を投げ捨てようと、人を殺すため、子供を傷付けるためにこの研究所に集まった者など、誰一人として居ない。

 事実そうであるし、ゼファーはそうであって欲しいと、そう信じていた。

 

 その研究員は、頭を沸かせていた熱が引いていくのを感じていた。

 私は何をしているんだ、と思い。

 子供相手にムキになっていた自分を恥じ。

 一個人として認めているとはいえ、子供に諭された自分を情けなく思う。

 不快感はない。ただ、間違った道に進みそうになっていた所を正された実感と、そこはかとなく感じる感謝の気持ちがあった。

 

 

「……頭を冷やしてこよう。私も少し、いや、かなり熱くなっていたようだ」

 

 

 アートレイドと呼ばれた若い男の研究員は、自分が殴った結果、赤く腫れてしまっているゼファーの頬を見て表情を歪め、背を向ける。

 

 

「すまなかった。君に殴られる謂れはなかった」

 

 

 そして、申し訳無さそうに一言だけ口にして、去って行った。

 

 

「……ふぅ。キリカ、怪我はないか?」

 

「怪我してるのはあんたでしょうがッ!」

 

 

 開口一番切歌の怪我の心配をする彼に、切歌のツッコミが冴え渡る。

 切歌が頬を見てみるものの、少し赤く腫れているだけのようだ。

 それよりも本人曰く、口の中が切れた部分の方が痛いらしい。

 そのまま何事もなかったかのようにどこかへ行こうとするゼファーの腕を無理やり引っ張り、医務室へと連れて行き、湿布を貼る切歌の姿があったとか。

 

 

「で、何があったんだ? 俺は経緯を何も知らないんだが」

 

「えーと、デスね」

 

 

 内心「湿布ちょっと臭い」と思いつつ、ゼファーは切歌にことの詳細を問い質した。

 事の始まりは、廊下を歩いていた切歌が服装を注意されたことだという。

 そこで流していれば事はそれだけで済んだのだが、切歌がやや刺のある言い方で返し、研究員も同じように刺のある言い方で返し、口論がエスカレート。

 研究員が手を自分に向かって伸ばしてきたことで、反抗心と恐怖心が吹き出してしまった切歌がガブリとその手に噛み付いてしまう。

 研究員の手から出た血を見てさっと血の気が引き、この時点で切歌は頭に上った血が戻って行ったようだ。しかし、噛まれた研究員はそうは行かない。

 そこまで行けば大人でも、流石に手を上げるだろう。

 どちらかが決定的に悪い、という話ではなかった。

 だが、日常のトラブルというものは大抵そんなものなのだと、ゼファーは学習しつつあった。

 

 ゼファーの知るアートレイデという研究員は、かなり真面目な青年だ。

 おそらくは切歌に善意から忠告し、日常でなんらかのストレスが溜まっていた所に好意を無下にされ、文字通り飼い犬に手を噛まれたことでカッとなってしまったのだろう。

 ゼファーはそう推測する。

 そして切歌に、その推測をそのまま伝えた。

 

 

「嫌わないでやってくれ。あの人なりの気遣いだったんだ、きっと。

 もし次に会う時があったら、二人で頭下げてごめんなさいって言ってさ、仲直りしてくれよ?」

 

 

 切歌は研究員に殴られて腫れた顔で、切れた口で、そんなことを言う友人を見る。

 そういえば、あの研究員とは何度か会ったこともあるのに、名前すら覚えていなかったな、と切歌は思う。その研究員が名前を呼ばれていた覚えは何度かあったというのに。

 切歌が名前を覚えている研究者など、ほんの数人だ。

 調がそうであったように、この施設の子供達にとって研究者達の大半は同じ生物とも思えない、そんな怪物のように見えている。

 だから顔も、名前も覚えない。そこで生きている、一人の人間だと思えていないから。

 

 しかし、それはお互い様だろう。

 書類の上の生体データと、識別番号代わりの顔写真と名前しか見ていない研究者だって居る。

 そういう研究者は、手元に書類がなければ、きっと子供達の顔を見ても名前が浮かばない。

 それは個人を覚えるのではなく、ゲームカセットをラベルで覚えるようなものだ。

 研究者の大半もまた、子供をそこで生きている一人の人間であるとしっかり認識できていない。

 あるいは、あえて認識しないようにしている。

 

 子供の個性ではなく、子供に付けられたラベルを見ている、そんな研究者だって居る。

 研究者達は皆同じで非道な心のない生き物なんだ、と思っている子供も多い。

 今はまだ、だが。

 現状は相互にそういう認識が染み付いていて、この関係は揺らぎそうにない。

 

 

「なんで、ゼファーは……あんな奴らの味方ができるんデスか?」

 

 

 切歌はゼファーの目を見据え、虚偽の返答を許さない様子で問いかける。

 彼女には分からなかった。彼が子供の味方だけをしない理由が分からなかった。

 ゼファーが子供の、特にセレナ達親しい友人の味方をするのは分かる。

 そこには分かりやすい好意があり、切歌も自分に向けられるそれを感じていた。

 

 だが、研究者達は違う。大人達はゼファーに痛みや苦悩は与えども、それ以外の何かを彼にもたらしたことはなかったはずだ。

 ナスターシャは例外。それ以外の大人には誰にも、ゼファーは恩や好意を抱いていない。

 見ていれば分かる。ゼファーは大人に対しては、そういうもの以外の理由で動いている。

 この施設を変えるきっかけを模索する、それだけが理由ではない。

 

 自分に対し害しか与えない大人に対しても、ゼファーは悪意を抱かない。

 僅かながらも好意を抱くことすらある。その人の中の何かを信じることすらある。

 そうして、大人と話し、切歌も知らない所でああいう研究員達と交流を持ち、人と人の間に立って仲裁と橋渡しを繰り返している。

 

 

「あんな悪者達と仲良くしなくたって、あたし達の味方だけしてればいいじゃないデスか!」

 

 

 暁切歌には分からない。

 本当に追い込まれた時に、大切な人だけの味方になろうとする彼女には。

 そのためになんだって切り刻める彼女には。

 自分にとって何が大切なのか、自分が誰の味方なのか、それを揺らがせない彼女には。

 全員の味方をしようとしているゼファーの気持ちが、分からない。

 

 

「本当は誰だって、誰のことも傷付けたくないはずなんだ。あの人達だって、きっと」

 

「……そんな綺麗事を、本気で信じてるデスか?」

 

「信じきれてない。だから、信じたいんだ」

 

 

 研究者達を悪者と断じる切歌に、ゼファーは彼の中のか弱い希望を語る。

 それは夢想を通り越して、神様に荒唐無稽な祈りを捧げているのに近い、そんなリアリストに鼻で笑われるような言葉。

 数え切れない子供の死体が積み重なっているこの施設で、誰も語ろうとはしない綺麗事だ。

 本当は誰も誰のことも傷付けたくないなどと、今時子供ですら言いやしないだろう。

 そして、暁切歌はどちらかと言えばリアリストだ。

 彼女はその綺麗事を否定しようとするも、思わず言葉に詰まる。

 

 なんとなく、彼女の瞳に映る友達の横顔が、あと少しで泣いてしまいそうに見えたから。

 「信じたい」という言葉に込められた彼の想いが、彼女の中でやけに重く感じ始めた。

 荒唐無稽な綺麗事であると、あるいは彼が一番強くそう思っているのかもしれない。

 まるで砂の城のような「信じたい」だと、切歌は思う。

 

 偽善者にすらなれない、脆く壊れそうな横顔が、彼女の目に焼き付いていた。

 

 

「……ねえ、」

 

 

 辛いなら、誰も責めやしないから、全部投げ出してしまえばいい。そう切歌が言おうとした所に、バーンとドアを開けて医務室に誰かが乱入してきた。

 

 

「あ、どこにもいないとおもったらこんなところに!」

 

 

 菖蒲色の長い髪、幼い容姿。一人称だけがわたくしと高貴な、ややアホ気味の幼女。

 最年少組の双子の片割れが医務室に駆け込んで来て、二人を見た途端ぱぁっと顔を輝かせた。

 子供とはいえ年長の風格か、ゼファーと切歌は空気をカチリと切り替える。

 

 

「あ、ベアトリーチェ。何か用デスか?」

 

「何か用もなにも、切歌がトラブってるって俺に知らせてくれたのはベアトだよ」

 

「なんと! なら恩人デスねー」

 

「ふっふーん。ほめていいよ?」

 

「よしよし、俺が頭を撫でてやろう」

 

「んっ……わたくし、ほめられたらのびるたいぷよ。のびなくてもほめられたいけど」

 

「お前結構図々しいな」

 

「褒められたら背が伸びるとかないデスかねー……」

 

「キリカとシラベはあんまり伸びない気がする。俺の勘だけど」

 

「やめるデス! 他の誰かならまだしもゼファーのだけはシャレにならんデスッ!」

 

 

 結局、ベアトリーチェの登場により、色々と曖昧なままに終わってしまった。

 まあそれならそれいいかとも、皆がぼんやりと思う日々が続いて行く。

 今すぐに何かをどうこうしなければという危機感が、数人を除いて薄れて行く。

 こんな時間がいつまでも続いてくれればいいのにと、そんな届かない祈りが溢れて行く。

 そう。祈りは届かない。誰にも聞き届けてもらえない。

 

 この世界に、誰かの祈りを聞き届けてくれる神様が居ないから。

 祈りを聞くはずの神様が居ない世界だからこそ、どこかの誰かが奮い立たせる決意がある。

 痛みを伴いながら、どこかの誰かが立たねばならない時がやってくる。

 

 英雄が必要とされるのは、その世界に神が居ないからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第七話:Hero/Heroine/Sunlight 2

 

 

 

 

 

 

 

 

「……きっつ」

 

 

 その日、ゼファーの体調はかつてないほどに最悪だった。

 ウェル博士の痛い所をねちねち突いて来る言葉が効いて来たのか。

 あるいは研究者達と交渉、対決、仲裁の度に対峙する日々が精神的に疲労させたのか。

 それとも授業とその復習、子供達の遊び相手、他人の手伝い等で疲弊していたのか。

 もしくは夜ごと現状の打開策を練り直し悩み続けた結果の消耗か。

 はたまたそのどれでもないゼファーの背負っている別の何かか。

 結果としてだが、そのタイミングでゼファーが例の悪夢を見たことが重なって、彼は精神的にも肉体的にも活力を吐き出しきってしまい、床に座り込んでしまっていた。

 

 ゼファーは少し、立っていられないほどに色々と疲れていた。

 頻度も影響も下がり始めているとはいえ、死人が出てくる闇色の泥の夢は、ゼファーをかつて精神的ダメージと嘔吐の窒息で死なせかけたほどのものだ。

 それは彼が個人個人の生を重んじているということの証明であり、いまだに死人の死と向き合い過去にする強さを持てていない証明でもある。

 悪い言い方をすれば、死人をいつまで経っても忘れられずにウジウジしている。

 良い言い方をすれば、死人を軽んじることだけは絶対にしない。

 結果、ゼファーは部屋を出て少しの所の廊下で座り込む。

 ずりずりと壁で背中をこすりながらゆっくりと床に引っ張られて行き、やがて立ち上がれなくなる。ここまでどうしようもない感じの虚脱は初めてだと、彼は思う。

 

 手足を動かそうとしても動かない。

 完全に動かないわけではないが、ほんの少し動くだけで拳を握ることも難しい。

 全身の大部分の感覚がぼんやりとしたまま、どこか回線が間違って繋がっているような感覚もある。正座の痺れが全身に回っている、と考えれば近いだろうか。

 息をするにも少し苦しく、目眩までしてきたようだ。

 疲労に精神的外傷の後遺症が重なったのもあるだろうが、これは純粋に気力が尽きたことが原因だろう。カルティケヤ戦以降の二週間連戦の疲労が抜け切っていないこともそこに拍車をかける。

 生半可な不調であれば、ゼファーは気合で乗り越える。その気力が尽きかけているのだ。

 休息を取れば回復もするのだろうが、今のゼファーはまっとうに休息を取る気が全くない。

 

 

(……あー、今日もやっとかないといけないことが沢山あるのに……)

 

 

 勉強の復習、落ちてきた体力の鍛え直し、カルティケヤとの打ち合わせ、そしてウェルに繋ぎを取ってもらった穏健な研究者派閥の人間との会談。

 やるべきことが多いのに、と自分の体を不甲斐なく思う。

 やるべきことを多く考えすぎている、という点に原因があるというのに、だ。

 今日突発的に悪夢を見て気力が尽きたというだけで、いずれはどこかで破綻していただろう。

 

 

「……え?」

 

「?」

 

 

 そんなゼファーの耳に入る声。

 気怠い気分を押して顔をゆっくりと上げていくと、上がり切る前に襟を掴まれた。

 そしてグワングワンと揺らされる。

 小さな手と小さな体格でさして頭は揺れなかったものの、気分は盛大に悪化した。

 

 

「ど、どどどどーしたの!?」

 

「ん、んんんんん、ベアトリーチェ?」

 

 

 真っ青な顔のゼファーに焦るのは分かるが、明らかに幼女の行動は彼の体調を悪化させている。

 落ち着けという意味なのか、それともタップを意味するのかゼファーの手の平がポンポンと襟を掴む彼女の手を叩き、とりあえずでも降ろさせる。

 しかし先程より力なく、座るどころか床に横たわったゼファーを見て、彼女は落ち着くどころかむしろ加速度的にテンパりだした。

 

 

「びょーき!? けが!? あわわわ、いむしついむしつ!」

 

「え、いやちょっと待―――」

 

 

 年齢が片手で数えられる非力な幼女に年上の男が運べるのか?

 大抵の人間に聞けば、ノーと答えが返って来るだろう。

 しかしなんと数分後には、医務室で寝かせられているゼファーと満足気に額の汗を拭くベアトリーチェの姿があった。

 

 

「これでよし!」

 

「……俺もまさか運搬用カートに乗せられる日が来るとは思わなかったわ」

 

 

 ベアトリーチェは子供特有の視野の狭さはどこへやら、ゼファーを一旦放置して用務室に直行。

 そこでスーパーのカートと似て非なる業務用カートをかっぱらい、カートを押してゼファーの元まで走っていったかと思えば、うんしょうんしょとゼファーを乗せる。

 そしてカートを押して医務室へと直行。

 一度ゼファーを落として「ぐえっ」と声を上げさせたが、特に問題もなくここまで運びきった。

 彼女の歳や体格を考えれば、よく頑張ったで賞をあげてもいいほどの健闘だ。

 

 ゼファーとしては立ち上がれるまで床に転がっていても良かったのだが、こうして善意から気遣われることが嬉しくないはずがない。

 「ありがとう」と告げ、ベアトリーチェからドヤ顔の「どうしたしまして」を貰う。

 向かいのベッドを椅子代わりにして座り、どこか痛い所はないかあれこれと聞いてくるベアトリーチェの心配に対し、ゼファーは苦笑しながら強がった。

 

 

「俺は怪我でも病気でもないよ。ただ、少し……少し、疲れて座って休んでただけだ」

 

「そうなの? あ、じこかんりができてないってやつね」

 

「まったくもってその通りだから反論できねえや」

 

 

 無垢なる幼女のマジレスがゼファーの胸に突き刺さる。

 実際そうなのだから仕方が無い。

 頑張るという行為は、自己管理も含めて初めて賞賛される事柄だ。

 骨が折れるまで素振りをしようが、倒れるまで受験勉強に根を詰めようが、そういった無茶そのものが賞賛されることはない。

 倒れるまで頑張ることは美徳ではなく、ただの自業自得なのだ。

 休息もしっかり取っておかないとな、と、ゼファーは自分の体調を心配してくれている、目の前の少女を見ながら思う。

 

 

「なっさけないわね。なさけないおとこはけっこんできないのよ? もてないから」

 

「じゃあ俺は終生モテる気がしないな……」

 

「うーん、そんなんだからダメなんじゃないの?」

 

 

 根本がネガティブで、人によっては鬱陶しくも思う部分がまだ彼には残っている。

 「ダメだなぁこの人」と思われやすい少年がモテるものだろうか? 否。

 せめて格好いいと思われる要素がなければ十代の恋愛ではモテないだろう。

 二十代以降の恋愛は格好良さだけではやっていけないのでまた別だが、それは置いておく。

 

 ベアトリーチェは、今のゼファーの姿を見ながら、調や双子姉妹を守ろうと立っていたあの時のゼファーの背中を思い出す。

 息を吸って、吐く。固くなったつばを飲み込む。

 記憶の中の彼の背中に、勇気を貰う。

 ドキドキする心臓の音を聞きながら、彼女は得意気に口を開いた。

 

 

「ま、あれよ。いきおくれたら、わたくしがもらってあげるわ」

 

 

 ベアトリーチェはその一言を言うだけのことに、ほんのちょっとの勇気を必要とした。

 ゼファーはそれを、励ましのための軽口と受け取る。

 告白サイドと受け取り手の意志が、ものの見事にすれ違う。

 こうして、彼女の初恋は綺麗に空振った。

 

 

「……はは、ありがとな。ベアトリーチェ。

 でももうちょっとマシな男にしといた方がいいと、俺は思う」

 

 

 空振った実感にベアトリーチェはため息を吐き、ベッドから立って腰に手を当てる。

 なんだかんだ、勇気を出せるようになった気がしていた。

 空振りに終わってしまったけれど、勇気を貰えた気がしていた。

 何より、ベアトリーチェ本人に、ここで終わりにする気がなかった。

 

 

「もーちょっとだけまってなさい。

 きょうのじっけんがおわったら、わたくしもきりねえちゃんたちとおなじになるから。

 セレナちゃんたちとおなじになったら、わたくしもあなたのとくべつでしょ?」

 

「同じ? そりゃ、どういう……」

 

「あ、おねえちゃん! やっとみつけた……さがしたよ?」

 

 

 セレナや切歌と同じ特別、という言葉の意味を聞き返そうとするも、ゼファーの言葉を遮って医務室の扉を開いて入ってくる誰か。

 既視感を感じるゼファーが目を向ければ、双子姉妹の妹、マリエルが入って来ていた。

 成程、双子だ。

 医務室への突然の乱入と話題のぶつ切りまでそっくりさんである。

 しかもゼファーは知るよしもないが、ここを探知したのは双子特有の不思議能力だったりする。

 互いの気持ちや位置がなんとなく分かるというアレだ。

 レセプターチルドレンであるからか、彼女らはそういった能力も人並み以上に強い。

 

 

「ま、あすをたのしみにまってなさい。すごいものみせてあげるから!」

 

「へぇ……じゃ、楽しみに待ってるよ。

 明日は皆で一緒にドッジボールをする約束だったよな?」

 

「あ、やくそく、おぼえててくれてたんですね……」

 

「なにいってるのマリエル。ゼファーがやくそくをわすれるはずないじゃない」

 

 

 まあ明日になれば分かるかな、とベアトリーチェの言から察するゼファー。

 先週、「ゼファーとベアトリーチェと同じチームなら大丈夫」という決意と約束があって、体を動かすのが苦手なマリエルが勇気を出したという件があった。

 それからゼファーが一度も会話に出していなかったことで不安になっていたのか、ゼファーのその言葉にマリエルはホッとしたように胸をなでおろし、何故か姉が得意気に笑う。

 そしてそのまま、ピッと人差し指でゼファーを指し、よく通る声を向けた。

 

 

「だからほら、わたくしたちもしらねえちゃんみたいにまもるってやくそくしなさい!

 ずっとずっと、ピンチになったらたすけにくるって、やくそくしなさい!

 あすからのわたくしは、そのかちがあるわよ!」

 

 

 何故、その時。

 その少女の手のかすかな震えに、ゼファーは気付いてやれなかったのか。

 彼女が小さな勇気を求めていたことに、気付いてやれなかったのか。

 絶望を越えた先にある光を求めていたのだと、気付いてやれなかったのか。

 疲れていたからなどと、言い訳になるものか。

 

 

「ああ、いいぞ」

 

 

 だから、これは傷になる。

 

 

「ベアトリーチェもマリエルも、俺が守る。約束だ」

 

 

 ベアトリーチェに貰った気力が、彼を満たす。

 もう身体は十分動くようになっていた。

 少年はベッドから立ち上がり、頭一つ分以上小さい双子の姉妹の頭を撫でる。

 くすぐったそうにする二人を優しく見つめ、決意を新たにした。

 

 守りたいと、そう誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 けれど、もうこの世界に神は居ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日は、妙に肌寒い朝だった。

 ベッドから起き上がりたくないと、部屋から出たくないと、そう思ったのを彼は覚えている。

 ベアトリーチェの注意に従ってしっかりと寝たため、体調だけは万全だった。

 

 

「……ん」

 

 

 ゼファーは部屋を出て、そこで嫌な予感を感じ取る。

 一歩踏み出す度にその予感は大きくなっていき、彼の足を止めようとする。

 まるで崖がすぐそこにあるような『気がして』、歩き出すのが怖くなってきたかのような、そんな不思議な感情がゼファーの胸中に湧き上がる。

 

 

「なん、だ?」

 

 

 危機感ではない。

 進んでしまうことで何かを喪失してしまうのなら、彼の直感はそう伝える。

 ならばこの嫌な予感は……既に、終わってしまったことに対し働いている、彼の感性の働き。

 進んでも死なない、でも進むな、そんな風に直感が囁いている。

 

 わけも分からないままに進み続ける。

 肌寒いのに、何故か手汗で湿り始めた手の平の感覚に、ゼファーは思わずズボンで手を拭く。

 そうして歩いていると、立ち尽くしている月読調の後ろ姿があった。

 思わずゼファーはホッとしてしまった。

 彼だけが見えている不安のせいで、なんだかんだ少し心細かったのかもしれない。

 

 

「や、シラベ。おはよ―――え?」

 

「っ」

 

 

 ゼファーが声をかけ、調が振り返り、ゼファーがその表情を見る。

 そして、固まった。

 少年が戸惑いから復帰する前に、少女はどこかへと駆け出して行ってしまう。

 制止の声も届かずに、調はゼファーの視界の中から消えていってしまった。

 

 しかし、ゼファーは調が自分の顔を見た途端に逃げるように去って行ったことには、さして衝撃を受けていない。衝撃を受けたのは、調が浮かべていた表情だ。

 

 

「なんだ、あの表情……?」

 

 

 悲しみがあった。痛みがあった。絶望があった。

 現実を突き付けられて夢から覚めた人間がする、悲痛な絶望があった。

 月読調は、それら全てに耐え歯を食いしばるような、そんな顔をしていた。

 彼女にそんな顔を浮かべさせたくなかったから、彼は戦った。

 月読調の友として、彼は全身全霊を振り絞った。

 

 なのに今、彼がそうさせたくなかった絶望の表情を、調は浮かべていた。

 

 

「……いったい、何が起こってるんだ?」

 

 

 不安、焦燥、緊張が胸の内に満ちる。

 進むことを恐れる気持ちが小さく思えるほどの感情の波が、彼の足を速める。

 いつしかゼファーは駆け出していた。

 こうして追い詰められた時、ゼファーが真っ先に頼る相手は決まりきっている。

 

 

「セレナッ!」

 

「……! あ……」

 

「……」

 

 

 シンパシーか、直感か、親友としての行動予測か。

 ゼファーはほぼ一直線に居場所を知るはずもないセレナの元へと向かって走り、辿り着く。

 切れる息を整えて、その時ようやくセレナと一緒にマリアが居ることに気がついた。

 普段なら悪くなる空気を気にするところだが、今のゼファーにそんな余裕はない。

 

 セレナの名を叫んで呼ぶゼファーと対照的に、セレナは名を呼び返すこともできていない。

 言葉を発しようとして、やめて、悩みながら言葉を選び、また発しようとしてやめて、その繰り返し。何を喋るかも決め切れない様子だった。

 それはゼファーも初めて見るセレナの姿。

 彼女がいくら内気といえど、何も言えない様子なんてものは彼も初めて見る。

 何を言っても最悪に繋がると、そう思っているかのような、そんな有り様。

 何を言っても傷付くことに繋がると、優しさゆえに迷っているかのようだった。

 そんなセレナと、焦りながらも言葉を待つゼファーを、マリアが痛ましげに見つめる。

 

 だが、物事とは往々にして予想外の要素に邪魔されがちだ。

 例えば、空気を読まない嫌われ者。

 

 

「おやおや、ゼファーくん。ここに三人お集まりということは、例の件ですか?」

 

「ウェル博士? ……例の、件?」

 

「Dr.ウェル! 待って下さい、待って、待って!」

 

「ええ、昨日――」

 

「ドクターッ!」

 

 

 三人が居るその場所に、どこからかやってくるウェル博士。

 何もかも分かった上で、彼は白々しく悪辣に、口を開く。

 セレナが縋るように「待って」と繰り返す。

 構わずウェルは話を続ける。

 マリアが叫んで止めようとする。

 構わずウェルは話を続ける。

 

 彼はそうして、ゼファーの心を折る絶望を告げた。

 

 

「――ゼファー君の知人のベアトリーチェという子が死んでしまった件について」

 

「え?」

 

 

 まず、耳を疑った。

 

 

「神獣鏡の適合実験はまだ早いと思ったんですけどねえ。案の定予想通りの結果に終わりました」

 

「え、あ、え? 嘘……ですよね?」

 

「嘘ついたり偽装したりするメリットがどこにあるんですか?

 『実は生きてる』とかもないですよ。頭蓋の穴は塞いでませんが、死体を見たいならご自由に」

 

 

 希望を込めて、セレナとマリアに振り返る。

 セレナは目を逸らした。マリアは悲痛な目でまっすぐに見つめ返した。

 その反応が、彼に何よりも雄弁に現実を知らしめていた。

 

 

「材料を最大限まで利用せず使い潰すのって僕はあんまり好きじゃないんですけどねえ。

 まあ、そういうのが好きなドクターも居るわけでして。

 夢魔との併用を考えて、この時期にあれの加工を頼んだのはミスだったかもしれません」

 

 

 ウェルの言葉も、ロクに頭に入ってきやしない。

 少女の笑顔を覚えている。少女の声を覚えている。少女の人柄を覚えている。

 生きていた頃の少女の姿を、その命の価値を、覚えている。

 

 守ると、ピンチに駆けつけると、そう無責任に誓った約束を、覚えている。

 

 

「だれ、が」

 

「はい?」

 

「誰が、あの子をッ……!!」

 

 

 ゼファーの瞳に悲しみ、怒り、後悔、憎しみ、復讐心、敵意、挫折、戦意が浮かび上がる。

 あの子を殺したやつをこの手で、と安易な気持ちが浮かび上がる。

 それと同時に死から逃避しようとする無意識下の働きが頭痛を起こす。

 大人と子供の協調という理性の思考方針までもが混ざり始める。

 何もかもが頭の中でごちゃまぜとなり、その時のゼファーは、正気からは程遠い状態だった。

 

 

「教えませんよ?」

 

 

 そうやって熱くなるゼファーを、ウェルは鼻で笑って袖にした。

 

 

「なん、で……!」

 

「あなた、自分の立場分かってます? 思い上がってません?

 素手で警備員突破して研究員殺せる所まで行けると思ってるんですか?

 ぶっちゃけ君、平時は監視付いてること多いんですよ?」

 

 

 今のゼファーは、見るに耐えないほどにひどい様子だ。

 それこそ、筆舌に尽くしがたいほどに。

 そんなゼファーに微塵も同情することなく、ウェルは平常運転だった。

 

 

「君じゃあ殺せやしませんよ。

 それに万が一仇討ちに成功したとして、君が即刻処刑となるのが目に見えてます。

 有用な協力者の自殺に付き合うほど僕は暇じゃありませんので」

 

「……!」

 

 

 ウェルは自分のペースを崩さず、ヘラヘラと笑っている。

 対しゼファーは、とうとう膝から崩れ落ちてしまった。

 奪われてしまった命が、もう会えない友の姿が、破ってしまった約束が、膝を折る。

 か弱い少女だった。

 死ぬべき理由なんて、何一つとして持っていなかった。

 物心付く前にこの研究所に連れて来られたせいで、外の世界というものを知らない子供だった。

 

 

(俺の……俺の、せいだ……守るなんて、偉そうに保証も無く言って、こんな、こんなことに)

 

 

 だから彼も守りたいと、そう強く思えた、そんな娘だった。

 胸の痛みも、それが湧き出す心の臓も纏めて握り潰さんとするかのように、ゼファーは胸に当てた手でそのまま胸に爪を立て、強く締め付ける。

 その死の痛みに、ゼファーはこれまでもそうだったように、全てまとめて忘れようとして――

 

 

「そうやって……殻に閉じ籠もって自傷を始めるのは、やめなさいッ!」

 

 

 ――マリア・カデンツァヴナ・イヴに、襟を掴んで立ち上がらせられた。

 

 

「聞きなさい、私の声を! 目を逸らさないで、この世界からッ!」

 

 

 彼女には、他人の心に響く声がある。

 彼女には、声に心の底からの感情を乗せる才がある。

 彼女には、他人をいい方向へと導く天賦の才覚がある。

 歌を歌えば、ただそれだけで音楽界の頂点に駆け上がれるであろうほどに。

 そんなマリアが、逃避しようとするゼファーへと『声』を叩き付ける。

 

 

「あなたが最善を尽くしたところで、あの子は守れなかったッ!

 そんな現実からすら逃げていたら、あなたは一体何からなら逃げないでいられるのッ!?」

 

 

 忘れることで逃げようとする、そんな弱者を、この世界に引っ張り上げた。

 

 

「―――ッ!」

 

 

 その言葉はゼファーの心中に響く。

 頭の中のごちゃまぜの感情は忘却で整理されないままに、蓋を押し上げ始めた。

 自分からも、世界からも逃げられなくったゼファーは、両の拳をギュッと握りしめ。

 歯を砕けそうなほどに食い縛り、背中を向けてその場から逃げ出した。

 もう自分でも、何がなんだか分からなくなってしまった気持ちの赴くままに。

 呻くような声を喉から漏らしながら走り去る少年の背中に声をかけられた者は、その場には誰一人として居なかった。

 

 

「やれやれ、もう少し人死にに耐性があると思っていたんですが、買い被りでしたかね」

 

「ドクター」

 

「おお、怖い怖い。誰かが教えなければならなかったことでしょう?

 僕が嫌われ役を買って出てあげたんですから、褒められてもいいと思いますけどね。

 というか貴女、彼と距離取っていたんじゃないんですか?

 ちょーっと見えてきましたね、あなた達姉妹の考えていること」

 

 

 この状況で、あの取り乱すゼファーを見た上で、なおウェルは笑っている。

 人並みの倫理があれば、当然に痛ましく思うはずだ。

 冷めきった人間でも、空気を読めればそれなりにこの空気に合わせるはずだ。

 だが、ウェルはそうしない。

 いつものように、気味の悪さの上に重ねた仮面の笑顔を浮かべている。

 マリアの責めるような呼びかけにも、肩をすくめるだけだった。

 

 

「……有用な協力者と言いつつ、あんなふうに突き放してよかったんですか?

 もう彼はドクター見限って、協力してくれないかもしれませんよ」

 

「な~にを白々しい。そんなことあるはずがないと分からない貴女ではないでしょう?」

 

「……」

 

「僕が何をしようが暴言を吐こうが、彼が僕を嫌えるわけがないでしょう。

 というか、彼が誰かを嫌えるわけがない。

 だからゼファー・ウィンチェスターの『最悪』ってのが目に見えてるんじゃないですか。

 最悪なのは、仇を殺せないことでも、殺せてしまうことでもない」

 

 

 ウェル博士はゼファーのことをよく分かっている。

 まるで、似たような誰かを知っているような、参考にできる者達を知っているかのような、そんな理解度。虫の図鑑を熟読していたから虫を理解できる、そういう種類の了知。

 だから彼は、破綻の落とし穴が一つ見えていた。

 

 

「もし彼が、自分の知人の少女を殺した誰かを見つけ出したとして。

 カルティケヤ氏と同じように、同情できる点、尊べる点を見つけてしまったら?

 好意を抱いた人間を殺した相手に対し、好意を抱いてしまったら?

 殺したいほど憎いはずの人間と『分かり合いたい』と思ってしまったら?

 いやはや、今の彼にそういう矛盾は耐えられるんでしょうかねえ……」

 

 

 ゼファーは奈落の底に落ちた気分だったろう。

 だが、底の底にまで落ち切ることは、間一髪で回避できていた。

 皮肉にも「その時どんな顔をするのか、というのには少し興味もありましたけどね」なんてのたまう、この男の気まぐれのような気遣いによって。

 ウェルがベアトリーチェを殺した研究者の名前を挙げなかった、ただそれだけのことで、本当にか細い道の上でだがだが、ゼファーは破綻を避けギリギリの場所で踏み留まれていた。

 

 けれど、マリアは少し違うものが見えていた。それに驚いていた。

 有用な協力者と言い、決定的な破綻を避けさせ、予想以上に傷を抉らず死を伝える。

 ゼファーに対するウェルの言動の穏健さに、驚いていた。

 

 

(……博士がここまで気遣っている誰かを見るのは、初めてね……)

 

 

 無論、ウェルのそれは普通の人間が見れば「どこが気遣いだよ!」と叫ぶほどのものだ。

 相手の事を考えていないし、傷付けないようにする思いやりが無いし、落ち込んだ相手を立ち上がらせようとする意思も微塵もない。

 しかし基本の値が低ければ、相対的にマシに見えるというものがある。

 普段のび太くんを殴り、カツアゲし、仲間はずれにする剛田武くんが劇場版で少し男を見せると最高の勇姿に見えるアレだ。

 普段が最上級にキチっている人間が少し他人に手心を加えているところを見ると、何の気の迷いだと周囲が驚き、正気を疑う。悪行に変わりはないのにだ。

 マリアの視点からでは、ウェルが意識してか無意識からなのか、ゼファーに対して少し手心を加えて扱っているような様子が見えていた。

 

 

「それにしても」

 

 

 ウェルが何も変わっていないのは、見れば分かる。

 

 

「味方で居ると決めたことで、逆に何も言えずに役立たずになってしまう事ってあるんですねぇ」

 

「……ッ!」

 

「いや別に、誰というわけではないのですが」

 

 

 セレナに対し、意味もなくこんなことをのたまう彼が、そう簡単に変わるはずがない。

 ウェルの嫌味に慣れているはずのセレナが、上着の端をギュッと握って俯き、前髪の間からでも悔しさと悲しみが伝わってくる表情を浮かべている。

 そして、そんな妹を嫌な男がいじめる構図を、優しい姉が許しておくはずがない。

 

 

「ドクター。用がないならお帰り下さい」

 

「そうですね、ぶっちゃけ君達に用とかありませんでしたし」

 

 

 マリアがそう一言告げただけで、ウェルは何の頓着もなさそうに去って行った。

 本当にどうでもよさそうに、二人に興味など無いかのように。

 彼がここに来た理由は、もう既に果たされていたということだろう。

 

 

「……マリア姉さん」

 

「私は行かないわよ。行くなら一人で行きなさい」

 

 

 不安げなセレナの弱々しい声に、マリアは凛とした声で答える。

 手助けをする気はないし、する必要もないのだと、マリアはちゃんと分かっている。

 セレナの内気な部分も、弱い部分も、強い部分も。

 彼女のたった一人の姉で、二人ぼっちの家族だから、誰よりも深く理解している。

 背中を少し押してあげるだけで、私の妹はどこにだって踏み出せるんだ、と。

 

 

「そして行くなら、決して悔いを残さないように。頑張りなさい、セレナ」

 

 

 マリアはセレナの服の襟を正し、肩に手を置き、微笑んで背中を押した。

 家族として、姉として、ありったけの激励を一言に込める。

 信頼する、尊敬する姉に背中を押されたセレナは、胸に暖かいものが満ちていくのを感じた。

 

 

「……うん!」

 

 

 そして、セレナは姉に背を向けて駆け出した。

 向かうはゼファーが逃げ出して行った方向。

 ゼファーがそうしたように、セレナもまた親友の居るであろう場所に向かって一直線に走り出していく。スタートの時間に差があろうとも、足に差があろうとも、いずれは追い付くだろう。

 そんな妹の背中を微笑みながら見送って、背中が見えなくなった頃、溜め息を吐いて床を見る。

 マリアもまた、憂いを帯びていた。

 

 

「悔いを残さないように、か……それが一番、難しいのにね……」

 

 

 自分に出来そうにもないことを妹に求める、そんな自分の姿が滑稽に見えている、優しすぎる姉の弱々しい姿があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 走る、走る、走る。

 ゼファーは逃げていた。逃げ続けていた。

 走って逃げられるものではないと知りつつも、現実から走って逃げていた。

 それで逃げられるのは不安からだけだと知りながら。自分からは逃げられないと知りながら。

 自分を責める自分と一緒に逃げているのだから、逃げ切れるわけがない。

 

 

「はぁ……はぁ……、ッ、っ……! く、つっ……!」

 

 

 ずっと、彼は人の死から逃げ続けてきた。

 目を逸らして、走って、走って、忘れられるわけもないのに忘れようとして。

 いつか来てくれると信じていた悲しい日々の終わりを求めて、迷いながら、もがきながら、どんな時でも諦めずに足掻き続けた。走り続けた。

 なのに追いかけてくる絶望は、全てを塗り潰していく。

 誰かの夢を、誰かの理想を、誰かの情熱を、誰かの命を、一緒くたにかき消しながら。

 

 壁によりかかり、ゼファーは口元を抑える。

 腹の中の物が、心の不調につられて逆流を始め、それを必死に抑え込む。

 吐けば楽になれたかもしれないが、今の彼は安易に楽になることを受け入れられない。

 破ってしまった約束が、永遠に失われてしまった笑顔の記憶が、彼を責める。

 他の誰が、彼を許そうとも。

 ゼファーだけは、自分を絶対に、永遠に許さない。

 

 

「……ああ、そうか、シラベは……知ってたのか」

 

 

 ようやく、ゼファーは調が浮かべていた表情の理由に思い当たった。

 月読調は、友の死にも慣れていたはずだ。

 これが初めての別れではない。ならば何故、あんなにも傷付いた表情を浮かべていたのか。

 それは希望を見せられてからの絶望が、絶望の痛みを倍加させてしまったからだ。

 

 皮肉にもゼファーが見せた希望が、絶望を倍加させ、調の心を深く抉ってしまったのだ。

 

 希望を魅せられてからの絶望。

 夢を見せられてから突き付けられた現実。

 調も心の何処かで、「もう誰も死ななくていいのかもしれない」と思っていた。

 「みんな守ってくれるのかもしれない」と思っていた。

 ゼファーの背中に、そんな荒唐無稽な夢を見てしまっていた。

 けれど、現実はそうはならなかった。

 

 ゼファーと親しかった幼い少女が、彼の友が、彼が守ろうとしていた子が、無残に殺され、命を奪われる。そして何事も無かったかのように日常が続いていく。

 「ヒーローが居ようと居まいと現実は変わらない」と、現実が嘲笑っているかのようだった。

 そこに調が感じた絶望は、いかほどのものであっただろうか。

 希望を抱くこともなければ、ここまでの絶望に傷付くこともなかっただろう。

 ロマンチストな自分を押し殺して、理性的に頭を冷やして、人形のように感情を極力廃していって、大きく傷付くこともなかっただろう。

 夢を見なければ、夢が折られる痛みなど感じなかっただろう。

 

 ゼファーが、彼女に希望なんてものを見せなければ、彼女は深く傷付かなかったのだ。

 

 

「俺の……俺の、俺の無責任な行動が、原因でッ……!!」

 

 

 ゼファーは無責任に希望を見せた。

 ゼファーは無責任に守ると誓った。

 ゼファーは無責任に祈りを聞いた。

 

 本来それは、彼が背負う必要のない責任だ。

 しかし、ひと度選択し、それを背負うと決めたならば、そこには責任が発生する。

 ゼファーは自分が背負っていたものの大きさも、重さも、何も分かっていなかった。

 それがどれだけの人に影響を与えるのか、全く分かっていなかった。

 

 子供達に見せた希望が、逆に子供達を傷付けてしまうことも。

 調を守るという決意を、ベアトのように知らぬ間に破ってしまいかねなかったことも。

 明日命に関わる実験に参加させられると聞き、死ぬことが怖くて、勇気が欲しくて、それでベアトリーチェはゼファーに勇気を求めていたのだということも。

 ゼファーはこの瞬間に至るまで、何も分かっちゃいなかったのだ。

 

 英雄は、人々に見せる幻想に対し、無責任では居られない。

 

 

「ベアトリーチェ……ごめん、ごめんなさい……!」

 

 

 どんなに後悔しようとも、死んだ者は蘇らない。

 それが世界の不動のルール。

 どんなに誠心誠意謝ったって、死んだ者は応えてくれない。

 それが生命の不動のルール。

 

 

「―――って、いったのに」

 

 

 そして、人が死んだ事実よりも、その人が死んだことに悲しむ誰かが、人を強烈に傷付けることもある。この場に居ない暁切歌は、それをよく知っている。

 ひどい顔で壁に寄りかかっているゼファーが振り向けば、そこにはゼファーよりもひどい顔をした、ベアトリーチェのたった一人の妹が立っていた。

 

 

「マリ、エル……」

 

「まもってくれるって、やくそくしてくれたのに」

 

 

 涙が、真っ赤な目の周りが、目の下の隈が、乱れた髪が、整えられていない服装が、しゃがれた声が、悲しみに満ちた雰囲気が、彼女の心境を雄弁に語る。

 たった一人の血の繋がった家族を奪われた、その姿が。

 憧れたお兄さんに裏切られた気持ちになっている、その姿が。

 ひとりぼっちになってしまった絶望を感じている、その姿が。

 ただ目にするだけで、ゼファーに罪を突きつけてくる。

 

 

「やくそくして……くれたのにッ!」

 

 

 その糾弾は理不尽だ。

 けれど、それでも彼女に同情し、同意してしまいかねないほどに、哀れだった。

 その声はしゃがれ、涙と鼻水に声を出すのを邪魔され、それでも精一杯絞り出した声で。

 そんな声に、ゼファーは自分の罪の重さを、まだ軽く見ていたのだと実感する。

 

 

「なんで、なんで、なんでッ! うそつき! うそつきうそつきうそつきッ!」

 

 

 普段引っ込み思案で、誰かと争ったり身体を動かしたりすることが苦手で。

 それでも気は優しく、幸薄そうで儚げな雰囲気が印象的で。

 まだ発音もしっかりして居ないほどに幼い、そんな少女が泣きながら、枯れる喉の痛みに耐えながら、ゼファーの『嘘』を非難する。

 ゼファーが思わず目を逸らしてしまったくらいに、その姿は痛々しかった。

 彼女にこんなことを言わせてしまっているという新たな罪悪感も、彼を押し潰そうとする。

 

 

「ゼファーにいさんのうそつき! だいっきらいッ!」

 

 

 マリエルが何かを言う度に、ゼファーの心は軋んでいく。

 

 

「なんでしらねえちゃんはまもってくれたのに、おねえちゃんはまもってくれなかったのッ!?」

 

 

 心にヒビが入る音を、ゼファーは確かに耳にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マリエルが去った後、ゼファーは放心したまま立ち尽くしていた。

 

 家族と思う仲間の死を、友の死を、子供達はずっとこの施設で受け容れてきた。

 だって、どうしようもなかったから。

 受け容れなかったとしても何も変わらないし、死人は蘇らないから。

 受け容れる子供達(レセプターチルドレン)は、そうしていつしか死を受け容れる。

 自分の死も、大切な人の死も受け容れる。

 死ぬのは嫌だと、死なせるのは嫌だと、そう思いながらに。

 

 ただし、ゼファーは違う。

 彼はあらゆる意味でレセプターチルドレンではない。

 彼は他人のように、ただ死を受け容れることだけは、絶対にしない。

 自分の死も、他人の死もだ。

 他人の死を受け容れられない弱さ……それは、降りかかる残酷な運命を決して受け容れない意志と、裏表にある弱さだ。

 今はまだ弱さでも、それはまだ見ぬ強さと隣り合わせの位置にある。

 

 ベアトリーチェが、クリスやセレナほどにゼファーと親しくなかったからかもしれない。

 彼が成長し、心強くなったからかもしれない。

 すっかり休んだ翌日で、体力にも気力にも余裕があったからかもしれない。

 マリアの叫びが、まだ耳に残っていたからかもしれない。

 

 驚くべきことに、ゼファーは友の死を前にして、忘却を選択していなかった。

 

 ゼファーは今日まで人と関わることで三歩進み、その人が死ぬことで二歩下がってきた。

 人と関わることで成長するという良点も、人が死んでしまうことでその成長が台無しになってしまう欠点も、共に彼の中に存在する個性だった。

 生きていれば大切にする、死んでしまえば忘れようとする。

 それでも忘れきれなくて、傷として残り……その繰り返し。

 憐れまれるだけの幼い子供、情けない少年の生き方が、それだった。

 彼は、誰かの死に向き合うだけの強さを持てていなかったのだ。

 ずっとずっと、大切な人の死から逃げ続けていたのだ。

 

 人は誰しも、大切な人の死と向き合って成長する。

 家族が死んだことのない大人など居ない。

 友が死んだことのない大人も、世の中過半数を割るだろう。

 ペットの死だって、色々なことを子供に教えてくれる。

 人は死に向き合い、他の人の向き合い方を目にし、その死に思ったこと、感じたこと、それらを全て胸に刻み込み、抱えながら生きて行く。

 それが正しい『成長』であり、『大人になる』ということだ。

 

 残念ながら、ゼファーはまだ死からの逃避を卒業できたわけではない。

 友の死に向き合える人間に成長できたわけではない。

 ただ、一つの感情を胸に、下がらず踏ん張ることができるようになっただけだ。

 三歩進んで二歩下がるのではなく、三歩進んで踏み留まることができるようになっただけ。

 三歩進んで、大切な人の死と向き合い、二歩進める普通の人間にはまだ遠い。

 それでも彼は折れずに、歯を食いしばり、耐えてその場に踏ん張っていた。

 

 

「……っ、ぐっ……!」

 

 

 ゼファーの心は弱い。

 だからこれも、彼が自分の心の中で無から作り上げた強さではない。

 彼がかつて関わった、その誰かから貰った何かを再構築した、繋がりから生まれた強さ。

 

 彼が折れない理由、今、彼の胸の内にあるたったひとつの心の支え。

 それは雪音クリスが彼の中に残した、『理不尽への怒り』に他ならない。

 雪音クリスは戦場、戦う意思、傷付ける力に怒りをぶつけていた。

 人に怒りを向けていなかったわけではない。

 だがそれ以上に、彼女が怒り憎んでいたものは、抽象的な何かであった。

 ゼファーもその、形にならないものへと向かう怒りを、ずっと見守ってきた。

 

 他人の死に向き合えたわけでもない。けれど、前を向くことだけはできた。

 それは心中の悲しみと痛みを、怒りの熱で塗り潰したからに他ならない。

 ベアトリーチェの死を受け容れたわけではない。

 過去の仲間達の死を受け容れたわけではない。

 だからゼファーは、ベアトリーチェが死んでしまっても、涙は流さない。

 死に向かうゼファーの姿勢は、とことん周囲とはズレたまま。

 

 周囲の「仕方が無い」と割り切る声を振り払い、心奥より湧く「忘れろ」と囁く声を振り払い。

 震える喉で、掠れる声で、傷付き弱った心で、それでも「ふざけるな」と、魂の底から全力で叫び吼え続ける。

 「死んでいい理由なんて何一つとしてなかった」と、当たり前の事を主張する。

 それが運命なのだとしても、ゼファーには受け容れる気は毛頭なかった。

 

 

「ざっけんな……あの子が、あの子が、何をしたってんだッ!」

 

 

 この世界でただ一人彼だけが、ベアトリーチェが死した運命に正しき怒りをぶつけていた。

 悲しみもある。後悔もある。苦痛もある。

 けれどそれらを感じながらも、命が奪われたことを、それはおかしいのだと叫んでいた。

 マリエルは嘆いた。ナスターシャは悔いた。セレナは悼んだ。マリアは冥福を祈った。

 ゼファーは世界に対し、現実に対し、運命に対し、膨れ上がる怒りを感じていた。

 

 それが今、彼に出来るベアトリーチェへの、ありったけの弔いだった。

 

 

「……っ、謝って、済むことじゃない、けど……!」

 

 

 悲しみに膝を折る。痛みに膝を付く。

 約束を破ってしまったことへの罪悪感が、ゼファーに今は亡き少女への謝罪を口にさせる。

 頭を壁に打ち付け、壁に拳を叩きつけるその様子は、まるで自罰のようだ。

 その怒りが、悲しみが、ゼファーの拳と額から血を流させる。

 その血が、まるで彼の流れない涙の代わりのようだった。

 

 ゼファーは、目を閉じる。

 この葛藤に、一言で全てが片付く答えなどどこにもない。

 探し続けても、ゼファーの内に答えなどどこにもなかった。いつだってそうだ。

 胸に手を当てる。心臓の鼓動が、掌を伝って伝わってくる。

 その鼓動が、全てを知っている。

 ゼファーは今も生きている。

 そして、彼が生きている今は、ベアトリーチェが生きたかった未来なのだ。

 ゼファーが生きている今は、守れなかったベアトリーチェが夢見た未来なのだ。

 

 そう思えば、ゼファーは胸が締め付けられるように痛む。

 ゼファーの胸には、ここに来た時に胸の穴を埋めてくれた、少女の歌が息づいている。

 辛い時、命に流れる歌が、血に流れる歌が、彼を何度も支えてくれた。

 目を閉じれば、そのメロディが聴こえる気すらする。

 闇色の夢の中で、その歌だけが煌めくように響いていたことを、彼は覚えている。

 

 

「ゼファーくん!」

 

 

 だから、ほら。

 その歌を歌ってくれた少女が今、彼の前に現れてくれた。

 彼の中で希望の象徴である、セレナ・カデンツァヴナ・イヴが、息を切らしてそこに居た。

 彼女を見れば、それだけでゼファーの中には希望が湧いてくる。

 約束を破ってしまったことで傷付いた心が、もうひとつの約束まで破ってたまるかと奮起して、砕けてしまいそうな心を、約束が繋いでくれる。

 

 友として彼女らに恥じない人間になるのだと、胸を張って彼女らの友達だと名乗れる人間になるのだと、彼はかの日にそう誓って、いつかそうなってみせるとセレナに約束した。

 

 

「やっぱり、セレナは凄いな」

 

「……ゼファー、くん?」

 

「大丈夫だ。俺は、まだ立てる。まだ……頑張れる」

 

 

 何も言わなくても、そこに来てくれるだけで自分を救ってくれるんだから、と、ゼファーはちょろくて安っぽい自分に苦笑する。

 膝も、心も、決意も、今にも折れてしまいそうだ。

 それでも。

 まだ、まだここで終わりにするわけにはいかないと、ゼファーはなけなしの力を振り絞る。

 立てない。違う、立たなければならない。だから立つ。

 頑張れない。違う、頑張らなければならない。だから頑張る。

 懺悔をしなければならない、今は亡きベアトリーチェに、見せなければならない背中がある。

 情けない姿だけは見せられないと、そう己を奮い立たせる。

 

 何故その時、立ち上がるゼファーを見てセレナが目を見開いたのか、彼が知ることはなかった。

 鏡がなければ、人は自分の姿なんて見れやしないのだから。

 

 

「あ、あの……」

 

「あ、にいちゃだー!」「セレナちゃんもいるー」

「でーと!?でーと!?」「きゃー」「きゃー!」

「あそぼっ、ふたりとも」「あそぼあそぼー!」

 

「おっとと、元気だな、お前ら。じゃあ広場に行こう、な?」

 

 

 セレナが口を開こうとしたその瞬間、遮るように雪崩れ込んできたのは子供達だった。

 小さい子供達。ゼファーがカルティケヤの件の時に希望を見せた大人しい子供達、それ以外の時の大人との争いで希望を見せた子供達、ゼファーを慕う子供達だった。

 事件以前からゼファーの面倒見が良かったのもあって、すっかり彼に懐いている。

 

 

「あれ、ベアトは?」「マリエルもいなーい」「あれー?」

「きょうあのふたりといっしょにあそぶんじゃなかったの?」

「やくそくだったよねー」「ねー」

 

 

 そんな子供達が、核心を突く。

 セレナの笑顔が揺らいだのが、ゼファーには見えた。

 それも当然だろう。今日遊ぶ内容は、ずっと前からの約束だったのだ。

 ゼファーは、その遊ぶ約束すら守らせてやれなかったのだ。

 

 そして約束をした当人の姉妹が居なければ、子供達は不審に思う。

 既にセレナの表情から、何かを感づいている子供も居る。

 ゼファーがありのままに真実を伝えれば、子供達は嘆き悲しむだろう。

 そして希望を見せられた分、突き付けられた「いつか死ぬ」という現実との落差に、ひどく打ちのめされてしまうに違いない。ゼファーに強く幻想を抱いている分、尚更に。

 月読調と同じように、絶望してしまうだろう。

 

 だから、ゼファーはその道を『選んだ』。

 

 

(笑え、笑え、笑え。無理なく、嘘を全く匂わせず、この子達が安心できるように)

「ああ、ベアトリーチェは隣の研究所に長い実験をしに行ってるぞ。

 急だったからほとんどのやつは知らないかもしれないけど」

 

「そーなのー?」「そーなんだー」

「となりのけんきゅうじょなんてあったんだね」「あにきはものしりだなー」

 

 

 暴走気味に効力を増した直感が、ベアトリーチェの死を知る者は数人だと教えてくれる。

 自己暗示に自己暗示を繰り返し、ゼファーは自分すら騙してみせる。

 かつて悪友であった悪党が仕込んだ、『嘘のつき方』が少年の中で噛み合っていく。

 彼の中で、彼の力が、彼の望む方向に組み合わさっていく。

 

 

(俺は平気だ。平常心だ。何も変わりはない。だから俺の笑顔は、普段と同じになる)

「マリエルは風邪気味だってさ。だから今日は二人共来れないんだよ」

 

「だいじょうぶかなー?」「だいじょうぶでしょー」

 

 

 セレナが自分を凝視しているのを、彼は感じ取る。

 余計なことを言わずに好きにやらせてくれているだけで御の字だと、心中で感謝した。

 彼は被った仮面を、『頼りになるゼファー・ウィンチェスター』の仮面を固めていく。

 心の中が読まれやすい顔を隠し、子供に希望を与える仮面を。

 仮面の下で涙を流そうと、周囲が強い人間だと勘違いしてくれる偽装の仮面を。

 誰にも見破られない、英雄の仮面を。

 

 

(この子達に、希望を見せ続けるための、仮面を……)

「そんじゃあ今日は予定通りドッチボールだな。

 俺とセレナがボール取ってくるから、お前らは広場に先に行ってチーム分けしといてな。

 年長の子は年少の子を仲間はずれにしないように」

 

「はーい!」「ほーい!」「よっしゃっしゃ!」

 

 

 子供達が競馬の馬のように、我先にと走り去って行く。

 ものの十数秒で誰も居なくなった廊下で、セレナはゼファーの瞳を覗いた。

 仮面の笑顔だ。

 ベアトの事実を知っているセレナが思わず「そうなんだ」と信じてしまいそうになったほどに、虚偽を感じさせず、信頼に足ると判断させる笑顔。

 その仮面の下でゼファーがどんな顔をしているのか、セレナには分かっている。

 仮面が剥がれ、その下から現れた顔は、セレナの予想通りの顔だった。

 

 情けなく、傷付きやすく、脆く、強さとは無縁の、いつものゼファーの素顔だった。

 

 

「嘘つきって、言われちまったよ」

 

 

 まるで仮面の下の顔を見られたくないかのように、ゼファーは右掌を顔に被せる。

 

 

「ベアトリーチェとマリエルにさ、守るって、約束してたんだ。

 嘘なんてつくつもりはなかったのに……嘘に、なっちまった」

 

 

 口から命を吐き出しているようだと、セレナは思った。

 身体に傷は一つもない。血も流れてはいない。

 なのに、傷だらけで、血まみれで立っているように、彼の姿がブレる。

 折れた両足で無理矢理立っているような、そんな痛々しさ。

 

 

「シラベの時はそんなこと考えもしてなかったんだ。

 ただ守るって約束して、根拠もなく信じさせて、守って……

 それで、終わりだった。それでいいんだと思ってたんだ。

 信じることで救われる人が居るなら、それでいいと思ってたんだ」

 

 

 なのに。

 なのに何故、こんなにも彼の瞳は真っ直ぐに、強い光を放っているのだろうか。

 絶望の淵に立っているのが目に見える彼が、どうしてこんなにも強く見えるのか。

 セレナは、彼を奮い立たせている、その力の名を知っている。

 

 

「ねえ、ゼファーくん」

 

 

 絶望を突き付けられ、なお折れず、それを乗り越えた者が持つ心の力。

 燦然と輝くその絢爛たる煌めきを、人は『希望』と呼んだ。

 

 

「じゃあ、さっきの『嘘』は、なんで……」

 

 

 セレナは、子供達に何故嘘をついたのか、その理由をゼファーに問うた。

 

 

「俺は今のこの場所が、今のままあっちゃならないと思ってる。

 希望もなく、人も殺してない罪のない子供達が犠牲になっていく毎日も。

 それを間違ってると断じて、変えようとする誰かがほとんど居ないのも。

 今のままじゃ、この研究所の子供達に明日はない」

 

 

 ゼファーは、その理由を語る。嘘をついた理由を語る。

 今彼が目指している、彼が心に定めている、しなければならないことを語る。

 

 

「希望がなきゃ、ダメなんだ。

 今日死なないと、明日が必ず来ると、そう信じられる毎日をあげたいんだ。

 なら、俺は『明日は来る』と嘘をつき続ける。何の根拠もなく。

 そして、その嘘が嘘でなくなるまで、嘘を現実にし続ける。

 もう誰も死ななくていいように、この場所を変えなくちゃいけない」

 

 

 英雄は誰しも嘘をつく。

 世界は終わらないと、まだ我々は負けていないと、君達には未来があると。

 嘘が嘘のままならば単なる詐欺師。

 嘘を本当にしたのなら、誰よりも多くの人に希望を見せた英雄だ。

 少年は嘘をついた。そして、その嘘を現実にすると誓いを立てた。

 

 

「みっともなくても、情けなくても、辛くても」

 

 

 誰よりも信頼する、誰よりも好ましく思う、少年の希望の象徴たる彼女に、誓いを立てる。

 

 

「俺は、希望を見せた責任を、取り続ける」

 

 

 それはまるで、絵物語の中で、英雄がお姫様にそうするかのような誓いだった。

 

 

「そのための嘘なら、『本気の嘘』なら。後悔はしない」

 

 

 ゼファーは希望を繋げるために、『本気の嘘』をつき続けることを、少女に誓う。

 

 

「ゼファー、くん……」

 

「そんな顔するなよ、セレナ。

 きっとそうしなきゃ、後悔するのが俺なんだ」

 

 

 そんな決意を見せられたセレナの心中は、いかなるものか。

 そんな誓いを見せられたセレナの心中は、いかなるものか。

 今にも泣きそうな彼女の顔を見れば、半分ほどは伺えるだろう。

 彼女はゼファーの親友でもある。

 そしてこの誓いが、どれほどの茨の道を歩ませるかを想像できないほど、セレナは愚鈍でも楽天家でもない。進む先は、誰がどう見たって地獄の道だ。

 彼は地獄への道を己の良心で舗装し、地獄と分かってなお進む決意を固めている。

 

 その決意が『自分の言葉でも微塵も揺らがない』ということが分かっているからこそ、分かってしまうからこそ、止めるべきなのに、セレナは言葉を発せない。

 

 

「行こう、みんなが待ってる」

 

「……うん」

 

 

 ゼファーは、セレナが自分の覚悟をよく思っていないことに気が付いている。

 その上で、何を言われても揺らがないほどに、心に強く芯を据えている。

 少年は、少女に手を差し出した。

 少女は差し出された手を取って、歩き出す。

 

 少女はただ、少年の幸せを祈る。

 それしか出来ないのなら、彼女はそれを全力を込めて為す。

 それ以外に何もできていない自分を、何かをしないといけないと思いつつも、そうなれていない自分を不甲斐なく感じながら。

 

 

(……私が、私が頑張るんだ。

 その果てにどんな結末があったって、構わない。

 私が守らないと、きっと、最後の最後でこの人は……)

 

 

 セレナは何もできなかったと、そう自嘲している。

 しかし、本当にそうなのだろうか? 彼女は何の役にも立たなかったのだろうか?

 否。否だ。ゼファーが仮面を被れたのは、セレナが見守ってくれたからだ。

 これから先彼が被って行く仮面も、彼女がくれた物であると言っていい。

 セレナの存在が、ゼファーを彼が望む高みへと押し上げてくれる。

 それは今回に限ったことではない。

 

 ならば、いつかは彼女の祈りも届くかもしれない。

 何度でも彼に手を伸ばし、何度でも理想を夢見ればいい。

 今はまだ叶わなくとも、それを目指すことに意味がある。

 諦めた時に光が消えるなら、逆説的に諦めなければ光はあるのだとも言える。

 彼女が信じることが、彼の強さに変わることもあるだろう。

 

 ゼファーとセレナの物語がどんな結末を迎えるのか。

 それは神の居ないこの世界での、神のみぞ知る未来。

 魔神だけが知る、運命の最後に据えられている。

 

 

 

 

 

 

 明日はきっといい日になると、そう嘘をつく。

 いい人は最後に報われるんだと、そう嘘をつく。

 助けを求める声を出せば、誰かがきっと助けてくれるんだと、そう嘘をつく。

 その嘘を、血反吐を吐きながら現実にする。

 

 それが英雄だ。

 英雄は理想という名の嘘を吐けねばならない。吐き続けなければならない。

 理想という名の嘘を吐き、その背中で夢を見せ、希望を絶やさぬ戦いを続けねばならない。

 現実を知り、理想が虚構であると知り、それでもそれを口ずさみ。

 現実に存在しない夢物語を、綺麗事を、祈りを現実に成さねばならない。

 

 それを自らの意志で、覚悟で、望んで為さねばならない。

 たとえ、それが押し潰されそうなほどに重くとも。

 誰かがその責務を果たさねば、続かない世界もある。

 誰かが希望(ゆめ)を見せなければ、立っていられない者達も居る。

 その『誰か』が特別である必要はない。成すか成さぬか、誰の前にもその選択肢は現れる。

 

 成すと決めたなら、その者が進むのは茨の道であるだろう。

 けれども、ひとたびその選択を選び、嘘を吐き続けることを選択したのなら。

 その嘘を、覚悟を、意地を世界に貫くと決意したのなら。

 

 本気の嘘なら、後悔はしない。




ビリー→英雄の指標etc…
ジェイナス→嘘のつき方etc…
バーソロミュー→寛容さと逃避癖etc…

ゼファーの人格形成要因達はこういうのをやるために用意したという過程があったり

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