戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ 作:ルシエド
反省
早朝の時間帯は静かなものだ。
出勤、登校で徐々に人気が出始めて、開店の時間帯を過ぎてようやく賑やかになる。
それでも、人の姿が絶対に見られないということはない。
ゼファーが走り込みをしていた早朝の時間帯でも、すれ違う人は何人か居た。
「やあ、おはよう」
「おはようございます」
例えば、ゼファーの顔を覚えてくれてすれ違う度に挨拶をしてくれる、朝のウォーキングが習慣のご老人。もっとも、ゼファーが挨拶を返してくれるから顔を覚え、挨拶をしてくれている一人暮らしの寂しいご老人である、という面もあるのだろうが。
例えば、ロードバイクを汗だくになってかっ飛ばしている大学生。トレーニングの最中によくすれ違うゼファーの顔を覚えたのか、視界に入ると視線をやるようになった様子。
例えば、毎朝一緒に散歩しているごく普通の父娘。
ゼファーの方はこの二人とすれ違ったこともないので、全く覚えていなかったりする。
父娘が遠巻きに少年を見ていたりすることがあるだけだ。
「筋はいいが、まだまだ素人だな。あの少年」
「パパー、何言ってるの?」
ゼファーは走る。コースを変え、時間帯を変え、欠かさず体力作りに走る。
そして時が経ち、翼との再戦も終わり、時は流れる。
季節は冬を終え、春に。
四季がなく一年中暖かめの中南米のバル・ベルデ、室内で気温が変わらない地下のF.I.S.に慣れていたせいで、「寒すぎて死にそう」とゼファーがこぼす日々も終わりを告げた。
桜が咲いて、花びらが風に舞い、道路に降り積もる。
そんな中でも、ゼファーは欠かさず毎朝走り続けていた。
「今日も頑張ってるね、おはよう」
「おはようございます」
すれ違う際に老人に頭を下げ、すれ違う。
肌を刺すような寒さはどこかへ消えて、この時間帯の明るさも増している。
気付けば人気が出始める時間も少しづつ早くなっていて、季節の変わり目を表していた。
「これが四季か」と、ゼファーは実感する。
そこかしこで人が話す声がしていて、その残滓が彼の耳に届いていた。
声として届かなくとも、大気をほんの僅かに揺らして、そこに人が居るのだと知らしめる。
俗に言う、人の気配というやつだ。
「ほう、走り方に芯がある……いい師に巡り会えたようだな、あの少年」
「パパー、どうしちゃったの?」
日本に来たのが冬。現在の季節は春。
ゼファーがここに来てから、数ヶ月の時間が経とうとしていた。
第十二話:ゼファーのARM
さて、この春に一大イベントを迎えるゼファーの知人が一人居た。翼である。
そして学生、春とくれば候補はそう多くはない。
風鳴翼はこの春より、中学校へと進学するのであった。
「どう?」
ゼファーと弦十郎の前で、セーラー服を着た翼がくるりと回る。
翼の容姿の良さも相まって、中々絵になる光景だった。
ただ、見せた相手が色気のある反応を期待できない二人なわけで。
「似合ってるぞ翼。義姉さんの若い頃を思い出すな」
「うん、似合ってる。海兵隊みたいだ」
「……叔父様はともかく、ゼファーのその褒め方は何とかならなかったの……?」
ことゼファーは、基本的に本心しか言わない。
目の前にとびきりの美少女が現れて、胸開きタートルネックを着ていても「寒くねえのそれ」としか言わないだろうし、兎耳を付けていたとしても「腹が減ってくるな」としか言わないだろう。
セーラー服は出自が出自だ。その感想も間違っているわけではない。
需要と供給が全く噛み合っていない、という一点から目を逸らせばだが。
「……お母様の若い頃、か……」
翼は、無自覚にポツリと小さな声を漏らしてしまう。
本人は声の小ささもあって、自分が口にしていたことに気付いていなかったようだが、ゼファーや弦十郎にはしっかりとそれが聞こえていた。
今日は翼の入学式だ。だというのに、相も変わらずこの家には三人しか居ない。
翼の両親は、今日も帰って来てはいなかった。
(……少し寂しいって顔してるなぁ)
ゼファーが会ったことが無いだけで、一度か二度は帰ってきたという話は聞いている。
入学式の日に、親が必ず来るというわけでもない。
翼が不満を口にしたこともない。
ただ。
ただ、翼が時折それを寂しそうにしているという、それだけの話。
ゼファーが何をしてもどうにもならない、そんな話。
「翼、あまりのんびりしてると遅刻するぞ」
「え、もうそんな時間? じゃ、行ってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
朝日の中、真新しい制服に袖を通した翼が歩き出していく。
どうしたものかと、ゼファーは彼女を見送った後、誰も居ない厨房に目をやった。
翼は中学校に進学した。
響や未来も平日の昼間は勉強に励んでいる。
ゼファーくらいの年頃の子供というものは、この国では大抵学校に行っている。
彼の耳には聞き慣れない概念の言葉、義務教育というものがあるからだ。
ならばゼファーも学校に行かせた方がいいのではないか? と主張する者も居るわけで。
食堂で彼と少し話したことのある大人の数名が特に、それを弦十郎に進言したりしていた。
が、それもいささか問題があった。
時系列は少し遡る。
まず、ゼファー本人がそれを望んでいなかった。
ゼファーは生きるために必要なことを学ぶ意志はあっても、学校に行こうという意欲が無かったのだ。必要性を感じられなかった、とも言うが。
生きるために学ぶならともかく、生活の大半が学ぶために費やされるのであれば、それは本末転倒なのではないか……という思考。
ゼファーは例えるなら、資格を取るために必要なことを学んで身に付けることは進んでやるが、大学受験に受かるために勉強することにあまり意味を見出だせないタイプであった。
「勉強以外の色んなことも学べる場所だ」と人に言われても、「勉強する所に他に何をしに行くのさ」という意識が挟まってしまい、どうにもしっくり来なかったり。
それと、ゼファーはいまいち日本の常識や、持っていて当然の知識というものが足りていなかった。今すぐ学校に行かせても、悪目立ちすることが危惧されてしまうくらいに。
日本のことを知らなくても、その根底に平和な国の常識が据えられているなら問題はない。
だが、ゼファーの根底にあるのは中南米の紛争地域の常識であるわけで。
小さなすれ違いと勘違いが、大惨事に至ってしまう可能性は十分にあった。
一般社会に出て行く前に、どこかで一般常識を叩き込む必要があった。
本来それは弦十郎が時間をかけてやっていく予定であったのだが、思ったより部下からの要望が多かったことで、弦十郎も方針を変えようという気になり始める。
そこで何故か名乗りを上げたのが、櫻井了子であった。
研究部門のトップが何言ってんだと思うかもしれないが、意外と管理職の彼女は手が空くことが多く、しかも仕事が速いおかげで部下よりもずっと悠々自適な生活を送っている。
手が空いた時にゼファーの教育をする程度なら、何も問題はない。
教科書通りに知識を詰め込ませる凡庸な人間よりは、数倍ゼファーに合っているだろう。
「強いて勉めさせる、それが勉強よ。
大人が子供に学ぶ習慣を付けさせることね」
そんな了子は、初めにこう言った。
「勉めて学ぶ。受験が始まれば大抵の人はこの段階に行くわ。
あなたは今、独学でこの段階に居る。勉学をしてるのね」
ウィンクをして、ゼファーにまず目指すべき場所、彼が今居る場所を伝える。
そうして、その道がどこに続いているのかを簡潔に伝えた。
「だからもうちょっと頑張って、私達の居る場所を目指しましょう。
次は常に疑問を持ちながら、問うて学びなさい。それが学問の入り口よ。
あとは研ぐように究めていくだけよんっ」
「はい。今日からよろしくお願いします、リョーコさん」
口調はふざけているが、行っている内容は至極簡単で真面目なもの。
大人が子供に提示する道しるべだ。
ゼファーはこの日、『学ぶ』ということがどういうことなのかを知った。
そうしてゼファーは、時々ではあるが、了子から授業を受け続けた。
了子がそう頻繁に見てくれるわけでもないので、彼女から出された課題もコツコツと一人でこなし、常識と学力を付けていく。
そうして行く内に、彼は研究班の手伝いをすることも多くなった。
了子の時間が増えれば教えて貰える時間も増える、了子以外の研究班の人とも話している内に仲良くなった、などの理由もあるが、何より。
何かしらの形で、この国に来てからずっと世話になっている二課に貢献する方法を、ゼファーが探していたというのもあった。
ここでゼファーがかつてF.I.S.で交渉材料として提示した、『代案』が生きてくる。
「……う、ん? 右で」
「はいはい右ね~」
エジソンが電球の素材に多くのものを試して、その果てに竹を見つけたというエピソードは、日本人の多くが知るところだろう。
研究においてサンプルを片っ端から調べていくのは時間がかかるし、ひらめきブレイクスルーをどんなに期待しようが、偶発的な思いつきを待つしかない。
そこに来ると、学者になれるだけの頭の出来を持っていないくせに、雑用を任せると「このサンプルの中ならこれが当たりの気がする」だの「なんかこれとあれって相性良さそうですよね」と無自覚にのたまうゼファーのような少年は、研究班にとって理想的な援軍だった。
薬品四つを並べて、どれがいいかと聞けば必ず当たる。
情報を叩き込めばいくらでも精度が増す。
無論外れることやふわっとした答えしか返って来ないことも多かったが、それでも指標の一つとしては恐ろしいくらいに便利だった。
信頼度と便利度で言えば、クイズミリオネアのライフラインのようなものと考えてもらえれば、分かりやすいかと思われる。
ゼファーがかつてF.I.S.で提示した『代案』。
それは、自らの直感を最大限まで活用した、研究への協力であった。
「ほんっっっと弦十郎君の周りには変な子が集まるわねぇ。超天才の私も含めて」
「は、はぁ」
二課は未だ研究の補助にしか使っていないが、ウェル博士はこれを凡人では確実に形に成せないレベルで、もうワンランク上の活用をこなしていた。
ウェル博士はかつて、ゼファーに肝心な部分のデータを伏せた上で、太陽のアームドギアと三日月のアームドギアをデザインさせた。
そう、ゼファーは既にデータの中核部分を見ずに、外周部分のデータを見ただけで残りを直感で補完し、正答を叩き出したことがあるのだ。
近しいものを挙げるなら、遺骨から生前の肉の付いた姿を再現する技術だろうか。
更に、ゼファーに危険物含む四つの薬物の内一つを選ばせて飲ませるという方法で、ゼファーの生存本能を引き出して直感の精度を上げ、人体実験の手間を省いたりもしていた。
成功例は一つしか無かったが、聖遺物捜索の際に聖遺物の在り処の候補を勘で絞らせ、最終的に『ガングニール』の破片を回収したりもしている。
その結果、ウェル博士は研究の手間が省け、かつ地位も上がる。
ゼファーというガジェットを、かつてのウェルは完全に使いこなしていた。
『今の』ゼファーを使いこなせるかどうかは、やってみなければ分からないだろうが。
「どーお? その携帯。設計私なんだけど、結構いいものでしょ?」
「はい、かなり助けられてます」
さて、そうなると新たな問題が発生する。
ゼファーに給料が支払われることになったのだ。
これに仰天したのが、当のゼファーである。彼からすれば恩返しのお手伝いなのに、給金なんて貰ってしまっては何が何だか分からない。
しかし断られても大人勢は困る。
ゼファーは直感の分学生上がりの新人より役に立つ上、勤勉で真面目で誠実だった。
学ぶ意欲があり、報告連絡相談をおろそかにせず、言われたことを忘れない。
子供であるということも、気持ち大人勢の認識に影響を与えていた。
直感を除いた部分は優秀ではなくとも、ただひたすらに勤勉だった。
なら、もうほとんどここの職員と扱いが変わらないわけで。
ゼファーはこの話が出るまで知らなかったが、翼にも給金は出ているという。
彼女も研究班付きの開発協力者、という扱いなのだ。
働いてくれている子供にせめて給料だけでも、という大人のスタンス。
無償で子供を働かせることなど、大人の良心が咎めるのだろう。
「受けてくれたほうが助かる」と言われ、ゼファーは悩み、保留にしておいて欲しいと頼む。
弦十郎はこっそりゼファーの口座を作って給金を振り込み始めた。
そして了子は一計を案じた。
給料の代わりに、まずは彼女が設計した携帯電話が支給されることとなったのだ。
機能と原価は、予算を見た弦十郎だけが察していたりする。
本当に色々、色々仕込まれている。知らぬは本人ばかりなり。
「やあ、了子くん。例の件、許可が出たぞ」
「あら、やっと? 本当に長かったわねえ」
かくして、時系列は現在に戻る。
携帯電話の調子を答えるゼファーに、満足気に頷く了子。
そこに弦十郎がやって来て、了子に何か重要そうな話をし始めた。
ゼファーは気を使い、話の邪魔をしないように無言で会釈し、去って行く。
弦十郎はそんなゼファーに目礼し、その背を見送り、了子に向き合った。
頬杖をつく了子は、目の前に居る弦十郎ではない相手に向かって、呆れた表情を浮かべている。
「それにしても、本当に簡単なチェックだって言ってるのに、何ヶ月も待たされるとはねぇ。
お役所仕事に腹が立つのはこれが初めてじゃないけど、もうやんなっちゃうわ」
「それに関しては本当にすまない。
だが、日本政府はこの降って湧いた聖遺物の存在を、かなり気にしているようでな」
ゼファーが持ってきた聖遺物。実はこれ、ゼファーにまだ僅かに残っている記憶の混濁もあり、名称や詳細がはっきりしていなかった。
当然二課はその詳細を調べ上げようとするが、そこにストップがかかる。
何しろ、日本側の手に入った流れが流れだ。
罠なのでは、慎重になるべきだ、なんて主張する偉い人が少なくなかったのである。
聖遺物由来の技術は、いまだ未知数である。
例えばあらゆる探知に引っかからない盗聴器、あるいはスパイウェアのようなものがこの聖遺物に仕込まれていて、それを二課が見抜けないという可能性は0ではないのだ。
そう主張する偉い人が居たし、弦十郎達もそれを否定することは出来なかった。
かくして、特殊なシェルター内で本調査の前の予備調査が行われたのだった。
この件についての話を面倒にした原因は、本当に米政府による聖遺物由来の罠を疑っていた者、そしてシンフォギアに関する計画を進めていた政治家に敵対し嫌がらせだけを目的とした者、米政府の傀儡として誰にも気付かれず混乱を招こうとした者、その他諸々。
本当に多くの人間の思惑が重なり交錯した点にある。
ゴネ得とはよく言ったものだ。
それがその人の立場からすれば当然しなければならなかったものなのだとしても、煩わしい手続きを無駄に増やしたことには違いないわけで、了子が呆れている気持ちもよく分かる。
結局、茶番なのだ。人と人が足を引っ張り合うだけで何も産まない、そんな茶番。
了子が擬似的に発生させたアウフヴァッヘン波形を照射し、聖遺物から返って来る波形、及び微量に発生したエネルギーから、聖遺物のデータを照合。
一分と経たずに、聖遺物の波形パターンが計測される。
「調査開始。擬似励起、波形確認……あら、該当パターンあり。
ドイツのデータフォルダに確認。オリエントで発掘された聖遺物、『ガングニール』よ」
「ガングニールだとぉ!?」
驚く弦十郎の声。
しかし彼よりもっとびっくりしたのは了子である。
そりゃ、弦十郎の肺活量で耳元で叫ばれたらたまらない。
「大きな声やめなさいなぁ! って、この聖遺物のこと何か知ってるの?」
「ああ。かつての第二次世界大戦の時、ドイツから日本に搬入されるはずだった聖遺物だ。
だが、他の聖遺物は届いたにも関わらず、こいつだけは行方不明になっていた。
南米に逃げたナチスの残党が保有してたという所までは、俺達でも確認していたんだが……」
「巡り巡って、
「数奇な運命か、この槍が義理堅いのか、それとも……」
成程、それならば弦十郎が知っていたのにも納得がいく。
末期ナチス・ドイツのオカルト傾倒は有名な話だ。
当時同盟関係にあった日本とドイツは、潜水艦などを介し一部技術交流を行っていた。
聖遺物の国家間のやりとりも、その際にある程度行われていたと言われている。
事実、現在二課が保有する聖遺物の内、事実上三つがドイツからもたらされたものである。
翼が保有する、日本で発掘された第一号聖遺物『天羽々斬』。
数年前に紛失したと言われる第二号聖遺物『イチイバル』。
書類上の移動だけで、ナンバリングだけがされていた第三号聖遺物『ガングニール』。
未だ研究が進んでいない完全聖遺物、第四号聖遺物『ネフシュタンの鎧』。
そして日本で発掘され、イチイバルと共に失われた第五号聖遺物『アースガルズ』。
第二次世界大戦中、これらの聖遺物をドイツから受け取り、敗戦が見えてきた戦局を覆すため聖遺物研究を担っていた部門が、風鳴機関というわけだ。
だからこそ聖遺物研究が進んでおり、特異災害対策機動部の目に止まったのである。
ガングニールの研究データが、僅かとはいえ二課にあったのはそのためだ。
ナチスの残党が逃げた先が、ゼファーが過ごしていた地域の近くであったというのも、何かしらの運命を感じる者も居るかもしれない。
あるいは、米国側の挑発とも考えられるが。
「ガングニールは伝承だと手元を離れても必ず戻って来る、なんて言うけどね」
「面白い考え方だな。まあ」
弦十郎はガングニールが入ったケースを撫で、何枚かの書類を机の上に置いた。
「いつでも、シンフォギアに加工できるようにしておいてくれ」
「お任せあれよん」
さて、退出したゼファーはというと。
食堂のおばちゃん、絵倉と一緒に厨房に立っていた。
ゼファーが考えているのは、こういうことだ。
風鳴家の食事はインスタントやレトルトが非常に多い。
何故なら、料理をできる人間が居ないから。
昼は二課食堂や給食、夜も二課食堂があるために料理をしなければいけないのは基本的に朝のみの上、その朝も二課食堂で済ませようと思えば済ませられる。
そんな事情に、家事が致命的に向いていない風鳴二人が加わった結果であった。
見かねた絵倉が何度かタッパに食事を詰めて渡したことがあるものの、それも根本的な解決になりはしない。そこに目を付けたのがゼファーである。
入学式の日に、進学を手料理で祝ってやろうという考え。
プラス、家事方面で貢献しようという居候の献身だった。
その考えはあながち間違っていないだろう。
家事のような地味な疲れが毎日溜まっていく類の役割は、実にゼファーに向いている。
が、ここで問題が一つ発覚した。
ゼファーが作った味噌汁を一口味見して、絵倉はほんの僅かに眉をしかめる。
「アタクシもちょいと首を傾げるね、これは」
「すみません、せっかく教えてもらってるのに……」
「子供に料理教えるなんてお菓子摘むようなもんさね。
子供が大人にかける迷惑なんて気にしてんじゃないよ、バカバカしい」
絵倉は食堂を覗く。
時間帯の問題か、人影は一人分しかない。
そこに新たに一人入って来て、絵倉はもう少し参考意見を出せる人間を巻き込むことにした。
「ちょっとそこの二人! こっちに来てくんな!」
絵倉がは厨房から顔を出して声を上げる。
すると、その時食堂で食事を取っていた女性と、今入って来たばかりの若者が反応した。
無視されず、二人が絵倉の声に応えた辺りからも、絵倉の人望が伺える。
食事をしていたのは二課オペレーターの友里あおい。
今入って来たのは研究班の手足となる聖遺物捜索部隊の甲斐名であった。
「はい、何かご用ですか? 絵倉さん」
「しょうもない用で僕を呼びつけたんなら承知しないよ」
「残念ながらしょうもない用ってやつさ。こいつの味見を頼むよ」
絵倉に視線で促され、ゼファーがトレーに乗せた二つのお椀を運んでいく。
あおいと甲斐名はそのお椀を受け取ると、中の豆腐だけが入った味噌汁を口にした。
二課に所属しているという時点で、その人間は有能だ。この二人も然り。
察しの良さを発揮し、二人はこの味噌汁を口にした時点で、この味噌汁を作った者を理解する。
「……なんというか、こう? なんかちょっと濃いですね」
「雑。味が雑。味見足りてないんじゃないの?」
「味見、味見ねえ」
味に違和感を感じ、それを口にするあおいと甲斐名。
それに腕を組んで溜め息を吐き、どうしたもんかと悩む様子を見せる絵倉。
それこそが、ゼファーに発覚した問題だった。
「この子、味見苦手らしいのさ」
「えっ?」
「……ふぅん」
「いや、なんというか、その、すみません」
ゼファーは何を食っても美味しいと言う。
どんな不味いものを口にしても、大抵の場合美味しかったと口にする。
小麦粉の袋とスプーンだけを渡しても、短期であればそれで食を賄えるだろう。
彼の中の『食べられるもの』の範囲は、常人と比べると下方向に異常に広い。
クリスはその基準に従った。
マリアはその正気を疑った。
切歌は舌までバカなのかとからかった。
その辺の芋虫くらいなら平気でつまんで食べられる舌の基準が、ここに来て裏目に出る。
ゼファーの舌は、どんな料理を味見しても美味いとしか感じられないため、味が濃かろうが薄かろうが分からない。一味足りなくても水っぽくても生っぽくても分からない。
一言で言ってしまえば『味音痴』。
食う側でいる内は問題ないが、作る側となれば至極マズい問題だった。
「……メニュー考えれば、生魚を出す可能性なんかは減るんだろうけどねえ」
「その辺は絵倉さんに教わったこと、レシピ諸々バッチリメモ済みです」
「よろしい」
幼少期から美味いものを食わせてもらい育てられた者はいい舌を持つと言うが、ゼファーはまさしくそれの対極だった。なんでも食えるということは、なんでも美味しく感じられるということであり、何が美味しくて何が不味いのか分からないということである。
美味しいものと不味いものの境界線は個人差があるだろうが、ゼファーのそれはあまりに低い。
加熱時間の調整などでカバーできる部分もあるだろうが、味見が全く意味を成さない以上、細かい味付けはかなり難しかった。
レシピ通りに作るなら、どんなバカでも料理はできる。
ただし、料理上手というのは、料理が作れる人間を意味しない。
冷蔵庫の中を見てパッと幾つものメニューが頭に浮かんでくる、味見をしながら料理を整えるのが上手い、美味く作れる料理法を覚えている、などなどの要素が必要なものなのだ。
料理の最後に味見をして、塩をひとつまみ……それができるかが、明暗を分ける。
絵倉はその領域にいる。
あおいや甲斐名もレシピ本があるなら大抵のものを作ることはできるだろう。
ただし、ゼファーはレシピがあってもそこから一段落ちるものしか作れない。
不味くはないが、絶妙に雑なものしか作れないのだ。
そんなゼファーに、甲斐名が声をかける。
「君、嫌いな食べ物ある?」
「いえ、特には」
「特別好きな食べ物は?」
「……ええっと……」
「こりゃダメだ。それで悩んでちゃお話にならない」
童顔の若者は、考え込む少年に畳み掛けるように言う。
「食べ物の好き嫌いが何もない奴が、どうやって人の好かれる料理作れるってのさ」
その一言は適当で、何の根拠もなく、核心を突いているようで、割とそうでもなかった。
だが、ゼファーはそれを聞いて考えこんでしまう。
それを見て、あおいは手の平で甲斐名の後頭部を盛大にぶっ叩いた。
「そういう言い方はないでしょう。だから背も伸びないのよ」
「僕の背は関係ないだろ背はァッ!」
大人げない甲斐名が、あおいに対しぎゃーぎゃーと騒ぎ始める。
そんな二人をよそに絵倉はゼファーにアドバイスを送る。
何しろ、本番……翼の入学祝いは今夜予定なのだ。
二課でもお祝いをする予定はあるが、勤務スケジュールの問題で明日となっている。
あとは、ぶっつけ本番で上手く行くのを祈るしかない。
「上手くやるんだよ。あんたに料理を教えたのはアタクシなんだからね」
「はい。絵倉さんに恥をかかせないように頑張ります」
三人にお礼を言い、食堂を後にするゼファーの脳裏に、数日前の光景が思い返されていた。
ゼファーが祝いに料理、という結論に至ったのにも途中経過というものはある。
響と未来に勝利を報告し、何か軽く礼ができるものはないかとゼファーが考えていた頃の話だ。
つまり、ゼファーが再戦に勝利してから少し後の話。
了子に「お菓子でも作ってあげたら」と言われ、ゼファーは絵倉にやり方を教わり、響と未来にクッキーを焼いて持って行こうとしていた。
女子か! と言われそうなノリだが、実際アラサー女子の助言によるものなので間違ってはいない。加えて、クッキー作りは普通の料理よりはゼファーと相性が良かったりした。
味見をしない前提なら、汁物よりクッキーの方が無難に作れるのは当然のこと。
「わっ、美味しい!」
「ありがとね、ゼっくん」
「いやいや、俺が礼を言うためにに持って来たんだぞ、ミク。あとヒビキこぼれてるこぼれてる」
「もー響ったら」
響の手元口元からクッキーのカスがポロポロと落ち、未来が呆れた顔でそれを払う。
まるで面倒見のいい姉と手のかかる妹のようだ。
実際、二人に歳の差はないのだが。
響はんまんまと言いつつガンガンクッキーを口にしているが、ゼファーは少しだけ不安になる。
「まだ色々と研究中なんだけど、どこか気になる所とかあるか?」
自分の作る食べ物に何が欠けているかなど、彼が一番よく分かっている。
……と、彼本人は思っている。
「んー? 強いて言うなら味が薄い……かなぁ?」
「やっぱ、味か」
「でも、おいしーよ? ごちそうさまでした、おいしかったです!」
だが、何が欠けているかは分かっていても、何が足りているかは分かっていない。
クッキーを貰って、食べる前に「ありがとう」と言うのが未来で、食べてひたすら「おいしい」と、最後に「ごちそうさまでした」と言うのが響だ。
響が嬉しそうにしているのは、クッキーを美味しいと感じたからだけではない。
それを、ゼファーは分かっていないのだ。
「気にしなくてもいいんじゃないかな」
「え?」
自分の舌、料理の味に思い悩むゼファー。
顔には出していなかったはずだ。現に、響は何も気付いていなかった。
だが、未来は気付く。
ゼファーが何を気にしているのか、彼の様子と発言から、多少なりとも読み取ってみせる。
だから「気にしなくてもいい」と、彼女は言う。
「いや、だってさ、美味しいもの食べたいなら外食すればいいじゃない?」
「……確かに」
「『その人が』気持ちを込めて作ってくれたから、手料理ってのは嬉しいんじゃないかな」
そう言って、笑って、未来はクッキーに手を伸ばす。
「響や私が嬉しいのは、ゼっくんが作ってきてくれたからだよ」
美味しそうに、というより嬉しそうに、未来はクッキーを食べていた。
いつだって、ゼファーは大切なことを友から教わっている。
自分達は友達かと、ゼファーは彼女達に問うたことはない。
けれど、きっと友達なのだろう。
「そっか」
友達なんてものは、だいたい気付いたらなっているものなのだから。
ありがとうと、おいしいと言われて、ゼファーも何故か嬉しい気持ちが止まらなかった。
回想終了。
かくして、翼の入学式の日に戻る。
時刻は昼前。
入学式は午前中で終わるらしいが、中高一貫校であるためかその学校の特色なのか、午後も教材購入やHRなどの時間があるらしい。
翼が帰って来るのは夕方になるだろう。
弦十郎もそれに合わせて帰って来るという話になっている。
ゼファーは早めに、この時間から台所で夕食の準備をしていたのだが……
「……うん、美味い。俺の料理は美味いな……もうダメだ……」
味見の結果は、当然全て同じ。どうしようもなかった。
自分の作った料理が美味く感じるということが、どうしようもないくらいに彼の首を絞める。
何でもかんでも美味しいと感じる美味しんぼな彼の舌は笑えるくらいに役立たず。
それでも作ることをやめようとしないのは、未来の言葉が、響の笑顔が、頭の片隅に残っているからだ。何が大切かを、彼が見失っていないからだ。
「……もうひと頑張りするか。大切なのは、どれだけ気持ちを込めるかだ」
「よい声ですね、少年」
「!?」
「いえ、ゼファーさんとお呼びすべきでしょうか……気迫の篭ったいい声です」
突如かけられる声。
ゼファーがバッと振り向けば、そこには和服を着た美人の女性が立っていた。
初めて見る人だ。
なのに、ゼファーには初めて会った気がしなかった。
初対面なのにゼファーの名前を知っていて、気配もなくゼファーの背後に立ち、勝手に風鳴家に入って来ている不審者であるというのに。
何故か彼の中の警戒心は、なんとなく感じ取れる女性の雰囲気によって薄れていく。
誰かの姿が重なるような、そんな気がする。
(……あ、そうか。この人……なんだかツバサに似てる……?)
風鳴翼が成長して、美人になって、少し顔のパーツを変えたらこうなるのかもしれない……と、ゼファーは直感的に思う。それ以前に、無意識下で警戒心が緩んでいた理由も判明した。
だとすれば、一つ。この女性の正体に想像がつく。
それはないと理性と理屈が考えるも、それ以外にありえないと直感が囁く。
翼の入学式が終わった頃のこの時間に、『そんな人』がここに居るわけがない。
「少し、脇にどいて下さいますか?」
「あ、はい。どうぞ」
下の棚から包丁を、上の棚から味噌を、冷蔵庫から食材を。
勝手知ったる場所とでも言わんばかりに、その女性は台所で流れるように作業をしていた。
ネギを刻み、豆腐を切り分け、ゼファーに見やすいように味噌の分量を取る。
鍋に具材を投入しているところを見るに、合わせ味噌の味噌汁なのだろう。
赤味噌と白味噌の配分が、彼女の独特のセンスから生まれたものなのだということが分かる。
具材の刻み方も、よく見てみれば独特だ。
その作業を、ゼファーは終始横で見続けていた。
「見て、覚えましたか?」
「え? は、はい」
突然声をかけられたことにうろたえるも、ゼファーは返答を返す。
かつて弦十郎の動きを目に焼き付けた時のように、ゼファーは今の一連の調理の流れを目に焼き付けていた。特に、合わせ味噌の分量バランス及び具材の種類と刻み方を。
見稽古、というものがある。
動きはまず見て覚えよというものだ。
風鳴の武術にも、その概念は存在している。
教わる側にその自覚は全くなかったが、これはその女性による稽古であった。
目に焼き付ける素振りを見せていなかったらゼファーがどうなっていたか分からない、ゼファーをこの一瞬で見定めようとする、そういう見稽古。
「ありがとうございました。よく分かりました」
「え? え?」
それが翼と同居している居候を見定める、という目的であったことなど……ゼファーには気付けるよしもない。彼が何も気付けぬまま、『採点』は終わる。
その代価として、少しだけ知識を分けるあたりがこの女性の意地悪な所だ。
ゼファーは、自分の直感の声を確かめるため、女性に声をかける。
明確な答えが返って来るかどうかは、半々だと分かっていた上で。
「あの、もしかして、貴女はツバサの……」
問おうとしたゼファーの言葉の続きを、女性は手の平を見せて遮った。
「大切な日にくらいは、帰って来ようとしていたのですけどね」
どこか悲しげに。どこか苦しげに。どこかもの寂しく、どこか儚げに。
大の大人であるはずなのに、今にも泣いてしまいそうな雰囲気で。
「私も夫もそう思いつつも、そうは行かず。
せめて自分だけでもと思っても、結局時間はズレにズレこんで……
私一人だけが、この時間にほんの少しだけ時間を作る事ができて、それでおしまい。
本当に……あの子の親失格ですね。親として果たすべき責任を、何もこなせていない」
その責任が辛いものであっても、重いものであっても、苦しいものであっても。
背負えないよりはマシなのだと、その表情が言葉の外から伝えていた。
親が子に対して背負う責任がどれだけ厳しいものであったとしても、それを背負うことすら許されないことの方が、きっとずっと悲しいのだと。
その女性の寂しげな雰囲気が、ここに証を立てていた。
「あの子のことを、よろしくお願いします」
少年の手を優しく両手で包み、頭を下げ、万感の思いを込めて彼女は言葉を紡ぐ。
愛する娘の、その友達に向かって。
今は娘を守ってやれない、触れ合ってやれない、大切にしてやれない。
そんな自分達の代わりに、と言う。
子のために苦労することもできない、そんな親の悲哀だった。
その悲哀が少しだけ薄れたのは、その少年が胸を張って返答してくれたからかもしれない。
風鳴翼は、幼い頃に買って貰った玩具を壊した時がある。
父から買って貰った玩具で、大切にしていたのに、手が滑ってしまったのだ。
買ってくれたことが嬉しかった分、悲しかった。
涙を浮かべて、悲しむ翼。
そんな彼女を見かねて、母は翼に同じ玩具を買って来てくれた。
翼は知っていた。
母がその週、とても忙しかったことを。
頻繁に徹夜して、職場に泊まることもあり、それでも食事や家事をするために家に帰り、翼を愛し育てるための時間を、それこそ命を削るような毎日を過ごして捻出してくれていたことを。
そんな中、昼の食事の時間を削ってまで、色んなデパートを巡って同じ玩具を探して、「翼が悲しんでいるのは嫌だから」という理由で、同じ玩具を買って来てくれたのだということを。
全部を知っているわけではない。
けれど、翼は知っていた。
自分が、両親に愛されているのだということを。
両親が、その愛をどれだけ全力で注いでくれていたのかということを。
同年代の子供が玩具を壊して、親に怒られて、代わりも買ってもらえていない。
そんな当たり前の光景を見る度に、翼は自分が人一倍愛されているのだという自覚を持った。
両親が、人一倍子を愛してくれる親なのだと知った。
どれだけ恵まれた家族なのかということを、自覚した。
だから、翼は寂しいだけだ。
悲しくはない。辛くもない。
両親が自分を愛してくれているということに確信を持てているから、揺らがない。
ワガママを言って「帰って来て」なんて口にして、両親を困らせたりはしない。
幼い頃から彼女はずっと、両親の愛を信じている。
歪ではない。どこまでもまっすぐだ。
翼も、翼の両親も、叶うならずっと一緒に居たいはずだ。
けれどそれが叶わなくとも、愛の絆が両者を支えている。
愛しているという自分の気持ちと、愛されているという確信が全く揺らがない。
だからこそ、翼は両親と過ごした時間が少なくとも、こんなにも両親を愛している。
両親に時間をかけて育まれなくとも、こんなにもまっすぐに育っている。
こんなにも、立派な子に成長している。
翼の両親から翼を託され、翼の叔父として彼女を育ててきた弦十郎が、胸を張れるくらいに。
「……これは」
「……ハハッ、こいつは驚いた! お前に驚かされるのはこれで何度目だろうかな!」
入学式のその夜、翼と弦十郎はゼファーの作った料理を口にしていた。
御飯、味見の要らないサラダ、たらこ、白米、味噌汁。
最初は少し驚いた顔を見せた程度の二人だったが、味噌汁を口にした時点で一変する。
翼は目を見開き、弦十郎は大爆笑を始めた。
「ゼファー、この味を……どこで……」
翼は、自分の声が震えていないかどうか、自分で自信が持てなかった。
「今日、ある人に教えてもらった。だからその人の分まで、俺に言わせて欲しい」
ゼファーは、その人の分まで気持ちを伝えられるか、自分で自信が持てなかった。
だが、それでもやるべきだと己を奮い立たせる。
「ツバサ、入学おめでとう」
翼が口にした味噌汁の味は、母の味がした。
もうずっと口にしていない、幼い頃に大好きだった味がした。
人伝てでも、伝わる愛の味だった。
美味しいから嬉しいのではない。
その人が気持ちを込めて作ってくれたから、手料理は嬉しいのだ。
レシピを通しても伝わる気持ちがあるから、手料理は嬉しいのだ。
だから翼は、そこに込められた気持ちを読み解いていく。
悲しくはない。辛くもない。
それでも、翼は寂しかった。
だから、その味が嬉しかった。
「……お母、様……」
味噌汁が何故かしょっぱく感じたと、後でゼファーに文句を言ってやると、また翼は味噌汁に口を付けてから、鼻をすすった。
夕食を終え、ゼファーは走る。
これも日課だ。めでたい日とはいえ、ゼファーは日課の鍛錬を欠かさない。
夜の街を走り、高台へと登って行く。
その途中で、ふと足を止めた。
「……わ、すげえ……」
ゼファーがその景色に今日気付けたのは、きっと今日が彼の転機だったからだろう。
この日ようやく、走る途中に景色を見るだけの余裕を取り戻せたのだ。
高台から街を見下ろす彼の視線の先には、街に数え切れないほど広がる人造の光。
空を見上げても、地を見下ろしても、そこには無尽蔵の光が瞬いている。
まるで、人が星空を作っているかのようだ。
「この一つ一つが、人の光……」
その光の一つ一つが、この街に住まう命と共にある。
家屋の光は、そこで暮らす一家の命と幸せの光。
ビルの光は、そこで働く大人の命と懸命さの光。
車両の光は、会社帰りのサラリーマンの命の光。
街灯の下を塾帰りの学生が通る。コンビニの光の中、店員が笑顔で頭を下げている。
電灯を持った警察官が見回りをして、自転車の光が道路を横切る。
それらの光が、命と共にある。
街を埋め尽くす無数の光が、まるで命の輝きのようだった。
この街の光は、人の命が作る星空なのだ。
「……」
ゼファーがこの国に来てから出会った人達の顔が、順番に思い返される。
この街の中で、その人達が生きているのだと、そんな実感が湧く。
きらめく無数の光が、そんな人達の命の輝きであるのだと、心底そう思えた。
この国で人々が生きているということを身に沁みて理解できていたからこそ、その感覚をガワだけのハリボテとせず、確かなものへと変えることができたのだ。
かつてのゼファーなら、こうは行かなかっただろう。
バル・ベルデに居た頃の、夜に光のない地に生きていた頃のゼファーでも。
F.I.S.に居た頃の、街ではなく地下の施設の中で生きていた頃のゼファーでも。
今こうして、無数の命の光を目にして、その光の一つ一つの価値を理解しているゼファーと同じ気持ちになることは、絶対に不可能だ。
その光は、人の営みの光。幸せの光でもあった。
一つ一つが途方もなく価値のあるものなのだと分かるからこそ、少年の胸を打つ。
少年の目には、この街が宝石箱のように見えていた。
当たり前の幸せの価値。ただ生きることが許されるということの価値。
それを知っているゼファーだからこそ、この平穏がどれだけ価値のあるものなのかを理解できている。この平和が、この光が、素晴らしいものなのだと分かっている。
「ここには、失われちゃいけないものが多すぎる」
ガードレールから身を乗り出して、街の夜景を目に焼き付ける。
もしも、もしもの時は、守らなければならないと。
これは失われてはならないものだと、そう誓う。
人の命が銃弾より軽い地獄。
死を受け容れる子供達しか居なかった地獄。
その二つを見て来たゼファーだからこそ、この平和な世界は何よりも尊く見えていた。
そんな彼の安住の地を、脅かす恐ろしい敵達が、すぐそばまで迫っていることにも気付けずに。
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