戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ   作:ルシエド

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無印で一回名前が出て以後ノータッチの永田町、記憶の遺跡
三期で出番はあるのでしょうか


2

 ゼファーはある日、翼と一緒に弦十郎に連れられ、映画を見に行った。

 初めての劇場、初めてのポップコーンとコーラ。

 慣れた様子で席に座る二人にならい、ぎこちないながらも席につく。

 

 映画のタイトルは、『エレシウス王国物語』というものだった。

 ゼファーは聞いたこともなかったが、この世界で最も有名な童話らしい。

 実在していたという証拠も残っていない、けれど世界で一番有名な国のお話。それを一本の映画として組み立て直したこれは、数多くの作品がある人気ジャンルの内の一つなのだという話だ。

 

 お話自体はとても簡潔。

 悪い竜、タラスクが現れて王国が脅かされる。

 そこに銀の腕を持った少年と、銃を持った赤い王女様、剣を持った青い王女様が立ち向かう。

 国も、人も救われて、めでたしめでたし。

 ハッピーエンドでどっとはらい。

 

 正しい人が勝つ。

 悪いことをしていなかった人達が幸せになる。

 災厄の竜は、悪行のしっぺ返しで討たれて消える。

 英雄達も笑顔で終わる物語。

 善は報われ、悪にも報いがあった因果応報。

 

 ゼファーはそれを見て、少しだけ感動してしまう。

 そんな夢物語のようなお話が、現実にそうそうないのだと知っているから。

 そんな夢物語のようなお話に、現実がそうなって欲しいと願っているから。

 少しだけ、作り話の物語だと分かっていても、心を動かされてしまう。

 ゼファーは、風鳴弦十郎が映画を好きな理由がちょっとだけ理解できた気がした。

 

 

「飯食って映画見て寝る。男の鍛錬は、そいつで十分なのさ」

 

 

 風鳴弦十郎は、ゼファーにそう語った。

 しかし、それを文面だけ見て「おかしい」と感じるだけで、それでいいのだろうか。

 弦十郎は、ゼファーに強くなりたければ映画を見ろと言った。

 それは画面の向こう側に、学ぶべき生き様があるのだと、暗に言っているのではないだろうか。

 

 アニメでもいい。漫画でもいい。映画でもいい。創作とバカにせず、そこから人として必要な何かを学ぶことは、そんなにおかしいことなのだろうか?

 弦十郎は映画から生き様を学び、よく食べ、よく休み、今日まで生きてきた。

 学んだ生き様を参考にして己を鍛え、他人に手を差し伸べ、必要なことを学び、仲間と手を取り合って、何とどう戦うべきなのかを実践してきた。

 辛い時も、乗り越えるエネルギーを食って得た。

 常時頑張りすぎることも、休みすぎることもないように、休むべき時にぐっすり寝た。

 

 食事と睡眠をしっかり取り、倣うべき生き様を確かに志す。

 そうすれば、強さなんて後からついてくる。

 『鍛錬』は、心をまず鍛えてこそのもの。

 それが、風鳴弦十郎の信じる強さの在り方だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第十二話:ゼファーのARM 2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本日土曜日。

 ゼファーはこの日の朝、二課食堂でテレビを見ていた。

 

 

【ノイズの出現率は急増しており、このまま行けば来年度には今年度の倍に―――】

 

 

 今日は学校の用品を買いに行ったらしく、弦十郎も翼も少年の傍らには居なかった。

 ゼファーは自作の味噌汁、焼き鮭、ほうれん草のお浸しを口にする。

 味噌汁はまあ許容範囲。しかし、鮭は少し味付けが薄く、ほうれん草は味が濃すぎる。

 まだまだ、全体的に雑であった。

 弦十郎や翼が味をそんなに気にしないタイプであったのが不幸中の幸いか。

 ゼファーの馬鹿舌は、早々に治る様子はなさそうだ。

 

 

「ありがとうございます、絵倉さん。厨房を貸していただいて」

 

「何、アタクシの立場としては料理の練習したい子に手を貸すのもやぶさかじゃーない。

 それに朝の仕込み手伝ってくれたしねぇ。アメちゃんやろうかい?」

 

「あ、アメちゃん?」

 

 

 ここに来たばかりの頃には心配ばかりされていた少年も、すっかり二課に馴染んでいた。

 翼がシンフォギアの開発に欠かせない唯一無二の存在であるのなら、ゼファーは誰でも代わりができる事柄を、積極的に手伝う万能雑用とでも言うべき立ち位置。

 で、あるがゆえに、二課の大抵の業務を一度は手伝っていた。

 清掃もするし、女性職員の代わりに重いものも運びに行くし、前線部隊と戦闘訓練もする。

 

 

「お茶入りましたー」

 

「お、ご苦労さん、ウィンチェスターくん。小遣いやろうか小遣い」

 

「お気持ちだけ受け取っておきます」

 

 

 職員に茶も差し入れる。茶を入れるのに味見はいらないのだ。

 ベアトリーチェが一度注意をし、その際には過労でぶっ倒れそうになっていたほどの生き急ぐスタイルは、自分にできることを常時探し続けるスタイルへと変化していた。

 これで余計なことを滅多にしないというのだから、信用を得られないわけがない。

 何しろどこに行っても頑張っている中学生くらいの子供が居るのだ。

 大人視点、相当に微笑ましく映っているだろう。

 日本人が基本的に頑張り屋が好き、というのもあるから尚更に。

 

 

「哲学的な話をしようか」

 

「休憩時間に? 僕、疲れる話はやだよ」

 

「なら疲れない哲学的な話をしようや。

 俺は思うんだが、スカートめくりって何歳ぐらいから許されないんだろうな?」

 

 

 が。そんなゼファーにもカバーできない方面はある。

 例えば、ゼファーがオペレーター陣に茶を差し入れているこの時間帯に、別の場所で、おっそろしく生産性のない馬鹿話をしている土場と甲斐名と天戸のエロトークとか。

 

 

「小学生ならセーフ、中学生ならアウト?

 私的には、ゼファーくんくらいの年齢はアウトだね」

 

「確かに」

 

「もう少し細分化しようぜ」

 

 

 普段は真面目だったりカッコ良かったりするのに、なぜこんな風になってしまっているのか。

 それは彼らが男だからだ。

 根本的に馬鹿だからだ。

 周囲に隙を見せられない立場ならともかく、周囲に隙を見せても大丈夫な仲間がわんさか居て、その上女性や上司の目もない休憩室でのバカ話である。

 修学旅行の好きな子発表会のごときぶっちゃけ空間が、そこにあった。

 

 

「異性用の銭湯に親と一緒に入ることが許される歳? だろうか」

 

「いやスカートめくりはそれよりもう少し上の年齢層でも許されるでしょ」

 

「確かに裸とパンツじゃあなぁ……」

 

「哲学的じゃないか。

 下着と裸、普段はゼロ距離であるはずの二つの距離が、こんなにも遠く感じるとは……」

 

「何言ってんのさ土場」

 

「茶々入れてやんなや甲斐名」

 

 

 馬鹿やりすぎてヤクでもキメキメなんじゃないかというポエムを吐き出す土場。

 テンションのインフレに付いて行けなくなった甲斐名が、突如水をぶっかけられたかのように正気に戻り、チャオズのごとく置いて行かれる。

 これはこれで楽しいと、年甲斐もなくこんな話にノリノリな天戸。

 

 三人共独身男であった。現在、彼女も居ない。

 理由は語るまでもないだろう。

 しかし同性の友達はそれなりに多い。

 理由は語るまでもないだろう。

 

 そこに、茶を差し入れた帰りのゼファーが通りかかった。

 通りかかってしまった。運命や巡り合わせというやつは無情である。

 

 

「お、そこを行くのはゼファーくんじゃないか。ちょうどいい、キミの意見を聞こう」

 

「はい? って、また土場さん達三人ですか。別セクションなのに仲良いですよね」

 

「は? 僕らが仲良い? 腐れ縁が続いてるだけさ」

 

「へーへー、腐れ縁腐れ縁。こっちゃ来いゼファー、俺の隣座れ」

 

 

 悪態をつく甲斐名の発言を流し、天戸はゼファーを隣に座らせ、頭をくしゃくしゃと撫でる。

 確かに、司令室から出ないオペレーターの土場、研究班の手足となって外回りが多い甲斐名、ノイズ出現時に即出動するため訓練と待機を繰り返している天戸の三人だ。

 ゼファー視点、接点や仲がいい理由が見当たらず、不思議に見えるのも仕方がない。

 この三人の会話を聞いていれば、考えるのもアホらしくなるだろうが。

 

 

「かくかくしかじか」

 

「まるまるうまうま?」

 

 

 最初は何か重要な話かと身構えていたゼファーも、話が進むにつれなんとも言えない表情へと変わっていき、しまいには至極呆れた顔になっていた。

 尊敬していた大人の子供っぽい一面を見てしまったかのような、そんな顔である。

 あくまでおそらくだが、この三人組はいつかその場のノリでゼファーにエロ本を押し付けるだろう。

 

 

「はぁ……というか、俺にはその辺何が楽しいんだろうと不思議な気持ちで一杯なんですが」

 

「ロマン……だな」

 

「えええ?」

 

「分からないなら分からないでいいさ。そのままで君で居ていいんだよ」

 

「凄いね土場、ここからカッコつけて格好がつくと思ってるのかい?」

 

 

 スカートめくりは何歳まで許されるのか?

 何故許されなくなってしまうのか?

 哲学的なようで哲学的でない問いに、けれどゼファーは性格的に聞き流すことも適当に答えることもなく、馬鹿にもせずに真面目に考えて返答した。

 

 

「皆さんの話を聞く限り、年齢じゃなくて性欲の有無なんじゃないでしょうか。

 ちっちゃい子のスカートめくりに性欲は無いでしょうし。

 子供がやったらいたずら、大人がやったら性犯罪ってことで」

 

「―――」

 

「皆さんが熱く語ってた話を聞く限り、小さい子が好きな子にしたりするんですよね?

 で、皆さんはスカートの中が見たいと。

 『自分を見て欲しい』と『あれが見たい』って正反対の感情だと思うんですが」

 

「―――」

 

「気になる子のスカートをめくる、スカートの中が気になる、の違い?

 うーん、すみません、俺実感が湧かないのでこれが限界です」

 

「―――」

 

 

 子供をからかうつもりで、かつ親交を深めるために馬鹿話を振った男達。

 そうしたら、唸るようなぐうの音も出ない正論正答が帰ってきたでござるの巻。

 汚れていない子供を見て、綺麗なままじゃいられなかった汚れた大人に流れ弾が行く。

 何故か、大人サイドだけ総じてシリアス顔だった。

 

 

「そうか……」

 

「それが、真理か……」

 

(あの馬鹿話から無自覚にちょっといい話にまとめるとか困惑するレベルだよ)

 

「え? え?」

 

 

 誰かに必要とされない限り、今日も特異災害対策機動部二課は平和であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちょっとお使い、頼まれてくれる?」

 

 

 色々と一区切りが付いた昼前のこと。

 櫻井了子に一言頼まれたゼファーは、メモを片手に駅前に向かっていた。

 

 行き先は永田町。二課本部設立より先んじて作られた特別電算室、『記憶の遺跡』だ。

 内調の直轄であり、二課の系列施設ではない。

 現在日本でも指折りの厳重なセキュリティがなされており、内部システムは完全にスタンドアロンで外部からの干渉は不能、ゆえにデータは物理的に持ち込まなくてはならない。

 出所、作成者、内容が不鮮明なデータはそもそも持ち込むことも許されない、そういう場所だ。

 

 そこに行き、特異災害対策機動部一課の人間に了子から渡されたUSBを届ける。

 それが、ゼファーが頼まれたお使いであった。

 

 

「責任重大、だな」

 

 

 どこか緊張した面持ちのゼファー。

 しかし彼が思っているほど、そのデータは重要なものではない。

 了子が渡したUSBの中身は、重要な研究データではなく、予算申請書の一括コピーデータだ。

 ゼファーには知らされていないが、この件で重要なのはこのデータが永田町まで運ばれることではなく、ゼファーがこれを運んだ、という事実の方なのだ。

 

 どんなゴミデータであったとしても、二課から記憶の遺跡までデータを移送するということは、その人間が二課の代表として動くということである。

 ゼファーがもしUSBを落としでもすれば、重要なデータの損失は発生せず、ゼファーの責任も発生しないものの、二課の信用は少々失われてしまうだろう。

 彼にデータの移送を任せるということは、そういうことだ。

 

 彼を二課の仲間と認め、二課の名代として送るということだ。

 彼の失敗を自分達全員の失敗と認め、一蓮托生で責任を取ることを認めたということだ。

 もしも何かあれば、それは彼を信じた自分達が馬鹿だったと受け入れるということだ。

 この少年が新しく自分達の仲間になったのだと、外部にアピールするということだ。

 

 ゼファーはまだ、書類上は二課のメンバーに加えられているわけではない。

 厳密には要観察対象、保護対象の枠の中に居る。

 言い換えれば立場が弱い、とも言える。

 お偉いさん達が声を揃えれば、どうにかなりかねないポジションだ。

 で、あるのに、現在でも非正規雇用じみた働きっぷりを見せていて、給金までもらい、二課の職員達の多くと親交を深めていたりする。

 

 二課は扱っている内容、それ自体が国家機密だ。

 トップが風鳴弦十郎なためにかなり色々な部分がガバガバだが、それでもゼファーくらいに出身や素性があやふやな外国人の子供を組み入れるのは、まだ難しい。

 しかしながら、ガングニールの件を見れば分かるように、二課に対して露骨に嫌がらせを仕掛けてくるような者も増えてきた。

 ゼファーの立場は微妙なのだ。

 危ういとまではならないが、安定しているわけでもない。

 二課以外の適当な組織に「こちらで保護する」と強弁と強権を発動させ、強引に引き渡しを要求すれば、万が一ということもありえないわけではないくらいに。

 

 ゼファーはこの国に来た経緯が経緯だ。

 ただの少年であるのなら、そんな心配をする必要はない。

 しかし弦十郎の足りない部分を補う二課のブレイン達は、その万が一を警戒しておくべきだと言う。極力、ゼファーの将来の選択肢を減らさせぬように。

 

 これは布石なのだ。

 もしも何かがあって、ゼファーを二課以外の部署に引き渡せということになった場合。

 そんな時、二課が監視し庇護している子供を代わりに保護するという名目で引き取るより、二課の職務を全うしている職員を引き抜くとなった方が、ずっと困難だ。

 

 加えて二課はF.I.S.ほど機密保持に違法スレスレな手段を用いていないので、機密保持のための誓約書を一枚書くだけでいつでも問題なく関わりを断つことができる。

 弦十郎や了子は、ゼファーの顔見せという手段を用いて、権力による干渉を跳ね除けるつもりなのだ。今より半歩、少年を二課の中枢に踏み込ませることで。

 ある意味、二課そのものを少年が成長するまでの後見人兼防壁にするようなものか。

 

 

「永田町永田町……あ、あったあった」

 

 

 そんな水面下の手探りな大人達の攻防を知ることもなく、ゼファーは路線図を確認。

 携帯電話にチャージしていたお金を使い、ワンタッチで改札を抜ける。

 電子掲示板で時間と電車の行き先を確認し、彼は人の居ないホームに一人立っていた。

 

 

(ん?)

 

 

 そんなゼファーのポケットの中で、携帯電話が鳴る。

 了子が勝手に設定した、口笛風のメロディだ。

 天才設計の携帯電話に隙はなく、最近の携帯電話と同じように通話相手の番号を表示する。

 

 

「はい、もしもし。どうしたミク」

 

『あ、ゼっくん? 明日暇かな』

 

「明日……って、日曜か。特に用事はないかな」

 

『響が一緒に遊びたいんだって。どうかな?』

 

「遊び……って何をするんだ?」

 

『そういうのは当日になってから考えるよ』

 

「実にアバウトだな」

 

 

 さて、ゼファー。

 何気に友人から初めての、一緒に遊ぶために予定を聞かれるというシチュであった。

 一つ屋根の下だったクリスとそんなことがあるわけもなく、F.I.S.は誘ってそのままその日に遊ぶか、後日に一緒に遊ぶ約束をするかのどちらかだった。

 日本の子供や学生ならば息をするようにこなす行動ではあったが、ゼファーにとっては初体験。

 本人すら無自覚なままに、少年はちょっと気分が高揚していた。

 

 

「オッケー、で、どこに行けばいい?」

 

『九時に私の家の前にお願いね。約束だよ』

 

「了解。約束だな」

 

 

 大人のお使いをする。友達と休日に遊ぶ約束をする。

 今のゼファーは一見、平和な日々を送るごく普通の子供のようだ。

 友達と話し、少し嬉しそうにしているあたりが特に。

 

 

『何かいいことあった? 何だか、ちょっと声が明るい気がする』

 

「今あったかな。じゃ、また明日。電車が来たから切るぜー」

 

『え?』

 

 

 返事を聞かず、パパっと通話を切る。

 ちょっと失礼かもしれないが、まあ子供で友達同士なら許容範囲だろう。

 だって仕方ない。電車が来てしまったのだから、通話を続けるわけにもいかないのだ。

 

 

【次は永田町。永田町で―――】

 

 

 電車に揺られ、アナウンスを聞いて立ち、電車を降り、改札を抜ける。

 トンネルは抜けていないが、地下構内の駅から出れば、そこは永田町だった。

 永田町は霞ヶ関と並び、日本の国家中枢機能が集中する日本の脳髄だ。

 国会議事堂、総理官邸、衆議院参議院の重要施設などがズラリと並んでいる。

 また、特異災害対策機動部一課の本部もここにある。

 そこに国家機密の塊である『記憶の遺跡』まであるのだ。

 

 ここにミサイルの一発でも叩き込めば、それだけでこの国はどうにかなりかねない。

 重要施設の場所をさらっと見ただけのゼファーにすら、それが分かるレベルだ。

 各機関本部の一点集中はメリットもあるが、デメリットも有る。

 ……それが分かっていても、すぐにどうこうできるものでもないが。

 

 

「しっかし、出口多いなこの駅……」

 

 

 そびえ立つビル。しかしコンクリートジャングルとまでは行かない、街路樹などの緑。

 空の青、路面のグレーと合わせた四色が視界に眩しい。

 ビルの大きさに軽く驚いたゼファーだが、気を取り直してバスに乗る。

 行き先は特別電算室・記憶の遺跡。

 メモと地図を見ながら、時間に余裕を持って移動して行った。

 

 永田町周辺は、平日昼とそれ以外で人口の密度が桁違いに変化する地区だ。

 ドーナツ化現象と同じ原因によってもたらされている現状、と言えば分かるだろうか。

 平日昼は働く人たちの姿で賑わう。

 しかし、平日夜や休日はびっくりするくらい人が居ない。

 永田町がある千代田区が、平日昼は人口九十万にも迫るというのに、それ以外の時では人口五万ちょいまで減ってしまうと言えば分かっていただけるだろうか。

 

 ゼファーも時折人を見るが、そう多くは見ない。

 平日に人で賑わうことを前提とした街作りが所々に見えているために、ゼファーは少し寂しい印象を受けてしまう。

 

 

(普段は人がたくさん居るんだろうな)

 

 

 ゼファーは、初めは自分がその寂しさに違和感を感じているのだと思った。

 人が多く居るべき場所に、人が居ないから変な気持ちを感じているのだと。

 その差異の部分に違和感を感じているから、何か落ち着かない気分になっているのだと。

 なのに、今はその答えに『違う』と感じている。

 

 

「ん?」

 

 

 何かよく分からない感覚を感じる。

 ゼファーは、生まれて初めて感じる感覚に戸惑っていた。

 その感覚が何か分からない。

 その感覚を言葉に出来ない。

 何かの歯車が彼の中で噛み合っていない。

 自分の中で何かが空回っている気持ちの悪い感覚に、ゼファーは混乱する。

 

 

「なんだ」

 

 

 何かがそこにある。

 彼の中の何かがそれを感じ取っている。

 けれど何の存在を感じ取っているのかも、何がそれを感じ取っているのかも、感じ取った何かが何を示しているのかも、ゼファーには分からない。

 分かることは、ただ一つ。

 これは『直感』だ。

 それもゼファーが望んだ何らかの想い、願いに沿って変わった新たな直感の形。

 進化を遂げた新たな直感が、何かを感じ取っている。

 

 

――――

 

「『どんな人間になるか』というものは、結局本人が選択することです。

 これから先、あなたがどんな存在に完成するのか……決める意志があなたを変える。

 決意こそが、その未完成である直感の方向性を定めることになるでしょう」

 

「ただの脳機能ですよ。だからこそ、(ここ)から生まれる意志に左右されるんです」

 

――――

 

 

 ウェルはかつてそう言った。

 

 命をかけた日々の戦い。その中で自分を死なせないために特化された直感の形。

 それが一度の瀕死によって再構築され、そのポテンシャルを大幅に上げた。

 そこから毎日のようにノイズロボと戦い、ネフィリムと戦い、その果てにまた瀕死に至り。

 『融合症例』と了子が称した特殊な肉体が、新たな土台を用意する。

 今の彼であるならば、直感は主のために、人の限界を超えられる。

 

 

「なんだ……?」

 

 

 カチリ、カチリと彼の中で歯車が噛み合っていく。

 彼がかつて求めた力を、今の彼の肉体で最大限まで得られるように。

 もう誰にも死んで欲しくないと主が願うなら、直感はその祈りに応えようとする。

 完全無欠の力も、最強無敵の力も用意はできない。

 それでも、その願いを叶えるための力の一端へと至ろうとする。

 

 脳が勉強を続けることで、勉強に向いた形に変化していくように。

 囲碁や将棋のプロが打ち続けることで、そのゲームに最適化された脳を手に入れるように。

 犯罪者を追う刑事が、いつしか犯罪者の思考をトレースできる脳を手に入れるように。

 直感という脳機能が、目・経験・感性に加え、第四の要素、第六の感覚器を取得する。

 

 

「―――」

 

 

 その瞬間。

 ゼファーが覚醒したのが先か、事態が動いたのが先か。

 覚醒が事態の発生に間に合ったのか、事態が発生したことが最後に覚醒の引き金を引いたのか。

 それは誰にも分からない。

 どちらにせよ、ゼファーがそれに目覚めたことが、数え切れないほどの人を救ったことは間違いない。携帯電話を取り出し、ゼファーは二課へと通話を繋いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 風鳴弦十郎は戸惑っていた。

 二課に通信を繋いだせいで、司令室全体に会話が流れていたためか、その場の誰もが戸惑っていたようにも思える。

 ただ一人、櫻井了子だけが戸惑っていなかった。

 彼女だけが、頭の中で真偽を検証していた。

 司令室に、スピーカー越しのゼファーの声が響き渡る。

 

 

『理由は説明できません。ですが、ノイズが出現します!

 八分後、東京メトロ千代田線とメトロ銀座線の交差地点から赤坂方向に少々の地点です!』

 

 

 ノイズが現れる未来を、ゼファーが開口一番予言してきたからだ。

 普通なら子供の戯言、この前まで精神的に不安定になったゼファーがふと不安になって何かか妄想に取り憑かれてしまったのかも、何て考えるかもしれない。

 事実、その時ゼファーの言葉を聞いてすぐに盲信した人間は誰も居なかった。

 しかし。それで終われば、苦労はしない。

 二課の責務を考えれば、たとえどんなに戯言に聞こえるような言葉だったとしても、『ノイズ』に関連する事柄を、聞き流せるわけがない。

 

 

「何故だゼファー。何故、そこにノイズが出てくると分かる」

 

『俺にも分かりません、ゲンさん。強いて言うなら……勘です』

 

「……勘か」

 

 

 そう言われると、司令室に居た何人かが考え込み始める。

 ゼファーの勘の良さは、既に二課の人間の誰もが知る所だ。

 人類最強の弦十郎に「あの一点で俺はあいつに敵わん」と言わしめるほどである。

 理屈もなく、理由もなく、確証もなく、証拠もなく。

 ただの勘で大の大人を悩ませる者など、ゼファーくらいのものだろう。

 

 

『避難勧告を出してください! このままでは、大変なことになります!』

 

 

 しかし、ゼファーの予言が事実だったとしても、二課は少年が望むようには動けない。

 

 

「だが、まだノイズが出ていない。

 二課が避難警報を出せるのは、ノイズ出現後という決まりがあるんだ。

 ……ノイズがまだ出ていないのなら、避難警報は、出せない」

 

『そんな……なんとかならないんですか!?』

 

 

 弦十郎が苦虫を噛み潰したような顔で、ゼファーに現実を告げる。

 ノイズの避難警報は、基本的に出現後に限られる。

 誤報を防ぐためだ。狼少年が最後に誰にも信じてもらえなかったように、大々的に人々に知らせる警報というものは、高い確度を維持し続け信じ続けてもらえなければ、最悪の結果を産む。

 ノイズ警報を出しても、誰も信じずに誰も従わなければどうなるか?

 それを考えてみれば、答えはすぐに出るだろう。

 

 天気予報は、高い確度と長い積み重ねで人々の信用を得た。

 地震予知は、そのどちらもなくまだ一般的に信じられているとは言いがたい。

 ノイズ警報も、まだ歴史はかなり浅いのだ。

 警報を鳴らしてノイズが出ませんでした、なんて事になればその後の顛末は想像もしたくない。

 

 様々な所から金銭的な被害がどうの、運行や経営に支障が出ただの、数え切れないほどのパッシングが来るだろう。

 ノイズの脅威が大きいだけに、その責任問題の大きさは計り知れない。

 まして「子供が言ったので警報鳴らしました」なんて言えばどうなることか。

 避難警報の信用を守るために、ノイズが出る確証もなく、それを行うわけにはいかない。

 

 

『何か……何か、手はないんですか!? これを知らせるために、何か!』

 

 

 普通の大人なら。

 ここで避難警報を鳴らすような、そんな馬鹿は居ない。

 

 

『ノイズに殺される人を減らせるかもしれないんです!

 今日ここで、死ぬ運命だった人を助けられるかもしれないんです!

 明日、生きていられる人の数を、ほんの少しでも増やせるかもしれないんですッ!』

 

 

 子供にそう言われて、奮い立つ男、風鳴弦十郎。

 彼は普通の大人ではなかった。

 

 

『みんなに、生きていて欲しいんです……!

 俺の知ってる人も、知らない人も、みんな、みんな、死んで欲しくなんか――』

 

「……分かった。任せろ」

 

『――え?』

 

「こちらで何とかする。ゼファー、お前はそっちで絶対に無茶をするなよ」

 

 

 万が一の時は、責任を取って全てを失う覚悟で、弦十郎は応える。

 ゼファー・ウィンチェスターの言葉に応える。

 少年の言葉に応えないのなら、数え切れないほどの理由があった。

 それら全てをぶん投げて、弦十郎は子供の想いに、願いに応えようとする。

 

 

「お前のその言葉を切り捨てるのは、大人として恥ずかしいことだな。カッコ悪いことだ」

 

『ゲンさん……』

 

「通信を切るぞ。……大丈夫だ。お前の本気の気持ちは、俺に伝わった」

 

 

 二課司令室の中央大画面に映っていた、『SOUND ONLY』のウィンドウが消える。

 通信が切れたという証だ。

 そして此処から先の話を、ゼファーは聞くことができないという意味でもある。

 

 

「全ての責任は俺が取る。該当地域に警報を出せ!

 場所が場所だ、お偉いさんのケツもぶっ叩く用意しておけ!

 避難誘導に人員も出せるだけ出し、タイミングを測って一課にも通達!」

 

 

 弦十郎の覚悟を決めた重く響く声に、司令室のオペレーター達が応える。

 そこにはもはや戸惑いはない。

 ただ、全力を尽くす大人達の姿がある。

 そこで、弦十郎に横から了子が話しかける。

 

 

「大丈夫よ、弦十郎君。ゼファー君の判断の正しさは科学的に証明できるわ」

 

「なにッ!?」

 

「……って、私が言ったことにしておいて頂戴。なぁに、もしもの時は一蓮托生よ」

 

「……了子君」

 

「じゃ、私はこれから研究室で嘘をホントにしてくるから、それじゃね」

 

 

 弦十郎の判断を了子の発言が後押ししたからこの事前警報に繋がったのだと、そう弦十郎を弁護するために、了子は一滴の嘘を加える。

 もしゼファーの判断に科学的な理由が付けられなくとも、その時は弦十郎一人が全ての責任を追うということはなくなるだろう。了子の発言には、そういう意味があった。

 了子が理論でこの判断の裏付けをすることができたなら、責任も相当に軽くなる。

 弦十郎は全ての責任を自分で取ると言った。

 しかし、周囲がその発言を受け入れるかどうかという話は別なわけで。

 

 

「分かってて手を貸してる私達も同罪でしょう? 司令」

 

 

 全てのオペレーターの上位に立つ友里あおいが弦十郎にウィンクする。

 

 

「新しい就職先を紹介していただけるなら、この後懲戒免職でも構いませんよ。

 大人として恥ずかしいこと……確かに、私もそれは御免被りたい。旅は道連れ、とね」

 

 

 土場が長い髪をかき上げて、格好つけて上司に付いて行くとの意を告げる。

 

 

「風鳴司令が上司だから付いてってるんですよ」

「運命共同体? ってやつですね」

「いやいや、文句なしの成果を上げて全員クビにならないのを目指しましょうよ!?」

 

 

 オペレーターが手を止めずに、顔も向けずに、けれど声を弦十郎へと届けていく。

 風鳴機関が前身となった、特異災害対策機動部二課。

 幼少期の弦十郎を知る者も居るだろう。

 弦十郎が直接スカウトに行った者も居るだろう。

 何年も一緒に居る内に、弦十郎に好感を持った者も居るだろう。

 皆揃って、弦十郎を上司として敬愛していた。尊敬していた。慕っていた。

 

 だからこそ、頻繁に彼がやらかすとんでもない決断にも、戸惑うことなく付いて行く。

 

 

「お前ら……!」

 

 

 弦十郎の声に、隠し切れない喜びが混ざる。

 部下は上司をこれ以上なく慕い。

 上司は、自分は部下に恵まれたと幸運に感謝する。

 特異災害対策機動部二課は、そんな職場であった。

 かくして数分後、二課司令部作戦発令所に警報が鳴り響く。

 

 

「来ました! ゼファー君の予告通りの時刻、場所です!

 ノイズ反応数90、110……まだ増えます!」

 

「来ちまったかッ……!」

 

 

 長い長い一日が、始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無茶をするな、とゼファーは言われた。

 しかしゼファーが彼の身を案じてそう言われた言葉に、素直に従うだろうか?

 答えは否。

 ゼファーは一直線に、ノイズが出現すると感じた場所に向かって走って行く。

 まだ、ノイズなんてどこにも見えないというのに。

 『そこに現れる』という確信だけが、頭の中にある。

 

 

(なんだ、この感覚……)

 

 

 やがて、ゼファーが辿り着くよりも先に、ノイズが街に出現してしまう。

 空間から滲み出るように、別の世界から侵略者がやってくる。

 警報を受けて逃げる人々に向かい、特異災害は襲いかかっていく。

 生きるために食うのでもなく、憎いから殺すのでもなく。

 そう在ること以外の何かを定義されていないから、人を死に至らしめる。

 数え切れないほどの怪物が、平和な世界を食い荒らしていく。

 ゼファーが感銘を受けたくらいに、幸せに満ち満ちていたこの場所を、侵していく。

 

 

「ふざけるな……ふざけるなよ、お前らぁッ!」

 

 

 何故か分かる。

 ゼファーには、何故かノイズの正確な位置と、ぼんやりとだか人の位置が分かった。

 頭の中に、自分の常の感覚で見えている世界とは違う世界が見える。

 そんな別の知覚で構成された世界の中で、人でないものを表す点が、人を表す点を次々と飲み込んで、両方の点が消えていく。

 ノイズは人を殺す時、自らの命と人の命を引き換えにして、炭素のゴミへと変えるのだ。

 価値ある命を、価値の無いゴミへと変えるのだ。

 ゼファーの知覚の中で、感じる存在の数が減っていくとはそういうこと。

 

 

「やめろ……やめろ……やめろッ……!」

 

 

 声が届く。

 明確な声という形ではなく、どこかの誰かの祈りが届く。

 ノイズの位置を正確に把握しようと知覚を研ぎ澄ませば研ぎ澄ますほどに、その声は明瞭に。

 幾多の叫びとなって、少年の耳へと届く。

 

 

『いやぁぁぁッ! 死にたくない、死にたくないよぉ!』

『お、おれのうで、くずれ……あ、ああ……くっつか、くっつかない……?』

『おかあさぁん!』

『……ぐる゛じ、あ、ぅ、ぐる、じぃ』

『離して! 私の子が、私の子が!』

『神様、神様、助けて助けて助けて助けて』

『見て分かるだろ! あんたの娘はもう助からないんだよ!』

 

 

 四方八方、街のあらゆる場所から届く声。

 助けを求め、苦しみに満ち、死の間際にノイズを呪い、死に恐怖し、炭の塊へと変じる。

 どこまでも救いのない悲劇が、悲鳴が、数え切れないほど彼に聞き届けられていく。

 ノイズに勝つ力もない、無力なゼファーに聞き届けられていく。

 

 

「やめろッ!」

 

 

 一人で走る彼の声が、ノイズに届くわけがないのに。

 ノイズがその声を聞き、虐殺をやめるわけがないのに。

 それでも、ゼファーは叫ぶ。

 胸の奥に、よみがえる憎悪と怨嗟があった。

 

 ノイズに、ネフィリムに、銀色の騎士。

 ゼファーから大切な物を奪っていった、災害のような化物達。

 それらに対する憎悪が、ゼファーの胸の奥を焼いていた。

 

 ゼファーは自分が嫌いで、憎かった。

 そんな気持ちよりもずっと小さかったから、セレナの時まで気付けなかった。

 本当は、自分の大切な人を奪っていた災害達が、憎くて憎くて仕方がなかったのに。

 人を嫌いになることがなくても、彼は災害を心の底から嫌っていた。

 今もこうして、人の命と幸せをシステマチックに、現象として奪っていくそれが嫌いだった。

 

 あの日の焔の中で、災厄に対する憎悪を植え付けられていた。

 

 

「……おかあさん……」

 

「!」

 

 

 今のゼファーは、決意と憎悪の境界線に居る。どちらも持ち併せ、どちらにも寄っていない。

 だからこそ、その少女の声も聞き逃さなかった。

 歩道に座り込む少女。

 崩れるビルの瓦礫が落下し、少女の頭上に迫る。

 

 

(間に合……間に合わな……いや、そんなのどっちだっていい―――!)

 

 

 考えるよりも先に、ゼファーは跳び出した。

 瞬時にトップスピードに至り、全体重を流れに乗せ、少女を抱えて跳ぶ。

 踵に瓦礫がかすった感覚、地面を転がる感覚、身体に最近染み込ませ始めた受け身が機能し、二人揃って無事に切り抜けられた感覚。

 

 

「……え?」

 

「大丈夫か? 大丈夫そうだな、怪我も無さそうだ」

 

 

 呆気に取られた様子の少女をよそに、ゼファーが道の向こうに目をやる。

 すると数秒後に、そこから大人の女性が現れた。

 どうやら、この少女の母のようだ。

 

 

「弓美! ああ、よかった、よかった……!」

 

「この子のお母さんですか?」

 

「え? あ、はい」

 

「この道を真っ直ぐ進んで大通りに出てください。

 この時間なら特対一課がそこで避難誘導しているはずです。

 途中で誰かに会いましたら、一声避難誘導をしていると伝えてあげてください」

 

「!」

 

 

 ゼファーが指差す先には大通り。

 携帯で二課からの情報を得られるゼファーは、他の誰よりも有力な情報を多々持っていた。

 避難誘導の情報も然りだ。

 母親は少女を連れ、大通りに向かって駆けて行く。

 そんな中、少女は一度だけゼファーに向かって振り返り、大きな声で叫んだ。

 

 

「ありがとう、お兄さん!」

 

「ああ、転ばないように気を付けて急いで逃げろよ」

 

 

 一人一人を避難完了まで見ていられる時間はない。

 ゼファーは走り、また別の場所に向かう。

 ノイズの位置ならば正確に、人の位置ならば何となく、今の直感なら分かる。

 

 

「大丈夫ですか! 意識があれば声を出してください」

 

「お、おお、助けとくれ……」

 

 

 瓦礫に埋まった誰かの存在を感知。

 ゼファーが瓦礫を一つ一つどけていけば、そこには身動きの取れなくなった老人が居た。

 助け出すも、怪我は無いようなので、なんとか一人でも歩けそうだ。

 

 

「! そこの人! ビル側は危険です! こっちに急いで走って!」

 

「ひえ!? あ、ああ!」

 

 

 老人を助け出すとほぼ同時に、振り返って後方でビルのそばを走る中年男性に声を上げる。

 ゼファーの大声に反射的に反応した男性は、ゼファーの方に走り出す。

 直後、ビルにノイズがぶつかったのか大きく揺れ、割れた窓ガラスが降って来た。

 それも、先程まで男性が歩いていた辺りをだ。

 地震ですら窓ガラスはよく割れるのだから、ノイズがぶつかればひとたまりもない。

 

 

「ひ、ひええ……あそこに居たら串刺しかぁ……ありがとう、助かったよ」

 

「すみません、このご老人をお願いできますか?

 このタイミングなら向こうの公園に避難してください。

 そう時間を置かずに、救助のヘリが来るはずです」

 

「わ、分かった。君も急いで逃げるんだよ?」

 

「おお、おお、お若いの……その歳で立派じゃの……」

 

 

 それだけ告げて、また走り出す。

 手を伸ばして届く時もある。届かない時もある。

 それを分かった上で、ただ走る。

 

 

「た、助け、助けてくれぇッ!」

 

「っ、手を伸ばして!」

 

 

 ゼファーの視界に、ノイズに捕まった人が映る。

 血色が良かった肌が、服ごと全て灰色へと変わって行く。

 救えないことが分かっているのに、ゼファーは走りながら手を伸ばす。

 ノイズに捕まった人が、灰色の炭に変わった手を伸ばす。

 救って欲しいと、助けてくれと、死にたくないと、そう祈りを込めて。

 

 その手とゼファーの手が触れた、その瞬間。

 無情に、救いを求めて伸ばされた手は砕かれた。

 絶望に染まった顔が、命を宿していた身体が、連鎖的に崩れ去っていく。

 

 

「……ちくしょう……!」

 

 

 俯いている暇はない。悲しんでいる暇はない。落ち込んでいる暇なんてあるわけがない。

 そんな時間があるのなら、走るべきだ。

 今は嘆く一秒があるなら、救うための一秒にすべき。

 だからゼファーは、ただ走る。

 

 ノイズを見つける。

 ゼファーの方が感知のタイミングが早かったのか、カエル型ノイズが一手遅れて飛びかかる。

 しかし、そんな見慣れた動きがゼファーに当たるわけがない。

 壁に跳び、壁を蹴り、二回の跳躍を重ね合わせる三角飛び。

 弦十郎に習った技を駆使し、飛びかかってきたノイズの突撃を容易にかわす。

 

 そして地面に落ちていた小石を、正拳突きで覚えた力の乗せ方で投擲。

 小石は、遠く離れた場所で青年に襲いかかろうとしていたノイズに直撃。

 ノイズは自分に攻撃を仕掛けた人間に標的を変えたのか、ゼファーの方へ向かって走り出してきた。ゼファーはそれを確認し、今しがた襲われていた青年に向かって叫ぶ。

 

 

「そのまま振り返らず、大通りに出てください!

 道なりに行けばどっちの方向にも避難誘導をしている人が居ます!

 そこで指示に従ってください!」

 

 

 その青年は、悲鳴を上げながら本当に一度も振り返らず、けれどゼファーの言葉に従って大通りに向かって逃げていく。

 前後をノイズに挟まれたこの状況でも、ゼファーは絶望していなかった。

 むしろ新たに得た知覚の中で、最大限に効率的に動けていない自分に舌打ちしてすら居る。

 何度も何度も繰り返し、ゼファーは戦う。

 自分なりに、できることを探して走る。

 

 ノイズを振り切る。ノイズを見つける。人を逃がすために囮をやって引き付ける。

 人を見つける。助ける、助言をする、避難誘導をする、励ます。

 助けられた。助けられない。

 それの繰り返し。

 何度も何度も、無力な身で繰り返す。

 

 

「いやぁ、助け、助―――」

 

「……ッ」

 

 

 虫に群がられるお菓子のように。

 ノイズに食い荒らされる世界を、平和を、生命を目にしながらに。

 また一人、目の前で小さな子供を死なせてしまった。

 それでも止まらず、走る。

 

 

(……俺は、何をしてるんだろうか)

 

 

 そんな中、ゼファーは心の何処かで、自問自答を繰り返す。

 

 

(どうにかなる見込みなんか、どこにも無いってのに)

 

 

 シンフォギアはまだ実戦に耐えられる強度ではない。

 助けは来ないし、切り札もない。

 こうして人を助けても、一人助ける間に一人の犠牲が出る。

 誰も死んで欲しくないと願っても、このザマだ。

 足掻いても足掻いても、ハッピーエンドは見えてこない。

 諦めて、妥協して、楽な生き方を選ぶ方がずっと楽に決まっている。

 

 

「諦めないでください! 既に車両の避難が始まっています!

 慌てず、諦めず、やけにならず、向こうで指示に従ってください!」

 

 

 なのに何故、ゼファーはまだ何も諦めていないのか。

 

 

(ノイズが避難誘導で密集してきた人達に反応し始めてる……マズい……!)

 

 

 生きることを諦められない。

 だって、こんなにも死にたくないと、生きたいと思っているのだから。

 ならきっと、他の人も自分と同じように生きたいと思っているはずだ。

 だから、生かすことも諦められない。

 そんなふうに考えて、こんなどうしようもない現実の中でも、ゼファーの芯は揺らがない。

 理不尽に死ぬことも苦しむこともなく、皆に幸せで居て欲しいと、そう生きていける場所を守れる自分になりたいと、少年は夢を見た。

 

 翼も初めて会ったあの日に、その本質を少年の中に見た。

 

 

「……来いよ」

 

 

 ノイズを避難している人々のもとに行かせないために、少年はノイズを引き付ける。

 生存の可能性が限りなく低い、自殺同然の囮役だ。

 走り、走り、走り。

 切れる息を整えるゼファーの周囲には、数十体のノイズ。

 かつてゼファーを支えた銃も、マントも、爆弾も、今の彼には何もない。

 ノイズの天敵たるシンフォギアもない。

 絶望の災厄達に対向する牙は、何一つとして彼の手の中にない。

 

 

「お前らみたいな安い絶望に、人が簡単に屈すると思うなよ」

 

 

 それでも、ゼファーは吠える。

 膝は折らない。心は折れない。

 構えを取り、ノイズに立ち向かう。

 

 

――――

 

「『希望の西風』と、お前さんの名にはそういう願いが込められておる」

 

「力づくではなく、優しく誰かの背を押す西風であって欲しいと。

 どんな時でも希望を持ち続ける、折れない人になって欲しいと。

 誰かにとっての希望の西風になれる、そんな風に育って欲しいと。

 ワシの娘は、ワシの孫の名にそんな祈りを込めておった」

 

――――

 

 

 研ぎ澄まされていく思考の中で、ふと昔に、誰かから聞いた言葉が少年の脳裏に蘇る。

 続けて、未来とした明日の約束が蘇る。

 二課で、風鳴家で、日常の中で、見て来た人々の営みの姿が蘇る。

 あの日の夜に街に見た、もう一つの星空の光景が蘇る。

 

 

「あの星空を、お前らなんかに奪わせてたまるか……絶対に、絶対ッ!」

 

 

 蘇り、浮かび上がり、少年の意志に呑まれ、形を無くし、けれど消えず。

 それらは、燃え盛る覚悟の糧となった。

 数十体の小型中型ノイズ達が、一斉に雨あられと飛びかかる。

 ゼファーが踏み込む。

 

 生まれて初めて、ゼファーは何の武器も持たず、絶望的なノイズとの戦いに飛び出した。

 




おさわり厳禁。触れたら死にます

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