戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ 作:ルシエド
鼠が見つけて笑いました。
「馬鹿だなあ。誰も見る者はないのに、何だって動いているんだえ」
「人の見ていない時でも動いているから、いつ見られても役に立つのさ」
……と、懐中時計は答えました。
「人の見ない時だけか、又は人が見ている時だけに働いている者は、どちらも泥棒だよ」
鼠は恥ずかしくなって、コソコソと逃げて行きました。
夢野久作「懐中時計」
「俺って、変な奴なんでしょうか」
「おにいさんが、こんなこといいだして」
ナスターシャにとって、その少年は同じ思いを抱く仲間であり、けれど庇護すべき子供である。
立派な所もあるが、年齢相応の部分もあると知っている。
だからこそ厳しくした。意図してではないが、優しくもした。
ゼファーはそんなナスターシャを、恥ずかしげに一度だけ母と呼んだこともある。
けれど一度だけで、それ以降はずっといつも通りの『先生』呼びだ。
まあゼファーが「先生」と呼ぶのは彼女だけなので、特別と言えば特別なのだが。
マリエルに手を引かれて連れて来られたゼファーは、開幕で自分を変なやつなのかもと言い出した。いや、実際に変なやつではあるのだろうが。
子供に言われたのか大人に言われたのかは分からないが、流石に何度も言われて気にし始めたのだろう。いや、実際に変なやつなので仕方ないのだが。
どこがどう変で、どう直せばいいのかまできっちり指摘してくれる、雪音クリスという親友が居てくれないという問題点が表出していた。
そんな彼を見て、ナスターシャは一瞬子を見る母のような笑みを浮かべる。
自分を頼って来たマリエルの気持ちに応えたいと思う真剣な気持ちより、思春期のありきたりな悩みを言い出したゼファーの微笑ましさがおかしくて、少し口元が緩んでしまった。
しかしそれも一瞬で、すぐさま鉄面皮に戻る。
ふん、と、彼女は鋼鉄の表情のまま、鼻で笑った。
「誰にだって変な所はありますよ」
彼女は表情も、声も、時には行動も厳しい。
優しさを見せる時もあるが、基本的には子供を躾ける厳しい母親だ。
子が間違った時、それを認め許すだけでなく、間違えないように厳しく当たることも、また親の役目である。
「私生活、仕事のこだわり、食事の癖、異性の好み。
他人から見れば異常、本人からすれば正常と言えることなど、それこそ腐るほどあるものです。
例えばインターネットの中で、平気で他人を罵倒できる人を異常者だと言う人もいるでしょう。
ですが、している本人からすればそうでもないのかもしれない」
変、とは二種類ある。
自分と比べて変。それと、世間の一般常識と比べて変。この二つだ。
どちらにしろ「普通じゃない」と思われたものがそう言われる。
しかし、それはどこまでも言う方の主観によるものだ。
変だと言われた人物が自分を変だと思っていないことの方が、圧倒的に多い。
「逆もあります。
思春期の子供によくある、自分が異常……言い換えれば特別であるという思い込み。
他人から見れば滑稽でも、本人にとっては真剣なのでしょうけどね」
「俺も、そうだと?」
「さて、どうでしょうか。それは私が断じてしまっていいものではありませんので」
ゼファーにはそういうものがよく分からない。
彼はまだ子供だ。「思春期にはよくある」という大人がよく使うフレーズを聞いて、納得できる子供はそう多くはないだろう。
こういうフレーズは実体験が伴うからこそ説得力が出るのであり、聞く側に実体験があるからこそ共感されるのであり、大人が思っているほど子供には伝わらない。
「後で苦労するんだから今の内に勉強しておけ」という台詞と同じだ。
そういうものは、子供にはよく分からないのだ。
「実際、他人から見てなんでもないことでも本人はカウンセラーが必要なこともあります。
自分から見てただのじゃれあいと遊びでしかなかったものが、
相手からすればいじめであり、苦痛でしかなかったということもあります」
だが、ナスターシャの言う『視点の違い』というものは、ゼファーにもよく分かる。
「分かりますか?
貴方が思っているほど、貴方は変ではないかもしれない。そういうことです」
かもしれない、で締めくくっているのが、この言葉の肝だった。
「自分が変な奴かどうか、最後に決めるのは貴方です。
ですが、自分を変だと本当に決めつけていいのですか?
15年も生きていないであろう、貴方が」
子供は大人ほどに世間を知らない、というのは先日の研究者と同じことを言っている。
けれどナスターシャが口にしているのは侮りではない。選択の提示だ。
「自分の言っていることを変だと思っていいのか」と、そう言っている。
ゼファーは少し悩み、考えた後、またナスターシャに問いかける。
「先生から見た俺は、どうですか?」
「どこにでも居る、特別でもなんでもない思い悩む子供です」
「……そうですか」
その問いかけを、彼女はズバリと切り捨てた。
そこに嘘偽りはない。彼女はゼファーを他の子供達と何も変わらない、他の子供達と同じように大切にしたい、そんなごく普通に心優しい子供だと思っている。
重荷を背負っても大丈夫な子供だなんて思ってはいない。
褒める所はきっちり褒めるが、子供を比べて特定の誰かを特別扱いすることは決してない、そんな子に愛される母のようなスタンスである。
「誰にだって変な所も特別な所もあります。それが普通なのです」
ナスターシャは、その歪みの根幹にも気付いている。
それが一朝一夕で治らないものなのだということも分かっている。
「
誰もがみな特別で、変であるのが普通なのです。それが人間というもの。
『どこにでも居る平凡な少年』など、本の中にしか居ないのだと心得なさい」
ただ、それを放っておいていいものだとは思っていなかった。
「自分だけが特別だとか、変だとか思うのはおやめなさい。誰もがそうなのです。
自分だけが特別で、自分だけが背負わなければならないものがあると思い上がっているのなら。
その思い上がりは、今日限りで捨ててしまいなさい」
特別でないのだから、特別なことをする必要はない。
他人に任せてもいいのだと、ナスターシャは暗に言う。
少し頑張り過ぎな彼への忠告も込めて。
母のように思っていると言ってくれた子に対する、目一杯の気遣いだった。
「ありがとうございます。……でも、大丈夫です。
自分が特別だとか、思ったことは一度もないですよ」
だから、その言葉が届かなかった時点で。
彼女は、自分では彼を決定的に変えることができないのだということを、理解してしまった。
「あの、わたし、へんになっても、おにいさんのことすきですよ」
「嬉しいこと言ってくれるな、マリエル」
マリエルは、椅子に座っているゼファーの膝の上に座っていた。
そんな彼女を優しく抱きかかえ、頭を撫でる。
まるで兄と妹のようだ。
ナスターシャが抱いていた不安が、ありふれた人の営みの光景に、少しだけ薄れていく。
「もう少しだけ頑張らせてください、先生。あと少し……あと少しなんです」
ナスターシャはため息一つ。
彼が何のために頑張っているのか理解できるために、あまり強く止められもしない。
今は彼の「もう少しだけ」を、信じることにした。
第八話:Ave Maria 4
ゼファーがこの施設に来てから九ヶ月の月日が経った。
クリスと彼が共に戦っていた期間が一年だったことを考えれば、ここで彼が育んできた友情と信頼にも実感が伴ってくる。
しかしながら四季がほとんどない地域の、太陽灯はあれど陽の差さない地下の研究所にずっと居たということもあって、時間経過の実感は割と薄かった。
あっという間に感じたのは、ゼファーが忙しく生きていたというのもあるのだろうが。
そんなこんなでゼファーは今日も、ウェル博士の要望に付き合っていた。
具体的にはウェル博士のチェスに付き合って、初心者の身でウェル博士にいたぶられている。
(……あれ、これどこで詰み回避になるんだ?)
「それ、自殺手ですよ」
「え? あ、すみません」
『人生はゲームではない』。
その言葉は真剣さの有無という意味で使う以前に、一つの真理だ。
何故ならば、真っ直ぐな人間がゲームでは相当に弱者の部類に入るからである。
現実において、真っ直ぐな人間とはそれなりに報われる人種であるにも関わらず。
ゲームで強い人間は頭の良い人間、あるいは悪辣な人間である。
真っ直ぐな人間が勝てるのは真剣にすらなれない底辺、あるいは子供のような初心者にだけだ。
しかし現実においては、ゲームと仕様がある程度は似通ってはいるものの、真っ直ぐな人間が絶対に報われないということはない。
頭の良い人間に利用され、悪辣な人間に踏みつけにされ、真面目になれない人間や未熟者にしか勝てないこともある真っ直ぐな人間。
しかし。それでも人は、優秀な人より、悪辣な人より、真っ直ぐな人を信じる。
そう、「信じる」のだ。
ゲームにおいて、駒同士に信頼が芽生えることは絶対にない。
それがゲームと現実の最大の違いと言っていいだろう。
盤上の勝敗を信頼が左右することすらある、数値化出来ない信頼というファクター。
それがないからこそゲームは分かりやすく楽しく、いつか単調に感じられる。
それがあるからこそ人生は辛く、それが些事に見えるほどに素晴らしいのだ。
チェス一つとっても、その人間の人格や人生というものは見えてくる。
ゼファーは拙くもどこまでも真っ直ぐで駒を大切にする戦術で、ウェル博士は最善の戦術より相手の邪魔をすることを重視し、厭らしく相手の駒を削っていく戦術。
まるで搾取する側とされる側の構図のようだ。
現実でなんらかの形で勝負するのならば別だろうが、未来永劫、ゼファーがウェル博士にボードゲームで勝つことはないだろう。
「ところでコレ、今日は何のために付けてるんでしょうか」
「色々と頭の中身をね。見てるんですよ」
ゼファーの頭には、機械仕掛けの帽子とも言うべき計測機器が付けられていた。
彼はこの状態で、ソファーに寝っ転がっているウェルとチェスを打たされている。
ゼファーは真剣に盤面のみを見ているが、ウェルはソファーに寝っ転がりつつテレビを見ながら菓子を摘まんでアイスティーを飲み、片手間に盤上でゼファーを蹂躙している。
彼らしくもなく、びっくりするくらい無防備だった。
スタンスや能力の違いは、こういう所にも出る。
Dr.ウェルは、計測機器のデータ処理も盤上の蹂躙も遊びのついで程度にこなしていた。
ゼファーの視点では、端末に映されている波形や数字は理解できない。
しかしウェル博士は望むデータが得られなかったようで不満顔だ。
前までは理解できないことも多かったウェルの感情の動きを、今ではゼファーも多少なら理解できるようになっていた。
思考回路は、いまだ理解不能の域ではあるが。
「素粒子を感知する器官があるのなら……
その素粒子に、人の感情も乗るのかもと思いましてね。
相手の気持ちを理解する能力とでも言いますか」
「? ええと、俺の話ですよね」
「そうですね、君達の話です」
ウェルは、運命というものを素粒子と脳機能により観測される未来の可能性として解釈した。
そこで、一つ思い出したのだ。
穏やかで他人を不快にさせないセレナと、誰よりも優しいと評されたマリア。
他人の気持ちが分かることで大人にも子供にも慕われる、イヴ姉妹のことを。
一番近い表現としては、感受性という単語が挙げられるだろうか。
特定の人間に共通する対人能力を、それも脳機能なのではないかと想像したのだった。
素粒子を介して、他人の感情をうっすらと読み取る能力。
あるいは、死者の念のような曖昧なものも感じ取る能力。
チェスを通し、「対戦相手は何を考えてるんだろう」という思考に無自覚に誘導することで、ゼファーの脳のデータからそれを判明させようとしたのだった。
「ですがそうでもない。うーん、気遣いも脳機能かと思ったんですが……」
「相手の気持ちが分かるなら、俺も人付き合いで苦労なんて無いですよ。
いまだにしょっちゅう『女心が分かってない』って言われるんですよ?」
「ああ、確かに」
「え? なんでそれで凄い納得した感じなんですか?」
が、ウェル博士の仮定を裏付けるようなデータは取れなかった。
測定機器や理論の問題で証明に足るデータが取れなかったのか、ウェル博士の仮定がそもそも間違っていてそんな能力は存在しなかったのか、それは分からない。
肝心な点は「どうせお前らが優しいとか言われてるのは脳味噌の機能が優秀なだけだから」というウェル博士のいちゃもんが回避された点にあるだろう。
いちゃもん付けられたところで、相手の気持ちを理解した上で優しくしてるんだから立派じゃない、と反論すればいいだけの話ではあるのだが。
そんなこんなで盤上は十数戦。
全てにおいてウェルは圧勝。駒を一つも取らせなかったのも数回。
オセロで言えば盤面一色勝利のような詰ませ方を、何度もやらかしていたほどだった。
ゼファーはそれを当然のものと受け入れつつも、大敗にどこか悔しそうにしている。
むしろ、勝者のウェルの方が釈然としていない様子だった。
「はぁ……やっぱり、ドクターは強いですね。」
「……。もしこの勝負で負けたら友人が死ぬとして、君。こんなあっさり負けるんですか?」
「え? 負けないために手を尽くしますけど、必ず勝つなんて確証はないですよ」
「そう、それです。たぶん君、そうなったらそうそう負けないはずなんですよね」
この場に他の子供が居たら大層驚いただろう。
ウェルがゼファーを分かりづらい形であれど、信じるような言葉を口にしたことに。
そして自分だけ茶菓子とアイスティーを貪りつつもゼファーに分けるという発想そのものが存在していないウェルの姿に、心底安心するはずだ。
陰湿ないびりだとか子供のような嫌がらせとは完全に別枠の、他人に微塵も気を使わないウェル博士の行動様式がいっそ清々しい。
「君は誰かを守っている時は強い。なのにその時以外は弱い」
誰かをその身で守る時、彼は限界を超えて強くなる。
だというのに、そうでない時は実力に相応の強さしか発揮していない。
ナメクジ型ノイズロボ相手に敗北した時などいい例だ。
負けられない戦い以外の時は手を抜いている? いや、そんなことはない。
ただ、戦う理由によって、ゼファー・ウィンチェスターの戦闘力には明確にムラがある。
「案外、自分だけ生きようと戦ってる時の君が一番弱かったりするかもしれませんね」
「―――」
自分しか信じられないウェルは、自分だけは信じられないゼファーの核心を理解している。
信じることが駒に発生させる確変の、そのハイエンドを理解している。
誰かが自分の勝利を信じる限り、それに応えようと限界を超える彼を理解している。
信じる気持ちを力に変えられる子供達の存在と意味を理解している。
皮肉なものだ。
ゼファーに対し最も害を与えているであろうウェルが、少年と一番遠いであろう人種の彼が、実はセレナの次にこの少年を理解しているのだ。
少年は、彼のことを理解していないというのに。
ゼファーは生きようとする気持ちを捨てられない。
不可抗力もあったとはいえ、友の命と自らの命を天秤にかけて自分を選んだこともある。
だというのに、彼は自分のためだけに戦う時が最も弱い。
ひどい矛盾だ。
だが、好都合だともウェルは思った。
それを知り、ウェルは『ゼファーの確実な殺し方』を一つ思い付けたのだから。
「君、何がしたいんですか?
研究所をどうするだとか、友達を守るだとか、そういう目の前のことではなく。
最終的な目的……最後に、何にどうあって欲しいんですか?」
頬杖を付いて、やる気なさげにウェルは問う。
他人のためだけに頑張るゼファーの姿は、自分のためだけにしか頑張らないウェルには理解不能のものだ。それは今も変わらない。
ただ、その行動の理由を理解しておきたかった。
ウェルが懐で暖めている計画に際しては、この少年が余計な動きをすることだけが懸念事項であったから。
「皆に……幸せで居て、欲しいんです」
だが、少しだけ。
ゼファーが口にした言葉のニュアンスが少しだけ、ウェルの思考の端に引っかかる。
「死ぬことも、苦しむこともなく、でも生きているだけの時間を過ごすのでもなくて……
具体性とか全然無いですけど、でも、それでも目指したくて……
皆がそう生きていける場所を守れる自分になれたらって、そう……」
現実をそうしたい。自分はこうなりたい。
本人は真剣なのに、他人から見れば現実性のない馬鹿げた話。
祈りにしては独力で頑張り過ぎで、願望にしては即物的な利益が少なくて、目標にしては遠すぎて、後悔にしては熱すぎる。
真っ直ぐにそれを目指す想いに、ウェルは見覚えがあった。
それが『そう』なのだと気付いた時、不思議な納得と共感があった。
思考を介さず、悪態もつかず、何故か自然と、ウェルの口は勝手に開いていた。
「それが、君の『夢』ですか」
「……夢?」
あるいはこの時が、この二人が初めて向き合った瞬間だったのかもしれない。
「それが夢でなければ何なんですか。
心から追い求めているものなのに、到底手も届きそうになくて。
それでも焦がれるほど欲し、どれほど時間や労力や金や将来を投げ捨てるのだとしても……
……追い求める。諦めることも、捨てることもできずに。
そのために、自分の将来や未来を全て食い潰したって構わないと思える。
それ以外のものをどんなに切り捨てたって構わないと、心の底からそう思える。それが、夢」
勉強や進学を一時、あるいは全て切り捨てる高校球児のように。
生活の安定とは無縁の漫画家や小説家を目指すように。
才能が無いと言われても諦めきれず、歌手を夢見続けるように。
子供は多くが夢を見る。大人だからこそ夢を見る者も居る。
そしてその多くが、まだ夢の途中である。
「これが、俺の……『夢』……」
夢、という単語に戸惑うゼファーに、今まで見たこともない表情で長々とウェルは語った。
彼自身、自分の止まらない口に思考の方が追いついていなかった。
引き出したのはきっとゼファーだ。
ウェルの中にある、未だ諦められていない『夢』。
それを知ることが彼を知ることであるように思えて、ゼファーは口を開いていた。
「ウェル博士にも、夢があるんですか?」
そう問われた、その瞬間。
ウェルがずっと被っていた笑みの仮面の奥の、醜悪な心の贅肉の更に奥の、もっと深い部分。
その片鱗が、ゼファーには見えた気がした。
きっとウェル本人にすらもう見えないくらいに、汚れたものに押し包まれてしまった大切な気持ち。目には見えない原風景。
常に冷静で、皮肉げで、時に醜悪に高笑いして他人を見下すDr.ウェル。
そんな彼がやや狼狽えながら、視線を泳がせる姿など誰が想像できただろうか。
他の誰かに問われたからではない。
ゼファー・ウィンチェスターに共感し、その直後に彼に問われたからこそ、だ。
ウェルが夢見たものは、この少年とは無関係ではいられない。
「僕は」
思えば、途中からおかしかった。そう彼は思う。
何故、夢について熱く語ってしまったのか。
適当に流せばよかったのに。あるいは小馬鹿にしてやればよかったのに。
何故、「夢はあるのか」という問いに「大人は夢なんか見ない」と返せなかったのか。
少年が夢見るものを見下してやればよかったのに。
それは、ウェルが夢を語る機会を袖にできず、少年の夢を馬鹿にできず、少年の夢を見下せなかったからかもしれない。
それは、少年が夢を強く語りながら、それを夢と分かっていない足元の覚束ない姿に、彼が苛立ちを感じたからかもしれない。
それは、少年が何ヶ月もウェル博士に向け続けた親愛が、身を結んだからかもしれない。
それは、ゼファーの親しく接する日々が、ウェルが誰に対しても向けている心の壁を、ほんの少しだけ溶かしたからかもしれない。
ゼファーがただの一度も、ウェルを嘲笑わなかったからかもしれない。
少年が彼にただの一度も、悪意を向けることがなかったからかもしれない。
絞り出すように、夢を口に出す。
ジョン・ウェイン・ウェルキンゲトリクスは、生まれて初めて。
『自分の夢を笑わないかもしれない人間』に、出会えたのかもしれない。
「『英雄』に、なりたいんだ」
ゼファーは、ウェルのその夢を、笑わなかった。
「いい夢だと思います」
大抵の人間が馬鹿にするであろう、彼の夢。
しかしゼファーは、彼がその一言に込められた想いを見逃さない。
大切なものは目に見えない。その思いを見逃してしまえば、笑う者も居るだろう。
しかし少年は笑わない。
真っ直ぐに受け止めて、その夢を褒め称えた。
そしてウェルに、手を差し伸べて握手を求めた。
「へへ、競争でもしてみますか?
俺の夢とウェル博士の夢、どっちが早く叶うかって」
そこで、少年は屈託なく笑う。
ウェル博士は一瞬、心の中で迷い、けれどすぐさま考えるのもバカらしくなったような、そんな表情を浮かべた。
夢を笑わず、称え、背中を押し、こうして笑う。
ウェルの中の何かが溶けていく感覚に、何かが芽生える実感。
自分の中の何かが変わった気がすると、ウェルは他人事のように感じていた。
「残念ながら、僕の夢は叶うまで秒読みの段階ですので」
「ええっ!?」
「まあそれでも乗りますよ、その競争。勝てる勝負には乗っておきましょう」
「それズルくないですかね」
ウェルはゼファーの求めに応じ、その手を握った。
誰かに触れようとして、それでも誰も応えてくれないがために、触れるたびに嫌われる。
その内、意図して嫌がらせのために他者に触れるようになった彼。
そんな彼が誰かと手を繋げたということには、きっと意味がある。
「なんだか、ようやく……ウェル博士と友達になれた気がします」
「気持ち悪ッ」
「えっ、あっ、すみません。すぐ離します」
「……冗談ですよ。全く、ユーモアセンスも無いんですか貴方は」
「ええぇ……」
『絆』という漢字は、
情にほだされる、というフレーズならば誰もが聞いたことがあるだろう。
糸半ばにして望む場所に届かなくとも、繋がれば届く場所がある。
繋がり、繋ぎ紡ぐ人の繋がり。そんな誰かの思いから生まれた漢字。
そして絆もまた、目には見えない大切なもの。
きっと、繋いだ手だけが紡ぐものだった。
ちぐはぐで、きっと世間一般的に言う絆と扱うには善意や相互理解が致命的に足りていないが、これもまた一つの形の絆なのかもしれない。
「もう帰ってもいいですよ。僕、これから見たい実験があるので」
「分かりました。じゃ、また明日」
「ええ、また明日」
(……!)
いつもの帰りの挨拶に初めて返答が返って来た、その程度のことにちょっと感動してしまう安い男、ゼファー。席を立ち、ドアに手を掛ける。
そのドアが開く前に、向こう側からドアが突っ込んできた。
「ひぎにッ!」
「ドクターッ! 緊急事た……って、あ、あれ? 大丈夫!? ごめんなさいっ!」
ドアが手前側に開く向きだったのが仇となった。
転がされるゼファー、ドアから現れ謝るマリア、吹き出すウェル。
まるでコントだ。距離を取らず天然二人が揃えば四六時中こうなるのかもしれない。
「なんですか騒々しい。生理ですか?」
「そんなわ……ぐっ、そんなこと言ってる場合じゃないんです、ドクターッ!」
ウェルのデリカシーの無い発言に怒鳴ろうとしたマリアであったが、ぐっと思い留まる。
彼とて慌てた様子の彼女から何も感じ取れない無能ではない。
ただ、真面目に応対する気が無いだけなのだ。
「マムが、大至急ドクターに来て欲しいと……!」
「このタイミングということは、例の実験ですかね? そこで僕を呼びに来たということは……」
「はい、私も全部の事情を聞いたわけではありませんが――」
その瞬間。
「―――」
「―――」
ゼファーとマリアに悪寒が走る。
肌が泡立ち、背筋に氷柱が入れられたかのような感覚に身を震わせた。
二人がカッと目を見開いて辺りを見回すのを、ウェルが訝しむ。
「どうしました? 二人とも」
「えっ……え?」
「この、感じ……」
『不気味な熱』が世界を包む。
まるでじんわりと熱を持った泡の中に閉じ込められているかのような、息苦しさと気持ちの悪い不快感のある暑さが満ちていく。
ウェルには感じられない。
ゼファーとマリアには感じられている。
直感を妨げ、運命を捻じ曲げる焔の熱が。
「あの遺跡の時と同じ……いや、これは、あの時とは比べ物にならないッ……!?」
ゼファーの叫びとほぼ同時に、研究所全域に赤い警告灯の光とアラートが鳴り響く。
避難誘導が開始されるほどの『緊急事態発生』を知らせる、最大級の警報だ。
それが視覚と聴覚に、とても分かりやすく事態を教えてくれていた。
始まる。
あるいは終わる。
誰も知らない結末が来る。
運命に働く正の力と負の力が拮抗し、運命が揺らがされていく。
世界と運命を変えるのが強き意思ならば、今この瞬間。
世界を良くしようとする意思と、世界を滅ぼそうとする意思は、完全に拮抗していた。
もう誰が死のうと、誰が生き残ろうと、何もかもが不思議ではない。
もはや、「世界の関節は外れてしまった」。
(いったい、今、何が起こってる……!?)
マリアにゼファーが問おうとしたその瞬間。
世界が、揺れた。
中層、中央実験区画。
「主任ッ! もうダメです、抑え切れません!」
「ギリギリまで粘りなさい! 最悪の事態に至れば、この大陸が吹っ飛びますよ!」
始まりは、上からねじ込まれた無茶な実験案だった。
下に拒む術はない。政治家の権力闘争の一環で、この実験の予定は組まれてしまった。
それでも彼らは頑張った。不可能に挑戦するということ。
この数カ月で、それが彼らには意味のあることのように思えていたから。
それでも彼らは驕ってしまった。不可能に挑戦するということ。
この数カ月で、それが自分にも容易にできるものなのだと思えていたから。
その結果として、ナスターシャを始めとする研究員が総出で走り回るハメになっている。
「概算出ました! 内包熱量、大雑把に6兆ジュール! まだ上がってます!」
「冷却材ありったけ浴びせろ! 爆発もあり得るぞ、緩衝材運搬まだか!」
「隔壁持ちません! 下に落とすべきです!」
実験室の中央では白亜の巨人……否。
巨人になりかけの、2mほどの化物が地面に寝そべり、点滅していた。
その点滅は鼓動。
化物の心臓が体外に漏らす膨大な光と熱。
その点滅が徐々に、徐々に速くなり、止まる。
エネルギーを観測していた研究員が、悲鳴を上げるように叫んだ。
「観測ゲイン、急速に上昇! 全員何かに捕まって下さいッ!」
咆哮。
白亜の化物が立ち上がり、吼えると共に衝撃波を撒き散らす。
地下十数回の実験室から伝わったその振動が、大陸全てに広がって行く。
それは、世界を揺らす咆哮だった。
「完全聖遺物『ネフィリム』、暴走しますッ!!」
オーラスを飾る最強の敵。さあ、クライマックスだ。
次回から第九話
第九話で二章は終わり、第十話から三章です
フィーネさんは表面上は夢を嗤い、ウェル博士は夢を笑わないけど他人のは踏み躙るイメージです
自分の記憶が確かなら、ウェル博士って本編で誰とも手を繋いでないんですよね
シンフォギアのテーマを考えると意味深です
あ、個人的な解釈ですが、アルビノ・ネフィリムは本編のフロンティアの守護端末になってた黒いネフィリムより少し弱いくらいだと考えてます。だいたい装者五人分くらい