戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ   作:ルシエド

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正月ボケと難産が重なりまして遅くなりました
他ジャンル短編は時々適当に書きます


第八話:Ave Maria

「お前さんの髪が真っ白になってしまったのは……ワシのせいでもあるんじゃろうなあ」

 

 

 もう、何年も前の事になるだろうか。

 最初の友、最初の親友、最初の仲間、リルカが死んでしまった後のこと。

 夜、布団の中でうなされるゼファーの手を握り、髪を撫でて安心させてやろうとするバーソロミューの姿があった。

 しかしその視線は少年の髪で止まり、老人に苦渋の表情を浮かばせる。

 

 

「その歳で、ストレスで髪が染まってしまうとはのう……」

 

 

 ゼファーは他人と自分の髪や肌の色の違いを認識するよりも前に、幼い内に髪の色が抜け落ちてしまった。忘れようとする自己防衛反応の記憶障害が、それに拍車をかける。

 その日からずっと、ゼファーの髪は白一色だ。

 天然ものでない、ストレスによる変色の髪が、クリスの髪色と比べれば汚く見えていたのも当然だったのかもしれない。泥汚れの色が沈着してしまっていたというのもあるのだが。

 

 何年もずっと、ストレスによる脱色が続いているということは、それはイコールで髪を真っ白にしてしまうだけのストレスが、ずっとこの子供にかかり続けているということだ。

 殺し、殺され、無慈悲に死別させられる地獄。

 それがゼファー・ウィンチェスターの髪を白く染め続ける。

 彼の白い髪は、救われていない彼の心の色そのものだ。

 

 バーソロミューは、そんな彼が無邪気に笑えていた頃を覚えている。

 実母と同じ色合いだった少年の『青い髪』が揺れていた頃を、覚えている。

 

 

「もし、お前さんが救われる日が来た時は、この髪も……」

 

 

 バーソロミューが優しく少年の髪を一撫ですると、少しづつ、少しづつゼファーの様子は落ち着いていき、やがて安らかに眠り始めた。

 その行動は、愛する孫を寝かしつける祖父そのもの。

 その視線からも、髪を撫でる優しい手つきからも、彼の愛は感じ取れる。

 それでも、愛があれば何もかも上手く行くわけがないというのが、人生の難しい所だ。

 

 そして、バーソロミューのような舞台から降りてしまった人間だけが知る事実が、重要な事実であったり、何かを変えてくれるはずだった事実であるということもある。

 その人物が舞台から降りてしまったことで、闇に葬られてしまう真実もある。

 因縁、伝承、人間関係、血縁、その他諸々。

 

 先史の英雄ロディ・ラグナイトの髪色は、目も覚めるような鮮やかな『青』であったという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第八話:Ave Maria

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ナスターシャ・セルゲイヴナ・トルスタヤは、まともな人生を歩んで来れなかった。

 それは彼女に責があるのではなく、彼女の両親に責がある。

 彼女の両親は犯罪者であった。

 それも世界を転々とし、顔を何度も変えながら、経歴を詐称して金を巻き上げる詐欺師の夫婦。

 一番多く使っているのは古美術商の顔であり、多くの人間から金を巻き上げていたという。

 まだナスターシャが『アナスタシア』という名だった頃、彼女は幼い容姿で取引相手を油断させ(たばか)り、両親に犯罪の手伝いをさせられる毎日だった。

 

 そんな父と母だ。ロクに愛情を注いで貰った覚えもない。

 その上その二人は、娘を前時代の日本集落の子供のようにすら考えていた。

 つまり、無計画にヤるだけヤって、デキたらデキたで自分達の手足としてこき使い、生活が苦しくなったら売る『財産』。まるで、金銭と引き換えに売られていく前時代の農村の娘のように。

 だからこそ、至極妥当に、残酷な別れは訪れる。

 詐欺の手伝いを何度もさせられ、真っ当に幸せも噛み締められないまま、彼女は売られた。

 父と母が手にした、一握りのはした金と引き換えに。

 

 とはいっても、テンプレートな娼館や奴隷といった末路にはならなかった。

 彼女の両親は裏の世界に精通しており、『発覚させない』という点を最も重視していた。

 自然、娘を売る先は別ジャンルの同業者。

 つまり、限りなく合法あるいは合法に見える人身売買組織である。

 

 その組織は、子供の『単価』を上げて売りつけることに重点を置く組織だった。

 子供は買い取り時点で容姿、あるいは能力を見て選別。

 買い取りの後にある程度の教育を施し、好感を抱かれやすい子供を仕上げる。

 そして不妊症であるなどの理由で子供を欲しがっている夫婦を中心に買い手を探し、仲介料や手数料などと称して金を巻き上げる。

 

 この組織の問題点は、違法犯罪なんでもござれな真っ黒組織であるのに、極めて合法的な顔も持っているという点だろう。

 公に広告も出している。多くの孤児院などとも渡りを付けている。

 そして何より、料金設定がかなり割高であるだけで、子供を買った側のほとんどが大きな満足感を得られているという点だった。

 法を守らないこと、信用を売り物にすること、その矛盾する二つの両立が、この人身売買組織の繁栄の理由である。

 

 更に言えば、先のない孤児、あるいは売られるような子供に幸せなど望むべくもない。

 金持ちの玩具として可愛がられた方が幸せ、とだって考えられる。

 法を完全に無視しているという一点を除けば、最大多数の幸を追求していると言えなくもない。

 売られる子供達からすれば、ひどくシステマチックに自分達を物扱いしているこの組織が、自分達を人間と見ているだなんてこれっぽっちも思っていないのだろうが。

 

 そうしてナスターシャも親に売られ、ある程度の教育を受け、子供を欲しがる買い手に売られていった。悪趣味な金持ちか、性的倒錯者か、あるいはそれ以下の誰かか。

 そんなナスターシャの悪い予想は、いい意味で覆される。

 彼女を引き取った養親は、とても普通だった。

 普通に優しく、普通にいい人達で、ただ奥さんが病弱で、それだけが普通ではなかった。

 引き取られたナスターシャは、普通に愛され、普通の幸せを享受し、普通に育っていく。

 温厚な養父に頭を撫でられ、病弱な養母を看病し、幼いながらに家事を手伝い褒められて。

 けれど、そんなごく普通の当たり前の幸せですら、彼女にとっては生まれて初めてと言っていいくらいに過大なもので、彼女は夢を見ているような心持ちになっていた。

 

 

「私がこんなに幸せになっていいのか」

 

 

 なんて、思ってしまうくらいに。

 彼女がその幸福に慣れ、新しい家族に愛情を抱き、学校にも行き始めた頃。

 この頃になると、彼女は自分以外のものを見る余裕ができてきた。

 自分を売り、またどこかへと詐欺のカモを探しに行った両親。

 ナスターシャと同じように相手の警戒心を引き下げる娘役として、まだ利用されているであろう歳の離れた幼い妹。

 犯罪の片棒を担いでしまった罪悪感。

 愛されていなかった過去。

 家族から愛されていなかったということが、当たり前のことではなかったという現実。

 未来永劫、血の繋がった家族から愛されることはないという事実。

 

 誰にも話せず、彼女はそれらを抱え込みながら育っていく。

 

 前の両親から貰った『アナスタシア』という名を捨て、今の両親に『ナスターシャ』と名乗り、今の両親の家名を名乗る。

 同じ名を使うのでもなく、丸っきり違う名を使うのでもなく。

 それが彼女の意思を表していた。

 悪いことをしていたことを無かったことにして、忘れようとはしない。

 かといって昔の自分のままで居るようなことはせず、変わろうとする。

 一生使い続ける名前という戒めに、彼女は決意を込めた。

 

 変わろうと考えた。

 変わらなければならないのだと思った。

 過去を無かったことにせず、生きていかなければならない未来があった。

 

 

「果たさなければならない責任がある」

 

 

 幼い頃、彼女はそう口にした。他の誰にでもなく、自分自身に向けて。

 今の両親から向けられる愛を背中に、勉強を頑張った。

 最初は違和感しか無かった幸せをむず痒く感じながら、子供から大人になっていった。

 誰かを騙す大人ではなく、新しいものを生み出す大人になりたいと、夢を得た。

 そうして彼女は、『研究者』となった。

 彼女は夢を叶えたのだ。そして人生は、夢を叶えた後も続いていく。

 

 不幸な境遇に生まれ、両親に売られた絶望の底で、彼女は希望を手にした。

 それは巡り合わせの幸運で、両親の愛で、名も無き友人達の友情で、平和な日々で。

 彼女はそれを、偶然や必然だなどと思ったことは一度もない。

 それは彼女の恵まれた出会いがくれた、誰かの意思がくれた、贈り物の幸せだったからだ。

 

 それをいつか、誰かに返していかなければならないと、彼女はそう思える大人になった。

 自分は幸せにしてもらった。自分は手を差し伸べてもらった。

 だから自分も同じように、自分のような子供に手を差し伸べ、幸せにしてやらないと。

 そうして幸せは巡っていく……なんて考えるような、とても真っ当で優しい大人に。

 教授として大人になる前の者達に教鞭を執るようになり、彼女は正しい道を進んでいった。

 

 しかし、彼女はその道を自らの意志で外れてしまった。

 

 その界隈ではそこそこに高名な研究者、な友人からの誘いにて明かされた事実。

 迫る世界の危機と、それをもたらす魔神についての話。

 バックに誰が付いているのか、想像も付かないほどのスケールの話の数々。

 そして、そこで行われている実験と、子供達の境遇を耳にした。

 

 全てを聞かなかったことにして、何も無かったことにするという選択肢も提示されていた。

 世界の危機と子供達の命を天秤にかけている場所がある、という事実。

 そこに、『F.I.S.』に来ないかという誘い。

 それらを全て知らなかったことにして、見なかったことにする選択肢があった。

 眉唾な話だと、自分を騙して信じないという選択肢だってあった。

 

 彼女が幸せになりたいのであれば、その誘いに乗るべきではなかったのだろう。

 今まで通り、夢の後の平和な人生を過ごすべきだっただろう。

 その誘いを受けるということは、自らの意志で『加害者』の側に立つのだということだ。

 彼女が今も嫌っている、子供を自分のために踏み躙った、彼女の両親のように。

 

 

「いいでしょう。受けます」

 

 

 それでも、見なかったことになんか出来ないと、知らないフリなんか出来ないと、彼女はそう思う。世界の危機を他人事のように思うなど、彼女にはできなかった。

 彼女は世界の危機と知ったなら、世界に生きる一人として立ち上がる側の人間だった。

 「他の誰かがやってくれるだろう」と流す側の人間ではなかった。

 そうして彼女は、世界のために、子供のために、自分にできることを探しに行った。

 米国連邦聖遺物研究機関(Federal Institutes of Sacrist)と呼ばれる、その場所へ。

 

 その日から今日に至るまで、彼女の中の矛盾は続いてきた。

 

 彼女は知っている。

 大人の都合でいいようにされる、子供の苦痛を。

 それが幸せを当たり前に感じられなくなってしまう、歪みを産んでしまうことを。

 泣きたくなるあの辛さを、肌に染みて覚えている。

 

 彼女は知っている。

 聖遺物との親和性を示す人間は多くはない。

 そして、現在レセプターチルドレンでもない成人にその親和性が確認されたことはない。

 この分野で最も深い知識を持つフィーネいわく、『存在としての可能性』の量ですら、聖遺物との親和性に影響するのだという。

 いずれは発見されるのかもしれないが、それが現状を変えてくれるわけでもない。

 唯一の希望である聖遺物は、子供の血と涙を欲しているのだ。

 

 彼女は知っている。

 世界の危機を避けるには、特殊な子供を踏み付けにしてでも異端技術が必要なのだと。

 そんな異端技術の完全版があっても、滅びてしまったのが先史文明なのだと。

 それを滅ぼした敵から、70億の人間を守るために足掻く誰かが必要なのだと。

 手を汚す誰かが必要なのだと、歯を食いしばっている。

 

 本当は誰だって、傷付けたくないのに。子供を守って、頭を撫でてやりたいのに。

 なのにできない。歩み寄ることにすら罪悪感がある。

 苦悩しながら、罪悪感を捨てきれず、自分を可哀想だと思い込むことすらできない不器用さ。

 板挟みとは、彼女のことを言うのだろう。

 

 もしも彼女が自分のしたいようにして、世界より子供を取ったとしても、それは世界人類70億を見捨てる選択に他ならないのだから。

 彼女を愛してくれた今の家族と、何十年もの人生で仲良くしてきた全ての人達の死。

 そんなものが選べるだろうか? 選べるはずがない。

 そして彼女がやらなければ、別の誰かがやる。そういうものだ。

 人生を積み重ねれば重ねるほど、大切な人が増えれば増えるほど、『世界より君が大事だから』なんて青臭い台詞も、それに類する選択もできなくなってしまう。

 

 そうして、割り切れないままに苦悩し続けて、もうどれほどの年月が経っただろうか。

 

 

「……ん」

 

 

 ナスターシャはそうして、夢の中の記憶の海から帰って来た。

 自分がこれ以上なく打ちのめされた、ひどい現実に。

 ウェル博士とフィーネの二人に彼女が現実を叩き付けられ、眠り、数時間が経とうとしていた。

 

 

「もう、こんな時間ですか」

 

 

 彼女にとってはいつものことだ。

 無力感を感じることも、足掻いて空を切ることも。

 それでも今日の出来事は、彼女の体力を相当に奪っていた。

 

 ゼファー・ウィンチェスターは、フィーネの気分一つで死なせられる立場にあった。

 その話は無くなったわけではない。焼却処分か凍結処分か、どちらにしろ生存の道はなく。

 それを知るのはナスターシャを始めとする数人の研究者のみで、彼本人も知らないことだ。

 ある意味、本人はそうと知らずに綱渡りを続けさせられていたわけである。

 

 ならば何故、ゼファーは今日まで生きていられたのか?

 それはフィーネが一定量はゼファーのデータを取ろうとしたこと、そしてウェルが助命の嘆願と様子見の期間の延長を申し出たからだ。

 その手段をナスターシャは知らない。

 まさかフィーネの実弟を引き合いに出したなど、夢にも思っていないだろう。

 

 しかし、それでも延長でしかない。

 ゼファーを生かす理由、あるいは生かすことで発生するメリット、得られた成果などを提示できなければ、彼は処分されるだろう。

 ゆえにナスターシャは、この日のために準備をしてきた。

 ウェルとナスターシャはフィーネに「ゼファーを生かしてもいい理由」を提示し、納得させようとして、今日まで準備を続けてきたのだ。

 子供達を見る時間を削って、自分の時間を削って、その上で仕上げてきたナスターシャ。

 片手間にささっと仕上げた様子のウェル。

 どう転がるかは、誰にも分からなかった。

 

 しかし、結果から見れば、彼女にとって見るも無残な結果に終わる。

 

 彼女は得意とする統計学を用い、ゼファー・マリア・セレナの三人を対象として、数多くの有用なデータを提示した。

 いくつかはフィーネも諸手を挙げて賞賛したほどで、ナスターシャが非凡な人間でないこと、ゼファーを生かすためにどれだけ頑張ってくれたかを表していた。

 事実、才能があるだけの人間では集めようがない根気の要るデータ量と、根気があるだけの凡才では到底成し得ない閃きによって成された研究結果だった。

 何度命を切り捨てようがそれに慣れようとせず、子供一人のためにここまで頑張れる彼女は、だからこそ子供達に慕われるのだろう。

 しかし、そんな彼女の成果を見ても、フィーネは妥協しなかった。

 

 

『ダメね。決定は揺らがないわ』

 

 

 何がそれほどまでにゼファーを殺させようとするのか、それは彼女らにしか分からない。

 しかし、非凡な人間が膨大なデータを元に組み立てた研究結果をもってしても揺らがないのであれば、それは生半可な理由ではないのだろう。

 ゼファーを生かして得られるものより、ゼファーを生かして失うものを恐れているかのようだ。

 年齢から考えれば体調が不安になるほどに根を詰め、これしかないと言っていいほどの出来に仕上げたものを提出し、一言で容易く切り捨てられた時。

 食い下がるでもなく、嘆くでもなく、怒るでもなく、ナスターシャはただ瞳を閉じて俯いた。

 

 子供のような諦めの悪さを見せない、その物哀しい背中が、よくない意味で大人らしかった。

 

 

「それじゃ僕の番ですかね」

 

 

 鼻でもほじるように無造作に、ウェルは手元のコンソールを弄る。

 フィーネが目を軽く見開いたのを見て、ナスターシャはその時点で確信した。

 『自分の望んだ結果がもたらされてしまった』、という一つの絶望を。

 

 

「時間の概念に縛られない素粒子の存在、というのは言うまでもありませんが。

 僕はかねがね、これが『未来予知』や『嫌な予感』というものの原因だと思っていました。

 未来から情報を持って来てくれる『なにか』と、それを受け取る人間の『どこか』の存在」

 

 

 ウェル博士の着眼点は、既存の観点に縛られる凡人や天才と同じ次元にない。

 外野から見れば、SF小説か何かかと思うようなことを、いとも容易く証明してみせる。

 

 

「今回、それの存在を証明したデータをまとめておきました。

 新素粒子と、個人差はあれど脳の素粒子観測能力の発見……になるんですかね?

 まあれです。ざっくり言えば、『運命を感じ取る力』とでも申しましょうか」

 

 

 新素粒子に脳の未発見器官・未発見機能。

 こんな複数分野のノーベル賞ものの発見をしておいて、生化学という自分の得意分野の延長で発見してしまう、証明してしまう規格外。

 チップの配線に他人が頭を悩ませている横で、ガンダムをサクッと作ってしまうような、一足飛びの飛躍をしてくる、己の成功が他人を傷付ける逸脱者。

 天才が何故悪行なくとも人に嫌われるのか、彼を見ているとよく分かる。

 

 資料を見る限り、ウェルは三人分の被験データしか用いていない。

 セレナ、マリア、そしてゼファーの三人のみ。

 ゼファーのデータが飛び抜けて多いものの、ナスターシャのように時間と労力をかけて作ったものではないというのは一目見れば明らかだ。

 三人の脳を比較し、データを重ね合わせ、生死を左右するような実験をゼファーに課してデータを煮詰め、ほぼ片手間の労力でナスターシャを上回るものを完成させた。

 それに対し、ナスターシャがどんな気持ちを抱くのか、という話。

 

 

「もしも世界が滅びる運命にあると仮定しましょう。

 あの姉妹なら、『世界が滅びるという確信』を乗せて歌を歌うこともできるでしょうね。

 未来という事実が根幹にあるその歌は、どんな人間の心だって揺らせるはずです」

「もしも誰も彼もが死ぬ未来、そんな運命を彼らが見たと仮定しましょう。

 己が死ぬことでその未来を回避できるなら、そんな選択をすることもあるかもしれません。

 自己犠牲で一人が死んで、沢山の人間が助かったら多分それでしょうね」

「また、自分の意志と力で運命をねじ伏せることもあるでしょう。

 運命を変える……すなわち、未来を変える権利を『彼ら』は持っている」

 

 

 仮定に仮定を重ねたものを十数個、彼は例に上げてみる。

 現実にそうなるかは別として、そうなるかもしれないと思わせる仮定ではある。

 ウェルの語る『彼ら』はゼファー達を指すのか、それとももっと大きい括りであるのか、彼の言葉のニュアンスからは読み取れない。

 もっと大きい括りであるならば、それはもっと漠然としたものだろう。

 物語の主人公、あるいは勇者、あるいは英雄。

 

 それはウェルの考える、バッドエンドの天敵達だ。

 そういった人物達が悪い未来を無意識下で感じ取り、覆しているのだと考えることは、そこまで突飛な発想ではないだろう。

 何の下地も無い状態で口にすれば「妄想乙」で終わってしまう話だが、運命の悪い流れを感じ取る脳機能をウェル博士が証明した今となっては、あり得る話となってくる。

 古今東西、歴史を紐解けば「悪い未来の予知」「自分の死の瞬間を見た夢」「夢の中の光景のデジャブ」なんて話は山ほど出てくるものだ。

 裏付けにする資料ならば、それこそ腐るほどある。

 

 

「ま、それがあってもあのザマですから、実際はそこまで大したものではないでしょうがね」

 

 

 この研究テーマを選んだからには、ウェルはこの能力を重要視しているのだろう。

 しかし、運命を感じ取り変える力を持っているというのに、ズタボロのボロ雑巾のようになってようやくギリギリの勝利を掴んだゼファーを、ウェルはどうやら以前までと同じようには見ていないようだ。

 良い言い方をすれば、嫉妬や嫌悪のような何かが目減りしている。

 悪い言い方をすれば、失望と軽蔑のような何かが増している。

 ような、というのはあんまりにもねじ曲がっている上に他の感情が混ざってしまって、言葉にしづらい精神状態であるためだ。

 

 総じて言えば、ウェルは以前より更にゼファーを明確に見下していた。

 

 

「結論から言いますと、トカ博士がこれのエミュレートを可能だと太鼓判を押してくれました」

 

 

 そして、驚きの事実を告げる。

 それは『英雄の量産』を、いつかの未来に可能とさせるもの。

 ゼファーの唯一の武器を、誰にでも扱える武器として、あらゆる人間に配ることを可能とするもの。英雄否定の技術革新。

 今すぐには無理だとしても、それでも十二分に驚愕の研究結果であった。

 

 

『素晴らしいわ、ウェル博士。門外漢の身で、本研究を疎かにせずよくぞここまで』

 

 

 フィーネは心底、彼の研究結果に感嘆しているようだ。

 この男は傑物も、勇者も、主人公も、人工的に作ることができる業を生み出そうとしている。

 どんな人間でも、英雄になれる技術を。

 いったい、どんな思考と欲望がこの男の原動力となっているのだろうか?

 一見ゼファーを引き続き研究するために一定の成果を出しただけにも見えるが、それなりに長い付き合いのナスターシャには、ウェルが隠してる本音がうっすらと透けて見えている。

 この『誰であってもゼファーと同じかそれ以上になれる』研究結果に、ウェルは何かを思い、ゆえに普段よりずっと上機嫌であるようにも見える。

 

 

「で、実際僕の見せたこの研究でどのくらい猶予が貰えますか?」

 

『いくら貰えると思う?』

 

「……九ヶ月、では?」

 

『ダメね、半年だけよ』

 

「これはまた厳しい……」

 

『分かるでしょう? 早めに不安定要素を消しておきたいという、私の考えも』

 

 

 この時のために、一番時間を費やしたナスターシャが完全に蚊帳の外。

 この時のために、一番労力を費やしたナスターシャが話から完全に外されている。

 この時のために、一番懸命になっていたナスターシャが、あまりにも可哀想だ。

 無情すぎる。

 ナスターシャが欲しかった結果を得られなかったのも、ウェルがその結果を得られたのも、『個人の才能の差』の一言で片付いてしまうのが、なにより残酷だ。

 二人の間には、英雄と兵士、大人と子供ほどの差が存在する。無論、才覚に。

 それを実感しているからこそ、ナスターシャは誰にも見られない口内で強く歯を軋る。

 

 

「それではその件はまた、次の機会に」

 

『ええ、また。ナスターシャも秀逸ではあったし、今回の件で権限を一つ上げておくわ』

 

「……ありがとうございます。ミス・フィーネも、息災で」

 

 

 分かっていたはずだ。

 理屈をこねくり回して積み重ねる自分では、直感的に真理へと至っていく天才にはどうやっても届かないと、分かっていてもそれでも、諦めることだけはできなかった。

 だからこんなにも、ナスターシャは悔しいのだ。

 子供達のためと口には出さずに心中で誓いを立てておきながら、この体たらく。

 世界のためと子供達の不幸を切り捨てる覚悟を決めたつもりが、覚悟を決めきれずにこうして不要な感情を産み、そして世界を救うための研究も天才には届かない。

 この世界は彼女のように、優しく諦めの悪い者に対しどこまでも厳しい。

 

 通信が切れ、画面のフィーネの顔と声が消える。

 ウェルは挨拶もなしに出て行った。

 薄暗くなった部屋で一人、彼女は疲労した身体を椅子に預け、いつしか眠ってしまっていた。

 

 そして、今に至る。

 自分の幼少期から今に至るまでの映像を夢の中で見て、目覚めて現状を確認する過程でウェルとフィーネの件を思い返し、薄暗い部屋でナスターシャは一人天井を仰いだ。

 片方の手を強く握り締め、もう片方の手で目を覆う。

 慣れていたはずの劣等感と無力感が、ひどく胸に痛い。

 

 

「……望んだ結果を得られたことを喜ぶべきだというのに、なんと情けない……」

 

 

 ここまでの流れを考えれば、彼女が素直に喜べるはずがない。

 誰だって、自分が関係のないところで自分の思い通りになることよりも、自分の手で、自分の努力の結果として思いが叶って欲しいと思うものだ。

 こんな無力感にまみれた目的達成など、心を苦しめる毒でしかない。

 それもこれも、フィーネとウェルがナスターシャとは根本的に『違う』というのが問題なのだ。

 

 彼女には分からない。

 現生人類より遥かに高い先史文明人の視点を持つフィーネと、常人には見えない景色と常識の中で生きているウェルの考え方が、全く分からない。

 苦悩しながらならまだしも、平気で子供を使い捨てられる人間の気持ちが分からない。

 どこまでも『普通にいい人な大人』であることが彼女の欠点で、同時に彼女の長所で、彼女を苦しめる要因だ。

 彼女は責任感から悪をなすことができるとしても、根本が良心的な大人過ぎた。

 

 

「……ふぅ」

 

 

 だが、彼女が子供思いなのは、彼女が良心的な大人だから……というだけのことではない。

 彼女が優しいということだけでも、愛の深い人であるということだけでもない。

 無論それらが主にあるのは確かだが、それに突き刺さるトゲのような記憶がある。

 

 ナスターシャには、歳の離れた一人の妹が居た。

 

 生き別れになり、両親にどこかへ連れられていってしまった、たった一人の妹。

 前の両親とは違って、ナスターシャは今でもその妹に対しては家族としての感情を持っている。

 しかし、探すにも今ではもう両親がどこに居るのかすら彼女は知らない。

 妹が今どうしているのかすら、彼女には分からない。

 ただ売られたナスターシャの境遇を考えれば、ロクな境遇に放り込まれていないということだけは分かる。借金を背負わせて捨てる程度なら、平気でする両親であったからだ。

 

 だから、贖罪だったのかもしれない。

 自分が優しくしてやれなかった、救ってやれなかった、守ってやれなかった幼い妹の姿は、もう生き別れてから三十年近く経っているというのに、彼女の瞼の裏に焼き付いている。

 最後に彼女が見た妹の顔は、父に手を引かれて連れて行かれる最中に振り向いた、不安な横顔。

 見捨てられたような悲しい横顔。一緒に居て欲しいと願う寂しい横顔。姉と離れ離れになってしまうその時に妹が見せた、小さな絶望。

 三十年近く経っても拭えない、幼少期に刻まれた姉としての罪悪感。

 

 もしも今生きていたら、セレナやゼファーくらいの年頃の子供が居てもおかしくないと、ナスターシャは益体もなく考える。

 妹の境遇を知るすべなんて無いけれど。

 それでも、この世界のどこかで幸せに生きていて欲しいと、彼女はそう願っている。

 彼女もまた、一人の姉であったから。

 

 

「……皆に幸あれと思えど、未だ現実はままならず」

 

 

 彼女にも、誰にも語ろうとしない過去があり、自分にしか見えない大切なものと想いがある。

 その大切なものを尊び、何かをしようとして、それでも理想に届かせるだけの能力が足りていないことが、笑えない形の悲劇だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大人達の敢闘も知らず、ゼファーは一人廊下を歩いていた。

 バーソロミューが生まれ付きの色は青だと言った髪は、絶望に全てをリセットされたかのように一度白く染まり、今では何故か黒く染まっている。

 まるで彼に与えられた『致命的な変化の爪痕』を、目に見える形で表しているかのように。

 

 

「この髪……」

 

 

 ゼファーは自分の髪をいじる。

 色々と一段落ついて、彼の周りも落ち着いてきた。

 逆に言えば数ヶ月もの間、ゼファーは目の前のことに必死になるあまり、それ以外のこと……自分のことを考えることすら、後回しになっていたということでもある。

 それはヴァーミリオン・ディザスターで一人になってしまったことから、その痛みから、彼が目を逸らしていたということでもあったのかもしれない。

 

 色々とあったせいで薄まっていた記憶の断片、あの遺跡で得られた情報も、今ではそのほとんどを思い出せている。

 だからか、ゼファーは一つの妄想のような推測にたどり着いていた。

 ゼファーはロードブレイザーという魔神の存在、『降魔儀式』と呼ばれていたあの遺跡のシステムの概要を知っていて、そこから推察を組み立てる程度の頭もある。

 

 

(もしかして、俺の中に、あの魔神が……?)

 

 

 だが、彼は頭がいい人間ではない。ただ必死に考えているだけの人間だ。

 瞬時に多くの可能性を考慮し、瞬時にふるいにかけて正答を絞り込む。そういう頭のいい人間とは違う、間違えることも多いのがゼファーという少年だ。

 ただ少しだけ、直感により正答に至る指標が多く。ただ少しだけ、他人と言葉を交わすことで間違ってしまうことを減らしているだけで。

 正解だけを選ぶことを、この少年に期待してはいけない。

 

 

(……いや、そんなわけがない。俺じゃ器としてはあんまりにも小さすぎる)

 

 

 ゼファーがこんな答えに至ったのも、あながち間違った思考過程ではない。

 彼はロードブレイザーという魔神の凄まじさを、水晶に見せられた。

 だからこそ「自分ごときの器には収まらない」という結論に辿り着く。

 ロードブレイザーの受容体(レセプター)に自分がなれるわけがないと、そんな結論。

 何か『特別な資格や才覚』でも無い限りは、ただの子供が魔神を内包できるわけがない。

 その点において、彼の推測は見事に的中していた。

 

 自己評価の低さ以外にも、彼がこの結論に至った要因が二つ。

 

 何故かは分からないが、ロードブレイザーに関することに対してだけは、ゼファーの直感は働いてくれない。そもそも何に対してでも働くわけではないのだ。

 例えば「自分は将来的にこの人と結婚するか? イエスかノーで」と現実味のないこと、目の前に見えていないこと、ゼファーが熱意をもって知ろうとしないことに対し、勘は働かない。

 ゼファーが覚悟と決意をもって目の前の現実と運命を変えようとしてこそ、直感は彼に運命を変えるための選択肢を提示してくれる。

 

 そしてもう一つ。

 遺跡で降魔儀式についての文を解読したのはゼファーではなく、ジェイナスだということだ。

 ゼファーは彼から又聞きしたに過ぎない。

 ジェイナスはゼファーが理解できるよう相当に掻い摘んでいたし、細部は全くと言っていいほどに語っていなかった。

 もし、もう少しだけ詳しく降魔儀式について知っていたならば、違う答えも出たかもしれない。

 

 

「……あれ? 先生?」

 

 

 考え事をしながら歩いていると、彼のの視線の先でナスターシャが歩いていた。

 よろよろとふらついていて、どうにも危なっかしい。

 

 ゼファーはここに、Dr.サーフの雑用として手伝いに来ていた。

 Dr.サーフは切歌を使い潰そうとしていた研究者。

 しかもしようとしていた実験を直前でキャンセルされたことから、初めて会った時、ゼファーはいい印象は抱かれていないはずだと覚悟して行った。

 しかし、反応は予想とは全くの逆。ニカっと笑うサーフに、ゼファーは迎えられる。

 

 

―――いやあ、儂が昔作った作品をああも使われるとな、嬉しいもんだよ

 

 

 話してみて、ゼファーは人聞きの印象が覆っていくのを感じた。

 自分が作った作品を全て自分の子のように思い、死蔵されることを悲しく思い、戦闘で派手に使われたことを嬉しく思う、研究に思い入れを持つ思考回路。

 それでいて、生きている人間に思い入れを持てないために、人体実験でどれだけ他人を使い潰そうが何も思わないという思考回路。

 またしても、ぶっ壊れた思考の持ち主だった。

 「ああ、困った人なんだな」とだけ感じたゼファーも、たいがいではあったが。

 そこでゼファーはカルティケヤを味方に引き込んだ『代案』を示すも、サーフに対しては有効ではなく、自分の側には引き込めなかった。

 しかし、その日に『子供を死なせる実験を一時後回しにする』という約束を取り付ける。

 それだけでも、十分すぎる成果であった。

 

 その日からゼファーはこまめに彼を手伝い、少しづつだが譲歩を引き出していた。

 彼の力だけではない。十人にも満たないが、彼に協力的な研究者達も協力をしてくれた。

 『代案』は改良され、サーフに提供できるメリットも増え、もしかしたらいつかサーフからも大きな譲歩を引き出せるかもしれない、というところまで来ている。

 ノイズロボとの戦闘の日から、妙に仲良くしてくれるDr.トカの協力や改善案もゼファーにとっては強力な追い風となってくれていた。

 ナスターシャ、ウェル、トカ、サーフと既に四セクションのトップがゼファーに協力的であり、ゼファーの活動から多くの研究者が彼の動向に注目している。

 侮蔑を初めとした負の感情を向ける研究者も一人や二人ではないが、それでもゼファーは少しづつ、少しづつ仲間を増やしていた。

 

 数ヶ月の日々の積み重ねで、少しづつ彼は繋がりを作っている。

 一つ一つ積み重ねるように、ナスターシャが研究でそうしているように。

 だからゼファーがナスターシャと同じ研究区画に居ることは、何も変なことではない。

 ゼファーではなく、今不意に倒れたナスターシャにこそ、異変はあった。

 

 

「先生ッ!」

 

 

 少し離れた位置に居る人間が倒れて、倒れる前に駆けつけることは不可能だ。

 だからこそゼファーは、彼女が『倒れる前』に動き、滑りこむように受け止める。

 倒れたコースを見ると、観葉植物の大きな植木鉢の淵に頭をぶつけるコース。

 彼女の年齢を考えれば致命傷になりかねなかったことに、彼の背筋がゾッとした。

 

 

「……ん、う、ゼファー?」

 

「大丈夫ですか? 今から医務室に連れて行きます」

 

 

 原因は連日の研究による疲労だろう。

 良い言い方をすれば、彼女なりの足掻き。

 悪い言い方をすれば、無駄な足掻きであった時間。

 その果てに疲労で倒れ、助けようとしたゼファーに逆に助けられるなど、なんと皮肉なことか。

 

 彼女はゼファーのために頑張ったことを口には出さない。

 そんな恩着せがましいことはしない人間であるし、倒れた今となっては彼の罪悪感となってしまうだろう。たとえ彼女の研究が彼を救っていたとしても、口にはしないはずだ。

 全てを胸の中に収め、彼女は生きていく。

 大人は子供を頼るのではなく、頼らせるものなのだと、そう思っているから。

 責任感が強いから、彼女はこんなにも辛いのだ。

 

 だから、心の弱った彼女が子供に吐いたその弱音は、彼女の生涯でも数えられるくらいに少ないものであった。子供に弱い部分を見せること自体は、初めてだったかもしれない。

 

 

「……情けない大人で、ごめんなさいね」

 

「何言ってるんですか?」

 

「私がするべきことを……あなたに、全て丸投げしてしまっている」

 

 

 子供に希望をあげること。

 子供を犠牲にしなくてもいい形にここを変えること。

 世界を救う可能性を示すこと。

 子供と大人の仲立ちをすること。

 子供達に幸せを、笑顔を、未来をあげること。

 どれもこれもが彼女のやりたいことで、ゼファーが少しだけ成したことで、彼が成す道の先にあるものだった。

 

 自分がやりたかったことを数ヶ月で実現しそうになっているゼファーに、嫉妬や反感、無力感や劣等感を覚えないほど、ナスターシャは聖人君子ではない。

 よくない想いも抱いているはずだ。

 ……だが、それでも。

 彼女の中にある最も大きな気持ちは、それらのどれでもなく、重荷を背負わせてしまったことに対する罪悪感だった。

 子供に向ける思いやりと、優しさと、心配だった。

 

 それはきっと、母の愛に近い。

 理由も言わずに泣いて暴れたり、仕事に疲れた日の夜の深夜に夜泣きして起こされたり、好き嫌いが激しくて愛情を込めた料理を投げ捨てたり。

 子供は沢山の理由で、大人や親の感情を逆撫でする。

 それでも母は、子を憎んだり嫌ったりはしない。愛し続けるのだ。

 負の感情のどれよりも、子供への愛が勝る彼女は、きっと一人の母だった。

 

 

「いや、本当に何言ってるんですか? 先生」

 

 

 しかし、彼女には理想の母というには足りないものがある。

 彼女は子供が自分に向ける気持ちを、きっと分かってあげていない。

 

 

「俺が踏ん張ろうと思えたのは、先生の後を追って行きたかったからですよ。

 自分は二番目です。先生が先にやってくれてたことを、俺は俺なりに真似してるんです」

 

「―――」

 

 

 その言葉にナスターシャは息を呑み、思考が停止した。

 

 英雄とは、代弁者である。

 戦いの場にて、戦えない力なき者達が胸の奥に押し込めた『当たり前の主張』を口にする者である。その口は、独善を語ることを許されない。

 力なき者を背に、その言葉を代弁し、立ち向かう何かにその意思をぶつけ、変える。

 民主主義における指導者などその最たるものだろう。

 彼らは国で最も大きな力を持ち、弱者の言葉を反映しなければならないという義務を持つ。

 

 ゼファーの行動だけで、多くの人間があっという間に変われるわけがない。

 子供は思ったはずだ。

 ゼファーの目指すものは、ナスターシャが目指していたものと同じだと。

 大人は思ったはずだ。

 『あんな子供』が、ナスターシャと同じことを言っていると。

 ナスターシャが先に目指していたからこそ、その変革は少しだけ楽に受け入れられる。

 言葉に熱持つ子供がその後に続いたからこそ、ナスターシャの主張に重みが乗る。

 

 個人の語る夢想と、複数人が続いた夢想は、段が違うものだ。凡人であっても数を集めれば、流されやすい人間の思考を一色に染め上げるくらいはできるものである。

 そして英雄は、言葉においても一騎当千。

 千人が声を揃えて放つ言葉と等価の言葉を口から漏らす。

 ゼファーはそれには程遠いが、当百程度の言葉の重みを持っていた。

 何故か? それは、彼の主張がどこかナスターシャを真似ていたからに他ならない。

 彼の言葉が、ナスターシャの代弁であったからに他ならない。

 

 ナスターシャがこの施設で何年も重ねてきた時間を、努力を、頑張りを、優しい言葉を、繋がりを、研究を、苦悩を、想いを、愛を形にしようとしていたからに他ならない。

 

 それはまるで、親の仕事を幼い子が継ぐと決意するかのような、親の夢を受け継いでそれを追うのだと子が決意するかのような、そんな尊い想い。

 

 

「俺が一人じゃないって……そう思えるから。頑張れるんです」

 

 

 調の夢を繋ぎ、切歌の未来を繋ぎ、今また、ナスターシャの愛を繋ごうとしている。

 自らの意志で、ゼファー・ウィンチェスターは他者のために戦い続ける。

 子供の祈りも、大人の祈りも、全てを聞き届けて形にするため血を流す。

 いつかのどこか、誰かの運命を変えるために。

 今またここで、ゼファーは一人の女の運命を変えていく。

 

 

「そんな……では、あなたは……」

 

 

 ゼファーはこの研究所で、変えなければと想いを抱いた。

 そして同じ思いを抱いていた人を真似、その人の目指したものを見た。

 後追いであっても、彼は彼女にとって同じ想いを抱く同志。

 ずっとずっと、諦めて子供を傷付け続ける大人達と、諦めて全ての運命を受け容れる子供達の間に立ち続けた孤独な戦士(ナスターシャ)に出来た、初めての仲間。

 『変えられない現実』という絶望に挑む戦場で、初めてナスターシャの背を押してくれた、希望の西風であった。

 二人は共に、力なき者のために、諦めない者である。

 

 

「ちょっと言うの恥ずかしいですけど……なんというか、俺、先生を母親みたいに思ってます」

 

 

 涙をこらえる。

 何年も続けてきたナスターシャの威厳あるポーカーフェイスは、ゼファーの言葉に感じた気持ちを、目から溢れそうになる気持ちを何とか抑え、いつもの表情を形作る。

 涙が鼻の奥に流れ込み、小さな痛みと共に喉の奥を焼く。

 

 

「大切なことをたくさん教えてくれて、厳しいけど優しくしてくれて。

 ……俺、親代わりの爺さんとか兄みたいに慕ってる人は居ましたけど。

 でも、親ってものを知らなかったんです。だから……なんというか、初めての気持ちでした。

 ああ、お母さんって、こんな感じなのかな、って。

 いやまあそのなんというか、言われた側の先生は困惑というか、迷惑かもしれませんけど」

 

 

 ナスターシャが重ねてきた努力は、頑張りは、直接的に命を救い守ったことは少なかったかもしれない。空振りに終わったことの方が多かったのかもしれない。

 その数年が変えたものは、ゼファーの数ヶ月に負けるのかもしれない。

 どれだけの労力を費やしても、天才には届かない非凡でしかないのかもしれない。

 世界のため、子供のためと動いても、結果を出せないのが彼女の運命なのかもしれない。

 

 

「……いえ、迷惑などではありませんよ」

 

 

 ……けれど。それは絶対に、無価値でも無意味でもなかったのだ。

 

 良心を捨て切れずに足掻く彼女を見ていた子供達が居た。

 彼女を見て、冥府魔道に堕ちきらなかった大人達が居た。

 ナスターシャには敵が居て、味方が居て、慕う子供が居て、眩しいものを見るように接する大人が居て、そして今。彼女の後に続く、ゼファーという味方も得た。

 彼女が良心を捨て切れずに貫いた生き方は、絶対に無駄なんかではなかった。

 彼女が他者にもたらした救いとは、結果ではなく、今日までの過程にこそ存在する。

 

 劇的な何かではない。

 日々の積み重ね、会話の中の気遣い、優しい言葉、暖かい抱擁、向ける愛。

 それはヒーローが弱者を戦いの中で助けるような救いとは別の、傷付いた子に母が寄り添い、抱きしめながら傷を癒やすような救い。

 英雄に救われた者がいくら敬意を抱こうが、それが家族への愛に勝ることは滅多にないだろう。

 英雄が救った子供に親と呼ばれることはなくとも、ナスターシャは今、母と呼ばれている。

 その救いは、時に英雄のそれを上回ることもあるはずだ。

 

 ナスターシャは、こんな単純にことですら、今日まで気付けていなかったのだ。

 いや、気付かないようにしていた。

 自分を母と慕う子供達を犠牲にする痛みにまで耐えられるほど、彼女は強い人間ではない。

 だから子供達も『マム』と、少しだけ誤魔化した言い方をしていた。

 ナスターシャが最後の一線を踏み越えていない理由を、聡い子供達は気付いていたから。

 

 ゼファーがそれに気付いていないわけがない。

 ならば何故、彼はナスターシャと子供達が越えていなかった一線を越えたのか?

 言い方を変えれば、誰もが変えようとしていなかったことを変えようとしたのか?

 それは、今のこの施設の現状と、未来への誓い。

 ノイズロボとの戦いに勝ったあの日から、ゼファーはレセプターチルドレンの死、及び危険な実験の全てを一つたりとも起こしていなかった。

 もしも。もしもこの状況をいつまでも続けていけるなら、子供達がナスターシャを母と呼ぶことに問題は何一つ無いのである。

 

 勿論、それは理想論だ。

 ゼファーのいつもの、無責任な『現実にしなければならない虚言』でしかない。

 今日まで死人ゼロというのも、ナスターシャ・ウェル・トカといった協力的な人、条件付きで味方で居てくれるサーフ・カルティケヤといった人の協力でなんとか形にできているに過ぎない。

 明日には崩れていてもおかしくない、砂上の楼閣。

 だからこそ、それは「もう誰も死なせない」という未来への彼の誓いでもある。

 そして、彼が感じとった運命に対する、無意識下の行動でもあった。

 

 

(なんだろう……なんか、ここで、何か言わないと、なんとかしないと)

 

 

 ナスターシャはもう限界だ。倒れてしまったのがその証。

 ここで一つ吹っ切れることができなければ、ナスターシャの末路は決まる。

 罪悪感と孤独感に押し潰され、救いのない結末が待っているだろう。

 なのに。

 彼女を縛る鎖の一つをゼファーは千切ろうとするも、少しだけ、ほんの少しだけ届かない。

 

 ゼファーではほんの少しだけ、届かない。

 時間が足りていないのだ。積み重ねた時間が、言葉に目には見えないものを乗せる時間が。

 ゼファー・ウィンチェスターでは、ナスターシャに完全な救いを示せない。

 どこまでも、彼はまだ卵でしかなかった。

 

 

「あ」

「あ」

 

 

 しかし、そこに救い主が現れた。

 

 

「あ、マリアさん、ちょっと」

 

「……」

 

「聞こえなかったふりをして行こうとしないでください……

 あの、俺そういうの本気で泣きたくなるので、その、なんというか」

 

「……なに? って、マム!? どうしたの一体!」

 

 

 ゼファーの「行かないで」的な情けない声に思わず同情し、一定の距離を取るというスタンスに反して足を止めてしまったのが、なんともマリアらしい。

 しかしそこでようやく背負われているナスターシャに気付いたのか、あたふたし始めた。

 ナスターシャの見慣れた、ゼファーの見慣れていない姿。

 マリアに急かされ、医務室に走りつつ何があったのかとか先ほどの会話諸々を含めて全部吐かされるゼファー。しかしゼファーもなんで倒れてたのかわからんちんである。

 とりあえずは寝かせるべきだと医務室のベッドに寝かせ、そこからはマリアのターン。

 子供達からオカンのように慕われるマリアはその人望に違わず、生傷の絶えない子供達への手当においても一流だ。ナスターシャの手当も、ゼファーがするより数段いい。

 

 

「とりあえず、今日は起きちゃダメよ。マム」

 

「ありがとう。マリア」

 

 

 ベッドに横たわるナスターシャの微笑みも、どこか力なく見える。

 マリアが壁に視線をやると、ここまで大人一人を背負ってマリアに状況を説明しながら全力疾走して来たゼファーが、ぜはーぜはーと息を切らせて膝に手を付いていた。

 ゼファーが説明した「母」絡みの会話に、今、マリアの心は揺らされている。

 彼女だって呼びたい。だけど我慢してきたのだ。彼女を『母』と呼ぶことを。

 迷う。マリアは今、迷っている。

 

 それがナスターシャの重荷になるからと、ナスターシャに一線を越えて近付こうとはせず、彼女を母とは呼ばず、マムという呼称で誤魔化して。

 マリアがナスターシャを慕う思いは本物だ。

 だからこそ、マリアは彼女をそう呼ばない。

 機会がなければ……最悪、どちらか片方が死んでしまうまで、ずっと。

 

 ゼファーの胸の奥が、不思議と熱くなった。

 無意識下で蠢く直感が、意識にまで昇ってこない感覚が、変えねばならない運命を感じ取り、彼の心を突き動かす。

 なんとなく、なんとなくではあるが。

 ゼファーはマリア達が、ナスターシャが死んでしまった後に、途方も無い後悔と感謝を込めて「お母さん」と口にする未来が、実現してしまいそうな気がした。

 生きている間に一度もそう呼び合えなかったという悲劇が、先の未来にありそうな気がした。

 他人の死と同じように、ゼファーはそんな未来を受け入れない。

 

 

「マリアさん。『そう』呼べるのは、親と子が生きてる間だけなんです」

 

「ゼファー……?」

 

 

 問題はない、なんとかすると、ゼファーは目で訴える。

 ゼファーの言葉には、両親が物心付く前に死んでしまった一人の子供としての、一度たりとも血縁のある親と話すことが許されなかった子供としての実感がこもっている。

 マリアの視線の先には、弱々しいナスターシャの姿。

 ここまで弱ったナスターシャの姿を、マリアは初めて目にする。

 ……罪悪感ではなく、支えてくれる誰が居ないからこそ、ここまで自分を追い詰めてしまったのだと、マリアには分かる。

 何年も一緒に居て、ずっとずっと愛されてきた実感があるから。

 娘が母のことを理解するように、マリアはナスターシャを理解している。

 今のナスターシャに必要なのは『救い』なのだと、理解している。

 

 

「それが明日以降も続いてく保証なんて、どこにもないんです、マリアさん」

 

 

 いつか呼ぼう、そう呼ぼう、そう考えている内に、別れの言葉すら告げられないままに、死に別れてしまうマリアとナスターシャの未来。

 そんな実感のある未来を避けるため、ありったけの想いを込めて彼は言葉を口にする。

 ナスターシャに向ける感情。マリアに向ける感情。

 その言葉が、ほんの少しだけ、砂漠に落ちた針程度の大きさで、運命を変える。

 

 マリア・カデンツァヴナ・イヴは思う。

 自分がそう呼ぶことで彼女に重荷を背負わせてしまうなら。

 もっともっと近づいて、その重荷によろめく体を支えてあげればいい。

 そう開き直って、口にして、体を起こし何かを言おうとしているナスターシャを、抱きしめた。

 

 

「……体を大事にしてね、『お母さん』」

 

「―――」

 

 

 娘が母に言うのなら、どこまでも普通で、当たり前のこと。

 マリアがナスターシャに言うのなら、それはきっと奇跡にも近かったこと。

 

 

「……ええ。貴女も、これからの季節、体を冷やさないように」

 

 

 母が娘に言ったなら、どこまでも普通で、当たり前の返答。

 ナスターシャがマリアに言ったなら、それはきっと奇跡にも近かった返答。

 母は自分を抱きしめる娘の背中に手を回し、優しく抱き返す。

 

 娘が母の、母が娘の体を気遣う言葉のやりとり。

 その言葉自体は、この世界に星の数ほどありふれているもののはずだ。

 けれど、この二人にとっては、星のように遠い言葉だった。

 一歩踏み出せば言えるはずだったのに、一つ間違えれば永遠に交わす事のできない言葉だった。

 

 それはきっと、ナスターシャと何年も一緒に居た子供にしか言えない言葉で、彼女の罪を許す言葉で、彼女に対する感謝の言葉で、彼女に向けられた愛の言葉。

 『家族』からしか与えられない救いだった。

 陳腐で、ありふれていて、劇的な言葉でもなんでもなくて、だけど救いになる言葉。

 ナスターシャの罪悪感も、少しは薄れたはずだろう。

 

 マリアがナスターシャを救う、そのためにほんの少しだけの後押しをしたゼファーは、いつしか医務室から消えていた。

 「自分が何かしたわけでもないし、あそこに自分が居るのは無粋だ」という思考から、彼は空気を読んで二人が腹を割って話す時間を作った。

 感謝されることも、恩を着せることも彼は求めてはいない。

 ただ、抱きしめ合う二人を、マリアの横顔と表情の見えないナスターシャの青い髪を見ながら、二人の会話の最初の部分を聞いて、もう大丈夫だと思って、嬉しくなって。

 誰かが少しでも救われたんだと、そう感じた時に湧き上がる嬉しさが、彼にとっては十分すぎるくらいの報酬になってくれる。

 

 

「よし、もう少し頑張るか」

 

 

 研究者の名前をいくつか頭の中に思い浮かべ、ゼファーはそこへと向かう。

 「もう誰も死なせない」という誓いを守らなければならない理由が、また一つ増えた。

 そのためにできることを精一杯やろうと、強く歩み出す。

 マリアがナスターシャを何の障害もなく母と呼んでいける明日も、彼は守らなければならない。

 

 

「今ではないいつか、ここではないどこか、知ってる誰かの笑顔のために」

 

 

 そんなことを口にして、歩き出そうとしたゼファーが振り返る。

 何かを囁かれたような気がして、けれど近くには誰も居ない。

 気のせいだったのかと、首をかしげるゼファー。

 

 

「……?」

 

 

 やがて、再び歩き出す。

 自分に囁いた何かに気付くこともなく、彼は元の道に戻った。

 ナスターシャを母と想い、ナスターシャが見えていなかった彼女の『家族』との間を取り持ち、そして今また、彼女らのために戦う道へと彼は戻っていく。

 

 

 

 余談を語ろう。

 闇に消えた、誰もが物語の最中に知ることはない、舞台の上の役者の誰もが知らない真実を。

 ナスターシャがまだアナスタシアだった頃。

 彼女の両親は彼女の妹を連れ、ロシアからアメリカへと渡る。

 そこからまた北へ南へ飛び回り、人を騙して金を巻き上げ、挙句の果てに路銀が尽きたからなんて理由で、借金をして娘を置いて蒸発した。

 置いて行かれたナスターシャの妹は、紆余曲折の果て、赤ん坊の一人息子を他人に託す。

 先史の英雄ロディは青い髪だった。ナスターシャは、アナスタシアは青い髪だった。

 ロディとナスターシャの間に血縁はない。

 だから、誰も気付かない。

 ナスターシャとゼファーの関係に、数奇な運命に、ゼファーとナスターシャを死してなお見守り、幸せを祈り、寄り添う存在に。

 

 ゼファーの生まれつきの髪の色は、彼自身ですら知りはしないのだから。




 神の視点でだけ分かる家系図
 青髪ってWA主人公とアガートラームの資格証明書みたいなものだと思ってます

マム妹―ロディの子孫の夫
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ゼファー・ウィンチェスター

 無印での発言からするとフィーネが復活したのは本編の12年前
 なのに日本とアメリカが捜索していたであろう見つけられた正規適合者って、セレナと翼とクリスしか居ないんですよね。準適合者も含め日本人とかフィーネの血縁の疑いのある人ばっかという

 マムって威厳あって慕われてる割にGでの功績とかアメリカ政府との交渉の件とか、Gでは有能枠に入れてもらえてない気がします。マリアさん? しーらんぺっ
 特にすごいことしてなくても好かれるのが母親ポジションだと思います

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