戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ   作:ルシエド

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エグララグ
→絵倉
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第十一話:受け止めて、呼び覚ませ

 その少女は、何も特別な要素を持ってはいなかった。

 血だとか、才能だとか、運命だとか。

 そういうものはなにもない。

 同学年の女子の中では指折りに足が早く、通知表で音楽の5を毎回取っていたりもするが、そういうことを全部ひっくるめて、どこにでも居そうな少女であった。

 

 幼馴染が居て、友達が居て、家族が居る。

 平凡な幸せの価値を実感したことはなくとも、蔑ろにしたことはない。

 嘘が嫌いなだけの、本当に普通の少女。

 友達が転んで怪我をした、宿題を忘れた、リレーで一番になって両親に褒められた、そんな大事件が起こる平穏な日常を彼女は過ごしていく。

 

 彼女に悩みごとがあるとすれば、社会が少し苦手なことと、幼馴染が危なっかしいことくらいだろうか。まあ、そのくらいだ。

 非日常なんてどこにもないし、彼女がそれに不満を抱いたこともない。

 今日もまた彼女は、ランドセルを背負って通学路を幼馴染と並んで歩く。

 

 そんな朝、外国人の少年とすれ違う。

 頭を下げてきたので、彼女も頭を下げて返した。

 最近になって時々見るようになったと、父が言っていたのを思い出す。

 彼女も走ることは好きだったから、すれ違うだけのその少年が、少し印象に残っていた。

 

 また後日の下校の途中、歩道橋を渡っている時、遠くの交差点を走っているのを見た。

 通り過ぎる外国人に通行人が物珍しげな視線をやっているのが見える。

 黒い髪は一見この国に溶け込んでいるように見えるが、青い瞳は嫌でも目立っていた。

 この国からも、日常からも、平和からも、この街の光景からも、浮いている。

 その外国人の少年はどこにも溶け込めていないように見えた。

 望んでか、望んでいないのかは別として。

 

 二日置いた後日の夜に、少女は開けっ放しのカーテンから家の前の道を見下ろしていた。

 何気なく、宿題の合間に目をやったその先で、一瞬街灯に照らされた少年の顔が見える。

 けれど見えたのは一瞬で、反対側の闇の中に消えていってしまった。

 後にも先にも彼女が夜にその少年を一方的に見たのはただの一度だけだったが、夜にもやっているのかと彼女は少し驚き、それを記憶の隅に留めていたりした。

 家に居場所がないのかな、なんてドラマの見過ぎな邪推も交えつつ。

 

 その次の土曜日の朝に、幼馴染の家に遊びに行こうとした途中。

 人がまだまばらな朝方の街で、また外国人の少年とすれ違う。

 その時は何かを探しているように目を動かしていて、すれ違う時に頭を下げ合う。

 苦しそうに走る人だな、と走ることが好きな少女は思う。

 何を探しているのか、少しだけ気になった。

 

 今日に至るまで四回。

 少女が、その外国人の少年を目にした回数である。

 運命的な出会いもなく、一目惚れだとかそういうものもなく。

 少女が一方的に少年を記憶に残している、そんな関係だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第十一話:受け止めて、呼び覚ませ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 身近な目標を達成し小さな達成感で満足できる人間にとって、ゴールの見えない長期的な目標だけを掲げるマラソンは、相当なストレスとなることが多い。

 そのモチベーションが感情的なものであるなら尚更に。

 それが誰かを憎む感情で、誰かを嫌い慣れていない人間であるなら更にそうだ。

 

 どうすれば仇が見つかるのか、どこを探せば仇が居るのか。

 どう力を付ければ仇を討てるのか、自分がどう生きていけばいいのか。

 F.I.S.を変えようとした時のように、彼も長期的な目標を持ったことがないわけではない。

 ただ、その原動力が憎悪であるというのが問題だった。

 そして、それ以外の目的が何も無いというのが問題だった。

 

 強く守ろうと思える誰かも居ない。

 生きたいという第一欲求が、初めて来た平和で安全な世界の中で存在価値を完全に無くす。

 生かしたいという第二欲求も同上。

 マリアにも言ったように、ゼファーは戦いの中で何かを守ることで自分の存在意義を見出しているという部分があった。

 

 誰かを守って初めて、自分を生きていていいと許せる程度に考えられる部分だ。

 そうして平穏を望む心を持ちながらも、不意に訪れた慣れない平穏な日常に、彼はどこか居心地の悪さのようなものを感じてしまう。

 慣れれば問題はない。だから、まだ慣れていない今はゼファーには不安定な部分があった。

 常に戦わなければならなかったゼファーのこれまでの人生。

 戦いのせいで失わなければならなかったこれまでの人生。

 それでも守れたなら、嬉しさと喜び、満足感と達成感のあったこれまでの人生。

 それが無くなったら無くなったで、心のバランスがまた不安定になっている。

 

 仕方が無い、まだ子供なのだから。

 歳相応の精神的な不安定さと、憎悪と平穏という慣れない二要素。

 それらに突き動かされながら、何をどうすればいいのか分からないという不安。

 足元を見ないで四方八方を見ながらうろうろと走り回っているような状態。

 それが、今の記憶すら不完全なゼファーの現状だった。

 

 

「はいA定食小盛りお待たせ。残すんじゃないよ」

 

 

 それプラス、食堂でおばちゃんのご飯を食べつつ、

 

 

「めっちゃ美味しいです」

 

「あんたそれ毎回言ってないかい?」

 

 

 ちょっとだけ幸せそうな顔をしているのもゼファーの現状である。

 トマトソースで芳醇な味に昇華された鶏胸肉をおかずに、白米を食べる。

 しつこくない脂、突き抜ける旨味、白米との殺人的な相性。

 一流の料理人の腕が生む至高の低コスト庶民料理が、そこにあった。

 

 二課の食堂は、ごく普通の社内食堂とそう変わりない。

 ただ、二課職員はその職務の性質上丸一日本部で過ごすことも少なくない。

 職員専用の部屋が一つづつ用意されているほどだ。

 年中ここで過ごすほどの出不精は居らずとも、生活基盤がここにある者は多い。

 ゆえにこそ、風鳴訃堂はメシがマズいという最悪の事態を回避するために尽力した。

 

 機密の塊である二課では普通の食堂職員を雇うことは出来ない。

 だからこそ個人的なコネで、機密を絶対に漏らさない、信用のできる人間が選ばれた。

 安価な材料費から美味くて安い食を生み出す確かな腕、そして信用できる人格を持つ者。

 そうして風鳴訃堂がどこからか連れて来た食堂のおばちゃん。

 名を、絵倉(えくら)という。

 彼女の手から生み出される日替わり定食(一食420円)は、日頃体を動かしまくっている前線部隊達をも満足させる量と味を両立するという。

 

 

「辛気臭いツラしてても飯食えば多少持ち直してるんだから、男って単純ねえ」

 

「……そんな顔してました?」

 

「そんな顔してたよ」

 

 

 燃費がよくやや少食気味のゼファーは定食もやや小盛りだ。

 彼に合わせそんな手間もかけてくれる絵倉という女性は、見た目も心もたいそう太っ腹である。

 他に客も居ないからか、ゼファーが食事を取るカウンターの向こう側で絵倉は頬杖をつき、辛気臭い顔をしていた少年の話し相手になってくれていた。

 口にせずとも、彼を気にかけてくれているのだろう。

 

 

「はいよ、サービスだ。残したら承知しないけどね」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 

 絵倉が差し出したのはイチゴのムース。

 スプーンを差してみれば柔らかく、下の上でとろける口当たりに、甘酸っぱくも食べやすい。

 子供にも大人にも好かれる類のデザートだった。

 一口食べれば子供は皆笑顔になる、そういう域にあるデザートだった。

 けれど、ゼファーの表情は多少よくはなっているものの、どこか暗さが取れていない。

 そんな少年を見て、食堂のおばちゃんこと絵倉は口を開かずにはいられなかった。

 

 

「そういう時は外でもぶらついてきな。上を向いて歩いてりゃ、軽い悩みはすっ飛ぶもんさ」

 

 

 慈愛や優しさから、なんて甘っちょろい理由からではない。

 彼女が落ち込んだ人間が目の前に居れば、そのケツを蹴り上げる人間であるからだ。

 

 

「で、今日一回、誰かの人助けでもしてくるといい」

 

「人助け……ですか?」

 

「そ。本来はボランティアでもいいんだろうけどね」

 

 

 そして肝っ玉母ちゃんに類する人間というものは、大抵の男の内面的な問題は、家の中や自分の殻の中に閉じこもって時が解決するのを待つだけでは、何も変わらないということを知っている。

 

 

「無償で何かやって『ありがとう』って言われりゃ、大抵のやつは胸を張れるようになる。

 学校がボランティア奨励してるのはあの辺にあるんだとアタクシは思うね。

 アタクシの親戚の子はそれで引きこもり脱却したし」

 

「……」

 

 

 デザートを食べ終わり、スプーンを食器の上に置き、ゼファーは立ち上がる。

 絵倉のアドバイスは年の功からか、ゼファーの胸の奥にすっと入っていった。

 いや、それだけが理由ではないのかもしれない。

 

 今すぐにしなければならないこと、目前に迫った何かしらの脅威、何を積み上げていけばいいのかが明確に見えている目標、それらがあれば余計な行動をする必要などないのだ。

 フィフス・ヴァンガードに居た時代なら、紛争にノイズにと頻繁な出撃。

 F.I.S.に居た時代なら、変革のための積み重ね。

 そしてその両者においてモチベーションの源泉となってくれた、信頼する誰か達。

 今のゼファーにはそれらの何もかもがないから、どこか迷走気味なのかもしれない。

 

 思い出さなければならない。

 無意識下の行動に反映されるそれではなく、意識の中にしっかりと据えるその柱を。

 

 

「ごちそうさまでした。……外、行ってきます」

 

「車にゃ気をつけるんだよ」

 

 

 食器を絵倉に差し出し、ゼファーは食堂を後にする。

 食堂を出た所で、入り口近くの机に設置されていたアンケート用紙の存在に気付いた。

 どうやら良かった点や悪かった点を聞くために置いてあるらしい。

 「美味しかったです」と書いて箱に入れ、ゼファーは食堂を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その少女は、幼馴染と並んで河川敷を歩いていた。

 

 

「うぶぶぶ、寒い寒い……」

 

「もう、だから上着着てくればって言ったのに」

 

「体動かしてればへーき、へっちゃらだと思ったんだよぅ」

 

「去年もそう言ってて風邪引いたの忘れたの?」

 

 

 その少女の名は、『小日向 未来』。

 寒い寒いと言いつつ彼女と並んで歩いている幼馴染の名は、『立花 響』。

 春が来れば、小学五年生に進級予定の二人の女の子だった。

 年齢の割に体が小さかった調や、背が高めの翼のようなこともない、平均身長平均体格。

 印象で言えば、小日向未来は可愛らしい。立花響は子供っぽい。

 まだ年少の子供の女の子ということを差し引いてもそうだった。

 

 

「あー、やだなー、宿題やりたくないなー」

 

「え? まだ終わってなかったの? あの先生に怒られると怖いよ」

 

「……そ、その時はー、『家に忘れました』っていう必殺技が、そのね?」

 

「ちゃんとやりなよ。それ、ただのズルだよ?」

 

「うー……そだね、頑張らないと」

 

「私も手伝ってあげるからさ、頑張ろ」

 

「さっすが未来! 私の大親友!」

 

「まあ、答え丸写しは許さないけどね」

 

「でっすよねー」

 

 

 その会話はほのぼとしていて、どこにも不穏なものを感じさせない。

 過去や現状に血なまぐさいものが一切関わっていない、そういう人間だけができる会話だ。

 そしてこの国の人間の大半が、それをする権利を持っている会話でもある。

 

 この二人には生まれつき背負わされた運命などといったものはない。

 特別な血筋、異端の域にある才能、凄惨な境遇といったものもない。

 どこまでも普通の女の子達で、非日常に関わる謂れはどこにもない。

 

 

「あ、猫……あれ?」

 

「どうしたの?」

 

「あれ、あれ! あそこ!」

 

 

 ただ少しだけ、響の方には問題点があった。

 生来のそそっかしさと後先を考えない性格、それに付随する危なっかしさ。

 そこに極めて範囲の広い優しさ、人の良さ、考えるより先に行動する性情が加わる。

 他者のために動くことを苦にしない才能まで加われば、もう役満だ。

 

 立花響は個人として異常ではない範囲で、人助けを好んでする人間であった。

 それこそ、倒れた人に手を差し伸べに行こうとしてその最中でずっこけるような。

 幼馴染である未来は、彼女が色々動く度に気が気でなかったりする。

 

 

「猫がダンボールに乗ったまま流されてる!」

 

 

 そして、川のど真ん中を流されているダンボールの中の子猫を見た、その時。

 未来が真っ先に心配したのは子猫ではなく、隣に居る大親友であった。

 

 

「助けないと!」

 

「え、ちょ、響!?」

 

 

 未来の制止の声を振り切り――というよりおそらく聞こえていない――響は駆け出した。

 きょろきょろと周囲を見て、不法投棄で川の中に捨てられた幾つもの家電を見つけ、それを飛び移って川のど真ん中を流されている猫の所まで先回りせんとする。

 当然ながら家電は固定なんてされておらず、小学生女子の体重ですらグラグラと揺れ、飛び乗った響は危うく落ちそうになるが、何とか踏み止まる。

 

 

「っとと」

 

「響!」

 

 

 落ちれば真冬の川、それも小学生では絶対に足がつかない水深だ。

 すぐにでも体温を奪われて体が動かなくなり、溺れてしまうだろう。

 そこには死が待っている。

 

 ならば響は死を覚悟した勇者か異常者なのかと問われれば、そうではない。

 彼女は無知なのだ。そこにある死を、明確に想像できていない。

 道路の傍でボールを蹴って遊ぶ子供のように。

 大人が入ってはいけないと言い聞かせていた廃墟に、秘密基地を作る子供のように。

 目に当たれば大変なことになると書いてあったのに、エアガンを人に向けて撃つ子供のように。

 その行動は、子供の無知ゆえの無謀。勇気なんてどこにもない。

 そこに猫の身を案じる響の優しさが、彼女の背を押してしまう。

 

 響より聡い未来の方がまだ、響が今危険なことをしているのだと理解できている。

 家電の上をフラフラと飛び移っていく響は、一歩間違えればすぐにでも落ちてしまいそうだ。

 そんな響の後を追うわけにもいかない未来は、ハラハラしながら見守るしかない。

 やがて響は水面に一度も触れないままに、川の真ん中まで辿り着いていた。

 だが、流されている猫に手を届かせるには、少しだけ距離が足りていない。

 

 

「……こっちこい、こっちこい……」

 

 

 必然的に響は、川に半ばまで沈んだ冷蔵庫の上から、手を伸ばさなければならない。

 チャンスは一回。流されている猫がそこを通りすぎてしまえば、もう手は届かないだろう。

 その焦りが、見ている方が心臓に悪いような、不安定な姿勢で彼女の手を伸ばさせる。

 届きそうで、届かない。

 

 

「もうちょっと、もうちょっと……」

 

 

 あと5cm、あと4cm、あと3cm、もうちょっとで指先が届く所に……と、いったところで。

 

 

「―――あれ?」

 

 

 響が転んだわけでもなく。

 指先が届かず猫が通りすぎてしまったわけでもなく。

 響が偏ってかけすぎた体重のせいで、乗っていた冷蔵庫がひっくり返る。

 

 そうして少女は、真冬の川に落っこちた。

 

 

「ひ、響ィーーー!!」

 

 

 一見、ギャグ漫画のワンシーンにも見える。

 しかし内実は深刻だ。真冬の川に落ちるなど、成人男性であっても死を覚悟する。

 この季節の川の水など、氷水と大して温度は変わらないのだ。

 子供は体が小さい分低体温症が危険、という要素もその危険に拍車をかける。

 響一人ではまず上がってこれない。助けが遅れれば、死ぬ。

 そんな現実を、未来は確りと認識できていた。

 

 

「どうしよう、どうしよう、なんとかしないと……!」

 

 

 未来は響を引っ張り上げようと川に向かって一歩踏み出すが、そこで思い留まる。

 この川の水深は子供の足では確実につかない。

 更に真冬の冷水だ。溺れる子供の数が増え、助けを呼べる人間がゼロになるだけだろう。

 響を助けられる可能性を考えて、未来は自分が助けるということを諦めた。

 

 そして携帯電話をポケットから取り出して、119番・自宅・立花家の順に通報。

 無理をせず、最善の選択肢を選び取る。

 学校の先生から「しっかりしている」とよく言われる彼女は、小学四年生の身でありながら、こういった有事での対応を初体験にも関わらず完璧にこなしてみせた。

 川を見れば、水面でもがいている響の姿が見える。

 何かロープや浮き輪のように投げられるものはないか、誰か助けてくれる大人は居ないかと、未来は助けを求めてあてもなく走り出す。

 

 一刻も早く助けてあげないと。

 響が苦しんでる、早く、早く。

 誰か、誰か、助けて……と、未来の心中を焦りが満たしていく。

 

 

「誰か、誰か居ませんか!」

 

 

 だが、その声に答える者は居ない。

 車が通り過ぎる。バイクが通り過ぎる。家屋の窓に見えた人影が、すぐに消える。

 彼女の声が聞こえていないわけではない。

 ただ、誰もが足を止める理由も道理もないだけだ。

 縋り付かれて、目の前で未来から事情を聞けば手を貸しもしただろう。

 

 だが、今の彼らと未来の距離は遠すぎる。

 『自分に向けて言われている』という認識がない限り、たとえ現実には数mの距離であったとしても、少女と彼らの心の距離は恒星間よりずっと遠い。

 だから、未来の声は彼らの心に響かない。

 

 その短時間に歩行者がそこを一人も通らなかったというのが、未来の最大の不運だった。

 

 

「っ!」

 

 

 そして焦りと走り続けた疲労が、未来の足をもつれさせる。

 転んで、肘と膝をしたたかにコンクリートに打ち付けてしまう。

 倒れてる場合じゃない、早く、早く……と、それでも彼女の中の焦りは途切れない。

 すりむいた肘も膝も、そこから流れる血も、今も苦しんでいる響に比べればどうってことない。

 そう自分に言い聞かせ、自分を奮い立たせることができる。

 小日向未来は、そんな心の強さを持つ少女だった。

 

 だが、それと同時に歳相応の心の弱さも持ち合わせている。

 響を止めるべきだったのに、止められなかった罪悪感。

 結局他人頼りで、自分の手で友達を助けることもできない無力感。

 今ももがいている、苦しんでいる親友を思うと沸き上がってくる焦燥感。

 誰も助けてくれない孤独感。

 それらが、まだ体も心も成長しきっていない小さな女の子を追い詰める。

 涙が浮かんで、流れそうになってしまう。

 

 

「誰か……」

 

 

 だから、彼女は祈る。

 

 

「誰か、助けて……」

 

 

『私の親友を助けて』と、どこかへと祈る。きっと、見たこともない神様に対しても。

 

 

「響を、助けてよ……!」

 

 

 魂から絞り出したかのような心からの祈り。

 だから、彼はそれを聞き届けた。

 

 

「大丈夫か?」

 

 

 転んで、傷の痛みと心の痛みに俯いていた未来の頭上から声がかかる。

 

 

「……え?」

 

 

 顔を上げる。

 そうして前を向いた視線の先には、今日までに『四回』見た覚えのある外国人の少年。

 未来は一方的に記憶に残している。

 けれどその少年からすれば、未来はどこかですれ違ったかもしれない、程度の存在のはず。

 そして、互いに名も知らない。

 

 なのに未来は、どこか安心している自分を感じていた。

 膝をついて未来の方を見て、彼女を安心させてくれる目の前の少年の姿を目にしていた。

 

 

「助けは要るか?」

 

 

 少年はそう言い、未来に向かって手を差し伸べる。

 かつてその少年は、暁切歌という少女に対し、問いかけながら手を差し伸べた。

 自分に手を伸ばしてくれない人は救えないと。

 その手が掴める所にないと、自分はその人を引っ張り上げられないと。

 救われる側に救われる気がなければ、どんな英雄も救世主も救えないのだと。

 迷う切歌に、「救われてくれ」「頼ってくれ」と心で叫びながら手を伸ばした。

 

 どんなに彼が救いたいと願っても、救われる側がそう願わなければそれは叶わない。

 だから彼は、未来に手を伸ばして問いかける。

 彼は子供だ。助けてくれる大人を探していた未来からすれば、求めていた人物とは合致しない。

 客観的に言えば、大人よりもずっと頼りなく感じるはずだ。

 けれど、彼女は祈り彼は応えた。

 ならばその問いかけに対する返答は、決まりきっている。

 

 

「お願い……助けて……!」

 

 

 未来は倒れたままその手に縋りつくように、助けを求めた。

 彼の手を握る力の強さから、その言葉にどれほどの思いが込められているのか伝わってくる。

 

 

「任せろ」

 

 

 少年はその手を強く握り返し、強く引いて少女を立ち上がらせる。

 その力強さが、未来の心に少しだけ安心感を与えてくれた。

 不思議な雰囲気を持つ少年だった。

 こうして話すのは初めてだが、「その少年に託せばなんだってどうにかなる」という不思議な感覚が、少女の中に生まれていく。

 戦場で先陣を切る勇者が後続の兵士に見せる、言葉に出来ない仮初めの信頼に似た感情。

 

 自信に満ちた人間というのは、それだけで目の前の人間を安心させる。

 まして、誰も応えてくれなかったことで心細かった未来には効果覿面だ。

 ここに来て初めて、未来は焦りが引いて幾分か冷静さを取り戻す。

 

 

「こっち! 事情は走りながら説明するから!」

 

「その怪我は……」

 

「いいから! 心配してくれてありがとう!」

 

 

 一時は転び、仄かな絶望に呑まれて俯いてしまった。

 けれど今は違う。

 彼女の心は『希望』が見えたことで、少しだけ上を向けていた。

 

 何かが解決したわけでも、立花響が救われたわけでもない。

 それでも、少年が少女に見せた小さな希望があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間は少し巻き戻る。

 電車に乗る練習も兼ねて、ゼファーは二課から風鳴家に戻っていた。

 そこからいつものマラソンコースへ。

 一日二回走るいくつかのコースの一つに沿って、風鳴家から遠く遠くに離れていく。

 

 

「今日一回、人助けか」

 

 

 絵倉から課されたノルマを思い返す。

 そう難しいことではない。ただ、どうやろうかと考えると範囲が広すぎて逆に悩んでしまう。

 簡単なことをしてもいいし、難しいことをしてもいい。

 しかし探そうと思って動いても、目につく範囲に困っている人なんてそうそう居るわけもなく。

 

 

(……人助け、か)

 

 

 歩きながら、ゼファーはぼんやりと考える。

 人助けという行為に「面倒くさい」といった感情を、彼は覚えなかった。

 だから絵倉の提案も受けたのだ。

 彼にとってその言葉は、「呼吸をしろ」と言われているような、そんなニュアンスにも聞こえた言葉だったから。

 

 誰かを助けるということはどういうことか。

 誰かを守るということはどういうことか。

 誰かを救うということはどういうことか。

 哲学的な話だ。

 けれど歩いている内に、ゼファーはそんなことをぼんやりと考え始める。

 

 その答えを見つければ、もしかしたら彼は何か変われるかもしれない。

 しかしその答えに対する完全な正答は、この世の誰も知りはしない。

 だから彼の哲学的な思考思索は、答えに辿り着けもせずに堂々巡りで終わらない。

 

 そうしている内に、見覚えがあるような無いような、そんな道に出てしまった。

 道順を正確には覚えていないが、どっちに行けば帰れるかはかろうじて思い出せるような、そんな程度に朧気に覚えているよくある道。

 

 

「助ける、か」

 

 

 どうすれば助けたことになるのか。

 ……最後の最後に死なせてしまえば、それまで助けたことは全て無価値になるんじゃないのか。

 ならばずっと助け続けなければ、助けたことにならないのか?

 

 一人守れば、一人生き返ったことになるのか。

 一人救えば、一人生まれたことになるのか。

 一人助けて、その助けた誰かがずっと善人である保証はあるのか。

 一人失って、その誰かが将来悪人になって他人を傷付けなかった保証はあるのか。

 守れれば結果は必ず良くなるのか? 守れなければ結果は必ず悪くなるのか?

 その一つ一つの命の価値と未来は、誰が保証してくれる?

 

 出来はよろしくない、けれど考えることをやめない頭が、本人も何を考えているのか分らないくらいに、フルスロットルで哲学的な方向に頭を動かしていく。

 だから、答えは出ないのに考えた仮定だけが積み重なっていく。

 分からない。

 自分が何故こんなにも「助ける」ということに拘りを持っているのかも、今のゼファーには分からない。

 そんな時。

 

 

「―――」

 

 

 声が、聞こえた気がした。

 

 

「誰だ」

 

 

 それは誰かの祈り。誰かの願い。

 助けを呼ぶ、心で泣いている少女の切実なる思い。

 何もかもを失ったのだとしても、それを聞き届ける力までもを失うわけがない。

 

 

「この声は、誰の……」

 

 

 かつて彼が望んだ通りに、彼が望んだ形に直感は進化した。

 その成長は記憶が霞んでいてもなくなりはしない。

 在りし日の彼の想いが、誓いが、その力の中に片鱗として残されている。

 

 守れ、救え、もう二度と取りこぼすなと、どこかの誰かの声を代弁するかのように。

 

 そしてこの直感は、死地を乗り越える度に進化する。

 彼の望みに応え、主の心を折った絶望に、二度と屈しはしないと形を変える。

 それが『もはや直感でも何でもない』ということに気付いている者は、まだ誰も居ない。

 

 

(こっちか……?)

 

 

 走る。全力で走る。

 一直線に、来たことのない場所、見たことのない道を迷いなく彼は走る。

 道の知識もいらない。人に道を聞いている時間も惜しい。

 直感に身を委ね、それが囁く方向へ全力で駆ける。

 そうして彼は、そこで地面に蹲る少女を見付けた。

 

 

「大丈夫か?」

 

 

 ゼファーは仮面を被る。

 それもかつてのように意識せずとも、ごく自然に被れるようになっていた。

 本気の嘘、他人を安心させて希望を信じさせる仮面。

 一度心を灰にされ、その後心を組み直す過程で、その仮面は心の一部となった。

 その完成度は、F.I.S.に居た頃の比ではない。

 心の一部と化した以上、彼が本気になれば本心のそれとそうそう見分けは付かないだろう。

 

 

「……え?」

 

 

 顔を上げた少女は、どこか驚いているように見える。

 走っている時に見かけたことがあったような、とゼファーは思った。

 少年が被った仮面の効果は、目に見えて現れている。

 彼は子供でしかないというのに、助けてくれる大人を探していたのだろうに、少女はがっかりした様子を微塵も見せてはいなかった。

 

 

「助けは要るか?」

 

 

 事情は分からない。

 状況も分からない。

 なのにその言葉が流れるように口をついて出たことに、少年自身が一番驚いていた。

 

 

「お願い……助けて……!」

 

 

 助けを求められれば、どんな困難なことであっても応えると、そう考えている。

 そんな自分に、ゼファー自身が一番驚いていた。

 自分はそんな人間だったのかと、そう思うほどに。

 

 

「任せろ」

 

 

 あの日の最後に刻まれたものは、憎悪だけではなかった。

 憎悪の影に隠れた、もう一つの正の方向の強い感情があった。

 その感情が、ゼファーの心を突き動かしていく。

 

 

「こっち! 事情は走りながら説明するから!」

 

「その怪我は……」

 

「いいから! 心配してくれてありがとう!」

 

 

 その少女は、走りながらゼファーに道を示す。

 ゼファーがここまで走って来たことで多少疲れていたとはいえ、彼より少し速いくらいの走り。

 彼女も膝を怪我しているというのに、そんなことはどうでもいいとばかりに、未来は響が溺れていた場所を目指す。

 その道中で説明をされ、ゼファーも状況を把握した。

 

 そして一点、不味いことにも気が付く。

 それをどうにかするため、要救助者の下へと向かいながらも、ビニール紐やポリタンクのような命綱や浮き輪の代わりになるものを探す。

 しかし役に立ちそうなものは、ゼファーの目から見ても何一つ見つからなかった。

 未来から携帯電話を借り、二課に一報を入れることくらいしか、道中でできることはなく。

 そうこうしている内に、川に辿り着いてしまう。

 未来は響の状態を把握しようとする……が。何故か、そこには誰も居なかった。

 

 

「え、嘘、居ない……!? なんで、なんでッ!?」

 

「落ち着け、流されたんだ」

 

「あ」

 

 

 足を止めずに、90°ターン。

 響の不在に混乱した未来は足を止め、止めなかった分ゼファーが今度は先行する。

 下流に向けて、二人は走った。

 どこか遠くから、救急車の音が聞こえてくる。

 

 

「あ、あ、川が分かれて二つに……!」

 

「右だ」

 

「え?」

 

「ごちゃごちゃ説明する気はない。流れていったのは、間違いなく右の方だよ」

 

 

 途中川が分かれていて、未来は焦るがゼファーはまるで動じない。

 今の状態のゼファーが、単純な二択程度を直感で外すわけがない。

 迷いなく道を決め、そのあまりに自信満々な姿に未来も彼を信じ、その後に続く。

 やがて、水面に浮く少女と子猫とダンボールが見えた。

 

 

「響ッ!」

 

「……ん……みく……」

 

 

 だが、その体の動きは弱々しい。

 ダンボールに掴まっていなければ、今にも溺れてしまいそうだ。

 力強く名を呼ぶ未来に対して、呼び返すその声はあまりにも弱々しい。

 冬の川は、体を鍛えた成人男性でも15分で確実に低体温症で意識不明に陥るという。

 身体の小さな小学生の女の子ではもっと早いだろう。

 彼女が川に落ちてから、既に五分以上の時間が経過している。

 親よりも先に119番から通報した未来の判断は、極めて正しかった。

 その次に大人に連絡したのも正しかった。そして周りの人間に助けを求めたのも正しかった。

 その結果、立花響は助かるか助からないかの境界線をまだ超えていない。

 

 

――――

 

「ベアトリーチェもマリエルも、俺が守る。約束だ」

 

――――

 

「あなたが最善を尽くしたところで、あの子は守れなかったッ!

 そんな現実からすら逃げていたら、あなたは一体何からなら逃げないでいられるのッ!?」

 

――――

 

「まもってくれるって、やくそくしてくれたのに」

 

「やくそくして……くれたのにッ!」

 

「なんで、なんで、なんでッ! うそつき! うそつきうそつきうそつきッ!」

 

「ゼファーにいさんのうそつき! だいっきらいッ!」

 

「なんでしらねえちゃんはまもってくれたのに、おねえちゃんはまもってくれなかったのッ!?」

 

――――

 

「おにいさん、うた、うまかったんだね……」

 

――――

 

「ね、ゼファーくん」

 

「なかせて、ごめんね」

 

――――

 

 

 少年の胸の奥に湧き上がるのは、守れなかった後悔。

 理不尽に死んでいったどこかの誰かと、その死に感じた痛み。

 その亡骸に手を触れた時抱いた、とても大きな激情。

 もしかしたら、あと少しだけ頑張れば守れたかもしれない……なんて思わずには居られなかった悲劇の数々。

 それら全てと、川で溺れる少女が重なる。

 ベアトリーチェの死の後に残されたマリエル、悲しんでいた者達と、未来の姿が重なる。

 

 

(死なせるか)

 

 

 死なせてなるものかと、ゼファーは思う。

 それは立花響が彼にとって大切な人だからではない。

 もう誰にも死んで欲しくないと、彼がそう願っているからだ。

 人の死が悲劇であると、残された者の心は傷付くのだと、そう知っているからだ。

 あの子を救って欲しいと、小日向未来が祈ったからだ。

 

 

(死なせるもんか……ッ!)

 

 

 ぼちゃん、と猫とダンボールを残して、響が水の中に沈む。

 ゼファーの隣に居た未来が悲鳴を上げる。

 救急車の音が近づいてくるが、どう考えても間に合わない。

 ゼファーが踏み込む。

 限界を超えた速度に足が悲鳴を上げるが、構わないと彼は無理をする。

 そして橋に向かい、飛び、その欄干に足をかけ。

 

 遥か下方、川のど真ん中。

 立花響が沈んだ辺りに向けて、跳び下りた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初は冷たかった。

 次にだんだん痛くなって、それも感じなくなっていった。

 体全体が何も感じなくなって行って、思うように身体が動かなくなっていって、身体がどんどん川の底に引きずり込まれていくようだった。

 このまま死んじゃうのかな、なんて思ったら、無性に怖くなった。

 それが川の中で、立花響がひとりぼっちで感じていたことである。

 

 

(私……このまま死んじゃうのかな……)

 

 

 自分が死んでまで猫を助ける気など、彼女にはなかった。

 最初に提示された条件の中に『自分の命と引き替え』と刻まれていたならば、響も猫を助けようとは思わなかっただろう。そこまでイカれているわけがない。

 死にたくなかった。

 死ぬのが怖かった。

 冷たい水が体から熱を、命をじわじわと奪っていく感覚は、響の心にとてつもない恐怖を産む。

 それこそ、一生もののトラウマとなりかねないほどの恐怖を。

 

 それでも、彼女の心に後悔はあれど、目の前の猫を責める感情は生まれない。

 響は誰のせいにもしなかった。猫のせいにも、未来のせいにも、他の誰のせいにも。

 全部自業自得だと、そう分かっていた。

 だからこそ、水の中での孤独感が増してしまう。

 

 

(やだよ……)

 

 

 足に力が入らなくて、もう浮いてもいられない。

 手に力が入らなくて、ダンボールを掴んでもいられない。

 けれど薄れる意識の中でも優しさを失わず、せめて猫だけでもと、残された力の全てで子猫の入ったダンボールを川岸に向かって押す。

 ゆるやかに岸に向かうダンボールを見ながら、響は水の中に沈んでいく。

 その胸の内に、大きな恐れを抱えながら。

 

 

(死にたくないよ……)

 

 

 死が怖くない人間など居るわけがない。

 それが心強くない子供であればなおのこと。

 冬の川で冷たくなりながらの溺死など、想像するだけでも恐ろしい。

 まして立花響は、ただお人好しなだけの女の子なのだ。

 彼女は特別ではない。だから、誰もが生来持つ死の恐怖を当然のように持っている。

 

 

(誰か……)

 

 

 青空に向かって、手を伸ばす。

 その方向には誰も居ないというのに。

 天上から神様が引き上げてくれる奇跡など、神の死んだこの世界で起こるわけがないのに。

 それでも、手を伸ばす。

 彼女の身体が沈み、口も鼻も水が入って来て、とうとう呼吸もできなくなる。

 

 

(……たす……けて……)

 

 

 そんな時。立花響が自分の命を諦めかけた、そんな時。

 

 

「助かりたいなら、手を伸ばせ! ……諦めるなッ!」

 

 

 空から、奇跡が降って来た。

 

 

(―――)

 

 

 呼吸も出来ない。

 水の上にあるのは目を含む顔の一部だけ。

 諦めかけていた。死が怖くて、もう何も考えないようにしようとしていた。

 そんな響が、手を伸ばす。

 

 気付けば響は、何故か水の上で岸に向かって移動していた。

 

 

(……あれ……なんで……)

 

 

 朦朧とする意識の中で、誰かの肌の温度を感じる。

 目だけで周りを見渡すも、誰の姿も見えない。水の上には誰も居ない。

 なのに、誰かが触れている感触と、運ばれているという感覚だけがある。

 

 

(……あったかい)

 

 

 その誰かの体温が、ずっと冷たい川の中に居た響の肌には、とても心地良かった。

 よく見ると、子猫が入ったダンボールも一緒に移動している。

 誰かが運んでくれているのなら、その人は優しい人なんだな、なんて思いつつ、下がった体温で動きの鈍くなった頭を動かすのをやめる。

 近くで気泡が大きく弾ける音がした。

 なんだろうと思うも、今の響には分からない。

 

 

「わたし……いきてる……?」

 

 

 朦朧とした意識のせいか、思ったことがそのまま声に出てしまう。

 その声に反応したのか、そうでないのかは分からない。

 だが、水中に浸かったままの響の右手が、誰かにギュッと握られる。

 

 その力強さが、響を心から安心させてくれていた。

 

 この日、この時、握られた手の感触を。彼女は生涯忘れることはないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 陸地から一人全てを見ていた未来は、心配で心配で気が気でなかった。

 響だけではない。名も知らぬ、響を助けるために冬の川に飛び込んでくれた少年に対してもだ。

 まさかこんなとことになるとは、彼女も想像していなかったのだから。

 

 

「い、一回も顔出してない……さっきのあれ、息が続かなかったってことだよね……!?」

 

 

 ゼファーが気付いた不味い要素。

 内陸地と地下でずっと過ごしていた人間の欠点。

 この事件における、最悪の要素。

 

 ゼファーは、泳げなかった。

 

 そこでゼファーが選択したのは、立花響を肩より上に抱え、その重量で川底に足をつき、響を水面より上に押し上げつつ、歩いて川の真ん中から岸まで歩き切るというものだった。

 彼も分かっていたことだが、ここは子供が足をつける水深ではない。

 足をつけて歩こうとするのなら、当然頭のてっぺんまで水に浸かり呼吸は出来ない。

 前も見えなくなるが、それは直感でなんとかなる。

 そうして彼は、身体も自由に動かせない水の中で、呼吸を捨てて歩みを進めた。

 

 苦しい、冷たい、痛い。

 氷水と大差ない温度の川の水が、強い流れとなってゼファーの身体を押していく。

 考えるのをやめて流されていけば楽になれると、弱い考えに呑み込まれそうになりながらも、抱き上げている小さな命の重みに奮い立ち、力一杯前に進んでいく。

 その内息を止めるのも限界になって、肺の空気を全て吐き出してしまう。

 その拍子に鼻の穴から、口の中から、大量の冷たい水が流れ込んできた。

 

 水中でむせ返るゼファー。むせる度に空気を吐いてしまい、また水が流れ込む。

 苦しさ、痛さ、冷たさが肌だけでなく、肺からも強烈な苦痛として感じ取れる。

 水の中でむせながら、肺の中に薄汚れた川の冷水を流し込まれながら、それでもゼファーは足を止めない。

 背負った命を、諦めない。

 

 いつからだろうか。

 彼はいつからこうなったのだろうか。あるいは最初からこうだったのだろうか。

 自分が生きることが第一だった。

 その気持ちは今も捨ててはいない。捨てていないはずだ。

 生かすことは第二だった。

 死んでいないだけの人生が嫌で、生きていることを実感する人生が欲しかったから、それだけだったはずだった。

 

 なのにいつからか、誰かの命を守るために、必要以上に自分の命を張るようになっていた。

 それは矛盾だ。

 生きたいことが何よりも優先する気持ちであるのなら、それよりも優先すべきことは無い。

 それは、いつの日か誰かに指摘されるべき矛盾だ。

 だが、それは今日ではない。

 

 誰よりも強い『生きたい』という気持ちを持ちながら、彼は他人のためにその命を懸けられる。

 

 例えば、両手のない人間が居る。崖にしがみついて落ちそうになっている人が居る。

 差し伸べる手がなくて、その人は崖から落ちてしまった。

 周りは『しょうがなかった』と慰めてくれる……そんな、そんなことがあったとする。

 だけど、それでも、その両手がなかった人間がゼファーであれば、絶対に後悔するだろう。

 

 何か助けられる『手』があったんじゃないかと、いつまでもいつまでも考えて、納得なんてできはしない。彼はそういう人間だ。

 どうしようもない後ろ向きな人間なんだと自分で分かっていても、ゼファーは変われない。

 彼は差し伸べる手がなかったとしても、手をもがれた後だとしても、手を差し伸べることを諦められない。

 

 だって落ちた人が『しょうがなかった』と納得できるわけがないのだと、そう知っているから。

 それが運命であったとしても、生きることを諦められるわけがないのだと、知っているから。

 その気持ちがあるのなら……彼はその人に、手を差し伸べることを諦められない。

 

 

(苦しい……肺の中に水しかない……死にそうだ……

 ……でも……死んで、たまるか……死なせてたまるか……!)

 

 

 生きたいという気持ちが誰よりも強いから、分かるから。

 彼は他人の『生きたい』を見捨てはしない。

 

 

――――

 

「……ぐずっ、お前、励ますにしてももうちょいマシな言い草ってないのかよ」

 

――――

 

「……いつでもどこでも駆けつけるとか、そういう風には言ってくれないの?」

 

――――

 

 

 フィフス・ヴァンガードで、クリスを。

 F.I.S.で、調を。

 心から守らなければと思い、守り、その地で初めて守れた後に笑顔を貰った時の嬉しさを、ゼファーは覚えている。

 守れた時の嬉しさ。守れた後の皆の笑顔。

 そう、それが嬉しかったから、ゼファーは頑張ったのだ。

 その笑顔が嬉しかったから、ゼファーは苦しくても頑張れた。

 頑張って、歯を食いしばって、戦いを乗り越えた後に、「報われた」と思えたのだ。

 戦いの果てに、失いもした。

 それでも、その気持ちまで無くなってしまったわけではない。

 

 

「二人共! ……ああ、あぁ、よかった……!」

 

 

 川岸に辿り着くゼファー。

 まだ息をしている響に、溺れていないゼファーに、未来が顔を一瞬輝かせて駆け寄ってくる。

 しかし近寄ってすぐに、二人の状態を見て顔を青ざめた。

 

 

「げほっ、ごぽっ、えっ、ゲッ、ゲホッ、ガホッ、ゴッ」

 

 

 助けを求める誰かが居て、応える自分が居て。

 そんな誰かを助けられて、笑顔を見ることができて。

 それだけで十分過ぎる報酬だと、思っていた。

 それが、ゼファー・ウィンチェスターだったはずだった。

 そんな記憶すら、喪失の痛みから逃げる過程で、痛みの記憶と一緒に放り投げてしまっていた。

 

 少年の肺から、胃から、川の水が吐き出される。尋常でない量だ。

 吐き出されるものが透明な水でなかったら、嘔吐のようにも見えたかもしれない。

 目に見えてとんでもないことになっているゼファーに未来は駆け寄ろうとするが、ゼファーに手で制される。ゼファーはそのまま、酸欠で回らない頭で響を指さした。

 

 

「ぞの゛ご……ゴホッ、ぉッ、ぉ゛っ」

 

 

 むせているのか、声を出しているのかも分からない。

 ゼファーも死の直前の瀕死であることには変わりない。

 水中で息ができなかったのも、むせて息ができていない状態が続いているのもマズい。

 だが、自分の状態より、ゼファーはずっと水中に居た響の方を心配していた。

 低体温症。冬の寒空の下に濡れた体で放置していては、まだまだ最悪はある。

 抱きしめるなり何なりして温めろ、とゼファーは言おうとした。

 しかし肺の中の水でむせ、その痛みが邪魔で上手く喋れない。

 

 

(くそ……誰か……!)

 

 

 誰かに助けを求めたゼファーが、今また助力してくれる誰かを求める。

 そして、その声に応える者は……居ないわけでもなかった。

 弦十郎は、大人を頼れと言った。

 そして子供が頼るなら、大人は応えるものである。

 

 未来はその時、むせ返り呼吸すらもまともにできていないゼファーを見て、真っ白な顔で震える響を見て、川の向こう側の遠くに見える救急車を見て。

 救急車の中から飛び出して、川の上を走ってくるスーツ姿の忍者を見た。

 

 

「は?」

 

 

 バイクか何かかと思うようなスピードで走って来た忍者は、ゼファーの背中に少年が気付く間もなく到達し、背中を掌底でぶっ叩く。

 するとゼファーの肺の中から、水が一滴残らず吐き出され、空に綺麗な虹を描いた。

 

 

「地遁十法、水遁。溺死返し」

 

 

 ゼファーはそこからむせること一回、二回、そしてすぐに収まった。

 え? っと少年が背後を見やれば、そこにはもうすっかり顔なじみになった二課の大人の一人。

 緒川慎次が、そこに居た。

 

 

「シンジさん!」

 

「間に合った……いえ、遅刻だったようですね。申し訳ありません」

 

 

 携帯での連絡から二分前後での到着を、どう考えたら遅刻だと思えるというのか。

 それはともかくとして、最高のタイミングでの救援だった。

 もしゼファーが失敗したとしても、彼は二人の子供を一緒に救い上げてくれていただろう。

 ゼファーが飛び込まなければ響は助からなかった可能性が高いが、ゼファーが二課に連絡し彼がここに向かってくれていた時点で、響が助かることは決まっていたのだ。

 水面を走り、溺死を覆す水遁使いのNINJAの手によって。

 

 

「その子を、抱きしめてあげてくれ。体温がないのが、今一番マズいから……」

 

「あ、うん」

 

 

 何がなんだか分からないと呆然としていた未来だが、ゼファーに促されて響を抱きしめる。

 未来の体から響の身体に、命の熱が流れ込んでいく。

 川の水が汚いからと躊躇う気持ちなど、未来の中には一片たりともなかった。

 

 

(響……こんなに冷たくなって……辛かったよね……)

 

「えへへ、未来、あったかーい……」

 

「もう、バカ」

 

 

 幼少期からの幼馴染は、家族とそう変わらない気持ちを抱き合うという。

 家族という人間が最初に形成するコミュニティの中に、その人間が含まれるからだ。

 その人間が人格を形成する際に、核となる部分に根ざすコミュニティ。

 言い換えれば、自分の最大の理解者達だと思っている枠の中の人。

 それが失われてしまうかもという恐れは、何よりも強いものだろう。

 未来は力一杯、響を抱きしめていた。

 それがこの瞬間まで、未来が抱いていた恐れがどれだけを大きかったかを示している。

 

 

「お疲れ様です、ゼファーさん。あなたも救急車に乗るんですよ?」

 

「俺は、平気ですけど」

 

「そのまま歩いて帰ったら風邪確定、最悪肺炎で死んでしまいますよ?」

 

「……む」

 

 

 ゼファーも全身びしょ濡れだ。

 流石に無茶をしすぎただろうし、冬の川と冬の寒空の合わせ技で顔色も悪い。

 すぐ近くまで迫ってきている救急車に同乗しなければならないのは、ゼファーも同じ。

 平気そうに見えても、彼が得意なのはやせ我慢だけで、別に健康優良児というわけではない。

 

 

「……」

 

 

 泣いているような、笑っているような少女の二人。

 二人は自分達がこの少年に助けられた、と思っているだろう。

 だが、二人を助けたのは少年だが、二人に救われたのもまた少年だった。

 この場で一番救われたような顔をしていたのは、間違いなくゼファーであった。

 

 救ったつもりが、逆に救われた翼の時とは違う。

 大人として、救いの手を伸ばしてくれた弦十郎の時とも違う。

 ゼファーが救われたのではなく、ゼファーの手が誰かを救えたことが重要だった。

 

 響が『救われてくれた』ことが、どれだけゼファーの救いになってくれたことか。

 守ろうとして守れなかったという結末にならなかったことが、どれだけ彼を救っていたのか。

 彼女が生きていてくれたことが、少年の心の傷をどれだけ癒してくれていたことか。

 ゼファー以外の、誰もが知りようがない。

 

 

「あの二人がどうかしましたか? もしかして、友達とか」

 

「いえ」

 

 

 二人の少女を、ゼファーはじっと見つめる。

 

 どこかが誰かに似ている気がした。

 どこかの誰かと似ている気がした。

 懐かしい気持ちがほんの少しだけ、胸の奥に湧き上がる。

 

 救えなかった、守れなかった後悔は減りはしない。

 それでも、その二人の命と心を救えたこと、守れたことが無価値になりはしない。

 他の誰でもなく、守れた誰かがその二人であったことが、ゼファー・ウィンチェスターにとっては尚更に大きな意味を持つ。

 

 誰かの代わりではない。

 生者は死者の代わりにはならない。

 小日向未来と立花響は、どこまで行ってもゼファーにとっては赤の他人だ。

 

 

「……赤の……他人ですよ……」

 

 

 そう言って、ゼファーはその場に倒れ込む。

 失われる意識。とっさに回りこんで受け止める緒川。声を上げる少女。

 救急車が停止し、人の声と足音が増える。

 

 少年は暗転する意識の中で、それらを他人事のように耳にしていた。

 生きていたことを喜び合って抱き合う、二人の少女の笑顔を記憶に刻み込みながら。

 




響がリルカのヒーローリファインというのは有名な話
未来はマリアさんが本編でちょっと重ねるくらいには雰囲気だけセレナとクリソツさん
そんな四人の代わりにならない少女達との死者生者の対比関係、こっからスタートです

三章はプロットが一番ふにゃってて一部ダレるかもしれません

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