戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ   作:ルシエド

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「ヒーローのご褒美知ってるか? 無いぞ、撃たれるだけ。
 凄いヤツだとかなんとかかんとか、褒められるくらい……それで離婚。
 妻は俺の名前を忘れようとしてる。子供は口を聞かない。
 たった独りで飯を食う……そんな男に誰がなりたい?」
「じゃあなんでやってるの?」
「他にやる奴が居ないから、それだけだ。
 本当に他に誰か居ればすぐ変わるが誰もいない。だからやってる」

 ダイハード4.0


3

 英雄は、生まれた瞬間から英雄なのだろうか?

 英雄の子は皆英雄か? 力強き者は皆英雄か? 心強き者は皆英雄か?

 否。英雄とは、誰かが祈るその世界で、その祈りに応えた者である。

 

 明日はどうなるんだろうと震える者に、明日はきっと良くなるよと嘘を付き、血を吐きながらその嘘を真とする者である。

 戦えない弱き者達全ての代わりに、地獄の全てをねじ伏せる闘争へと挑む者である。

 

 その資質は、特別である必要はない。

 ただ人よりも、ほんの少し我慢強く、ほんの少し心強ければそれでよい。

 

 だからこそ。彼ら(えいゆう)は、ただの人の中からも現れる。

 ただの人が、英雄に至る道を選ぶ、その一瞬が存在する。

 

 始まりの音楽(バベル)たる西風を身に纏い、彼らは人の内より風のように生まれ来る。

 

 

 英雄は、苦境の中で生まれいづる。

 

 敗北の運命にあった国の中から。

 滅びる運命にあった民の中から。

 絶対の悪に虐げられていた世界の中から。

 

 彼らは苦境の中で、幸福ではなく苦痛を得る道を選ぶ。

 

 その道が、楽なものであるはずがない。

 その道が、簡単なものであるはずがない。

 その道が、幸せだけを喰めるものであるはずがない。

 誰もが「これじゃ世界のための生贄じゃないか」と叫ぶ、そんな凄惨な道だ。

 

 鉄の鎧を身に纏い、鉄の刃を携え、鉄の雨をくぐり抜け。

 鉄刺を踏み越え、鉄の嵐の中を突き進まなければならぬ道。

 血反吐を吐き、血の涙を流し、傷より血を出し尽くし、血泥を踏み越え、返り血を常に纏う道。

 男が、英雄が、自ら望んで進まねば進めない鉄血の世界。

 

 それでも彼らは選ぶのだ。

 自らの意志で、望み、願い、誰かの祈りに応えるその道を。

 今は只人であれど、その者がいつの日か英雄となる運命を背負っているのなら。

 

 いつかの未来に必ず、その者は己を英雄と成す決意と理由に巡り会う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第七話:Hero/Heroine/Sunlight 3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 死体安置所(モルグ)

 定期的に死体を『回収』し、施設外で『処理』をするセクションが来るまでの間、実験で命を落とした子供達が安置される場所。

 そして、子供達が個人として扱われる最後の場所でもある。

 ここから運び出された死体は、全て一緒くたに焼却される。

 誰がどうだとか、そういった個人の判別は一切されない。

 ゴミ箱に捨てられたゴミが、最終的にゴミ処理場でどこにあるかも分からなくなるように、死の前に個人として扱われる権利すら奪われる。

 至極システマチックに、この上なく合理的に。

 

 

「随分遅刻しちゃったな。駆けつけるって、そう約束したのにさ」

 

 

 ゼファーはそこで、一つの死体の髪を撫でていた。

 頭に大穴が空いている。身体の色んな場所に小さな穴も空いている。

 そして『中身』がこぼれないように、それらの穴が大雑把に塞がれている。

 生きていた頃の体温も、肌の色も、呼吸も、笑顔も、命の鼓動も何もない。

 空っぽだ。魂の入っていない抜け殻が、そこにあった。

 

 ゼファーは死体の手を握って、短い言葉に全てを込めて、ゆっくりと告げる。

 

 

「ごめんな」

 

 

 許しは、請わなかった。

 

 

「本当に、ごめんな……」

 

 

 掴んだその手は、ひどく冷たかった。

 かつてあったはずの、握った手から伝わるはずの、一人では知ることのできない手の温もりは、もう永遠にこの世界から失われてしまっていた。

 それでも、繋いだ手は離さない。

 ゼファーは手を重ね続ける。

 まるで、冷えきった手に自分の手の温もりを注いでいくように。

 ありし日に貰った暖かさを、返していくかのように。

 

 

「……ゆっくり、おやすみ。天国には、君をいじめる人は、きっと居ないだろうから」

 

 

 死体を丁寧に扱い、最後にもう一度を頭を撫で、ゼファーは元の場所へ戻していく。

 別れは告げた。もう二度とその顔を見ることはないだろうと、悲しみが心を覆う。

 死体安置所を後にして、背を向けて彼は歩き出していく。

 

 ゼファーの目が向く反対側。

 彼の背中を押す影が、一つ増えたように見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 泣きっ面に蜂、という言葉を知らない日本人は少ないだろう。

 不幸は畳み掛けるように連鎖することがある。

 まるで誰かが運命をいじくっているんじゃないかと錯覚するほどに、凄惨に。

 時に残酷なほどに、不幸な出来事というのは連鎖する。

 

 

「……」

 

 

 月読調は、部屋のベッドの上で膝を抱えていた。

 ぼんやりと、暗くなっていく気持ちを抱えて壁を見つめる。

 小さな身体を更に縮こまらせて、強く自分の身体をかき抱いていた。

 

 どうにかなるかもしれない、と希望を抱き。

 どうにもならない、と現実を突き付けられ、調は希望を取り上げられた。

 ご都合主義の王子様が、なんだかんだどうにかしてくれるんじゃないかと、そんな曖昧な希望。

 信じたのは彼女の意志だ。ゼファーは何も悪く無いと、調自身も思っている。

 それでも、どこか切なく、悲しく、虚しく感じてしまうのは何故なのだろうか。

 それは小さな子供が、テレビの画面の中の信じていたヒーローが負けてしまった時に感じる気持ちと、きっと同種のものなのだろう。

 

 

「……ふぅ」

 

 

 しかし、調とマリエルで違う所がある。

 調は、ゼファーに対し『期待を裏切られた』とは感じていなかった。

 マリエルとは違い、一番大切な人を失わったわけではないというのもあるだろう。

 もし死んでしまったのが切歌であれば、調もあるいは八つ当たりをしたかもしれない。

 調はその『もしも』を分かっているのだ。

 だから、彼女が責めているのは『自分自身』に他ならない。

 何も考えず、無責任に友達に期待し、そして今勝手に失望している自分自身に、だ。

 失望と絶望は、僅かながら彼女自身にも向かっているのである。

 

 理想の面影を見た英雄の卵にも限界があると、そう知った絶望。

 何も考えずにその背中に全部を託そうとしていた、そんな自覚をようやく持てた羞恥。

 今、彼女は冷静な気持ちでゼファーに会える気がしなかった。

 

 切歌がその筆頭だが、長い付き合いのある人との間に築かれた絆というものは、恥の積み重ねとそれへの理解と同義でもある。若い頃の失敗談を、家族は腐るほど知っているものだ。

 なまじ付き合いが短い分、調はそういう恥をゼファーにあまり知られていない。

 だから尚更に、羞恥を感じているのだ。

 普段の部屋でのだらしない姿を家族に見られるのと、クラスの仲の良い同級生に見られるのとどちらが恥ずかしいか。まあそういう話でもある。

 

 

「あー……もぅ」

 

 

 心が落ち込む。

 それが高揚していた分の落差なのだと、調は実感している。

 彼女にとって、それは初めての感覚だったのかもしれない。

 希望を手に入れた後、それを奪われた後の虚無感、辛さというものは。

 そしてその虚無感は、彼女がどれだけゼファーのことを信じていたかという証明でもある。

 

 

「調ー、居るー?」

 

「……? きりちゃん?」

 

 

 膝を抱えていた調は、部屋のドアの影からひょっこり顔を出す切歌を見て、ベッドから降りる。

 既にベトリーチェの件から数日が経っている以上、調も落ち込んだ様子を見せるのは部屋の中だけでだ。外ではそれなりに気丈で居られる。

 元より感情の動きが顔に出にくい調だからこそ、分かりづらいというのもあるのだろう。

 表情豊かな切歌であれば、元気の無さは露骨に出てしまう。

 そして今、調の視線の先の切歌の表情は、露骨に元気が無かった。

 普段と比較すればあるいは、調以上に落ち込んでいるかもしれない、と思わせられるほどに。

 

 

「どうしたの? 何か用?」

 

「んー、まー、そのー」

 

 

 そこでその様子の理由を問うのではなく、まず要件を聞くのが調らしい。

 調は切歌のクセをよく知っている。親友であるし、共に支え合った家族であるからだ。

 切歌が何か隠したいことがある時に、視線を明後日の方向に向けるクセがあると知っている。

 切歌が何か辛いことがあった時に、つま先でとんとんと床を叩くクセがあると知っている。

 けれど、そのどちらも一緒にしていたのは初めてだった。

 辛いことがあれば本心を隠さずぶちまける。隠したいことはだいたいおやつをつまみ食いしたとか、そんな時。調の中にはそんなイメージがあったから。

 

 だが、切歌の口から出てきた言葉は、調の予想を遥かに上回っていた。

 

 

「お別れ、言いに来たデス」

 

「……え?」

 

 

 そこから、調は自分が何を言ったのか、どう切歌の話を聞いていたかを覚えていない。

 ただ、切歌の話の内容だけは一言一句逃さず心に刻み込んでいた。

 信じられない、嫌だ、なんで、そんな気持ちが胸中を駆け巡る。

 放心状態になった調が自意識を取り戻した頃には、目の前には誰も居なかった。

 震える唇が、青ざめた顔が、力の抜ける足が、彼女に今の話が夢でなかったのだと語りかける。

 気付けば、駆け出していた。

 『頼りになる』という一点で、調の中で一番の少年に会うために。

 

 

「ッ……!」

 

 

 しかし、その足は道半ばにて止まってしまう。

 月読調は、ゼファーに無責任に背負わせてしまったものを自覚した。

 少年の背中に全てを任せても、彼が全てを背負いきれる英雄ではないのだと夢から覚めた。

 また頼ってしまっていいのかと、彼女の中の良心が咎める。

 背負わせてしまった重荷を思い出し、足は止まってしまう。

 廊下の半ばほどで、調は立ち尽くしていた。

 しかし、忘れてはならない。

 ゼファーは頼られたから応える、そういった受動の者ではない。

 彼は誰かが苦しんでいる時、そこに能動的に駆け付けてくれる者だ。

 

 

「あ、シラベ? ……なんか、ただごとじゃない様子だな」

 

 

 顔を上げる。

 何故来てしまったのか。何故来てくれたのか。

 そこには、ゼファー・ウィンチェスターの姿があった。

 普段は支えてあげないと、と、彼女が思ってしまうくらいなのに。

 どうしてこんなにも、窮地で彼は頼りがいがあるように見えてしまうのか。

 

 

「……なん、でも」

 

 

 ない。そう隠そうと、強がろうとする調の言葉の続きを、ゼファーは手の平で遮った。

 

 

「悩みがあるのか?

 なら吐き出してみれば、それだけで楽にはなるかもよ。

 言うだけならタダだしな。友達って、そういう時にこそ頼りになるもんだろ?」

 

 

 彼はそう言って、ドン、と胸を叩く。

 ニッと笑う。まるで背負わせてしまった重荷を重荷とも感じていないように、調には見えた。

 この姿に、あの日調は憧憬の気持ちを抱いたのだ。

 希望を見せられる。かすかな希望にすがりたいという気持ちが、調の中にふつふつと湧く。

 「親友の命を諦めたくない」という気持ちが、諦めを打倒する強さが、湧いてくる。

 もう一度信じたいと、強く思う。

 

 調の中で、友に全てを任せてしまう罪悪感と、友を頼りたいという気持ちに加わる友の命を諦めたくないという気持ちが拮抗し、やがて後者が勝利した。

 

 

「きりちゃん、きりちゃんが、Dr.サーフの実験を予定に入れられたって……

 あの人、実験の回数は多くないけど、やる時は使った子を必ず死なせてて……!

 でも、結果も出してるから周りの人もマムも誰も意見できてなくて……!

 きりちゃんが死んじゃう! その日まで、あと、あと、あと、一週間しかない!」

 

 

 月読調は語る。すぐそこまで迫り来た、暁切歌の絶望を。

 

 

「その日はちょうど、きりちゃんの誕生日なの! こんなのってないよッ!」

 

 

 心配をかけないようにと、それを親友に笑って告げようとした、暁切歌の悲痛な決意を。

 理不尽を、不条理を、運命を、「ふざけるな」と叫んで当然の巡り合わせを語る。

 少女の目の端に浮かぶ小さな『涙のかけら』を、ゼファーは見逃さない。

 

 

「ねえ、お願い、私にできることがあったらなんでもするから、だからッ……!」

 

 

 調はゼファーにすがり付き、彼の服を掴んで懇願する。

 普段の無表情で落ち着いた雰囲気の彼女からは想像もつかない取り乱しようだ。

 それほどまでに、子供達から恐れられている研究者なのだろう。

 それほどまでに、調にとって切歌が大切な親友であるということなのだろう。

 マリアでも、セレナでも、ゼファーでもこうはいくまい。

 涙を浮かべ、唯一の希望にすがり付く調の醜態は、親友との永遠の別れが間近に迫っているからこそ、その絶望を避ける方法が何も思いつかないからこそ、そこにある。

 

 そんな調に、ゼファーは肩に手を置いて優しく押しのけ、すがり付く彼女と目を合わせる。

 

 

「なら、信じてくれ。ゼファー・ウィンチェスターならどうにか出来るんだって、そんな風に」

 

 

 月読調は、ゼファーの素顔を知っている。

 ここに来たばかりの頃の、一歩進むことすら勇気が必要だった頃の彼も知っている。

 しかし、『その笑顔』には何の疑問も抱けなかった。

 少し考えれば、ベアトリーチェが死んでしまったことをゼファーが知らないはずがないのに、一度も彼が落ち込んでいる姿を自分が見ていないという違和感に、気付けたかもしれないのに。

 調はゼファーに信じ、全てを託した。

 

 友を信じ頼る気持ち。友に限界があるのだと理解する気持ち。

 それは両方共調の中にあり、天秤にかけられている気持ちだ。

 どちらに傾くこともあるだろう。人は、一つの気持ちだけで生きているわけではない。

 

 

「それがきっと、俺の強さに変わってくれる」

 

「……うん」

 

 

 だから、調の中には二つ方向性の気持ちがある。

 頼れる少年への信頼、その背中に向ける憧憬。

 それらと裏表にある罪悪感、無力感、悲壮感。

 今のまま、このままで居たくないと、彼女は心からそう思った。

 

 その日、戦う力が欲しいと、少女の胸の奥に生まれた気持ちがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暁切歌は歩きながら、己の人生を振り返っていた。

 今になって思い返してみても、笑顔に溢れた人生だったと思う。

 辛いこともたくさんあった。泣きたいこともたくさんあった。

 それでも笑顔で居られる、笑顔に囲まれた人生だった。そう彼女は思える。

 今際の時の前にそう思える彼女は、だからこそいつだって笑っていられるのだろう。

 

 昨日、彼女は死刑宣告を突き付けられた。

 その時のナスターシャの感情を抑え込んだ悲嘆の表情が、とても印象に残っている。

 切歌に運命を告げたナスターシャも、あるいは切歌の表情が印象に残ったかもしれない。

 暁切歌は強い少女だ。

 どんなに辛い境遇の中でも笑おうとするし、他人を笑顔にしようとできる。

 しかし、それは絶望に呑まれないということとイコールではない。

 絶望の天敵たる希望になれるということではない。

 むしろ彼女が絶望の中に居る時に浮かべてしまう表情こそ、常に元気で表情豊かであるために、よりいっそう周囲に悪影響を与えてしまうということもある。

 

 

「あーあ……まだ話したいこととか、やりたいこととか……いっぱいあったのにな……」

 

 

 もうあと一週間も生きられないと。

 楽しみにしていた9歳の誕生日が、命日になると。

 そう言われて、切歌は真っ直ぐに親友の元へと向かった。

 彼女自身は冷静なつもり、いつも通りに笑えているつもりだった。

 しかし、親友の反応を予想できずに何もかもを打ち明けたのも、打ち明ける前に既に異変を察されてしまったのも、結果から見れば全くいつも通りの彼女ではなかった。

 結局、ショックを受けた調を見て、時間を置くべきだと判断し去って行った。

 死の運命に感じる恐怖を和らげようと、親友にすがった結果がこれだ。

 

 死が怖くないわけがない。それは誰だってそうだろう。

 「死なんて怖くない」と笑って言う先進国の人間は多いだろうが、その大半は高い崖の上にでも連れて行くだけで、『死の実感』に立っていることすらできないはずだ。

 死が隣り合わせの場所に生きてきた切歌は、死をリアルに実感できる。

 『どういう風に苦しんで死ぬか』を、目の前で実験によって死んだ子供から、まざまざと見せつけられたこともある。

 だから怖くて、親友にすがろうとした。なのに、今の彼女は一人ぼっちだ。

 

 

(あんな風に、あたしも……)

 

 

 目から、鼻から、耳から、口からを血を流し、苦しみながら死んでいった今は亡き同胞の顔が、切歌の記憶から呼び起こされる。

 とても苦しそうに、痛そうに、「助けて、助けて」と言いながら死んでいった女の子。

 今日まですっかり忘れられていた記憶だったのに、その顔が、自分に向かって伸ばされる救いを求める手が、切歌の頭の中から離れてくれない。

 その末路が、自分と重なってしまうから。

 

 

「は、は、友達死んでも笑ってながら、いざ自分の番が来たらこれデスか……」

 

 

 暁切歌は、家族であるレセプターチルドレンが死んだ時にも、率先して笑う。

 悲しみもする。泣きもする。けれど、ちゃんと立ち上がる。

 それを周りがよく思うからこそ、彼女は人の輪の中心にいる。

 それ周りがよく思わないこともあるからこそ、かつて死神とも呼ばれてしまった。

 死を乗り越えるために、人はいつか笑わないといけない。彼女はそれを体現する。

 しかし、彼女のそういうスタンスに他人が何かを思うように、彼女自身も思うことがある。

 

『友達が死んだ時も笑ってたくせに、自分が死ぬとなれば怯えるのか』と、彼女は自嘲する。

 

 

「他人が死んだ時、笑って乗り越えてんだから……自分が死ぬことだって、笑って……!」

 

 

 周りの笑顔のために、辛い時にも笑っていた。

 だったら、周りの笑顔のために、自分の死も笑って越えるべき。

 だから最後の最後の時まで、『暁切歌』を続けないと……

 そんな、周りの笑顔を思う気丈な決意。

 こらえ切れない恐怖が、悲しみが、無念が原因で、いつも通りの笑顔を浮かべられていない。そんな無情な現実がなければ、その決意は意味を成せていたかもしれない。

 だが現実は、親しい人間に察せられてしまう程度の仮面でしかなかった。

 

 死ぬのは怖い。

 でももし死ぬとしたら、真っ先に心残りになるのは他人のこと。

 死の際に人の本質が出るとしたら、自分がもうすぐこの世界から消えてしまうのだとしても、真っ先に大切な人の身を案じる彼女はまごうことなく優しいのだろう。

 けれど、優しさだけでは簡単に乗り越えられない怖さもある。

 

 いつしか、切歌の身体は震えていた。

 人前ならともかく、自分が死ぬと分かって、笑える少女なんて居ない。

 震える身体を収めようとして、ぎゅっと自分の身体を抱きしめる。

 そうしていると、人の気配が近付いて来るのを彼女は感じた。

 

 顔を上げる。何故か収まり始める震えと、ほんの少しだけ湧いてくる安心感。

 廊下の向こうの曲がり角から、その足音の主は現れた。

 

 

「探したぞ、キリカ」

 

「ゼファー……」

 

 

 ようやく見つけた、と言わんばかりに少し安心した様子だ。

 その瞳は真っ直ぐに切歌を見据える。

 切歌は、思わず目を逸らしてしまう。

 それが自分が目を逸らしている、自分の中の気持ちを見られているような気がしたから。

 

 

「俺が誰に呼ばれて来たとか、言う必要はないよな」

 

「……ああ、調デスか」

 

 

 そこまで言われてようやく、切歌は調が向けてくれている想いを理解した。

 今ここに居なくとも、調が何を思い、ゼファーに全てを話したのかは分かる。

 二人の間には、そういう友情があった。

 親友の気遣いのおかげか、先程よりも少しだけ心も暖かい。

 

 

「調もなんというか、気持ちを吐き出すの躊躇わなくなってきたデスねー」

 

「そうだな。キリカが本音を言わないから、きっとそれでバランスが取れてるんだろう」

 

 

 別の話題を振ってあやふやにしようとするが、手痛いカウンター。

 話の逸らし方にも、どことなくキレがない。

 少し落ち込んでいる程度ならまだしも、今の切歌では誰に対しても誤魔化せはしないだろう。

 重症だと、話に聞いていただけのゼファーも実感する。

 

 

「ちょっとそこでお茶でも飲まないか?」

 

 

 そんなこんなで、死語になりかけているような文句で切歌はゼファーに連れられて行く。

 廊下に備え付けの長椅子に、人一人分の距離を空けて二人は並んで座った。

 ゼファーはブラックコーヒー。目が冴えるのが好きなのと、舌がバカであるためだ。

 切歌はオレンジジュース。なお好みでも何でもなく、適当に選んだだけ。

 ぽつりぽつりと、二人は本題から離れず、本題にも近付かず、そんな話をし始める。

 

 

「あたし今、どんな顔してるデスか?」

 

「俺の知ってる切歌の顔の中で一番魅力の無い顔」

 

「あはは、ひっでーデース」

 

 

 それは逆説的に普段の彼女を魅力的だと告白しているのに等しいのだが、ゼファーは本音を口にしているだけなので特に気にしないし、切歌も精神的に追い詰められていて気付けない。

 しかし、ゼファーでなくとも、今の切歌の姿は見ていられないだろう。

 彼女の輝かしい天真爛漫さが、無いとまでは行かずともなりを潜めてしまっている。

 

 そんな切歌を、ゼファーはしっかりと見ている。

 その瞳には同情も、憐憫も、悲観も、諦めも浮かんでは居なかった。

 いつもの通りの、視線の先にあるものの価値を見つめる瞳。

 他人の中の一番大切なもの、生きたいという気持ちを見逃さない視線。

 死の運命にある哀れな人間であるなどと、ゼファーは切歌に対し微塵も思っていない。

 

 それがあまりにもいつも通り過ぎて、切歌は少し心の中で笑って、安心してしまう。

 だから、なのだろうか。彼女の口が少しだけ、ほんの少しだけ緩んでしまったのは。

 

 

「ちょっと、あたしも吐き出していいデスかね?」

 

「俺でいいのか? 調の方がいいんじゃないか」

 

「ゼファーがいいデス。

 親友だから言いにくいってこともあるデス。

 親友だから言い残して置きたくないこともあるデス。

 調はきっと、変なこと言い残すとずっと傷付いたままな気もしますし。

 だったらあたしは最後までくらーい事は言いっこなしで行くデスよ」

 

 

 ゼファーだから、と切歌は言った。

 それはゼファーが親友ではなく、家族でもなく、それでも他の友達とは違う特別だから。

 そこには信頼と、近すぎない距離がある。

 最後まで、と切歌は言った。

 それは今より死ぬまでの間、調の前で一度も弱音を吐かないという決意ゆえに。

 できるかできないかは別として、綺麗な思い出として終わるのだと、彼女は決めた。

 

 

「あたし、今笑えてますかね?」

 

「そこそこ」

 

「そこそこデスかー」

 

 

 笑えていないわけではない。いつも通り笑えてもいない。中途半端で、だからこそ痛々しい。

 それほどまでに彼女の心中の絶望は大きいのだろう。

 子供達を照らしてくれる太陽の笑顔は、すっかり翳り切ってしまっていた。

 その笑顔が好きだったゼファーも、心なしか気落ちしているように見える。

 

 

「あたし、結構脳天気じゃないデスか。

 みんながシクシク泣いてる時も、一人だけ立ち直るのが早くて……

 泣いてるより笑ってる方がいいって、そうも思うけど、どこにも保証なんか無くて」

 

 

 脳天気に見える人間に悩みがない、なんてものは偏見だ。

 悲しい出来事があった時、切歌は周りの人間よりも立ち直るのが早かった。

 誰よりも率先して立ち上がり、笑えていない人達が後に続けるようにと真っ先に笑い始め、彼女が居るだけで太陽に照らされるように、周りも元気になって行く。

 しかし、周りより立ち直りが早いという長所も、彼女の中の傷の一つになる。

 それは「自分は他の皆より冷たい人なんじゃないか?」「死んでしまった誰かを、他の皆より大切に思ってなかっただけなんじゃないか?」そういった暗い感情を、時に伴ってしまうからだ。

 現実に、彼女は死神とそれを責められている。

 

 

「笑えないくらい辛い時もあったけど、誰かが隣に居てくれたから。

 誰も繋いでくれなくて、冷えきった手を、繋ぐ場所をくれたから……

 あたしが笑えたのは、みんなのおかげデス。

 昔のあたしって、あんまり笑わない子だったんデスよ?」

 

「そうなのか? 想像もつかないな……」

 

 

 それでも笑えたのは、調が絶望の底で自分の手を取ってくれたから。

 マリアが居場所になってくれたから。セレナが慰めてくれたから。

 ナスターシャが導いてくれたから。それだけじゃない、多くの人達が居てくれたから。

 そうやって、手を差し伸べてくれた人達が居たからだと、切歌は心の底から思っている。

 

 だからこそ、暁切歌は、死を前にしても大切な人のことを想うことができる。

 

 

「でも、笑ってる内に、最初のあたしとかどっか行っちゃって。

 歩いてる内に、色んなもの落としてきちゃって。

 ……もう、どこで何を落としたのかも分からない感じで。

 生きてたって、あたしはこれから先もずっと、『あたし』をどこかで無くし続けてく。

 なんか、ヤなんデス。自分が自分でなくなる、こういう感じは」

 

 

 人は生きる過程で何かを得て、何かを捨てていく。

 それが変わるということで、成長するということで、大人になるということだ。

 ゼファーが『相応しい友達になりたい』と切歌達に告げた時、一番困惑したのは切歌だっただろう。彼女は変わるということに、あまり肯定的なわけではない。

 生来、彼女はなんとなく、『自分が自分でないものに変わる』ということに生理的嫌悪感があった。理屈ではない。ただ、そういうものが無性に嫌だった。

 大人に変わって行くということにも、少し抵抗があるくらいに。

 それはこの施設で『大人』というものに偏見を持たされたこと、なりたいと思うような大人とほとんど出会えたことがなかったことと、決して無関係ではない。

 

 

「なんか、笑ってる内に……自分が消えちゃいそうだって。

 どっか誰も居ないところに行ってしまいそうだって、思ったことないデスか?」

 

 

 周りに合わせて、周りの笑顔を第一に考えて、ルーレットで決めているかのようにアトランダムに死ぬかもしれなくて、自分の命も明日をも知れない儚いものにしか見えなくて。

 何もかもが不安定で、立っている場所すら揺らいでいく世界。

 『自分がここに居るのか』と、彼女の中で自分が揺らぐ。

 太陽が輝かしい笑顔の下に隠していた不安、儚さ、弱さ。

 それを今、ゼファーは初めて目にしていた。

 

 

「生きてるのも、だから辛くないわけじゃないデスから。

 ……だから、最後の心残りは、あたしが死んだ後、みんなに悲しんで欲しくないってこと。

 あたしが死にたくない死にたくないって言いながら死んだら、きっと傷になってしまうデス」

 

 

 だから笑うと、彼女は言う。

 作った笑顔の仮面を被って。

 出来損ないの、彼女がいつも心の底から浮かべているそれとは全く別物の、笑顔の仮面を。

 その意志は尊くとも、その笑顔には何の価値もないのだとも知らずに。

 

 

「だから、あの子が最後に見たあたしの顔は……脳天気な笑顔であって欲しい」

 

 

 大切な人が覚えている、自分の最後の顔が、笑顔であって欲しいと、彼女はそう祈る。

 

 

「もし、神様が居てくれたら……

 あたしが消えた後も、みんなをよろしくって、お願いしたいなぁ。

 『ありがとう』って、あたしが伝えきれなかった分の気持ちも、伝えて欲しいデス。

 それだけは、絶対に伝えたいことだから……」

 

 

 その祈りを聞き届ける神様は居ない。

 しかし、その祈りを聞き届ける者は居る。

 少女の祈りはどこか悲痛だ。しかし、それは生を諦めた者の妥協の祈りでしかない。

 祈りはもっと無責任に、欲深に、ハッピーエンドを求めるくらいでいいのだ。

 その祈りが、聞き届ける者の身の丈に合ったものである限り。

 

 

「キリカ。その祈りを、届かない場所に向けるのはやめてくれ」

 

 

 ゼファーは中身を飲み切った紙コップを握り潰し、ゴミ箱へと綺麗に投げ入れた。

 そして、切歌の前に立つ。

 切歌の見上げるゼファーの顔は、切歌も初めて見る感情が込められていた。

 

 

「キリカが何かを落としたら、無くしたら俺が拾って届けてやる。

 だから下も向かなくてもいいし、振り向かなくていい。

 キリカが見失った大切なものは、俺がちゃんと見てるから」

 

 

 だから俯かないでくれと、暁切歌は暁切歌のままだと、そして彼女がそうでなくなってしまう時が来たとしても、そうならないようにすると。

 そう、ゼファーは言う。

 

 

「消えちゃいそうだって言ったな。俺の目を見ろ、キリカ」

 

「う、うん」

 

 

 ゼファーは意図して強い言葉を吐く。

 本音の気持ちを乗せた仮面を被る。

 切歌の気持ちを、ほんの少しでも強く揺さぶるために。

 ゼファーに言われるままに、切歌は気恥ずかしい気持ちを抑え、彼の瞳を覗いた。

 そこに映るのは、瞳の向こう側から切歌を覗き返す、自分自身の姿。

 

 

「瞳の中に……あたしが居る」

 

「俺がお前をちゃんと見てるなら、俺の瞳の中にお前は居るはずだ。

 お前がどこに行っても、お前がお前を見失っても、俺はお前を見付け出す。

 シラベもそうだ。セレナだって、マリアさんだって、先生だってそうだ。

 みんな、暁切歌って女の子をちゃんと見てくれてる。

 自分が分からなくなったら友達の瞳の中でも見てろ。そこにはお前がちゃんと居る」

 

 

 自分を見てくれている人が居る。

 それは生きていく上で、特に意識することもない当たり前のことだ。

 けれど、実感できなければ生きている理由も見失いかねない大切なものでもある。

 今、彼女は自分が他人にちゃんと見てもらっているという自覚を得た。

 笑っていなくても見てもらえる、そんな自分を、周囲の人を知ることができた。

 不思議と、胸の奥が熱くなる。

 

 

「だから……俺達が見てる、一人の友達の命を、諦めないでくれ。

 お前が生きることを諦めるってことは、友達の瞳の中に居るお前を殺すことなんだ」

 

 

 誰かに見て貰える内は、誰かの瞳の中でその人は生き続ける。

 けれど死んでしまえば、もう誰の瞳にも映らない。

 いずれは記憶からも消えていき、誰の中からも消えてしまう。

 誰からも見られなくなってしまうのも、死んでしまうのも同義。

 だからこそ、孤独も死もどこまでも悲劇でしかないのだ。

 

 ゼファーはそれを、ジェイナスの最後に刻まれた傷の痛みから、知っている。

 

 

「言ってくれ、キリカ。生きることを諦めてる奴は助けられないんだ。

 手を差し伸べた時に取ってくれる奴しか、俺は助けられない。引っ張り上げられない」

 

 

 ゼファーは椅子に座る切歌の前に立っている。

 そして、そのまま手を伸ばした。切歌が手を伸ばさなければ、ゼファーはその手を掴めない。

 切歌は迷う。その瞳に浮かぶのは諦め、絶えた望み、頼ることへの迷い。

 友に背負わせる重荷と、「どうせ」という諦観が彼女を縛る。

 救われる側に救われる気がなければ、どんな英雄も救世主も救えない。

 そんな彼女に、彼は叫ぶ。まるで、彼自身も応えてくれることを祈っているかのように。

 

 

「助かりたいなら、手を伸ばせ! ……諦めるなッ!」

 

 

 伸ばした手とは反対の手を胸に当て、心の臓の底から叫ぶ。

 「救われてくれ」「頼ってくれ」と気持ちを込めて。

 切歌だって救われたい。死にたくなんかない。

 それでも現実は残酷で、死にたくないと足掻いても、大切な人に迷惑をかけるだけで。

 そんな切歌を縛る鎖の数々を、ゼファーの叫びが引き千切る。

 

 

「―――っ」

 

 

 堰を切ったように、切歌の口から抑え切れない衝動が吐き出される。

 

 

「あたしだって、あたしだって! 死にたくなんかッ―――」

 

 

 そこからは、彼女自身何を言っているのかも自覚できていなかっただろう。

 止めなきゃ、と思い、言いたい、と思い。

 ゼファーに引っ張りあげられた感情が理性を超え、彼女の中の本音を吐露させる。

 死にたくない、もっとみんなと一緒に居たい、もっとみんなと遊びたい、みんなと一緒に外の世界を見たい、大人になるまで生きていたい、恋だってしてみたい。

 言葉にもならない叫び、声のノイズの羅列。

 それでも彼女が心の底から絞り出した、血の通った祈りだった。

 

 すがるように、切歌は手を伸ばす。

 少女の目の端に浮かぶ小さな『涙のかけら』を、ゼファーは見逃さない。

 その祈りを聞き届け、彼は強くその手を取った。

 

 

「キリカが笑って生きていける明日を、未来を、俺が守る。約束する」

 

 

 守ると約束し、誓いを立てる。

 誰かを守ると口にする度に、誰かと約束する度に、ゼファーの胸に痛みが走る。

 その度に思い出してしまう、今は亡き少女の笑顔があるから。

 きっとこの痛みは、一生彼に付き纏うのだろう。

 彼は後悔と悲しみと痛みに塗られた記憶を、破ってしまった約束の記憶を、噛み潰す。

 そして、暁切歌を守るのだと、それを不動の未来であるかのように語る。

 

 

「キリカの笑顔は素敵だと、そう思うから。

 余計な心配なんてせずに笑ってていいんだ。

 大丈夫、任せとけ。俺が……何からだって、君を守る」

 

 

 それもまた、まだ現実にはなっていない、本気の嘘だった。

 現実にしなければならない、そんな嘘だった。

 君にはきっと素敵な未来がやってくると、彼は何の保証もなく嘯いていく。

 

 手の平から伝わる暖かさに、頼りになるその姿に。

 調を守り、子供達を守り、逆境を跳ね返したその勲に。

 心震わせる、暖かい西風のような声色に。

 自分の体重を全て預けて寄りかかっても、いいんじゃないかと、ようやく彼女は思う。

 唇を震わせて、笑顔の強がりも全て捨てて、切歌は本当の望みを口にした。

 

 

「助けて」

 

 

 ゼファーは震える彼女の手にもう片方の手を重ね、強く応える。

 

 

「助ける」

 

 

 切歌は気付けない。

 ゼファーが無理をして強さを演じていることに気付けない。

 強さも弱さも、ゼファーの一面であると考えている。

 弱さが本質であると思っている調とも、強さのほとんどが演じたものであると知っているセレナとも違う。それが彼の素顔であると疑わない。

 だから全力で寄りかかり、すがってしまう。

 

 

「任せろ。9歳の誕生日も、10歳の誕生日も、もっと先の誕生日達も。

 必ずやって来る。だから普通に楽しみにしてればいい。恐れることなんて、何もないんだ」

 

 

 しかし、彼女は本質的には守る者だ。

 救われるだけの立場には甘んじない。

 調がお姫様であるならば、切歌はヒーローに対応するヒロインとでも言うべきか。

 そして、貰った恩を忘れず、返そうという義理堅さもある。

 貰った言葉を、少し強引に引っ張り上げられた本音と救いを、差し伸べられた手を。

 暁切歌は、忘れない。

 

 その日、戦う力が欲しいと、少女の胸の奥に生まれた気持ちがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 調と会い、切歌と会い、二人と話し。

 ゼファーは今、自室で椅子に腰掛け、策を練っている。

 その内容は勿論、切歌を救う方策に関してだ。だが、その大半はもう固まっている。

 今彼が行っているのは、覚悟を決める、そのただ一行程。

 

 

 もう、この世界に神様は居ない。

 なら……ならば。

 力なき人々が、無念の果てに祈る時。

 その祈りは、どこへ行けばいいのだろうか。

 

 叶わぬ祈り、届かぬ祈り、成しえぬ祈り……

 それらは、ただ泡沫のように消え行くしかないのだろうか。

 どこにも届かず、誰にも聞き届けられないままに。

 

 彼は無力だ。

 才能も、血も、境遇も、師も。今の彼に、力を与えてくれるものは何もない。

 何年も何年も足掻き続けて、ようやく小型のノイズに勝てる、その程度の凡夫。

 強者には程遠く、勇者と呼ぶのもおこがましい、英雄の片鱗もまだ見えない童。

 けれど、ひと度孵れば何にだってなれる卵のような可能性を持っている。

 

 

「俺は」

 

 

 ただ、決意があった。

 

───あの人を、守りたい

 

 生かしたいという、決意があった。

 

 ただ、選択があった。

 

───生きる。生かす。皆で一緒に、明日に行くんだ

 

 全員で明日に生くという、選択があった。

 

 ただ、誓いがあった。

 

───みんなの友であるのだと、胸を張れる自分に

 

 始まりの一歩を踏み出した、誓いがあった。

 

 

「俺は」

 

 

 ただ、願いがあった。

 

───幸せになりたい

 

 どこにでもある、そしてここでは叶わない願いがあった。

 

 ただ、祈りがあった。

 

───死にたくないよ、痛いのも苦しいのも嫌だよ、誰か、誰か

 

 祈りと共に、届けられた無言の悲鳴があった。

 

 ただ、切実なる叫びがあった。

 

───助けて

 

 彼に道を選ばせた、そんな叫びがあった。

 

 

「俺は」

 

 

 神様が、祈りを聞き届けてくれないのだと知った時。

 それでも、その祈りが叶わないことを受け入れられないのなら。

 その祈りが、どこかに届いてくれることを望むなら。

 神様の代わりに、祈りを聞き届ける者の存在を願うなら。

 

 その想いは、『英雄の卵』を孵す熱となる。

 

 

「俺は、まだ、果たさなきゃいけない責任がある」

 

 

 少女の信じる心が、祈りが、涙のかけらが、彼を奮い立たせる。

 そして少年は仮面を被り、祈りを聞き届け立ち上がる。

 部屋を出た少年の背中には、まごうことなき覚悟があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 進む先は、Dr.ウェルの研究室。

 全てを知っているかのように、男はそこで両手を広げて待っていた。

 そしてゼファーの顔を見て、少しだけ驚いたような顔を見せ、予定調和のように話しかける。

 

 

「三日間。君に最後に会った時から、今日我々が会うまでの時間です。

 あの少女の死を告げてから一度も会っていませんでしたが……

 いや、少し驚きました。君、ゼファー君ですよね?」

 

「はい、ゼファー君ですよ。俺以外にゼファー君とやらが居るのなら別でしょうが」

 

 

 男子、三日会わざれば刮目して見よ。

 三日間。ゼファーが子供達の前で仮面を被り続けた時間でもあり、そしてマリエルと顔を合わせていない時間でもある。

 その間、彼はウェルとも顔を合わせていなかった。

 だが、ウェルも監視カメラから見てはいたはずだ。

 つまり白々しくのたまっているか、実際に目にして本気で驚いているのかのどちらかなのだが、反応から見るにおそらく後者なのだろう。

 

 

「例の件、こんなに早く頼まれるとは思っていませんでした」

 

「Dr.サーフには俺も一度会ってます。

 俺の『代案』、情での訴え、金銭を餌にしての取引や勝負……多分、全部ダメです。

 あの人は研究が第一で、本当に揺るぎなく命の価値を見ていない。

 良心が無いわけではないですけど、俺の手だけで実験を中止させる方法は無いくらいに」

 

「ま、君では限界があるでしょうね。僕は別ですが」

 

「だからあなたを頼るんです。ウェル博士」

 

 

 ゼファーが先日、守護獣について聞いた時にウェル博士に要求した二つの内の一つ。

 『自分の命を担保にすればどれだけの価値となるのか』という提案が、それだった。

 ゼファーは決して、自分の命が失われる実験には参加しようとしなかった。

 彼の生きる意志はとても強い。

 対価に何をチラつかされようと、ゼファーは自分の命を危うくさせる類のウェル博士のデータ取りには、絶対に手を貸そうとはしなかった。

 

 しかし今、ゼファーは『自分の命がどうなってもいい』という前提で、ウェル博士のあらゆる実験への参加を申し出ている。

 怪しい薬の投薬もOK。機材を付けて崖から飛び降りさせるのもOK。猛獣との戦いもOK。

 死ねと言われても許容はできないが、事実上死ねと言われている程度の実験であれば、能動的に参加するという取引を終えていた。

 その対価は、実験の危険度に応じたウェル博士への要求。

 例えば、他研究者とのコネ。例えば、ウェル博士の持つ影響力の行使。

 例えば、他の研究者の実験の中止要請。

 

 Dr.サーフはマッドサイエンティストであると、ゼファーは直接会って知っている。

 今回切歌を実験に使い、そのまま冥府に送る可能性も高いと知っている。

 そして、ゼファー・ウィンチェスター単独ではどうにもならない人だとも知っている。

 だからゼファーは、ウェルの危険な実験への参加を対価に、ウェルに切歌の実験を止めさせようとしているのだ。

 例え切歌を助けるために、その実験で自分が死ぬかもしれないのだとしても。

 

 

「流石に僕でも一人でDr.サーフの意を曲げられるほどの権力はないです。

 ナスターシャ主任を巻き込んで、生化学セクションで頭数を集めて……

 そうですね。あとは、機械工学セクションを釣れるデータが有ればなんとかなりますか」

 

 

 ウェルはその気になれば何だって出来る。

 その気にならないだけだ。そして嫌がらせのようなことには、割とその気になる。

 彼の脳内では、ゼファーの想像もつかないような悪巧みが広げられているのだろう。

 ウェルがキーボードを叩くと、ゼファーの目の前に浮かぶように半透明のモニターが現れ、そこに何らかの戦いの映像を流し始めた。

 

 

「君には『これ』と戦ってもらいます。戦うのなら、君の生死も勝敗も問いません」

 

「え、な、これ、はッ……!?」

 

 

 画面を覗くゼファーが、思わず絶句する。

 生死問わず(Dead or Alive)

 つまりそれは、生きて勝つ目など微塵も無い強さの相手であるということ。

 ウェル博士にとって、フィーネの方針も、ナスターシャの方針も知ったことではない。

 ここでゼファーが死んでもなんとかなるだろうと、そんな風にすら考えている。

 

 

「僕の計算では君は勝率0%、生存率14%……まあ、そういう相手です。

 機械工学の第一人者であるトカ博士の力作です。壊せるなら、まあ壊しても構いませんよ。

 これに対し対人の有用な戦闘データが得られるなら、万金の価値があります」

 

 

 天才の計算による零の勝率。それは、揺るぎようのない不動の絶望。

 

 

「模造特異災害『ノイズロボ』。スペックは本物と同等と考えてよろしいかと」

 

 

 戦車を粉砕する。銃弾を弾く。コンクリートを体当たりで突き抜ける。

 映像の中で、『人の知性をもって操られるノイズ』が戦場を蹂躙している。

 その強さは、ノイズと長年戦ってきたゼファーが本物と見紛うほどのもの。

 

 ゼファーの目の前のパネルの中で、動き回る無数の災厄の贋作が牙を剥いていた。




本編の死ぬのが怖いけど死んだ後に何かを残したい、って勘違い全開黒歴史ファイネストで突っ走ってた切歌ちゃんですが、本放送時に予想されてた通り死んじゃってたら洒落にならないくらい健気な鬱キャラだったでしょうね

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